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切れた線の後始末
魔王城、戦略会議室。
長卓の上には、転移ゲートの復旧表が広げられていた。
東部中継門。
西部中継門。
北方補給門。
中央中継門。
沿岸監視門。
旧街道監視門。
国境補助門。
前話で同時に切られた、人間側大陸の線である。
魔王大陸の本土門は残っている。
魔王城も、深森も、火山も、南方軍港も、門そのものは生きている。
だが、人間側大陸に張り出していた前線の線は傷ついた。
その遅れは、すでに数字になっていた。
転移門管理官が、青ざめた顔で報告する。
「中央中継門、仮復旧まで三日。東部中継門、仮復旧まで五日。北方補給門、復旧見込み七日。西部中継門は、座標石交換が必要です。旧街道監視門は、接続不安定。国境補助門は座標調整待ちです」
死霊宰相が地図上の光を確認した。
「連絡経路は代替できます。ただし、通常時の三倍から五倍の遅れが出ます」
竜将が舌打ちする。
「その遅れで拠点が落ちる」
転移門管理官が肩を震わせた。
「全力で復旧に当たっています」
「全力で間に合わねば意味がない」
竜将の声に、室内の魔族たちが身を固くした。
現魔王は手を上げた。
「竜将」
竜将が黙る。
「急がせろ。だが、急げば直るものではない」
「しかし」
「分かっている」
現魔王は、地図を見る。
東の封鎖。
西の遅れ。
北の補給。
中央の中継。
南の魔王大陸。
深海。
深森。
火山。
天空。
それぞれの線が、まだ完全には戻っていない。
「復旧班を増やせ。だが、東の封鎖から強戦力を抜くな。中央中継の仮復旧を最優先。東部中継を次に戻せ」
死霊宰相が記録する。
転移ゲート復旧、継続。
連絡遅延、通常時の三倍から五倍。
中央中継、最優先。
東部中継、第二優先。
西部中継、後回し。
その時だった。
会議室の外が騒がしくなる。
扉が開き、海魔将の副官が入ってきた。
鎧は裂け、肩には黒い海藻のようなものが絡みついている。
彼は膝をついた。
「深海拠点より、緊急報告」
会議室の視線が集まる。
副官は、声を絞り出した。
「深海拠点、陥落」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
深海拠点
深海拠点は、南の魔王大陸沿岸に置かれた海の砦である。
海底の岩礁と、潮の流れと、魔族の水圧結界によって守られていた。
人間の船団は、近づくことすら難しい。
近づけば沈む。
沈まなければ、迷う。
迷わなければ、潮に砕かれる。
そういう拠点だった。
海魔将の副官は、濡れた報告書を卓に置いた。
「沿岸国、商船連合、海軍を持つ複数国が、ほぼ同時に動きました。正面からは船団。沿岸部からは陽動。さらに、海中側の旧門が開かれました」
死霊宰相が問う。
「旧門」
「深海拠点が作られる以前、海底採掘に使われていた入口です。記録上は封鎖済み。場所も潮流で埋もれ、人間が到達することは不可能と判断されていました」
竜将が低く唸る。
「ならば、なぜ開いた」
副官は歯を食いしばった。
「不明です」
吸血侯が身を乗り出す。
「人魚は」
「確認しておりません」
「水棲種族は」
「確認できませんでした。少なくとも、我らが知る水棲種族の痕跡はありません」
「勇者は」
死霊宰相が問う。
副官は首を横に振った。
「確認されていません。聖剣を持つ者、聖痕を持つ者、中央神殿の旗を掲げる者はいませんでした」
「敵の主力は」
「沿岸国の海軍。商船連合の雇い兵。漁村からの水先案内人と思われる者たち。ほか、船大工、潜水具を扱う職人の姿も確認されています」
竜将が苛立つ。
「漁村の水先案内人に深海拠点を落とされたというのか」
副官は返答できなかった。
現魔王が静かに問う。
「拠点中枢は」
「制圧されました。海魔将、戦死。水圧結界、停止。外海側の砲台は半数以上沈黙」
「人間側の損耗は」
副官は、そこでようやく顔を上げた。
「甚大です。船団の三割以上が沈没、または航行不能。上陸は可能になりましたが、即時の内陸進軍は困難と思われます」
死霊宰相が地図に印をつける。
深海拠点の黒い札が倒される。
しかし、その先へ伸びる矢印はない。
現魔王は地図を見つめた。
「拠点は落ちた」
誰も否定しない。
「だが進軍は止まった」
死霊宰相がうなずく。
「はい。人間側船団は補給再編を必要としています。魔王大陸沿岸への上陸は成功しましたが、内陸へ動く余力は限定的です」
竜将が拳を握る。
「落ちたことに変わりはありません」
「変わらない」
現魔王は答えた。
「これは敗北だ」
会議室が静まる。
「だが、勇者の連続突破ではない」
吸血侯が、ゆっくりと目を細めた。
人魚はいなかった
「人魚はいなかった」
現魔王が言った。
吸血侯が答える。
「確認されていません」
「勇者もいなかった」
「確認されていません」
「聖剣も、聖痕も、中央神殿の旗もない」
「はい」
「では、深海拠点を落としたのは軍だ」
竜将が、歯を食いしばって言う。
「軍に落とされているのですぞ」
「分かっている」
現魔王の声は冷えていた。
「だから、深海拠点の再奪還計画を立てる。海上補給を断つ。上陸した部隊を内陸へ進ませるな。沿岸砲台の残存魔族を集めろ」
死霊宰相が筆を動かす。
「しかし、陛下」
吸血侯が静かに言う。
「過去の勇者一行なら、深海拠点を落とした後、そのまま次の土地へ進んだ」
「そうだ」
現魔王はうなずく。
「拠点を落とし、次へ進む。深海から深森へ。深森から火山へ。火山から天空へ。そして魔王城へ。記録に残る勇者の道は、そのように伸びている」
竜将が地図を見る。
深海拠点の先に、まだ矢印はない。
「今回は、進んでいない」
「船団が止まっています」
死霊宰相が補足した。
「勝利はしたが、損耗が大きすぎる。補給を立て直すまで内陸へは進めません」
現魔王は言った。
「深海は落ちた。だが、勇者はいない」
記録官が、その言葉をすぐに書こうとして、手を止める。
現魔王は続けた。
「記録にはこう残せ。深海拠点、陥落。人魚、確認されず。勇者、確認されず。人間側船団、損耗甚大。内陸進軍、停止」
記録官が、今度は迷わず筆を走らせた。
森へ入る軍
深海拠点が落ちたことで、南の魔王大陸の沿岸部に人間の足場ができた。
だが、沿岸から内陸へ向かうには、深森がある。
迷いの森。
勇者の記録に、何度も現れる場所である。
深森拠点は、その奥にあった。
森に入った者は、戻れない。
導きの石がなければ、道を失う。
祠と石を壊した時、魔王軍はそう判断していた。
森そのものは残した。
道具を砕いた。
祠を壊した。
導きの石は、もうない。
だから深森は、まだ機能している。
そのはずだった。
数日後。
深森からの定時報告が遅れた。
転移ゲートの線はまだ完全には戻っていない。
伝令は迂回を強いられ、鳥は途中で落ち、密偵は森の外縁で迷った。
報告が届いた時には、すでに遅かった。
深森拠点の残存兵が、泥と樹液にまみれて会議室へ運び込まれた。
膝をついたまま、彼は言った。
「深森拠点、陥落」
竜将が立ち上がる。
「またか」
死霊宰相が、すぐに確認する。
「導きの石は破壊済みだ」
残存兵は答えた。
「はい。我らもそう聞いていました」
「では、なぜ入れた」
「不明です」
吸血侯が問う。
「石を持つ者は」
「確認していません。導きの石らしきものはありませんでした」
「神官は」
「中央神殿の旗はありません。ただ、地方神官や薬師、森に詳しい猟師、測量士のような者がいました」
「歌は」
残存兵は顔を上げた。
「歌?」
吸血侯は少しだけ黙る。
「いや、続けろ」
残存兵は、震える声で続けた。
「人間軍は、何度も迷っていました。毒にもやられています。魔物にも襲われ、補給も失っています。ですが、止まりきらなかった。少しずつ、森の奥へ入ってきました」
死霊宰相が記録する。
「人間側損耗は」
「甚大です。拠点は落ちました。しかし、攻略軍は森の出口で停止。次へ進む余力はありません」
地図の上で、深森拠点の札が倒される。
だが、そこから火山へ伸びる矢印はない。
現魔王は低く言った。
「ここでも止まったか」
導きの石は砕いた
「導きの石を砕かなければ、もっと早く抜けられた可能性がある」
現魔王が言った。
死霊宰相はうなずく。
「その可能性は高いでしょう。今回の人間軍は、森で大きく損耗しています」
竜将が言う。
「だが落ちた」
「落ちた。だから敗北だ」
現魔王は、そこを曖昧にしなかった。
「深森拠点は失った。森を守りきれなかった。導きの石を砕いても、完全には止められなかった」
残存兵の肩が震える。
現魔王は、彼を責めなかった。
「だが、勇者一行の突破ではない。軍による強行突破だ」
吸血侯が問う。
「陛下は、導きの石の破壊を有効だったと見ますか」
「有効だったかどうかは、比較でしか測れぬ」
現魔王は地図を見る。
「導きの石があれば、森の損耗は減った可能性がある。拠点を落とした後、そのまま火山へ向かう力が残った可能性もある」
死霊宰相が記録する。
「現状、人間側攻略軍、森出口にて停止。毒、迷走、補給欠乏により再編中」
「ならば、完全ではないが、遅らせた」
竜将が低く唸る。
「遅らせただけで、落ちている」
「そうだ」
現魔王は竜将を見た。
「落ちた。だから次を考える。だが、何に落とされたのかを誤るな」
竜将は黙った。
現魔王は、記録官へ言う。
「深森拠点、陥落。導きの石、確認されず。勇者、確認されず。人間側攻略軍、損耗甚大。火山方面への進軍、確認されず」
記録官が書く。
筆の音だけが、会議室に響いた。
火山で洪水
深森拠点の陥落処理が終わらぬうちに、火山方面から異常報告が届いた。
火山拠点。
溶岩、排熱路、火山ガス、熱風、硫黄の谷。
通常の軍は、近づく前に崩れる。
水の精霊王の伝承が残る地域でもあった。
魔王軍は、かつて調査した。
水の精霊王、実在未確認。
古い堤、水路、雨乞いの祠、山腹の水溜まり。
記録には残した。
だが、火山拠点を直接脅かすものとは見なされていなかった。
その火山拠点から来た残存兵は、泥と火山灰にまみれていた。
鎧の隙間に黒い砂が入り、髪は濡れ、目は赤く焼けている。
彼は、会議室へ入るなり崩れ落ちた。
「火山拠点、機能不全」
竜将が目を見開く。
「何だと」
「司令官、戦死。外縁防衛線、流失。排熱路に大量の水が流入しました」
竜将が怒鳴る。
「火山で洪水だと?」
残存兵は震えながら答えた。
「はい。上流から大量の水が押し寄せました」
「雨か」
「違います」
「水の精霊王か」
「確認しておりません」
会議室に、重い沈黙が落ちる。
残存兵は続けた。
「ですが、水が来ました」
死霊宰相が資料をめくる。
「古い堤の記録があった地域か」
吸血侯が言う。
「以前の調査では、現地に脅威となる堤は確認されていません」
残存兵が、かすれた声で言った。
「地形が変わっていました。山腹の崩落、古い水路跡、埋もれた石積み。人間側が何かを掘り返した可能性があります」
竜将が拳を握る。
「水の精霊王ではなく、土木か」
誰も答えない。
残存兵は続ける。
「山岳都市の工兵、火山周辺の領主兵、傭兵、水利技師と思われる者たちがいました。彼らも無傷ではありません。洪水後の火山地帯は不安定で、進軍不能。拠点は落ちましたが、その先へ進む軍はありません」
死霊宰相が地図を見る。
火山拠点の札が倒される。
しかし、魔王城へ向かう矢印は、また伸びなかった。
水の名はなかった
「水の精霊王はいなかった」
現魔王が言った。
吸血侯が答える。
「確認されていません」
「だが水は来た」
「はい」
「伝承の名は誤りでも、現象は残る」
死霊宰相が、筆を止めた。
竜将が苛立ったように言う。
「ならば、第六調査は誤りだったのですか」
「実在未確認という結論は変わらぬ」
現魔王は答えた。
「水の精霊王という存在は見つからなかった。今回も確認されていない。だが、伝承が指していたものが、水そのもの、堤、水路、山腹の貯水であった可能性はある」
吸血侯が静かに言う。
「人魚は確認されず、海路は開かれました。水の精霊王は確認されず、洪水は起きました」
「名ではなく、作用を見ろ」
現魔王は言った。
「だが、今はそれだけでは足りぬ。火山を落としたのは誰だ」
残存兵が答える。
「軍です。山岳都市の工兵、火山周辺の領主兵、傭兵、水利技師と思われる者たちです」
「勇者は」
「確認されていません」
「聖剣は」
「確認されていません」
「聖痕は」
「報告なし」
「中央神殿の旗は」
「ありません」
現魔王は目を閉じた。
深海。
深森。
火山。
すべて落ちた。
だが、勇者はいない。
竜将が低く言う。
「拠点を三つも失って、勇者がいないことに何の意味がありますか」
現魔王は目を開く。
「意味はある」
「陛下」
「過去の魔王は、拠点を落とされた後、そのまま勇者に玉座へ届かれた。少数が進み、拠点をつなぎ、守りを抜け、最後に魔王城へ来た」
地図には、倒れた三つの札がある。
だが、それをつなぐ一本の線はまだない。
「今回は違う。各軍は拠点を落とし、そして止まっている」
人間側の消耗
深海沿岸。
燃える船の残骸が、黒い波に揺れていた。
甲板では、負傷兵がうめいている。
帆は裂け、櫂は折れ、船腹には大きな穴が開いている。
沿岸国の指揮官が、血のついた外套を押さえながら叫んだ。
「内陸へ進む? この状態でか」
誰も答えない。
船大工たちは、沈みかけた船をつなぎ止めている。
漁村の水先案内人は、岩に腰を下ろして海を見ていた。
勝った。
だが、船団はぼろぼろだった。
指揮官は吐き捨てる。
「補給を立て直せ。次はその後だ」
深森の出口。
兵士たちは毒消しを求めて倒れていた。
足を引きずる者。
目を布で覆う者。
荷車を捨てる者。
地図を握りつぶす測量士。
疲れ切った猟師。
祈りを唱える地方神官。
誰かが言った。
「火山へ進むのは無理だ」
返事はない。
森の中で、すでに多くが残っていない。
別の兵が、かすれた声で言う。
「まず、森から出た者を数えろ」
火山地帯。
泥と蒸気が混ざっていた。
流された防衛線の残骸が、熱い泥に埋もれている。
人間側の工兵たちも倒れていた。
火山灰を吸い込んだ者が咳き込み、水に巻かれた者が震えている。
道はぐずぐずに崩れ、荷車は車輪を沈めて動けない。
山岳都市の工兵長が、泥まみれの腕を見下ろして言った。
「勝ったんじゃない」
そばにいた領主兵が顔を上げる。
工兵長は、崩れた火山道を見た。
「通れるようにしただけだ」
三つの戦場で、人間側は勝った。
そして、それぞれ止まった。
三拠点陥落
魔王城。
長卓の地図には、三つの黒い札が倒れていた。
深海拠点、陥落。
深森拠点、陥落。
火山拠点、陥落。
死霊宰相が、戦況を整理する。
「三拠点はいずれも陥落。ただし、人間側各軍の損耗は甚大。魔王城方面への大規模進軍は確認されていません」
竜将が言う。
「拠点を三つも失って、安心する理由などありますか」
現魔王は竜将を見る。
「安心はしていない」
「ならば」
「だが、見ろ」
現魔王は地図を指した。
「深海を落とした軍は、深森へ進んでいない」
黒い海沿いの印。
そこから内陸へ伸びる矢印は止まっている。
「深森を落とした軍は、火山へ進んでいない」
森の出口で、線は途切れている。
「火山を落とした軍は、天空へ進んでいない」
火山の先には、まだ空白がある。
吸血侯が続けた。
「過去の勇者一行なら、次へ進んだ」
「そうだ」
現魔王は言う。
「今回は、拠点ごとに軍が動いている。勝っているが、止まっている。勇者の道ではない」
竜将は、不満を隠さない。
「しかし、拠点は落ちています」
「落ちている。だから、軍としての敗北だ」
現魔王は、三つの倒れた札を見る。
「だが、勇者に突破された敗北ではない」
死霊宰相が記録する。
三拠点、陥落。
人間側各軍、損耗甚大。
魔王城方面への連続進軍、確認されず。
勇者一行、確認されず。
竜将が問う。
「では、我らは何に負けたのです」
現魔王は答えた。
「軍だ」
「軍なら、軍で潰せます」
「潰す。だが、軍を動かした線を見つけてからだ」
吸血侯が頷く。
「各国軍の背後に、何者かが線を引いている可能性はあります」
「それは探す」
「しかし、勇者ではない、と」
「少なくとも、我らが知る勇者ではない」
勇者はいない
現魔王は、対勇者戦略の項目を一つずつ確認した。
東の勇者血族。
封鎖継続。
中央神殿。
神託機能停止。
聖剣。
封印中。
聖痕。
噂なし。
神託を受けた勇者。
確認なし。
中央神殿に認定された勇者。
確認なし。
勇者一行。
確認なし。
灰色外套。
活動報告途絶。
門破壊現場および三拠点攻略現場での確認なし。
吸血侯が報告する。
「各拠点攻略軍に、勇者と呼ばれる中心人物はいません。各国で功績を挙げた指揮官、案内人、技師、傭兵はいますが、全軍に共通する旗印ではありません」
死霊宰相が続ける。
「聖剣の目撃なし。聖痕の噂なし。中央神殿の勇者認定なし。東の血筋は檻の中です」
竜将が腕を組む。
「ならば、勇者は出ていない」
「記録上は、そうだ」
現魔王は言った。
「だが、見えない線はある。勇者がいないからといって、敵がいないわけではない」
吸血侯が頭を下げる。
「調査を続けます」
「神官、商人、密使、地方領主、工兵、水先案内人、測量士。人間どもを結んだ者を探せ」
「は」
死霊宰相が筆を走らせる。
対勇者戦略、従来型勇者の発生を抑止。
軍事拠点、三箇所陥落。
人間側進軍、停止。
見えない連絡線、調査継続。
その文面は、勝利報告ではなかった。
敗北報告でも、単純なものではなかった。
拠点は落ちた。
それは否定できない。
だが、勇者の道はまだ見えない。
現魔王は、長卓の北側を見た。
天空要塞の札が、まだ立っている。
魔王城へ至る最後の道。
空の目。
そこからの報告は、まだ異常なしだった。
拠点は落ちる
夜。
会議が終わった後も、現魔王は一人で地図を見ていた。
深海。
深森。
火山。
三つの札は倒れている。
それは大きな敗北だった。
魔王軍は三つの拠点を失った。
海の砦を失った。
森の砦を失った。
火の砦を失った。
その事実は、どんな分析でも軽くならない。
しかし、魔王城へ向かう一本の線は、まだ地図の上に描けなかった。
深海を落とした軍は、深森へ進めなかった。
深森を落とした軍は、火山へ進めなかった。
火山を落とした軍は、天空へ進めなかった。
どの軍も勝ち、そして止まった。
聖剣を掲げる者はいない。
聖痕の噂もない。
中央神殿に認められた勇者もいない。
東の血筋は檻の中にいる。
過去の勇者一行のように、拠点から拠点へ進む少数の影は見えなかった。
背後で、吸血侯の声がした。
「その判断でよろしいのですか」
現魔王は振り返らない。
「よろしいかどうかではない。現時点で見える事実だ」
「見えないものは」
「探す」
魔王は、天空要塞の札を見た。
「だが、魔王城への接近はまだない。天空要塞が見ている」
吸血侯は頭を下げた。
現魔王は、地図の上に倒れた三つの札を見下ろす。
「拠点は落ちる」
低い声だった。
「だが、勇者はいない」
その夜、魔王軍の記録にはこう書かれた。
深海拠点、陥落。
深森拠点、陥落。
火山拠点、陥落。
人間側各軍、損耗甚大。
魔王城方面への連続進軍、確認されず。
聖剣、確認されず。
聖痕、確認されず。
中央神殿認定勇者、確認されず。
東方勇者血族、封鎖継続。
勇者、確認されず。
魔王軍は、三つの拠点を失った。
それは紛れもなく敗北だった。
だが、切れた線の向こうから、勇者はまだ現れなかった。
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