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居心地のいい檻
王都での生活は、悪くなかった。
むしろ、旅の途中から見れば、かなり良かった。
朝になれば食事が出る。
眠る場所がある。
雨漏りもしない。
薬草は補充される。
包帯もある。
ロアンの剣も、ガルドの剣も、王国の武具係が見てくれる。
ミルカは魔術院や魔法学院の資料を読める。
エナは医療施設で手伝いながら、知らない薬や手当ての仕方を学べる。
ガルドは兵士たちと稽古ができる。
ロアンには、各地の地図と報告書が渡される。
灰の一団は、厚遇されていた。
アークガルム王国第八傭兵団第三遊撃部隊。
通称、灰の一団。
その長い名前にも、少しずつ慣れてきていた。
慣れてきてしまっていた。
ロアンは宿舎の机に広げた地図を見ながら言った。
「居心地はいいんだよな」
ミルカは窓の外を見ている。
王都の通りは整っていて、兵士の巡回も多い。
危険は少ない。
少なくとも、街道の野営よりはずっと安全だった。
「居心地がいい檻もある」
ミルカが言った。
エナが小さく聞く。
「檻、なんですか」
ミルカは少し迷った。
それから答える。
「扉が開いていても、出られないなら檻」
ガルドが壁際で剣を拭きながら言った。
「なら壊すか」
ミルカは即座に返す。
「壊さない」
「そうか」
「そう」
ロアンは苦笑した。
「今回は、そういう問題じゃないと思う」
「門は開いている」
ガルドは言う。
「兵士も斬らなくていい。なら、歩いて出ればいい」
「それをやると、たぶん脱走扱いになる」
ロアンが言うと、ガルドは少し考えた。
「面倒だな」
「面倒なんです」
エナは地図の端を見ていた。
そこには、転移ゲート候補地がいくつか記されている。
王国内だけではない。
国境の向こうにも、印がある。
「外の土地にも、困っている人はいますよね」
「いると思う」
ロアンは答えた。
「でも、出られない」
「出してもらえない、ね」
ミルカが訂正する。
ロアンは地図に目を落とす。
王都の門はある。
街道もある。
道は続いている。
けれど、その道へ足を踏み出す許可がない。
任務が未定。
会議中。
書類待ち。
調整中。
その言葉が、見えない柵になっていた。
ミルカは机の上の別の紙を見る。
魔法学院から戻って以来、彼女は少し口数が減っていた。
中央の魔法は派手だった。
火は大きく、風は広く、水は流れ、土は高く盛り上がった。
それに比べて、ミルカの魔法は小さい。
小さいのに、的を貫いた。
石を弾いた。
風を一点に集めた。
土を必要な角度だけ跳ね上げた。
自分が教わったものは、本当にただの基礎だったのか。
師匠はいったい何者だったのか。
その問いも、彼女の中でずっと残っていた。
ロアンはふと尋ねる。
「ミルカ、まだ気になってる?」
「何が」
「先生のこと」
ミルカは少し黙る。
「気になってる」
「会えたらいいな」
「うん」
短い返事だった。
だが、その声はいつものミルカより少しだけ揺れていた。
王都は安全だった。
でも、進めない。
知りたいこともある。
届けなければならないものもある。
行くべき場所がある。
それなのに、灰の一団は王都にいた。
道は、窓の外にあるだけだった。
道に出てこそ
同じ頃、セリアン参事官は王城の資料室にいた。
窓の少ない部屋だった。
机の上には、転移ゲートに関する資料が広がっている。
西側拠点から押収された保守記録。
王国内の確定ゲート位置。
他国側の推定ゲート位置。
安定石と副石の構造。
起動周期。
保守記録を燃やす必要性。
同時破壊の推奨時刻。
各国へ渡すべき最低限の情報。
王国が伏せたがっている調査網の情報。
セリアンは、その全てを何度も読み返していた。
王国だけが自国領内のゲートを潰しても、意味は薄い。
他国領のゲートが残れば、魔王軍はそこから再展開する。
一つずつ潰せば、魔王軍は残りを閉じるか、守りを固める。
時間をかければ、ゲート網を組み替えられるかもしれない。
やるなら、同時に。
各国が、それぞれの場所で。
そのためには、知らせなければならない。
だが、王国上層部は迷っていた。
情報を渡すべきか。
調査網を隠すべきか。
自国の手柄を優先するべきか。
灰の一団を外へ出すべきか。
会議は続いていた。
結論は出ない。
結論が出ない間に、魔王軍は動く。
セリアンは地図の上に置かれた石を見た。
赤。
黒。
白。
青。
確定。
魔力痕。
推定。
証言のみ。
どれも、紙の上では小さな点にすぎない。
だが、その点の下には土地がある。
村がある。
街道がある。
神殿がある。
人がいる。
彼は静かに息を吐いた。
正規軍は国境を越えられない。
密偵は信用されにくい。
商人は情報の重さに耐えられない。
だが、灰の一団なら違う。
彼らは軍ではない。
それでいて、王国の正式な通行手形を持たせられる。
各地で人助けの噂があり、完全な密偵より警戒されにくい。
危険な道へ行き、戻ってくる力がある。
現地の人間に話を聞く力がある。
道を探し、橋を守り、荷を通し、怪我人を戻すことを知っている。
セリアンは小さく言った。
「彼らは、道に出てこそ意味がある」
その言葉は、誰に聞かせるものでもなかった。
けれど、言葉にしてしまえば、もう戻れなかった。
彼は机の引き出しを開ける。
そこには、まだ正式に出されていない通行手形の束があった。
王国の照合印。
辺境巡回任務書。
各国へ宛てた密書。
そして、北方の魔術顧問へ宛てた封書。
セリアンはそれらを一つずつ確認した。
全てを王の承認で出すことはできない。
高官会議は止まっている。
だが、止まれば失われるものがある。
彼は決めた。
灰の一団を、出す。
半分は
その夜、ロアンたちは王城の旧礼拝堂へ呼び出された。
使われなくなった小部屋だった。
壁には古い燭台があり、床には薄く埃が積もっている。
表向きの呼び出しではないことは、すぐに分かった。
ロアンは扉の前で足を止める。
「罠かな」
ミルカが周囲を見る。
「罠にしては、案内が丁寧」
ガルドが言う。
「罠なら斬ればいい」
「だから斬らないで」
エナが小声で言った。
「嫌な感じは、あまりしません」
ロアンは頷いて扉を開けた。
中にいたのは、セリアン参事官だった。
彼はいつものような整った礼をしなかった。
ただ、机の上に置いた封書の束を指で押さえている。
「来ていただき、ありがとうございます」
ロアンは慎重に聞いた。
「何の話ですか」
セリアンは余計な前置きをしなかった。
「君たちを、この国から出します」
ロアンは目を丸くした。
「出せるんですか」
「正確には、出たことにできる」
ミルカの目が鋭くなる。
「合法ですか」
セリアンは少しだけ間を置いた。
「半分は」
ガルドが聞く。
「もう半分は?」
セリアンは静かに言った。
「私の首が飛ぶかもしれない」
エナが慌てる。
「それは駄目なのでは」
「駄目です。だから今夜、正式な会議室ではなく、ここで話しています」
ロアンは机の上の封書を見る。
束がいくつもある。
どれにも封蝋が押されている。
王国の印。
軍務局の印。
諜報局の照合印。
神殿系の紹介印。
それぞれ違う。
ミルカは一歩近づいた。
「説明をお願いします」
セリアンは頷く。
「表向きの任務は、アークガルム王国第八傭兵団第三遊撃部隊による辺境巡回です。王国西部から北方、さらに国境付近の魔王軍残党を確認する任務」
ロアンは聞く。
「それで、国境を越えられるんですか」
「越えられるようにしてあります。魔王軍残党が国境を越えている可能性の調査、という名目で、複数の国境通過許可を付けました」
ミルカが言う。
「本当の任務は?」
セリアンは封書の束を示す。
「各国へ密書を届けることです」
エナが息をのむ。
ガルドは腕を組む。
セリアンは続けた。
「密書には、転移ゲート同時破壊に必要な最低限の情報が入っています。確認済み、推定、それぞれのゲート候補地。安定石の探し方。副石の処理。保守記録の焼却。破壊推奨時刻。失敗時の撤退条件。王国側の照合印。そして、各国が独自に確認すべき地点」
ロアンは思わず聞いた。
「俺たちが壊すんですか」
セリアンは首を振る。
「いいえ。壊すのは各国の部隊です。君たちがやるべきことは、届けることです」
ミルカが封書を見る。
「情報を届けるだけで、各国は動きますか」
「動くように、押収資料の写しと照合印を入れています。疑う国もあるでしょう。だが、確認すれば分かる。すでに各国にも、不審な魔力痕や魔物の移動記録はあるはずです」
エナが聞く。
「間に合いますか」
セリアンは少し黙った。
その沈黙が、答えの重さだった。
「間に合わせるために、君たちを出します」
部屋の空気が重くなる。
これは、王国上層部の正式な命令ではない。
受ければ、王国の意向に反するかもしれない。
だが、受けなければ、転移ゲート網は残る。
魔王軍はまた各地へ現れる。
ロアンは封書を見た。
「これ、俺たちが勝手に出たことになりますか」
「書類上は、任務で出たことになります」
ミルカが聞く。
「でも、上層部が後から否認する可能性は?」
「あります」
ガルドが言う。
「なら、危ないな」
セリアンはうなずく。
「危険です。だから断ってもいい」
エナは密書を見た。
「断ったら、困る人が増えますか」
セリアンは答えなかった。
答えないことが答えだった。
ロアンは深く息を吐いた。
この王都は安全だ。
食事も寝床もある。
剣も直る。
薬もある。
けれど、その間にも、他の土地では魔物が出る。
転移ゲートが動く。
誰かが道を失う。
誰かが戻れなくなる。
ロアンは言った。
「分かりました。届けます」
ミルカがロアンを見る。
「決めるの早くない?」
「遅くしたら、もっと出られなくなる気がする」
ガルドは頷いた。
「なら行こう」
エナも言う。
「行きましょう」
ミルカはため息をついた。
「……行くなら、密書の分け方と失敗時の処理を決める」
セリアンが少しだけ笑う。
「頼もしいですね」
「頼もしいというより、必要です」
ミルカは机の上の封書を見た。
「一つの袋に全部入れるのは駄目。国ごとに分けます。写しと要約も分ける。全体地図は持たない。敵に取られた時、全部が漏れる」
セリアンは驚いたように瞬きした。
「そこまで考えますか」
「捕まらない前提だけで動くと危ない」
ガルドが普通に言う。
「捕まる前提なのか」
「捕まらないために考えるの」
ロアンがうなずく。
「戻る条件と同じだな」
エナは小さく言った。
「失敗した時のことを考えておくんですね」
ミルカは頷く。
「失敗した後に考えると遅いから」
それから、密書は分けられた。
ロアンは通行手形と王国印の任務書。
ミルカは転移ゲートの構造と破壊方法。
エナは医療施設宛て、神殿系の紹介状を兼ねた密書。
ガルドは軍務系の封書と、武官宛ての証明書。
誰か一人が失っても、全部は失わないように。
誰か一人が止められても、残りが進めるように。
それは、戦いではない。
だが、たしかに危険な仕事だった。
北の賢者宛て
密書の中に、一通だけ別の封書があった。
厚い紙。
古い形式の封蝋。
宛名は、北方の魔術顧問。
セリアンはそれをミルカに渡した。
「これは、できれば途中で届けてください」
ミルカは封書を受け取り、眉を寄せる。
「北方の魔術顧問?」
「今はそう呼ばれています。かつては、北の賢者と呼ばれていました」
ミルカの手が止まった。
ロアンが気づく。
「ミルカ?」
ミルカは封書の宛名を見る。
「北の、賢者……」
セリアンが静かに問う。
「心当たりが?」
ミルカは少し言葉に詰まった。
「私の師匠は、北から来た旅の魔術師でした。名前は、ちゃんと聞いていません。でも、基礎ばかり教える人で」
「王都魔法学院の報告を読みました」
セリアンは言った。
「あなたの魔法は、北方系統の古い制御理論に近いそうです」
ミルカは小さく息を吸った。
「ただの基礎じゃ、なかったんですね」
「それは、本人に聞くべきです」
ミルカは封書を見つめた。
王都の魔法学院で感じた違和感。
自分の小さな魔法が、的を貫いたこと。
火を大きくするのではなく、必要な一点を抜くこと。
水を広げるのではなく、押し通すこと。
風を騒がせるのではなく、狙った場所だけを動かすこと。
土を盛るのではなく、必要な角度へ跳ね上げること。
それは、ただの田舎仕込みではなかったのかもしれない。
師匠は、何を教えていたのか。
なぜ名乗らなかったのか。
なぜ三年も村にいたのか。
ミルカは封書を胸元にしまった。
「届けます」
その声は、さっきより少し硬かった。
ロアンはそれを聞いて、何も言わなかった。
聞きたいことがあるなら、会いに行くしかない。
それは、ロアンにも分かることだった。
門の外
翌朝未明。
灰の一団は、王都の西門へ向かった。
空はまだ暗い。
石畳は冷たく、門の上には兵士の松明が揺れている。
彼らは逃げる格好ではなかった。
王国の任務書を持っている。
通行手形もある。
灰色の外套も、堂々と羽織っている。
表向きは、辺境巡回任務。
実際は、各国へ密書を運ぶ仕事。
完全な脱走ではない。
完全な合法でもない。
その半端さが、ロアンの背中を少し冷たくした。
門番が手形を確認する。
「アークガルム王国第八傭兵団第三遊撃部隊、灰の一団。辺境巡回任務」
ロアンは緊張していた。
ミルカは平然としているように見えるが、手元では密書袋の紐を何度も確認している。
エナは深く頭を下げる。
ガルドは馬車の荷を見ている。
門番が紙を返した。
「通ってよし」
門が開く。
重い音がした。
王都の外の空気が、ゆっくり流れ込む。
ロアンは小さく息を吐いた。
「出られた」
ミルカが言う。
「まだ王国領内」
ガルドが空を見る。
「でも、外だ」
エナも空を見上げた。
「風が違う気がします」
ロアンは振り返った。
王都の高い城壁が見える。
その向こうに、食事も寝床も補給もあった。
でも、自分たちは門の外にいる。
道の上に戻った。
それだけで、足が少し軽くなる。
ミルカは地図を広げる。
「主要街道は避ける」
ロアンは頷く。
「追ってくる可能性がある?」
「セリアンさんの独断が早く知られたら」
ガルドが言う。
「山道なら足跡を消しやすい」
「馬車は使えないけどね」
エナがふと遠くの橋を見る。
「あの橋は、今日は渡らない方がいい気がします」
ミルカはすぐ地図を見る。
「迂回できる?」
ロアンが指で道を追う。
「できる。少し遠いけど」
「遠くても迂回」
ガルドは橋を見る。
「何かいるのか」
エナは首をかしげる。
「分かりません。でも、渡らない方がいい気がします」
「じゃあ渡らない」
ロアンは即答した。
数刻後、彼らが迂回した橋には、王国兵の検問が入った。
それを知ったのは、後の宿場でのことだった。
エナは少し困った顔をした。
「やっぱり、渡らなくてよかったんですね」
ミルカは頷く。
「豆より当たる」
ロアンが言う。
「橋でも当たる」
エナは真面目に考える。
「橋と森は、豆より当たるかもしれません」
ガルドが首をかしげた。
「豆は何なんだ」
ロアンは少し笑った。
「長い話です」
道に出て、追われるかもしれない危険があって、それでも四人の会話は戻ってきた。
灰の一団は、北へ向かった。
三年しか
北方の小さな宿場町に着いた時、ミルカはいつもより無口だった。
宿場は寒かった。
王都ほど大きくない。
石造りの家も少ない。
風が強く、道端の草は低い。
その町の外れに、古い薬草屋があった。
二階の小部屋に、その人はいた。
北の賢者。
ただし、ロアンが想像していたような、長い白髭の大魔術師ではなかった。
旅の魔術師のような格好をした、痩せた男だった。
年齢は分かりにくい。
若くはない。
だが、老人とも言い切れない。
目だけが妙に鋭かった。
ミルカが部屋の入口で止まる。
男は椅子に座ったまま、彼女を見た。
「大きくなったな」
ミルカの声が少し硬くなる。
「先生」
男は次にロアンを見る。
「お前もいたのか。魔力の糸を三日で投げ出した方」
ロアンは思わず言った。
「三日じゃないです。もう少しやりました」
ミルカが小声で言う。
「三日くらい」
ロアンは黙った。
エナは丁寧に頭を下げた。
ガルドは部屋の中を見回す。
本棚、薬草、古い杖、石の器、乾かした紙。
剣で斬る場所ではなかった。
「狭いな」
ミルカが言う。
「斬り合わないで」
「分かってる」
北の賢者はガルドを見て、少しだけ笑った。
「面白い連中といるな」
ミルカは封書を差し出した。
「セリアン参事官からです」
北の賢者は封を見て、表情を少し変えた。
「王都が、ようやく焦ったか」
彼は封書を開き、中身を読んだ。
転移ゲート同時破壊作戦に関する魔術的助言の依頼。
各国への照合に必要な魔力符号の確認。
安定石破壊時の逆流対策。
副石の処理。
保守記録焼却の必要性。
北の賢者は読み終えて、短く言った。
「急ぐべきだな」
ロアンが聞く。
「協力してくれますか」
「協力する。だが、私はゲートを壊しに行かん」
北の賢者は紙を畳む。
「各地の魔術師へ、壊し方を正しく伝える」
ミルカが静かに言った。
「私たちと同じですね」
「お前たちは届ける。私は読む者が間違えないようにする。それぞれ役目が違う」
その言葉に、ロアンは古い絵本を思い出した。
小さな精霊たちの話。
火だけでは足りない。
水だけでも足りない。
風も土も、一人では世界を作れない。
足りないなら、補えばいい。
できる者に届ければいい。
ミルカはしばらく黙っていた。
それから、師匠を見た。
「聞きたいことがあります」
北の賢者は目だけで続きを促した。
「私に教えたのは、普通の基礎ではなかったんですか」
「基礎だ」
ミルカは眉を寄せる。
「でも、学院の基礎とは違いました」
北の賢者は鼻で笑った。
「あれは基礎を派手に見せる練習だ」
ミルカは黙る。
「火を大きくするのは簡単だ。水を広げるのも簡単だ。風を騒がせるのも、土を盛るのもな。難しいのは、必要な量を、必要な場所に、必要な形で置くことだ」
「それを三年、やらされました」
「三年しかやらせていない」
ロアンが小声で言う。
「三年しか?」
北の賢者は気にせず続ける。
「お前は覚えが良かった。だから少し詰め込みすぎた」
ミルカが固まった。
「詰め込みすぎた?」
「魔法学校なら主席卒業程度の基礎は入れた」
部屋が静まった。
ロアンが聞き返す。
「主席卒業?」
ガルドも言う。
「それは、すごいのか」
ロアンは答える。
「たぶん、すごい」
エナはミルカを見る。
「ミルカさん、主席卒業だったんですか」
ミルカは即座に言う。
「卒業してないし、入学もしてない」
北の賢者は平然としている。
「お前が何でも吸うからだ。田舎で先入観もなかった。教える側が楽しくなった」
ミルカの目が細くなる。
「楽しくなった、で三年?」
「最初は一週間のつもりだった」
ロアンがつぶやいた。
「三年居座った理由、それですか」
北の賢者は悪びれない。
「良い弟子がいると、旅は遅れる」
ミルカは頭を抱えた。
ロアンは、少しだけ安心した。
ミルカの師匠は、やはりミルカの師匠だった。
説明が雑で、基準がおかしくて、けれど確かに何かを見ている。
北の賢者は、ミルカへ向き直った。
「派手な魔法に合わせるな」
ミルカは顔を上げる。
「中央の魔法は間違っているんですか」
「間違ってはいない。見せる魔法、威嚇する魔法、大人数に教える魔法としては意味がある」
「では、私の魔法は?」
「お前の魔法は、必要な場所を抜く魔法だ」
北の賢者は指で机を軽く叩く。
「燃やすな。流すな。散らすな。置きすぎるな。通せ」
ミルカは静かにうなずいた。
「はい」
「それと、ロアンを見ておけ」
ミルカが顔を上げる。
「ロアンを?」
「お前は強い。だが、強い魔法は使う場所を間違えるとただの穴になる。あいつは使う場所を見つけるのがうまい」
ミルカは少し考える。
「雑ですけど」
北の賢者はうなずく。
「雑だが、道を見る」
ロアンは何とも言えない顔になる。
「褒められてます?」
エナが優しく言った。
「たぶん」
ガルドも言う。
「道を見るのは大事だ」
ミルカは少しだけ笑った。
「分かります」
北の賢者は封書をしまい、別の紙を取り出した。
「各地の魔術師へ書状を書く。少し待て」
「どのくらいですか」
ミルカが聞くと、北の賢者は答えた。
「一晩」
ミルカは少し身構えた。
「一週間が三年になる人の一晩ですか」
「今回は本当に一晩だ」
ロアンは小声で言った。
「信用していいのかな」
ミルカは答える。
「半分くらい」
その夜、北の賢者は本当に一晩で書状を書いた。
ただし、朝のミルカは寝不足になった。
細かい魔力符号の確認を手伝わされたからだ。
「先生」
「何だ」
「一晩は本当でしたけど、私を寝かせる気はありましたか」
「必要な量を、必要な場所に、必要な形で置いた」
「人の睡眠にも適用してください」
ロアンは少し笑った。
ミルカは疲れていたが、その顔は王都にいた時より少し軽くなっていた。
届ける役
北の賢者の照合印を得てから、灰の一団は各国へ密書を運んだ。
すべてを細かく語れば、いくら時間があっても足りない。
雪の残る北方小国では、魔術師団が最初、王国の密書を疑った。
だが、北の賢者の照合印と魔力符号を見て、顔色を変えた。
「これは本物だ」
彼らはすぐに、自国領内の候補地を調べ始めた。
山岳都市では、道そのものが敵だった。
崖道。
崩れた石段。
風の強い尾根。
ガルドは平然と先に立ち、現地の兵士たちが息を切らしてついてくる。
推定ゲートは廃砦の裏にあった。
ガルドは地形を見て言った。
「ここなら、逃げ道は二つ必要だ」
現地の隊長はすぐに頷いた。
「一つでは足りんか」
「崩れたら戻れない」
「分かった。掘らせる」
神殿都市では、エナが紹介状を使った。
医療施設を通じて、神官戦力と防護班へ情報が渡る。
エナは破壊方法の説明より先に、負傷者の搬送路を聞いた。
「壊す人だけでは足りません。壊した後に運ぶ人も必要です」
神官たちは顔を見合わせ、それから動いた。
東方商業国では、商人ギルドが相手だった。
彼らは疑り深かった。
王国の情報をそのまま信じる気はない。
だが、ミルカが街道とゲート候補地の関係を説明し、ロアンが荷馬車の通る道を指し、商人の一人が苦い顔で言った。
「この旧街道が使えなくなれば、商売にならない」
その一言で、場が変わった。
商人たちは正義では動かない。
だが、道が壊れるなら動く。
それでよかった。
国によって理由は違った。
軍事。
商売。
医療。
街道。
自国防衛。
神殿の義務。
どれも同じではない。
けれど、それぞれの理由が重なって、同じ時刻へ向かって動き始めた。
灰の一団は、どのゲートも壊さなかった。
ただ、届けた。
疑われた。
待たされた。
遠回りした。
説明した。
時には、追われる前に道を変えた。
時には、宿場で一晩足止めされた。
時には、エナの「なんとなく」で橋を避けた。
時には、ガルドが山道で荷を持った。
時には、ミルカが封書の写しをその場で燃やした。
時には、ロアンが「ここで渡す相手ではない」と判断して、半日待った。
そうして、密書は届いていった。
ある宿場で、ロアンは地図を見ながら言った。
「俺たち、どこか一つのゲートに行った方がいいのかな」
作戦時刻が近づいていた。
各国はそれぞれ準備を進めている。
でも、灰の一団はどの破壊部隊にも属していない。
ミルカは首を振った。
「私たちが一箇所に行っても、全部は変わらない。各国がそれぞれやるしかない」
ガルドが言う。
「壊すのは任せるのか」
「任せるしかない。私たちが全部はできない」
エナは静かに言った。
「届けるのが、今回の役目だったんですね」
ロアンは頷いた。
火も水も風も土も、一人では世界を作れない。
誰かが情報を集める。
誰かが届ける。
誰かが壊す。
誰かが運ぶ。
誰かが治す。
足りないなら、補えばいい。
「うん」
ロアンは言った。
「あとは、できる人たちがやる番だ」
壊れた道
数日後。
街道の宿場に、早馬が来た。
最初の知らせは北方小国からだった。
「北の旧砦下、転移ゲート破壊。安定石破砕。保守記録焼却済み」
続いて、山岳都市。
「廃砦裏のゲート沈黙。副石処理完了。逃げ道一部崩落、負傷者あり。全員搬出済み」
神殿都市。
「地下水路近くのゲート停止。逆流小。神官防護班が対応」
東方商業国。
「旧街道ゲート焼却完了。符号石を回収。商人ギルドが通行止め解除を準備中」
そして、アークガルム王国。
「国内確認済みゲート、同時刻に破壊。二箇所成功。一箇所は推定外れ。小型ゲート一つは保守部隊逃走」
すべてではなかった。
推定地点の中には外れもあった。
壊し損ねた小型ゲートも一つある。
負傷者も出た。
失敗もあった。
けれど、主要な転移ゲート網は断たれた。
魔王軍の広域移動能力は、大きく削がれた。
宿場の人々は、その意味を完全には理解していなかった。
けれど、早馬が次々に来る異様さだけは分かった。
ロアンたちは、宿の片隅でその知らせを聞いていた。
ロアンは小さく息を吐く。
「成功したんだ」
ミルカが言う。
「私たちは壊してないけどね」
ガルドが答える。
「でも、届けた」
エナも頷く。
「届けなければ、壊せませんでした」
ロアンは静かに言った。
「なら、それでいい」
少しだけ、部屋の空気が軽くなった。
派手な勝利ではない。
自分たちが剣を振るったわけでもない。
ミルカが魔法で焼いたわけでもない。
エナが誰かを癒やして勝たせたわけでもない。
ガルドが敵将を斬ったわけでもない。
けれど、届いた。
動いた。
壊れた。
それは、確かな結果だった。
魔王軍から見れば、奇妙な出来事だっただろう。
各地のゲートが、同じ時刻に狙い撃ちされた。
誰かが裏で各国を結んだ。
だが、その誰かが誰なのかは見えない。
王なのか。
将軍なのか。
諜報組織なのか。
勇者なのか。
魔王軍には、まだ分からない。
ロアンたち自身も、自分たちがどう見られているのかを知らない。
彼らはただ、宿場で豆の煮込みを食べながら、早馬の知らせを聞いていた。
セリアンからの連絡
転移ゲート同時破壊の知らせから、さらに二日後。
灰の一団のもとへ、アークガルム王国からの連絡が届いた。
届けたのは、王国の早馬ではなかった。
街道宿を渡り歩く商人に預けられた、小さな封書だった。
封蝋はない。
だが、封の内側にだけ、セリアン参事官の細い印が押されていた。
ミルカが封を開く。
ロアン、エナ、ガルドも自然に集まった。
手紙は短かった。
まず、灰の一団が王都を出たことは、すぐに露見したらしい。
ロアンは思わず顔を上げた。
「すぐに?」
ミルカは続きを読む。
「一瞬でばれたみたい」
ガルドが首をかしげる。
「一瞬なら、隠れてないのと同じでは?」
「そうとも言う」
ロアンは頭を抱えた。
「セリアンさん、大丈夫なのか」
ミルカはさらに読み進める。
セリアンが通行手形を用意したことも、密書の一部を持ち出したことも、すぐに分かった。
ただし、それは完全な失敗ではなかった。
実は、高官の一人が事前に気づいていた。
気づいたうえで、止めなかった。
ロアンは目を瞬かせた。
「見逃したってこと?」
ミルカは頷く。
「そう書いてある」
その高官は、表立って灰の一団を出すことはできなかった。
王国として他国へ情報を渡す決定も、灰の一団を自由に動かす命令も、会議では通せなかった。
だが、何もしなければ転移ゲート網は残る。
だから、見逃した。
見逃すだけではなく、ある程度の根回しもしていた。
国境の検問が、完全な追捕命令を受け取らないように。
辺境巡回任務の書類が、すぐには無効にならないように。
王国軍の一部が、灰の一団を敵として扱わないように。
後から合流できる余地が残るように。
エナがほっと息を吐いた。
「では、セリアンさんは……」
ミルカは手紙の最後を見る。
「一週間の謹慎」
ロアンは固まった。
「一週間?」
「一週間」
ガルドが言う。
「首は飛ばなかったんだな」
「飛ばなかった」
エナは胸に手を当てた。
「よかったです」
ロアンも大きく息を吐いた。
「本当によかった」
ミルカは手紙を畳んだ。
「ただし、表向きは叱責。独断で書類を動かしたことには変わりないから」
「でも、一週間で済んだ」
「高官が見逃していたから。あと、結果が出たから」
ロアンは黙った。
結果が出なければ、違っていたかもしれない。
密書が届かず、ゲート破壊が失敗していれば、セリアンはもっと重い処分を受けたかもしれない。
灰の一団も、正式に追われていたかもしれない。
ミルカは続けた。
「それと、私たちは王国軍に合流可能。少なくとも、敵扱いはされない」
ガルドがうなずく。
「なら戻れるのか」
「戻れる。ただし、戻ったら事情聴取はされると思う」
ロアンは苦笑した。
「戻る場所があるけど、戻ったら怒られる」
ミルカが言う。
「それくらいで済むなら安い」
エナは小さく言った。
「見逃してくれた人がいたんですね」
ロアンは手紙を見た。
王国は、灰の一団を閉じ込めようとした。
けれど、王国の中にも、道を開けようとした人がいた。
セリアンだけではない。
名も知らない高官も。
手形を見て通した門番も。
止める命令を受け取らなかった国境の兵も。
全員が味方だったわけではない。
けれど、全員が壁だったわけでもない。
ロアンは言った。
「じゃあ、ちゃんと戻れるようにしよう」
ミルカが頷く。
「そのためにも、次の仕事を雑にしない」
ガルドが言う。
「次の仕事は、もう決まっているのか」
ミルカは手紙をもう一度見る。
「まだ。少なくとも、この手紙には書かれていない」
エナが少し安心したように息を吐いた。
「では、今は進むだけですね」
ロアンはもう一度、セリアンの手紙を見た。
次の土地へ行け。
そう言った人がいた。
そして、そのために道を残してくれた人もいた。
なら、進むしかない。
人魚の導き
転移ゲート網が壊れたことで、各国の空気は少し変わった。
魔王軍が突然、遠くへ兵を送る力は弱まった。
だが、それで戦いが終わるわけではない。
新しい問題が浮かび上がった。
海だった。
南方方面へ進むには、海路の確保が必要になる。
沿岸部では、魔物の出没が増えている。
近海で船が消えている。
古い海底洞窟の伝承がある。
魔王軍の補給記録には、深海拠点らしき符号が残っている。
そして、古い勇者文献には、こう書かれていた。
人魚の導き。
セリアンからの追加書状と、北の賢者経由の情報が、ロアンたちの元へ届いた。
ロアンはその一文を見て、首をかしげる。
「人魚?」
ミルカは眉をひそめた。
「文献上は、そう書かれているみたい」
エナは少し目を丸くする。
「本当にいるんでしょうか」
ガルドは真面目に言った。
「見たことはないな」
「見たことあったら驚きます」
ロアンは書状をもう一度見る。
人魚の導き。
深海拠点。
海底洞窟。
古い勇者文献。
どれも曖昧だった。
けれど、完全な作り話とも言い切れない。
国境洞窟の時も、必要だったのは強い剣ではなく、向こう側へ知らせることだった。
転移ゲートの時も、自分たちが壊したわけではない。
できる人に、必要な情報を届けただけだった。
なら、今回も同じだ。
まずは、現地で聞くべきだ。
海を知る者に。
漁を知る者に。
船を出す者に。
古い歌を覚えている者に。
潜る者に。
ロアンは言った。
「まず、漁村で話を聞こう」
ミルカが頷く。
「伝承より、現地の人の話ね」
エナが少し考えて言う。
「人魚の話も、聞けるかもしれませんし」
ガルドが聞く。
「人魚がいなかったら?」
ロアンは答えた。
「その時は、人魚じゃない何かを探す」
ガルドは納得したように頷く。
「分かった」
ミルカは地図を広げた。
「漁村までは、海沿いの街道を三日」
エナは薬草袋を確認する。
「船酔いの薬、いりますか?」
ガルドが真面目に言う。
「船でも剣は振れるのか」
ミルカが即座に言った。
「振らないで」
ロアンは少し笑った。
四人は歩き出す準備を始めた。
転移ゲートは壊れた。
けれど、旅は終わらない。
次の土地がある。
次の道がある。
次は、海だ。
次の土地へ
灰の一団は、王都を出た。
門を破ったわけではない。
兵を斬ったわけでもない。
一枚の通行手形と、いくつもの密書を持って出た。
それは脱出であり、任務でもあった。
正式であり、非公式でもあった。
アークガルム王国は、彼らを手放したくなかった。
だが、王国の中にも、彼らを道へ戻すべきだと考えた者たちがいた。
セリアン参事官は手形を用意した。
ある高官は、それに気づきながら見逃した。
そして、後から戻れるだけの細い道を残した。
この者たちは、一つの国に置いておくべきではない。
道に出てこそ、意味がある。
彼らは各国へ密書を届けた。
転移ゲートの位置。
破壊方法。
同時に動くべき時刻。
失敗した時の撤退条件。
それらを、できる者たちへ届けた。
そして、各国は動いた。
灰の一団は、ゲートを壊さなかった。
だが、ゲートは壊れた。
誰かが裏で各国を結んだ。
魔王軍がそう見るなら、それは正しい。
ただし、その誰かは王でも将軍でもなかった。
灰色の外套を着た、四人の旅人だった。
そして、旅は止まらない。
次に浮かんだのは、海だった。
深海拠点。
人魚の導き。
古い勇者文献に残る、不確かな言葉。
ロアンは、その言葉をそのまま信じたわけではなかった。
疑ったわけでもなかった。
ただ、現地へ行かなければ分からないと思った。
海を知る者に聞く。
漁村で聞く。
古い歌を聞く。
船を出す者に聞く。
潜る者に聞く。
答えは、文献の中ではなく、その土地にあるかもしれない。
ロアンは灰色の外套を羽織り直した。
「次の土地へ行こう」
ミルカは地図を畳む。
エナは薬草袋を肩にかける。
ガルドは剣を腰に戻す。
四人は街道へ出た。
一つの国を抜け、次の土地へ。
彼らは、そういう一団だった。
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