

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
窓を閉めた日
窓を閉めたのは、ミレナだった。
幼い手で重い木の戸を引き、外から吹き込む雨を止めた。
家族に褒められたことも覚えている。
濡れた木の匂いも、窓へ打ちつける雨音も、自分の服の袖が少し濡れたことも覚えている。
それは、ミレナが生きた記憶のはずだった。
だが、同じ記憶の中に、別の景色がある。
海の上で生まれた湿った流れ。山へぶつかって持ち上がる風。雲が重くなり、雨となって村へ届くまでの道。
高い空から、そのすべてを見ている。
窓を閉めた幼いミレナと、遠い海から村までの風を見下ろす何かが、同じ出来事を覚えていた。
「私は、空にはいなかった」
長椅子へ座ったまま、ミレナは声に出した。
閉じた窓の向こうで、小さな風が回っている。
「海も見ていない」
そう言えば、分けられると思った。
窓を閉めた方が自分の記憶で、風の道を見た方が精霊王の知識だ。
頭では分かる。
だが、自分の中では、どちらも同じように思い出せる。
片方だけを知らないものとして押し出すことができなかった。
生まれる前の村
別の記憶が浮かんだ。
村の北を流れる細い川。
ミレナは子供のころ、川沿いの古い水車小屋で転び、膝を擦りむいたことがある。
泣きながら村へ戻った。
その時の痛みも、土の冷たさも覚えている。
だが、その川が今の場所へ流される前の形も知っていた。
水路が掘られる前。水車小屋が建てられる前。村の家が今より少なかったころ。
風が草の上を通り、川の流れを少しずつ削っていた景色を知っている。
「知らない」
ミレナは両手で頭を押さえた。
「私は、そんなころを知らない」
知らないはずなのに、懐かしい。
水車小屋が建つ前の川を見て、今の方が狭くなったと思う。
その感覚が、自分のものではないと言い切れない。
逆に、膝を擦りむいて泣いた記憶まで、本当に自分のものなのか分からなくなる。
誰かから渡された知識へ、人間の感情だけを後から重ねたのではないか。
ミレナという人間の二十年そのものが、風の精霊王が人間として見た夢なのではないか。
「違う」
否定すると、窓の外の風が強くなった。
「私はミレナ」
ネアに確認された言葉を繰り返す。
「二十歳。この村で生まれた」
どれも事実として知っている。
だが、事実を知っていることと、自分が生きたことの違いが分からなくなっていた。
呼ばれた名前
部屋の外から、家族の声がした。
「ミレナ。まだ起きているの?」
聞き慣れた声だった。
何度も自分の名前を呼んだ声だ。
それなのに、今聞いた声なのか、過去の記憶の中で聞いているのか、一瞬だけ分からなかった。
「ミレナ?」
もう一度呼ばれる。
「起きています」
答えた後で、ミレナは自分の口を押さえた。
今の言葉は、自分で考えたのか。
呼ばれたから答えただけなのか。
長い間、人の呼びかけに応じてきた記憶を、風の役割がなぞっただけではないのか。
考えるほど、区別が消えていく。
風が窓を押した。
閉めたはずの戸が音を立てる。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
また答えた。
大丈夫ではない。
だが、家族へ何を説明すればよいのか分からない。
自分が本当に家族の一人なのか疑っているなど、口に出したくなかった。
ここにいれば、家族と過ごした記憶まで一つずつ疑ってしまう。
そう思った瞬間、ミレナは立ち上がっていた。
家を出る
短い外套を羽織る。
革靴を履く。
戸を開け、家の裏側へ出る。
考えて決めた動作ではなかった。
家族の顔を見る前に、外へ出たかった。
夜の空気へ触れた途端、周囲の風がミレナへ集まった。
「待って」
自分で起こした風へ言う。
「今は、動かさないで」
風は止まらなかった。
止め方を知らないのではない。
どうすれば流れを止められるか、分かってしまう。どこへ力を逃がせば家を傷つけないか。どの方向へ進めば村の屋根を巻き上げずに済むか。
考えるより先に、風の知識が道を選ぶ。
ミレナの身体が軽くなった。
地面を蹴ったはずなのに、次の一歩が遠すぎた。
裏庭を越える。
柵の前へ着き、いつものように留め金を外す。
通り抜けた後、手が勝手に留め金を戻した。
その直後、風が身体を押し出した。
「止まって!」
声は後ろへ残った。
畑の外側を通る細い道が、足元を流れていく。
風は何本にも分かれ、村の外へ広がった。
ミレナ自身にも、自分がどの流れに乗っているのか分からなかった。
消えたミレナ
夜明け前、セトたちが借りている家の戸が強く叩かれた。
最初に起きたハルヴェンが戸を開ける。
そこには、息を切らした村人が立っていた。
「ミレナがいないんです」
その一言で、全員が起きた。
セトたちはミレナの家へ向かう。
部屋には誰もいなかった。
窓は閉じている。
長椅子の前には、何度も同じ場所を歩いた跡が残っていた。
「いつ気づいた」
セトが尋ねる。
「少し前です。部屋から風の音がして、それから静かになって」
「外套と靴がありません」
家族が答えた。
「自分で出たのですね」
ネアは部屋へ残る淡緑色の流れを見る。
「どちらへ行った」
シアが尋ねる。
ネアはすぐに答えなかった。
家の外へ出る。
淡緑色の流れは、村中へ広がっていた。
北へ向かうもの。東の街道へ伸びるもの。屋根の上を越え、西の畑へ抜けるもの。地面に沿い、細い水路をたどるもの。
「全部だ」
シアが言った。
「ええ」
「全部にミレナがいるのか」
「風の痕跡があります。ですが、本人は一人です」
「一番強い流れを追う」
「強さは、ミレナとの近さを示していません」
「では、どう探す」
ネアは村の外へ続く無数の流れを見た。
「分かれて探すしかありません」
風では探せない
村の中央で、五人は方角を分けた。
シアとネアは、原光の流れが濃い東側を調べる。
ハルヴェンとリグは、川沿いから北へ向かう。
セトはすぐには動かなかった。
「ミレナは、不安な時に行く場所があるか」
家族へ尋ねる。
「不安な時?」
「一人で考えたい時や、誰にも会いたくない時だ」
家族は顔を見合わせた。
「子供のころは、北の古い水車小屋へ行くことがありました」
「今は?」
「大人になってからは、あまり。でも、村の中にいたくない時には、川の方へ歩いていたと思います」
「風の流れなら、北にもあります」
ハルヴェンが言った。
「川沿いへ分かれたうちの一つです」
「一つだけではない」
リグが周囲を見る。
「北へ向かった流れだけでも、途中で五つに分かれている」
「俺は水車小屋へ行く」
セトが言った。
「では、俺たちは川の上流側を見ます」
ハルヴェンが答える。
「何かあれば、リグの雷を上へ出します」
「ああ」
「一人で大丈夫か」
シアが尋ねた。
「探すだけだ」
「見つけたら待て」
「分かった」
「本当に?」
「今は分かっている」
シアが何か言い返す前に、ネアが東の流れへ目を向けた。
「急ぎましょう」
人間が通った道
セトはミレナの家の裏へ回った。
風の痕跡は、地面だけではなく、空にも家の壁にも残っている。
それを追うことはやめた。
裏庭の柵を見る。
留め金は閉じていた。
家から出た者が通らなければ、閉め直す必要はない。
柵の下には、革靴の先で土を削った跡がある。
その先で、続いていた足跡は一度消えていた。
風に身体を運ばれたのだろう。
だが、向かった方向は分かる。
畑を横切れば、水車小屋までは近い。
ミレナは横切っていなかった。
作物の間に、風が通った跡はある。
しかし、人が踏んだ跡はない。
畑の外側を回る道には、遠く離れた場所ごとに、靴が着地して土を削った跡が残っていた。
風に持ち上げられても、身体は道の上へ戻っている。
セトはその道を進む。
柵の角に、外套と同じ色の細い糸が引っかかっていた。
強い風なら、どこへでも進める。
風の精霊王の知識だけで動いたなら、道を選ぶ必要はない。
それでもミレナは、村の者が育てる作物を踏まない道を選んでいた。
風に運ばれながらも、人間として歩いてきた道を外れていない。
セトは北へ走った。
古い水車小屋
水車小屋は、村から少し離れた川沿いに残っていた。
今は使われていない。
水車は半分ほど欠け、細い水路だけが小屋の横を流れている。
近づく前から、風の音が聞こえた。
一定の方向へ吹く風ではない。
小屋の周囲を回り、川へ降り、木々の間を抜け、また同じ場所へ戻っている。
「ミレナ」
セトが呼ぶ。
返事はなかった。
白刃も黒刃も作らず、小屋の裏へ回る。
崩れかけた石壁のそばに、ミレナが座り込んでいた。
膝を抱え、顔を伏せている。
栗色の髪が、風に持ち上げられていた。
「ミレナ」
二度目に呼ぶと、肩が動いた。
「来ないでください」
「見つけたと伝えるだけだ」
「誰をですか」
ミレナは顔を上げなかった。
「私を探していたんですか。それとも、風の精霊王を探していたんですか」
「ミレナを探していた」
「それが、分からないんです」
風が石壁へぶつかり、細い砂を巻き上げる。
「どこまでが私の記憶なのか、分からないんです」
私がミレナなのか
セトは、それ以上近づかなかった。
ミレナが自分から話すのを待つ。
「ここで転んだことがあります」
ミレナは水車小屋の前を指した。
「子供のころです。膝を擦りむいて、泣きながら村へ帰りました」
「ああ」
「でも、この小屋が建つ前の川も覚えています」
ミレナがようやく顔を上げた。
目の下には、眠れなかった疲れが濃く残っている。
「村が今より小さかったころも。水路が掘られる前も。私は生まれていないのに、覚えています」
「風の知識だと、ネアは言っていた」
「頭では分かります」
ミレナは胸元を押さえた。
「でも、思い出す時は同じなんです。転んだことも、小屋がなかったころも、同じように自分の中から出てくる」
風が一度強くなる。
「家族と過ごしたことも、村で生きてきたことも、本当に私の記憶なのか分からなくなりました」
「ミレナ」
「今話している言葉も、私が考えているのか分かりません」
ミレナは自分の手を見る。
「私がミレナなのかも、分からない」
セトは、すぐに答えなかった。
精霊王の知識と人間の記憶を分ける方法を、セトは知らない。
どちらが本物かを決めることもできない。
分からないものを、分かるとは言えなかった。
「分からなくなっても、今それを怖いと思っているのはミレナだ」
ミレナが顔を上げる。
「どうして、そう言えるんですか」
「風の知識が何を知っているかは分からない。でも、今ここで、自分が消えるのを怖がっているのは、今まで人間として生きてきたミレナだ」
「それも、風の精霊王の感情かもしれません」
「そうかもしれない」
「それでは、私だとは言えません」
「ああ」
セトは否定しなかった。
「でも、今ここにいるお前が、怖いと言っている。どちらから出た感情でも、怖がっているお前を置いていく理由にはならない」
見つけたもの
ミレナはしばらく黙っていた。
小屋の周囲を回っていた風が、少しだけ弱くなる。
「どうして、私だと分かったんですか」
「風の精霊王を探したんじゃない。ミレナを探した」
「同じ場所にいるのに?」
「ああ」
セトは村の方角を指した。
「家の裏の留め金を閉めていた」
「留め金?」
「畑も踏まなかった。近道をせず、外側の道を通っている」
ミレナは、自分が家を出た後のことを思い出そうとした。
「覚えていません」
「覚えていなくても、そうしていた」
「風が選んだのかもしれません」
「風の痕跡は畑の上にもあった。でも、お前の靴の跡は道に残っていた。身体を運ぶ流れだけは、畑を避けている」
セトは古い水車小屋を見る。
「ここへ来ることも、村の人に聞いた。ミレナが一人で考えたい時に来ていた場所だ」
「昔のことです」
「風の精霊王が昔から知っていた場所じゃない。ミレナが子供のころに来た場所だ」
ミレナは膝を抱えていた腕を少し緩めた。
「私が選んだ?」
「少なくとも、ここへ来るまでに残したものは、ミレナのものだった」
「それだけで?」
「それだけあれば、探せる」
ミレナは返事をしなかった。
だが、顔を伏せることもしなかった。
逆に流れる水
水車小屋の横で、水音が変わった。
流れが強くなったのではない。
川下へ落ちていた水が、音を立てずに持ち上がっている。
古い水車が、ゆっくり逆へ回り始めた。
「下がれ」
セトは白刃と黒刃を作った。
ミレナが立ち上がる。
「何が――」
「俺の後ろへ」
川の中央から、細い水流が二本伸びた。
一本は空中を回り、もう一本は地面すれすれを通る。
その間から、人の形が現れる。
長身の男性だった。
背中の上まで届く濃い青緑色の髪を、首の低い位置で緩くまとめている。
白と深い藍色の衣装は、水の中にあるようにゆっくり揺れていた。
淡い青緑色の瞳が、セトたちへ向く。
表情は静かだった。
怒ってもいない。笑ってもいない。
ただ、その視線には二人を見つけた反応がなかった。
手の周囲を巡っていた水流が、途中で四本へ分かれる。
四本はさらに分かれ、元へ戻らないまま広がった。
「水の精霊王」
ミレナがつぶやく。
「分かるのか」
「知っています」
その言葉に、ミレナ自身が息を止めた。
会ったことはない。
それでも知っていた。
静かな攻撃
水の精霊王が、片手をわずかに上げた。
攻撃の構えには見えなかった。
だが、川の表面が一斉に持ち上がった。
「伏せろ!」
セトが黒刃を前へ出す。
細く圧縮された水流が、正面から突き出された。
黒刃へ触れた部分から、淡い青緑色の光が消える。
術として保たれていた形が崩れ、水が地面へ落ちる。
しかし、すべては止まらなかった。
原光を失った水そのものが勢いを残し、セトの腕と肩へぶつかる。
身体が後ろへ押される。
白刃を地面へ突き立て、倒れるのを防ぐ。
「走れるか」
後ろへ問いかける。
「はい」
「小屋の反対側へ」
ミレナが動く。
水の精霊王の視線も、同じ方向へ動いた。
セトは二本の刃を交差させる。
白刃を振り、見た目の刀身より先へ斬撃を伸ばす。
ミレナへ向かう水流が二つに切れる。
切れた水は、そのまま左右へ分かれた。
直後、別々の方向からミレナへ回り込む。
「戻れ!」
ミレナが足を止める。
セトは黒刃で右側を崩し、白刃で左側の向きをそらした。
水は地面へ落ちる前に細い流れへ変わり、川へ戻っていく。
「切っても、戻る」
セトが言った。
水の精霊王は答えない。
穏やかな顔のまま、もう一度手を上げた。
広がる水
川から持ち上がる水の量が増えた。
一つの大きな波にはならない。
細い流れへ分かれ、小屋の左右、地面、木の枝の間へ広がる。
黒刃で一つを消せば、その外側を二つが通る。
白刃で切れば、切れた数だけ流れが増える。
セトはミレナの前から動けなかった。
「風で押します」
「待て」
ミレナの周囲へ風が集まる。
本人が望むより早く、広い範囲の空気が動いた。
散っていた水流が風へ巻き込まれる。
一瞬だけ、水の精霊王から遠ざかった。
だが、風は一方向へそろわない。
回り込んだ流れが、水を小屋の周囲へ広げてしまう。
「止めてください」
ミレナが自分の風へ言う。
風が弱まる。
広がった水だけが、木や石壁を伝って残った。
「今は使うな」
「でも――」
「どこへ動くか分からない力を、近くで使う方が危ない」
ミレナは唇をかみ、うなずいた。
その間にも、水は周囲へ広がっている。
水の精霊王の身体は、先ほどより薄く見えた。
弱ったのではない。
身体を作っていた水まで、攻撃へ分けている。
二本では守れない
右から三本。左から二本。地面を伝う流れが一つ。
セトは黒刃を右へ向け、白刃で左を払った。
地面の流れを避けるため、ミレナとともに後ろへ下がる。
崩れた石へ足が当たった。
わずかに姿勢が乱れる。
その瞬間、水車の裏へ回っていた流れが一本へ集まった。
「セトさん!」
背後から来る。
振り向く時間はなかった。
セトはミレナを横へ押した。
黒刃を背中側へ回す。
水流の原光は削れた。
だが、勢いを失いきらなかった水が脇腹へぶつかる。
身体が石壁へ叩きつけられた。
息が止まる。
白刃が消えかける。
「セトさん」
「来るな」
声を出すだけで、脇腹が痛んだ。
立ち上がろうとする。
右脚へ力を入れた時、膝が崩れた。
それでも黒刃を作り直す。
水の精霊王は止まらない。
地面へ落ちた水が再び持ち上がり、ミレナへ向きを変える。
セトは片膝をついたまま、その前へ黒刃を置いた。
「逃げろ」
「一人で置いていけません」
「村へ戻れ」
「戻る道が分かりません」
ミレナの声が震える。
風なら、どこへでも続いている。
だからこそ、今のミレナには、どれが村へ戻る道なのか分からなかった。
雷が通る
水流が黒刃へ迫る。
その直前、空から紫白色の雷が落ちた。
水流を横から貫き、川まで一直線に走る。
水の精霊王の身体が細かく分かれた。
セトたちの前へ、ハルヴェンが着地する。
その手には、紫白色の雷をまとった精霊剣・轟雷があった。
「待てと言われたのでは?」
「見つけたら待つつもりだった」
セトが答える。
「見つけた後に、向こうから来た」
「なら、仕方ありませんね」
ハルヴェンは轟雷を構える。
『あれは水の精霊王だ』
剣となったリグの声が響く。
『境界が崩れている。話は通じないと思え』
「退けられるか」
『一度ならな』
分かれた水が、空中で再び人の形へ集まる。
穏やかな顔も、長い髪も、元と同じように戻った。
損傷した様子はない。
「セトをお願いします」
ミレナが言った。
「俺が離れれば、あなたが狙われます」
「私は――」
「その状態で力を使わないでください」
ハルヴェンは地面を蹴った。
「迅雷」
轟雷とともに、一本の紫白色の線となる。
正面から水の精霊王を貫いた。
引いた水
水の精霊王の身体が、前後へ分かれた。
分かれた水の間を、雷が走り続ける。
川へ広がっていた細い流れにも、同じ雷が伝わった。
初めて、水の精霊王の動きが止まる。
『倒してはいない』
リグの声がした。
「分かっています」
ハルヴェンは追撃せず、セトたちの前へ戻った。
空中へ分かれていた水が、川の上へ集まる。
人の形へ戻りかけたところで、再び崩れた。
水は川上へ向かって流れ始める。
本来の流れとは逆だった。
細い水流が何本も木々の間へ入り、やがて見えなくなる。
「逃げた?」
ミレナが尋ねる。
『一時的に離れただけだ』
轟雷からリグが答えた。
『水は残っている。あれだけ分かれても、全部が同じ一人だ』
ハルヴェンが轟雷を下げる。
紫白色の光がほどけ、リグが人型へ戻った。
「追うか」
リグが川上を見る。
「追いません」
ハルヴェンはセトの横へ膝をついた。
「今は、こちらが先です」
動けないだけ
セトは石壁へ背を預けた。
呼吸は戻っている。
だが、右脚へ力が入らない。
脇腹へ触れると、鈍い痛みが広がった。
「血は多くありません」
ハルヴェンが傷を確認する。
「骨は?」
「折れているかもしれません。少なくとも、歩かせない方がいいでしょう」
「重傷ではない」
「本人が決めることではありません」
少し遅れて、東側を探していたシアとネアも到着した。
シアは川へ残る水の痕跡を見てから、セトへ駆け寄る。
「何をした」
「守った」
「何からだ」
「水の精霊王です」
ネアが川へ触れずに流れを読む。
「役割名はヴァルナ。眠りの王の活性化と原光の枯渇で、自分の役割を制御できなくなっています」
「戻せるか」
シアが尋ねる。
「今は分かりません」
「なら、次に来たら倒す」
「まず、村へ近づけない方法を考えます」
「同じだ」
「違います」
ネアはセトのそばへ座った。
銀青色の原光で、傷の周囲へ残る水の力を取り除く。
「命に関わる状態ではありません」
「ほら」
セトが言う。
「ですが、しばらく動かないでください」
「どのくらいだ」
「今決めることではありません」
逃げたから
ミレナは、少し離れた場所に立っていた。
誰の言葉にも入れず、自分の手を見ている。
風は止まっていた。
「ミレナ」
セトが呼ぶ。
ミレナはゆっくり近づいた。
「けがは」
「動けないだけだ」
「私をかばったからです」
「水の精霊王が来たからだ」
「私がここにいなければ、セトさんも一人では来ませんでした」
「探しに来たのは、俺が決めた」
「私が逃げなければ、探す必要もありませんでした」
セトは返す言葉を探した。
逃げるなと言える状態ではなかった。
あのまま家にいれば、ミレナがどうなっていたかも分からない。
「今は、村へ戻る」
「答えになっていません」
「ああ」
「私のせいではないと、言ってくれないんですね」
「全部がミレナのせいだとも思っていない」
「でも、私が逃げたことは変わりません」
ミレナは目を伏せた。
セトを石壁へ叩きつけた水の音が、まだ耳に残っている。
風の知識ではない。
今、自分の目の前で起きた出来事だった。
村へ戻る
セトは、ハルヴェンとリグに肩を貸されて村へ戻った。
途中からは歩くことも難しくなり、二人が組んだ腕へ身体を預ける。
「動けないだけではなかったな」
リグが言う。
「途中までは動けた」
「それを動けないと言うんです」
ハルヴェンが答えた。
シアは何度も川上を振り返っていた。
「ヴァルナは村へ来るか」
「可能性はあります」
ネアが言う。
「水路は村まで続いています。今のヴァルナが何を基準に動いているかも分かりません」
「なら、見張る」
「ええ。リグとハルヴェンを中心に、水路と川を警戒しましょう」
「セトは?」
「休ませます」
「わたしも残る」
「全員で残れば、見張りになりません。シアはリグたちと水路を見てください」
「ネアは?」
「セトとミレナのそばに残ります。ここからでも、村へ近づくヴァルナの流れは確認できます」
「ならいい」
セトは二人の会話を聞きながら、少しだけ息を吐いた。
「俺は大丈夫だ」
「今のセトが言っても意味がない」
シアの答えは早かった。
残った風
借りた家へ戻ると、セトは長椅子へ横にされた。
村の者が布と水を持ってくる。
ハルヴェンが脇腹と脚を固定し、ネアは傷の周囲に異常な原光の流れが残っていないかを確認した。
すぐに動ける状態ではない。
だが、命に関わる傷でもなかった。
それを確認した後、シア、リグ、ハルヴェンは水路と村の周囲を見に出た。
ネアは入口近くへ座り、外へ続く原光の流れを見張っていた。
ミレナも、家に残った。
「家へ戻ってもいい」
セトが言った。
「一人にしないようにと言われました」
「俺を?」
「私もです」
ミレナは長椅子の横へ座った。
しばらく、どちらも話さなかった。
「さっき、私を見つけたと言いました」
「ああ」
「自分でも分からなかったのに」
「ああ」
「それで、セトさんは動けなくなりました」
「それは水の精霊王に負けたからだ」
「私を守りながら戦ったからです」
否定できることではなかった。
ミレナは両手を握る。
自分の記憶と風の知識は、まだ完全には分かれていない。
水の精霊王を見た時、会ったこともない相手を知っていた。
今も、自分がどこまでミレナなのかという答えは出ていない。
それでも、古い水車小屋で怖がっていたのが自分だという言葉は残っていた。
風の中から見つけたのは、風の精霊王ではなくミレナだったという言葉も残っている。
窓の外で、弱い風が動いた。
今度は逃げるように広がらず、家の周囲を一度だけ巡った。
本ページに掲載している本文、画像の著作権は作者に帰属します。
作者本人または作者が許諾した媒体を除き、無断転載・無断複製・無断配布・改変利用を禁じます。
感想・紹介・レビュー等で一部を引用する場合は、引用元ページ名またはURLを明記し、引用部分が分かる形で、必要な範囲に限ってご利用ください。
本作品は、作者本人により自サイト・カクヨム・小説家になろう等に掲載される場合があります。
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
”カクヨム”、”小説家になろう”ではフォロー、応援、レビュー、コメントなどができます。
気に入っていただけた方は、”カクヨム”、”小説家になろう”でも応援していただけると嬉しいです。
カクヨム版はこちら:
https://kakuyomu.jp/works/2912051606413324517
小説家になろう版はこちら:
https://ncode.syosetu.com/n8296mp/


コメント