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街道を進む風
淡い緑の流れは、街道に沿って進んでいた。
精霊王の移動とは違う。
大地を離れて空を渡るのではなく、人間が歩く速さで、町や村を結ぶ道の上を移動している。
「まだ動いています」
ネアが言った。
「追いつけるか」
セトが尋ねる。
「こちらの方が速いです。ただ、近づくほど見分けにくくなっています」
「弱くなった?」
シアが緑の流れをのぞき込む。
「いいえ。周囲へ広がっています」
一本だった流れが、道沿いの草木や地面へ細く分かれていた。
その一部は再び集まり、街道の先へ続いている。
「大地の記憶とつながっているからか」
「おそらくは」
「なら、本人だけ見ればいい」
「本人がどこにいるのかを探しているのです」
「一番濃いところだ」
「歩くたびに地面へ流れています。止まっている精霊王を探すのとは違います」
シアは不満そうに道の先を見る。
「面倒だな」
「人間を追っているのですから、道を進めば会えます」
ハルヴェンが言った。
「それなら面倒ではない」
「今の説明で変わりますか」
「道を進めばいいなら簡単だ」
セトたちは、緑の流れを追って街道を進んだ。
残された足跡
昼を過ぎたころ、道の脇に小さな休憩所が見えた。
屋根と長椅子だけの簡素な建物で、近くには馬へ水を与えるための桶が置かれている。
ネアは桶の前で足を止めた。
「ここにいました」
「今はいない」
シアが周囲を見る。
「少し前まで、です」
桶の水面は静かだった。
だが、その周囲だけ、淡い緑の原光が渦を作っている。
風が吹いた痕跡というより、風が立ち寄った痕跡だった。
「何をしていたか分かるか」
セトが尋ねる。
「水を飲んだのでしょう」
「それだけ?」
「役割を使った形跡はありません。ただ、本人が触れた場所へ風の流れが残っています」
リグが桶の縁へ手を置く。
「力を使った自覚がないなら、本人にとっては普通の動作だ」
「普通に歩き、普通に水を飲んでいるだけで、周囲の原光が風として整えられている?」
ハルヴェンが尋ねた。
「ええ。ただし、非常に弱いものです」
「精霊術士なら気づく?」
「近くで注意して見なければ、難しいでしょう」
ネアは街道の先へ目を向けた。
「本人自身も、気づいていない可能性があります」
先にある村
休憩所を過ぎると、緑の流れは街道から細い道へ分かれた。
道の先には、低い柵に囲まれた村が見える。
石と木で作られた家々の向こうに、畑と小さな水路が広がっていた。
「止まった」
シアが言う。
「村の中にいます」
ネアは緑の流れを追った。
しかし、村へ近づくほど、線は家々の間へ細かく分かれていく。
「一人ではないのか」
セトが尋ねる。
「中心は一人です。ただ、薄い流れを持つ人間がほかにもいます」
「子孫が複数いる?」
「同じ血統の者が、この村へ何人か残っているのかもしれません」
「一番濃い者は分かるか」
「近づけば」
シアが村へ入ろうとする。
セトはその肩をつかんだ。
「待て」
「なぜだ」
「いきなり五人で囲むつもりか」
「見つけるだけだ」
「見つけられる側はそう思わない」
ハルヴェンが村を見た。
「武装した旅人が五人ですからね。俺は騎士の身分を示せますが、それでも警戒はされるでしょう」
「では、どうする」
「普通に入る」
セトはシアの肩から手を離した。
「精霊王を探しに来たとは、まだ言わない」
村に吹く風
村へ入った時、風はほとんど吹いていなかった。
畑の葉も、家の軒先に干された布も動いていない。
それでも、村の中央へ近づくにつれて、空気の流れだけが少しずつ整っていった。
煙突から上がる煙が、家々の間へ入り込まず、まっすぐ上へ抜けている。
積まれた干し草の表面だけを、弱い風が一定の向きへなでている。
水路の近くでは、湿った空気が畑の外側へ流れていた。
「誰かがやっている?」
シアが小声で尋ねる。
「意識的な精霊術ではありません」
ネアが答える。
「村全体を守っているのか」
「そこまで強いものではありません。生活の中で都合の悪い流れを、無意識に少しずつ変えているように見えます」
「煙が来れば外へ。湿気がたまれば畑の外へ」
セトが周囲を見る。
「本人が嫌だと思った方向から、風が離れている?」
「近いと思います」
リグがわずかに笑った。
「便利な力だな」
「本人が知っていればな」
「知らなくても、村の者は何か感じているかもしれません」
ハルヴェンは、井戸の近くで話している村人たちへ向かった。
風に好かれた娘
ハルヴェンが身分を示し、旅の途中で人を探していると説明すると、村人たちの警戒は少し薄れた。
「風の変化に敏感な方はいませんか」
ハルヴェンが尋ねる。
「風?」
「天気が崩れる前に分かる。風向きの変化を言い当てる。そのような方です」
年配の女性が少し考えた。
「それなら、ミレナかね」
「ミレナ?」
「風が来る前に洗濯物を取り込むし、雨が降る前には窓を閉めろって言うよ」
「よく当たるのですか」
「よくというか、外したところを見たことがないね」
隣にいた男が笑う。
「風に好かれてるんだろうって、昔から言われてるよ」
「精霊術を使うのですか」
「いや。あの子は精霊術士じゃない」
「風を動かしたことは?」
「そんな大げさなことはしないよ」
女性は村の奥を指した。
「さっきまで広場にいたけどね。荷車を手伝ってたはずだよ」
ネアが指された方角を見る。
淡い緑の流れが、家々の間を抜けていた。
「間違いなさそうです」
「今の話だけで?」
シアが尋ねる。
「流れも同じ場所へ向かっています」
「では行く」
今度はセトも止めなかった。
落ちなかった袋
村の奥では、数人が荷車から穀物の袋を下ろしていた。
その中に、栗色の髪を後ろで緩くまとめた女性がいる。
生成り色の上衣に、落ち着いた緑の長いスカート。
外見だけなら、どこにでもいる村の女性だった。
一つの袋が荷車の端へ引っかかった。
「危ない!」
声が上がる。
傾いた袋が女性の方へ落ちる。
彼女はとっさに両腕を上げた。
その瞬間、止まっていた空気が動いた。
袋の下から風が巻き上がり、落下の向きをわずかに変える。
袋は女性を外れ、地面へ横倒しになった。
中身はこぼれなかった。
「大丈夫ですか、ミレナさん」
「ええ。驚いただけです」
女性――ミレナは、自分の腕と袋を見比べた。
「今の、風が押した?」
「ちょうど吹いたんでしょう」
「風なんてなかったぞ」
「荷車の下を通ったのかもしれません」
周囲の者たちは、不思議そうにしながらも作業へ戻った。
ミレナ自身も、偶然だと考えたようだった。
「見た」
シアが言う。
「ああ」
セトにも見えていた。
風は偶然吹いたのではない。
ミレナが危険を感じた瞬間、その意思に沿って動いていた。
普通の人間
「精霊王の力ですか」
ハルヴェンが小声で尋ねた。
「力だけを見れば」
ネアはミレナから目を離さなかった。
「しかし、精霊王としての流れは表へ出ていません」
「人間にしか見えない」
シアが言う。
「人間です」
「でも、中に風がある」
「ええ」
ミレナが袋を持ち上げようとした。
重さに顔をしかめる。
風の精霊王級の力を持つ者には見えない。
力を込めても袋は少ししか動かず、近くの男が手を貸してようやく持ち上がった。
「弱い」
シアが率直に言った。
「聞こえるぞ」
セトが止める。
「風の力を身体強化へ使っていません」
ネアが説明した。
「そもそも、使えることを知らないのでしょう」
「本当に精霊王なのか」
「役割と知識を受け継いでいます。ただし、今の存在の中心は人間です」
セトは、荷車のそばで礼を言うミレナを見る。
精霊王を探してここまで来た。
だが、目の前にいるのは、村で普通に働く一人の人間だった。
「まず話す」
セトが言った。
「試すのは、そのあとだ」
ミレナ
作業が一段落したところで、セトたちはミレナへ声を掛けた。
「ミレナさんですか」
「はい」
ミレナは五人を見回した。
騎士装備のハルヴェンに目を止め、その後で人間とは異なる装いのシア、ネア、リグを見る。
「旅の方ですよね。何か御用でしょうか」
「少し聞きたいことがあります」
セトが言った。
「風についてです」
「風?」
「風向きが変わる前に分かると聞きました」
ミレナは困ったように笑う。
「村の人が大げさに言っているだけです」
「外したことは?」
「ありますよ。たぶん」
「いつですか」
「いつと言われると……」
ミレナは考え込んだ。
「覚えていないだけだと思います」
「先ほど、落ちた袋を風が押しました」
ネアが言った。
ミレナの笑みが消える。
「見ていたんですか」
「ええ」
「偶然です」
「その可能性も考えました」
「では――」
「ですが、あなたが危険を感じた瞬間にだけ、周囲の原光が向きを変えました」
ミレナはネアの言葉を理解できず、セトを見る。
「原光?」
「精霊術のもとになるものです」
セトが答えた。
「あなたの周りでは、それが風として動いている」
知らない力
「私は精霊術士ではありません」
ミレナはすぐに否定した。
「術を習ったこともありません」
「習った術ではないと思います」
「それなら、なおさら違います」
「風が来る前に分かるのは?」
「空気が変わるからです」
「どこで感じる」
シアが尋ねた。
「どこ?」
「肌か。音か。匂いか」
ミレナは答えようとして止まった。
「分かりません」
「でも分かる」
「そうですけど……皆さんも分かるのでは?」
ハルヴェンが首を横へ振る。
「天候の知識から予想することはできます。しかし、毎回正確に感じ取れるわけではありません」
「私だって毎回ではありません」
「外した時を覚えていない」
シアが言う。
ミレナの表情が硬くなった。
その変化に合わせるように、足元の土埃が薄く巻き上がる。
近くの荷車に掛けられていた布が揺れた。
村の外側から風が来たわけではない。
ミレナを中心に、空気が離れるように動いている。
「今もです」
ネアが静かに言った。
「あなたが警戒したことで、風がわたしたちとの間へ流れました」
小さな確認
「何をするつもりですか」
ミレナは一歩下がった。
「何もしません」
セトが答えた。
「あなたが嫌なら、無理に力を使わせることもない」
「では、なぜ私を探していたんですか」
「確認したいことがあるからです」
「もう確認したように聞こえます」
「まだ分からないことが多い」
ネアがミレナへ手のひらを見せる。
「一つだけ、確かめてもよいですか」
「何を?」
「風を起こす必要はありません。そこに立ったまま、わたしの手を見てください」
ネアの手の上へ、銀青色の原光が細い糸となって現れた。
糸は風に揺れることなく、ゆっくり漂っている。
「これが原光です」
「見えません」
「見えなくても構いません」
ネアは原光の糸を三本に増やした。
「今から、このうち一本だけをあなたへ近づけます。不快に感じたら、そう言ってください」
「危険は?」
「ありません」
原光の糸が、ミレナへ少しずつ近づく。
肩へ届く前に、ミレナが眉を寄せた。
「右から、何か来ています」
糸が止まる。
「見えるのですか」
「いいえ。でも、冷たいような……細いものが」
「原光を感じています」
動いた三本
ネアは三本の原光を、ミレナの周囲へ離して配置した。
「今度は、どこにあるか言ってください」
「右と……後ろ?」
「もう一本は?」
ミレナは目を閉じた。
その途端、三本の原光が同時に揺れた。
揺れ方はばらばらだった。
右の一本は上へ。後ろの一本は左へ。最後の一本は、ミレナの足元へ沈む。
ミレナが息を吸う。
三本の流れが向きを変えた。
それぞれ別の場所にあったはずの原光が、ミレナを中心とした一つの流れへ組み直される。
空気が動き、彼女の髪と服の裾を揺らした。
ミレナは驚いて目を開ける。
風はすぐに止まった。
「私がしたんですか」
「ええ」
ネアが原光を消す。
「わたしは流れを置いただけです。動かしたのはあなたです」
「動かそうとはしていません」
「だから、無意識なのでしょう」
「そんなことを急に言われても……」
ミレナは自分の両手を見る。
手の形は変わっていない。
何か特別なものが見えるわけでもなかった。
精霊術ではないもの
「私にも精霊術が使えるということですか」
ミレナが尋ねた。
「それだけではありません」
ネアが答える。
「普通の精霊術士は、周囲の原光と精霊へ働きかけます。あなたは、自分の内側にある役割によって流れを変えています」
「役割?」
「風の精霊王アイオロスの役割です」
その名が告げられた瞬間、村の空気が動いた。
強い風ではない。
だが、広場にあるすべての布と草が、同じ方向へ一度だけ傾いた。
ミレナは言葉を失った。
「今のも、私ですか」
「名に反応したのかもしれません」
「知りません。そんな名前」
「頭では知らなくても、役割の側に知識があります」
「私の中に?」
「ええ」
ミレナは数歩下がった。
「待ってください。精霊王というのは、何なんですか」
「世界にある現象を、それぞれ担う存在です」
ネアが答えた。
「火、月、雷。わたしたちも、それぞれの役割を持っています」
ミレナはシアたちを見回した。
「あなたたちが、精霊王?」
「そうだ」
シアが答える。
「私は違います」
「見た目は違う」
「見た目だけではありません。私は人間です」
「ああ」
シアは迷わずうなずいた。
「それも合っている」
人間であること
「どういう意味ですか」
ミレナはセトへ尋ねた。
「人間なのに、精霊王でもあるなんて」
「あなたが人間であることは間違っていません」
セトが答える。
「人間として生まれ、人間として育ち、今まで生きてきた。それを否定するつもりはない」
「では、精霊王という話は何なんですか」
「過去の風の精霊王が、自分の役割と知識を大地へ残しました」
ネアが説明を引き継ぐ。
「それは、最も近しい存在へ受け継がれました。継承が何代も続き、現在はあなたへ集まっています」
「なぜ私に」
「あなたが、前の継承者に最も近しい存在だったのでしょう」
「血がつながっているから?」
「血縁だけで決まるものではありません。ただ、精霊王の性質を受け継いだ子孫は、近しい存在になりやすいのだと思います」
「思います?」
「過去の出来事を見たわけではありません」
ネアは断定しなかった。
「わたしも、方法についての知識を持っているだけです」
家族の話
ミレナはしばらく黙っていた。
「私の家族も、同じなんですか」
「薄い影響を持つ者は、この村に何人かいます」
ネアが答える。
「では、母や父も?」
「可能性はあります。ただし、風の役割と知識が最も強く集まっているのは、あなたです」
「兄弟は?」
「その方々を見ていないので、分かりません」
「私だけが精霊王?」
「今、精霊王として存在しているわけではありません」
「でも、さっきは風の精霊王の役割があると言いました」
「あります」
「精霊王ではないのに、精霊王の役割がある?」
「ええ」
「分かりません」
ミレナは額へ手を当てた。
周囲の風が不規則に揺れる。
髪が前へ流れた直後、今度は後ろへ引かれた。
「落ち着いてください」
ハルヴェンが言った。
「急に受け入れられる話ではないでしょう」
「受け入れる以前に、何を言われているのかも分かりません」
「それが普通だと思います」
「普通?」
ミレナは自嘲するように笑った。
「今、普通ではないと言われたばかりです」
名を知っている風
「一つ聞いていいか」
セトが言った。
「何でしょうか」
「アイオロスという名前を、本当に一度も聞いたことがない?」
「ありません」
「夢の中でも?」
「夢?」
「知らない場所や、知らない誰かの記憶を見ることは?」
ミレナは否定しようとして、動きを止めた。
「何かあるのか」
「昔から、同じ夢を見ることはあります」
「どのような夢ですか」
ネアが尋ねる。
「高いところから、知らない土地を見ています」
「飛んでいる?」
「飛んでいるというより、風の中にいるような……」
ミレナは言葉を探した。
「下に山や川があって、どこへでも行けると思うんです。でも、目が覚めると何も覚えていません」
「名前は出てきますか」
「いいえ」
「誰かと話す?」
「分かりません。声はある気がします。でも、言葉ではないような」
シアがネアを見る。
「知識か」
「可能性はあります」
「夢だと思っていたものが、精霊王の知識だった?」
ミレナの声が小さくなる。
「すべてではありません。普通の夢もあるでしょう」
「どこからが私で、どこからがその精霊王なんですか」
誰もすぐには答えられなかった。
分けて考える
「今は、分けて決めない方がいい」
セトが言った。
「なぜですか」
「まだ何も調べていないからだ」
「でも、私の中にいるんでしょう?」
「誰かが中に入っている、という形ではないと思います」
ネアが言う。
「役割と知識を受け継いでいますが、別の人格があなたを動かしているようには見えません」
「では、風を動かしたのも私?」
「ええ」
「アイオロスではなく?」
「あなたの意思に、風の役割が応じたのだと思います」
「それなら、私と精霊王を分けることはできないのでは?」
「現時点では分かりません」
ネアの返答に、ミレナは顔を上げた。
「分からないのに、私を探していたんですか」
「風の役割を受け継いだ人間がいることまでは分かっていました」
「その人が、何なのかは分からなかった?」
「ええ。近くで確認する必要がありました」
「確認して、どうするつもりですか」
ミレナの問いに、セトはすぐには答えなかった。
三人目を探していた
「世界で起きている異変を止めるために、三人分の精霊王級の力が必要です」
セトが答えた。
「シアとネアで二人。あと一人が足りない」
「それで私を?」
「ああ」
ミレナの顔から血の気が引いた。
風が彼女の周囲から外へ広がる。
「私に戦えと言うんですか」
「まだ、そこまで決めていない」
「でも、そのために探していたんでしょう」
「力が必要なのは事実だ」
「セト」
シアが横から口を挟む。
「言い方が遠い」
「どう言えばいい」
「力を貸してほしい。でも、まず何ができるか調べる」
ミレナがシアを見る。
「やはり、力を貸せという話ではありませんか」
「そうだ」
「シア」
ネアが止める。
「隠しても同じだ」
「隠すのではなく、順番の問題です」
「本人が聞いた」
「だからといって、答えだけを投げないでください」
シアは黙った。
「すまない」
セトが言った。
「必要だから来た。それは否定しない」
選ぶ前の話
「断ったら、どうするんですか」
ミレナが尋ねた。
「別の方法を探す」
「世界を止めるために必要なのに?」
「必要だから、無理に選ばせていいとは思っていない」
「選ぶ?」
「あなた自身が、どうするかを決めるという意味です」
「何を決めるんですか。私はまだ、自分が何なのかも分かっていません」
「だから、今すぐ答えを求めない」
「いつまで待てるんですか」
セトは答えに詰まった。
眠りの王は、今も精霊王を取り込み続けている。
時間があるとは言えない。
「長くは待てない」
それでも、嘘はつかなかった。
「ですが、今日ここで決めさせるつもりもありません」
ネアが続ける。
「まず、あなたの中で人間としての存在と、風の役割がどのような状態にあるのかを確かめます」
「確かめると、何が分かるんですか」
「何ができるか。何をすれば危険か。あなた自身へどのような影響があるか」
「危険がある?」
「ないとは言えません」
ミレナの周囲で、また風が揺れた。
今日までの自分
「私は、今日まで普通に生きてきました」
ミレナは自分へ言い聞かせるように言った。
「村で育って、働いて、家族と暮らしてきました」
「ああ」
「風が分かるのも、少し勘がいいだけだと思っていました」
「それも、あなたの経験です」
「でも、本当は精霊王の知識だったかもしれない」
「すべてがそうだとは決まっていません」
ネアが答える。
「何を考え、誰を大切にし、どのように生きてきたかまで、役割が決めているわけではありません」
「本当に?」
「少なくとも、あなたから別の人格は感じません」
「では、私は私のまま?」
「ええ」
ネアは一度うなずいた後、言葉を加えた。
「ただし、風の役割と知識が存在しないという意味ではありません」
「私であり、風の精霊王でもある?」
「今の段階で、そう言い切ることもできません」
「また分からないんですね」
「ええ」
ミレナは目を伏せた。
「分からないことばかりです」
「私たちもです」
ハルヴェンが言った。
「あなたにだけ答えを出させるつもりはありません」
風が止まらない
村の広場には、いつの間にか風が吹き続けていた。
強くはない。
だが、一定の方向もなく、ミレナの呼吸に合わせて行き来している。
「止められますか」
ミレナが尋ねた。
「わたしが?」
ネアが聞き返す。
「この風をです」
「止めることはできます。しかし、あなたの力を外から押さえることになります」
「それでもいいです」
「今は止めない方がよいでしょう」
「なぜですか」
「風が動くことで、あなたの内側にたまる力を外へ逃がしています。無理に止めれば、別の形で現れる可能性があります」
「では、どうすれば」
「ゆっくり息をしてください」
「それだけ?」
「今は、それだけです」
ミレナは戸惑いながら息を吸った。
風が広がる。
ゆっくり吐く。
風が弱まった。
もう一度繰り返す。
乱れていた流れが、少しずつ一方向へ整っていく。
「私が動かしている」
「ええ」
「止めようとすると、止まる」
「ええ」
風が静まる。
残ったのは、ミレナの髪を揺らす程度の弱い流れだけだった。
受け継いだもの
「風の精霊王の名前は、アイオロスでしたね」
ミレナが言った。
「役割の名前です」
ネアが答える。
「人の名前とは違う?」
「精霊王は、役割名だけを持つ者も多くいます」
「あなたたちは?」
「わたしはセレーネという役割を持ち、ネアという個人名をもらいました」
「私はイフリート。シアはセトが付けた」
シアが言う。
「リグも個人名だ」
リグが続けた。
ミレナは三人を見る。
「では、私の中にあるアイオロスは、誰かの名前ではない?」
「ええ。風の精霊王が担う役割を指します」
「その役割と知識が、私へ来た」
「そう見えます」
「私が望んだわけではないのに」
ネアは否定しなかった。
「前の継承者も、選べなかった可能性があります」
「何代も?」
「おそらくは」
「そんなものを、ずっと誰も知らずに受け継いできたんですか」
「知っていた者がいた可能性はあります。ただ、現在まで明確な記録は残っていません」
今夜は帰る
話を続けるほど、ミレナの顔には疲労が表れた。
「今日は、もう十分です」
セトが言った。
「でも、まだ何も決まっていません」
「決めるための話は、明日以降にする」
「皆さんはどうするんですか」
「村の外で野営してもいい」
「それでは、村の人が余計に気にします」
ミレナは周囲を見る。
遠巻きに、何人かの村人がこちらの様子をうかがっている。
「宿として使える家があります。村長へ話します」
「いいのか」
「分かりません」
ミレナは正直に答えた。
「でも、帰ってもらって、明日また突然来られる方が落ち着きません」
「それはそうですね」
ハルヴェンが言った。
「ただし、家族へどこまで話すかは、あなたが決めてください」
セトはミレナへ告げた。
「俺たちから勝手には話さない」
「村の人にも?」
「ああ」
「風のことを見られています」
「見たことと、その意味は別だ」
ミレナはしばらく考え、うなずいた。
風を継ぐ少女
ミレナが自宅へ戻る道を歩き始める。
セトたちは、少し距離を空けてその後ろを進んだ。
風は弱く、彼女の周囲だけを流れている。
道端の草が、ミレナの歩みに合わせて順番に揺れた。
本人は何度も振り返り、そのたびに草の動きを確かめていた。
「本当に、私について来ている」
ミレナがつぶやく。
「今までも、そうだったのかもしれません」
ネアが言った。
「気づかなかっただけ?」
「ええ」
「気づかなければ、今までどおりだったのに」
誰も否定できなかった。
知らなければ、ミレナは明日も普通に目を覚まし、風向きを言い当て、偶然だと思いながら暮らしていたかもしれない。
だが、眠りの王は待ってくれない。
彼女の中にある役割も、存在しないことにはできない。
家の前へ着いたところで、ミレナは足を止めた。
「一つだけ、今答えてください」
「何だ」
セトが尋ねる。
「私は、人間なんですよね」
「ああ」
セトは迷わず答えた。
「それは変わらない」
ミレナは安心したようには見えなかった。
次の言葉が残っていることを、もう理解していた。
ネアが静かに続ける。
「そして、あなたの中には、風の精霊王の役割と知識もあります」
風が、ミレナの周囲で小さく渦を巻いた。
「二つとも本当なんですね」
「ええ」
ミレナは家の扉へ手を掛けたまま、しばらく動かなかった。
人間であることを失ったわけではない。
だが、人間だけだと思っていた今日までの自分には、知らない風が重なっていた。
「少し、考えさせてください」
「ああ」
ミレナが家の中へ入る。
扉が閉じたあとも、家の周囲には弱い風が残り続けた。
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エレメンタルクロス ~精霊の剣~ TOPへ

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