召喚士が召喚した召喚士~基礎から始める召喚マネジメント講座~ 第14.5話 盗賊は竜の寝息を聞いた

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創作実験TOP異世界ファンタジー召喚士ものLv1召喚士が呼び出したのは、Lv99召喚士だった作品紹介低位精霊を呼ぶだけの実習だった。見習い召喚士リオルは、水精霊を呼ぼうとして失敗する。崩れかけた召喚を止めようと補助札に触れた結果、召喚陣から…

一 追われる者

 追っ手の足音は、思ったより近かった。

 森の夜明けは薄い。

 霧が低く流れ、濡れた枝が白く光っている。鳥が鳴くにはまだ早く、獣が動くには少し遅い。そんな中途半端な時刻に、黒い服の男は斜面を滑るように下っていた。

 黒髪。

 ぼろぼろの黒いマント。

 音の少ない靴。

 腰には短剣。

 盗賊団の統領だった男は、今は盗賊団に追われる側になっていた。

 背後で枝が鳴る。

 男は走らない。

 走れば呼吸が乱れる。呼吸が乱れれば、気配が膨らむ。気配が膨らめば、追っ手に拾われる。

 だから、歩く。

 歩いているように見せながら、逃げる。

 落ち葉を踏まない。濡れた石は避ける。枝の先を揺らさない。風が吹く瞬間にだけ、黒いマントの裾を動かす。

 追う側だった頃と同じことを、今は追われる側としてやっていた。

 男は倒木の陰へ身を滑り込ませる。

 体を低くする。

 息を止めるのではない。止めれば、次に吸う時に乱れる。細く、浅く、森の湿った空気に紛れるように吸う。

 足音が近づいた。

 一人。

 いや、二人。

 後ろにもう一人。

 腕は悪くない。

 だが、焦っている。

 焦る者は、森に嫌われる。

 男は倒木の影で、動かなかった。

 追っ手の一人が、すぐ近くで足を止める。

「こっちか?」

「足跡が消えてる」

「統領の足跡がまともに残るわけねえだろ」

「もう統領じゃねえ」

「……そうだったな」

 男は、ほんの少しだけ目を細めた。

 統領ではない。

 その通りだった。

 盗賊団を抜けると言ったのは自分だ。

 追えばいい、と言ったのも自分だ。

 追われる覚悟はあった。

 それでも、実際に背後から足音が迫ると、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 怖い。

 怖いから、体の輪郭がはっきりする。

 生きている、と分かる。

 足音が遠ざかっていく。

 男はまだ動かない。

 追っ手の気配が完全に森へ溶けるまで、倒木の下で待つ。

 待つことには慣れていた。

 二時間でも。

 半日でも。

 死のすぐ隣で、動かずに待つことには。

 その待つ時間が、男の記憶を、あの洞窟の奥へ引き戻していく。

 地鳴りのような、低い音。

 山そのものが眠っているような響き。

 赤竜の寝息。

二 誰も戻らない場所

 始まりは、金の話だった。

 盗賊団の隠れ家は、森の外れにあった。

 古い製材小屋を改造した場所で、外から見れば半分崩れた廃屋にしか見えない。だが、床下には物資が隠され、壁の裏には武器が仕込まれ、裏口は三つあった。

 夜だった。

 焚火は小さい。

 炎を高くすれば、煙が見える。笑い声を大きくすれば、森が覚える。盗賊たちは、騒いでいるようで、音の出し方は心得ていた。

「赤竜の洞窟には、王都の金庫が三つ買えるほどの財宝があるらしいですぜ」

 部下の一人が、声を落として言った。

「三つ? 十は買える」

 別の男が鼻で笑う。

「買う前に焼かれるがな」

 小さな笑いが起きた。

 統領は、その笑いを聞いていた。

 金庫がいくつ買えるかには興味がなかった。

 宝石の山にも、王冠にも、古代魔道具にも、特に心は動かなかった。

 ただ、一つの言葉だけが引っかかった。

「誰も入ったことがないのか」

 統領が聞くと、部下たちの笑いが止まった。

「入った奴はいますよ」

 部下の一人が肩をすくめる。

「戻った奴がいないだけで」

「なるほど」

「まさか、行くんですか?」

 統領は、焚火の向こうを見た。

 火は小さい。

 それでも、赤く揺れている。

「少し、見てくる」

「見てくるって、赤竜の巣ですよ」

「だからだ」

 部下たちは顔を見合わせた。

 普通の盗賊なら、財宝を取りに行く。

 大きな荷袋を用意する。荷運びを連れていく。見張りを置く。退路を確保する。できれば赤竜のいない時を狙う。

 だが、統領が見ていたのは財宝ではなかった。

 誰も戻らない場所。

 誰も近づけない場所。

 一歩間違えれば死ぬ場所。

 そこへ、自分の足で入る。

 その考えだけで、胸の奥が少し熱くなった。

三 同行禁止

 隠れ家の奥で、地図が広げられた。

 部下たちは当然のように人数の話をした。

「何人連れていきます?」

「誰も」

「誰も?」

「一人で行く」

「荷は?」

「持てる分だけでいい」

「財宝を取りに行くんでしょう?」

「違う」

「違う?」

 統領は、地図の西の山脈を指でなぞった。

「赤竜の寝息を聞きに行く」

 部下たちは黙った。

 少しして、一人が言う。

「……統領、たまに言うことが詩人なんですよね」

「いや、今のは死人です」

「上手い」

「褒められても困るんですが」

 統領は笑わなかった。

 だが、否定もしなかった。

 死人。

 近い。

 近ければ近いほどいい。

 ただし、死にたいわけではない。

 死の近くにいる時だけ、生きていることがよく分かる。

 人数が増えれば気配が増える。

 誰かが怖がれば呼吸が乱れる。

 誰かが欲を出せば音が出る。

 誰かが戦えば終わる。

 だから、一人で行く。

 荷も少なくていい。

 財宝を運び出すためではない。

 赤竜の寝息を聞き、その懐から戻ってくるためだった。

四 風の精霊具

 統領は私物箱から、小さな精霊具を取り出した。

 鳴らない鈴だった。

 金属のように見えるが、振っても音はしない。表面には風を模した細い文様が刻まれている。触れれば、わずかに冷たい。

「それ、例の精霊具ですか」

「風を少し借りるだけのものだ」

「それがあれば、赤竜にも気づかれない?」

「それだけなら無理だ」

「無理なんですか」

 部下の顔が露骨に曇る。

 統領は鈴を指先で転がした。

「足音を立てる奴が持てば、足音が少し小さくなるだけだ」

「統領が持つと?」

「風が少しそよぐ」

「違いが分からないんですが」

「分からないなら、向いていない」

 風の精霊具は、便利な道具ではない。

 足音を消すわけではない。

 姿を隠すわけでもない。

 空気の乱れ、衣擦れ、呼吸の気配を、周囲の風に薄く散らす。

 それだけだ。

 雑に動けば、雑な気配が残る。

 走れば、風が不自然になる。

 金属音を立てれば、消えない。

 戦えば、終わりだ。

 効果も長くは続かない。一度使えば、次に同じように風を借りられるまで二時間ほど待つ必要がある。

 だからよかった。

 万能ではないから、そこに自分の技量がいる。

 自分の技量がなければ死ぬ。

 その程度の道具だから、持っていく価値があった。

五 赤竜の山

 夜明け前、統領は一人で隠れ家を出た。

 荷物は少ない。

 硬貨は持たない。

 金属音が出る留め具は外した。

 水袋は布で巻いた。

 短剣は一本だけ。

 黒い服に、ぼろぼろの黒いマント。

 派手なものは何もない。

 赤竜の山へ近づくほど、空気が乾いた。

 鳥の逃げ方を見る。

 草の倒れ方を見る。

 風向きを読む。

 土を踏む時は、踏んだ跡が影に隠れる場所を選ぶ。

 急がない。

 急ぐ者は音を立てる。

 音を立てる者は死ぬ。

 赤竜の山では、速さよりも、存在しないことの方が大事だった。

 統領は、無謀ではなかった。

 無謀な者は死ぬ。

 怖がりすぎる者も死ぬ。

 欲を出す者も死ぬ。

 赤竜の領域へ近づくということは、自分の呼吸一つまで敵にするということだった。

 統領は、その感覚が嫌いではなかった。

六 洞窟入口

 洞窟の入口は、想像していたより静かだった。

 熱を帯びた岩。

 風化した警告文。

 古い術式の痕跡。

 奥に続く暗い穴。

 そして、見えない場所にいる何かの気配。

 ガーディアン。

 統領は足を止めた。

 戦わない。

 戦えば、洞窟が覚える。

 洞窟が覚えれば、赤竜が気づく。

 統領は鳴らない鈴を指で押さえた。

 風が一瞬だけ、体の周りを撫でる。

 音が消えたわけではない。

 音が、洞窟の奥から流れてくる風の癖に紛れた。

 統領は歩く。

 一歩。

 待つ。

 一歩。

 待つ。

 足は石を踏んだ。

 しかし石は、踏まれたことを忘れたように沈黙した。

 布が揺れた。

 しかしその揺れは、洞窟の風に混ざった。

 統領は進んだ。

 進む、というより、そこに最初からあった影の位置を変えていった。

七 最初の二時間

 最初の潜伏場所は、小さな横穴だった。

 人間一人がやっと座れる程度の隙間。

 ガーディアンの巡回から外れている。

 風の精霊具の効き目が切れる前に、統領はそこへ体を滑り込ませた。

 そこから二時間、動かなかった。

 咳もしない。

 水も飲まない。

 眠らない。

 二時間は長い。

 ただ座っているだけなら長い。

 見つかれば死ぬ場所で座っているなら、なお長い。

 だが、統領にとって、その二時間は悪くなかった。

 死が近くにいる。

 すぐ隣で息をしている。

 それだけで、胸の奥の空洞が少し埋まる。

 何もしない時間ではない。

 何もできない時間だった。

 動けば死ぬ。

 音を立てれば死ぬ。

 呼吸を乱せば死ぬ。

 その条件の中で、まだ生きている。

 統領は、それを静かに味わっていた。

八 白い守り手

 再び鈴を押さえ、進む。

 洞窟の中層に、白く滑らかなものがいた。

 土や石の塊ではない。

 表面は陶器のように滑らかで、関節は不自然なほど静かに動く。

 小型のガーディアンだった。

 小さいから弱いわけではない。

 むしろ、小さいものほど速い。

 統領は、そういうものを何度も見てきた。

 戦わない。

 近づきすぎない。

 風の流れを読む。

 床の反響を聞く。

 ガーディアンの首がわずかに動いた。

 統領は止まる。

 止まるというより、洞窟の影になる。

 汗がこめかみを伝う。

 汗が落ちれば音になる。

 統領は頬の筋肉だけで、汗の流れを変えた。

 一歩進むために、百の理由を探す。

 一歩進まないために、千の理由を数える。

 盗みとは、手を伸ばすことではない。

 手を伸ばしてもよい一瞬を、死なずに待つことだった。

九 赤竜の寝息

 二度目の潜伏場所は、崩れた石柱の陰だった。

 狭い。

 足を伸ばせない。

 体勢も変えられない。

 鈴はもう使えない。

 次に風を借りるまで、また待たなければならない。

 その時、洞窟の奥から低い音が響いた。

 最初は、地鳴りかと思った。

 違う。

 規則がある。

 深く、長く、洞窟の空気を押している。

 赤竜の寝息だった。

 統領は笑いそうになった。

 怖い。

 怖いのに、嬉しい。

 自分は今、赤竜の寝息が聞こえる場所にいる。

 まだ生きている。

 死に近づくほど、世界は細かくなる。

 石の冷たさ。

 布の重さ。

 喉の奥の乾き。

 爪の下に入った砂。

 自分の心臓の音。

 それらが、一つずつはっきりしていく。

 生きている。

 恐ろしいほど、生きている。

十 竜の間

 竜の間は、洞窟の奥にあった。

 赤い光。

 熱で揺らめく空気。

 財宝の反射。

 そして、中央に赤竜がいた。

 眠っているように見えた。

 巨大な翼を畳み、長い首を財宝のそばに横たえている。

 瞼は閉じていた。

 だが、竜が本当に眠っているかどうかなど、誰にも分からない。

 統領は立たなかった。

 影の中に沈んだ。

 ここまで来た。

 誰も戻らなかった場所。

 誰も踏み込めなかった場所。

 赤竜の呼吸が、自分の胸を押す場所。

 金貨よりも、宝石よりも、その事実の方が価値があった。

 財宝は山ほどあった。

 だが、統領はその山を見ていなかった。

 彼が見ていたのは、赤竜の閉じた瞼だった。

 その瞼が開けば、自分は死ぬ。

 それが、たまらなく鮮やかだった。

十一 小さな輪

 それでも、証が必要だった。

 何も取らずに戻れば、ただ見ただけになる。

 あの場所へ行ったことを、自分の手の中に残したかった。

 統領は、まず金貨を一枚取った。

 盗賊としての癖だった。

 山ほどある金貨のうちの一枚。

 それならば、誰にも気づかれない。

 そう思った。

 だが、指先に乗った金貨は、奇妙なほど軽かった。

 軽い。

 あまりにも軽い。

 これを持ち帰っても、赤竜の寝息を聞いた証にはならない。

 統領は金貨を握ったまま、財宝の奥へ視線を移した。

 大きな財宝には手を出さなかった。

 宝石箱も避けた。

 王冠も、剣も、目立つ魔道具も避けた。

 最も小さく見えるものを選んだ。

 翼の意匠が刻まれた、小さな古い輪。

 表面には赤黒い筋が走っている。

 手に近づけると、ほんのり熱い。

 宝石箱ではない。

 金貨でもない。

 王冠でもない。

 これなら、赤竜も気にしないだろう。

 それが、統領の最初で最大の誤算だった。

十二 帰り道

 帰りは、行きよりも難しかった。

 盗る時より、持って帰る時の方が人は死ぬ。

 統領はそれを知っていた。

 盗んだ輪は小さい。

 だが、重かった。

 物としての重さではない。

 死の近くから持ち帰るものは、重い。

 もう一つ、手の中に重さがあった。

 金貨だ。

 財宝庫で取った、一枚だけの金貨。

 盗賊なら、持ち帰るべきもの。

 部下に見せれば分かりやすい戦果になる。

 売れば酒代にはなる。

 だが、統領は途中で足を止めた。

 違う。

 これは違う。

 金貨は、どこにでもある。

 価値はある。

 だが、赤竜の寝息とは関係がない。

 統領が欲しかったのは金ではなかった。

 あの瞼の前に立ち、生きて戻ったという事実だった。

 金貨は、ただの欲だった。

 欲は音を立てる。

 統領は、壁際に細い割れ目を見つけた。

 逃げ込むには狭すぎる。

 隠れるにも浅すぎる。

 ただ、小さなものを落とすには十分だった。

 統領は膝をつき、金貨を指先から離した。

 捨てた、つもりだった。

 金貨は壁の割れ目に触れ、音もなく奥へ滑った。

 統領は、それを確かめなかった。

 確かめる時間が惜しい。

 確かめる理由もない。

 金貨はもう、彼のものではなかった。

 統領は輪だけを握り直す。

 これは財宝ではない。

 証だ。

 赤竜の懐に入り、生きて戻った証。

 統領は、来た時と同じように戻った。

 鈴を使う。

 進む。

 隠れる。

 二時間待つ。

 また進む。

 ガーディアンの気配を避ける。

 洞窟の風に紛れる。

 赤竜の寝息が遠ざかる。

 遠ざかるほど、体が震えそうになる。

 それでも震えない。

 震えれば音になる。

十三 生還

 洞窟の外へ出た時、空はまだ薄暗かった。

 統領は外の空気を吸った。

 膝が少し笑う。

 手も震えている。

 それでも、統領は口元だけで笑った。

 生きていた。

 赤竜の寝息を聞いた。

 赤竜の財宝に触れた。

 赤竜の懐から戻った。

 まだ、心臓が動いている。

 隠れ家へ戻ると、部下たちは本気で驚いた。

「統領……本当に戻ったんですか」

「戻ったな」

「何を持ってきたんです?」

 統領は、小さな輪を見せた。

「証拠だ」

「財宝じゃなくて?」

「似たようなものだ」

「いや、違うと思います」

 部下はそう言ったが、統領は聞いていなかった。

 彼にとって、それは金ではなかった。

 売るための品でもなかった。

 赤竜の寝息を聞いた証だった。

十四 ない

 その頃、赤竜の洞窟は静かだった。

 ガーディアンは反応していない。

 戦闘も起きていない。

 魔力の乱れもほとんどない。

 赤竜は、すぐには起きなかった。

 ただ、寝息の間隔がわずかに変わった。

 意識が、薄く浮上する。

 最初に感じたのは、侵入者の気配ではなかった。

 空気の乱れでもない。

 財宝の配置の違和感だった。

 赤竜の瞼が開く。

 竜の眼は、財宝庫を見た。

 金貨の山。

 宝石箱。

 古代魔道具。

 壺の影。

 剣の傾き。

 数えない。

 赤竜は数えない。

 数える必要がない。

 どの金貨がどこにあり、どの宝石の角に傷があり、どの古代魔道具がどの財宝の影に半分隠れているか。

 すべて覚えている。

 だから、まず金貨が一枚欠けていることに気づいた。

 一枚。

 山ほどある金貨のうちの、たった一枚。

 だが、赤竜にとっては「たった」ではなかった。

 守るものに含まれるなら、すべて同じだった。

 赤竜の眼が、洞窟の通路へ向く。

 入口から四つ目の分岐。

 左壁の割れ目。

 そこに、金貨はあった。

 盗まれてはいない。

 だが、財宝庫から持ち出されている。

 何者かが財宝庫へ入り、金貨を取り、途中で落とした。

 つまり、何者かがここまで来た。

 赤竜の眼が、さらに奥へ戻る。

 そして、欠けた場所だけが見えた。

 本来そこにあるはずの、小さな輪。

 ない。

「……ない」

 その一言で、洞窟の熱が変わった。

 怒りは、財宝への欲から来たものではない。

 守ると決めたものを欠けさせた怒り。

 役割を損なわれた怒り。

 契約を果たせていないという認識。

 守護者としての威と信用が傷ついたという感覚。

十五 赤竜が飛ぶ

 赤竜は立ち上がった。

 財宝の山が揺れる。

 けれど、赤竜は財宝を崩さない。

 怒っていても、守護拠点内では暴れない。

 守るべきものがあるからだ。

 赤竜は慎重に身を起こし、洞窟の入口へ出た。

 外の風を嗅ぐ。

 強い魔法の痕跡はない。

 転移の跡もない。

 攻撃の跡もない。

 ただ、風がわずかに違う。

 自然の風と区別しにくい、薄い揺らぎ。

 赤竜にとっても、それは明確な証拠ではなかった。

 風が少しそよいだようなもの。

 だが、財宝は欠けている。

 ならば、何かが通った。

 赤竜は飛んだ。

 洞窟の上空を旋回し、山肌、谷、森、川筋を見下ろす。

 人間の足跡は見えない。

 しかし、人間が通るなら森を抜ける。

 川へ出る。

 街道へ向かう。

 赤竜は考えながら飛んだ。

 考えながら、低く飛んだ。

十六 森が耐えられない

 西の山脈の麓に、広い森がある。

 魔物たちの棲み処だった。

 赤竜はその上を飛び、盗人の痕跡を探した。

 人間の匂い。

 風の乱れ。

 足跡が消えた場所。

 獣が不自然に避けた場所。

 だが、赤竜の体は熱い。

 吐息は炎を含む。

 翼が打つ風は、火の粉を広げる。

 森は最初、赤くなかった。

 ただ、葉の縁が乾いた。

 次に枝先が焦げた。

 その次に、一本の樹が内側から火を噴いた。

 赤竜が振り向く。

 森の一部が燃えている。

 赤竜はそれを見た。

 しかし止まらない。

 盗人はまだ見つかっていない。

 赤竜は森を焼くつもりだけではなかった。

 村を襲うつもりだけでもなかった。

 ただ、盗人と盗まれたものを探していた。

 だが赤竜が低く飛び、息を漏らし、翼を打つだけで、森は耐えられなかった。

 魔物たちは走った。

 炎から逃げた。

 竜から逃げた。

 そして、人間の村へ向かった。

十七 まだ知らない

 統領は、まだ何も知らなかった。

 隠れ家の奥の部屋で、盗んだ輪を眺めていた。

 灯りは小さい。

 輪の翼の意匠が、赤黒く光る。

 指先で転がすたび、洞窟の熱を思い出した。

 赤竜の寝息を思い出した。

 二時間、体を動かせなかった石柱の陰を思い出した。

「統領、それ、売らないんですか」

 部下の一人が聞いた。

「まだだ」

「まだ?」

「まだ、見ている」

「見てるだけで金にはなりませんぜ」

「金なら他で取れる」

「じゃあ、それは?」

 統領は、輪を指で止めた。

「息だ」

「息?」

「赤竜の寝息を聞いた時のな」

「……やっぱり、統領の言うことはたまに分からねえ」

 統領は答えなかった。

 もう少しだけ見ていたかった。

 これを持っている間、彼は赤竜の懐まで行った人間でいられた。

十八 商人との取引

 やがて、統領は満足した。

 物がなくても、思い出せると思った。

 赤竜の瞼。

 洞窟の熱。

 一歩ごとに死が近づく感覚。

 それはもう、手元に輪がなくても消えない。

 だから売った。

 森近くの街道で、商人と会った。

 商人は綺麗な馬車で来た。

 護衛を二人連れている。

 首には光る飾りを下げ、手袋をした指で布包みを受け取った。

 商人は、輪を見て目を細める。

「これは、どこで?」

「山で拾った」

「山で拾える品ではありませんな」

「なら、山に返すか?」

「いえいえ。買いましょう」

「高く」

「危険料込みで?」

「生還料込みで」

「それは、さぞ高い」

「安いくらいだ」

 商人は笑った。

「ずいぶん名残惜しそうに見えますが」

「もういい」

「もういい?」

「十分見た」

 商人は金を渡した。

 硬貨が、小さな袋に入っている。

 統領は輪を渡す。

 商人はそれを赤い布で包んだ。

 遠くの枝に、一羽の鳥が止まっていた。

 鳥は、人間の取引を理解していたわけではない。

 ただ、光るものと、布に包まれたものが、人の手から人の手へ移るのを見ていた。

 この時、統領はまだ知らなかった。

 森が焼けたことも。

 魔物が住処を追われたことも。

 その大群が人間の村へ向かい、すでに退けられていたことも。

 その後、赤竜によって村二つが燃やされたことも。

 人死には出ていないらしい。

 だが、村は燃えた。

 家は失われた。

 畑は焼けた。

 家畜は逃げた。

 そのことを、統領はまだ知らなかった。

 彼にとって、それはまだ、赤竜の寝息を聞いた証でしかなかった。

十九 後から届いた話

 商人へ売った後、情報が入った。

 部下が持ち込んだ。

「統領、森が焼けたそうです」

「どこの森だ」

「西の山脈の麓です」

 統領は動きを止めた。

「魔物が押し出されて、村が一つ危なかったとか」

 別の部下が続ける。

「あとは、人死には出てないようですが、村二つが燃やされたそうです」

 統領は、少しだけ目を伏せた。

「……赤竜か」

「まさか、あれ一つで?」

 部下の声には、怯えと困惑が混ざっていた。

 統領は、低く答えた。

「そういう相手だったんだろう」

「どういう意味で?」

「俺より、ずっと真面目だった」

「真面目?」

 統領は、赤竜の瞼を思い出した。

 あの瞼が開けば死ぬと思っていた。

 だが本当に見誤ったのは、瞼ではなかった。

 赤竜が何を見ているのか。

 それを、自分は見ていなかった。

「俺は、あれを証だと思った」

「証?」

「赤竜の懐まで行って、戻った証だ」

「赤竜には?」

「守るべきものだったんだろうな」

 部下たちは黙った。

 統領は笑わなかった。

 あの小さな輪は、自分にとっては死の近くから持ち帰った証だった。

 だが赤竜にとっては、守護契約の一部だった。

 赤竜の強さは見た。

 寝息も聞いた。

 死の近さも知った。

 だが、赤竜の真面目さを知らなかった。

二十 金を置く

 その夜、統領は金を持って隠れ家を出た。

 商人から得た金だった。

 袋は重い。

 だが、あの輪より軽かった。

 村へ向かった。

 魔物大移動で危険にさらされた村。

 赤竜に燃やされた村。

 避難民のいる仮設の集落。

 昼ではない。

 夜に行った。

 正面からではない。

 裏から入った。

 壊れた家の戸口。

 焼け残った納屋。

 井戸の陰。

 祠の裏。

 避難所の食料箱。

 そこに金を置いていく。

 声はかけない。

 名乗らない。

 謝らない。

 謝罪で済むことではない。

 捕まりに行くわけでもない。

 統領は、そんなにきれいな人間ではなかった。

 ただ、置かないよりはましだと思いたかった。

「誰だ」

 ある村で、声がした。

 統領は答えない。

「そこにいるのか」

 影に沈む。

 子供の声がした。

「母ちゃん、袋がある」

「袋?」

「金、入ってる」

「誰が……」

 統領はもういなかった。

 贖罪ではない。

 救済でもない。

 責任感と逃避と危険欲求が、絡み合っただけの行動だった。

 それでも、置かないよりはましだと思いたかった。

二十一 統領ではなくなる

 夜明け前、統領は隠れ家へ戻った。

 金の多くは消えていた。

 部下たちはすぐに気づいた。

「統領、どういうことです」

「抜ける」

「盗賊団を?」

「ああ」

「俺たちを置いて?」

「お前たちは好きにしろ」

「好きにしろで済むと思ってるんですか」

「済まないだろうな」

「なら」

「追えばいい」

 部下たちは黙った。

 怒る者がいた。

 理解できない者がいた。

 寂しさを隠す者もいた。

 盗賊団は、統領一人のものではない。

 残された者には、残された者の事情がある。

 裏切りだと言う者がいて当然だった。

「統領、本当に死にたいんですか」

 部下の一人が、低い声で聞いた。

 統領は首を振った。

「違う」

「じゃあ何なんです」

「生きていたいんだ」

「俺たちには、同じに聞こえます」

「だろうな」

 統領は背を向けた。

 追う側でいるより、追われる側の方が近い。

 死に。

 そして、生に。

二十二 まだ生きている

 統領は、倒木の陰で目を開けた。

 追っ手の気配は遠い。

 だが、完全には消えていない。

 昔の部下かもしれない。

 賞金稼ぎかもしれない。

 あるいは、まだ誰も追っていないのに、自分がそう感じているだけかもしれない。

 遠くに、焼けた森の匂いが残っていた。

 統領は倒木の下から出た。

 黒いマントについた土を払わず、そのまま歩き出す。

 夜明けの森は薄い。

 鳥が鳴いた。

 統領は一瞬だけ背後を振り返った。

 誰も見えない。

 それでも、追われている気がする。

 その感覚に、少しだけ息がしやすくなった。

 赤竜の寝息ほどではない。

 それでも、背後から迫るかもしれない足音は、統領に自分がまだ生きていることを教えてくれた。


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