勇者の条件 第17話 世界を見に行こう

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勇者の条件
創作実験TOP異世界ファンタジー魔王勇者もの対勇者戦略にて勇者の誕生を阻止する作品紹介歴代魔王は、なぜ勇者に敗れたのか。城を固めても、国境を塞いでも、聖都を脅かしても、最後には勇者が玉座へ届く。ならば魔王軍が見るべきは、国ではない。勇者であ…
勇者の条件 第17話 世界を見に行こう 人物相関図

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村の外が変わる

西の辺境の村には、遠い話が遅れて届く。

東の方で大きな戦があるらしい。

どこかの神殿が騒がしいらしい。

勇者の血筋がどうとか、聖剣がどうとか、都の商人が荷をほどきながら話していった。

村人たちはそれを聞き、うなずき、しばらく話題にした。

けれど、畑は翌朝も畑だった。

水場の桶は空になれば汲まなければならない。

山羊は柵を直さなければ抜け出す。

薪は割らなければ冬に足りない。

遠くの大事件より、村人たちに近いのは、塩の値段と荷馬車の遅れだった。

隣村へ行く荷が遅れる。

隣村のさらに向こうの町から来るはずの商人が来ない。

薬草の買い取りが少し渋くなる。

鉄の小物が足りなくなる。

道を歩く者が減ると、道の様子が分からなくなる。

林道に倒木があっても、誰かが通るまで分からない。

沢沿いがぬかるんでも、荷馬車が沈むまで気づかない。

村の男たちが広場で話していた。

「東が大変らしいってのは聞くが、こっちもこっちで困る」

「商人が減ると、塩が上がる。塩が上がると肉を長く持たせられん」

「道を知ってる者が減ったな。猟師も年を取った」

「若い者が外を知らんままだと、次に何かあった時に詰むぞ」

その言葉を、ロアンは荷台の陰で聞いていた。

彼はもう、村外れでスライムに驚いて逃げ帰るだけの子どもではない。

隣村までの荷運びも、何度か手伝った。

ぬかるみに沈む車輪も見た。

濡れた薬草がどうなるかも知った。

小鬼を倒さず、荷馬車を通すことも覚えた。

それでも、知っているのは隣村までだった。

隣村の先。

町。

街道。

宿場。

国境。

さらにその先。

ロアンは、それらを知らない。

名前だけは聞いたことがある。

だが、名前だけでは道は歩けない。

ロアンは広場の端で、ぼんやりと地図を見ていた。

古い布の地図だ。

村。

隣村。

隣町。

その先は、急に線が少なくなる。

ロアンが指でその空白をなぞっていると、背後から声がした。

「地図、にらんでも広がらないよ」

振り返ると、ミルカが立っていた。

手には古い手帳を抱えている。

ロアンは言った。

「にらんでない。考えてた」

「珍しい」

「今の、失礼じゃない?」

「珍しいことを珍しいって言っただけ」

「余計失礼だな」

ミルカはロアンの隣に立ち、地図を覗き込んだ。

「どこ見てたの」

「隣町の先」

「行くの?」

ロアンは、すぐには答えなかった。

行きたい。

そう思っている。

でも、口に出すと本当になる気がした。

「……外、見てみたいなって」

ミルカは、少しだけ目を細めた。

「どのくらいの外?」

「隣村の先。町とか、街道とか」

「ずいぶん急に広がったね」

「隣村だけだと、まだ隣だから」

「隣町も隣って言い出しそう」

「それは、まあ、広い意味では」

「広い意味を使う人は、だいたい距離を甘く見る」

ロアンは地図から顔を上げた。

「ミルカは見たくないのか」

ミルカは、手帳を胸元で抱え直した。

「見たいよ」

「じゃあ行こう」

「雑」

「まだ行くって決めてない」

「決める前から雑」

「どうすれば雑じゃないんだ」

「まず、目的を言う」

ロアンは考えた。

「世界を見に行く」

ミルカは黙った。

「だめ?」

「だめじゃない」

「じゃあ」

「大きすぎる」

「じゃあ、村の外を見に行く」

「小さくなりすぎ」

「難しいな」

ミルカは少し笑った。

「でも、いいと思う」

ロアンは、地図の空白をもう一度見た。

「いいのか」

「うん」

「ミルカがそう言うと、ちゃんとした考えみたいに聞こえる」

「私を便利な判子にしないで」

「押したら安心する判子」

「押さない」

「じゃあ見守るだけで」

「それも嫌」

「厳しい」

ミルカは地図から目を離し、村の外の道を見た。

「見ないと、分からないことがあるから」

その言葉は、ロアンの胸にすっと入った。

見ないと分からない。

それは、スライムも道も荷も同じだった。

崩さないこと

村の端の井戸のそばで、ミルカは毎朝のように訓練をしていた。

水の玉。

小さな火。

細い風。

土の粒を同じ高さに並べること。

どれも派手ではない。

水の玉は、指先ほどの大きさしかない。

火は、ろうそくより少し大きい程度。

風は、葉を一枚だけ揺らすほど。

土粒は、子どもが見れば遊びにしか見えない。

だが、ミルカは真剣だった。

ロアンは井戸の縁に腰かけて、それを見ている。

「まだ毎日やってるんだ」

ミルカは、水の玉を崩さずに答えた。

「やらないと崩れるから」

「俺なら三日で飽きる」

「実際、三日くらいで来なくなった」

「家の手伝いがあったから」

「知ってる」

「知ってるなら、もう少し優しく言ってもいいと思う」

「優しく言うと、三日半」

「半日増えた」

「優しさ」

「小さいな、優しさ」

ミルカは水の玉を糸のように伸ばし、また丸く戻した。

一滴も落ちない。

「先生が言ってたの」

「北の魔術師の?」

「うん」

ミルカは足元の古い手帳を開いた。

角が擦り切れ、革紐も色が薄くなっている。

そこには、短い言葉が書かれていた。

魔法は、使う場所を知らねば形にならん。

ロアンはそれを読んだ。

「使う場所?」

「分からない」

「分からないのに毎日やってるの?」

「分からないからやってるの」

「さっきから難しいこと言ってる」

「ロアンが簡単に聞くから」

「じゃあ簡単に答えて」

ミルカは少し考えた。

「村の井戸で水を丸めるのと、雨の中で荷を濡らさないように水を動かすのは、たぶん違う」

ロアンは少し黙った。

「それは、分かる」

「本で読む魔法と、実際に道で使う魔法も違うと思う」

「だから、見に行きたい?」

ミルカはうなずく。

「少なくとも、村の外を」

ロアンは井戸桶の水を指でつついた。

「俺も、ちょっとは魔法を覚えてるんだけど」

「うん」

「その、うん、は信じてるうん?」

「事実として、少し習っていたのは見た、のうん」

「弱い」

「強く言うと嘘になる」

「正直すぎる」

「魔法は嘘をつくと崩れる」

「俺は魔法だったのか」

「魔法より崩れやすいかも」

ロアンは井戸桶の水を見た。

「よし、見てろ」

「嫌な予感がする」

「見る前から諦めるな」

「諦めてない。警戒してる」

ロアンは指先に魔力を集めた。

水面がふるふると震える。

ほんの少しだけ水が盛り上がる。

ロアンが得意げに笑った、その瞬間、水が跳ねて袖にかかった。

ミルカは水の玉を崩さずに言った。

「見た」

ロアンは濡れた袖を見た。

「今のは、井戸が悪い」

「井戸に謝って」

「井戸、ごめん」

「素直でよろしい」

「俺、魔術師には向いてない?」

「向いてないとは言わない」

「言い方に救いがない」

「ロアンは、ちゃんとやれば少しできる。でも、ちゃんとやる前に別のことを見つける」

「それは、外で役に立つかもしれない」

「迷子になる時にも役に立ちそう」

「役に立ってるか?」

「立ってる。悪い方に」

ロアンは笑った。

ミルカも少し笑った。

水の玉は、最後まで崩れなかった。

外を見たい

ロアンは、その日の夕方、父に話した。

「少し、外を見てみたい」

父は薪を割る手を止めた。

すぐには答えない。

斧を地面に置き、ロアンを見る。

「どのくらいの外だ」

「隣村の先。町とか、街道とか」

「遊びに行く距離じゃないな」

「分かってる」

台所の方では、母が手を止めていた。

聞こえている。

父は薪に腰を下ろした。

「何をしに行く」

ロアンは少し考えた。

「分からない」

母が眉をひそめる。

「分からないのに行くの?」

「何も考えてないわけじゃない」

「そういう時のロアンは、だいたい少ししか考えてない顔をしてるわ」

「俺の顔、そんなに分かりやすい?」

「分かりやすいわ」

父も否定しなかった。

ロアンは少し咳払いをした。

「村の外のことを、もう少し知りたい。隣村までは行ける。でも、その先は知らない。道が塞がれた時とか、商人が来なくなった時とか、魔物が増えた時とか、誰かが外を知らないと困ると思う」

父は黙って聞いていた。

母も黙っていた。

ロアンは続ける。

「この前、荷が遅れただけで塩が高くなった。薬草も買い取りが変わった。隣村の先の道がどうなってるか、俺たちは誰かが来るまで分からない」

「だから見に行くのか」

「うん」

「一人で?」

母の声が少し強くなる。

ロアンは慌てて首を振った。

「ミルカも行きたいって」

母は一瞬だけ安心した顔をした。

すぐに、別の心配を見つけた顔になった。

「ミルカちゃんを巻き込むの?」

「いや、向こうも行く気で」

父が少し笑った。

「それは、ミルカが決めることだ」

母は腕を組む。

「二人なら安心、って言いたいところだけど」

「安心じゃない?」

「心配が二人分になるわね」

「増えた」

「倍よ」

「せめて一人半くらいに」

「ロアンが一人で一人半くらい心配なの」

ロアンは何も言えなかった。

父は斧の柄に手を置いた。

「外を見たいと思うのは、悪くない」

ロアンは顔を上げる。

「本当?」

「ただし、見に行くのと、ふらふら出ていくのは違う」

母が言う。

「荷物、行き先、金、戻る道、泊まる場所。全部決めてから」

ロアンはうなずいた。

「決める」

母はじっと見る。

「今、半分くらいしか分かってない顔」

「じゃあ、全部決めてからもう一度言う」

父はうなずいた。

「そうしろ」

ミルカの理由

ミルカの家でも、同じような話があった。

母は、手帳と小さな魔術用の石を並べているミルカを見ていた。

「中央へ行くの?」

ミルカは首を振った。

「まだ分からない。中央に行くにも、まず町まで出ないと」

「危ないわよ」

「分かってる」

「分かってる顔をしてるわね」

「ロアンの家と違って、そこは疑われないんだ」

母は少し笑った。

「ロアンくんと比べればね」

「そこ、比べるところ?」

「比べると安心するところ」

「ひどい」

ミルカは手帳を閉じる。

「先生が言ってた。魔法は、使う場所を知らないと形にならないって」

「それを探しに行くの?」

「それもある」

「他には」

ミルカは少し考えた。

「村の外で、自分がどのくらいできるのか知りたい。外の魔術師は、もっとすごいと思う。私が毎日やってる水の玉なんて、町では子どもの遊びかもしれない」

「そうかしら」

「そうだと思う」

父が戸口から言った。

「続けてきたものは、外へ出てもそう簡単には消えない」

ミルカは少しだけ目を伏せる。

「でも、外で役に立つかは分からない」

「分からないから見に行くんだろう」

母はため息をついた。

「ロアンくんと一緒に?」

ミルカはうなずく。

「ロアンだけだと危ないから」

少し間を置いて、付け加える。

「私一人でも危ないけど」

母は少しだけ表情を緩めた。

「そこは分かってるのね」

「分かってる」

父が腕を組む。

「二人なら大丈夫か」

ミルカは、すぐには答えなかった。

「大丈夫、とは言えない」

「正直だな」

「でも、一人よりはまし」

母が指を折る。

「ロアンくんは雑よ」

「知ってる」

「荷物も増やすわよ」

「削る」

「道を間違えるかも」

「確認する」

「変な草を食べるかも」

「止める」

「小鬼を見たら剣を抜くかも」

「荷を見るように言う」

父がとうとう笑った。

「もう半分、姉みたいだな」

ミルカは顔をしかめた。

「そこまで年上じゃない」

母が言う。

「精神年齢の話よ」

「それは否定しづらい」

ミルカは手帳を革袋に入れた。

「でも、私も見たいの。村の外を。先生が歩いた道を、少しだけでも」

母はしばらく黙った。

それから、革袋の紐を締め直す。

「なら、準備しなさい。行くなら、止められないくらいちゃんと準備して」

父も言った。

「行くなら、戻る場所を忘れるな」

ミルカはうなずいた。

「うん」

大人たちの相談

村長の家に、大人たちが集まった。

村長。

猟師のおじさん。

荷運びの男。

ロアンの父と母。

ミルカの父と母。

話題は、ロアンとミルカの旅だった。

ロアンの母は腕を組んだまま言う。

「危ないです」

荷運びの男がうなずく。

「危ない」

「だったら」

「だが、準備なしに出るよりは、準備して出した方がいい」

猟師のおじさんが火鉢のそばで言った。

「止めても、いずれ出るだろう」

ロアンの母は顔をしかめる。

「そういう子ですか」

「そういう子だ」

誰も否定しなかった。

ロアンの父は苦笑する。

「昔から、門の外を見ている時間が長かった」

ミルカの母が小さく言う。

「あの子も、先生が去ってからずっと手帳ばかり見ています」

ミルカの父が続ける。

「家の中にいても、目だけ外へ行っている」

村長が言う。

「このまま若い者が外を知らないままでも困る。隣村、隣町、街道。いずれ誰かが知っておかねばならん」

荷運びの男が続ける。

「ロアンはまだ未熟だ。だが、戻る判断は少しできるようになった。荷を見る目も、前よりはある」

「前よりは、か」

ロアンの母が言う。

「旅に出す評価として低くありません?」

「高く言えば油断する」

ミルカの母が言った。

「ミルカは準備しすぎます」

荷運びの男がうなずく。

「それはそれで危ない。荷が重くなる」

村長は二人の話を聞き、深く息を吐いた。

「まずは隣町までだ」

全員が村長を見る。

「そこまでは紹介状を持たせる。隣村、道中の宿場、隣町の宿屋、街道沿いの商人。無理なら戻る。隣町から先は、現地で聞いて判断させる」

猟師のおじさんがうなずく。

「戻る条件を決めておくべきだ」

荷運びの男が指を折る。

「金が半分を切ったら戻る。靴が壊れて直せなければ戻る。地図と紹介状を失くしたら戻る。どちらかが熱を出したら戻る」

ロアンの母がすぐに言う。

「怪我をしたら?」

「程度による」

「程度じゃなくて戻る」

「母親の条件として追加だな」

村長は小さく笑った。

「よし。準備させよう」

ロアンの母も、ミルカの母も、まだ心配そうだった。

だが、止めるとは言わなかった。

いつまでも門の内側だけで生きられるほど、外の道は安定していなかった。

荷造り

ロアンの荷造りは、広場で行われた。

理由は簡単だった。

家の中でやると、誰も止める前に荷袋が膨れすぎるからである。

ロアンは荷を並べた。

剣。

薬草。

縄。

干し肉。

硬いパン。

余分な布。

鍋。

予備の靴。

木の皿。

石鹸。

釣り糸。

小刀。

火打ち石。

雨具。

なぜか小さな鍬。

ミルカが鍬を見た。

「これは何」

「鍬」

「見れば分かる。どうして旅に鍬がいるの」

「何が必要になるか分からないし」

「旅先で畑を耕す予定ある?」

「ないけど、穴を掘る時に」

「小さいスコップにして」

「鍬の方が頼れる」

「持つ人が頼れなくなる」

ロアンは鍬を見た。

「でも、穴を掘れる」

「鍬を持って歩けなくなったら、自分の墓穴を掘ることになる」

「怖い言い方をする」

「分かりやすいでしょ」

ミルカの荷も、簡単ではなかった。

手帳。

筆記具。

魔術用の小石。

符。

布。

針。

糸。

傷薬。

腹薬。

地図。

予備地図。

天気記録。

食料表。

宿代計算表。

小さな計量紐。

魔力測定用の古い石。

予備の筆。

予備の予備の筆。

ロアンは予備地図を持ち上げた。

「ミルカも多いよね」

「これは必要」

「その予備地図の予備は?」

「必要かもしれない」

「俺の鍬と同じじゃない?」

ミルカは黙った。

ロアンは勝ったような顔をする。

ミルカは静かに言った。

「地図は軽い」

「鍬は頼れる」

「地図は道を教える」

「鍬は道を作れる」

「鍬で街道を作る気?」

「大きく出れば」

「出ないで」

そこへ荷運びの男が来た。

二人の荷を見て、深くため息をつく。

「持てる荷と、持って歩ける荷は違う」

ロアンは鍬を隠そうとした。

見えていた。

ミルカは予備地図を重ね直した。

それも見えていた。

荷運びの男は、まず鍬を外した。

「鍬は置け」

「でも」

「置け」

「はい」

次に予備地図の予備を外す。

ミルカが小さく抵抗する。

「濡れた時に」

「油布に包め」

「破れた時に」

「破れないように扱え」

「なくした時に」

「なくすな」

ロアンが小声で言った。

「厳しい」

ミルカが小声で返す。

「鍬よりは残ってる」

「まだ言うか」

荷運びの男は、二人の荷を半分ほどに削った。

ロアンは不安そうに荷袋を見る。

「足りなくなったら?」

「その時は買う、借りる、作る、諦める」

「諦めるが入った」

「旅ではよく使う」

ミルカが食料表を見ながら言う。

「諦めるものを先に決めておくべきかも」

ロアンが言う。

「俺の鍬はもう諦めた」

「だいぶ早い旅の決断だったね」

「悲しい成長だ」

荷運びの男は、荷袋を二つ持ち上げて重さを確かめた。

「これなら歩ける。走れるかは別だ」

猟師のおじさんが言う。

「走る前提で旅をするな」

ロアンはうなずいた。

「歩く前提で」

ミルカが付け足す。

「戻る前提も忘れずに」

「はい」

「今の返事、私に?」

「全員に」

餞別

旅立ちの前日、村人たちは大げさな式をしなかった。

鐘も鳴らない。

旗もない。

祝福の歌もない。

ただ、用事のついでのように、少しずつ二人へ物を渡した。

ロアンの母は、縫い直した丈夫な外套を渡した。

「雨を全部防げるわけじゃないけど、ないよりまし」

「ありがとう」

「濡れたら乾かしなさい」

「うん」

「濡れたまま寝ない」

「うん」

「寒くても火のそばに近づけすぎない」

「うん」

「聞いてる?」

「聞いてる。外套を燃やさない」

「そこだけじゃない」

ロアンの父は、小刀を渡した。

刃は短いが、よく研がれている。

「薪を削るにも、縄を切るにも、食べ物を分けるにも使える」

「戦う用じゃない?」

「戦う前に使うことの方が多い」

猟師のおじさんは、罠紐と火打ち石を渡した。

「罠を仕掛けるなら、見回れ。仕掛けっぱなしにするな」

「はい」

「火は便利だが、目印にもなる。見つかりたい時と、見つかりたくない時を間違えるな」

「はい」

荷運びの男は、小さな袋を渡した。

中に仕切りがある。

「銅貨を全部一つに入れるな。宿代、食料代、予備に分けろ」

ロアンは袋を覗く。

「財布が三つあるみたいだ」

「財布を一つ落としても終わらないようにだ」

薬師のおばさんは、傷薬と腹薬を渡した。

「知らない町で腹を壊す子は多いよ」

ロアンは少し不安になる。

「腹薬、多くないですか」

「ロアンの分を多めにした」

「信用がない」

「胃袋にね」

ミルカの母は、師匠の手帳を入れる革袋を渡した。

「濡らさないようにね」

ミルカは両手で受け取る。

「うん」

「それから、全部を手帳通りにやろうとしないこと」

ミルカは少し驚く。

「いいの?」

父が言った。

「手帳を書いた人も、きっと全部は手帳通りに歩いていない」

ミルカは手帳を見た。

それから、静かにうなずいた。

村長は、二人の前に数通の紹介状を置いた。

「隣村、道中の宿場、隣町の宿屋、街道沿いの商人、南の薬師組合。困ったら見せろ」

ロアンは紹介状を受け取った。

「こんなにいいんですか」

村長は言った。

「手紙は荷物より軽い。だが、道を開くことがある」

ミルカが紹介状を丁寧に油布へ包む。

ロアンはそれを見て言った。

「予備地図より軽い」

ミルカは手を止めない。

「言うと思った」

「言わない方がよかった?」

「言って満足したなら、もう言わないで」

「満足した」

「よかった」

二人の荷は、少しずつ旅の形になっていった。

前夜

その夜、ロアンはなかなか眠れなかった。

荷袋は壁際に置いてある。

外套も畳んである。

小刀も入れた。

銅貨も分けた。

弁当は朝、母が持たせてくれる。

準備はした。

それでも、眠れない。

ロアンは手首を見た。

幼い頃、スライムに焼かれた跡が、薄く残っている。

もう痛くはない。

だが、光の角度によって細い線が見える。

あの日、門まで逃げ帰った。

次の日、また外へ出た。

雨で失敗して戻った日もあった。

翌日、もう一度出た。

今度は、もっと遠い。

門はすぐ後ろにない。

戻るにも時間がかかる。

ロアンが寝返りを打つと、戸口から母の声がした。

「怖い?」

ロアンは少し迷った。

それから、素直に答えた。

「怖い」

母は部屋へ入り、荷袋の横に腰を下ろす。

「怖いと分かってるなら、少し安心ね」

「安心なの?」

「怖くないって言う方が怖いわ」

ロアンは手首を見せた。

「これ、まだ少し残ってる」

母はその跡を見た。

「覚えておくにはちょうどいいって言ったでしょう」

「うん」

「怖いなら、準備しなさい。怖いなら、戻る道を見なさい。怖いなら、一人で全部やろうとしないこと」

「ミルカがいる」

「ミルカちゃんに全部やらせないこと」

「そこまで頼るつもりは」

母はじっと見る。

ロアンは目をそらした。

「……たぶん」

「たぶんを減らしなさい」

「はい」

母は笑った。

「行っておいで。戻ってきてもいいから」

ロアンは、その言葉をしばらく黙って聞いていた。

「うん」

別の家では、ミルカも手帳を開いていた。

魔法は、使う場所を知らねば形にならん。

その文字を、何度も読んだ。

母が灯りを持って入ってくる。

「眠れない?」

ミルカは少し気まずそうに手帳を閉じた。

「確認してただけ」

「眠れない時、人はよく確認を増やす」

「ロアンみたいなこと言わないで」

父が戸口から顔を出す。

「ロアンなら、確認せずに寝るんじゃないか」

「それはそう」

三人で少し笑った。

母は革袋の紐を確かめる。

「忘れ物は?」

「ないと思う」

「思う?」

ミルカは一瞬止まった。

「……ない。確認した」

「よろしい」

「でも、外で足りないものはあると思う」

父が言う。

「あるだろうな」

「それが怖い」

「足りないものを知るために行くんだろう」

ミルカは手帳を撫でた。

「うん」

母は静かに言った。

「ロアンくんを見てあげて」

「見てる」

父が付け足す。

「自分の足元も見ろ」

ミルカは苦笑した。

「それ、私も言った」

母が笑う。

「じゃあ、自分にも言いなさい」

ミルカは小さくうなずいた。

「うん」

旅立ち

朝。

村の門の前に、二人は立っていた。

ロアンは荷を背負い、剣を腰に下げている。

外套はまだ新しい匂いがした。

ミルカは杖と手帳の入った革袋を持ち、地図を油布に包んでいる。

村人たちが見送りに来ていた。

派手な祝福はない。

ただ、口々に言う。

「気をつけろよ」

「無理するな」

「金を一日で使うな」

「変な草を食べるな」

「知らない水をそのまま飲むな」

「ロアン、ミルカの言うこと聞けよ」

「ミルカ、ロアンを見てて」

ミルカが答える。

「見ています」

ロアンが言う。

「俺もミルカを見るから」

ミルカは即座に返した。

「自分の足元も見て」

村人たちが笑った。

ロアンは少し口を尖らせる。

「出発前から信用が薄い」

「足元は信用の問題じゃない。物理」

「物理に負けたことはある」

「何度もある」

「数えないで」

猟師のおじさんが、二人の前に立った。

「村の外では、門が近くにない」

ロアンもミルカも、真面目な顔になる。

「逃げるなら、逃げる先を作ってから進め」

ロアンはうなずいた。

猟師のおじさんは続ける。

「いつでも戻っていい。戻ることは、まだ失敗じゃない。失敗じゃなければ、また行けばいい」

ミルカが静かに聞いている。

「進む理由を考える時は、戻る理由も考えなさい」

ロアンは、その言葉をゆっくり繰り返した。

「戻る理由も」

「そうだ。進むだけなら誰でもできる。戻る理由を持って進めるやつだけが、遠くまで行ける」

荷運びの男が言う。

「荷を減らす勇気も忘れるな」

ロアンはうなずく。

ミルカもうなずく。

村長が紹介状の入った油布を確認した。

「困ったら、まず人に聞け。全部自分たちで解こうとするな」

ロアンが言う。

「聞いても分からなかったら?」

村長は笑った。

「別の人に聞け」

ミルカが小さく言う。

「大事」

ロアンも頷く。

「それは、俺にもできそう」

「できるだけ早めに聞いてね」

「迷ってから聞くのは?」

「遅い」

「厳しい」

父がロアンの肩を叩いた。

母は何も言わず、外套の襟を直した。

ミルカの母は革袋を軽く押さえ、父は短くうなずいた。

二人は門を出た。

振り返ると、村があった。

木の門。

古い石壁。

井戸。

畑。

見慣れた屋根。

そこに戻る道は、まだ見えている。

ロアンは少し息を吸った。

ミルカが隣で言う。

「行く?」

「行こう」

「どこまで?」

「まずは、隣町」

「よろしい」

「その先は?」

「その時考える」

ロアンは笑った。

「ミルカも意外と雑だな」

「計画的に未定なの」

「便利な言葉だ」

「雑よりまし」

二人は歩き出した。

初日の現実

村を出てしばらくは、何も起きなかった。

それだけで、少し拍子抜けする。

大きな魔物も出ない。

盗賊もいない。

道が急に崩れることもない。

ただ、荷が重い。

ロアンは肩紐を直した。

「旅って、もっとこう、始まった感じがするものかと思ってた」

ミルカは地図を見ながら言う。

「始まってるよ」

「今のところ、肩が痛いだけだ」

「肩から始まる旅もある」

「嫌な旅だな」

「荷造りで鍬を入れようとした人が言う?」

「鍬があれば肩の痛みをごまかせたかもしれない」

「重さで?」

「別の痛みで」

「却下して正解だった」

少し進むと、ロアンの靴紐が切れた。

ロアンは足元を見る。

「……早くない?」

ミルカは立ち止まり、荷から予備の靴紐を出した。

「入れておいてよかった」

「さすが」

「誰かが切りそうだったから」

「誰かって俺?」

「他に誰がいるの」

ロアンは靴紐を結び直しながら言う。

「旅って、思ったより靴紐だね」

「そう。靴紐」

さらに進むと、小川があった。

浅い。

渡れる。

ロアンは石の上を軽く渡った。

ミルカは荷を抱え、地図を濡らさないように慎重に渡る。

途中で足を滑らせかけた。

ロアンが手を伸ばす。

ミルカは踏みとどまる。

「大丈夫」

「今、危なかった」

「濡れてないから大丈夫」

「基準が地図寄りだな」

「地図は替えが少ない」

「俺の替えは?」

「ある程度、自力で乾く」

「扱いが雑」

「丈夫でしょ」

小川を越えた先、湿った道の端にスライムがいた。

ロアンは剣に手をかける。

ミルカが止める。

「倒さなくていい。右から回れる」

ロアンはスライムを見る。

確かに、右側は少し乾いた土が続いている。

「回った方が早い?」

「倒すよりは」

「じゃあ回ろう」

「成長」

「今のは褒めた?」

「少し」

「今日二回目」

「油断しないで」

「褒められるのに慣れてないから、むしろ緊張する」

二人はスライムを避けて進んだ。

敵がいることと、戦うべきことは違う。

それはもう、ロアンの中に少しずつ染み込んでいた。

宿代

夕方、二人は隣町の手前にある小さな宿場へ着いた。

旅人が数人。

荷馬車が一台。

馬小屋。

煙突から細く上がる煙。

村とは違う匂いがした。

焼いた肉の匂い。

濡れた革の匂い。

知らない人の声。

ロアンは少しだけ胸が高鳴った。

「宿場だ」

ミルカは財布袋を取り出す。

「まず宿代」

「景色を味わう前に?」

「景色は無料。宿は有料」

「現実的だな」

「初日から野宿したい?」

ロアンは空を見た。

雲が低い。

「雨、降る?」

「夜に降ると思う」

「宿にしよう」

「賢明」

宿の主人に値段を聞いて、ロアンは固まった。

「そんなに?」

主人は眉を上げる。

「二人で一部屋ならこの値だ」

ロアンはミルカを見る。

ミルカは財布を開き、黙って計算する。

「高い」

「野宿なら無料」

「夜に雨」

「高い」

「荷が濡れる」

「でも高い」

「初日から風邪をひくより安い」

ロアンはうなった。

「旅って、思ったより帳簿だね」

「そう。帳簿」

ミルカは村長の紹介状を出した。

「西の村長からです」

主人は紹介状を読み、少し顔を変えた。

「西の村長の紹介か。なら、馬小屋の横の小部屋でよければ安くする」

ロアンは紹介状を見た。

手紙は荷物より軽い。

だが、道を開くことがある。

村長の言葉を思い出す。

「すごいな、手紙」

ミルカは小さくうなずく。

「鍬より軽い」

「また鍬か」

「しばらく言う」

「三年?」

「今日のところは宿代分くらい」

二人は安い小部屋を取った。

馬小屋の横で、少し藁の匂いがした。

でも、屋根があった。

荷を置けた。

地図を濡らさずに済んだ。

それだけで、ロアンは十分ありがたいと思った。

田舎者二人

夜。

小部屋の中で、二人は初日の記録をつけていた。

歩いた距離。

使った金。

食べたもの。

避けた魔物。

切れた靴紐。

小川の位置。

宿代。

明日の予定。

ミルカが手帳に細かく書いていく。

ロアンは横で干し肉を噛みながら言った。

「町まで出るだけでこれか」

「まだ町の手前だけど」

「言わないで」

「事実」

「事実は時々痛い」

「だから記録するの」

ロアンは窓の外を見る。

宿場の灯りの向こうに、暗い街道が伸びている。

村では見ない数の足跡が、道に重なっていた。

人。

馬。

車輪。

旅人。

商人。

知らない人たち。

知らない行き先。

「俺たち、村の外だと本当に田舎者だな」

ミルカが筆を止める。

「うん」

「否定しない」

「否定する理由がない」

「少しは気を遣ってもいい」

「田舎者なのは悪いことじゃないでしょ」

ロアンは少し考えた。

「そうかな」

「知らないって分かってる方が、まだまし」

「知らないのに知ってるふりするより?」

「うん」

「それ、俺に言ってる?」

「少し」

「少しでよかった」

「だいぶ」

「増えた」

ミルカは手帳を閉じた。

「私も、もう少し何とかなると思ってた」

「ミルカでも?」

「私でも」

「魔法があるのに?」

「魔法で宿代は安くならない」

「紹介状は安くした」

「手紙の勝ち」

「魔法、負けたな」

「今日のところはね」

少し沈黙があった。

窓の外で、雨が降り始めた。

屋根を打つ音が、小さく部屋に響く。

ロアンは外套を見た。

濡れずに済んだ。

宿代は高かった。

でも、払う理由はあった。

「来てよかった」

ロアンは言った。

ミルカは小さくうなずく。

「うん。見ないと分からない」

「世界、広いな」

ミルカは窓の外を見る。

「まだ隣町の手前だけど」

「それでも広い」

「じゃあ、明日はもっと広いね」

「肩ももっと痛いかな」

「荷を減らす?」

「鍬はもうない」

「心の鍬を捨てて」

「何それ」

「余計な見栄」

「重そうだな」

「かなり」

ロアンは笑った。

ミルカも笑った。

雨の音は強くなっていった。

でも、荷は濡れていない。

二人は屋根の下にいる。

それが、初日の成果だった。

世界を見に行こう

翌朝。

雨は上がっていた。

空はまだ曇っているが、道は歩ける。

二人は安い朝食を分け合い、荷を詰め直した。

ロアンは靴紐を確認する。

ミルカは地図を広げる。

紹介状は油布に包んで、荷袋の奥へ入れた。

手帳も革袋にしまう。

ミルカは、師匠の言葉をもう一度見た。

魔法は、使う場所を知らねば形にならん。

ロアンは村長の言葉を思い出した。

手紙は荷物より軽い。

だが、道を開くことがある。

二人はまだ何者でもなかった。

ロアンは、剣士と名乗るには経験が足りない。

護衛と名乗るには失敗が多い。

旅人と名乗るには、まだ宿場で宿代に驚く。

ミルカは、魔術師と名乗るには自信が足りない。

賢者と呼ばれるには遠すぎる。

村の外では、二人とも田舎者だった。

宿代の高さに驚く。

荷物の重さに疲れる。

靴紐一本で立ち止まる。

スライム一匹を倒すか避けるかで相談する。

それでも、村の門の外へ出た。

隣町のさらに先を見に行くために。

ロアンが荷を背負う。

「行くか」

ミルカが手帳をしまう。

「行こう」

「どこまで?」

「まずは隣町」

「その先は?」

「見てから考える」

ロアンは笑った。

「世界を見に行こう」

ミルカは少しだけ呆れた顔をした。

「大きく出たね」

「昨日よりは広くなった」

「まだ隣町の手前から隣町だけど」

「それでも、昨日より遠い」

ミルカはうなずいた。

「じゃあ、昨日より遠い世界を見に行こう」

二人は宿場を出た。

足元には、濡れた道。

背中には、少し重い荷。

荷袋の中には、紹介状と手帳。

空には、まだ低い雲。

その先に、まだ知らない道が続いていた。

ロアンとミルカの旅立ちは、伝説の始まりではなかった。

神託はなかった。

聖剣もなかった。

祝福の鐘も鳴らなかった。

村人たちは、特別な使命を背負う者として二人を見送ったわけではない。

ただ、心配し、荷物を減らし、弁当を持たせ、紹介状を渡し、靴紐を余分に入れた。

二人は、自分たちを田舎者だと思っていた。

実際、そうだった。

それでも、世界を見に行くと決めた。

それは、まだ大きな言葉ではなかった。

ただ、若い二人の少し無謀で、少し真面目な旅の始まりだった。


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