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道が開いたあと
国境洞窟が開いたあとも、街道がすぐ元通りになったわけではなかった。
荷馬車は動き始めた。
塩も鉄も薬草も、少しずつ流れ始めた。
けれど、止まっていた時間は残る。
遅れた荷は、遅れたまま次の村へ届く。
不足していたものは、届いた瞬間に足りるわけではない。
痛んだ車輪は直さなければならない。
濡れた袋は干さなければならない。
魔物が消えたわけでもない。
洞窟は開いた。
しかし、世界がきれいに整ったわけではなかった。
ロアンとミルカは、灰色の作業外套を羽織って街道を歩いていた。
外套は地味だった。
よく言えば丈夫。
悪く言えば、どこにでもある。
泥がついても目立たない。
煤がついても、もともとそういう色に見える。
旅人というより、荷運びの手伝いか、薬草採りの帰りのようだった。
ロアンは外套の袖を見ながら言った。
「これ、思ったより便利だな」
ミルカは地図を見ながら答える。
「汚れても目立たないから?」
「それもある」
「他には?」
「着てると、ちょっと旅人っぽい」
ミルカはちらりと見る。
「旅人っぽさって、外套で決まるの?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「靴の疲れ具合」
「じゃあ今のロアンは、かなり旅人」
ロアンは自分の靴を見た。
洞窟の件で、片方の縫い目が少し開いている。
「喜んでいいのか?」
「修理した方がいい」
「現実が早い」
「旅は現実だから」
「旅も村も帳簿?」
「そう。外套も帳簿」
「外套まで?」
「汚れが目立たない分、洗う回数が少し減る」
「それは帳簿だ」
ロアンは納得した。
灰色の外套は、英雄らしい装備ではない。
ただ、旅には役に立つ。
それで十分だった。
街道沿いの宿場へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
しかし、宿はすでに満室だった。
国境洞窟が開いたことで、止まっていた商人や荷運びが一気に動き出していたのだ。
宿屋の主人は、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「悪いね。今夜は倉庫も馬小屋も埋まってる」
ロアンは宿の中をのぞく。
人の声。
湯気。
荷物。
疲れた商人たち。
確かに、入り込む余地はなさそうだった。
「床でもいいんですけど」
ミルカが即座に言う。
「よくない」
「まだ何も」
「床でもいいと言った」
「言ったけど」
「床は寝床じゃない」
宿屋の主人は苦笑した。
「若いの、連れの子の方が正しいよ」
ロアンは少し肩を落とす。
「最近、どこへ行ってもミルカが正しい」
「最近だけじゃない」
「本人が言うと強いな」
主人は少し考え、村の外れを指した。
「小高い場所に神殿がある。立派な神殿じゃないが、旅人を泊めてくれることがある。寝床くらいならあるかもしれん」
ミルカが確認する。
「宿代は?」
「決まってないと思う。寄進か、手伝いか、その時次第だな」
ロアンが言う。
「神殿って、泊まれるんだ」
「場所による」
ミルカはすでに地図を畳んでいた。
「行こう。野宿よりはいい」
ロアンは空を見た。
雲が薄く広がっている。
「雨、降るかな」
ミルカも空を見る。
「すぐではないと思うけど、夜は分からない」
「じゃあ、神殿か」
「床より神殿」
「床も屋根があれば」
「しつこい」
「はい」
二人は村外れの坂道を上った。
灰色の外套が、夕方の風に揺れた。
小高い場所の神殿
神殿は、村外れの小高い場所にあった。
ロアンが想像していた神殿とは、だいぶ違っていた。
白くない。
大きくない。
柱も太くない。
石段はところどころ欠けている。
鐘は小さく、屋根には修理の跡がいくつもあった。
壁の石は古く、雨に濡れた跡がまだらになっている。
それでも、庭は掃かれていた。
石段の脇には小さな花が植えられている。
水瓶には新しい水が満たされている。
貧しいが、放っておかれてはいない。
そんな神殿だった。
祈りの間をのぞくと、中央には神像がある。
しかし、その横には木彫りの小さな像がいくつも並んでいた。
水の皿。
火の灯り。
土の小鉢。
風鈴のような小さな飾り。
ミルカは少し興味深そうにそれを見た。
「神殿って、もっと白くて大きいものだと思ってた」
ロアンもうなずく。
「俺も。なんか、家みたいだ」
その言葉に、奥から声がした。
「家みたいなのは、たぶん合ってます」
二人は振り向いた。
奥から出てきたのは、見習い神官の服を着た少女だった。
年はロアンたちと大きく変わらない。
袖をまくり、手には雑巾を持っている。
もう片方の腕には薬草の籠を抱えていた。
神官というより、掃除の途中の人に見える。
少女はにこりと笑った。
「泊まりですか? お祈りですか? それとも、雨宿り予定ですか?」
ロアンは思わず空を見た。
「雨、降ります?」
少女は空を見ずに答えた。
「たぶん、降ります」
ミルカが窓の外を見る。
雲はあるが、まだ薄い。
「どうして?」
少女は首をかしげた。
「なんとなくです」
ロアンはミルカを見た。
「なんとなく、だって」
ミルカは小声で返す。
「ロアンのなんとなくよりは当たりそう」
「まだ会ったばかりなのに?」
「第一印象」
「俺の第一印象、そんなに弱い?」
「雑」
「一文字で済ませないで」
少女は二人のやり取りを見て、少し楽しそうにしていた。
「仲がいいんですね」
ロアンとミルカは同時に答える。
「まあ」
「普通です」
ロアンがミルカを見る。
「そこ、合わせよう」
「普通でしょ」
「まあ普通だけど」
少女はくすりと笑った。
「私はエナです。この神殿の見習いです」
「ロアンです」
「ミルカです」
エナは二人の灰色の外套を見た。
「旅の方ですね」
ロアンは少し外套を引っ張る。
「旅人っぽいですか」
「泥がついてます」
「そこ?」
「旅の方は、だいたいどこかに泥がついています」
ミルカが小さくうなずく。
「正しい」
「またミルカ側が増えた」
「泥は事実」
「事実は強い」
エナは薬草の籠を置き、雑巾を手桶に入れた。
「泊まりでしたら、父に聞いてみます。豪華ではないですけど、雨はしのげます」
ロアンは即座に言った。
「助かります」
ミルカが横から付け足す。
「食事と寝床の分は払います」
ロアンは小声で言う。
「ミルカ、神殿だよ」
ミルカも小声で返す。
「神殿でも薪と米は必要」
エナがにこにこして言った。
「そうです。薪と米は祈っても勝手には増えません」
ロアンは少し笑った。
「神殿って、もっと祈りで何とかする場所かと」
エナは真面目に考えた。
「祈りで気持ちは整います」
「米は?」
「炊かないと食べられません」
ミルカが小さく言う。
「かなり現実的な神殿」
ロアンもうなずく。
「泊まりやすそう」
「それはいいことなの?」
「たぶん」
エナは奥へ向かって声をかけた。
「父さん、旅の方が二人です。灰色です」
奥から低い声が返る。
「灰色?」
エナはロアンたちをもう一度見た。
「はい。かなり灰色です」
ロアンは外套を見下ろす。
「名前みたいに言われた」
ミルカは言う。
「否定はできない」
「灰色の旅人です、って名乗る?」
「やめて」
薪と米
エナの父は、この神殿の神官だった。
痩せた男で、年齢より少し疲れて見える。
しかし目は穏やかで、声は落ち着いていた。
彼は二人の紹介状を見て、すぐにうなずいた。
「国境の村から来たのか。洞窟の件は聞いている」
ロアンは少し驚いた。
「もう話が?」
「街道の話は、風より遅く、荷馬車より早い時がある」
ロアンは一瞬考えた。
「それは速いんですか、遅いんですか」
神官は少し笑った。
「その時による」
ミルカが横で言う。
「旅と同じですね」
「そうだな」
神官は二人を祈りの間の横にある小部屋へ案内した。
狭い部屋だった。
床には藁を詰めた寝台が二つ。
壁には古い棚。
窓は小さいが、雨はしのげそうだった。
エナが誇らしげに言う。
「豪華ではないですけど、屋根はあります」
ロアンは天井を見た。
「床よりずっといいです」
ミルカがすぐに言う。
「床を基準にしないで」
エナは首をかしげる。
「床で寝る予定だったんですか?」
「ロアンが」
「俺だけ?」
「私は反対した」
エナは真剣な顔でロアンを見る。
「床は冷えます」
「はい」
「朝、体が硬くなります」
「はい」
「旅人の方は、足腰が大事です」
「はい」
ミルカが満足そうにうなずく。
「ほら」
ロアンは小声で言った。
「今日会った人にまで説教されてる」
「正しいことは、いろんな人が言うの」
「それ、前にも聞いた」
「何度でも聞いて」
神官はそんな二人を見て、少しだけ笑った。
「食事は粗末だが、よければ一緒に」
ミルカはすぐに財布袋を出した。
「食事と寝床分を」
神官は手を上げる。
「決まった額はない。払える分でいい」
ミルカは表情を引き締めた。
「では、薪と米の分を」
エナが横から言う。
「あと豆です」
神官が娘を見る。
「エナ」
「豆も減ります」
「それはそうだが」
ロアンは財布を開きながら笑った。
「豆代も払います」
エナは嬉しそうにうなずいた。
「ありがとうございます。豆は大事です」
ミルカが言う。
「ここ、本当に現実的な神殿ですね」
神官は少し苦笑した。
「中央の神殿から見れば、ここは神殿というより村の寄り合い所に近いのだろう」
ロアンは祈りの間を見る。
神像の横には、小さな精霊像が並んでいる。
「でも、村の人は来てますよね」
「それで十分だ」
神官は静かに答えた。
「ここでは、祈りは生活の一部だ。病の時も、雨が続く時も、子が生まれた時も、旅人が道に迷った時も、人はここへ来る。立派な柱がなくとも、来る者がいるなら神殿は神殿だ」
エナは豆の袋を棚から取り出していた。
「父さん、豆、増やしますか?」
「客人がいるからな」
「祈ったら増えませんか?」
「増えない」
「ですよね」
ロアンは笑った。
「エナさん、それ分かってて聞いてます?」
エナは真面目に答えた。
「時々、確認したくなります」
ミルカが言った。
「分かるような、分からないような」
「ミルカにも分からないことが」
「あるよ」
「安心した」
「安心するところ?」
「ミルカが全部分かったら、俺の立場がない」
「今もそんなにないと思う」
「豆より軽い?」
「豆は大事」
「負けた」
エナは豆を鍋に入れながら、楽しそうに笑っていた。
家みたいな神殿
翌朝、神殿の一日は早く始まった。
鐘は小さい。
それでも、澄んだ音が村へ降りていく。
エナは祈りの間を掃いていた。
神像の前を拭く。
木彫りの精霊像の埃を払う。
水の皿を替える。
火の灯りを整える。
土の小鉢の中の乾いた土をほぐす。
風鈴のような飾りを軽く指で弾く。
その一つ一つが、儀式というより、家の手入れに近かった。
ロアンは入口から見ていた。
「本当に家みたいだな」
エナは雑巾を絞りながら言う。
「神様も精霊さんも、埃だらけだと落ち着かないと思うので」
ミルカが興味深そうに精霊像を見る。
「神像の横に精霊像があるんですね」
神官が答えた。
「この土地では昔からそうだ。神も大事だが、森や水や火や土に祈ることも大事にしてきた」
「中央では違うんですか?」
「違うだろうな。中央の方々は、形を整えることを大事にされる」
エナが小さく手を上げた。
「うちは、形が少し丸いです」
ロアンが精霊像を見る。
確かに、木彫りの像は丸っこい。
「形って、そっちの形?」
ミルカは額に手を当てた。
「たぶん違う」
エナは首をかしげる。
「違いましたか」
神官は困ったように笑った。
「まあ、違わない部分もある」
「父さん、今のはどっちですか」
「説明が難しい」
「神学ですか」
「生活だ」
エナは納得したようにうなずいた。
「生活は難しいです」
ロアンも頷く。
「分かります」
ミルカが見る。
「ロアンが言うと、急に重みが軽くなる」
「軽い重みって何?」
「ロアン」
「俺だった」
朝の祈りが終わると、村人たちが少しずつやって来た。
野菜を持ってくる老婆。
薪を置いていく子ども。
乾かした薬草を預ける村人。
腰を痛めた老人。
靴ずれをした旅人。
エナはその合間を縫うように働いた。
掃除。
洗濯。
湯を沸かす。
薬草を干す。
老人の腰に湿布を貼る。
子どもの擦り傷を洗う。
旅人の足に布を巻く。
おっとりした話し方なのに、手は止まらない。
ロアンはそれを見ていた。
「エナさん、ずっと動いてるな」
ミルカは小声で言う。
「見習いっていうより、神殿の半分くらい動かしてる」
「半分?」
「多めに言うと七割」
「それ、だいぶだな」
エナは耳ざとく振り返る。
「七割は言いすぎです」
ミルカが少し慌てる。
「聞こえてたんですか」
「はい。掃除をしていると、余計な話がよく聞こえます」
ロアンは笑う。
「俺たち、余計な話してました?」
「少し」
ミルカがロアンを見る。
「だいたいロアン」
「俺だけ?」
エナは少し考える。
「ミルカさんは、余計そうに見えて大事な話をします」
ミルカは少し照れた。
「そうですか」
「ロアンさんは、大事そうに見えて余計な話をします」
ロアンは胸を押さえた。
「初対面に近いのに、もう見抜かれてる」
「初対面ではないです。昨日、豆の話をしました」
「豆でそんなに分かる?」
「豆の時、人は少し本性が出ます」
ミルカが小声で言う。
「豆、怖い」
ロアンもうなずいた。
「豆は大事だけど怖い」
エナは満足そうに頷いた。
「分かっていただけてよかったです」
そっちは今、だめ
昼前、村の子どもたちが神殿の庭で遊んでいた。
雨上がりで、地面はまだ少し湿っている。
子どもたちは、神殿の隣にある古い井戸の方へ走っていこうとしていた。
その時、エナが急に顔を上げた。
「そっちは今、だめ」
声は大きくなかった。
けれど、不思議とよく通った。
子どもたちは足を止めた。
ロアンも振り返る。
次の瞬間、井戸のそばに積んであった空桶が崩れた。
がらがらと音を立てて、子どもたちが走ろうとしていた場所へ転がる。
子どもたちは目を丸くした。
一人が泣きそうになる。
エナはすぐに駆け寄り、しゃがんだ。
「大丈夫です。びっくりしただけですね」
ロアンは崩れた桶を見た。
「今の、見えてた?」
エナは桶を直しながら首を横に振る。
「見えてません。でも、だめな気がしました」
ミルカが静かに聞く。
「よくあるの?」
エナは少し困った顔をした。
「たまにです」
「たまに?」
「はい。たまに、だめな気がします」
ロアンは首をかしげる。
「いい気がする時もあるんですか」
エナは考えた。
「豆を増やした方がいい気がする時はあります」
ミルカが即座に言う。
「それは予感じゃなくて食欲では」
エナは少し驚いた顔をする。
「そうかもしれません」
ロアンは笑いそうになった。
「ミルカ、今のは鋭い」
「豆の予感は怪しい」
エナは真面目にうなずく。
「今後、豆の予感は慎重に扱います」
「扱うんだ」
「大事なので」
子どもたちは、もう笑い始めていた。
エナは空桶を端へ寄せ、子どもたちに言う。
「井戸の近くで走る時は、桶と石と自分の足に気をつけてください」
一人の子が聞く。
「足も?」
「足はよく裏切ります」
ロアンが小さく言う。
「分かる」
ミルカも小さく言う。
「ロアンの足は特に」
「ここでも俺?」
エナは二人のやり取りに笑いながら、子どもの膝についた泥を拭いた。
ミルカは、そんなエナの様子を見ていた。
見えていたわけではない。
けれど、危険を察した。
魔術とは違う。
気配とも違う。
ロアンは不思議そうにしているだけだったが、ミルカは少し考え込んだ。
エナはそれに気づいたのか、少しだけ目をそらした。
少しだけです
午後、ロアンは神殿の裏手で薪を運ぶのを手伝っていた。
宿代の代わりというより、じっとしていられなかったからだ。
薪を積み直していると、手のひらの古い傷が少し開いた。
国境洞窟の連絡行で擦った傷だ。
大したことはない。
そう思って、ロアンは手を握った。
少し痛む。
エナがそれを見つけた。
「手、見せてください」
「大したことないです」
ミルカが背後から言う。
「大したことないって言う時は、大体見せた方がいい」
ロアンは振り返る。
「いつからいた?」
「大したことないって聞こえたところから」
「その言葉、そんなに危険?」
「危険」
エナも真面目にうなずく。
「危険です」
「二対一か」
ロアンは諦めて手を出した。
エナは傷を見た。
「少し開いてますね」
「少しなら」
ミルカが言う。
「少しを放っておいて悪くした人が言う台詞」
「まだ悪くしてない」
「これから悪くする前に止めてる」
エナは薬草を取り出し、傷口を洗った。
その手つきは慣れている。
水で汚れを落とし、布で押さえ、薬を塗る。
そこまでは普通だった。
けれど、その後、エナは少しだけ迷った。
ロアンの手に、自分の手を重ねる。
やわらかな温かさが流れた。
痛みが引く。
血が止まる。
開いていた傷が、完全に消えるわけではないが、ぴたりと落ち着いた。
ロアンは目を丸くした。
「え、今の」
エナははっとして、手を引いた。
「すみません。少しだけです」
ミルカの目が鋭くなる。
「少しだけで、これ?」
エナは目をそらした。
「薬も使いましたから」
ミルカは薬草を見る。
普通の薬草だった。
少なくとも、あの速さで血が止まり、痛みが引くものではない。
ロアンは手を動かした。
「痛くない」
エナは少し不安そうにする。
「動かしすぎないでください。治ったというより、落ち着いただけなので」
ミルカが低く言う。
「落ち着いただけで、これ」
エナはますます困った顔をした。
ロアンはミルカを軽く見た。
聞きたいことはある。
だが、今ここで踏み込むと、エナが逃げてしまいそうだった。
ロアンは手を下ろし、頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
エナは少しほっとした。
「はい。薪はもう少し少なめに持ってください」
ミルカが頷く。
「それは本当にそう」
ロアンは自分の腕を見る。
「薪、多かった?」
「多かった」
「運べると思った」
「持てる荷と、持って歩ける荷は違う」
「ここでそれが戻ってくるとは」
エナが首をかしげる。
「荷の話ですか?」
ミルカは言う。
「旅の基本です」
エナは真面目に頷いた。
「神殿の基本でもあります。薪を持ちすぎると転びます」
ロアンはしみじみと言った。
「世界中で同じことを教わってる気がする」
「まだ足りないからでは」
ミルカの言葉に、エナも小さく頷いた。
ロアンは二人を見る。
「また二対一だ」
良いことでも困ること
夕方、雨が降り始めた。
エナの予感は当たった。
初めは細い雨だった。
すぐに強くなり、神殿の屋根を叩き始める。
ロアンは軒下から空を見上げた。
「本当に降った」
エナは水瓶の蓋を押さえながら言う。
「降る気がしたので」
ミルカが聞く。
「雨も分かるの?」
「たまにです」
「豆よりは当たる?」
エナは真剣に考えた。
「雨の方が当たります」
「豆は?」
「気持ちに左右されます」
ロアンは吹き出した。
「豆の予感、自覚あったんですね」
「はい。最近分かってきました」
ミルカは額に手を当てる。
「予感の分類が独特」
その時、神殿の隣で大きな音がした。
古い納屋の屋根が、雨の重みで傾いたのだ。
中には薪と薬草が置かれている。
子どもが一人、慌てて走り出した。
「薪が濡れる!」
エナの顔色が変わった。
「だめ!」
彼女は走り出す。
ロアンも続いた。
ミルカは雨水の流れを見て、杖を低く構える。
納屋の前の地面は、雨でぬかるんでいた。
子どもがそこへ踏み込みかけた瞬間、屋根の一部が崩れた。
木片が落ち、泥水が跳ねる。
エナが子どもの腕を引いた。
ぎりぎりだった。
しかし、近くにいた老人が足を滑らせた。
倒れ込み、腕を強く打つ。
「痛っ……!」
ロアンが駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
ミルカは小さな水の流れを横へ逃がし、足元のぬかるみを少しだけ薄くした。
大きな魔法ではない。
水を消すわけでもない。
ただ、人が立てる場所を作る。
「ロアン、そこ滑る!」
「分かった!」
「分かってる足元じゃない!」
「足元にまで言われてる気がする!」
ロアンは老人の体を支え、軒下へ運んだ。
エナが腕を見る。
骨は折れていない。
だが、腫れがひどい。
老人の顔が苦痛で歪む。
エナは一瞬、父を見た。
神官は少し離れた場所に立っていた。
見ている。
エナは迷った。
だが、老人が痛みにうめいた。
エナは手をかざした。
温かい光のようなものが、雨の薄暗さの中で静かに広がる。
派手ではない。
目がくらむような奇跡でもない。
ただ、老人の呼吸が少し落ち着いた。
腫れがわずかに引く。
痛みが和らいだのか、老人の表情が緩んだ。
「楽に……なった」
エナは手を下ろした。
顔を伏せる。
神官はそれを見ていた。
何も言わなかった。
ロアンも、ミルカも、何も言わなかった。
ただ、雨音だけが強く響いていた。
見られてしまいました
夜。
雨はまだ降っていた。
神殿の軒下に、雨だれが落ちている。
ロアンは濡れた外套を干しながら、エナが一人で座っているのに気づいた。
彼女は手を膝の上に置き、ぼんやりと雨を見ている。
ロアンは少し迷ったが、近づいた。
「隣、いいですか」
エナは顔を上げた。
「はい。濡れない場所なら」
「そこは確認するんですね」
「床が濡れると、あとで拭くのが私なので」
「現実的」
「神殿ですから」
ロアンは少し笑い、隣に座った。
しばらく雨の音を聞く。
エナがぽつりと言った。
「見られてしまいました」
ロアンは、すぐに何のことか分かった。
「悪いことをしたんですか」
エナは首を振る。
「たぶん、悪いことではないです」
「じゃあ、どうして困ってるんですか」
エナは考えた。
雨だれが、石の上に落ちる。
一つ。
二つ。
三つ。
「良いことでも、困ることはあります」
ロアンは黙った。
その言葉は、少し分かった。
国境洞窟で、知らせを届けることは良いことだった。
でも、危なかった。
責任もあった。
報酬を受け取ることも、少し迷った。
良いことでも、困ることはある。
「そうですね」
エナはロアンを見る。
「ロアンさんたちは、どうして旅をしているんですか」
「世界を見に行こうと思って」
エナは少し驚いた。
「それだけですか」
ロアンは苦笑した。
「最初はそれだけです」
「今は違うんですか」
「まだ、よく分かりません。でも、道が塞がってたり、困ってる人がいたりすると、なんか放っておけなくて」
エナは小さく笑った。
「それ、危ないですね」
「よく言われます」
「ミルカさんに?」
「主に」
「でしょうね」
「でしょうねって」
「ミルカさんは、ロアンさんが転びそうな場所を見ていそうです」
ロアンは少し遠くを見た。
「否定できない」
「でも、ロアンさんも、何か見てますよね」
「俺が?」
「はい」
「何を?」
エナは少し考えた。
「困っている人が、困っているって言う前の顔」
ロアンは返事ができなかった。
そんなつもりはない。
ただ、見てしまう。
荷が止まっている。
道が塞がっている。
痛そうにしている。
困っているのに、まだ大丈夫と言っている。
そういう顔を、見過ごせないだけだった。
エナは雨を見た。
「私も、そういうのを見ると、手が先に出ます」
「それは、いいことじゃないですか」
「たぶん」
「また、たぶん」
「良いことでも、困るので」
ロアンはうなずいた。
「じゃあ、困ったら誰かに相談するしかないですね」
エナは少し笑った。
「誰に?」
ロアンは即答した。
「ミルカ」
エナは目を丸くした。
「ロアンさんではなく?」
「俺に相談すると、最終的にミルカに聞こうってなります」
エナは声を出して笑った。
「それは早いですね」
「近道です」
「ロアンさん、意外と賢いです」
「意外と?」
「すみません。今のは少し失礼でした」
「少し?」
「かなり?」
「正直」
エナはもう一度笑った。
雨音の中で、その笑い声は少し軽かった。
少しだけ倒れる
同じ夜、ミルカもエナと話した。
祈りの間の灯りを落とし、火の皿を整えた後だった。
エナは薬草の束を並べている。
ミルカはその手元を見ていた。
「癒やしって、疲れないの?」
エナは薬草を束ねながら答える。
「疲れます」
「どのくらい?」
「たくさん使うと、体の奥が空っぽになる感じがします」
ミルカの表情が真面目になる。
「それ、危ない。使いすぎたら倒れるんじゃない?」
エナは困ったように笑った。
「倒れたことは、少しだけ」
ミルカは動きを止めた。
「少しだけ倒れるって何」
エナは首をかしげる。
「短めに?」
ミルカは額を押さえた。
「倒れるに短い長いをつけないで」
「でも、すぐ起きました」
「起きたからいいわけじゃない」
「父さんにもそう言われました」
「なら聞いて」
「聞いています」
「守っては?」
エナは少し目をそらした。
ミルカは深く息を吐いた。
「ロアンと別方向に危ない」
エナは驚いた。
「ロアンさんも危ないんですか」
「危ない」
「でも、優しそうです」
「優しいから危ない」
「なるほど」
「納得しないで」
「ミルカさんも、少し危ないです」
今度はミルカが驚く。
「私?」
「はい。危ない人を放っておけないので」
ミルカは言葉に詰まった。
エナは薬草を整えながら、穏やかに言う。
「ロアンさんを見ている時のミルカさん、かなり忙しそうです」
「それはロアンが忙しくさせてる」
「でも、嫌ではなさそうです」
ミルカは少し黙った。
「……嫌ではないけど、疲れる」
「それは分かります」
「エナも?」
「はい。困っている人を見ると、手が出ます。あとで疲れます。でも、出ます」
ミルカはエナを見た。
おっとりしている。
天然にも見える。
けれど、この子は危うい。
自分の力の大きさも、消耗も、たぶん正確には分かっていない。
「エナ」
「はい」
「倒れる前に、言った方がいい」
「誰にですか」
「近くにいる人に」
「父さんに言うと心配します」
「言わなくても心配してると思う」
エナは少しだけ寂しそうに笑った。
「そうですね」
ミルカは言葉を選んだ。
「隠すことが全部悪いとは言わない。でも、隠したまま倒れると、助ける側が困る」
エナは薬草の束を見た。
「良いことでも、困ることはありますね」
「それ、ロアンにも言った?」
「言いました」
「ロアン、何て?」
「困ったらミルカさんに相談すると」
ミルカは目を閉じた。
「あいつ」
エナは楽しそうに笑った。
「近道だそうです」
「あとで説教」
「短めに?」
「長めに」
エナはまた笑った。
祈りの間の小さな火が、静かに揺れていた。
父と娘
その夜遅く。
エナの父は、祈りの間に一人でいた。
神像の前。
その横には、木彫りの精霊像が並んでいる。
水の皿に、雨音がかすかに響く。
火の灯りは小さい。
土の小鉢は、昼にエナが整えたばかりだった。
風鈴のような飾りが、窓の隙間から入る風で小さく鳴る。
エナが入ってきた。
父の背中を見て、少し足を止める。
「父さん」
神官は振り返らないまま言った。
「今日、旅人の傷を診たのか」
エナは少し身構える。
「はい。薬を塗りました」
「それだけか」
エナは答えなかった。
雨音が、二人の間に落ちる。
神官はゆっくり振り返った。
「責めているわけではない」
エナは小さく言う。
「でも、言ったら困るでしょう」
「何が」
「中央に報告しなきゃいけなくなるかもしれません」
神官は黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
エナもそれを分かっていた。
「私は、ここで手伝えればいいです」
神官は娘を見る。
掃除をして、湯を沸かし、薬草を干し、老人の手を取り、子どもを止める。
この神殿には、エナが必要だった。
村人たちも、それを知っている。
だが、それだけでよいのか。
神官は静かに問うた。
「本当に、それだけでいいのか」
エナはすぐには答えなかった。
火の皿の小さな灯りが、彼女の横顔を照らす。
「分かりません」
「そうか」
「父さんは、私を中央へ行かせたいですか」
神官は長く黙った。
中央へ送れば、エナの力は多くの人を助けるかもしれない。
だが、中央は力を見つければ、力として扱う。
娘として扱ってくれるとは限らない。
ここに留めれば、エナは隠し続けることになる。
自分の力を、どう扱えばいいのか分からないまま。
「分からない」
神官は正直に答えた。
エナは少し驚いた。
「父さんでも?」
「父でも、神官でも、分からないことはある」
「それ、ロアンさんみたいです」
「そうか」
「ロアンさんは、分からないってよく言います」
「悪いことではない」
エナは少し微笑んだ。
神官は祈りの間の入口を見た。
灰色の外套が二枚、雨を避けて干されている。
若い旅人たち。
危なっかしい。
しかし、無理なら戻ることを知っている。
困った人を放っておけないが、目立つために動くわけではない。
娘が外を見るなら、ああいう者たちとなら。
そこまで考えて、神官は目を伏せた。
まだ結論ではない。
ただ、迷いが形を持ち始めただけだった。
小さな精霊たちの話
翌朝、雨は上がった。
神殿の庭は濡れていたが、空は明るい。
石段の欠けた部分に水が溜まっている。
エナはそこを避けるように板を置いていた。
「ここ、踏むと滑ります」
ロアンはその横を通りながら言う。
「俺に言ってます?」
「はい」
「やっぱり」
ミルカが後ろから言う。
「私にも言ってると思う」
エナはうなずいた。
「はい。滑る時は平等です」
「いい言葉みたいに言った」
「足元の真理です」
ロアンは真剣にうなずいた。
「足元の真理は大事だ」
ミルカが小声で言う。
「納得するんだ」
朝の片づけが終わると、ロアンは祈りの間の隅にある古い本棚に気づいた。
棚は古く、少し傾いている。
本の数は多くない。
祈りの手引き。
薬草の覚え書き。
村の祭礼の記録。
古い帳簿。
そして、子ども向けらしい薄い本が数冊。
その中の一冊に、ロアンの目が止まった。
表紙は擦り切れている。
絵はほとんど消えかけていた。
けれど、題名は読めた。
小さな精霊たちの話。
ロアンは本を手に取る。
「これ、読んでもいいですか」
エナが振り向いた。
「昔からある本です。子どもに読んで聞かせるものです」
ミルカも近づく。
「精霊信仰の本?」
エナは少し考える。
「難しい本ではないです。子ども向けです」
「どういう話なんですか」
エナは本を受け取り、表紙を撫でた。
「火の精霊、水の精霊、風の精霊、土の精霊が、少しずつ足りないところを補って世界を作る話です」
ロアンは目を細めた。
「足りないところを補う?」
「はい。火だけでは燃えすぎる。水だけでは流れてしまう。風だけでは散ってしまう。土だけでは動かない。だから、少しずつ」
ミルカが静かに聞いていた。
「この神殿らしい話ですね」
エナは笑った。
「そうかもしれません」
ロアンはもう一度、本の題名を見た。
小さな精霊たちの話。
神託ではない。
聖なる書でもない。
中央神殿の奥に納められた巻物でもない。
子どもに読んで聞かせる、古い物語だった。
けれど、その題名がなぜか気になった。
「読んでもいいですか」
エナはうなずいた。
「もちろん」
ミルカが言う。
「ロアン、ちゃんと座って読んで。立ったまま読むと、たぶん何か落とす」
「本は落とさない」
「昨日、薪を落としかけた」
「薪と本は違う」
「落ちる時は平等です」
エナがにこりと言った。
ロアンは本をしっかり持ち直した。
「足元の真理、広いな」
神殿は、中央から遠かった。
白い石の柱もなければ、大きな鐘もなかった。
神像の横には、木彫りの小さな精霊たちが並んでいた。
水の皿があり、火の灯りがあり、土の小鉢があり、風鈴のような飾りが揺れていた。
中央の神官が見れば、古く、貧しく、雑多だと言ったかもしれない。
けれど、村人はそこへ来た。
怪我をした子どもも、腰を痛めた老人も、雨宿りの旅人も、迷った若者も。
エナは、そこで働いていた。
掃除をし、薬草を干し、湯を沸かし、傷に布を巻き、ときどき普通ではない力で誰かを助けた。
彼女は中央に呼ばれた聖女ではなかった。
寂れた神殿の、見習い神官だった。
だがその日、ロアンとミルカは知った。
中央に呼ばれないからといって、力がないわけではない。
そして、力があるからといって、どこへ行けばよいか分かるわけでもない。
神像の横の古い本棚で、ロアンは一冊の物語を開いた。
小さな精霊たちの話。
それはまだ、ただの子ども向けの物語だった。
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