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※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
隣村は近い
朝の広場には、荷物が並んでいた。
薬草袋。
塩漬け肉。
麻布。
修理した農具。
空の樽。
縄でくくられた小さな木箱。
隣村へ届けるものと、隣村から受け取るものの札が、それぞれ荷の上に結ばれている。
西の辺境の村にとって、隣村は遠い場所ではなかった。
名前なら、子どもの頃から何度も聞いている。
誰かの親戚がいる。
誰かの嫁ぎ先がある。
祭りの時には向こうから人が来る。
薬が足りなければ取りに行き、塩が切れれば受け取りに行く。
晴れて道がよければ、半日と少し。
朝出れば、夕方には戻れることもある。
だが、それは空身の話だった。
荷馬車がある。
荷がある。
雨が降るかもしれない。
車輪が沈むかもしれない。
魔物が出るかもしれない。
誰かが足をくじくかもしれない。
ロアンは、荷物の山を見下ろしていた。
背は伸びた。
子どもの頃より腕も太くなった。
スライム程度なら、もう慌てず追い払える。
村外れの道も、林の入口も、薬草の丘も、前よりずっと遠くまで一人で行ける。
けれど、今日はいつもの村外れではない。
隣村まで、荷を守って歩く。
正式な護衛ではない。
荷運びの手伝い兼、見習い護衛。
そう言われている。
それでも、ロアンには十分大きな役目に思えた。
荷運びの男が、馬の背を撫でながら言った。
「隣村は近い。だが、荷を持つと遠い」
ロアンは水袋を肩にかけた。
「半日なら行けますよ」
荷運びの男は、目を細める。
「空身ならな」
「荷があっても、歩くのは同じじゃないですか」
「同じだと思ってるうちは、荷を見る役には向かん」
ロアンは少し口を尖らせた。
村長がやって来る。
「ロアン、お前は前に出すぎるな。荷の横につけ」
「前を見た方がよくないですか」
「前を見る者はいる」
猟師のおじさんが、背後から言った。
今日、彼は最後まで同行しない。
林の入口まで見送るだけだ。
それでも、いつものように弓を背負い、何かあればすぐ動ける姿で立っている。
「お前は荷を見る」
ロアンは荷を見た。
「荷ですか」
荷運びの男が笑う。
「荷が落ちれば失敗。荷が濡れても失敗。人が転んでも失敗。敵を倒しても荷が届かなければ失敗だ」
ロアンは少し驚いた。
魔物を倒せば、護衛は成功。
どこかで、そんなふうに思っていた。
猟師のおじさんが言う。
「剣を抜く前に、何を守るのか考えろ」
ロアンは、荷馬車の横に立った。
薬草袋。
塩漬け肉。
麻布。
修理した農具。
空の樽。
どれも、剣より軽そうで、剣より面倒そうだった。
水の玉
出発前、ロアンは井戸のそばでミルカを見つけた。
ミルカは小さな木皿を前に置き、指先ほどの水の玉を宙に浮かせていた。
水の玉は、ただ浮いている。
それだけだった。
だが、形は崩れない。
震えもしない。
ミルカは息を整えながら、水を糸のように細く伸ばす。
それから、また丸く戻す。
一滴もこぼさない。
ロアンは近づいて言った。
「まだそれやってるの?」
ミルカは水の玉から目をそらさずに答えた。
「毎日やれって言われたから」
「先生、もういないのに?」
「いないからやるの」
ミルカは、伸ばした水をまた丸く戻す。
「見られてない時に崩れるなら、覚えたことにならないでしょ」
ロアンは少し気まずく笑った。
村にしばらく滞在していた北の魔術師は、もういない。
ミルカはその人に、基礎の基礎ばかり教わっていた。
火を大きくするより、同じ温度に保つこと。
水を増やすより、同じ形で留めること。
風を荒らすより、一定方向へ流すこと。
魔力を強く出すより、細く通すこと。
ロアンも、昔は一緒に教わったことがある。
だが、薬草採りや家の手伝いや荷運びで抜けることが多かった。
覚えているのは、少しだけだ。
「俺も昔やったな、それ」
ミルカは水を崩さずに言う。
「三日くらいね」
「もう少しやった」
「薬草採りでよく抜けてた」
「家の手伝いは大事だから」
「それはそう」
「じゃあ、認めてくれるんだ」
「家の手伝いは認める。魔法を覚えてるふりは認めない」
「厳しいな」
「水は甘やかすとすぐ落ちるから」
「俺は水だったのか」
「水より落ち着きがない」
ロアンは少し傷ついた顔をした。
「せめて水よりは上にしてほしい」
「じゃあ、跳ねた水」
「余計悪い」
ミルカは水の玉を、皿の上へ静かに落とした。
水は跳ねなかった。
ロアンは少し感心する。
「それ、何の役に立つの?」
ミルカは考えた。
「分からない」
「分からないのに毎日やってるの?」
「先生は言ってた。役に立つ形にするのは後でいい。まず崩さないことを覚えろって」
ロアンは、自分の指先に魔力を集めようとした。
井戸桶の水面が、ほんの少し震える。
次の瞬間、ぱしゃりと跳ねた。
ロアンの袖が濡れる。
ミルカは見なかったふりをした。
「……俺も、ちょっとは覚えてる」
「うん。ちょっとは」
「今のは、調子が悪かっただけだ」
「水の?」
「俺の」
「それは知ってる」
「知ってるなら聞かないで」
ミルカは、やっと少し笑った。
それから、広場に並んだ荷を見た。
「今日、隣村まで行くんだって?」
「うん」
「計画は?」
ロアンは胸を張った。
「歩く」
ミルカは黙った。
ロアンは慌てて付け足す。
「荷を運ぶ」
「他には」
「魔物が出たら倒す」
ミルカはため息をついた。
「だいぶ心配」
「そこは応援するところじゃない?」
「応援はする。信用は別」
「信用してないのか」
「信用してるから、確認するの」
「確認って便利な言葉だな」
「雑って便利な性格よりまし」
ロアンは何か言い返そうとして、言葉を探した。
見つからなかった。
出発前の準備
父は、ロアンの荷物を一つずつ確認した。
水袋。
硬いパン。
干し肉。
替え布。
縄。
小刀。
火打ち石。
雨除けの油布。
ロアンは腰の剣に手を置いた。
「剣はあります」
父はうなずく。
「剣だけでは腹はふくれん」
「分かってる」
「分かっている顔ではない」
母が、布に包んだ弁当を渡した。
「途中で全部食べないこと」
「分かってる」
母はじっと見る。
ロアンは目をそらす。
「……たぶん」
「たぶんで食料を管理しないで」
横からミルカが言った。
ロアンが振り返ると、ミルカは地図を持っていた。
「まだいたの?」
「心配だから確認に来たの」
「今ので三回目の確認だぞ」
「四回目。水の時も確認した」
「あれは確認じゃなくて失敗を見られただけだ」
「見られる場所で失敗するからよ」
「井戸のそばで魔法の練習してたのはそっちだろ」
「私は失敗してない」
「強い」
「水がね」
ミルカは地図を広げる。
羊皮紙ではない。
村で何度も使われている、布に描かれた簡単な地図だ。
村。
林道。
沢沿いの細い道。
尾根道。
隣村。
古い石小屋。
ぬかるみやすい場所には、小さな印がある。
ミルカは沢沿いの道を指した。
「午前中に林道を抜けられなかったら、沢沿いには行かない方がいい」
「どうして?」
「午後から雨かもしれない」
ロアンは空を見た。
青い。
「晴れてるけど」
「雲が低い」
ロアンは雲を見た。
低い気もする。
低くない気もする。
「なるほど」
ミルカが聞く。
「分かった?」
「雲が低い」
「意味は?」
「雨かもしれない」
「よろしい」
「じゃあ、あの雲は?」
ロアンが別の雲を指した。
ミルカは見上げる。
「たぶん、羊に似てる」
「天気は?」
「知らない」
「知らないこともあるんだな」
「あるわよ。だから確認するの」
父が縄を締めながら言った。
「戦う準備だけが準備ではない。靴を見る。縄を見る。空を見る。荷を見る。戻る道を見る」
ロアンは剣から手を離した。
「見るもの、多いな」
荷運びの男が通りがかりに言う。
「多いから、仕事になる」
ミルカが地図を畳みながら言った。
「忘れそうになったら、荷を見る」
「魔物が出たら?」
「荷を見る」
「雨が降ったら?」
「荷を見る」
「腹が減ったら?」
「それは少し食べる。でも全部は食べない」
母がうなずく。
「そこはミルカちゃんの言う通り」
ロアンは弁当を見た。
「俺の味方が少ない」
ミルカは真顔で言った。
「荷と弁当の味方をしてるの」
「俺は?」
「戻ってきたら味方する」
ロアンは少し笑った。
荷馬車の横に立つ。
門が開く。
いつもより、外の道が長く見えた。
荷があると
一行は村を出た。
荷運びの男。
荷馬車。
もう一人の大人。
ロアン。
猟師のおじさんは、林の入口までついて来る。
道の最初はなだらかだった。
朝の空気は冷たく、土は乾いている。
ロアンは元気に歩いた。
荷馬車の前へ出たり、後ろへ回ったり、道の先を見に行ったりする。
荷運びの男が言った。
「歩幅を合わせろ」
ロアンは振り返る。
「え?」
「馬車より先に疲れてどうする」
「疲れてません」
「今はな」
ロアンは荷馬車の横に戻った。
馬車は遅い。
人が歩くよりも遅い時がある。
車輪が石を踏めば揺れる。
坂ではさらに遅くなる。
自分だけなら、もっと早く歩ける。
だが、今日は自分が早く進む日ではなかった。
荷の速度に合わせる日だった。
しばらく進むと、道のくぼみに車輪が引っかかった。
ロアンはすぐに後ろへ回る。
「押します!」
荷運びの男が止めた。
「押す前に荷を見ろ」
ロアンは荷を見る。
薬草袋が片側へ傾いていた。
このまま押せば、袋が荷台の端へ滑る。
ロアンは慌てて縄を直した。
「押せば進むと思った」
「押せば荷が崩れる時もある」
荷運びの男は車輪の下へ小石を入れ、もう一人の大人と馬に声をかけた。
ロアンは横から支える。
車輪は、ゆっくりくぼみを越えた。
それだけで、少し汗をかいた。
荷があると、ただのくぼみも面倒になる。
ロアンは、そのことを初めて体で知った。
倒さない魔物
林道の手前で、道脇にスライムが二匹いた。
雨上がりの草の上で、ぷるぷる震えている。
ロアンは反射的に前へ出た。
子どもの頃から何度も向き合ってきた相手だ。
スライムの動きは分かる。
縮むところも見える。
乾いた土と湿った草の違いも分かる。
倒せる。
そう思った時、荷運びの男が言った。
「倒すな」
ロアンは驚いた。
「え、でも道に」
「荷馬車を止めるな。左に寄せて抜ける」
「危なくないですか」
「スライムは水場に向かっている。こっちに来る気がない」
ロアンはスライムを見た。
確かに、二匹は馬車ではなく、湿った草の方へゆっくり進んでいる。
ロアンは剣に手をかけたまま、少し下がった。
荷馬車は、道の左端をゆっくり通る。
スライムは反応しない。
戦わずに済んだ。
ロアンは拍子抜けした。
「倒さなくていいんだ」
荷運びの男が言う。
「倒すと時間を食う。棒も汚れる。音も出る。荷も止まる」
猟師のおじさんが後ろから付け足した。
「敵がいることと、戦うべきことは違う」
ロアンは振り返る。
猟師のおじさんは、そこで足を止めた。
「俺はここまでだ。先は荷を見る人間の言うことを聞け」
「はい」
「前に出すぎるな」
「はい」
「戻る道を忘れるな」
ロアンは少しだけ笑う。
「それは覚えてます」
猟師のおじさんはうなずいた。
「なら行け」
ロアンは荷馬車の横へ戻った。
林道の先は、いつもより少し暗く見えた。
近道
昼前。
予定より少し遅れていた。
車輪のくぼみで時間を使った。
林道の出口も、倒木を避けたために少し回り道になった。
空には雲が増えている。
ロアンは地図を見た。
沢沿いの近道がある。
尾根道より短い。
そこを使えば、遅れを取り戻せるかもしれない。
ロアンは地図を指した。
「こっちを行けば早いんじゃないですか」
荷運びの男が渋い顔をする。
「雨が降らなければな」
ロアンは空を見る。
「まだ降ってません」
「これから降るかもしれん」
「でも遅れてます」
「遅れを取り戻すために、もっと遅れる道へ入ることもある」
ロアンは黙った。
初めての護衛手伝いで、遅れたくなかった。
自分のせいではない。
くぼみも倒木も、ロアンが起こしたわけではない。
それでも、何とかしたかった。
「短い区間だけなら」
ロアンは言った。
荷運びの男は、しばらく地図を見た。
空を見る。
馬を見る。
荷を見る。
「短い区間だけだ。雨が強くなる前に抜ける」
ロアンは少しほっとした。
自分の意見が採用された。
役に立ったような気がした。
沢沿いの道に入ってしばらくは、確かに早かった。
道は細いが、下り気味で、馬車も進む。
沢の水音が近い。
ロアンは少し得意になった。
「こっちでよかったですね」
荷運びの男は答えない。
空を見ていた。
最初の雨粒が落ちた。
小雨だった。
ロアンはまだ平気だと思った。
すぐに、雨は強くなった。
雨とぬかるみ
沢沿いの道は、あっという間に変わった。
乾いていた土が黒くなる。
細い道に水が流れる。
車輪がぬかるみに沈む。
馬が嫌がって足を止める。
荷台が傾く。
薬草袋の端に水がかかった。
ロアンは慌てて後ろへ回った。
「押します!」
荷運びの男が怒鳴る。
「先に荷を降ろせ!」
ロアンは車輪ばかり見ていた。
荷を見ていなかった。
薬草袋が濡れかけている。
麻布の包みも水を吸い始めている。
ロアンは慌てて荷台へ飛びついた。
「油布!」
もう一人の大人が、油布を広げる。
ロアンは薬草袋を抱え、高い岩の上へ運ぶ。
雨が目に入る。
手が滑る。
薬草袋は思ったより重い。
水を吸えば、さらに重くなる。
沢の方から、緑色の塊が動いてくるのが見えた。
雨に寄ってきたスライムだ。
一匹。
二匹。
ロアンは剣に手をかけた。
「スライムが!」
荷運びの男が叫ぶ。
「剣を抜く前に荷を上げろ。濡れるぞ!」
ロアンは迷った。
スライムを倒すか。
荷を守るか。
目の前に魔物がいる。
だが、薬草袋も水を吸っている。
水場に近づいたスライムを思い出す。
倒すことだけが仕事じゃない。
ロアンは剣を抜かなかった。
薬草袋を抱え直し、岩の上へ運ぶ。
もう一人の大人が棒でスライムを追い払う。
荷運びの男は、車輪の下へ枝を差し込む。
馬を落ち着かせる。
雨はまだ降っている。
時間がどんどん消えていく。
ようやく馬車が動いた時、薬草袋の一部は濡れていた。
全部ではない。
けれど、無事でもない。
ロアンは、雨に濡れたまま立ち尽くした。
自分が近道を言った。
だから、こうなった。
濡れた薬草
古い石小屋で雨宿りをした。
屋根は半分欠けていたが、荷を置くには十分だった。
薬師のおばさんから預かった薬草袋を開く。
乾いているもの。
少し湿ったもの。
端が水を吸って色の変わったもの。
荷運びの男は、袋を一つずつ確認した。
ロアンは黙って立っている。
「これ、乾かせば使える。でも値は落ちるな」
荷運びの男が言った。
ロアンの胸が重くなった。
「俺が近道って言ったから」
「そうだ」
思っていたより、まっすぐ返ってきた。
ロアンはさらに落ち込む。
「慰めないんですか」
「慰めても荷は乾かん」
ロアンは返す言葉を失った。
荷運びの男は、濡れた薬草を分けながら続ける。
「だが、全部は濡れなかった」
ロアンは顔を上げる。
「途中で荷を上げたからだ」
「でも、失敗です」
「失敗だ」
荷運びの男は否定しない。
「近道に入った判断は甘かった。空の見方も甘かった。荷を降ろすより先に車輪を押そうとしたのも甘かった」
ロアンは小さくなる。
「はい」
「だが、失敗した後に何を守るか。それも仕事だ」
石小屋の外では、雨が弱まり始めていた。
荷運びの男は地図を広げる。
「隣村までは、まだ距離がある」
ロアンは地図を見る。
進めない距離ではない。
だが、道は濡れている。
荷も重い。
馬も疲れている。
日も傾き始める。
荷運びの男が言った。
「どうする」
ロアンは驚いた。
「俺が決めるんですか」
「言ってみろ。決めるのは俺だ」
ロアンは道を見る。
荷を見る。
空を見る。
馬を見る。
自分の足を見る。
濡れた薬草袋を見る。
水場のスライム。
乾いた土のスライム。
戻れた門。
見栄を張って転んだ泥。
いろいろなものが、頭の中で変につながる。
「進みたいです」
ロアンは正直に言った。
荷運びの男は黙っている。
ロアンは続ける。
「でも、今日は戻った方がいいと思います」
「理由は」
「薬草がこれ以上濡れたら困るし、馬車も重い。日が暮れたら、たぶんもっと遅れる。帰る道も悪くなる」
「他には」
ロアンは、濡れた袋に手を置いた。
「届けたいから。今日は戻れば、明日また出られる。でも今日無理したら、荷も馬車もだめになるかもしれない」
荷運びの男は、少しだけ口元を緩めた。
「戻るぞ」
その言葉を聞いて、ロアンは悔しかった。
けれど、ほっともした。
失敗はまだ途中
帰り道、ロアンは荷馬車の横を黙って歩いた。
濡れた薬草袋を持ち、馬車が傾かないように支える。
車輪の跡を見る。
ぬかるみに足を取られないように、先に石を置く。
スライムが出ても、剣は抜かない。
荷馬車を遠ざける。
倒せそうでも、追わない。
戦わずに済むなら、戦わない。
村へ戻った時には、すっかり夕方だった。
門の前で、子どもたちがこちらを見る。
「もう帰ってきたのか」
誰かが言った。
ロアンは顔が熱くなる。
隣村まで行けなかった。
初めての護衛手伝いで、途中で戻った。
村長が広場へ出てきた。
荷運びの男が報告する。
「沢沿いで雨。薬草の一部が湿った。馬車は無事。人も無事。明日、道を変えて再出発する」
村長はロアンを見た。
「隣村へは行けなかったか」
ロアンはうなずく。
「はい」
「荷は戻ったか」
「はい」
「人は戻ったか」
「はい」
村長は、少しだけうなずいた。
「なら、失敗はまだ途中だ」
ロアンは顔を上げる。
「途中?」
「戻れたなら、続きがある。荷を乾かし、道を変え、明日もう一度出ればいい」
村長は荷を見た。
「戻らなかった失敗は、そこで終わる。戻った失敗は、まだ途中だ」
ロアンは、濡れた薬草袋を見た。
全部は守れなかった。
隣村にも届かなかった。
でも、人は戻った。
馬車も戻った。
荷も、全部ではないが戻った。
明日、もう一度出られる。
失敗は、まだ途中。
その言葉は、ロアンの中に残った。
もう一度の朝
翌朝。
空は晴れていた。
ロアンは、昨日より早く広場に来た。
薬草袋は、乾かせるものは乾かし、包み直されている。
使えなくなった葉も少しある。
それを見るたび、胸が痛んだ。
ロアンは、薬草袋を二重に包んだ。
油布の端を内側に折る。
縄を取りやすい位置に結ぶ。
水袋を一つにまとめず、二つに分ける。
食料を昼と予備に分ける。
替え布を上に置く。
父がそれを見て言った。
「昨日より準備らしい」
「昨日も準備しました」
「今日は、昨日よりしている」
ロアンは言い返せなかった。
ミルカがやって来る。
「今日は沢沿いに行かないよね」
ロアンは即答した。
「行かない」
「理由は」
「昨日、濡れたから」
「他には」
「午後から雲が出たら危ないから」
「他には」
ロアンは馬車を見た。
「荷馬車は沢沿いに弱い」
ミルカは満足そうにうなずいた。
「少し賢くなった」
「少しって」
「昨日よりは」
「そこは普通に褒めてよ」
「普通に褒めたら油断するでしょ」
「俺は褒められて伸びる」
「油断して濡れる」
「昨日のことを一生言う気か」
「一生は言わない。たぶん三年くらい」
「長い」
「じゃあ、次に濡らすまで」
「短くなった気がしない」
ミルカは荷の結び目を確認した。
「これはいいと思う」
ロアンは少し目を丸くする。
「褒めた?」
「結び目をね」
「俺は?」
「結び目を作った人も、少し」
「少し多いな」
「油断しない程度に」
荷運びの男が地図を指す。
「今日は尾根道を使う。遠回りだが、乾いている」
ロアンはうなずいた。
「時間はかかるけど、荷は濡れにくい」
「そうだ」
「魔物は」
「沢沿いより少ない。ただし、小鬼が出ることがある」
ロアンは剣に触れかけて、手を止めた。
荷運びの男はそれを見ていたが、何も言わなかった。
一行は、もう一度村を出た。
昨日戻った道を、今日は別の道でやり直す。
門をくぐる時、ロアンは振り返った。
村の門は、昨日と同じように開いている。
戻る道がある。
だから、もう一度出られる。
戦わずに抜ける
尾根道は、沢沿いより遠かった。
だが、乾いている。
車輪は沈まない。
馬も落ち着いている。
道は少し登るが、見通しがいい。
ロアンは荷馬車の横を歩きながら、空と道と荷を何度も見る。
途中、道の端に小さな足跡を見つけた。
人間ではない。
裸足に近い形。
細く、浅い。
小鬼の足跡だ。
ロアンは前へ進みかけて、止まった。
「足跡、新しい」
荷運びの男がうなずく。
「どうする」
ロアンは周囲を見る。
林。
草。
荷馬車。
馬。
空。
「荷馬車を止めて、音を出さない。先に確認する。多かったら戻る」
荷運びの男は言った。
「よし」
ロアンは、荷馬車から少し離れて前を見る。
尾根道の先、背の高い草の向こうに、小鬼が二匹いた。
進路の真ん中ではない。
だが、音を立てれば寄ってくる距離だ。
二匹とも、何かを探している。
ロアンは剣を抜きかけた。
倒せるかもしれない。
二匹なら。
たぶん。
でも、戦えば音が出る。
荷馬車に気づかれる。
馬が暴れるかもしれない。
荷が崩れるかもしれない。
昨日の薬草袋が頭をよぎる。
ロアンは剣から手を離した。
足元の石を拾い、小鬼たちとは反対側の藪へ投げる。
がさ、と音がした。
小鬼がそちらを見る。
一匹が動く。
もう一匹はまだこちらに近い。
ロアンは背の高い草を、剣の鞘で軽く揺らした。
別の方向に気配を作る。
小鬼はそちらへ向かった。
荷馬車が、ゆっくり進む。
車輪の音をできるだけ抑える。
馬の首を、荷運びの男が撫でている。
ロアンは息を止めるようにして、小鬼の背を見ていた。
やがて、荷馬車は通り抜けた。
戦わずに済んだ。
荷運びの男が小声で言う。
「昨日より護衛らしい」
ロアンは少し嬉しかった。
でも、声には出さなかった。
声を出すと、小鬼が戻ってきそうだったからだ。
隣村
夕方前。
隣村の門が見えた。
ロアンは、思っていたより疲れていた。
足が重い。
肩が痛い。
水袋は軽くなっている。
荷馬車の速度に合わせて歩くのは、空身で走るより疲れるのだと知った。
隣村は、見慣れない形の柵に囲まれていた。
畑の並びも違う。
家の屋根の角度も違う。
井戸の位置も、広場の広さも、ロアンの村とは少しずつ違う。
大きな旅ではない。
それでも、ロアンにとっては十分知らない場所だった。
隣村の人たちが荷馬車を迎える。
「助かった。道が悪かっただろう」
ロアンは答えた。
「昨日、戻りました」
相手が瞬きする。
「昨日?」
「失敗したので」
荷運びの男が笑った。
「だから今日は届いた」
薬草袋が下ろされる。
少し品質が落ちたものもある。
だが、使える。
修理した農具も渡される。
塩漬け肉も渡される。
代わりに、塩。
鉄の小物。
麦。
薬の材料。
荷台に新しい荷が積まれていく。
ロアンは、それを見ていた。
届けるというのは、ただ目的地へ着くことではなかった。
荷を渡す。
中身を確認する。
受け取るものを受け取る。
帳面に印を入れる。
縄を結び直す。
水袋を補充する。
帰りの荷の重さを見る。
それも全部、道の一部だった。
隣村の薬師が、小さな包みをロアンに渡した。
「手伝い賃だよ」
中には、干し果物と銅貨が数枚入っていた。
ロアンは戸惑った。
「俺、昨日失敗しましたけど」
荷運びの男が言う。
「今日は届けた」
薬師がうなずく。
「昨日戻ったから、今日は届いた」
ロアンは包みを受け取った。
報酬は大金ではない。
けれど、手に乗せると妙に重かった。
戻るのも仕事
帰り道。
荷は軽くなったわけではない。
届けた荷の代わりに、塩と鉄の小物と麦がある。
むしろ、音が増えた。
鉄の小物が荷台で鳴る。
塩の袋は湿気を嫌う。
麦の袋は破れやすい。
ロアンは、朝より静かに歩いた。
道を見る。
空を見る。
荷を見る。
馬を見る。
一緒に歩く大人の足取りを見る。
疲れていないか。
水は足りるか。
荷の縄は緩んでいないか。
荷運びの男が言う。
「今日は何を覚えた」
ロアンは少し考えた。
「近道は早いとは限らない」
「他には」
「荷があると、逃げ方が変わる」
「他には」
「倒さなくていい魔物もいる」
「他には」
ロアンは、村へ戻る道を見た。
「戻るのも仕事」
荷運びの男はうなずいた。
「それが分かるなら、次はもう少し遠くへ行ける」
ロアンは、隣村の先を想像した。
さらに遠い村。
町。
大きな街道。
国境。
まだ見たことのない場所。
そこには、きっと荷がある。
人がいる。
雨が降る。
道が崩れる。
魔物が出る。
戻るか進むかを決めなければならない時がある。
ロアンは、干し果物の包みを握った。
昨日戻ったから、今日届いた。
今日届いたから、次を考えられる。
そのことが、少しだけ分かった気がした。
隣村までの道
日が傾く頃、ロアンたちは村へ戻った。
木の門が見える。
子どもの頃、何度も逃げ帰った門。
スライムに焼かれて泣きながら戻った門。
泥だらけでくぐった門。
初めてスライムを倒して、少し胸を張って戻った門。
今日は、その門が少し違って見えた。
門の外に、半日以上いた。
一度失敗して戻り、翌日また出て、隣村まで荷を届けた。
戻るだけではなく、戻ってやり直した。
村長が門の前に立っていた。
「届いたか」
ロアンはうなずく。
「はい」
「人は」
「戻りました」
「荷は」
「戻りました。塩と鉄と麦も」
村長はうなずいた。
「なら、今日は仕事になったな」
ロアンは、少しだけ笑った。
隣村までの道は、近かった。
子どもの頃から、名前だけなら何度も聞いていた。
けれど、荷を持って歩くと遠かった。
雨が降れば道は変わり、荷が濡れれば価値は落ち、馬車が沈めば時間は消える。
スライムは倒せても、濡れた薬草は元に戻らない。
小鬼は倒せるかもしれないが、戦えば荷馬車に気づかれる。
進むことだけが勇気ではなかった。
戻ることも仕事だった。
戻れたなら、失敗はまだ途中になる。
翌日、もう一度出られるからだ。
ロアンは、隣村までの道でそれを覚えた。
門まで逃げ帰る子どもでは、もうなかった。
けれど、まだ旅人でもなかった。
ただ、少し遠い道の歩き方を覚え始めた若者だった。
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