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一 標準化できない安全
術式設計支援AI「式守」の試験運用担当として、白鳥理央が現場に来た。
十八歳。
年齢より少し幼く見える顔立ちで、背は低い。
着ている白衣は肩と袖が少し余っていて、研究室からそのまま抜け出してきた学生のようにも見える。
ただし、本人にそういう自覚はないらしい。
白鳥は管理用端末を片手に、現場詰所へ入ると、黒瀬たちへ丁寧に頭を下げた。
「研究開発部、白鳥理央です」
声は落ち着いている。
姿勢も丁寧だった。
そのぶん、言葉だけが少し刺さる。
「本日より、式守の試験運用を開始します」
透は、横に置かれた携行端末を見る。
「これが式守ですか」
画面には、簡素な待機表示が出ている。
人型でも、喋る人形でもない。
ただ、術式ログ、現場情報、過去記録を読み込むための端末だった。
白鳥は頷く。
「正確には、端末は式守の現場入出力装置です。解析本体は元請け側のサーバにあります」
「おお、急に分からない」
「理解の必要はありません」
透は一瞬黙った。
白鳥は悪気なく続ける。
「必要な操作はこちらで行います。三枝さんは、指示された範囲で通常通り観測と処置をしてください」
「なんか、もう少し言い方ありません?」
「では、理解可能な範囲で共有します」
「刺さり方が変わっただけですね」
篠宮伊織は、白鳥の端末に目を向けている。
「式守の主目的は、現場判断補助、報告書標準化、古い記録の再評価と聞いています」
「はい」
白鳥はすぐに答えた。
「現場ごとにばらつく判断を整理し、再現可能な形にします。属人的な安全を減らし、引き継げる安全に変換します」
篠宮の眉が、わずかに動く。
「属人的な安全、ですか」
「はい」
白鳥は端末を操作しながら言う。
「記録に残らない安全は、標準化できません」
篠宮の声が少し硬くなる。
「現場には、記録しきれない判断もあります」
「あります」
白鳥は否定しなかった。
だからこそ、次の言葉が強かった。
「ですが、記録しきれない判断は、他者へ引き継げません。引き継げない安全は、標準手順にはできません」
篠宮は言い返せない。
正しい。
正しすぎる。
その正しさに、現場の一部が入っていない気がするだけだった。
白鳥は、前回の商業施設案件のログを開いた。
「例として、三枝さんの固定を取り上げます」
透は嫌な予感を覚える。
「いきなり俺ですか」
「はい」
白鳥は画面を読む。
「術者適性に比して出力が過大。反発は想定より低位。周辺術具に過剰反応。接続四、希薄補助低下。原因不明。要再観測」
篠宮が少しだけ顔をしかめた。
それは、篠宮自身が書いた報告だった。
白鳥は続ける。
「成功例ではあります。人命救助にも寄与しています」
透は少しだけ安心しかける。
「ですが、本人に再現可能性がありません。したがって、標準手順にはできません」
「成功したのに?」
「はい」
白鳥は当然のように答えた。
「成功しただけでは、手順になりません」
透は何も言えなかった。
その言葉は、きつい。
だが、黒瀬にも似たようなことを言われている。
強く出たからいい、ではない。
通ったから安定、ではない。
白鳥は次に、宮守つづりの明細を開いた。
「宮守さんの術具消耗明細は、現場ログとして有用です」
つづりはすぐに顔を上げた。
「褒めた? 請求通る?」
「褒めていません」
白鳥は淡々と返す。
「利用可能な記録だと判断しました」
つづりは顔をしかめる。
「最悪寄りの褒め方だ」
「評価対象は、記録の利用可能性です」
「うん。やっぱり最悪寄り」
美緒は、式守の試験運用要領を確認していた。
白鳥は悪人ではない。
式守も、現場を削るためだけに来た仕組みではない。
むしろ、事故を減らすために来ている。
ただ、その安全は、記録できるものを中心に組まれていた。
美緒は、それをまだ良いとも悪いとも言えなかった。
分からないものを分かったことにはしない。
その姿勢だけは、自分にも必要なはずだった。
二 低密度の人影
今回の試験運用対象は、元請け管轄内の古い集合住宅だった。
夜間だけ、共用廊下の突き当たりに人影が見える。
住民被害はまだない。
ただし、複数人が「何かいる」と訴えている。
反応は低い。
範囲も狭い。
契約上は、軽微対応可能な案件だった。
白鳥は現地図面を開く。
「式守の試験運用には適しています」
透は廊下の突き当たりを見る。
古い集合住宅特有の、乾いたコンクリートの匂いがする。
夜間作業のため、住民には事前説明が入っているが、完全に人の気配が消えるわけではない。
室内のテレビの音。
どこかの部屋の水音。
遠くで閉まるドア。
人が暮らしている場所だった。
白鳥は条件を読み上げる。
「反応は低位。対象範囲は限定的。人的被害は未発生。術具使用量の削減効果も検証できます」
つづりが即座に言う。
「最後の一文が嫌」
美緒は端末から顔を上げない。
「嫌ですが、元請けが聞きたがる文です」
透は小さく言う。
「現実的」
篠宮は白鳥を見る。
「試験運用だからこそ、安全側に倒すべきでは?」
「安全側に倒します」
白鳥の答えは早い。
篠宮は言葉を重ねる。
「術具を削るのに?」
「不要と判断された術具を削ることは、安全性を下げる行為とは限りません」
つづりが小さく笑う。
「ほら出た」
「何がですか」
「削る人の言い方」
白鳥は表情を変えない。
「削減ではなく、最適化です」
「もっと嫌な言い方になった」
黒瀬は黙って廊下を見ていた。
共用廊下の突き当たり。
非常灯の下。
人影のようなものが、いるともいないとも言えない濃さで立っている。
怨霊というには薄い。
残滓というには、こちらを見ているような気配がある。
透が観測に入る。
「薄いです」
黒瀬が聞く。
「自律性は」
「弱いです。視線反応はあります。でも、動いてくる感じはない」
篠宮が確認する。
「範囲は廊下端だけですか」
「今のところは」
白鳥は式守へ現場情報を入力する。
「処理候補を生成」
式守の画面が切り替わる。
白鳥はその提案を確認した。
「観測、固定、希薄。術後観測二回。以降、異常値がなければ追加観測と待機を省略」
篠宮が反応する。
「術後観測は省略しないんですね」
「はい」
白鳥は説明する。
「処理前観測。処理後の初回観測。二回目の術後観測。ここまでは実施します。二回連続で基準値以下であれば、以降の追加観測は省略可能と判断します」
篠宮はすぐには反論しない。
観測を一回で切るわけではない。
処理前に見て、処理後も二回見る。
数字だけ見れば、乱暴な削減ではない。
白鳥は続ける。
「低密度対象に対し、過剰な術具配置と長時間待機を行うことは、現場負担と費用を増加させます」
つづりは腕を組む。
「その費用で安全を買ってる場合もあるんだけど」
「その因果を示す記録があれば、式守は評価できます」
「またそれ」
白鳥はつづりを見る。
「記録がなければ、評価できません」
つづりは小さく舌打ちした。
「記録がない安全って、だいたい誰かが真面目にやってたから事故にならなかったやつなんだけどね」
白鳥は少しだけ沈黙する。
そして答える。
「その可能性はあります」
つづりは意外そうに見る。
白鳥は続けた。
「ですが、可能性のままでは標準化できません」
つづりは笑わなかった。
「やっぱり嫌な答え」
三 削れるもの、削れないもの
式守の短縮案を見て、つづりが最初に噛みついた。
「焦げなかった札を、要らなかった札って数えてる?」
白鳥は式守の出した術具ログを確認する。
「過去類似案件では、該当術具の使用率が低いです」
「使用率?」
「実際に反応した、または損耗した記録がある割合です」
つづりは、腰の術具袋から薄い札を一枚取り出した。
「使わずに済ませるために置いてる札もあるんだけど」
「その効果を示す記録はありますか」
「事故が起きなかった記録ならあるよ」
白鳥は即答する。
「事故が起きなかった理由が、その札であるとは証明できません」
つづりは顔をしかめた。
「うわ、出た」
透が小さく聞く。
「何が出たんですか」
「払わない大人の言い方」
白鳥は眉を動かさない。
「私は支払い担当ではありません」
「責任担当でもなさそうだね」
「責任範囲は元請け側の契約条件に依存します」
つづりは透を見る。
「ほら、逃げ方だけ大人」
白鳥は少しだけ考える。
「年齢は十八で、成人年齢には達していません」
その場の空気が少し止まった。
白鳥は続ける。
「しかし、業務としてここにいる以上、一般的な大人、つまり社会人としての対応が最も妥当と判断します」
つづりは白鳥を見る。
十八。
同い年だと思ったのは、黙っておく。
「……やっぱり逃げ方が大人」
「評価内容が変化していません」
「変える気ないもん」
篠宮は二人のやり取りを聞きながら、式守案を見ていた。
削られているのは、完全な安全確認ではない。
鈴による周期確認。
予備札の余剰配置。
吸い札の一部。
三回目以降の術後観測。
一定時間の待機。
どれも、必ず必要だと証明しにくい。
同時に、全部を削っていいとも言い切りにくい。
つづりは最後に釘を刺した。
「削るなら、削った人の名前を残してね」
白鳥は頷く。
「記録します」
「名前残すって、軽くないんだけど」
「軽く扱うつもりはありません」
つづりは札をしまう。
「軽く扱う人は、だいたいそう言う」
白鳥は少しだけ目を伏せた。
それでも、式守案を取り下げはしない。
つづりは、鷹宮亮介の方を見る。
「うちの札を減らすなら、減らしていい根拠を出して」
鷹宮は、元請け側の立会いとして少し離れた場所にいた。
試験運用の責任範囲と、現場の進行を見ている。
つづりは続ける。
「出せないなら、削減責任者の署名をちょうだい」
白鳥が言う。
「私の署名でよければ」
つづりは首を振る。
「あんた一人に被せたいわけじゃない」
その言葉に、白鳥は少しだけ意外そうな顔をした。
つづりは鷹宮を見る。
「それも嫌なら、古い術式が分かる人を呼んで」
鷹宮は短く考える。
そして端末を取り出した。
「土御門さんに確認する」
黒瀬が少し顔を上げる。
「来るのか、あの人」
「来てもらう」
鷹宮は通話を入れる。
「筋を通さずに削ったことにすると、あとで誰も得をしない」
白鳥はそれを聞いている。
自分の案は、記録上は妥当なはずだった。
だが、妥当な案であっても、通す筋が必要になる。
それもまた、式守にはまだ入力されていない現場だった。
四 土御門清胤
土御門清胤は、遅れて現場に来た。
古典術式と禁忌に詳しい老退魔士。
肩に古い羽織をかけ、足元は草履ではなく、現場用の滑りにくい靴を履いている。
見た目は古い。
だが、歩き方は遅くない。
土御門は、現場詰所に入ると、白鳥の端末を見た。
「これが式守か」
白鳥が頭を下げる。
「はい。研究開発部の白鳥理央です」
土御門は白鳥をじっと見る。
「若いな」
「年齢は十八です」
「聞いたまま答えるところは、若いのか若くないのか分からんな」
白鳥は反応に困ったのか、少しだけ黙った。
土御門は式守案に目を通す。
札。
鈴。
吸い札。
待機時間。
術後観測。
削減対象を確認し、最初に聞いた。
「術後は二回見るのか」
白鳥が答える。
「はい。処理後の初回観測、二回目の術後観測。連続して異常値がない場合、以降を省略します」
土御門は頷く。
「一回で切るよりはましじゃな」
「安全側の短縮です」
土御門は白鳥を見る。
「ましと安全は違う」
白鳥はすぐに返す。
「二回の術後観測で異常値が確認されなければ、対象反応は安定低下していると判断できます」
「判断はできる」
土御門は式守の画面を指で示す。
「外すこともある」
「なぜですか」
土御門は少し黙る。
「分からん」
白鳥の表情が止まった。
「分からない?」
「分からん」
土御門は当然のように言う。
「ただ、二回見て何もなかったものが、後から出ることはある」
白鳥はすぐに言い換える。
「再活性化ですか」
「そう言えばそうかもしれん」
「観測間隔の問題ですか」
「それもある」
「他には」
土御門は、少し面倒そうに息を吐く。
「それだけではない気もする」
白鳥は真顔で聞く。
「では、何が問題ですか」
「だから、分からんと言っとる」
白鳥は黙った。
土御門は続ける。
「分からんから、昔の術式は待つ」
指を一本立てる。
「分からんから、鈴を鳴らす」
次に、札の束を見る。
「分からんから、余分な札を置く」
白鳥は言う。
「不明な危険への冗長性、ということですか」
土御門は少し笑う。
「そう言えば聞こえはいいな」
「では、どの程度の冗長性が必要ですか」
「知らん」
白鳥の眉がわずかに動いた。
「知らないことが多いですね」
「そうじゃ」
土御門はまったく恥じない。
「だから削るなと言っとる」
白鳥は一歩も引かない。
「しかし、不要な手順を残すことも、現場負担になります」
「それもそうじゃ」
「ならば、削減判断自体は誤りではありません」
土御門は頷いた。
「誤りとは言っとらん」
「では」
土御門は白鳥をまっすぐ見た。
「怖いと言っとる」
その言葉で、場が少し静かになる。
白鳥は、その「怖い」を入力できない。
土御門も、それを理論として説明できない。
篠宮は二人を見ていた。
白鳥を論破できる人間が来たわけではなかった。
土御門も、白鳥の問いに完全には答えられない。
だが、答えられないものを、答えられないまま残すために来ている。
それだけは分かった。
五 短縮術式
式守の短縮術式は、一見成功した。
対象は、共用廊下の突き当たりに薄く残った人影型。
処理前観測で、対象位置と密度を確認する。
固定で廊下端に範囲を限定する。
希薄で対象反応を基準値以下へ下げる。
初回術後観測で、希薄直後の反応低下を確認する。
二回目の術後観測で、短時間後の再反応を確認する。
以降、異常値がなければ追加観測と待機を省略する。
本来の古い手順では、そこにいくつかの確認が入る。
鈴で周期を見る。
予備札を置く。
吸い札を増やす。
三回目以降の術後観測を入れる。
一定時間、待機する。
式守はそれを削った。
白鳥が式守に指示を出す。
「処理前観測」
透が観測に入る。
「対象、廊下突き当たり」
人影は薄い。
顔はない。
名前もない。
ただ、そこに誰かが立っているように見えるだけだ。
「密度、低いです。視線反応は弱い」
式守が数値を返す。
白鳥が続ける。
「固定」
篠宮が術具配置を確認する。
透は固定を補助し、廊下端から広がらないように範囲を取る。
強く止めすぎない。
廊下の端に留めるだけ。
商業施設の固定が頭をよぎる。
強く出たからいい、ではない。
透は一拍置いて、固定を浅く保った。
白鳥が言う。
「希薄」
透は対象反応を薄める。
消し飛ばすのではない。
人影として見えていた輪郭を、共用廊下に残らない程度まで下げる。
反応は落ちた。
式守の画面に、基準値以下の表示が出る。
白鳥の声がわずかに明るくなる。
「初回術後観測」
透が見る。
「反応、低位」
篠宮も確認する。
「廊下端、残留は基準内」
白鳥が続ける。
「二回目の術後観測」
短い待機。
それから再度見る。
透は廊下の突き当たりを確認した。
「出てません」
篠宮も端末を見た。
「再反応なし」
式守が成功判定を返す。
処理完了判定、可能。
追加観測、省略可能。
術具使用量、削減成功。
作業時間、短縮。
透は素直に感心した。
「普通にすげえ」
白鳥が顔を上げる。
「普通に終わる現場を増やすためのシステムです」
透は廊下の先を見た。
さっきまでいた人影は、もう見えない。
「早いし、終わってる」
白鳥は少しだけ誇らしげに言う。
「誰か一人の勘に頼らず、一定水準の処理を再現する。そのために式守があります」
篠宮は渋い顔をしていた。
土御門は黙っている。
つづりは、使われなかった札を見て納得していない。
黒瀬も、廊下の奥から目を離さなかった。
数字で見れば、終わっている。
それでも、場の空気はまだ、少し重かった。
六 現場違和感
式守ログに、一瞬だけ表示が出た。
共用廊下端から階段側へ、微弱な流路偏りを検出。
主対象反応との関連、不明。
環境ノイズとして除外。
篠宮だけが、それに引っかかった。
商業施設案件で、自分が「原因不明」と書かざるを得なかったものと、どこか似ている。
あれは三枝透の固定に絡んだ異常だった。
今回は、術者ではなく現場側に、わずかな流れの偏りが出ている。
篠宮は白鳥に聞いた。
「本当に、環境ノイズとして除外していいんですか」
白鳥はログを確認する。
「有意差は確認できません」
「確認できないことと、存在しないことは違います」
「その通りです」
白鳥はあっさり認める。
「ですが、確認できないものを手順には入れられません」
篠宮は言葉に詰まった。
「……それも正しいですね」
「はい」
正しい。
だから、嫌だった。
同時に、術具ログにも表示が出る。
余剰札、反応なし。
吸い札使用率、想定以下。
削減妥当。
つづりも引っかかった。
「反応なし、ねえ」
白鳥が言う。
「現時点では、です」
つづりは札を見たまま聞く。
「その“現時点”って、いつまで?」
「二回目の術後観測完了までです」
「その後は?」
「追加観測対象外です」
つづりはそれ以上言わない。
ただ、札をしまわずに見ている。
黒瀬も廊下の奥を見る。
反応は低い。
怨霊がはっきり残っている感じも薄い。
床も壁も壊れていない。
主要な術具も落ちていない。
数字で見れば、終わっている。
それでも、空気が軽くない。
黒瀬が低く言った。
「……場が重い」
白鳥が振り向く。
「場、ですか」
「そうだ」
「具体的には」
黒瀬は少し黙った。
「具体的には、ない」
白鳥は瞬きをする。
「ない?」
「怨霊が残っているわけじゃない。何かが壊れたわけでもない。観測値も、たぶんお前の言う通りだ」
黒瀬は廊下の奥を見たまま言う。
「でも、終わった感じがしない」
白鳥は端末へ視線を落とす。
「主観的評価です」
「そうだな」
「式守には入力できません」
「だろうな」
つづりも、札を持ったまま言った。
「うちも、ちょっと嫌」
白鳥はつづりを見る。
「宮守さんもですか」
「札が焦げてるわけじゃない。鈴が鳴ってるわけでもない。でも、箱に戻す気にならない」
「それも主観的評価です」
「そうだね」
つづりは、使われなかったはずの札を指で撫でる。
「でも、こういう時に戻すと、だいたいあとで出すことになる」
篠宮は黙る。
篠宮にも、少しだけ分かる。
ただ、黒瀬ほど強くはない。
「……違和感はあります」
白鳥が篠宮を見る。
「篠宮さんもですか」
「はい」
篠宮はログを見る。
「ただし、処理完了判定を覆すほどの根拠ではありません」
白鳥は式守へ記録を入れるか迷った。
そして、入力する。
現場違和感。
複数術者より申告あり。
客観指標、未特定。
判定影響、なし。
白鳥は画面を見つめる。
判定影響、なし。
今の式守には、そう書くしかなかった。
七 遅れて使われる札
しばらくして、異常が出た。
怨霊反応は、基準値以下になったはずだった。
初回術後観測でも、二回目の術後観測でも異常値は出ていない。
だが、共用廊下の外。
階段側の手すりに、薄く反応が戻った。
人影型が消えたのではない。
薄くなったあと、外側へ滲んでいる。
透が最初に気づいた。
「階段側、反応あります」
篠宮がすぐに確認する。
「廊下端ではなく、外側です」
白鳥の端末にも、遅れて数値が上がる。
「処理完了判定後の再反応……」
その時、つづりの手元で札が黒ずんだ。
使われなかったはずの予備札だった。
つづりは札を持ち上げる。
「ほら」
白鳥が見る。
つづりは、黒ずんだ箇所を指で示した。
「今、使った」
白鳥は端末を確認する。
「処理完了後に反応した、ということですか」
「だから、使われなかった札じゃない」
つづりの声が、いつもより低い。
「使われた時間が、あんたの判定より遅かっただけ」
白鳥は黙った。
式守の完了判定は間違っていない。
判定時点では、対象反応は基準値以下だった。
初回術後観測でも、二回目の術後観測でも異常値はない。
ただし、その後に出た。
土御門が言う。
「だから言ったろう、とは言わん」
白鳥が振り向く。
「なぜですか」
「わしも、こう出ると分かっていたわけではない」
土御門は階段側を見る。
「ただ、こういう出方をすることがある」
白鳥はすぐに言葉を探す。
「予測不能な遅延反応」
「そう書くなら、そう書け」
土御門は白鳥を見る。
「だが、それで分かった気になるな」
白鳥は端末を握り直す。
「では、どう記録すれば」
「知らん」
土御門は短く言った。
「だが、記録しろ」
白鳥は止まる。
「分からないものを、分からないまま記録する」
「そうじゃ」
土御門は頷く。
「分かったことにして削るな」
白鳥は、つづりの黒ずんだ札を見た。
未使用だったはずの札。
削減可能だったはずの安全。
それが、判定の後で仕事をした。
式守は、失敗したと判定していない。
だが、拾えていなかった。
それだけは、白鳥にも分かった。
八 三接続案
遅れて滲んだ反応が、階段側へ移った。
対象は薄い。
自律性は弱い。
ただし、人のいる方向へ流れかけている。
黒瀬が処置方針を出す。
「三枝、四つで組め」
透はすぐに返事をする。
「はい」
「観測、偏向、希薄、凝縮」
白鳥が反応した。
「凝縮ですか」
黒瀬は階段側を見る。
「入れる」
白鳥は式守の再解析を確認する。
「対象反応は低位です。希薄で基準値以下まで落とせます」
黒瀬は答えない。
白鳥は続ける。
「式守上は、観測、偏向、希薄の三接続で処理完了判定が可能です」
「だろうな」
「では、なぜ凝縮を」
黒瀬は少し黙った。
「この手のやつは、希薄のあとに凝縮を噛ませることが多い」
白鳥は即座に聞き返す。
「多い、ですか」
「多い」
「必要条件ですか」
「そう言い切れる記録はない」
白鳥は端末を見た。
「凝縮の寄与が記録上不明確である以上、三接続へ短縮する方が安全です」
透が思わず言う。
「安全なんですか」
白鳥は説明する。
「対象反応は低位。物理破損なし。主要術具反応も基準内。残留値も低位です」
そこで透を見る。
「そのうえで、三枝さんの現在の安定接続数を考えると、四接続より三接続の方が事故率は下がります」
透は黙る。
白鳥の言い方は冷たい。
だが、透の接続安定性を軽く扱っているわけではない。
むしろ、現状に合わせて危険を下げようとしている。
白鳥は続ける。
「とくに今回の対象は低位です。希薄で基準値以下まで落ちるなら、凝縮を入れることで得られる利益より、接続数増加によるリスクの方が大きいと判断します」
篠宮も端末を見る。
「……理屈としては、分かります」
黒瀬が篠宮を見る。
「篠宮」
篠宮は苦しそうに答える。
「黒瀬さんの経験則を否定するつもりはありません」
それでも、言葉を続ける。
「ですが、観測上の反応が低位で、破損もなく、術具反応も基準内なら、三枝さんに四接続を持たせるより、三接続で終える方が安定するようにも見えます」
透は、自分の手を見る。
「俺は……正直、分からないです」
黒瀬は廊下の奥を見る。
やはり、場が軽くない。
「希薄で止めると、嫌な残り方をすることがある」
白鳥が言う。
「主観的評価です」
「そうだな」
「式守には入力できません」
「だろうな」
つづりが、札を持ったまま言う。
「うちも嫌だけど」
少しだけ言い淀む。
「でも、三枝が四つ持つのも怖いって言われると、まあ分かる」
篠宮が言う。
「私には、黒瀬さんほどの経験則はありません。現時点の観測値と術者負荷を優先するなら、三接続の方が妥当だと思います」
黒瀬は短く息を吐く。
「……そうだな」
それは、納得ではない。
理屈で押し返せないことを認めた声だった。
「根拠で勝てる話じゃない」
白鳥が言う。
「式守は、観測可能な危険を優先します。場の空気は、現時点では評価不能です」
黒瀬は目を閉じる。
一瞬だけ、場が静まる。
「分かった」
黒瀬は透を見る。
「三接続で行け。観測、偏向、希薄」
透は返事をした。
「はい」
黒瀬はすぐに付け足す。
「ただし、希薄を強く入れすぎるな」
「はい」
「落とすだけでいい。終わらせに行くな」
透は少しだけ喉を鳴らした。
「……はい」
白鳥は式守へ入力する。
「式守、再対応手順を更新」
画面に、手順が表示される。
「観測、偏向、希薄」
白鳥は続ける。
「凝縮工程は省略。理由、接続数低減による安定化、および対象反応低位」
最後に、一瞬だけ止まる。
「現場違和感。評価保留」
その項目は、処理判定には影響しない。
だが、完全には消されなかった。
九 名前の遅れ
透は再対応に入った。
観測。
階段側の手すりに、薄く滲んだ反応がある。
人影だったものが、輪郭を失って流れだけになっている。
「見えました」
透は見えたものだけを言葉にする。
「階段側。手すりの裏」
黒瀬が言う。
「偏向」
「はい」
偏向。
人から外す。
壁側へ逃がす。
そのまま吸い札へ流す。
ここまでは通る。
白鳥が端末を見る。
「対象反応、低下」
篠宮が確認する。
「流れは術具側へ向いています」
黒瀬が低く言う。
「希薄」
透は頷く。
「はい」
希薄。
対象反応を落とす。
本来なら、ここで終わる。
式守上も、処理完了に近い。
実際、反応は落ちる。
白鳥が読み上げる。
「対象反応、基準値以下」
式守が判定を出す。
「希薄成功。処理完了判定、可能」
透は息を吐きかけた。
その瞬間、足元の感覚が抜ける。
対象は薄い。
輪郭がない。
流れだけが残っている。
そこへ希薄が入りすぎた。
薄めたものがどこへ行ったのか、分からない。
対象から離れたはずのものが、ほんの一部だけ、透の側へ触れた。
痛みはない。
ただ、自分の輪郭だけが、一瞬薄くなる。
透は言葉を失った。
「……」
黒瀬が呼ぶ。
「三……」
名前が出ない。
黒瀬自身が、一瞬詰まる。
「……おい、若いの!」
透は反射で返事をした。
「はい!」
返事をしてから、遅れて違和感を覚える。
若いの。
それは自分の名前ではない。
なのに、返事をした。
美緒が呼ぶ。
「透くん」
透は一拍遅れて振り向いた。
「……はい」
美緒は、その一拍を見逃さない。
白鳥もログを見る。
本人呼称反応遅延。
分類未定。
土御門が低く言う。
「今のを、疲労で流すなよ」
白鳥は即座に答える。
「記録します」
黒瀬は、透を見る。
「三枝」
今度は名前が出た。
透は返事をする。
「はい」
「自分の名前を言え」
透は、一瞬だけ間を置いた。
「……三枝、透」
少し遅い。
美緒が記録する。
「本人確認、遅延あり」
端末に入力する指が、いつもより少し速い。
「継続確認」
透は小さく言う。
「すみません」
美緒は即座に返す。
「謝らなくていいです」
それから、まっすぐ透を見る。
「返事をしてください」
透は息を整える。
「はい」
ここではまだ、誰も名をつけられない。
ただ、名前への反応がおかしい。
それだけが残った。
十 帰れるかどうか
土御門が、静かに白鳥を見る。
静かだった。
だが、明らかに怒っていた。
「なぜ希薄で止めた」
白鳥は端末を見たまま答える。
「対象反応は基準値以下でした。物理破損もなく、主要術具反応も基準内です。三接続化により、術者負荷も低下しています」
「全部、筋は通っとる」
白鳥は顔を上げる。
「では」
土御門は言う。
「場が軽くなっとらん」
白鳥の返答は変わらない。
「場の空気は定量化されていません」
「だから怖いんじゃ」
「定量化されていないものを、判断基準にはできません」
土御門は頷く。
「できん」
そして、続けた。
「じゃが、捨てるな」
白鳥は黙る。
「どう扱えばいいのですか」
「知らん」
土御門は即答した。
「知らんから、昔の術式は待つ。札を置く。鈴を鳴らす。余計に見る。最後に何かを噛ませる」
白鳥は聞く。
「理由は」
「分からん」
土御門は、透の方をちらりと見る。
「じゃが、軽くなるまで帰らん」
白鳥はその言葉を繰り返した。
「軽くなるまで、帰らない」
土御門は頷く。
「お前さんの式守は、怨霊がいないことを見た。壊れていないことを見た。数値が下がったことを見た」
そして、静かに言う。
「だが、帰れるかどうかを見とらん」
白鳥の目がわずかに動く。
「……帰れるかどうか」
「そうじゃ」
土御門は廊下を見た。
「現場は、終わったかどうかだけでは足りん。帰れるかどうかを見る」
篠宮は唇を結ぶ。
その判断に、自分も同意した。
土御門が呼ぶ。
「篠宮」
「……はい」
「お前さんも、そう思ったか」
篠宮は逃げなかった。
「思いました」
「接続数を減らす方が、三枝さんには安定すると判断しました」
土御門は頷く。
「そうじゃろうな」
篠宮が顔を上げる。
「そう見える」
土御門は言った。
「だから怖い」
白鳥が聞く。
「では、何が誤りだったのですか」
「知らん」
「知らない?」
「知らん」
土御門の声は揺れない。
「四つなら防げた、とも言えん。凝縮を入れたせいで別の事故が起きたかもしれん」
それから、白鳥を見た。
「じゃが、希薄で止めるのは怖い」
白鳥は問う。
「根拠は」
「経験じゃ」
「式守には入力できません」
「今はな」
黒瀬が低く言う。
「俺も、四つなら防げたとは言わん」
白鳥は黒瀬を見る。
黒瀬は、まだ重い廊下を見ていた。
「だが、希薄で止めるのは嫌だった」
「嫌、ですか」
「そうだ」
黒瀬は言う。
「終わったように見える。でも、終わった感じがしない。そういう時がある」
白鳥は端末に視線を落とす。
「主観的です」
「主観だな」
土御門が言う。
「主観で拾ったものを、全部捨てた結果が今じゃ」
白鳥は黙る。
土御門は続けた。
「なぜ札を削った。なぜ観測をそこで止めた。なぜ希薄で止めた」
一つずつ、言葉を置く。
「全部、同じ話じゃ」
効いた証拠がない。
見えた異常がない。
接続数が少ない方が安定する。
どれも筋は通っている。
「筋が通っとるから、人が薄くなる」
その言葉に、白鳥の指が止まった。
「……評価項目が不足しています」
土御門は頷く。
「そうじゃ」
「ただし、項目名はわしにも分からん」
「分からんものを、分からんまま捨てるな」
篠宮は、静かに拳を握った。
「……報告します」
白鳥が聞く。
「何をですか」
「三接続化の判断に、私も同意したことを」
篠宮は、はっきりと言った。
「その結果、三枝さんに本人確認遅延が発生したことを」
白鳥は頷く。
「必要です」
「分かっています」
必要だが、書きたくない。
商業施設案件の「原因不明」に続き、篠宮にとって嫌な報告になる。
それでも、書くしかなかった。
書かない安全は、次に引き継げない。
そこだけは、白鳥の言う通りだった。
十一 署名の一画
事故後、美緒は書類を確認した。
透が自分の名前に反応しなかったことが、頭から離れない。
美緒は、今回の現場入り前に書かれた入構確認票を取り出す。
そこには、透の署名がある。
三枝 透
読める。
だが、「透」の一画が足りない。
美緒は息を止めた。
これは、事故後の署名ではない。
現場に入る前の署名だ。
手早く書けば、省略はあり得る。
現場入り前で慌ただしかったなら、説明はつく。
でも、美緒は透の字を見慣れている。
美緒は、商業施設案件で書かれた報告書を取り出す。
透が異様に安定した固定を出した、あの現場の署名。
そちらの「透」は、普通だった。
美緒は二つの署名を並べる。
前回は、普通。
今回は、一画足りない。
だが、今回の署名は暴発前に書かれている。
順番が合わない。
暴発したから署名がおかしくなったのではない。
署名がおかしい状態で、透は現場に入った。
そして、暴発した。
美緒は小さく呟く。
「……でも、透くんは」
こんな省略の仕方はしない。
そう言いかけて、言葉を飲み込む。
美緒はまだ、それに名前をつけられない。
ただ、事務ミスとして流す気にはなれない。
美緒は署名の比較を白鳥に見せた。
白鳥は、二つの署名を確認する。
「前回現場の署名は正常」
次に、今回の入構確認票を見る。
「今回現場入り前の署名は、一画欠損」
さらに、事故ログを確認する。
「その後、三枝さんは術式暴発時に名前認識の遅延を起こした」
美緒は静かに言う。
「関係あると思います」
白鳥はすぐには否定しなかった。
「可能性はあります」
美緒は少し眉を寄せる。
「可能性?」
「現時点では、それ以上にはできません」
美緒は少しむっとする。
白鳥は続けた。
「ですが、無視もしません」
白鳥は式守に向き直る。
「式守。評価項目を追加」
画面が切り替わる。
「署名不備」
白鳥は入力する。
「分類。本人確認項目、および術式事故関連候補」
一拍置いて、数値を入れる。
「初期重み、0.01」
美緒が即座に言う。
「低くないですか」
「高くする根拠がありません」
「でも、入れるんですね」
白鳥は美緒を見る。
「無視する根拠もありません」
土御門が少し笑う。
「ずいぶん軽いな」
白鳥は真面目に答えた。
「根拠が薄いためです」
「じゃが、ゼロではない」
「はい」
白鳥は頷く。
「ゼロではありません」
土御門は満足そうに言った。
「なら十分じゃ」
「十分ではありません」
白鳥はすぐに訂正する。
「暫定です」
土御門は笑う。
「お前さん、ほんに嫌な女じゃな」
白鳥は少しだけ考える。
「褒め言葉として処理します」
つづりが横から言う。
「今のはたぶん褒めてる」
白鳥はつづりを見る。
「褒め言葉として処理済みです」
「処理済みって言い方が嫌」
続いて、白鳥はもう一つ項目を追加した。
「式守。評価項目候補を追加」
画面に、新しい項目が表示される。
「現場違和感」
白鳥は、黒瀬、土御門、篠宮、つづりの申告を紐づける。
「複数術者申告。客観指標、未特定。反応値、物理破損、術具反応との相関不明」
そして、入力する。
「初期重み、0.01」
つづりが言う。
「また低い」
「高くする根拠がありません」
土御門が言う。
「じゃが、ゼロではない」
白鳥は頷く。
「はい。ゼロではありません」
黒瀬が低く言う。
「ゼロじゃないものが増えてきたな」
白鳥は画面を見る。
「はい」
少しだけ、声が重くなる。
「増えています」
十二 記録し直す
事故後、白鳥は土御門に聞いた。
「先ほどの現象について、記録はありますか」
土御門はすぐには答えなかった。
廊下の奥を見て、それから白鳥を見る。
「あるにはある」
白鳥は身を乗り出す。
「どこにありますか」
「ただし、別の名前で残っとる」
「別の名前?」
土御門は指を折る。
「署名不備」
次に。
「本人確認遅延」
さらに。
「記載ミス。疲労。現場混乱」
白鳥の表情が硬くなる。
土御門は続けた。
「人が消えかけた時ほど、人は事務ミスとして片づける」
白鳥は低く言う。
「それでは、式守には学習できません」
「そうじゃ」
土御門は当然のように頷く。
白鳥は少しだけ黙る。
そして言った。
「なら、記録し直します」
土御門は白鳥を見る。
「嫌なものまで記録しろ」
「はい」
「お前さんは、それができる嫌な女じゃ」
白鳥は一拍置く。
「褒め言葉として処理します」
ここで、白鳥と土御門がつながった。
土御門は白鳥を完全には信用していない。
白鳥も、土御門の言葉をすべて受け入れたわけではない。
ただ、「記録し直す」という一点でつながった。
このあと、現場班は一度切り分けられた。
黒瀬は、透の状態確認と帰社判断に回る。
篠宮は、三接続化に同意した経緯を元請け側の報告に残すため、別室で記録を整理する。
つづりは、黒ずんだ予備札と未使用扱いだった術具を回収し、明細に追記する。
美緒は、署名比較の控えを保存する。
現場詰所に残るのは、元請け立会いの鷹宮、式守運用の白鳥、古典監修として呼ばれた土御門。
白鳥は式守ログを見る。
微弱偏向反応。
主術式寄与不明。
外乱ノイズとして除外。
余剰札、反応なし。
削減妥当。
術後、未使用札に遅延反応。
希薄後凝縮、省略。
理由、対象反応低位。接続数低減による術者負荷軽減。
結果、本人呼称反応遅延。
因果関係、不明。
分類保留。
現場違和感。
複数術者申告あり。
客観指標、未特定。
評価項目候補。
初期重み0.01。
署名不備。
本人確認項目。
術式事故関連候補。
初期重み0.01。
白鳥は一つずつ、声に出した。
「除外してはいけなかった」
微弱偏向反応。
「未使用として扱ってはいけなかった」
遅れて黒ずんだ札。
「希薄で止めてよいと、断定してはいけなかった」
本人呼称反応遅延。
「接続数を減らせば安全だと、単純化してはいけなかった」
三接続化。
「場の違和感を、主観として捨ててはいけなかった」
複数術者の申告。
「署名不備を、本人確認だけに閉じてはいけなかった」
美緒の控え。
まだ、それは現象ですらなかった。
記録に残すには薄すぎる。見逃すには、少しだけ重い。
けれど、画面上の分類ではそれ以上の名前を持たない。
式守は、それらを評価項目候補として残した。白鳥は、その優先度を低に設定した。
ただ、ゼロではないものが増えた。
土御門が言う。
「ようやく、見たくないものを見る気になったか」
白鳥は画面から目を離さずに答えた。
「はい」
土御門は静かに言う。
「なら次は、もっと嫌なものを見る」
その言葉に、少し離れた場所にいた鷹宮亮介が顔を上げた。
十三 旧市営地下道
鷹宮亮介は、今回の試験運用に元請け側の立会いとして来ていた。
現場判断には口を挟みすぎず、しかし責任の所在だけは見ている。
鷹宮は土御門へ軽く頭を下げた。
「土御門さん」
「鷹宮か」
「急な監修依頼、助かりました」
土御門は鼻を鳴らす。
「助かったかどうかは、まだ分からん」
鷹宮は苦く笑う。
「そうですね。ただ、止まる理由にはなりました」
「止まる理由を作るのが、年寄りの仕事になるとはな」
「若い人間だけだと、進める理由の方が強くなりますから」
土御門は鷹宮を見る。
「お前さんも、もうそちら側じゃろう」
鷹宮は少しだけ苦く笑った。
「否定できません」
その直後、鷹宮の端末に非公開案件の通知が届いた。
件名。
旧市営地下道封鎖区画・再評価依頼
鷹宮の表情が、わずかに変わる。
添付された観測値は、軽微な残留霊障の再活性化を示している。
さらに、関連資料の一部に署名不備、担当者名欠損、観測ログ欠落が偏っていた。
白鳥の端末にも、式守の再評価候補として通知が出る。
旧市営地下道封鎖区画。
高負荷術式残滓疑い。
記録欠損あり。
署名不備項目との相関、低。
ただしゼロではない。
白鳥は、その件名を読む。
「旧市営地下道……」
鷹宮は一度だけ目を通し、画面を閉じた。
「……まだ、現場に出す段階じゃない」
土御門が言う。
「嫌なものを見る、と言ったばかりじゃ」
鷹宮は答える。
「できれば、もう少し後にしてほしかったですね」
土御門は短く言った。
「そういうものほど、待たん」
鷹宮は端末を握る手に、少しだけ力を込める。
「まだ、現場に出す段階じゃない」
同じ言葉を、もう一度だけ繰り返す。
だが、その言葉が通用しないところまで、案件はもう進んでいる。
白鳥は式守の画面を見る。
署名不備。
現場違和感。
微弱偏向反応。
未使用札の遅延反応。
本人呼称反応遅延。
どれも、まだ軽い。
どれも、まだ名前がない。
それでも、ゼロではない。
式守の再評価候補に、旧市営地下道の名が残る。
画面の小さな表示が、消えずに点灯していた。
第5話 式守は禁忌を知らない 了
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片桐美緒の案件補足
処理完了と、帰れる状態は同じではありません。
| 用語 | 説明 |
|---|---|
| 式守 | 術式設計支援AI。現場判断補助、報告書標準化、古い記録の再評価を目的として試験運用された。 |
| 標準化できる安全 | 記録・数値・手順として残せる安全。誰が見ても再現しやすく、引き継ぎやすい。 |
| 標準化できない安全 | 勘、違和感、待機、余剰札、鈴など、理由を数値化しにくいが現場では安全側に働くことがある要素。 |
| 属人的な安全 | 特定の術者の経験や判断に依存している安全。式守はこれを減らそうとしている。 |
| 低密度対象 | 反応が薄く、危険度が低く見える対象。第5話では共用廊下の突き当たりに見える人影型反応。 |
| 術後観測 | 処理後に反応が残っていないか確認する観測。式守案では二回実施後、異常値がなければ追加観測を省略可能とした。 |
| 追加観測 | 通常の術後観測のあと、さらに時間を置いて確認すること。古い手順では安全確認として残りやすい。 |
| 待機 | 処理後すぐ帰らず、場が落ち着くまで現場に残ること。理由を説明しにくいが、遅れて出る反応を拾う場合がある。 |
| 余剰札 | 必須と証明しにくいが、安全側に置かれる札。反応しなかったから不要とは限らない。 |
| 未使用札 | 処理時点では使われなかったように見える札。第5話では、処理完了判定後に遅れて反応した。 |
| 遅延反応 | 処理直後ではなく、少し時間が経ってから出る反応。式守の短縮判定では拾いにくかった。 |
| 現場違和感 | 黒瀬、つづり、篠宮たちが感じた「終わった感じがしない」「箱に戻す気にならない」などの主観的な違和感。 |
| 場が重い | 数値上は異常がなくても、現場がまだ落ち着いていない状態を示す感覚的表現。 |
| 帰れるかどうか | 土御門が提示した現場判断。怨霊がいない、数値が下がった、物が壊れていないだけでなく、作業者が安全に帰れる状態かを見る。 |
| 微弱偏向反応 | 式守ログに出た微弱な反応。主術式への寄与は不明で、当初は外乱ノイズとして除外された。 |
| 外乱ノイズ | 主術式への関与が確認できない微弱反応。式守は手順評価から外した。 |
| 三接続化 | 四接続案から凝縮を外し、観測、偏向、希薄の三接続で処理する判断。接続数を減らし、透の負荷を下げる意図があった。 |
| 希薄で止める | 対象を薄めたところで処理完了とすること。第5話では、ここで止めたことが問題として残った。 |
| 凝縮 | 散った反応や薄まった反応を、封入・回収できる形へまとめる操作。黒瀬は経験則として入れたがった。 |
| 本人呼称反応遅延 | 名前を呼ばれた時の反応が遅れること。第5話では、透が「三枝」「透くん」への反応に遅れを見せた。 |
| 本人確認 | 名前、署名、返答などで本人性を確認すること。霊障処理では、単なる事務確認以上の意味を持つ場合がある。 |
| 署名不備 | 署名の一部が欠けている状態。第5話では、透の入構確認票で「透」の一画が欠けていた。 |
| 初期重み0.01 | 式守に追加された評価項目の初期重要度。根拠が薄いため低く設定されたが、ゼロではない。 |
| 評価項目候補 | 現時点では確定要素ではないが、今後の解析対象として残す項目。 |
| 記録し直す | これまで「疲労」「記載ミス」「現場混乱」として片づけられていた現象を、別の見方で記録し直すこと。 |
| 旧市営地下道 | 第5話末尾で再評価候補に上がった封鎖区画。署名不備、記録欠損、観測ログ欠落が関連資料に偏っている。 |
案件概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 案件区分 | 式守試験運用対象案件 |
| 対象施設 | 元請け管轄内の古い集合住宅 |
| 主な現象 | 夜間、共用廊下の突き当たりに低密度の人影が見える |
| 初期危険度 | 低位。人的被害なし |
| 契約上の扱い | 軽微対応可能案件 |
| 式守の目的 | 術式手順の短縮、術具使用量削減、術後観測の標準化 |
| 主な問題 | 数値上は処理完了に見えたが、遅延反応・本人確認遅延・現場違和感が発生 |
| 最終状態 | 処理は継続整理。式守に新しい評価項目候補が追加された |
式守案の短縮内容
| 項目 | 古い手順 | 式守案 | 問題になった点 |
|---|---|---|---|
| 術後観測 | 複数回確認し、一定時間待機する | 二回観測後、異常値がなければ追加観測省略 | 二回目以降に遅延反応が出た |
| 鈴 | 周期や揺れを確認する | 省略対象 | 数値化しにくい安全確認が失われた |
| 余剰札 | 反応しないことも含めて安全装置として置く | 使用率が低いため削減対象 | 遅れて札が黒ずんだ |
| 待機 | 場が落ち着くまで残る | 作業時間短縮のため省略 | 「帰れるかどうか」を見られなかった |
| 凝縮 | 希薄後に噛ませることがある | 寄与不明として省略 | 希薄で止めたあと、本人確認遅延が発生 |
最初の処理構成
| 工程 | 系統 | 内容 |
|---|---|---|
| 1 | 観測 | 共用廊下突き当たりの人影型反応を確認 |
| 2 | 固定 | 廊下端に範囲を限定 |
| 3 | 希薄 | 人影型反応を基準値以下へ下げる |
| 4 | 初回術後観測 | 希薄直後の反応低下を確認 |
| 5 | 二回目の術後観測 | 短時間後の再反応なしを確認 |
| 6 | 完了判定 | 式守が追加観測省略可能と判定 |
実際に起きたこと
| 順番 | 発生内容 | 意味 |
|---|---|---|
| 1 | 式守が処理完了判定を出す | 数値上は処理成功 |
| 2 | 現場側が違和感を申告 | 黒瀬、つづり、篠宮が「終わった感じがしない」と感じる |
| 3 | 階段側に反応が戻る | 二回目の術後観測後に遅延反応が発生 |
| 4 | 未使用札が黒ずむ | 使われなかったはずの札が、判定後に仕事をした |
| 5 | 三接続化が提案される | 透の負荷を下げるため、凝縮を省略 |
| 6 | 希薄で止める | 対象反応は基準値以下になる |
| 7 | 透の名前反応が遅れる | 本人呼称反応遅延が発生 |
| 8 | 署名不備が発見される | 現場入り前の署名に一画欠損 |
| 9 | 評価項目候補が追加される | 署名不備、現場違和感などがゼロではない要素として残る |
三接続案と四接続案
| 案 | 構成 | 長所 | 問題 |
|---|---|---|---|
| 黒瀬案 | 観測、偏向、希薄、凝縮 | 希薄後の嫌な残り方を回収できる可能性がある | 透に四接続を持たせる負荷がある |
| 式守案 | 観測、偏向、希薄 | 接続数が少なく、透の負荷を下げられる | 希薄で止めるため、処理後の残り方を拾いにくい |
| 篠宮判断 | 三接続案に同意 | 観測値と術者負荷を優先すれば妥当 | 結果として本人確認遅延が発生し、報告対象になった |
| 土御門判断 | 希薄で止めるのは怖い | 経験則として危険を感じていた | 理由を明確に説明できなかった |
「現場違和感」の申告者
| 人物 | 申告内容 | 式守上の扱い |
|---|---|---|
| 黒瀬玄一 | 場が重い。終わった感じがしない | 現場違和感として記録 |
| 宮守つづり | 札を箱に戻す気にならない | 現場違和感として記録 |
| 篠宮伊織 | 違和感はあるが、処理完了判定を覆す根拠ではない | 現場違和感として記録 |
| 土御門清胤 | 場が軽くなっていない。帰れるかどうかを見ていない | 式守の評価不足として指摘 |
| 白鳥理央 | 客観指標は未特定 | 判定影響なし、のち評価項目候補へ |
署名確認
| 比較対象 | 状態 | 美緒判断 |
|---|---|---|
| 商業施設案件の透の署名 | 正常 | 比較基準として有効 |
| 今回の入構確認票の署名 | 「透」の一画が欠損 | 事務ミスとして流さない |
| 本人呼称反応 | 名前への返答に遅れあり | 署名不備との関係を疑う |
| 式守上の扱い | 本人確認項目、および術式事故関連候補 | 初期重み0.01 |
| 美緒の扱い | 控えを保存 | 継続確認 |
式守に追加された評価項目
| 項目 | 初期重み | 理由 |
|---|---|---|
| 署名不備 | 0.01 | 根拠は薄いが、本人確認遅延との関連可能性があるため |
| 現場違和感 | 0.01 | 複数術者から申告があり、完全に無視できないため |
| 微弱偏向反応 | 低優先度 | 主術式寄与は不明だが、外乱として捨てきれないため |
| 未使用札の遅延反応 | 評価対象 | 処理完了判定後に反応したため |
| 本人呼称反応遅延 | 分類保留 | 疲労だけでは説明しきれない可能性があるため |
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