勇者の条件 第6話 存在しない助力

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勇者の条件 第6話 存在しない助力 人物相関図

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存在するなら見つける

魔王城、分析室。

黒い石の長卓には、深海拠点と火山拠点に関する記録が並べられていた。

深森拠点に関わる導きの石は、すでに砕かれている。

石は失われた。

祠も壊された。

文献に記された深森攻略の道は、断たれた。

次に調べるべきは、過去の勇者が四拠点を越える際に得たとされる、別の助力だった。

死霊宰相が、焦げ跡の残る写本を開く。

「深海拠点。過去の勇者一行は、人魚の助力を得て海底の門を開いた、とあります」

竜将が鼻で笑った。

「人魚など、吟遊詩人の飾りでしょう」

死霊宰相は別の記録を開く。

「火山拠点。過去の勇者一行は、水の精霊王の力により、炎の守りを鎮めた、とあります」

竜将はさらに呆れた顔をする。

「次は精霊王ですか」

現魔王は、竜将を責めなかった。

その反応も当然ではある。

人魚。

水の精霊王。

勇者譚の中では、それらは美しく語られる。

歌に乗り、絵巻に描かれ、神殿の写本では光をまとっている。

だからこそ、飾りだと切り捨てたくなる。

だが、魔王はそうしなかった。

「存在しないと決めるのは、調べた後だ」

竜将が口を閉じる。

魔王は続けた。

「人魚が存在するなら、見つける。水の精霊王が存在するなら、契約の痕跡を探す。存在しないなら、存在しないと確認する」

吸血侯が微笑む。

「調べる価値がないものは」

「調べた後に決める」

記録官が筆を走らせる。

特殊助力調査。

対象、人魚。

対象、水の精霊王。

現魔王は、卓上の地図を見た。

南の海。

深海拠点。

火山帯。

火山拠点。

「勇者譚の飾りを笑うな。飾りの下に、事実が残る」

その言葉に、死霊宰相が静かにうなずいた。

人間の記録は飾る。

神殿は奇跡として書く。

吟遊詩人は美しく歌う。

だが、完全な無から歌は生まれない。

そこに何かがあったから、形を変えて残っている。

現魔王は、それを知っていた。

だから、調べる。

信じるためではない。

恐れるためでもない。

不確かなものに、形を与えるためである。

深海拠点

死霊宰相が、南の海図を広げた。

北の大陸から南の大陸へ渡る海路。

その途中に、深海拠点がある。

地図上では、ただの海域に見える。

だが、そこには水中と沿岸を支配する魔王軍の防衛線が築かれていた。

海竜。

水棲魔族。

深海の魔物。

潮流を乱す結界。

岩礁に偽装された砲台。

夜だけ浮かび上がる監視塔。

深海拠点が残る限り、各国の船は南の大陸に近づけない。

海魔将が報告する。

「深海拠点は健在です。沿岸国の小艦隊が一度接近しましたが、すべて沈めました。人間の船で拠点へ近づくことは不可能です」

現魔王が問う。

「海底側は」

海魔将は、わずかに表情を変えた。

「海底洞窟や旧水路は封鎖済みです。深海の圧に耐えられる人間などいません」

死霊宰相が言う。

「過去の記録では、人魚が海底の門を開いたとされます」

海魔将が笑った。

「人魚など確認されておりません。少なくとも、我らが海を支配してからは」

「確認されていないことと、存在しないことは違う」

海魔将の笑みが消えた。

「失礼しました」

「調査しろ」

現魔王は命じた。

「沿岸部、漁村、古い海神信仰、半魚人伝承、水中呼吸の術、海底洞窟の口伝。すべて調べろ」

海魔将は深く頭を下げる。

「は」

竜将が腕を組む。

「そこまで調べますか」

「深海拠点が破られた記録がある」

「それは過去の話です」

「過去に起きたことは、形を変えてまた起きる」

魔王は海図の上に指を置いた。

「同じ形で来るとは限らぬ。だから、まず過去の形を知る」

記録官が、命令をまとめていく。

深海拠点周辺。

人魚伝承。

海底門。

沿岸口伝。

漁村調査。

現存確認。

人魚を探す

北側大陸の沿岸部。

海沿いの村々に、魔王軍の密偵が入った。

商人として。

漂流者として。

薬売りとして。

網を買い付けに来た旅人として。

吸血侯の配下たちは、人間の中に紛れることに慣れている。

彼らは、酒場で聞く。

浜で聞く。

港で聞く。

古い祠の前で聞く。

「人魚を見たことは」

「人魚の歌を聞いたことは」

「過去の勇者が、この浜へ来た記録は」

漁師たちは警戒しながらも答える。

「人魚? 海の女神と混ざってる話だろ」

「昔話には出るが、実際に見たやつなんて聞いたことがない」

「勇者さまが近くの魔物を退治したって話ならある」

「それで漁に出られるようになったとか」

「人魚が礼をしたとか、海が道を開いたとか、そういう歌はある」

密偵は、その言葉を記録する。

海に近い村では、人魚そのものの目撃談は少なかった。

むしろ人魚伝説は、少し内陸に入った町で濃くなる。

宿場町では、人魚は美しい娘として語られた。

山道の村では、人魚は海底の王国から来た使者になった。

聖都に近い写本では、人魚は神の遣いとして描かれていた。

海から離れるほど、人魚は輪郭を持つ。

海で暮らす者ほど、人魚という名では語らない。

漁村に残る話は、もっと素朴だった。

勇者が浜の魔物を退治した。

その後、漁に出られるようになった。

海が道を開いた。

人魚が礼をしたとも言われる。

語る者によって、姿が変わる。

吸血侯の配下は、その違いを丁寧に記録していった。

人魚の目撃談。

海神信仰。

半魚人伝承。

勇者による沿岸魔物討伐。

漁の再開。

海が道を開いたという歌。

人魚からの返礼伝承。

記録は集まる。

だが、探しているものは見つからない。

人魚という種族。

人魚という協力者。

海底の門を開いた者。

その実在は、どこにも確認できなかった。

漁村の老人

ある漁村。

夕方の浜で、老人が古い網を繕っていた。

手の節は太く、皮膚は潮と日差しで硬くなっている。

吸血侯の配下は、旅の商人を装って隣に腰を下ろした。

「昔、この浜に勇者が来たそうですね」

老人は、網から目を離さずに答える。

「来たと聞いとる」

「見たのですか」

「わしが生まれる前だ」

「どのような話で」

老人は、破れた網目を直しながら言った。

「昔、このあたりは魔物だらけでな。船を出せば沈められた。浜にも出られんかった」

「勇者が魔物を退治した」

「そう聞いとる。勇者さまが魔物を退治してくれて、また漁ができるようになった」

密偵は少し身を乗り出す。

「人魚は」

老人は笑った。

「人魚ねぇ。そんなもん見たことはない。昔話にはよく出てくるがな」

「昔話」

「勇者さまがこの浜の魔物を退治してくれたって話だ。それでまた漁に出られるようになった。人魚が礼をしただの、海が道を開けただの、話す者によって違う」

「海が道を開く、とは」

「そういう歌が残ってるだけさ。年寄りの昔話だよ」

老人は、網を持ち上げた。

破れたところが直っている。

「海の話は、語るたびに姿を変える。魚の大きさと同じだ」

密偵は記録する。

過去の勇者、沿岸魔物を討伐。

漁村、漁を再開。

人魚、または海に関する返礼伝承あり。

人魚の実在確認なし。

老人は、ふと海を見た。

「ただ、勇者さまだけじゃ海は渡れんよ」

密偵の筆が止まる。

「どういう意味です」

「海は、陸の者だけで歩けるもんじゃない。潮を知らん者は沈む。岩を知らん者は腹を裂かれる。魚の道を知らん者は、船を出しても帰れん」

老人はそこで笑った。

「まあ、人魚に聞いた方が早いって歌もあるがな」

密偵は、その言葉も記録した。

だが、報告上は人魚伝承の周辺情報に分類される。

海で生きる者の知恵。

それは確かにある。

だが、魔王軍が探しているのは、人魚だった。

人魚調査報告

魔王城、分析室。

吸血侯が報告する。

「人魚の実在は確認できませんでした。古い海神信仰、半魚人伝承、波間の女神、海の乙女の歌は複数確認しましたが、現存種族としての人魚は見つかっておりません」

死霊宰相が、資料を重ねる。

「沿岸部には、海に関する返礼伝承が残る漁村があります。過去の勇者が漁村の魔物を討伐し、その後、海が道を開いた、あるいは人魚が礼をしたと語られているようです」

吸血侯が続ける。

「また、人魚伝説は漁村よりも、少し内陸へ入った地域の方が濃く残っています」

竜将が言う。

「では、人魚は内陸の者が作った飾り話ではありませんか」

吸血侯は肩をすくめた。

「その可能性は高いでしょう。海から遠い者ほど、人魚をはっきり語る。海に近い者ほど、勇者が魔物を退治した、海が道を開いた、という程度に留まる。情報源としては、漁村側の伝承の方が正確と思われます」

海魔将が自信を持って言う。

「深海拠点周辺の海域は、今や我らの支配下です。素潜りの人間が到達できる場所はすべて監視しています」

現魔王は黙って聞いている。

「海底洞窟の位置は」

吸血侯が答える。

「複数の候補があります。いずれも現在は魔物の縄張り、または崩落しています」

死霊宰相が言う。

「人魚の存在確認には至らず。深海拠点攻略に直結する助力は現存しない、と判断できます」

魔王は、すぐには結論を出さなかった。

海図を見る。

沿岸の村。

岩礁。

海底洞窟。

深海拠点。

そして、記録の中に何度も現れる人魚の名。

「海に近い者ほど人魚を語らず、海から遠い者ほど人魚を語る」

魔王は静かに言った。

「ならば、人魚は後世の神秘化である可能性が高い」

死霊宰相がうなずく。

「漁村側の伝承を、より信頼できる一次情報として扱いますか」

「そうしろ。ただし、漁村にも誇張はある」

魔王は海魔将を見る。

「人魚は確認されない。だが、海に関する返礼伝承は残る。沿岸部の監視を続けろ」

海魔将が頭を下げる。

「は」

現魔王は続けた。

「人魚がいなくとも、人間が人魚の代わりをした可能性はある。深海拠点の入口周辺を再点検しろ」

海魔将の表情が引き締まる。

「ただちに」

竜将は、少しだけ目を細めた。

人魚はいない。

それで終わりにしてもよかった。

だが魔王は、そこでは終わらせない。

伝承の形は否定する。

しかし、伝承の底にある何かまでは否定しない。

それが、現魔王の厄介さだった。

水の精霊王

次に、火山拠点の資料が開かれた。

火山拠点は、南の大陸へ進む軍を焼き尽くすための防衛線である。

熱。

溶岩。

火山ガス。

排熱路。

焼けた岩盤。

炎に耐える魔物。

赤く光る堀。

通常の軍では近づけない。

過去の勇者譚には、水の精霊王の力によって火山の守りが鎮められたとある。

死霊宰相が読み上げる。

「火山拠点。勇者一行は、水の精霊王の加護を得て、炎の堀を越えた。火山は沈黙し、赤き道は水に覆われた」

竜将が呆れる。

「今度は火山を水で沈めたと」

火山伯が、不機嫌そうに口を開いた。

「火山拠点は水などで落ちません。仮に雨を降らせても、外縁の熱で蒸発します」

吸血侯が言う。

「ただ、過去の記録では、火山拠点が一時的に機能不全を起こしたことは事実のようです」

死霊宰相が補足する。

「火山拠点の司令官が討たれた時期と、火山周辺で大規模な水害が起きた時期が近い記録があります」

現魔王が目を細める。

「水害」

「ただし、勇者譚では水の精霊王の加護と表現されています。具体的な水源は不明です」

火山伯が腕を組む。

「火山周辺で水害など、珍しくもありません。雨季には斜面を水が走る。噴気で岩が割れ、沢が変わる。古い記録を大げさに読んでいるだけでしょう」

魔王は火山伯を見た。

「そうかもしれぬ」

火山伯は少しだけ表情を緩める。

だが、次の言葉でまた背筋を伸ばした。

「だが、調べる」

現魔王は命じた。

「水の精霊王を調べろ。召喚記録、契約、祠、祭具、精霊信仰、火山周辺の水害記録。すべてだ」

記録官が書き留める。

対象、水の精霊王。

火山周辺、精霊信仰。

水害記録。

堤、水路、井戸、雨乞い。

低地集落の口伝。

火山伯は不満そうだった。

だが、命令に異を唱えることはなかった。

火山地帯の祠

火山地帯。

赤い岩が広がっている。

ところどころから白い煙が上がり、硫黄の匂いが風に混じる。

地面は熱を含み、昼の陽光が落ちる前から空気が揺れていた。

魔王軍の調査隊は、火山周辺の村々を回った。

精霊祠。

古い井戸。

廃坑。

崩れた石積み。

水路跡。

干上がった川筋。

ただし、主目的は水の精霊王の実在確認である。

火山の麓に、小さな精霊祠があった。

大きな神殿ではない。

石を積み、屋根をかけ、木の桶に水を張っただけの場所だった。

祠の管理人は、日に焼けた男だった。

調査隊の問いに、彼は額の汗を拭きながら答える。

「水の精霊王を見たことは」

「王など見たことはない」

男は、桶の水を見た。

「ただ、水には祈る。火山のそばで暮らすなら、水を軽んじる者は死ぬ」

「召喚の記録は」

「そんな大層なものはない。雨乞いならある。井戸を守る祭りならある。山水を分ける取り決めならある」

「水の精霊王との契約は」

管理人は、少し笑った。

「王と契約できるほど、ここは立派な村じゃない」

調査隊は、祠の中を調べる。

古い木札。

水桶。

雨乞いの歌。

干上がった沢の名。

井戸の修理記録。

どれも、水に関わっている。

だが、精霊王の顕現を示す記録ではない。

「過去の勇者が来た記録は」

管理人は少し考えた。

「古い話ならある。火の山が荒れて、村が逃げた時、勇者が山へ向かったと。水が山を下ったとも聞く」

「水の精霊王が現れたのか」

「そう歌う者もいる」

管理人は、そこで首を傾げた。

「だが、私の祖父は、堤が切れたと言っていた」

「堤」

「変な話だろう。ここらに堤なんてねぇのに」

調査隊は記録する。

水の精霊王、実在確認なし。

古い水害記録あり。

堤、または水利施設の崩壊に関する口伝あり。

管理人は、調査隊の顔を見て言った。

「水は怖いぞ」

「火山で?」

「火も怖い。けど、水も怖い。高いところに溜まった水は、落ちる時に全部持っていく」

「水の精霊王の力か」

「そう呼ぶ者もいるだろうな」

管理人は、桶の水を指で揺らした。

「だが、石を積むのは人間だ。水を溜めるのも人間だ。流れてから祈っても、遅い」

調査隊はそれも記録した。

ただし、分類は水の精霊信仰の周辺口伝である。

精霊王調査報告

魔王城。

火山伯、死霊宰相、吸血侯、現魔王が報告を確認していた。

死霊宰相が言う。

「水の精霊王の実在は確認できません。召喚契約、顕現記録、神殿認定された精霊王信仰、いずれも不確かです」

吸血侯が補足する。

「火山周辺には水に関する小信仰が複数あります。井戸、雨乞い、温泉、水路、堤。ですが、精霊王という大きな存在に結びつく証拠はありません」

火山伯が言う。

「当然です。火山拠点の防衛線は、精霊の気まぐれで崩れるようなものではない」

現魔王は報告書を読む。

「水害記録は」

死霊宰相が答える。

「いくつかあります。古い堤、水路、山水の貯留施設が崩れたという口伝。ただし、現在の地形とは一致しない箇所が多く、詳細は不明です」

火山伯が言う。

「その手の水路はすでに枯れています。火山活動で地形も変わった。防衛線への影響はないでしょう」

魔王はしばらく考えた。

火山地帯の地図を見る。

赤い斜面。

黒い岩盤。

溶岩堀。

排熱路。

そして、古い水路跡と記された小さな線。

「調査は続けろ。だが、水の精霊王は確認されない」

記録官が書き留める。

水の精霊王、実在未確認。

火山周辺水利施設、低優先度で監視。

火山伯が頭を下げる。

「火山拠点は、排熱路と溶岩堀の点検を強化します」

「そうしろ」

現魔王は言った。

「存在しない助力を恐れて、戦力を割きすぎるわけにはいかぬ」

これは、合理的な判断だった。

水の精霊王は見つからない。

召喚記録もない。

契約もない。

神殿認定された顕現記録もない。

ならば、それを戦略の中心に置くべきではない。

ただし、監視は残す。

完全に捨てるのではない。

それが現魔王のやり方だった。

恐怖に形を与える

竜将が、やや呆れたように言う。

「陛下。結局、人魚も水の精霊王もいない。調査に割いた時間と手間は、無駄では」

現魔王は首を横に振った。

「無駄ではない」

「存在しなかったのでしょう」

「存在しないと確認できた」

竜将は黙る。

現魔王は続けた。

「知らぬまま恐れるのが最も悪い。存在しないものを存在すると見なせば、戦力を割きすぎる。存在するものを存在しないと決めつければ、足元をすくわれる」

吸血侯が言う。

「つまり、調査とは恐怖の形を整えることですか」

「そうだ。恐怖に形を与えれば、管理できる」

死霊宰相がうなずく。

「人魚は確認されない。水の精霊王も確認されない。ただし、沿岸口伝と水害記録は残る」

「残せ」

魔王は短く言った。

「確認されない助力は、戦略の中心に置かぬ。だが、周辺情報は捨てるな」

竜将が少し不満げに言う。

「そこまで残しますか」

「捨てた情報は、後から見直せぬ」

魔王は長卓の上の札を見た。

人魚。

水の精霊王。

その二つの札の横に、別の小札が置かれる。

沿岸口伝。

海底洞窟候補。

素潜り技術。

火山水害記録。

古い堤。

水路跡。

死霊宰相が問う。

「これらはどう扱いますか」

「低優先度で監視。主対策は不要。深海拠点と火山拠点には、通常防衛を維持させる」

海魔将がうなずく。

「深海拠点は、引き続き船を沈めます」

火山伯も言う。

「火山拠点は、排熱路と溶岩堀の点検を強化します」

現魔王は二人を見る。

「油断はするな。人魚がいなくとも、人間は海を渡ろうとする。精霊王がいなくとも、人間は火を消そうとする」

二人は頭を下げた。

「は」

現魔王は、二枚の札を見下ろした。

人魚。

水の精霊王。

どちらにも、実在確認の印はつかない。

「勇者譚にある助力は確認されなかった。存在しない助力に、これ以上戦略の中心を割く必要はない」

記録官が書く。

人魚、実在未確認。

水の精霊王、実在未確認。

特殊助力、現存せず。

監視継続。

名前のない助力

夜の漁村。

女たちが、壊れた網を直している。

年寄りが、若い娘に昔話をしていた。

「昔、勇者さまがこの浜の魔物を退治してくれたんだ。それで、海が道を開いたってさ」

若い娘が笑う。

「人魚が出たって話じゃなかった?」

「そう言う者もいるね」

年寄りは、糸を引きながら言う。

「海の話は、語るたびに姿を変える」

「じゃあ、本当は何だったの」

「さあね」

年寄りは、夜の海を見る。

黒い波が、月の光を細く砕いている。

「ただ、海に入れる者がいたんだろうさ。勇者さまだけじゃ、海の底までは行けない」

若い娘は、網を結ぶ手を止めた。

「人魚じゃなくて?」

「人魚かもしれない」

年寄りは笑った。

「人間かもしれない」

波の音がする。

誰もそれを、助力とは呼ばない。

ただ、海で生きる者たちの話だった。

火山地帯の外れ。

草に埋もれた古い石積みがある。

割れた水路。

崩れた壁。

誰も管理していない堤の跡。

雨水が、石のくぼみに少しだけ溜まっていた。

近くの老人が、子どもに言う。

「昔はここに水が溜まってたんだとさ。山が荒れた時、堤が切れて、ものすごい水が流れたって話だ」

子どもが目を丸くする。

「水の精霊王?」

老人は笑う。

「そう呼ぶやつもいる」

「本当は?」

老人は、草に埋もれた石積みを足でつついた。

「私の祖父は、堤が切れたと言っていた。堤なんてここらへんにねぇのに、変な話だ」

子どもは、石積みを見る。

苔が生えている。

半分は土に埋もれている。

ただの古い石にしか見えない。

老人は言う。

「でもな、水は怖い。溜めた水は、落ちる時に山より強い」

風が吹く。

草が揺れる。

石積みの隙間に溜まった水が、小さく光った。

人魚は見つからなかった。

水の精霊王も見つからなかった。

海の底に王国はなく、火山の麓に精霊王の玉座もなかった。

現魔王の調査は、正しく結論を出した。

勇者譚に記された助力は、その名のままには存在しない。

だから魔王軍の記録には、こう記された。

特殊助力、現存せず。

監視継続。

人魚はいなかった。

水の精霊王もいなかった。

けれど、海のことを深く知る者はいた。

火山の麓には、壊れた堤があった。

水の流れを知る者もいた。

助力は存在しなかった。

ただし、人魚や精霊王という名前ではなかった。


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