勇者の条件 TOPへ


※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
西の辺境
西の辺境には、大きなものが少なかった。
大きな都は遠い。
中央神殿の鐘も届かない。
王都の布告は、旅商人の荷と一緒に遅れて来る。
戦争の話も、魔王軍の話も、勇者の噂も、村人たちにとっては遠い場所の遠い音だった。
朝になれば畑へ出る。
水場の桶を満たす。
薪を割る。
薬草の丘へ行く。
荷馬車を押す。
山羊を追い、壊れた柵を直し、雨の前に干し草をしまう。
それが村の一日だった。
村の周りには、低い石壁と木の門がある。
壁は古い。
ところどころ苔がつき、子どもなら登れそうな高さしかない。
それでも、村人たちにとっては大事な境目だった。
内側は家と畑と水場。
外側は林と丘と藪。
そして、ときどき魔物が出る場所。
その中で、一番よく見る魔物がスライムだった。
透明がかった緑色の、小さな塊。
日なたでは水を含んだ草のように光る。
雨上がりには畑の端でぷるぷる震えている。
遠くから見るだけなら、少し間の抜けた生き物にも見えた。
だが、村の大人たちは笑わない。
スライムは強い魔物ではない。
大人が棒や鍬で叩けば、追い払える。
犬が吠えれば逃げることもある。
けれど、放っておけば畑の若芽を溶かす。
水場に入れば水がぬめる。
家畜の足にまとわりつけば、山羊でも転ぶ。
子どもが油断して顔に張りつかれれば、息ができなくなる。
村長は、子どもたちを門の前に集めて、そう説明した。
「スライムは弱い」
子どもたちは、少し安心した顔をした。
村長は杖で地面を叩く。
「だが、弱い魔物だから危なくない、というわけじゃない」
ロアンは、その言葉を聞きながら木の棒を握っていた。
八つか九つか、そのくらいの年である。
背はまだ低い。
髪は寝癖のまま。
膝には昨日転んだ痕がある。
棒は、父が薪置き場から切ってくれたものだった。
剣ではない。
ただの棒である。
それでもロアンは、少しだけ強くなった気がしていた。
隣の子が小声で言う。
「ロアン、やれるのかよ」
ロアンは棒を握り直した。
手が少し震えている。
「やれる、と思う」
「思うだけかよ」
「やってから考える」
すぐ後ろから、猟師のおじさんの声が飛んだ。
「考えてからやれ」
子どもたちが笑った。
ロアンはむっとした。
猟師のおじさんは笑わない。
肩に弓をかけ、腰に短い鉈を下げている。
村の外を誰よりも歩く人だった。
「外ではな、考えずに動くやつから転ぶ。転ぶだけならいい。転んだ先に何があるかを見ていないやつから、戻れなくなる」
ロアンは棒を少し下げた。
村長がうなずく。
「今日は倒せとは言わん。見る日だ。怖いと思ったら、門まで戻れ。門を覚えろ。戻る道を覚えろ」
門。
ロアンは振り返った。
古い木の門が開いている。
その向こうに家々がある。
母が井戸のそばからこちらを見ていた。
心配そうな顔をしている。
けれど、来るなとは言わない。
ロアンは前を向いた。
林の端で、緑色のスライムが一匹、草の上に乗っていた。
初めての接近
スライムの周りの草は、少し変だった。
若芽の先が丸く溶けている。
土の表面にも、焦げたような湿った跡があった。
ロアンは思わず言った。
「これ、草が溶けてる」
猟師のおじさんがうなずく。
「そうだ。だから素手で触るな」
「水みたいなのに」
「水みたいに見えるものが、全部水なら楽なんだがな」
スライムは、ぷるぷると震えている。
目も口もない。
どちらを向いているのかも分からない。
ロアンは棒を構えた。
大人たちは近くにいる。
村長も、猟師のおじさんも、鍬を持った父もいる。
門も近い。
だから大丈夫だと思った。
でも、足は勝手に止まった。
スライムが、少し縮んだ。
猟師のおじさんが短く言う。
「今だ、下がれ」
ロアンは反応できなかった。
縮んだスライムが、ぱん、と跳ねた。
「うわっ」
ロアンは棒を落とした。
尻もちをつく。
スライムは目の前の土に落ち、しぶきが少し飛んだ。
その一滴が、ロアンの手首に当たった。
じゅ、と小さな音がする。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
次に、焼けるような痛みが来た。
「熱っ……!」
ロアンは悲鳴を上げた。
手首を押さえ、立ち上がり、門へ向かって走る。
後ろで子どもたちが笑った。
「ロアン、逃げた!」
「棒、落としてる!」
「泣きそう!」
ロアンは泣きそうだった。
いや、少し泣いていた。
門のところまで戻り、息を切らしてしゃがみ込む。
手首は赤くなっている。
細く歪んだ線のような跡が、皮膚に残っていた。
猟師のおじさんがゆっくり歩いてくる。
「戻れたなら上出来だ」
ロアンは涙目で顔を上げた。
「倒してない」
「倒す前に、死なないことを覚えろ」
「でも、逃げただけだ」
「逃げて戻った。今日はそれでいい」
「よくない」
「いい」
猟師のおじさんは、落ちていた棒を拾ってロアンへ渡した。
「棒を落としたことも覚えろ。近づきすぎたことも覚えろ。跳ねる前に縮んだことも覚えろ。全部覚えて戻れたなら、今日は生きて帰った日だ」
ロアンは棒を受け取った。
まだ悔しかった。
けれど、手首は痛かった。
痛いものは痛い。
怖いものは怖い。
スライムは、思ったより近くへ跳んできた。
それだけは、はっきり分かった。
手当て
家に戻ると、母はロアンの顔を見るなりため息をついた。
「やっぱり転んだのね」
「スライムが跳ねたんだよ」
「知ってるわよ。スライムは跳ねるもの」
「知ってたなら先に言ってよ」
「聞きなさい」
ロアンは黙った。
母は井戸水で泥を洗い、膝の擦り傷に薬を塗った。
ロアンは少し身をよじった。
「痛い」
「痛いでしょうね。泥ごと転んでるもの」
「転びたくて転んだわけじゃない」
「足元を見ていないから転ぶの」
「スライム見てた」
「スライムだけ見てたから転ぶの」
ロアンは言い返せなかった。
母は次に、手首の赤い跡を見た。
表情が少しだけ真面目になる。
棚から小さな陶器の壺を取り出し、淡い匂いのする軟膏を指に取った。
「これはしばらく残るかもしれないね」
ロアンは手首を見た。
「消えないの?」
「薄くはなるわ。でも、覚えておくにはちょうどいいかもしれない」
「何を?」
「スライムは跳ねるもの、ってこと」
「それ、母さんも言った」
「聞きなさい」
ロアンはまた黙った。
軟膏は冷たかった。
じんじんしていた痛みが、少しだけ引いていく。
母は包帯を巻きながら聞いた。
「怖かった?」
ロアンはすぐには答えなかった。
怖かったと言えば、もう行くなと言われるかもしれない。
怖くなかったと言えば、嘘になる。
手首はまだ痛い。
心臓もまだ早く打っている。
ロアンは、小さく言った。
「怖かった」
母はうなずいた。
「怖いと分かったなら、今日は一つ覚えたのよ」
「怖いの、いいことなの?」
「いいことよ。怖いものを怖いと分かっていない方が危ない」
母は包帯の端を結ぶ。
「怖くても、戻ってこられたでしょう」
ロアンは門のことを思い出した。
走って戻った。
笑われた。
でも戻った。
「うん」
「なら、次はもう少し早く戻れる」
ロアンは手首を見た。
赤い線は、包帯の下に隠れた。
でも、痛みはまだ残っていた。
スライムは跳ねるもの。
近づきすぎると、痛い。
それは、もう忘れられそうになかった。
もう一度
翌日。
ロアンはまた村外れにいた。
猟師のおじさんは、驚かなかった。
「来たか」
ロアンは棒を握ってうなずく。
「昨日、逃げただけだったから」
猟師のおじさんは、片眉を上げた。
「逃げた。戻った。だから今日また来られた」
ロアンは少し不満げにする。
「倒したい」
「なら、まず見る」
「昨日も見た」
「昨日は見ていたつもりで、見ていなかった」
猟師のおじさんは、林の端にいるスライムを指した。
「跳ねる前に縮む。動く前に揺れが止まる。水たまりの近くでは速い。乾いた土の上では遅い。坂だと下に流れる。石の上では跳ね方が変わる」
ロアンは顔をしかめる。
「多い」
「一つずつでいい」
「一つだけ?」
「今日は、縮むところだけ見ろ」
ロアンは棒を握ったまま、スライムを見た。
近づかない。
ただ見る。
スライムが震える。
震えが少し止まる。
ぎゅっと縮む。
跳ねる。
ロアンは下がった。
今度は、間に合った。
スライムはロアンの前に落ちる。
しぶきは届かない。
猟師のおじさんが言う。
「昨日より早い」
ロアンは少しだけ嬉しくなる。
「今の、見えた」
「ならもう一度」
二度目。
ロアンは下がりすぎた。
後ろの石に足を取られて転ぶ。
子どもたちが笑った。
ロアンはすぐに起き上がった。
猟師のおじさんは言う。
「距離を取りすぎると、後ろを見なくなる」
ロアンは後ろを見た。
石。
草。
門。
逃げる道。
「後ろも見るの?」
「前だけ見て生きられるなら、目は一つでいい」
ロアンは、何となく納得しきれない顔をしながらも、もう一度スライムを見た。
その日は倒さなかった。
ただ、縮むところを見た。
跳ねるところを見た。
水たまりのそばでは少し速く動くところを見た。
乾いた土では、ぷるぷると進むのが遅いところを見た。
帰る頃、ロアンは棒を一度も落としていなかった。
猟師のおじさんは言った。
「今日は、昨日より早く下がれた」
ロアンは、包帯の巻かれた手首を見た。
「明日は、もっと早く下がる」
「下がるだけでなく、どこへ下がるかも見ろ」
「多い」
「一つずつでいい」
少しずつ
三日目。
ロアンはスライムが縮む前に、揺れが止まる瞬間に気づいた。
「今だ」
そう思って下がった。
下がりすぎて、尻もちをついた。
猟師のおじさんが言う。
「後ろ」
ロアンは泥のついた尻を払う。
「見た」
「見てから転んだのか」
「ちょっとだけ」
「なら、ちょっとだけ良くなった」
四日目。
ロアンは初めて棒をスライムに当てた。
ぱちん、と音がして、棒の先が少し溶けた。
ロアンは驚いて棒を投げた。
父が拾い、先を見せる。
「道具は傷む」
「棒、だめになった」
「傷んだ道具で続けるな。折れかけた棒で突けば、折れる。折れたら近づきすぎる」
「新しい棒にする?」
「直すことも覚えろ」
父は棒の先を削り、布を巻き、樹液で固めた。
「全部を買い替えられる家ばかりじゃない」
五日目。
スライムが畑の若芽に近づいた。
ロアンは倒そうとしたが、届かない。
猟師のおじさんが叫ぶ。
「畑から離せ」
ロアンは棒で地面を叩いた。
スライムが反応し、畑とは逆の方へ動いた。
大人が近づき、鍬で追い払う。
村長が言った。
「倒すだけが仕事じゃない」
ロアンは、畑の若芽を見た。
溶けていない。
少しだけ胸を張った。
六日目。
友だちが見ていた。
「ロアン、今日は倒せるんだろ」
ロアンは言った。
「まあね」
本当は分からなかった。
でも、そう言った。
少し格好をつけた。
近づきすぎた。
スライムが跳ねる。
ロアンは避けたつもりで、足元の泥に滑った。
派手に転んだ。
顔まで泥がついた。
子どもたちは大笑いした。
猟師のおじさんは言った。
「見栄を張ると距離を間違える」
ロアンは泥を吐き出す。
「見栄じゃない」
「じゃあ何だ」
「戦略的に地面を確認した」
村の広場へ戻ると、幼いミルカが本を抱えて立っていた。
彼女はロアンを見て、少しだけ目を細めた。
「また転んだの?」
ロアンは胸を張った。
「転んだんじゃない。戦略的に地面を確認した」
ミルカはしばらく考えた。
「負け惜しみ?」
「違う」
「じゃあ、次は地面を確認しなくて済むといいね」
ロアンは言い返せなかった。
ミルカは本を抱え直し、何事もなかったように歩いていった。
ロアンは、泥だらけのまま空を見た。
何だか、とても悔しかった。
水場のスライム
ある日の昼。
村の水場に、子どもたちが桶を持って集まっていた。
夏に近い日で、空は明るく、土は乾いている。
門の近くでは、大人たちが荷車を直していた。
ロアンも桶を持っていた。
手首の包帯はもう取れている。
赤い跡は薄くなったが、まだ細く残っていた。
その時、林の方から悲鳴が上がった。
「スライム!」
水場の端に、緑色の塊がいた。
小さい。
けれど、水場へ向かっている。
子どもたちが一斉に下がる。
一人が言う。
「大人呼んでこい!」
ロアンも走ろうとした。
だが、足が止まる。
大人を呼ぶ間に、水場へ入られるかもしれない。
水場に入れば、しばらく使えなくなる。
村のみんなが困る。
倒せるかは分からない。
でも、追い払うだけなら。
ロアンは棒を握った。
「呼んできて!」
友だちが目を丸くする。
「ロアンは?」
「入れないようにする」
「倒せるのかよ」
「分かんない」
正直に言った。
それから、水場とスライムの間に立つ。
近づきすぎない。
足元を見る。
後ろを見る。
水場を見る。
乾いた土の場所を選ぶ。
棒で地面を叩いた。
スライムが反応する。
ぷる、と震える。
縮む。
ロアンは下がる。
スライムが跳ねた。
ロアンのいた場所に落ちる。
しぶきは届かない。
「こっち!」
ロアンは、水場から離れる方向へ石を投げた。
石が土に当たる。
スライムがそちらへ向かう。
ロアンはまた地面を叩く。
近づかない。
打ち込まない。
ただ、スライムの向きを水場からそらす。
友だちが走っていく。
「おじさん! スライム! 水場!」
ロアンは息を切らした。
スライムがまた縮む。
今度は少し速い。
水場の近くで湿った土に乗ったからだ。
ロアンは慌てて下がりかける。
でも、後ろには桶があった。
後ろを見る。
桶を蹴らないように横へ動く。
スライムが跳ねる。
桶には当たらない。
水場にも入らない。
「ロアン!」
猟師のおじさんが駆けてきた。
鍬を持った父もいる。
猟師のおじさんは、スライムの横から棒を入れ、乾いた土の方へ追い込んだ。
父が鍬で叩く。
スライムは崩れ、どろりと土に広がった。
ロアンは、その場にへたり込んだ。
手が震えている。
猟師のおじさんが近づいた。
「よくやった」
ロアンは息をしながら言った。
「倒してない」
「水場に入れなかった」
「でも倒してない」
「なら次に倒せばいい」
ロアンは水場を見た。
水は澄んでいる。
桶も無事だった。
友だちが戻ってきて、少し気まずそうに言った。
「すごかった」
ロアンは、まだ座ったまま首を振る。
「怖かった」
猟師のおじさんはうなずいた。
「怖いのに、見ていられたなら上出来だ」
初めて倒す
それから何日か後。
村外れに、一匹のスライムが出た。
場所は乾いた土の上だった。
水場ではない。
畑からも少し離れている。
門は近い。
大人も近くにいる。
逃げ道は見えている。
ロアンは、布と樹液で固めた棒を握っていた。
スライムは小さい。
けれど、前より小さく見えるわけではなかった。
怖さはまだある。
手首の古い跡が、少しだけうずく気がする。
猟師のおじさんが言った。
「無理なら戻れ」
ロアンは門を見る。
戻れる。
そのことを確認してから、前を向いた。
スライムが震える。
揺れが止まる。
縮む。
ロアンは下がった。
跳ねる。
落ちる。
乾いた土の上で、スライムの動きが少し鈍る。
ロアンは一歩だけ前に出た。
棒を打ち込む。
ぐに、と嫌な感触が手に伝わる。
スライムは崩れない。
ロアンは焦りかけた。
一撃で倒せない。
前なら、そこで無理にもう一度打とうとした。
でも、今は下がった。
もう一度見る。
スライムが伸びる。
また縮む。
ロアンは横へ動く。
跳ねた先を避ける。
落ちたところへ、もう一度棒を打ち込む。
ぱちん、と音がした。
スライムの形が崩れる。
緑色の塊が、土の上に広がった。
しばらく、誰も声を出さなかった。
ロアンも、自分で倒したのか分からなかった。
やがて、友だちが叫ぶ。
「倒した!」
子どもたちが歓声を上げた。
ロアンは棒を握ったまま、目を丸くする。
「倒した」
猟師のおじさんが近づいてくる。
「何がよかったか言ってみろ」
ロアンは、褒められると思っていた顔のまま固まった。
「え」
「何がよかった」
ロアンはスライムの跡を見る。
土を見る。
門を見る。
自分の足元を見る。
「乾いた土の上だった」
「他には」
「門が近かった」
「他には」
「後ろを見た」
「他には」
ロアンは棒を見た。
「一回で倒そうとしなかった」
猟師のおじさんはうなずいた。
「それが分かるなら、今日は本当に勝った」
ロアンは、そこで初めて笑った。
倒したからではない。
どうして倒せたのか、少しだけ分かったからだった。
畑と魔物
その夜。
ロアンの家の食卓には、豆の煮込みと黒パンが並んでいた。
ロアンはいつもより少し得意げに座っている。
母はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
父がパンをちぎりながら言う。
「スライムを倒したそうだな」
ロアンはすぐに顔を上げた。
「うん」
「どうだった」
「思ったより、二回目の方が難しかった」
父は笑った。
「一回で倒せなかったからか」
「うん。でも下がった」
「それでいい」
ロアンは少し首をかしげる。
父は続けた。
「魔物を倒すのは、畑を耕すのと似ている」
「全然違うよ」
「似ている」
「畑は跳ねない」
「たまに石が出る」
「それは跳ねない」
母が笑った。
父も笑ってから、ゆっくり言った。
「道具を見る。天気を見る。土を見る。自分の体力を見る。今日どこまでやるか決める。無理なら明日に回す」
ロアンは黙った。
「魔物も同じだ。倒せる日もある。追い払うだけの日もある。逃げる日もある」
母が言う。
「逃げる日が一番大事な時もあるわよ」
ロアンは少し不満げにした。
「逃げるの、格好悪い」
母は包帯を巻いた日の手首を指で軽くつついた。
もう包帯はない。
けれど、薄い線が残っている。
「戻ってこない方が格好悪い」
父がうなずく。
「村の外へ出るなら、戻ることまで考えろ」
ロアンは手首を見た。
スライムに焼かれた跡。
小さくて、細くて、歪んだ線。
勇ましい傷ではない。
近づきすぎて、驚いて、逃げ帰った日の跡だった。
それでも、覚えておくにはちょうどよかった。
スライムは跳ねる。
弱い魔物にも、近づきすぎれば痛い目を見る。
戻れれば、次の日が来る。
ロアンはパンを口に入れながら、小さくうなずいた。
門までの道
村の門は、いつも同じ場所にあった。
朝、畑へ出る人を通す。
昼、水場へ向かう子どもを通す。
夕方、薬草を摘んだ母たちを迎える。
夜には閉じられ、古い閂がかけられる。
ロアンは、その門を何度もくぐった。
初めてスライムに近づいた日。
棒を落として、泣きそうになりながら逃げ帰った。
泥だらけになった日。
友だちに笑われながら戻った。
水場を守った日。
へたり込んでから、ゆっくり歩いて帰った。
初めてスライムを倒した日。
少し胸を張って戻った。
門の内側には、戻ってきたロアンを見る大人たちがいた。
叱る母がいた。
棒を直す父がいた。
笑う子どもたちがいた。
何も言わずにうなずく猟師のおじさんがいた。
その門は、勝った者だけが通る場所ではなかった。
逃げた者も通る。
転んだ者も通る。
泣いた者も通る。
何もできなかった者も通る。
そして、次の日また外へ出る者も通る。
ロアンが初めて覚えたのは、魔物の倒し方ではなかった。
逃げる距離だった。
門まで戻る道だった。
棒を落としても、転んでも、泣いても、戻れば次の日が来ることだった。
スライムは弱い魔物だった。
けれど、弱い魔物にも近づきすぎれば足を取られる。
水場では速くなり、乾いた土では遅くなる。
後ろを見ずに下がれば転ぶ。
見栄を張れば距離を間違える。
倒せない日もある。
追い払うだけの日もある。
逃げるしかない日もある。
それでも、戻れればまた外へ出られる。
西の辺境の小さな村で、ロアンはそれを覚えた。
まだ勇者ではない。
英雄でもない。
ただ、スライムのいる町で、危険の見方を少しだけ覚えた子どもだった。
本ページに掲載している本文、画像、人物相関図、用語表、設定資料等の著作権は作者に帰属します。
作者本人または作者が許諾した媒体を除き、無断転載・無断複製・無断配布・改変利用を禁じます。
感想・紹介・レビュー等で一部を引用する場合は、引用元ページ名またはURLを明記し、引用部分が分かる形で、必要な範囲に限ってご利用ください。
本作品は、作者本人により自サイト・カクヨム等に掲載される場合があります。
勇者の条件 TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
カクヨム側ではフォロー、応援、レビュー、コメントなどができます。
気に入っていただけた方は、カクヨム側でも応援していただけると嬉しいです。


コメント