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神殿を焼くべきか
魔王城、作戦室。
卓上に、中央神殿の立体図が浮かんでいた。
巨大な聖堂。
神託の間。
写本庫。
聖剣庫。
神殿騎士の詰所。
巡礼者の宿舎。
負傷者を受け入れる施療院。
魔術投影で映し出された白い神殿は、暗い作戦室の中で、まるで別の世界の建物のように見えた。
竜将が、その投影を見下ろして言う。
「焼き払えばよいのでは」
誰もすぐには答えなかった。
竜将は続ける。
「神託が勇者を導く。聖剣が勇者を強める。ならば、神殿ごと消す。それが最も早い」
死霊宰相が、静かに口を開いた。
「中央神殿には巡礼者、病人、孤児、写本係、下級神官、民間の避難者もおります。全焼させれば、人間側の諸国が一気に結束する可能性があります」
竜将が鼻を鳴らす。
「結束したところで焼けばよい」
現魔王が、そこで口を開いた。
「それでは歴代魔王と同じだ」
竜将が黙る。
魔王は、神殿の投影を見つめたまま言った。
「我らの目的は信仰を根絶することではない。勇者を成立させる機能を壊すことだ」
吸血侯が、細い指で投影の一点を示す。
「神託の間、写本庫、聖剣庫、勇者認定の祭壇。この四つですか」
「そうだ」
「大神官は」
「捕らえられるなら捕らえろ。殺す必要はない。ただし、儀式を続けられぬようにしろ」
竜将が問う。
「神官を生かすのですか」
「生きている神官は、神託が失われたことを人間側に伝える。死体よりも役に立つ」
吸血侯が微笑んだ。
「残酷ですね」
現魔王は表情を変えない。
「合理的と言え」
記録官が筆を構えた。
死霊宰相が羊皮紙を広げる。
「中央神殿強襲、作戦目的。第一、神託記録の焼却。第二、神託の間の結界破壊。第三、聖剣庫の封印解除、および聖剣の破壊または奪取。第四、勇者認定儀式に用いる祭具の破壊。第五、神殿上層部の連絡網分断」
現魔王は言った。
「施療院には手を出すな」
竜将が不満げに問う。
「そこに神官が逃げ込んだ場合は」
「武器を持つ者は制圧しろ。患者を盾にする者は捕らえろ。施療院そのものは壊すな」
吸血侯が言う。
「巡礼者は」
「逃がせ。逃げる者を追うな。ただし、神託記録や聖剣庫の物品を持ち出す者は止めろ」
死霊宰相がうなずく。
「人員殺傷ではなく、機能破壊」
「そうだ」
現魔王は中央神殿の投影を見る。
「神託を焼く。信仰を焼くのではない」
その言葉が、作戦室に落ちた。
竜将は黙っている。
吸血侯は薄く笑っている。
死霊宰相は、すでに破壊対象の優先順位を書き始めていた。
魔王は慈悲を命じているわけではなかった。
ただ、殺すことが常に最適ではないと知っていた。
異変の前
中央神殿の朝は、いつも通りに始まった。
大理石の階段には巡礼者が並び、施療院では下級神官が負傷者の包帯を替えている。
写本庫では、年老いた写字生が古い神託記録を書き写していた。
神託の間では、若い巫女が水盤の前に座り、目を閉じて祈っている。
大神官は、神殿騎士長と向かい合っていた。
「東の辺境からの連絡が途絶えています」
神殿騎士長が言った。
「魔物に塞がれているのでしょう。王都へ護衛を要請しますか」
大神官は首を横に振る。
「王都も国境で手一杯です。東の封鎖が勇者の一族を狙ったものなら、次に狙われるのはここです」
神殿騎士長の表情が硬くなる。
「中央神殿を、ですか」
「神託と聖剣を狙うでしょう」
「ならば、聖剣庫の警備を増やします」
「神託の間もです。写本庫も。勇者認定の祭壇も」
神殿騎士長はうなずいた。
彼らも愚かではない。
東の辺境が封じられた時点で、次に何が狙われるのかを考えていた。
だが、考えることと、間に合わせることは違う。
若い巫女が、水盤の前で小さく息を呑んだ。
水面が揺れている。
誰も触れていない。
神託の間に風はない。
それでも、水面だけが暗く波打った。
巫女は不安そうに言う。
「光が濁っています」
大神官が振り向く。
「何が見える」
巫女は水盤を見つめたまま答えた。
「炎ではありません」
「では、何が」
「影です。火よりも先に、影が来ます」
大神官は、わずかに目を細めた。
神殿騎士長が剣の柄に手を置く。
外では、巡礼者の列がまだ続いていた。
施療院では、子どもの咳が聞こえていた。
写本庫では、羽ペンが紙をこする音がしていた。
中央神殿は、まだ祈りの場所だった。
その夜、それは戦場になる。
強襲
鐘が鳴るより先に、影が動いた。
夜の中央神殿。
外壁を覆う結界の端に、吸血侯の配下が細い穴を開ける。
切り裂くのではない。
砕くのでもない。
結界の継ぎ目を見つけ、そこに針を通すようにして、影を滑り込ませる。
同時に、竜将の部隊が外周へ回った。
飛竜の翼が夜気を裂く。
火を吐く魔獣が、神殿正面の広場に降りる。
死霊術師たちは、写本庫へ向かう通路を塞ぐ。
小鬼兵たちは、神殿内の階段や裏口へ散った。
魔王軍の動きは、一斉だった。
だが、無秩序ではない。
外周制圧。
神託の間。
写本庫。
聖剣庫。
祭壇。
連絡塔。
鐘楼。
部隊は、それぞれ目的を持って動いていた。
吸血侯が、聖堂の屋根の影から現れる。
月明かりの下、彼の黒い外套だけが風を受けて揺れた。
「急ぎなさい。夜明けまでに終わらせます」
配下たちが散る。
神殿騎士が叫んだ。
「魔王軍だ!」
鐘を鳴らそうとした騎士が、鐘楼へ駆ける。
しかし、鐘楼はすでに影に包まれていた。
鐘は半分だけ鳴った。
一度。
それから、途中で止まる。
不完全な警鐘が、中央神殿の夜に響いた。
外周制圧
神殿正面。
竜将が、神殿騎士たちの前に立っていた。
背後には飛竜。
左右には火を吐く魔獣。
神殿騎士長が剣を抜く。
「魔王軍が神の家を踏むか」
竜将は笑った。
「神の家なら、神が守ればよい」
神殿騎士たちが突撃する。
彼らは弱くない。
中央神殿を守る騎士である。
鎧には祝福が刻まれ、剣には魔を払う聖句が刻まれている。
だが、竜将はそれを真正面から受けた。
一人を盾ごと弾き飛ばす。
一人の剣を爪で砕く。
炎が広場を走り、騎士たちの進路を断つ。
神殿騎士長が叫ぶ。
「火を使うなら、なぜ聖堂へ向けない」
竜将は、いかにも不満そうに答えた。
「命令だ」
炎は騎士の前に落ちる。
だが、大聖堂の柱には届かない。
施療院の屋根にも向かわない。
巡礼者の宿舎も避けている。
神殿騎士長は、その異様さに気づいた。
「何を狙っている」
竜将は剣を弾きながら言う。
「知らぬ」
そして、少しだけ笑う。
「いや、知っているが、我の役目ではない」
神殿騎士長が踏み込む。
竜将はそれを受け止める。
「我の役目は、お前たちをここに留めることだ」
炎が、神殿の正面広場を囲んだ。
聖堂は燃えない。
だが、神殿騎士たちは前へ進めない。
写本庫
写本庫では、年老いた写字生たちが記録を運び出そうとしていた。
神託記録。
勇者認定録。
過去の勇者の出立記録。
夢告の年代記。
聖剣授与に関する記録。
写字生たちは、それが何を意味するか知っていた。
本を失うことは、記憶を失うことだ。
通路の先に、死霊術師が立った。
小鬼兵たちが棚へ走り、札を貼っていく。
焼却対象。
搬出対象。
残置対象。
写字生の一人が叫んだ。
「それはただの紙ではない!」
死霊術師が答える。
「だから焼くのです」
小鬼兵が火を入れる。
ただし、写本庫全体を燃やすのではない。
神託記録の棚。
勇者認定録の棚。
聖剣授与記録の箱。
夢告年代記の保管棚。
対象だけが焼かれていく。
薬草記録は残る。
施療院の治療記録は残る。
各地の井戸や田畑に関する古い記録も残る。
老写字生が、燃える紙片を素手で拾おうとした。
小鬼兵が一瞬ためらう。
死霊術師が言う。
「触らせるな。殺す必要はない」
小鬼兵は、老写字生を引き離した。
「離れてください。死にます」
老写字生は、涙と怒りで顔を歪めて叫んだ。
「死ぬより悪い!」
小鬼兵は答えられない。
彼には、それが本当かどうか分からなかった。
紙は燃える。
文字は灰になる。
魔王軍にとっては、機能破壊だった。
神殿にとっては、記憶の破壊だった。
神託の間
神託の間の扉が、音もなく開いた。
若い巫女が、水盤の前に立っていた。
大神官もいる。
神殿騎士が二人、吸血侯を止めようと前へ出る。
影が床から伸び、彼らの足に絡む。
次の瞬間、騎士たちは壁へ押しつけられていた。
吸血侯は巫女を見る。
「そこを退きなさい。あなたを殺す命令は受けていません」
巫女は震えていた。
それでも、退かなかった。
「ここは神託の間です」
「知っています。だから来ました」
大神官が前に出る。
「神託を恐れるか、魔王は」
吸血侯は微笑む。
「恐れているからこそ、対策するのです」
大神官が杖を掲げる。
床の星図が淡く光る。
四方の碑文が応じる。
天窓から落ちる月光が、水盤へ集まる。
結界が展開された。
吸血侯はすぐには破らなかった。
床を見る。
天窓を見る。
水盤を見る。
四方の碑文を見る。
「水盤、天窓、四方の碑文、足元の星図。なるほど。言葉を降ろすための装置ですか」
大神官が目を細める。
「装置ではない。祈りだ」
「機能する祈りなら、装置と呼んで差し支えないでしょう」
吸血侯は影を伸ばした。
まず、天窓が黒く覆われる。
月光が消える。
次に、四方の碑文に亀裂が走る。
水盤の水が黒く濁る。
巫女が叫んだ。
「やめて!」
大神官が最後の結界を張る。
吸血侯は低く命じた。
「殺すな」
配下たちが動く。
巫女は押さえられた。
大神官も床へ膝をつかされる。
吸血侯は水盤に手を触れた。
水盤そのものは壊さない。
内側に刻まれた細い文字だけを、影の爪で削っていく。
水が震える。
黒く濁った水面に、何かの光が一瞬だけ浮かんだ。
それは言葉のようにも見えた。
ただの揺らぎのようにも見えた。
吸血侯は最後の一文字を削り取る。
水盤は沈黙した。
神託の間は残った。
しかし、神託を降ろす仕組みは壊れた。
吸血侯は告げた。
「神託の間、沈黙」
聖剣庫
聖剣庫の扉は厚かった。
鉄ではない。
石でもない。
聖句を刻んだ白い金属と、古い結界を重ねて作られている。
その前に、神殿騎士たちが最後の防衛線を作っていた。
竜将の副官と死霊術師が、扉の前に立つ。
神殿騎士が叫んだ。
「ここから先へは行かせない!」
副官が槍を構える。
死霊術師は扉を観察している。
「封印式、三重。外側は神殿式。内側は古い王家式。最奥に、勇者認定と連動した術式があります」
「破れるか」
「時間をかければ」
副官は神殿騎士たちを見る。
「では、時間を作る」
戦闘は短かった。
神殿騎士たちは勇敢だった。
だが、竜将の副官もまた強かった。
騎士たちが倒れ、扉の封印が破られる。
聖剣庫の中には、いくつもの剣が保管されていた。
古い剣。
祝福を受けた剣。
過去の勇者が触れたとされる剣。
その中央に、一本の剣が置かれている。
台座。
鞘。
刀身。
すべてに術式が刻まれていた。
神殿騎士が、倒れたまま叫ぶ。
「触れるな! 選ばれぬ者が触れれば、焼かれるぞ!」
死霊術師は慎重に近づく。
「魔力反応あり。封印式、三重。刀身そのものより、台座と鞘に術式が集中しています」
竜将の副官が言う。
「剣を折ればよいのでは」
死霊術師は首を振る。
「折れるかは不明。加えて、聖剣の本体が剣そのものとは限りません」
「どういう意味だ」
「勇者に力を与えるのが刀身ではなく、台座や鞘、あるいはそれらに刻まれた術式である可能性があります。剣は器に収められて初めて聖剣として機能しているのかもしれません」
死霊術師は、台座の縁に刻まれた細い文字を指でなぞった。
「台座を残せば、別の剣を聖剣にするかもしれない。鞘を残せば、折れた刀身を再生するかもしれない。術式を残せば、勇者認定の機能そのものが残るかもしれない」
副官が短く問う。
「では」
「台座、鞘、刀身。すべて奪います。抜け目は残しません」
聖剣は、黒い布で覆われた。
台座ごと外される。
神殿騎士が最後の力で突撃する。
竜将の副官がそれを受け止めた。
「なぜだ! お前たちは聖剣を恐れるのか!」
副官は答えた。
「恐れている。だから奪う」
聖剣は、神殿から消えた。
祭壇
大聖堂の中央祭壇。
そこには、勇者認定に用いられる祭具が置かれていた。
聖杯。
誓約の書。
光の印を押すための聖油。
歴代勇者の名が刻まれた石板。
吸血侯の配下が、それらをひとつずつ壊していく。
聖杯は割られた。
誓約の書は燃やされた。
聖油は床へこぼされた。
石板は砕かれた。
だが、神像は無傷だった。
下級神官が、呆然とつぶやく。
「なぜ神像を壊さない」
小鬼兵は答えられない。
そこへ吸血侯が通りかかった。
「命令にありません」
「命令……」
「我らは、勇者認定に関わる祭具を壊しに来ました。あなた方の神を砕きに来たのではありません」
下級神官は、何も言えなかった。
神像は残る。
祈りも残る。
聖堂も残る。
だが、勇者を正式に送り出す儀式は、そこで途切れた。
神託を焼いたつもりか
作戦終盤。
大神官は拘束されていた。
若い巫女は、水盤の前で泣いている。
吸血侯が、通信水晶を開いた。
現魔王の声が届く。
大神官は、顔を上げた。
「神託を焼いたつもりか」
現魔王の声は静かだった。
「神託の間は沈黙した。写本庫も焼いた。聖剣は奪った。勇者認定の祭具も砕いた」
「それで神の声を封じたと思うのか」
「神の声であろうと、人の言葉であろうと、勇者を導く機能は失われた」
大神官は笑った。
疲れた、悔しげな笑いだった。
「機能、か。魔王らしい言い方だ」
「否定はしない」
「神託は、場所にだけ宿るものではない」
通信水晶の向こうで、現魔王は沈黙した。
大神官は続ける。
「神の声は、石の間だけに降るものではない。水盤だけに映るものでもない。写本庫の棚だけに収まるものでもない」
現魔王が言う。
「ならば、残ったものも探す」
大神官は黙った。
現魔王の声が続く。
「知らぬことは罪ではない。知ろうとしないことは罪だ。我らは探す」
通信が切れた。
大神官は、破壊された神託の間を見る。
若い巫女が泣いている。
「泣くな」
大神官が言った。
「声が消えたわけではない」
巫女は涙の中で問う。
「では、どこに」
大神官は答えられなかった。
神託の間は沈黙している。
水盤は黒く濁っている。
碑文は砕けている。
天窓にはまだ影が残っている。
それでも大神官は、もう一度言った。
「消えたわけではない」
それが信仰なのか。
意地なのか。
記憶なのか。
巫女には、まだ分からなかった。
作戦終了報告
夜明け前。
魔王城の作戦室に、吸血侯が戻った。
黒い布に包まれた聖剣の台座。
焼け残った写本の一部。
神託の間の碑文片。
勇者認定の祭具の破片。
それらが、卓上に置かれる。
吸血侯が報告する。
「中央神殿強襲、完了。神託の間は沈黙。写本庫の勇者関連記録は焼却。聖剣は台座ごと封印。勇者認定の祭具は破壊。大神官は生存。施療院への被害は軽微」
竜将が不満げに言う。
「神殿そのものは残った」
現魔王は答える。
「残してよい」
「再建されます」
「再建には時間がかかる。神託の間は沈黙し、聖剣はない。勇者認定もできぬ。今必要なのは永遠の破壊ではない。勇者が育つ時間を奪うことだ」
死霊宰相がうなずく。
「東の封鎖と合わせれば、従来勇者の発生経路は大きく断たれました」
記録官が書き留める。
対勇者戦略、第二段階。
神託および聖剣経路、遮断。
現魔王は、黒い布に包まれた聖剣を見る。
「これで、神殿から勇者は出ない」
その判断は、魔王軍の記録に正式に残された。
中央神殿は残った。
信仰も残った。
祈りも残った。
だが、神託を受け、聖剣を授かり、勇者として認定される道は途切れた。
現魔王の対策は、正しく機能していた。
焼けなかったもの
中央神殿から遠く離れた地方に、小さな神殿があった。
立派な聖堂はない。
大理石の階段もない。
神託の間も、聖剣庫も、勇者認定の祭壇もない。
あるのは、古い木の扉。
雨漏りを直した跡のある屋根。
村人が持ち寄った花。
何度も磨かれて丸くなった床板。
そして、小さな書棚だった。
その神殿は、中央神殿とは少し違っていた。
神を祀ってはいる。
しかし同時に、土地の精霊、水の精霊、森の精霊、火の精霊、石や風や獣に宿る小さなものたちも祀っている。
中央から見れば、信仰が混じっている。
正統ではある。
だが、中心ではない。
そのため、この神殿には中央からの財政的な恩恵もあまり入ってこない。
高価な祭具もない。
写本を何人も雇う余裕もない。
神官は畑を手伝う。
村人は祭りの日に神殿の屋根を直す。
子どもたちは、掃除のついでに古い本をめくる。
それでも、この神殿の者たちは、それで十分だと思っていた。
神は大事である。
しかし精霊もまた、大事な存在である。
大きなひとつの光だけが、世界を支えているわけではない。
水が流れ、風が運び、火が温め、土が受け止め、草木が育ち、獣が駆け、人が祈る。
そうした小さな働きが重なって、世界は保たれている。
小さな書棚に、古い物語の本が置かれていた。
その本は、中央神殿の神託記録ではない。
勇者認定の写本でもない。
聖剣を授ける儀式書でもない。
ただ、精霊たちが世界を支え合う物語である。
誰もそれを神託とは呼ばない。
神官も、村人も、子どもたちも、ただの古い物語だと思っている。
だから、焼かれない。
その夜、中央神殿の神託は焼かれた。
神託の間は沈黙し、写本庫の記録は灰になり、聖剣は神殿から消えた。
勇者を送り出すための儀式は、そこで一度途切れた。
中央神殿から、従来の勇者はもう出ない。
けれど、神託と呼ばれるものは、初めから神殿の奥にだけあるわけではなかった。
ある言葉は、師の教えに残る。
ある知恵は、旅人の記録に残る。
ある物語は、誰も重要だと思っていない田舎の書棚に残る。
それらはまだ、神託とは呼ばれていない。
だから、誰も焼こうとはしなかった。
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