八重結び 第1話 首を絞める部屋

八重結び 第1話 首を絞める部屋 八重結び
八重結び 第1話 首を絞める部屋

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一 案件名が長い

 黒瀬退魔処理に、元請け経由で調査依頼が入った。

 案件名は、やたらと長かった。

二〇三号室、夜間圧迫感および首部発赤の調査、ならびに必要と判断される場合の簡易対処および対処後観察

 端末の画面を見下ろした三枝透は、少しだけ眉を寄せた。

「なんか、件名で全部説明してそうですね」

 向かいのデスクで書類をそろえていた片桐美緒が、顔も上げずに答える。

「そうでもありません」

「これでまだ説明してないんですか」

「件名は、あくまで案件の入口です」

 美緒は端末を操作し、依頼書の詳細を事務所の共有モニターに映した。

 黒瀬退魔処理の事務所は狭い。デスクが三つ。棚には札、封筒、契約書、結界具の予備。壁際には、古い複合機。奥の隅には、現場用の長靴とヘルメットがまとめて置かれている。

 零細業者という言葉を、退魔の二文字で薄く塗ったような場所だった。

「今回うちに許可されているのは、専有部内の調査、軽微な霊障反応の記録、入居者本人への聞き取り。それから、人体への干渉が確認された場合の簡易対処までです」

「けっこうできるじゃないですか」

「できません」

「え」

 即答だった。

 透が目を瞬かせると、美緒は淡々と続けた。

「まず、本格処理に切り替える場合は、元請けの承認が必要です。共用部に霊障が伸びていた場合も、建物全体の案件へ切り替えです。その場合、管理会社と元請けの両方に確認が必要になります」

「……はい」

「躯体に影響する固定、壁や床への杭打ち、配管経由の処理、隣室への立ち入り、共用廊下の封鎖は、うちの判断ではできません」

「めちゃくちゃできないじゃないですか」

「下請けなので」

 ソファに腰かけていた黒瀬玄一が、新聞から顔を上げた。

「言い方」

「事実です」

 美緒は一歩も引かない。

 黒瀬は何か言いかけたが、結局やめた。反論できる材料がなかったのだろう。

 美緒はさらに、依頼書の別項目を開く。

「術具使用費は、一件につき十万円以下であれば三件まで請求可能。ただし、吸い札、固定札、希薄札は通常消耗品扱いです。結界杭、封じ札、遮断幕、簡易結界縄は、使用理由を記録してください」

「十万円を超える場合は?」

「事前承認です。ただし、人身被害の拡大が予見される場合に限り、事後承認でも通る可能性はあります」

「可能性」

「可能性です」

 美緒はきっぱり言った。

「通るとは言っていません」

「怖い」

「怖がってください」

 透は端末の画面を、改めて上から下まで見直した。

 調査可能範囲。処理可能範囲。術具使用上限。事後承認条件。対処後観察日程。再発時の一次連絡先。入居者説明の文言。管理会社への報告区分。元請け承認が必要な作業一覧。

 依頼人の名前よりも、禁止事項の方が多い。

「依頼人の情報の方が少なくないですか」

「少ないです」

「少ないんだ」

「だから現地で聞き取ります。ただし、聞き取りの前に作業範囲を確認します」

「順番、逆じゃないですか」

「逆ではありません」

 美緒はそこで、ようやく透の方を見た。

「聞いたあとに“できます”と言って、契約上できませんでした、が一番困ります」

 黒瀬が小さく頷く。

「現場でありがちなやつだ」

「ありがちにしないでください」

「黒瀬さん、やったことあるんですか」

 透が尋ねると、黒瀬は新聞をたたみながら目をそらした。

「ないとは言ってない」

「あります」

 美緒が断言した。

「断定するな」

「記録があります」

「記録、強い」

 黒瀬は少しだけ嫌そうな顔をした。

 透はその表情を見て、妙に納得してしまう。

 この業界は、面倒くさい。

 ただ、面倒にしておかないと、誰かが潰れる。

「今回は調査からです」

 美緒は話を戻した。

「必要なら簡易対処。ただし、二次調査が必要と判断したら、そこで止めます」

「止めるんですか」

「止めます」

 きっぱりとした声だった。

「下請けが、現場判断で案件を大きくしないでください」

「耳が痛いな」

「黒瀬さんにも言っています」

「聞こえてる」

 透は苦笑しながら、現場用の鞄を手に取った。

 札、記録端末、簡易観測器、手袋、同意書、説明用紙。

 幽霊退治という言葉から想像するものより、持ち物はずっと事務的だった。

 けれど、その事務的なものの先に、人の寝息や痛みがある。

 そういう仕事なのだと、透は少しずつ理解し始めていた。

二 二〇三号室

 依頼人は、佐伯菜月。

 二十代の女性で、先月、問題の二〇三号室へ入居したばかりだという。

 アパートは駅から近く、小ぎれいで、いかにも普通だった。外壁は淡いベージュ。植え込みは手入れされ、共用廊下には目立った汚れもない。家賃は相場より少し安いが、怪談めいた不気味さは外観にも室内にも見当たらない。

 だからこそ、佐伯の顔色の悪さが目についた。

「夜中に、首を絞められるみたいな感じで目が覚めるんです」

 部屋の前で、佐伯は両手を重ねるようにして自分の首元を押さえた。

「それで、朝になると赤い痕が残っていて……」

 黒瀬は落ち着いた声で確認する。

「佐伯さんは、最初から霊障だと思って相談したわけではないですね」

「はい。皮膚科にも行きました。内科にも行きました。睡眠外来は予約待ちです。でも、原因がはっきりしなくて」

 佐伯は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。

「外泊した日は起きないんです。この部屋で寝た時だけで、痕の位置も毎回似ていて……それで、管理会社に相談したら、こちらを紹介されました」

「本人由来じゃなくて、場所由来っぽいですね」

 透が思わず呟くと、黒瀬がすぐに釘を刺した。

「ぽい、で決めるな」

「はい」

 その時、黒瀬の端末が短く震えた。

 美緒からの追加連絡だった。

前入居者情報、回答あり。
告知事項には該当しない、とのこと。
ただし清掃履歴、消臭施工、親族対応済みの記載あり。
生活残滓型の可能性あり。決めつけ注意。

 透は最後の一文を見て、小さく息を漏らした。

「決めつけ注意って書かれてる」

「お前宛てだな」

「俺宛てですか」

「俺宛てでもある」

 黒瀬は端末をしまい、佐伯に向き直った。

 佐伯は不安そうに、二人の顔を見比べている。

「今の段階では、断定しません。ただ、部屋に何かが残っている可能性はあります」

 黒瀬は言った。

「調査します」

 佐伯は小さく頷き、鍵を開けた。

三 手がある

 二〇三号室は、普通の部屋だった。

 ワンルーム。小さなキッチン。ユニットバス。窓際に置かれたベッド。隅にはまだ開けていない段ボールが二つ。

 引っ越してきたばかりで生活感は薄いが、汚れているわけでも荒れているわけでもない。

 本当に、ただの部屋だ。

「思ってたより普通ですね」

 透が言うと、黒瀬は靴を脱ぎながら答えた。

「普通の場所で起きるから仕事になる。いかにも出そうな場所だけなら、誰も住まない」

 それはもっともだった。

 佐伯は玄関側に下がる。

「佐伯さんはそこで待っていてください。異変があったら、こちらから声をかけます」

「はい」

 黒瀬は部屋に入る前に、作業範囲と同意の確認をもう一度行った。専有部内の調査。人体への干渉が確認された場合の簡易対処。構造物への加工なし。共用部へ出た場合は中断。

 佐伯が頷いたのを確認してから、透は部屋の中央に立った。

 壁を見る。

 床を見る。

 ベッドを見る。

 そこにある家具ではなく、そこに残っているものを拾うように、意識の焦点をずらす。

 観測。

 透にとってそれは、目を凝らすことに少し似ていた。ただし、見るのは色や形ではない。空気の密度、手触り、残っている癖、同じ動作を何度もなぞった跡。

 部屋の輪郭が、少しだけ別の意味を帯びる。

 窓際のベッド。

 右側。

 枕元より、少し下。

 何かが濃い。

「……手があります」

 佐伯が息を呑んだ。

「手?」

 黒瀬は佐伯を振り返らず、透だけに尋ねる。

「形は」

「手だけです。人の形じゃない。動いてます」

「何をしている」

 透は言いかけた。

 首を絞めている、と。

 だが、その前に黒瀬が言った。

「決めつけるな。観測で拾ったものだけ言え」

 透は息を整えた。

 見えているものだけ。

 分かった気になったものではなく、拾えているものだけ。

「……布団を、引いてます」

 透はゆっくりと言葉にする。

「肩にかけてる。それを、ずっと繰り返してます」

 佐伯が口元を押さえた。

 透は見続ける。

 布団を引く。

 肩へかける。

 戻る。

 布団を引く。

 肩へかける。

 戻る。

 それは、首を絞めているのではなかった。

 布団をかけ直しているのだ。

四 生活残滓

 黒瀬の端末に、美緒から追加情報が入った。

 前入居者は高齢男性。部屋で死亡。発見まで数日。妻を亡くしていた。

 近隣の聞き取りでは、妻の体調が悪かった頃、夜中に何度も布団をかけ直していたらしい。

 透はベッドの横を見る。

 あの手は、佐伯の首を絞めているのではない。

 誰かが寒くないように、布団を直している。

 ただ、佐伯菜月は前入居者の妻ではない。

 体格も違う。寝る位置も違う。布団の厚みも違う。

 肩へかけるはずの手が、首元に重なる。

 善意でも、悪意でもない。

 ただ残った動作が、今ここで生きている人間を傷つけている。

「悪意じゃないんですね」

 透が言うと、黒瀬は短く答えた。

「ないな」

「じゃあ」

「害はある」

 黒瀬の声は静かだった。

「悪意がないことと、放っておけることは別だ」

 佐伯は玄関で、静かにその言葉を聞いていた。

 恐怖だけではない顔をしている。

 自分を苦しめていたものが、誰かを気遣う動作だった。そう聞かされて、どんな顔をすればいいのか分からないのだろう。

 けれど、それで苦しくなかったことにはならない。

「本来なら、二次調査に回す」

 黒瀬が言った。

「でも」

 透が促すと、黒瀬は佐伯の首元に視線を向けた。

「首元に痕が出ている。今夜も起きる可能性が高い。だから、本格処理じゃなく、簡易対処だ」

「今夜、首を絞められないところまで下げる」

「そうだ」

 黒瀬ははっきり言った。

「終わらせるんじゃない。危険を下げる」

 佐伯が、ためらいがちに尋ねる。

「完全には、終わらないんですか」

「確認するまで、終わったとは言いません」

 黒瀬は誤魔化さなかった。

「ただ、今夜の危険は下げます」

 佐伯は迷ったあと、ゆっくり頷いた。

「お願いします」

五 簡易対処

 佐伯を玄関の外へ下がらせ、扉は開けたままにした。

 部屋には、透と黒瀬だけが残る。

 透は鞄から札を三枚出した。

 観測。

 固定。

 希薄。

 動きを読む。動く範囲を留める。濃さを落とす。

 方針は合っている。

 問題は、現場で通るかどうかだ。

 透はベッドの横に残った手を見た。

 布団を引く。

 肩へかける。

 戻る。

 観測は入っている。手の動きは読めている。

 次に、固定。

 動きの範囲だけを留める。

 透は札を床近くに滑らせ、手の動きが通る空間へ細い線を引くように意識を置いた。

 手が、止まりかける。

 だが、止まりきらない。

 布団を引く。

 肩へかける。

 戻る。

 その動作が、わずかにずれながら続いている。

 透の首筋に、冷たい指の感触が走った。

「っ」

「息を乱すな」

 黒瀬の声が飛ぶ。

 透は奥歯を噛みしめ、呼吸を戻した。

 固定が甘い。

 手は止まっていない。むしろ、留めようとした分だけ反発している。

 本来なら、このまま希薄に入る。

 固定で範囲を絞ったまま、濃さを落とす。首元へ重なる干渉を薄める。

 それで終わるはずだった。

 だが、透は希薄へ行けなかった。

 固定が足りない。

 このまま希薄を入れたら、手だけでなく動作全体に触れる。

 散る。

 そう思った瞬間、透の意識が得意な方へ逃げた。

 偏向。

 横へ流せばいい。

 首元からずらせばいい。

 固定しきれなくても、当たらなければいい。

「差し替えるな」

 黒瀬の声に、透の指が止まった。

「固定が落ちる」

「でも、このままだと佐伯さんに」

「まだ佐伯さんには行ってない」

 黒瀬は低く言った。

「お前が焦ってるだけだ」

 透は歯を食いしばる。

 手は動いている。固定は甘い。希薄には行けない。

 だったら、流すしかない。

 透は偏向を入れた。

 首元へ向かう圧が、横へずれる。

 一瞬、楽になる。

 だが、その瞬間、固定の線が落ちた。

 留めていた範囲がにじむ。

 手の動作が、ベッドの横からはみ出す。

 布団。

 枕。

 カーテン。

 壁。

 畳。

 部屋のあちこちに、手の形になりかけた薄い残滓が広がっていく。

 透は慌てて希薄へ入ろうとした。

 だが、もう遅い。

 薄める対象が広がりすぎている。

 どこを薄めればいいのか分からない。

 手なのか。

 動作なのか。

 部屋なのか。

 前入居者の習慣なのか。

 にっちもさっちもいかない。

 黒瀬が動いた。

「引け」

「まだ」

「引け、三枝」

 その声には、現場の重みがあった。

 透は接続を切る。

 途端に、膝から力が抜けた。

 黒瀬が前に出る。

「観測だけ残せ」

「はい」

 透は震える指で観測だけを維持した。

 黒瀬は固定を入れた。

 透が留めきれなかった範囲を、まず止める。

 それから、散りかけた圧を吸い札へ逃がす。

 最後に、濃すぎた手の輪郭だけを希薄でほどく。

 消し飛ばすのではない。

 ほどく。

 部屋の空気が、少しずつほどけていく。

 黒瀬は最後に、ベッドの布団を直した。

 術ではない。

 人間の手で。

 ゆっくりと、枕元から肩の位置へ。

 誰も寝ていない布団を、きれいにかけた。

「もういい」

 黒瀬が静かに言った。

「終わった」

 その言葉に、残っていた手が一度だけ止まった。

 まるで、自分の仕事が済んだと知ったように。

 輪郭がほどける。

 手は、消えた。

六 固定の代わりにはならない

 部屋の空気が軽くなった。

 完全に晴れたわけではない。けれど、さっきまで床に溜まっていた重さは消えている。

 透は畳に座り込んだまま、喉を押さえていた。

 黒瀬がしゃがみ込み、透の首元を見る。

「軽度だな」

「すみません」

「謝罪は報告書に書け」

「はい」

「嘘だ。書くな。美緒が怒る」

 透は少し笑いかけたが、喉が痛くて咳き込んだ。

 黒瀬は水を渡し、しばらく待ってから尋ねる。

「何が悪かった」

「固定しきれませんでした」

「それだけか」

「本来なら、そのまま希薄に入るはずでした」

「入ったか」

「……入れませんでした」

「なぜ」

 透は言葉を探した。

「固定が甘いまま希薄に入ると、手だけじゃなくて動作ごと散ると思いました」

「そこまではいい」

 黒瀬は答えを急がせなかった。

 怒鳴らない。先に正解を言わない。

 ただ、透が自分で見つけるのを待っている。

「だから、偏向に差し替えようとしました」

「そこだ」

 黒瀬は短く言った。

「固定が甘いから、得意な偏向へ逃げた。そのせいで固定がさらに落ちた」

「はい」

「偏向は悪くない。だが、固定の代わりにはならん」

 黒瀬の声は厳しかったが、責めるための厳しさではなかった。

「逃がしていいものと、留めるべきものを見ずに流すな」

 透は黙って頷いた。

「今回は、手だけじゃなかった。手がしていた動作。その動作が残った理由。そこまで触りかけた」

「……だから広がった」

「そうだ」

 黒瀬はベッドを見る。

「かわいそうだと思うのは勝手だ。だが、かわいそうだから流す、は処理じゃない」

 透も同じようにベッドを見た。

 さっきまで手があった場所には、もう何もない。

 ただ、布団だけがきれいに整っている。

「八重士なら、こういうのも八つ繋げて処理するんですよね」

 透が呟くと、黒瀬は少しだけ顔をしかめた。

「八重士は、八つ繋げるだけのやつじゃない」

「違うんですか」

「定義上はそうだ」

「どっちですか」

「現場の意味が違う」

 黒瀬は立ち上がり、使い終えた札を回収した。

「八つ繋げるだけなら、事故例にもいる。八重士は、八つ繋げても戻ってこられるやつだ」

「戻ってこられる」

「そうだ」

 黒瀬は透を見下ろす。

「できた、じゃない。終わらせた、でも足りない。戻ってきた、までが現場だ」

 透は、痛む首元に触れた。

 八重士。

 八接続を安定して扱える、最高位の退魔士。

 遠い。

 遠すぎる。

 だからこそ、目標になる。

七 伝えなかったこと

 帰社後、片桐美緒は報告用モニターを見ながら言った。

「不動産屋は説明義務を逃げていますね」

 透は首に湿布を貼られていた。

 貼ったのは美緒である。貼り方が妙に慣れていた。

「違法ですか」

「明確に違法とは言い切れません」

「じゃあ、責められない?」

「責められるかどうかと、次の事故を防げるかは別です」

 黒瀬がデスクにもたれかかり、腕を組む。

「扱いにくいやつだな」

「はい」

 美緒は頷いた。

「事故物件ではない、という説明と、何も起きていない、という説明は違います」

「隠してたってことですか」

「隠した、とまでは書けません」

 美緒は言葉を切り分けるように言った。

「でも、伝えなかった、とは書けます」

「その違い、大きいんですか」

「大きいです。書けるかどうかが変わります」

 透は少し黙った。

 法律のことは分からない。契約のことも、まだよく分からない。

 けれど、知らされずにあの部屋で眠ることの怖さだけは、首元の痛みと一緒に分かった。

「佐伯さんには、現状説明と再発時の連絡先」

 美緒は指で項目を確認していく。

「管理会社には、霊障調査結果と次回募集時の説明文案。不動産屋には、前入居者情報の扱いについて照会。元請けには、簡易対処と対処後観察の報告」

「そこまでやるんですか」

「やらないと、また誰かが知らないまま寝ます」

 黒瀬が頷いた。

「美緒の言う通りだ」

「でも、不動産屋が本当に違法じゃないなら」

「違法ではないから、何も残さなくていい、とはなりません」

 美緒は透をまっすぐ見た。

「報告書は、責めるためだけのものではありません。次に同じことが起きないようにするためのものです」

 透は、自分の首元の湿布に触れた。

 知らないまま寝る。

 その言葉が、やけに重かった。

八 所見ではありません

 透は報告書を書いた。

 発生状況。

 依頼者聞き取り。

 現場観測。

 推定分類。

 使用術具。

 処理手順。

 失敗しかけた工程。

 黒瀬による補助。

 術後確認。

 経過観察予定。

 書くことはいくらでもあった。むしろ、書くことしかなかった。

 透が一度目の報告書を提出すると、美緒はすぐ赤字を入れた。

「“かわいそうだった”は所見ではありません」

「でも、かわいそうでした」

「それは感想です」

「感想も大事では」

「大事ですが、報告書の所見欄には不要です」

 黒瀬が横から口を挟む。

「報告書は観測の結果で、かわいそうは同調の結果だな」

「退魔士以外には伝わらなそう」

「なので、報告書には別の言葉で書きます」

 美緒は赤ペンを持ち直した。

「たとえば?」

「悪意を持つ対象ではなく、生活動作の反復残滓と推定」

「急に報告書になった」

「報告書なので」

 黒瀬は少し笑った。

「かわいそうだと思うな、とは言ってない。ただ、それを処理の根拠にするな」

「根拠にするなら、観測」

「そうだ」

 黒瀬は頷く。

「同調は、似てるが別物だ」

「別物」

「場合によっては逆だ」

「逆」

「今はそこまででいい」

「説明を途中で止められた」

「報告書が進まないので」

 美緒がぴしゃりと言った。

 透は三回書き直した。

 最終的に、所見欄はこうなった。

対象は悪意を持つものではなく、生活動作の反復残滓と推定。
ただし人体への干渉は明確であり、継続観測が必要。
固定不十分の状態で偏向へ差し替えた場合、残滓拡散の危険あり。
接続数過多に注意。

 美緒は目を通し、最後の二行で手を止めた。

「感想文ではなくなりましたね」

「褒めてます?」

「比較的」

 透はそれを褒め言葉として受け取ることにした。

 美緒は最後の一文をもう一度見る。

「ここはいいと思います」

 接続数過多に注意。

 今日の失敗が、紙に残っている。

 恥ずかしい。

 けれど、不思議と安心もあった。

 失敗したことが、消えずに残る。

 次に同じ場所で、誰かが首を絞められないように。

 自分が、同じ欲張り方をしないように。

九 三日後の電話

 三日後、佐伯菜月から電話があった。

「昨夜は、首を絞められませんでした」

 電話口の声は、まだ少し疲れていた。

 けれど、最初に会った時よりは軽い。

 黒瀬は通話をスピーカーにして、透と美緒にも聞こえるようにした。

「ただ」

「はい」

「夢を見ました」

 佐伯は少し迷ってから続けた。

「知らない部屋で、誰かに布団をかけてもらう夢です。顔は見えませんでした。でも、怖くはなかったです」

 透は息を止めた。

 黒瀬は静かに頷く。

「分かりました。七日後に予定通り再確認します。何かあれば、すぐ連絡してください」

 通話が切れる。

 事務所に短い沈黙が落ちた。

「まだ残ってますか」

 透が尋ねる。

「少しな」

「処理失敗ですか」

「違う」

 黒瀬は即答した。

「ゼロにすればいいわけじゃないものもある」

 美緒が記録画面に入力しながら言う。

「要経過観察ですね」

「そういうことだ」

 退魔業界の勝利は、たいてい派手ではない。

 完全消滅。大勝利。悪霊退散。

 そんな言葉は、報告書にはあまり出てこない。

 出てくるのは、低下、安定、再発なし、経過観察。

 現実的で、地味で、責任の残る言葉ばかりだ。

 透は窓の外を見た。

 雨は降っていない。

 けれど、湿った空気の匂いはまだ残っている。

十 ひとつずつ、正しく繋ぐ

「黒瀬さん」

「あ?」

「次は、三接続で止めます」

 黒瀬は透を見た。

 そして、首を横に振った。

「止めるんじゃない」

 短い言葉だった。

「終わらせるんだ」

「はい」

 美緒が横から言う。

「終わらせた後は、報告書です」

「はい」

 透は苦笑した。

 首の痛みは、もうほとんどない。

 けれど、あの見えない手の感触は残っている。

 怖さとしてではなく、教訓として。

 怨霊は悪ではない。

 でも、有害なら処理する。

 術式は力ではない。

 接続だ。

 そして接続は、増やせばいいものではない。

 透は自分の手を見る。

 まだ八つは持てない。

 でも、いつか。

 いや、まずは次の現場で。

 ひとつずつ、正しく繋ぐ。

 それが、八重士へ続く道の最初なのだと思った。

 ――第1話 首を絞める部屋 了

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片桐美緒の案件補足

“かわいそう”は所見ではありません。用語で整理してください。

用語説明
怨霊人の記憶、感情、動作、習慣などが場所や物に残り、人へ害を及ぼす形で現れたもの。必ずしも悪意を持つとは限らない。
霊障怨霊や残滓などによって、人・場所・物に起こる異常。圧迫感、発赤、異音、睡眠障害、物理干渉など、現れ方は案件によって異なる。
有害なら処理する対象に悪意がなくても、人を傷つける、生活を妨げる、再発が見込まれる場合は対処対象となる、という現場判断の基本。
生活残滓型霊障生前の生活動作や習慣が、場所に残って反復している霊障。意思や悪意よりも、動作の継続そのものが問題になる。
反復残滓同じ動作、同じ経路、同じ行為が繰り返される形で残ったもの。第1話では、布団をかけ直す動作が首元への干渉として現れている。
観測霊障の形、濃度、動き、作用範囲を読み取る操作。推測や感情移入とは区別され、拾えたものだけを扱う。
固定霊障の動きや作用範囲を、特定の場所・範囲に留める操作。対象を広げないための基本工程。
希薄濃くなりすぎた霊障の干渉を薄める操作。対象範囲が不明確なまま行うと、処理が不安定になる。
偏向霊障の流れや負荷を横へずらす操作。回避や誘導に向くが、対象を留める操作の代替にはならない。
同調対象の波形や反復に合わせる操作。観測と似て見える場合もあるが、外から読む観測とは性質が異なる。第1話時点では詳細未説明。
術式接続数複数の術式操作を、連続または同期して扱える数の目安。数が多いほど高度だが、安定性も要求される。
接続数過多処理中に扱う術式を増やしすぎ、全体の制御が崩れる状態。接続を足せば安全になるとは限らない。
八重士八接続を安定して扱える最高位の退魔士。単に八つ繋げられるだけではなく、処理後に戻ってこられることまで含めて評価される。
簡易対処契約範囲内で行う限定的な対処。本格処理ではなく、危険を下げることを目的とする。
本格処理霊障の根本処理や建物全体に関わる作業。第1話の案件では、元請け承認や管理会社確認が必要になる。
元請け承認下請け業者が契約範囲を超える作業を行う場合に必要な承認。本格処理、共用部案件、構造物に影響する処理などが該当する。
下請け退魔士元請けや管理会社から定められた範囲内で作業する退魔士。技術的に可能でも、契約範囲外の処理は勝手に行えない。
術具札、結界具、吸い札など、霊障処理に用いる道具。消耗品扱いのものと、使用理由の記録が必要なものがある。
吸い札散りかけた霊障や余分な圧を逃がし、吸収・回収するための札。第1話では黒瀬が拡散しかけた圧を逃がすために使う。
報告書発生状況、観測結果、処理内容、使用術具、失敗しかけた工程、術後確認を記録する文書。責任追及だけでなく、再発防止のために残される。
所見報告書に記載する、観測結果に基づいた判断。感想や同情ではなく、次の処理や確認に使える形で書く必要がある。
要経過観察対処後も安全が完全に確認されたとは言えない状態。再発、残留反応、関係者の変化などを一定期間確認する。
告知・説明の問題法的に明確な違反とは言えない場合でも、入居者の判断材料を十分に伝えないことで、次の被害につながる場合がある。

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