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赤竜が吠えたわけではない。
炎を吐いたわけでもない。
ただ、見た。
それだけで、谷にいた魔物の群れは崩れた。
山の高みに伏せた赤竜が、ほんの少し首を動かしただけだった。けれど、それで十分だった。
谷を渡っていた角のある魔物が足を止める。群れの先頭が向きを変える。後ろの個体が押し合い、悲鳴のような鳴き声が風に散った。
逃げる。
散る。
隠れる。
牙を剥く者はいない。
爪を立てる者もいない。
挑む者など、どこにもいない。
赤竜は、それを勝利とは思わなかった。
勝利には、始まりが必要だった。
これは、始まる前に終わっただけだった。
「またか」
赤竜は、低く呟いた。
声は山肌を震わせ、崖の雪を少しだけ落とした。
谷の魔物たちは、さらに遠くへ逃げた。
赤竜は追わなかった。
追う理由がなかった。
腹が減っているわけではない。縄張りを荒らされたわけでもない。敵意を向けられたわけでもない。
ただ、そこに魔物がいた。
赤竜が見た。
それだけで終わった。
「また、何も起きなかった」
山は静かだった。
雲は赤竜の翼より低いところを流れていた。空は広く、風は冷たい。山腹には、古い焼け跡がいくつもある。
かつて赤竜が退屈まぎれに火を吐いた跡もあれば、ただ寝返りを打っただけで焦げた斜面もある。
赤竜にとっては、どれも同じだった。
燃える。
冷える。
草が生える。
森になる。
また燃える。
それだけだ。
赤竜は巨大な翼を畳み、岩の上に顎を置いた。
眠ろうとした。
だが、眠りにも飽きていた。
目を閉じれば、次に目を開けた時、また同じ山がある。同じ空がある。同じ恐れがある。
赤竜は何度も眠った。
季節が変わった。
森が伸び、焼け、また伸びた。
川の形が少し変わった。
人間の村ができ、滅び、また別の場所にできた。
けれど、赤竜にとっては、どれも似たようなものだった。
誰も近づかない。
誰も頼らない。
誰も、赤竜に何かを求めない。
求められることがあるとすれば、討伐か、恐怖か、回避だけだった。
暇、という言葉は軽い。
しかし赤竜の暇は、午後の退屈ではない。
雨の日に外へ出られない子供の苛立ちでもない。
百年眠っても、まだ続く暇だった。
千年起きていても、埋まらない暇だった。
何をしても勝つ。
何もしなくても恐れられる。
赤竜は、自分が強いことを知っていた。
そして、強いだけでは何にもならないことも、知り始めていた。
「我は、なぜここにいる」
その問いに答える者はいなかった。
「誰も来ぬ」
風だけが、山肌を撫でていく。
「誰も求めぬ」
赤竜は目を開けた。
遥か下に、小さなものが見えた。
人間だった。
山道とも呼べない岩場を、一人で登っている。
供はいない。
旗もない。
弓も槍も見えない。
ただ、一人の人間が、息を切らしながら山を登ってくる。
赤竜は、しばらくそれを眺めた。
愚かな討伐者か。
あるいは、死に場所を探す者か。
どちらでもよかった。
どちらでも、始まる前に終わる。
人間は、赤竜の威圧が届く距離まで来ると、足を止めた。
膝が震えている。
息も上がっている。
顔色も悪い。
それでも、逃げなかった。
赤竜は首を上げる。
人間の全身を影が覆った。
「人間」
赤竜が呼ぶと、岩場が震えた。
人間は両手をつきそうになりながらも、どうにか立っていた。
「はい」
「何をしに来た」
人間は、顔を上げた。
「あなたに会いに来ました」
「殺しに来たのではないのか」
「殺せるとは思っていません」
「では、死にに来たか」
「できれば、それも避けたいです」
赤竜は、少しだけ目を細めた。
「ならば、なぜ来た」
人間は、強い風に服を煽られながら答えた。
「あなたが、何をしているのか知りたかったので」
「何をしているか、だと?」
「はい」
赤竜は、しばらく黙った。
それから答える。
「何も」
「何も?」
「何をしても、同じだ」
人間は、その答えを笑わなかった。
退屈している竜、などと軽く受け取らなかった。
赤竜の声には、退屈よりも深いものがあった。
疲労に近い。
あるいは、諦めに近い。
人間は、ゆっくりと呼吸を整えた。
「敵がいないのですね」
「いる。だが、敵になる前に逃げる」
「守るものは?」
「ない」
「欲しいものは?」
「欲しいものなどない」
「では、なぜ起きているのですか」
赤竜は黙った。
山の風が、二人の間を抜けていく。
人間は、さらに言った。
「眠る理由も、起きる理由も、なくなっているのですね」
「人間。言葉を選べ」
「選んでいます。だから、まだ生きています」
赤竜は、わずかに喉を鳴らした。
「面白いことを言う」
「面白いだけで済めばよいのですが」
人間は召喚士だった。
赤竜には、それが分かった。
魔力の流れが違う。
普通の兵士ではない。狩人でもない。呪術師でもない。
召喚士。
契約を扱う者。
呼び、応じさせ、時に頼み、時に縛る者。
けれど、その召喚士は赤竜を縛ろうとしていなかった。
鎖の匂いがしない。
支配の術式もない。
赤竜に向けた攻撃準備もない。
ただ、見ていた。
赤竜の牙ではなく。
爪ではなく。
翼でも、炎でもなく。
赤竜が何もしていないことを、見ていた。
「あなたには、役割が必要なのかもしれません」
召喚士が言った。
赤竜は鼻を鳴らした。
「我に役割を与えると?」
「命令ではありません」
「命令ならば焼く」
「でしょうね。ですので、お願いです」
「願い」
「はい」
「人間が、我に願うのか」
「そうです」
赤竜は、召喚士を見下ろした。
「願いとは、身の程を知る者が使う言葉ではないのか」
「身の程を知っているから、願うのです」
「面白い」
「焼かないでいただけると助かります」
召喚士は、少しだけ笑った。
赤竜は笑わなかった。
だが、焼きもしなかった。
召喚士は、赤竜を利用する役割をいくつか思いついていた。
王国守護。
国境防衛。
魔物討伐。
戦争抑止。
どれも大きい。
どれも、赤竜の強さにふさわしいように見える。
けれど、それらは赤竜を利用することに近かった。
強いから戦わせる。
強いから守らせる。
強いから国を背負わせる。
それでは、赤竜はまた強さに閉じ込められるだけだ。
もっと小さくてよい。
もっと個人的でよい。
終わらせられるものがよい。
召喚士は、少し迷ってから言った。
「では、私の財宝を守ってもらえませんか」
赤竜の目が、わずかに動く。
「財宝?」
「はい」
「我に、財宝の番をしろと」
「言い方を選ばなければ、そうです」
「財宝など、どうでもよい」
「ええ。だからよいのです」
「どういう意味だ」
「あなたを縛るほど大切なものではありません。けれど、あなたに頼む理由にはなる」
「理由」
「はい。あなたがそこにいてよい理由です」
赤竜は、静かに召喚士を見た。
「我は、理由がなければいてはならぬのか」
「そんなことはありません」
召喚士は、即座に答えた。
「ただ、理由があった方が楽な時もあります」
「人間は、面倒な生き物だ」
「竜も、意外とそう見えます」
「焼くぞ」
「まだ契約前ですので、ご遠慮いただけると助かります」
赤竜は、今度こそ少しだけ喉を鳴らした。
笑ったのかもしれない。
山が低く震えた。
「財宝など、誰でも守れるだろう」
「いいえ」
召喚士は首を振った。
「これは、あなたにしか頼めません」
「我にしか?」
「はい」
「強いからか」
「強いからです」
「ならば、他の者でもよい。強い者を集めればよい」
「強いだけなら、代わりはあります」
赤竜の目が、細くなる。
「では、なぜ我だ」
召喚士は、一度息を吸った。
それから、静かに言う。
「あなたは、守るものを欲しがっているように見えたからです」
「……欲しがってなどいない」
「そうですか」
「そうだ」
「では、断りますか」
赤竜は答えなかった。
召喚士は、追い詰めるようなことは言わなかった。
「断っても構いません」
「……」
「私は、あなたを支配しに来たわけではありません」
赤竜は、しばらく召喚士を見ていた。
やがて、低く問う。
「財宝は、どこにある」
「引き受けてくださるのですか」
「場所を聞いただけだ」
「では、場所だけお伝えします」
「守らぬとは言っていない」
召喚士は、少しだけ目を細めた。
赤竜は、頼まれることに慣れていなかった。
恐れられることには慣れていた。
避けられることにも、挑まれることにも慣れていた。
だが、頼まれることは少なかった。
強いから逃げられるのではなく、強いから頼まれる。
それは、赤竜にとって奇妙な感覚だった。
召喚士の財宝は、山の奥の古い洞窟にあった。
天然の洞窟に、少しだけ人の手が加えられている。
床はならされ、入口には古い術式の跡がある。
財宝と呼ぶには、あまり整っていない。
金貨、銀杯、壺、宝石、古い剣、装飾品、魔道具。
無造作に積まれているようにも見えた。
赤竜は、洞窟に首を入れた。
召喚士は、少し離れたところから説明する。
「盗まれない程度で構いません」
「程度とは何だ」
「ええと、誰かが持ち去らないように、という意味です」
「すべて記憶する」
「すべて?」
「形、数、色、重なり、傷、匂い、置かれた場所」
「そこまでしなくても」
召喚士は困ったように言った。
赤竜は真顔で返す。
「守るのだろう?」
「はい、守るのですが」
「ならば当然だ」
「当然、ですか」
「当然だ」
召喚士は、財宝の山を見た。
赤竜はすでに、金貨の積み方を見ていた。
銀杯の傾き。
青い石の欠け。
黒い箱の向き。
壺のひび。
剣の柄の摩耗。
翼の意匠を持つ古い魔道具の気配。
そのすべてを、赤竜は記憶していく。
召喚士は、少しだけ顔を引きつらせた。
「私は今、とても優秀な方に、軽い仕事を頼んでしまった気がしています」
「軽い仕事なら、なおさら失敗できぬ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
赤竜は、財宝に興味がなかった。
金も、宝石も、古い剣も、壺も、どうでもよかった。
だが、守ると言われたものを守ることには、意味があった。
召喚士は契約書を用意した。
古い形式の契約だった。
現代の契約制度から見れば、ひどく簡素なものだったが、その時代には、それで十分だと思われていた。
召喚士は、赤竜に読み上げる。
「あなたが満足したら、契約は終わりにしましょう」
「満足とは何だ」
「もう守らなくてよいと思った時、でしょうか」
「我がそう思えばよいのか」
「はい。その時は私に言ってください」
「お前がいなければ?」
「戻ってきます」
「戻らなければ?」
召喚士は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……戻ります」
「人間は短く生きる」
「痛いところを突きますね」
「事実だ」
「では、私が戻れない時は、後任に伝えます」
「後任」
「はい。あなたが望めば、契約を終えられるように」
「ならばよい」
よくはなかった。
けれど、その時の二人はまだ知らなかった。
契約の終了条件は曖昧だった。
後任への引き継ぎは、仕組みではなく約束に近かった。
赤竜が自分から望みを申し出ることが前提だった。
人間と竜の時間感覚が違うことも、分かってはいたが、契約には十分に刻まれなかった。
それでも、その時は善意だった。
召喚士は赤竜を縛ろうとしたのではない。
赤竜も、縛られたとは思わなかった。
ただ、頼まれた。
そして、引き受けた。
最初のうち、財宝守護は赤竜にとって救いだった。
赤竜は洞窟の構造を覚えた。
入口の風の流れを覚えた。
足音の響きを覚えた。
金貨の山の沈み方を覚えた。
宝石の表面の傷を覚えた。
翼の意匠を持つ魔道具が、どのような精霊力を帯びているかも覚えた。
召喚士は何度か訪れた。
そのたびに、赤竜は報告した。
「具合はどうですか」
ある日、召喚士がそう聞いた。
赤竜は首を傾ける。
「具合とは」
「退屈していませんか」
「していない」
「それはよかった」
「昨日、金貨の山が二枚分沈んだ」
「はい?」
「湿気だ。奥の壁から水が入っている。放置すれば、三十年で壺が割れる」
「三十年」
「短い」
「私には少し長いです」
「人間は不便だな」
「よく言われます」
召喚士は笑った。
赤竜は笑わなかったが、以前より穏やかだった。
誰かに頼まれた仕事がある。
自分がそこにいる理由がある。
財宝そのものより、守るという行為が、赤竜を支えていた。
それから、召喚士が来る間隔は少しずつ伸びていった。
一年。
三年。
十年。
赤竜にとっては短い。
けれど、召喚士にとっては短くなかった。
やがて、召喚士は来なくなった。
赤竜は待った。
一年は、待つうちに入らなかった。
十年も、竜にとっては長い昼寝のようなものだった。
百年が過ぎた時、赤竜はようやく考えた。
人間は、戻ると言っても戻れないことがあるのだと。
赤竜は怒らなかった。
まだ怒らなかった。
戻ると言った。
ならば、まだ守る。
戻る前に失われてはならない。
そう思った。
やがて、召喚士の後任らしき者たちが洞窟の入口へ来た。
彼らは赤竜を恐れていた。
遠くから財宝が守られていることを確認し、契約書の写しを見て、安心したように頷いた。
「契約は継続している」
「赤竜も守護を続けている」
「ならば問題はない」
「解除の申し出は?」
「ない。なら、継続でよいだろう」
「赤竜に確認は?」
「刺激しない方がよい。守っているなら、それでよい」
赤竜は、その会話を聞いていた。
人間は、財宝が守られていることを望んでいる。
ならば、守る。
召喚士が戻らなくても、後任が確認に来た。
これは継続の意思なのだろう。
誰も嘘はつかなかった。
誰も赤竜を騙そうとはしなかった。
ただ、誰も最初の問いを持っていなかった。
赤竜はまだ、その役割を必要としているのか。
その問いだけが、引き継がれなかった。
時間が流れた。
後任の後任が来た。
さらに、その後任が来た。
契約の写しは増えた。
台帳は増えた。
しかし、本来の意味は薄れていった。
赤竜は守り続けた。
最初は、頼まれたから。
次に、契約があったから。
やがて、守っている間だけ、自分が存在してよい気がしたから。
「守る」
赤竜は、洞窟の奥で呟いた。
「欠けてはならぬ」
銀杯の傾きは変わっていない。
黒い箱の上の青石もある。
金貨の山は沈んでいるが、数は欠けていない。
壺のひびは広がったが、まだ割れていない。
翼の意匠を持つ魔道具は、長い年月の中で、少しずつ火の精霊力に寄っていた。
赤竜はそれも覚えていた。
誰もそこまで求めていない。
しかし赤竜にとっては当然だった。
守るとは、そういうことだから。
「失われてはならぬ」
赤竜は、自分がいつからそう考え始めたのか覚えていなかった。
財宝など、どうでもよかったはずだった。
金も宝石も、古い魔道具も、赤竜の欲しいものではなかった。
それでも、欠けてはならなかった。
なぜなら、それを守っている間だけは、自分が不要ではないと思えたからだ。
洞窟に、風が通った。
ほんのわずかな風だった。
入口からではない。
岩の隙間でもない。
赤竜は、少しだけ目を細めた。
魔力は感じない。
戦闘音もない。
敵意もない。
ただ、風が少しそよいだだけだった。
赤竜は、また目を閉じた。
財宝は、いつも通りそこにある。
そう思った。
赤竜は財宝に興味がなかった。
ただ、財宝を守っている間だけは、自分がそこにいてよい気がした。
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