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眠れなかった朝
翌朝、ミレナは日が昇りきる前に、セトたちが借りた家を訪ねてきた。
戸を開けたハルヴェンが、少し驚いた顔をする。
「おはようございます。早いですね」
「すみません。まだ休んでいましたか」
「いえ。リグ以外は起きています」
「俺も起きている」
家の奥から声がした。
床へ横になっていたリグが、目を閉じたまま答えている。
「起きている者は、普通は目を開ける」
シアが言った。
「目を開けなくても聞こえる」
「なら寝ていても同じだ」
リグが目を開ける。
「お前に言われると、起きるしかなくなるな」
ミレナは二人のやり取りへ小さく笑いかけた。
だが、すぐに表情を戻す。
目の下には、薄い疲れが残っていた。
「眠れなかったのか」
セトが尋ねる。
「少しだけ」
「少しだけ眠れた?」
「少しだけ眠れませんでした」
ミレナは言い直した。
「横になってはいました。でも、風が動くたびに、自分が動かしているのか気になって」
外では、朝の弱い風が家の壁をなでている。
自然に吹いている風なのか、ミレナへ応じているのか。
本人には、もう区別できなくなっていた。
「昨日の続きを聞きに来ました」
ミレナはネアを見る。
「私の中が、どうなっているのか。調べられるんですよね」
「ええ」
「調べてください」
分けてほしい
ネアはすぐに応じなかった。
「昨日は、考える時間が必要だと言っていました」
「考えました」
「一晩だけです」
「長く考えても、知らないままでは同じです」
ミレナは自分の胸元へ手を当てた。
「私の中に風の精霊王の役割がある。それが本当なら、まず、どこまでが私なのか知りたいです」
「調べても、すべて分かるとは限りません」
「何も分からないよりはいいです」
ネアはミレナの表情を見た。
眠れなかった疲れと、不安がある。
それでも、誰かに押されて来たようには見えなかった。
「一つ、先に確認します」
「はい」
「調べる途中で、あなたの中にある風の役割へ触れることになります。昨日より深く触れれば、今まで感じなかったものを感じる可能性があります」
「危険ですか」
「分かりません」
ネアは曖昧に安心させなかった。
「身体を傷つけるつもりはありません。しかし、精霊王の知識がどのようにあなたへ重なっているのかは、実際に触れなければ判断できません」
「それでも、お願いします」
「途中でやめたくなったら、すぐに言ってください」
「分かりました」
ミレナは一度うなずき、それから続けた。
「もし、本当に二つあるなら、分けられますか」
「人間のあなたと、風の精霊王を?」
「はい」
「完全に切り離せるかは分かりません」
「一時的にではなく、ずっとです」
「それも、今は答えられません」
ミレナは目を伏せた。
「できるなら、分けてほしいです」
シアが首を傾ける。
「風はいらないのか」
「昨日まで、なくても生きていました」
「本当はあった」
「知らなかったなら、私にとってはなかったのと同じです」
ミレナは風の動く窓へ目を向けた。
「普通の人間として生きてきました。戻れるなら、そこへ戻りたいです」
重なっているもの
調査は村の外で行うことになった。
ミレナの力が大きく動いた場合、家や畑へ影響を出さないためだった。
村から少し離れた草地には、低い木が数本あるだけで、周囲を見渡せる。
ハルヴェンとリグは外側へ立ち、村人や魔物が近づかないよう周囲を見る。
セトとシアは、ミレナから少し離れた場所へ座った。
ネアだけが、ミレナの前に立つ。
「まず、昨日と同じように流れを見ます」
「何をすればいいですか」
「何もしないでください」
「何もしないというのが、一番難しいですね」
「そうかもしれません」
ネアが手を上げる。
銀青色の原光が細い線となり、ミレナの周囲へ広がった。
線は身体へ触れず、肩、腕、胸元、足元の少し外側を巡る。
そこへ、淡い緑の流れが反応した。
風はミレナから外へ出ているようにも、周囲からミレナへ集まっているようにも見える。
「昨日より、はっきりしています」
「風が強くなった?」
シアが尋ねる。
「強さではありません。ミレナが、自分の中にあるものを意識したためでしょう」
「意識すると出てくるのか」
「今まで見ないようにしていたわけではありません。存在を知らなかったため、すべてを自分の感覚として受け入れていたのです」
ネアは銀青色の線を一本だけ、ミレナの胸元へ近づけた。
淡緑色の流れが線を避ける。
その奥には、風とは異なる流れがあった。
血の流れ。呼吸。身体の重さ。
二十年間、人間として生きてきた一つの存在。
「二人いるのですか」
ミレナが尋ねる。
「二人ではありません」
「でも、二つあるんですよね」
「二つの存在の形が、同じ場所へ重なっています」
「同じでは?」
「別の人格が中へ入っているのではありません」
ネアは言葉を選んだ。
「人間として生まれたあなたが中心にいます。その同じあなたへ、風の精霊王の役割と知識が重なり、精霊王として存在できる形も作っています」
「風の精霊王も、私?」
「今ここにいる風の精霊王側の存在は、あなたから切り離された他人ではありません」
「昔のアイオロスが、私の中にいるわけではない?」
「ええ。過去の個人の人格や記憶が、そのまま入っているようには見えません」
ミレナが少しだけ息を吐いた。
安心したようにも見えた。
だが、その表情はすぐに曇る。
「それなら、風の精霊王であるのも私なんですね」
「その可能性があります」
「可能性」
「まだ、風の側を表へ出していません」
人間だけを残す
「風の側だけを外へ出して、私はここに残れませんか」
ミレナが尋ねた。
「二人に分かれるということか」
セトが確認する。
「それができれば、一番分かりやすいと思います」
ネアは首を横へ振った。
「今見えている二つは、二人分の人格ではありません。身体も、名前も、これまで生きてきた自我も一つです」
「では、分けるというのは?」
「重なっている二つの形を一時的にずらし、どちらを前へ出すか変えることです」
「人間の私を残したまま、風の方を別に立たせるのではない」
「ええ」
「風の方を前へ出したら、人間の私はどうなりますか」
「消えません。奥へ下がるだけだと思います」
「思います?」
「同じ状態を、わたしは見たことがありません」
ネアの知識に方法はあっても、人間の血統へ役割を継承した風の精霊王を扱った経験はなかった。
知識が示すのは、境界の見方と、流れを分ける方法だけだ。
ミレナがどう感じるかまでは分からない。
「元へ戻せますか」
「戻せる範囲でしか分けません」
「必ず戻せる、ではないんですね」
「必ずと言い切って、深く分ける方が危険です」
ミレナは黙った。
草の上を、弱い風が通り過ぎる。
「やめてもいい」
セトが言った。
「調べないままでも、別の方法を探す」
「別の方法が見つかると思いますか」
「分からない」
「皆さんも、分からないことばかりですね」
「ああ」
セトは否定しなかった。
「だから、分からないまま無理に進めない」
ミレナはセトを見た後、ネアへ向き直った。
「戻せると思うところまでで、お願いします」
「分かりました」
神殺しの剣に必要なもの
「始める前に、もう一つ聞かせてください」
ミレナが言った。
「私を精霊王の姿にすることと、皆さんが探している剣に、どういう関係があるんですか」
昨日は、三人分の精霊王級の力が必要だとだけ聞いた。
自分が三人目として探されていたことも知った。
だが、具体的に何を求められているかまでは説明されていない。
「神殺しの剣は、三人分の精霊王級の存在を中へ入れる必要がある」
セトが答えた。
「力だけを注げばいいわけではないらしい」
「存在を入れる?」
「シアとネアが精霊剣になる時に近いと思う」
「剣になるんですか、私が」
「今すぐではない」
「でも、最後には?」
セトはミレナから目をそらさなかった。
「その可能性が高い」
ミレナの周囲で、風が一度揺れる。
「人間は、精霊剣にはなれません」
ネアが続けた。
「精霊剣は、精霊王自身が剣へ形を変え、人間へ身と力を預けるものです」
「なら、人間の私はできない」
「ええ。ですが、あなたの中には精霊王として存在できる形があります」
「今日、それを確かめる」
「そうです」
「確かめられたら、剣になれと言われる?」
「言わない」
セトが先に答えた。
「必要なのは事実だ。でも、確かめられたことと、ミレナが選ぶことは別だ」
「選ばなければ、神殺しの剣は使えないかもしれない」
「ああ」
「世界を止められないかもしれない」
「ああ」
「それでも?」
「それでも、俺が決めることじゃない」
リグが外側から口を挟む。
「精霊剣は、頼まれたから形だけなれるものではない」
ミレナがリグを見る。
「あなたも、自分でハルヴェンさんを選んだんですか」
「ああ」
「世界を守るために?」
「それだけなら、ほかの人間でもよかった」
リグは隣に立つハルヴェンへ目を向けた。
「俺が預けたのは、ハルヴェンだからだ」
ハルヴェンが少し困ったように笑う。
「本人に正面から言われると、返し方に困りますね」
「事実を言っただけだ」
失ってもいいもの
「その神殺しの剣を使った後、私はどうなりますか」
ミレナが尋ねた。
誰もすぐには答えなかった。
「分からないんですね」
「ええ」
ネアが答える。
「剣そのものについて、わたしたちが知っていることは多くありません」
「中へ入った精霊王が戻れるかも分からないと、昨日言っていました」
「そのとおりです」
「戻れたとしても、風の力が残るかは?」
「保証できません」
ネアはミレナの中にある淡緑色の流れを見る。
「眠りの王を消すために、三人分の精霊王級の存在を入れて使う剣です。使用後、入った存在が元と同じ状態で戻る保証はありません」
「風の精霊王ではなくなるかもしれない」
「可能性はあります」
「人間の私だけが残る?」
「そうなる可能性もあります」
ミレナは、昨日より穏やかな顔でその言葉を聞いた。
「それなら、私は困りません」
シアがミレナを見る。
「力がなくなるぞ」
「最初から、自分の力だと思っていません」
「今は使える」
「使えなくていいです」
「空を飛べるかもしれない」
「飛びたいと思ったことはありません」
「速く動ける」
「急いで遠くへ行く用事もありません」
シアは少し考えた。
「便利だと思うが」
「シア」
ネアが止める。
「本人が必要としていないものを、便利だから持てとは言えません」
「わたしなら使う」
「あなたなら、です」
ミレナは二人を見て、わずかに口元を緩めた。
「風の力を失うのが怖くて断ることはありません」
その言葉だけは、はっきりしていた。
「むしろ、私と分けられるなら、その方がいいです」
選んだ理由
「シアさんとネアさんは、どうしてセトさんを選んだんですか」
ミレナが尋ねた。
「わたしは、セトがセトだからだ」
シアは迷わず答えた。
「それでは分かりません」
「名前を付けた」
「名前を付けてもらったから?」
「それだけではない」
シアは腕を組んだ。
自分には分かっていることを、相手へ伝わる順番に並べるのは得意ではない。
「セトは、わたしをイフリートとして使おうとしなかった」
「精霊王として扱わなかった?」
「精霊王だとは知っている。でも、それだけではない」
シアはセトを見る。
「わたしが選んだことを、セトが受け取った」
「セトさんが、選ばせたのではなく?」
「ああ」
ミレナはネアへ視線を移した。
「ネアさんも同じですか」
「同じではありません」
ネアは静かに答えた。
「わたしは、シアほど早くセトを信じてはいませんでした」
「今も全部を信じているわけではない」
シアが言う。
「それはお前が言うことではないだろう」
セトが止める。
「違うのか」
「否定はしないが」
「なら合っている」
ネアは二人を見てから続けた。
「相手が善良だから、自分を預けてよいとは限りません。自分の力を使えるからでもありません」
「では、何を見たんですか」
「わたしが嫌だと言えば止まるか。危険を理解していない時に、望んでいるからという理由だけで進めないか。わたしを役割ではなく、わたしとして扱うか」
ミレナは、先ほどセトが決断を求めなかったことを思い出した。
「それを確かめた?」
「ええ。今も確かめています」
「まだ?」
「長く生きる者が、自分の存在を預けるのです。確かめるのをやめる理由はありません」
リグが笑う。
「ネアらしいな」
「あなたは確かめなさすぎるのです」
「ハルヴェンは分かりやすい」
「褒められているのでしょうか」
ハルヴェンが尋ねる。
「褒めている」
「それなら受け取っておきます」
ミレナは四人の間にあるものを見た。
力の強さではない。
一緒に戦った時間と、互いが選んだ事実がある。
自分には、まだどちらもなかった。
「私には、今すぐ選べません」
「それでいい」
セトが答えた。
「今日確かめるのは、できるかどうかだけだ」
戻る場所
ネアは調査を始める前に、ミレナへいくつか質問した。
「あなたの名前は?」
「ミレナです」
「役割名ではなく?」
「ミレナです」
「年齢は?」
「二十歳です」
「ここはどこですか」
「私が暮らしている村の外です」
「今、目の前にいるのは?」
「ネアさんです」
「隣にいる二人は?」
「セトさんと、シアさん」
「外側は?」
「ハルヴェンさんと、リグさん」
シアが不満そうに言う。
「わたしだけ分からなくなるとは思えない」
「確認です」
「名前なら昨日覚えた」
「ミレナの確認です。あなたの記憶を調べているのではありません」
「分かっている」
「本当に?」
「今は分かっている」
昨日と同じ答えに、セトが小さく息を吐いた。
ミレナも少しだけ笑った。
張りつめていた肩が下がる。
「今答えたことを、分けている間にも聞きます」
ネアが言った。
「答えられなくなったら、すぐに戻します」
「名前を忘れるんですか」
「忘れるとは限りません。ただ、風の役割が前へ出た時に、人間としてのあなたがどの程度表へ残るか分かりません」
「名前が言えれば、私は残っている?」
「少なくとも、自分をミレナだと認識できています」
「名前は、そんなに大事なんですね」
「名前だけで、すべてが決まるわけではありません」
ネアはシアを一度見た。
「ですが、自分が役割だけではないと確かめる場所にはなります」
ミレナは胸元へ手を置く。
「ミレナ」
自分で、自分の名前を口にした。
境界をずらす
「始めます」
ネアの羽衣が、風もないのに持ち上がった。
銀青色の原光が、先ほどよりも細い線となってミレナを囲む。
一本ではない。
何十本もの線が、互いに触れないまま身体の周囲へ重なった。
淡緑色の風が、それぞれの隙間を通り抜ける。
「目を閉じた方がいいですか」
「楽な方で」
ミレナは目を開けたまま、ゆっくり息を吸った。
吐く。
呼吸に合わせ、周囲の風が広がって戻る。
ネアはその流れの中から、人間としてのミレナへつながるものと、風の役割へつながるものを見分けていった。
二つは絡まっていない。
切り離せないほど融合してもいない。
だが、別々に並んでいるわけでもなかった。
同じ道を、二つの流れが重なって通っている。
一方を強く動かせば、もう一方も引かれる。
「痛みは?」
「ありません」
「寒さや熱は?」
「少し、軽いです」
「身体が?」
「身体というより……周りが」
ミレナの髪が持ち上がる。
外から風が吹いたのではない。
身体の表面に重なっていた淡緑色の流れが、少しずつ外側へずれている。
ネアは人間側の流れを押さえ込まなかった。
ただ、風の側が通る道を作る。
銀青色の線が一本動くたび、ミレナの輪郭がわずかに二重へ見えた。
「ミレナ」
ネアが呼ぶ。
「はい」
「名前は?」
「ミレナです」
「続けます」
淡緑色の流れが、身体の内側から表へ出た。
風の精霊王
最初に変わったのは、髪だった。
栗色の髪へ淡い銀緑色の光が重なり、色が抜けたように見えた。
風がない場所でも、毛先が水の中にあるように揺れた。
緑褐色の瞳には薄い光が差し、焦点が遠くへずれていく。
ミレナが着ていた布の上衣と長いスカートも、重さを失ったように浮き上がった。
形そのものは大きく変わらない。
だが、布の輪郭へ淡い緑の光が走り、身体とともに風の中へ溶けかけているように見える。
足元の草が、円を描くように倒れた。
強い風ではない。
周囲から集まった流れが、ミレナを中心に一つへまとまっている。
「できた」
シアが立ち上がる。
「まだです」
ネアはミレナから目を離さない。
「ミレナ。聞こえますか」
返事がない。
ミレナは目を開けていた。
しかし、ネアを見てはいない。
もっと遠くを見ている。
「ミレナ」
「……聞こえます」
声は同じだった。
ただ、遠い場所から届いているように薄い。
「名前は?」
ミレナの唇が動く。
「アイオロス」
シアの目が細くなる。
ネアの銀青色の線が、すぐに人間側の流れへ寄った。
「あなたの個人名です」
長い間が空く。
「……ミレナ」
「年齢は?」
「二十……」
ミレナが言葉を止めた。
風が草地を走る。
「長い」
「何がですか」
「二十は、短い。でも、長い」
「ミレナ。今いる場所は?」
銀緑色の光を帯びた髪が揺れる。
「風の途中」
「村の外です」
「村」
ミレナはその言葉を確かめるように繰り返した。
「下にある」
「地面に立っています」
実際には、ミレナの踵が草からわずかに離れていた。
風が身体を支え、本人の意識しないまま浮かせている。
「ネア」
セトが呼ぶ。
「戻します」
ネアも同じ判断だった。
動かせない風
「力を動かせますか」
ネアが尋ねた。
銀緑色の光を帯びた髪を揺らしながら、ミレナがゆっくり顔を向ける。
「動いている」
「今動いている風ではありません。あなたが選んで、動かせますか」
「選ぶ」
ミレナは言葉を確かめるように繰り返した。
ネアは草地の端にある一本の低い木を示す。
「あの木の葉だけを揺らしてください」
「葉」
ミレナの視線が木へ向いた。
次の瞬間、木の葉ではなく、草地全体が同じ方向へ伏せた。
セトたちの衣服が強くはためく。
村の方角へ風が流れそうになり、リグが紫白色の原光を走らせて上空へ逃がした。
「違う」
ミレナがつぶやく。
「一本だけにできない」
「では、止めてください」
風が止まる。
完全に止まりすぎた。
草も、髪も、ネアの羽衣さえ動かない。
音まで薄くなったように感じる。
「全部止めました」
ハルヴェンが周囲を見る。
「一つを動かそうとすると、全部が動く」
ミレナの声には、夢の中で困っているような遅さがあった。
「全部を止めようとしたわけではありません」
「近くと遠くの区別が薄くなっています」
ネアは銀青色の線を狭めた。
「人間の身体なら、手を伸ばせる範囲と届かない範囲が分かります。今のあなたは、風の流れでつながるものを、同じ近さで感じています」
「全部、ここにある」
「そう感じても、同じ強さで触れてはいけません」
「どうすればいい」
「今は何もしないでください」
「何もしない」
風が再び動き始めた。
だが、ミレナが止めたのか、力を抜いたため自然に戻ったのか、本人にも分からないようだった。
「十分に制御できていません」
ネアがセトへ言う。
「ああ」
「長く保つほど、人間側の感覚が遠ざかる可能性があります」
ミレナは二人の会話を聞きながら、別の方角へ顔を向けた。
「何か、見えます」
夢の中の景色
「待って」
ミレナが言った。
先ほどより声は明瞭だった。
「何か、見えます」
「追わないでください」
「山」
「ミレナ」
「川が曲がっている。まだ、村がない」
周囲の風が一方向へ伸びる。
村の向こう。
山と川のある方角へ。
「海も」
「ここから海は見えません」
「見えるんじゃない。流れてくる」
ミレナは自分の手を見る。
「冷たい風。暖かい風。雨。土の匂い。全部、道がある」
「それは、あなた自身が今見ているものではありません」
「知っている」
「何をですか」
「分からない」
ミレナの眉が寄る。
「見たことがある。でも、見ていない」
淡緑色の流れが乱れた。
一本へまとまっていた風が、複数の方向へ分かれ始める。
「戻します」
「もう少し――」
「いけません」
ネアは銀青色の線を一斉に動かした。
風の側を押し潰すのではなく、前へ出ていた流れを元の位置へ戻す。
ミレナの輪郭が再び二重になる。
髪に重なっていた銀緑色の光が消え、元の栗色だけが残る。
浮いていた足が地面へ触れた。
力を失った身体が傾く。
セトが立ち上がったが、その前にネアがミレナの肩を支えた。
「ゆっくり息をしてください」
「息……」
「吸って、吐く」
ミレナは浅く息を吸った。
吐く。
周囲へ分かれていた風が弱まった。
「名前は?」
「ミレナ」
「年齢は?」
「二十歳です」
「ここは?」
「村の外」
ネアは銀青色の線を消さなかった。
「わたしは?」
「ネアさん」
「大丈夫です」
その言葉と同時に、ミレナの膝から力が抜けた。
戻ったミレナ
ミレナは草の上へ座り込み、しばらく動けなかった。
ハルヴェンが水を差し出す。
「飲めますか」
「はい」
受け取った器を両手で持つ。
指が少し震えていた。
一口飲み、もう一度息を吐く。
「どのくらい、あの姿だったんですか」
「長くはありません」
セトが答えた。
「私には、もっと長く感じました」
「どのくらいだ」
シアが尋ねる。
「分かりません」
「長いと言っていた」
「言ったことは覚えています」
ミレナは器の水面を見る。
「ネアさんに名前を聞かれたことも。アイオロスと答えたことも」
「自分をアイオロスだと思ったのですか」
「違います」
ミレナはすぐに否定した。
その後で、迷う。
「違うと思います。でも、名前を聞かれた時、それが先に出てきました」
「役割名が、表へ出た存在に近かったのでしょう」
「ミレナという名前を忘れていた?」
「忘れてはいません。少し遅れましたが、答えられました」
「答えられなかったら?」
「その前に戻すつもりでした」
「今も、風の方はありますか」
ネアはミレナの流れを見る。
「ええ。元のように重なっています」
「なくなってはいない」
「一時的に前後を変えただけです」
ミレナは自分の髪へ触れた。
栗色へ戻っている。
手も、服も、昨日までの自分と変わらない。
それでも、変わる前と同じだとは思えなかった。
三人目になれる者
「確かめられたことがあります」
ネアが言った。
ミレナが顔を上げる。
「あなたは、人間としての存在を失わずに、風の精霊王として表へ出られます」
「今のように?」
「ええ。ただし、今はわたしが外から境界をずらしました。あなた自身が切り替えたわけではありません」
「自分ではできない」
「現時点では」
「練習すれば?」
「できる可能性はあります」
「精霊剣にもなれる?」
ネアは少し間を置いた。
「風の精霊王として表へ出た状態なら、可能性は高いです」
「人間のままでは?」
「人間の身体を剣へ変えることはできません」
「では、風の精霊王になってから、セトさんへ身を預ける」
「そうなります」
ミレナはセトを見る。
セトは答えを求めなかった。
「今、決めなくていい」
「でも、できることは分かった」
「ああ」
「皆さんが探していた三人目に、私はなれる」
「なれる可能性がある」
「同じでは?」
「できることと、選ぶことは別だ」
ミレナはその言葉を聞き、視線を落とした。
「私は、まだ皆さんのことを知りません」
「ああ」
「セトさんへ身を預けると言われても、どういうことなのかも分かりません」
「ああ」
「それでも時間はない」
「ああ」
「困る答えばかりですね」
「すまない」
「謝ってほしいわけではありません」
ミレナは弱く首を横へ振った。
「今は、決められません」
「分かった」
セトの答えは、それだけだった。
人間へ戻す約束
「一つだけ、約束してください」
ミレナが言った。
「何をだ」
「私が精霊王になれるからといって、人間へ戻りたいと言ったことを忘れないでください」
セトはすぐにうなずいた。
「忘れない」
「神殺しの剣を使えば、風の力を失うかもしれない。それで人間だけへ戻れるなら、私はその方がいいです」
「それが本当に望んだ結果になるかは、まだ分かりません」
ネアが言う。
「力だけを失い、知識が残る可能性もあります。何も変わらず戻る可能性もあります。今は結果を決められません」
「それでも、力を残すために戦うつもりはありません」
「分かりました」
「精霊王になってほしいから、戻す方法を探さないということも?」
「しません」
ネアの答えも早かった。
「あなたが神殺しの剣へ協力しないと決めても、人間だけへ戻る方法は探します」
「なぜですか」
「あなたの中を見たのは、わたしです」
「私が頼んだからです」
「頼まれたから、結果への責任がなくなるわけではありません」
ネアは淡緑色の流れを見つめる。
「それに、役割を持つことを望まない人間へ、世界のためだからと押し付けるのは、眠りの王とは別の形で境界を無視することになります」
シアが考え込む。
「眠りの王は全部を同じにする。押し付けるのは、ミレナを風だけにする」
「近い問題です」
「なら、しない方がいい」
「ああ」
セトが言った。
「必要なのは、風の役割だけじゃない。ミレナが選んだことだ」
ミレナはその言葉へ返事をしなかった。
まだ選んでいない以上、受け取ることもできなかった。
ただ、拒んでも人間へ戻る方法を探すという約束だけは、覚えておこうと思った。
風の知識
村へ戻る途中、ミレナは何度も足を止めた。
最初は、身体が疲れているのだと全員が考えた。
だが、三度目に止まった時、ミレナは街道ではなく、遠くの山を見ていた。
「どうしましたか」
ハルヴェンが尋ねる。
「雨が降ります」
空は晴れている。雲も少ない。
「この辺りに?」
「違います」
ミレナは山の向こうを指した。
「もっと遠くです。冷たい流れと暖かい流れが重なって……」
言葉が止まる。
「なぜ、分かるんでしょう」
ネアが淡緑色の流れを見る。
「先ほど表へ出た知識が、まだ近くにあるのかもしれません」
「知識?」
「風の流れを読む方法です」
「方法を考えたわけではありません」
「精霊王の知識は、考えて思い出すものばかりではありません。身体を動かすように、初めから知っている形で出ることもあります」
「でも、私は今、雨が降る場所を見た気がしました」
「見た?」
セトが聞き返す。
「空から」
ミレナは自分の言葉に戸惑った。
「違います。ここにいました。さっきまで、草地に」
「風の精霊王の知識には、遠方の流れも含まれているのでしょう」
ネアが言う。
「知識なのに、景色があるんですか」
「通常の知識なら、景色や感情は伴いません」
「では、記憶?」
「それも、まだ分かりません」
ミレナは山から目を離した。
「少し休みたいです」
見たことのない場所
村へ戻ったミレナは、自宅へ帰る前に、借りた家で休むことになった。
一人で歩かせることを、ネアが止めたためだった。
ミレナは長椅子へ横になった。
目を閉じても眠れない。
まぶたの裏へ、知らない景色が浮かぶ。
高い山。深い谷。地面の上を滑るように進む影。海へ流れ込む大きな川。
「また見えます」
ミレナが言った。
近くに座っていたネアが顔を上げる。
「何がですか」
「知らない場所です」
「先ほどと同じ?」
「たぶん」
「目を開けられますか」
ミレナは目を開けた。
天井が見える。
見慣れない借家の天井だった。
それでも、山と川の景色は消えない。
「今は、ここも見えています」
「二つ重なっている?」
「はい」
「どちらかへ意識を向けないでください」
「向けなくてもあります」
ミレナは額へ手を当てた。
「私は、あの川を知っています」
「昨日まで知っていましたか」
「いいえ」
「名前は?」
「分かりません」
「場所は?」
「分かりません。でも、どこへ続くかは分かる気がします」
「知識に景色の形が付いているのかもしれません」
「それは、私の記憶と何が違うんですか」
ネアはすぐに答えられなかった。
自分の記憶
「ミレナ自身の記憶を、一つ思い出してください」
ネアが言った。
「できるだけ最近のものを」
「昨日、荷車から袋が落ちました」
「その時、何を感じましたか」
「怖かったです。ぶつかると思って」
「誰が近くにいましたか」
ミレナは、袋を運んでいた村人たちの顔を思い出す。
名前も分かる。声も、服も覚えている。
「思い出せます」
「それは、あなたの記憶です」
「はい」
「風の景色には、その時のあなたの感情がありますか」
「ありません」
「誰と一緒にいたかは?」
「分かりません」
「なら、知識に近い可能性があります」
ミレナは少し安心したように息を吐いた。
だが、その直後、表情が止まる。
「どうしました」
「子供のころのことを思い出しました」
「どのような?」
「雨の日です。窓を閉めるように言われて、私が走って……」
ミレナは目を閉じる。
家の中。濡れた木の匂い。窓を打つ雨音。自分の小さな手。
それは確かに、ミレナが生きた記憶だった。
「その風が、どこから来たかも分かります」
「当時から分かっていたのですか」
「分かりません」
「今、知識が加わったのかもしれません」
「でも、記憶の中では、最初から知っていた気がするんです」
ネアの視線がわずかに険しくなる。
「昔の記憶へ、今の知識が重なっている?」
セトが尋ねた。
「可能性があります」
「取れるか」
「今ここで無理に分ければ、どちらが元の記憶かまで傷つけるかもしれません」
「では、どうする」
「新しい知識を追わず、休ませます」
ミレナが起き上がる。
「休めば戻りますか」
「分かりません」
「また、それですね」
「ええ」
分けた後
夕方までに、遠い景色は薄くなった。
完全に消えたわけではない。
意識を向ければ、山の向こうを流れる風が分かる。
だが、目の前の部屋と重なるほど強くはなくなった。
ネアは、ミレナを一人にしないよう伝えた。
家族へ詳しい事情を話すかは、ミレナ自身が決める。
少なくとも今夜は、急に外へ出たり、力を試したりしないことになった。
「今日、分けたせいですか」
ミレナが尋ねた。
「風の側を表へ出したことで、今まで奥にあった知識が近くなった可能性はあります」
「しなければよかった?」
ネアは答える前に考えた。
「調べなければ、あなたが精霊王として存在できることも、どのような危険があるかも分かりませんでした」
「危険が増えたのではなく、見えるようになっただけ?」
「そう言い切ることもできません」
ネアはミレナへ近づく。
「今日の状態は記録しておきます。次に風の側へ触れるとしても、同じところまでは進めません」
「次もあるんですか」
「あなたが望まなければ行いません」
「神殺しの剣を使うなら、必要なんですよね」
「最終的には、あなた自身が切り替えられる必要があります」
「でも、私はまだ選んでいません」
「ええ」
「選ばなくても、元へ戻す方法は探してくれますか」
「探します」
ネアは迷わず答えた。
「世界を救うために必要だからではなく?」
「あなたが望んでいるからです」
ミレナはネアを見つめた。
それから、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
二つとも覚えている
夜になり、ミレナは自宅へ戻った。
セトたちは村に残り、何かあればすぐに知らせてもらうことにした。
部屋へ入ったミレナは、窓を閉める。
風は入ってこない。髪も、服の裾も動かない。
長椅子へ座り、両手を見る。
朝と同じ、人間の手だった。
「ミレナ」
自分の名前を言う。
「二十歳」
ネアに聞かれたことを、一つずつ確かめる。
この村で生まれた。ここで育った。家族と暮らしている。昨日、荷車から袋が落ちた。今日、村の外で風の精霊王になった。
どれも覚えている。
目を閉じる。
子供のころ、雨の前に窓を閉めた記憶が浮かぶ。
小さな手で、重い木の戸を引いた。
その時の雨が、遠い海からどのような流れを通って来たのかも分かる。
自分が窓を閉めたことは、覚えている。
風の道を空から見たことも、覚えている。
だが、その日、ミレナは空を飛んでいない。
海を見てもいない。
それでも二つは、同じ一つの出来事として浮かんでいた。
「これは……」
どちらが記憶で、どちらが知識なのか。
説明されれば、頭では分かる。
窓を閉めたのが記憶で、風の道が知識だ。
だが、自分の中では、どちらも同じように覚えている。
ミレナは目を開けた。
閉じた窓の向こうで、風が小さく渦を巻いた。
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