勇者の条件 第29話 人魚はいなかった

勇者の条件 第29話 人魚はいなかった 創作実験
勇者の条件 第29話 人魚はいなかった
勇者の条件
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勇者の条件 第29話 人魚はいなかった 人物相関図

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。

次は海

転移ゲートの同時破壊は、成功した。

すべてのゲートが壊れたわけではない。

外れた推定地もあった。

壊し損ねた小型ゲートもある。

負傷者も出た。

それでも、魔王軍が広い範囲へ一気に兵や物資を動かす道は、大きく損なわれた。

各国の軍は、少しだけ息をついた。

商人たちは、止まっていた街道の一部を動かし始めた。

神殿は、負傷者の移送路を組み直した。

灰の一団は、その知らせを聞いた宿場を出て、さらに南へ向かっていた。

けれど、戦いが終わったわけではない。

むしろ、次の問題が見えてきた。

海である。

魔王軍が転移ゲートを失ったことで、海沿いの拠点と海路補給を重視し始めている可能性があった。

各国側も、南の大陸へ進むには海路を確保しなければならない。

だが、問題の海域では船が消えていた。

漁船も、連絡船も、軍の小型船も、戻らないものがある。

押収資料の中には、深海拠点らしき符号があった。

地図上には存在しない。

海図にも載っていない。

けれど、古い勇者文献には似た記述があった。

人魚の導きにより、海底の門は開かれた。

ロアンはその一文を見て、しばらく黙った。

それから言う。

「また、ずいぶん不確かな話だな」

ミルカは資料を広げている。

「でも、転移ゲートの資料と、船が消える海域が重なってる」

「人魚と?」

「人魚と、深海拠点と、消える船。どれも不確か。でも、重なっている場所は同じ」

エナが少し不安そうに聞いた。

「人魚、本当にいるんでしょうか」

ガルドは真面目に考えた。

「いたとして、どう頼むんだ」

ロアンは腕を組む。

人魚。

海底の門。

勇者文献。

言葉だけなら、絵本の中の話みたいだった。

けれど、これまでにもそういうことはあった。

国境洞窟の時、必要だったのは強い剣ではなく、反対側へ知らせることだった。

転移ゲートの時、必要だったのは自分たちで全て壊すことではなく、できる人たちへ情報を届けることだった。

なら、今回も同じかもしれない。

ロアンは資料を畳んだ。

「まず、漁村で聞こう。海のことは、海の人に聞く」

ミルカは頷く。

「伝承より、現地の話ね」

エナも静かに頷いた。

「はい」

ガルドは少し考えてから言う。

「人魚がいるかどうかも、漁師なら知ってるか」

「たぶん」

ロアンは答えた。

「少なくとも、俺たちよりは知ってる」

そうして、灰の一団は海へ向かった。

海から離れるほど

海沿いの漁村に着いた時、まず匂いが変わった。

潮の匂い。

干された網の匂い。

魚を焼く匂い。

濡れた木の匂い。

浜辺では、男たちが船底を修理していた。

女たちは貝を選別し、網を直している。

子どもたちは波打ち際を走り、年寄りたちは日陰から海を見ていた。

ロアンは少し足を止める。

「海だ」

ガルドもうなずく。

「広いな」

エナは波の音を聞いている。

「ずっと動いていますね」

ミルカは風を見る。

「潮が混ざると、風の読み方も変わる」

村長は日に焼けた老人だった。

ロアンたちが人魚について尋ねると、老人は怪訝そうな顔をした。

「人魚?」

「はい。古い文献に、人魚の導きで海底の門が開いたと」

村長はしばらくロアンを見た。

それから、近くにいた漁師に目を向ける。

漁師は肩をすくめた。

「人魚? 知らんな」

別の漁師が言う。

「内陸の連中が好きそうな話だ」

網を干していた女も笑った。

「海に長くいるが、そんなもん見たことはないよ」

ロアンは少し困った。

「人魚、いないのか」

ミルカが低く言う。

「少なくとも、この村では信じられていないみたい」

村の老婆が言った。

「歌に出てくることはあるよ。でも、あれは子どもを海に近づけすぎないための話だろう」

エナは首を傾げる。

「怖い話なんですか」

「海は怖いからね。きれいな声が聞こえても、近づくなってことさ」

ガルドは真面目に言う。

「人魚はいないのに、歌にはいるのか」

老婆は笑った。

「歌には何でも出るよ。魚もしゃべるし、岩も怒る」

漁村で聞ける人魚の話は、驚くほど少なかった。

人魚を見た者はいない。

信じている者もほとんどいない。

あるのは、子ども向けの歌や、内陸から来た商人が喜びそうな話だけだった。

ところが、少し内陸へ行くと話が変わった。

街道沿いの小さな集落では、人魚の話はずっと華やかになった。

「昔、勇者を人魚が海底へ導いた」

「銀の髪の女が波間に消えた」

「人魚が歌って、海の門が開いた」

「選ばれた者だけが、深い海へ入れる」

海から離れるほど、人魚は美しくなった。

歌声は澄み、髪は銀になり、腕は白く、波は光る。

ミルカは集落を出てから言った。

「海から離れるほど、人魚が増える」

ロアンも頷く。

「なら、漁村の話の方が正確かもしれない」

エナは少し考えた。

「近い人ほど、話が地味ですね」

ガルドが言う。

「地味な方が本当っぽい」

ミルカは少しだけ笑った。

「そういう時はある」

ロアンは海の方を見た。

文献に書かれた人魚。

内陸で語られる人魚。

漁村で笑われる人魚。

どれが本当か。

たぶん、どれも完全には本当ではない。

けれど、何か元になったものがある。

ロアンたちは漁村へ戻った。

本当に聞くべき相手は、海から離れた語り部ではない。

海を見て、海で働き、海で戻ってくる人たちだ。

白い岩の下

夕方、浜辺で古い歌が聞こえた。

歌っていたのは、網を直している老婆だった。

声は高くない。

美しく響かせようとしているわけでもない。

手を動かしながら、一定の調子で口ずさんでいる。

ロアンたちは足を止めた。

人魚の歌ではなかった。

網を引く時の作業唄。

潮の流れ、岩場、危険な渦、潜る時間を覚えるための歌だった。

ミルカが耳を澄ませる。

「白い岩、って言った?」

老婆は手を止めずに答えた。

「言ったね」

ロアンが聞く。

「その歌、人魚の歌ですか」

老婆は鼻で笑った。

「そう歌う者もいる。だが、私の祖母は、人魚じゃなくて“白い岩の下で息を数えた女”の話だと言っていたよ。歌にすると、人魚の方が聞こえがいいんだろうね」

エナが小さく繰り返す。

「白い岩の下で、息を数えた女」

ガルドが言う。

「人魚じゃないな」

老婆は網を引き寄せる。

「人間だよ。たぶんね」

ロアンは身を乗り出した。

「息を数えた女って、何ですか」

「潜る時は、息の数を間違えると戻れない。白い岩の下に手を入れるなら、なおさらだ」

ミルカの目が細くなる。

「白い岩の下に、何かあるんですか」

老婆は肩をすくめた。

「私は潜らないからね。ただ、昔の女たちは知っていたらしいよ。潮が弱い朝だけ、白い岩の下に触れる場所があるって」

エナが言う。

「この歌、道案内みたいです」

ガルドもうなずく。

「でも、海の中の道だな」

老婆は少しだけ笑った。

「道っていうより、戻り方だよ。海の中で大事なのは、行き方より戻り方だ」

その言葉に、ロアンは反応した。

戻り方。

海の中でも、それは同じなのか。

ロアンは老婆に、もう一度歌を聞かせてもらった。

ミルカは歌詞を書き取る。

エナは節を覚えようと、小さく口の中で繰り返す。

ガルドは海を見る。

白い岩。

息の数。

潮が弱い朝。

それらは、文献の中の人魚よりもずっと地味だった。

けれど、ずっと確かに見えた。

海女たち

翌朝、ロアンたちは村の女たちが海へ入るのを見た。

彼女たちは貝や海藻を採るために潜る。

船からではなく、岩場から海に入り、潮の流れを見て、短い時間で潜って戻る。

村では当たり前の技術らしい。

だが、ロアンたちから見れば、信じられないものだった。

息を止める。

冷たい水に潜る。

岩場の下へ手を入れる。

視界の悪い海底で作業する。

そして、何事もなかったように戻ってくる。

ガルドが言った。

「人間は、海の中でも動けるんだな」

ミルカが答える。

「全員じゃないと思う」

若い海女が笑った。

「私らは人魚じゃないよ。息も切れるし、足もつる」

年配の海女も言う。

「潜れる時間は短い。だから、時間を数える。潮を見る。無理はしない」

ロアンは海女たちを見た。

文献を書いた者が、これを見たらどう思うだろう。

白い肌で水から上がる女。

息を止めて海底へ潜る女。

暗い岩場を手探りで進む女。

海を知らない者なら、人魚と書いたかもしれない。

ミルカが言う。

「人魚じゃなくて、潜れる人間だったのかもしれない」

ロアンは頷いた。

「文献を書いた人が、海を知らなかったなら、そう見えたのかも」

年配の海女が腕を組む。

「人魚かどうかは知らないけど、海の底に古い石組みがあるのは知ってる」

ロアンたちは一斉に反応した。

「石組み?」

「ある。白い岩の近く。普段は潮が悪くて近づけない。けど、年に何度か、流れが弱くなる時がある。その時だけ、白い岩の下に手が入る」

ミルカが聞く。

「手を入れる?」

「奥に、押せる石がある」

ロアンは息を呑んだ。

人魚の導き。

海底の門。

その正体が、少しずつ形を持ち始める。

「押したことがあるんですか」

ロアンが聞くと、年配の海女は少し気まずそうに目を逸らした。

「子どもの頃にね」

「なぜ押したんですか」

「度胸試しだよ。ひどく怒られた」

ガルドが感心したように言う。

「海の底で度胸試しか」

ミルカが呟く。

「危なすぎる」

海女は笑った。

「だから怒られたんだ」

エナは海を見た。

波は穏やかに見える。

でも、そこには戻れなくなる危険がある。

人魚はいなかった。

でも、海を知る人間がいた。

そして、その人間だけが押せる石があった。

潜る朝

ミルカは資料を並べた。

押収資料。

古い勇者文献。

漁村の歌。

海女の口伝。

船が消えた海域の記録。

それらを机の上に広げる。

「これ、入口を開くための仕掛けかもしれない」

ロアンが言う。

「海底にあるから、普通の兵士じゃ押せない」

ガルドが真面目に言った。

「鎧を着て潜ったら沈むな」

エナが答える。

「沈むだけならまだしも、戻れません」

ミルカは年配の海女を見る。

「押せますか」

海女はすぐには答えなかった。

村長も黙っている。

村の者たちも、浜辺に集まり始めていた。

海女は海の方を見た。

「押したことはある。だが、あれを押すと潮が変わる。昔、押すなと言われていた」

「今回は、押す必要があります」

ロアンは言った。

「たぶん、その先に魔王軍の拠点があります」

村長が顔をしかめる。

「海の下に、魔王軍か」

「確かではありません。でも、船が消える海域と、資料が重なっています」

ミルカが補足する。

「入口が開けば、海上部隊と潜入班が動けます。開かなければ、場所すら分からない」

年配の海女は黙っていた。

若い海女が一歩出る。

「私が潜る」

年配の海女が睨む。

「簡単に言うんじゃない」

「でも、私が一番深く潜れる」

「深く潜れることと、戻れることは違う」

老婆の歌を思い出して、ロアンはその言葉を聞いた。

行けることと、戻れることは違う。

それは海でも同じだ。

エナが海を見つめていた。

「潜る時間、少し遅らせた方がいい気がします」

若い海女が振り返る。

「今じゃなくて?」

エナは少し自信なさげに頷く。

「はい。まだ、海の下が落ち着いていない感じがします」

年配の海女は空と海を見た。

「確かに、まだ流れが残ってる。若いの、焦るな」

若い海女は少し唇を尖らせたが、逆らわなかった。

ミルカが言う。

「私は潮の流れを少しだけ読む。動かすんじゃなくて、乱れを知らせる」

ガルドは岩場を見る。

「海の中では斬れん。岩場に上がってきたやつを止める」

ロアンは役割を整理した。

「海女さんが潜る。俺たちは、潜るまでと戻るまでを守る」

エナも頷く。

「戻ってきたら、すぐに体を温めます。呼吸も見ます」

年配の海女は若い海女を見る。

「息を数えろ。歌の通りに。見栄を張るな」

若い海女は頷いた。

「分かってる」

「分かってるやつが一番危ない」

ガルドが小さく言った。

「師範みたいだな」

ロアンは少し笑いそうになったが、やめた。

夜明け前。

潮が弱まる時間。

白い岩の近くに、小舟が出された。

村の者たちが縄を持つ。

ロアンは合図を見る。

ミルカは水面の流れを見ている。

エナは布と薬草を用意している。

ガルドは岩場に立ち、剣に手を添えた。

若い海女が海へ入る。

水音が小さく響く。

彼女は一度だけ深く息を吸い、潜った。

長い沈黙。

水面だけが揺れている。

ミルカが低く言った。

「流れが変わる」

ロアンは縄を握る。

「まだ?」

年配の海女が言う。

「まだ引くな。あの子なら、もう一息いける」

エナの表情が変わった。

「今です」

その直後、縄が強く引かれた。

海底の石が押された。

沖合で、低い音が鳴る。

海が一瞬、息を吸ったように沈んだ。

そして、白い岩の向こうに渦が生まれた。

水面が丸く落ち込み、暗い道が見えた気がした。

海底の門が開いた。

「引け!」

年配の海女が叫ぶ。

村人たちが縄を引く。

若い海女が水面に浮かび上がった。

顔色が悪い。

息が荒い。

ロアンも縄を掴み、引いた。

その時、岩場の隙間から小型の海魔が這い上がってきた。

ガルドが踏み込み、一太刀で斬る。

さらにもう一匹。

ロアンが前に出て止め、ガルドが切り払う。

ミルカは風を小さく回し、濡れた海女の体から冷えすぎないよう水気を散らす。

エナが海女の呼吸を確認した。

「息、あります。体を温めてください」

村の女たちが布で海女を包む。

ロアンは沖を見る。

渦はまだある。

白い岩の向こうに、隠れていた潮の道が開いている。

「開いた」

ロアンが言った。

年配の海女は海を見て、ぽつりと呟く。

「昔の歌は、本当だったんだな」

人魚はいなかった。

けれど、歌は嘘ではなかった。

海底の門

海底の門が開いたことで、隠されていた潮の道が現れた。

通常の船では入れない。

大きな軍船も通れない。

だが、小型船と潜入部隊なら進める。

各国の海上部隊。

沿岸兵。

潜入班。

漁村の船乗り。

治療師。

魔術師。

それぞれが動き出した。

灰の一団は、入口を開いた。

だが、深海拠点を単独で攻略するわけではない。

ロアンは海図を見て、撤退用の目印を確認する。

「戻る時の灯りは?」

船乗りが答える。

「白い布を張った小舟を三つ。風が変わったら位置をずらす」

「夜になったら?」

「火は使いすぎると魔物を寄せる。小さく、低く」

ミルカは拠点入口周辺の魔法陣を観察し、危険な符号を伝える。

「この符号、警報かもしれない。触らない方がいい」

魔術師が頷く。

「迂回できるか」

「潮が引く瞬間なら」

エナは戻ってきた負傷者を手当てした。

海での怪我は、陸と違った。

冷え。

塩水。

息切れ。

切り傷。

打撲。

水を飲んだ者。

彼女は医療班と一緒に、順番を決める。

「この人は先に温めてください。こちらの人は意識がはっきりしています。少し待てます」

ガルドは岩場に立ち、海から上がってくる魔物を止めた。

「こっちへ上げるな」

海上部隊の兵が叫ぶ。

「了解!」

戦いは海の中と岩場で続いた。

灰の一団だけでは、深海拠点に入ることすらできなかった。

海女たちの口伝がなければ、門は開かなかった。

漁村の船がなければ、潜入部隊は近づけなかった。

海を知る兵がいなければ、潮の道を渡れなかった。

ロアンはそれを見ていた。

「俺たちだけじゃ、絶対に無理だったな」

ミルカが答える。

「だから、聞きに来た」

エナも言った。

「海のことは、海の人が一番知っていました」

ガルドが頷く。

「人魚はいなかったが、海に強い人間はいた」

それが答えだった。

人魚の導きとは、海を知る者たちのことだった。

息を数え、白い岩を探し、潮が弱い朝を待ち、海底の石に触れる者たち。

文献の中では、人魚になった。

けれど実際には、人間だった。

息も切れる。

体も冷える。

足もつる。

それでも、海を知っている人間だった。

人魚はいなかった

深海拠点は落ちた。

完全に消えたわけではない。

残骸も、逃げた魔物も、まだ残っている。

けれど、魔王軍の海路補給は大きく乱れた。

南の大陸へ向かう航路も、一部開かれた。

海上部隊の隊長が言った。

「これで南へ船を出せる」

ロアンは海を見た。

波はまだ荒い。

空も明るくはない。

それでも、道は開いた。

漁村では、若い海女が英雄扱いされそうになっていた。

本人は非常に嫌がっていた。

「潜っただけだよ」

村の者たちは笑う。

年配の海女は腕を組んで言った。

「潜っただけで済むなら、誰でも潜る」

若い海女は黙った。

ロアンは彼女に言った。

「その潜っただけが、俺たちにはできませんでした」

海女は少し照れた顔をする。

「なら、そういうことにしておく」

ガルドが真面目に言った。

「俺も潜れない」

ミルカが答える。

「鎧なしでも危ない」

「剣が錆びる」

「そこ?」

エナは若い海女へ温かい飲み物を渡した。

「まだ冷えています。今日は休んでください」

「休むよ。さすがにね」

海女は湯気の立つ杯を受け取った。

ロアンは浜辺を見た。

干された網。

傷だらけの船。

潮を読む目。

歌。

息の数。

白い岩。

人魚はいなかった。

けれど、何もなかったわけではない。

むしろ、本当に必要なものはそこにあった。

現地で生きてきた人たちの技術。

口伝。

度胸。

戻るための知恵。

勇者文献は、それを人魚と書いた。

たぶん、書いた者は海を知らなかった。

あるいは、海を知る女たちを見て、それ以外の言葉を持たなかった。

でも、ロアンたちは知った。

人魚はいない。

いたのは、海を知る人間だった。

そして、その人間が門を開いた。

南へ向かう船

深海拠点攻略の後、各国の混成部隊が南の大陸へ向かうことになった。

灰の一団も、その船に乗る。

船は大きかった。

だが、安心できるほど大きくはない。

兵士。

神官。

治療師。

船員。

工兵。

商人。

連絡役。

荷。

水樽。

薬箱。

予備の帆。

いろいろなものが詰め込まれている。

海は穏やかではなかった。

エナは少し船酔い気味だった。

ロアンが心配そうに聞く。

「大丈夫?」

「大丈夫です。たぶん」

ミルカが薬草袋を見る。

「船酔いの薬、先に飲んで」

「はい」

ガルドは甲板で剣を抜こうとして、船員に止められていた。

「ここで振るな!」

ガルドは真面目に答える。

「船でも剣は振れるのか、試そうとした」

船員は顔をしかめる。

「試すな!」

ミルカが遠くから言う。

「振らないで」

ガルドは剣を戻した。

「船では駄目か」

ロアンは船員から航路の話を聞いていた。

潮。

風。

浅瀬。

岩礁。

消えた船の記録。

海の道は、陸の道より見えにくい。

けれど、確かに道だった。

この船には、中央神殿から派遣された一人の女性も乗っていた。

白い旅装。

目立たない護衛。

穏やかな声。

彼女は自分を、神殿の記録係だと名乗った。

エナは最初、その女性を普通の神殿関係者だと思った。

ただ、少しだけ不思議な感じがした。

穏やかなのに、遠くを見ているような目をしている。

疲れているのではない。

けれど、何かを見すぎた人のようだった。

悪い予感

その夜、エナは眠れずに甲板へ出た。

海は暗い。

船の側面を波が叩く音がする。

空には雲があり、星は少なかった。

エナは胸元を押さえた。

悪い予感がしていた。

はっきりしたものではない。

船が沈むとか、誰かが死ぬとか、そういう明確なものではない。

ただ、胸の奥が冷える。

進む先に、何かがある気がする。

そこへ、白い旅装の女性が来た。

「眠れませんか」

エナは少し驚いた。

「少しだけ」

女性は海を見る。

「悪い予感がしますか」

エナはさらに驚いた。

「どうして」

女性は微笑む。

「そういう顔をしていました」

エナは迷った。

それから、小さく言う。

「私は、時々、だめな気がすることがあるんです」

「だめな気」

「はい。見えているわけではないんです。ただ、今そっちへ行ったらだめとか、この人を後にしたらだめとか。そういう感じで」

女性は静かに聞いていた。

「それで、助けられた人はいますか」

エナは少し考える。

国境の道。

森。

橋。

怪我人。

海女が潜る時。

いくつかの顔が浮かんだ。

「たぶん、います」

女性は頷いた。

「なら、それでよいのです」

エナは女性を見る。

「それで、いいんですか」

「ええ」

女性は海へ目を向けたまま言った。

「未来は、石に刻まれているものではありません」

エナは首をかしげる。

「未来?」

「人は時々、これから起きそうなことの影を見ることがあります。それは確定したものではありません。もっとも起こりやすいものが、少しだけ見えるだけ」

エナは黙った。

女性の言葉は、不思議だった。

けれど、どこかで分かる気がした。

悪い予感は、決まった未来ではない。

止まれば変わる。

声をかければ変わる。

道を少し変えれば変わる。

女性は続けた。

「手が届く範囲なら、変えられます。誰かの袖を引く。道を変える。少し待つ。声をかける。それだけで、未来は変わります」

エナは小さく言う。

「だから、私は悪い予感がすると止めたくなるんでしょうか」

「そうかもしれません」

「でも、もっと遠くが見えたら?」

女性はしばらく黙った。

風が、二人の間を抜ける。

それから女性は言った。

「見ない方がいい」

エナは女性を見る。

その顔は穏やかだった。

でも、目だけが少し疲れていた。

「手の届かないところまで見えてしまったら、人は壊れます。助けられないものを見続けることになるから」

エナは息を呑んだ。

女性はやさしく言う。

「だから、自分の周りだけを見なさい」

手の届く範囲

エナは、手すりを握った。

自分の力を、初めて少しだけ理解した気がした。

これまでは、ただの勘だと思っていた。

悪い予感。

なんとなく。

今はだめ。

そちらへ行かない方がいい。

この人を後にしてはいけない。

それ以上の言葉はなかった。

でも、それでよかったのかもしれない。

女性は言う。

「あなたの力は、世界を背負うためのものではありません」

エナは小さく言った。

「でも、困っている人がいたら」

「手が届くなら、手を伸ばせばよいのです」

「届かなかったら?」

女性は海を見つめた。

「届く場所まで行ける人に伝えなさい。あなた一人が全部を見る必要はありません」

エナは灰の一団のことを思った。

ロアンが道を見る。

ミルカが条件を決める。

ガルドが前に立つ。

自分が嫌な感じに気づく。

誰かが全部をする必要はない。

「私は、悪い予感のままでいいんでしょうか」

女性はうなずいた。

「ええ。そのくらいが、きっとあなたを守ります」

エナは少しだけ安心した。

名前を付けなくていい。

大きくしなくていい。

世界全部を見なくていい。

手の届く範囲。

袖を引ける距離。

声をかけられる場所。

そこで止めればいい。

エナは女性に尋ねた。

「あなたも、そういうことが分かるんですか」

女性は少し微笑む。

「少しだけ」

「神殿の記録係さん、ですよね」

「今は、そういうことにしておいてください」

エナは不思議そうにした。

けれど、それ以上は聞かなかった。

女性は去り際に言った。

「悪い予感がした時は、怖がっていいのです。怖がることは、逃げることではありません。変えるために立ち止まることです」

エナはその言葉を胸に残した。

怖がっていい。

立ち止まっていい。

変えるために。

女性は静かに船室へ戻っていった。

その背中は、普通の記録係には見えなかった。

でも、エナはその人が何者なのか、まだ知らなかった。

知らないままでよかった。

今は、その言葉だけで十分だった。

南の大陸

翌朝、船は霧の中を進んでいた。

南の大陸が近い。

船員たちは忙しく動いている。

船長は予定通り進もうとしていた。

エナは甲板に出て、海霧を見た。

胸の奥が、少し冷えた。

昨日よりはっきりしている。

「少し、右に寄った方がいい気がします」

ロアンはすぐに聞いた。

「どのくらい?」

船員が困った顔をする。

「この霧で進路を変えるのは危ないぞ」

ミルカが風を見る。

「右に寄ると、流れは少し安定するかも」

ガルドが言う。

「なら寄ろう」

船長は渋った。

だが、深海拠点攻略で灰の一団の判断を見ている。

少しだけ針路をずらした。

しばらくして、霧の中に黒い影が浮かんだ。

沈みかけた残骸だった。

木材と岩が絡み、海面のすぐ下に隠れている。

そのまま進んでいれば、船底を傷めていた。

船長が息を吐く。

「助かった」

エナは小さく言った。

「手の届く範囲なら、変えられる」

ロアンが聞く。

「何か言った?」

エナは首を振る。

「少しだけ、分かった気がしたんです」

船は南の大陸へ着いた。

港は荒れていた。

交易は細っている。

倉庫の一部は壊れ、桟橋には修理の跡がある。

遠くには黒い山影。

内陸には深い森。

空には魔物の影が見えた。

南の大陸は、これまでの土地よりも魔王軍の気配が濃かった。

海上部隊の隊長が言う。

「ここから先は、陸の戦いだ」

ミルカは地図を広げる。

「次の候補は、深森拠点」

ロアンが聞く。

「導きの石、だったか」

エナは森の方を見る。

胸の奥に、また小さな冷たさがある。

でも、今はそれに怯えすぎなくていいと思えた。

「森の奥、嫌な感じがします」

ガルドは剣を確認した。

「なら、ゆっくり行こう」

ロアンは頷く。

「まず、現地で聞く。森を知っている人に」

人魚はいなかった。

けれど、海を知る人たちがいた。

なら、森にもいるはずだ。

森を知る人たちが。

灰の一団は、南の大陸へ足を踏み出した。

次の土地が、彼らを待っていた。

人魚はいなかった

人魚はいなかった。

少なくとも、ロアンたちが訪ねた漁村にはいなかった。

海辺の者たちは、人魚の話をほとんど信じていなかった。

むしろ、海から離れた土地ほど、人魚は美しく語られていた。

銀の髪。

波間の歌。

勇者を導く白い腕。

だが、海辺にあったのは、干された網と、傷だらけの船と、潮を読む目だった。

そして、海に潜る女たちがいた。

息を止め、暗い岩場へ潜り、手探りで海底の石を探す者たちがいた。

彼女たちは人魚ではなかった。

息も切れた。

体も冷えた。

足もつった。

それでも海を知っていた。

だから、海底の門は開いた。

深海拠点は落ちた。

灰の一団だけで成したことではない。

海女が潜った。

漁師が船を出した。

海上部隊が突入した。

治療師が負傷者を運んだ。

魔術師が潮の乱れを読んだ。

ロアンたちは、その間をつないだ。

そして船は南へ向かった。

その船の上で、エナは一人の女性と話した。

その人が何者なのか、エナは知らない。

ただ、その言葉だけが残った。

手の届く範囲だけを見なさい。

未来は、決まったものではない。

届く場所なら、変えられる。

届かない場所まで見ようとすれば、人は壊れる。

エナはまだ、自分の力に名前を付けなかった。

悪い予感。

それでよかった。

そのくらいの言葉で持っていられる力もある。

南の大陸が近づいていた。

森が見えた。

次の土地が、彼らを待っていた。


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