

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
(一)槍より先に来たもの
車輪の音が近づいてきた。
土を踏む重い足音。
鈴の小さな音。
木の車輪が石を噛む音。
そして、人の声。
山科理人は、道の脇で両手を上げたまま動かなかった。
声の意味は分からない。
距離のせいかもしれない。
言語が違うせいかもしれない。
そもそも自分の耳が、緊張で意味を拾えていないだけかもしれない。
だが、どちらにせよ同じだった。
通じない前提で動く。
通じるなら、その時に修正すればいい。
通じないのに通じるつもりで動けば、取り返しがつかない。
「手を見せる。急に動かない。近づかない」
理人は小さくつぶやいた。
「相手から見れば、宇宙人はこっちだ」
やがて、木々の間から荷車が現れた。
荷車は二台。
引いているのは、馬に似た動物だった。
馬に似ている。
だが、首が少し太く、耳が長い。
蹄の形も、理人が知っている馬とは少し違う。
荷車の周囲には、槍を持った男たちが数人いた。
粗い革鎧。
腰には短剣。
肩には荷紐。
その後ろに、一人の少女がいた。
荷役獣の手綱を持っている。
年は十代の後半くらいだろうか。
華やかな服ではない。
町娘というより、倉庫や厩舎で働く人間の服装に近い。
けれど、周囲を見る目だけが妙に落ち着いていた。
理人は、彼らの顔を見た。
驚き。
警戒。
敵意。
そして、槍の穂先がこちらを向いた。
(二)通じない前提で動く
最初に向けられたのは、言葉ではなかった。
槍だった。
理人は、反射的に足を止めた。
両手は上げたまま。
指を開く。
手のひらを見せる。
武器はない。
少なくとも、手には何も持っていない。
男の一人が何かを叫んだ。
「――――!」
意味は分からない。
だが、声の調子は分かる。
止まれ。
動くな。
何者だ。
たぶん、そういう種類の声だった。
理人はゆっくりとうなずいた。
相手の言葉を理解したわけではない。
ただ、「動くな」という要求には従った方がいいと判断した。
もう一人の男が、こちらへ近づこうとする。
理人は一歩下がりかけて、すぐ止めた。
逃げる動作に見える。
だめだ。
「大丈夫。大丈夫じゃないけど、大丈夫に見せろ」
日本語で言っても、相手には通じない。
だが、自分には必要だった。
男たちの槍は下がらない。
理人は喉の渇きを感じた。
唾を飲み込む。
喉が鳴る。
その音まで、相手に聞こえた気がした。
理人は、少し考えた。
自分の立場を説明したい。
現代日本から来た。
気づいたら森にいた。
敵意はない。
水が欲しい。
町があるなら助けてほしい。
どれも言えない。
言ったところで通じない。
なら、目的を絞るしかない。
殺されないこと。
理人は、ゆっくり膝をついた。
男たちがざわつく。
「――――!」
怒鳴られた。
まずかったか。
いや、立ったままよりは低い。
飛びかかる姿勢ではない。
逃げる姿勢でもない。
理人は両手を上げたまま、地面に座り込むような姿勢を取った。
それから、片手で自分の胸を指した。
「山科」
相手は反応しない。
「山科、理人」
もう一度、自分を指す。
「リヒト」
男たちは顔を見合わせた。
通じていない。
理人は、次に喉を指した。
口を開く。
空の手を口元に持っていく。
水を飲むしぐさをする。
ゆっくり。
相手が槍を突き出す前に、すぐ手を戻す。
「水」
もちろん、日本語だ。
「ウォーター。水。飲む。飲みたい」
どれも反応が薄い。
理人は地面を指でなぞりかけた。
水滴の形。
いや、待て。
魔法陣に見えたらまずい。
この世界で、地面に図形を描く行為がどう見えるか分からない。
合図かもしれない。
呪いかもしれない。
召喚かもしれない。
知らない土地で、知らない相手の前で、知らない記号を書くのは危険すぎる。
「やめよう」
理人は手を膝の上に戻した。
男たちはまだ警戒している。
理人は、あえて荷車を見ないようにした。
武器も見ない。
動物にも近づかない。
ただ、手を見せる。
相手の判断を待つ。
これは会話ではない。
審査だった。
(三)怖がってるだけ
荷車の後ろで、犬が一匹、理人を見ていた。
犬と言っていいのかは分からない。
耳が大きく、脚が細い。
尻尾は短い。
毛並みは灰色に近い。
だが、理人には犬に見えた。
その犬は、吠えていなかった。
荷役獣も同じだった。
耳を動かし、鼻を鳴らしてはいる。
だが、後ずさりはしていない。
少女は、それを見ていた。
理人ではなく、まず動物を。
次に、理人の手。
足。
目線。
荷車との距離。
男たちの槍の向き。
少女が、半歩前に出た。
「待って」
短い声だった。
理人には意味が分からない。
だが、男たちの動きが止まったことで、その言葉が制止だったことだけは分かった。
少女は理人を見た。
そして、言った。
「怖がってるだけ」
男の一人が言い返す。
「森から出てきたんだぞ。盗賊か、北からの間者かもしれない」
理人には分からない。
ただ、男の声が荒くなったことは分かった。
少女は首を横に振った。
「盗賊なら、荷車の前に出る。逃げ道を塞ぐ。犬が吠える」
少女は荷役獣の耳を撫でた。
「この子、逃げようとしてない」
別の男が言う。
「魔に当てられた者かもしれん」
「それなら、もっと目が変」
少女は理人を見る。
理人は動かない。
動けない、という方が近かった。
少女は続けた。
「怖い人なら、あんなに手を見せない。怖がってる人だよ」
理人には言葉は分からない。
だが、自分へ向けられていた槍が、ほんの少しだけ下がったことは分かった。
(四)水と名前
少女は、荷車の横に吊ってあった水袋を取った。
男がすぐに止める。
「リナ」
その音だけは、理人の耳にも残った。
リナ。
少女の名前らしい。
リナは男を見る。
「少しだけ」
男は渋い顔をした。
それでも、水袋を奪い返しはしなかった。
リナは木の椀に水を注いだ。
直接こちらには渡さない。
数歩離れた場所に椀を置き、それから下がる。
賢い。
理人はそう思った。
距離を保っている。
こちらが飛びかかれば、男たちが止められる。
でも、水は飲める。
理人はゆっくり手を伸ばした。
槍の先が少し動く。
理人は止まる。
一拍置く。
それから、椀を取った。
水だった。
本当に水かどうかは分からない。
毒がある可能性も、ゼロではない。
だが、ここで疑って飲まない方が危険だ。
理人は少しだけ口に含んだ。
冷たかった。
喉が、それを水だと認識した瞬間、身体が勝手に続きを求めた。
だが、一気には飲まない。
ゆっくり飲む。
飲み終えると、理人は椀を地面に戻した。
そして、頭を下げた。
「ありがとう」
通じない。
それでも言った。
少女、リナは首を傾げた。
理人は自分を指した。
「リヒト」
もう一度。
「リヒト」
リナは少し考えた。
「リ……ト?」
「リヒト」
「リト」
理人は、訂正しようとしてやめた。
今はそれでいい。
リナは自分を指した。
「リナ」
理人はうなずいた。
「リナ」
初めて、一つだけ対応した。
自分の名前。
相手の名前。
会話とは呼べない。
だが、対応表の一行目としては十分だった。
(五)捕縛ではなく、自由でもなく
男たちは話し合っていた。
理人には、何を言っているのか分からない。
ただ、視線の向きでだいたい分かる。
連れていくか。
置いていくか。
縛るか。
殺すか。
そこまで露骨ではないにしても、選択肢はそれに近い。
理人は黙っていた。
余計なことを言えば、状況が悪くなる。
言葉が通じないなら、沈黙も情報になる。
やがて、年長の男が理人を指した。
次に、荷車の後方を指す。
それから、自分の目を指し、理人を指す。
見張る。
たぶん、そういう意味だ。
理人はゆっくりうなずいた。
自分を指す。
荷車の後ろを指す。
歩くしぐさをする。
年長の男は、短く何かを言った。
許可か命令かは分からない。
どちらにせよ、拒否する理由はなかった。
理人は荷車の後方、少し離れた位置についた。
近すぎない。
遠すぎない。
逃げる気がないことを示すには、ちょうどいい距離。
リナが時々こちらを振り返った。
犬も振り返る。
犬は、まだ吠えない。
理人はその犬に向かって笑いかけそうになり、やめた。
笑顔が友好表現とは限らない。
歯を見せることが、威嚇になる文化や動物もいる。
「異世界、面倒だな」
小さく言う。
リナが振り返る。
理人はすぐに口を閉じた。
通じていない。
だが、声の調子は伝わるかもしれない。
リナは少しだけ首を傾げ、それから前を向いた。
(六)見ていただけ
道は思ったより悪かった。
木の根。
ぬかるみ。
小石。
轍。
荷車が揺れるたび、積み荷が少しずつずれる。
理人は、その揺れを見ていた。
左の荷車。
後ろから二段目。
麻袋が一つ、少し外側に寄っている。
一度目の揺れで、端が出た。
二度目で、紐が浮いた。
三度目で、袋の角が荷台の縁にかかった。
「まずい」
理人は思わず声を出した。
男が振り返る。
槍の穂先が動く。
理人は手を上げた。
違う。
敵意ではない。
理人は荷車を指した。
次に、揺れる麻袋を指した。
男は顔をしかめる。
理人は自分の腰のあたりで、紐を締めるしぐさをした。
伝わらない。
なら、実物だ。
理人は近づきかけて、すぐ止まった。
勝手に荷車へ近づくのは危険だ。
手を上げたまま、麻袋を指す。
「袋。落ちる。落ちる」
日本語だ。
通じない。
だが、リナが動いた。
彼女は理人の指の先を見た。
荷車を見る。
荷役獣の歩調を見る。
次の石を見る。
そして、声を上げた。
「止めて」
荷車が止まる。
男が荷台を見る。
麻袋は、あと少しで落ちるところだった。
男たちは理人を見た。
理人は何も言わなかった。
言えば、余計な意味が乗る。
ただ、手を上げたまま、少しだけ肩をすくめた。
リナが麻袋を押し戻す。
それから、理人を見た。
今のは何だろう。
そういう目だった。
理人は麻袋を指し、次に目を指した。
見た。
それだけを伝えたかった。
リナは完全には分かっていない。
だが、何かを見ていたことだけは分かったらしい。
(七)第二関門
森が少しずつ薄くなった。
木の間から、煙が見えた。
次に、柵。
木を組んだ簡素な外柵。
その内側に、低い建物が並んでいる。
町だ。
理人は足を止めそうになった。
異世界の町。
そう思う余裕は、すぐに消えた。
門の前には人がいる。
槍を持っている。
荷車を確認している。
つまり、検問がある。
身分証なし。
言葉不明。
同行者からも信用なし。
「ここが第二関門か」
理人は小さく言った。
荷運び隊の年長の男が門番と話す。
当然、理人の方を指す。
門番の目が細くなる。
理人はまた両手を少し上げた。
今日、何度目か分からない。
リナが何かを説明している。
犬。
荷役獣。
森。
水。
麻袋。
理人には単語は分からない。
だが、リナが自分を即座に危険人物として扱っていないことだけは分かった。
それでも、門番の警戒は解けない。
当然だ。
理人でも、同じ立場ならそうする。
やがて、年長の男が理人を指し、町の奥ではなく、外側に近い大きな建物を指した。
倉庫。
あるいは厩舎。
理人は、そこに連れて行かれることになった。
町の中心ではない。
人家でもない。
神殿でもない。
まずは倉庫。
それは、彼らなりの妥協だった。
(八)倉庫兼厩舎
連れて行かれたのは、町外れの大きな建物だった。
半分は倉庫。
半分は厩舎。
干し草の匂い。
動物の体温。
革紐。
油。
湿った木箱。
積まれた袋。
理人は、入口で足を止めた。
袋が多い。
穀物か。
飼料か。
薬草か。
中身は分からない。
だが、数はある。
列になっている。
高さが違う。
崩れかけている場所もある。
新しい袋と古い袋が混ざっている。
理人は、無意識に数えそうになって、やめた。
今はまだ早い。
信用がない。
正しいことを言っても、聞かれない。
まずは、ここで生きることだ。
リナが木の椀に何かを入れて持ってきた。
薄い粥のようなものだった。
匂いは悪くない。
理人は両手で受け取り、頭を下げた。
「ありがとう」
リナは、少し困った顔をした。
たぶん、言葉の意味は分かっていない。
それでも、悪い反応ではなかった。
年長の男が、理人に箒を渡した。
次に、床を指す。
掃け。
たぶん、そういう意味だ。
理人は箒を受け取った。
「労働対価、了解」
通じない。
だが、理人はうなずいた。
箒で床を掃く。
男たちは見ている。
門番ほどではないが、まだ警戒している。
リナも見ている。
理人は丁寧に掃いた。
早くやりすぎない。
遅すぎない。
勝手に奥へ行かない。
荷物に触らない。
動物に近づきすぎない。
倉庫の仕事というより、信用の検査だった。
(九)対応表の一行目
夕方になった。
理人は倉庫の隅に座っていた。
与えられたのは、薄い毛布一枚。
寝床は藁の上。
悪くない。
少なくとも、森で夜を迎えるよりはずっといい。
リナが近づいてきた。
手には木の椀がある。
水だった。
リナは椀を指した。
「ミア」
理人は椀を見る。
水。
たぶん、水を意味する言葉。
理人は自分の喉を指した。
「水」
次に椀を指す。
「ミア?」
リナはうなずいた。
「ミア」
理人は繰り返す。
「ミア」
発音が違ったのか、リナが少しだけ首を傾げた。
もう一度、ゆっくり言う。
「ミア」
理人も繰り返す。
「ミア」
今度は、リナが小さくうなずいた。
理人は、床の埃に指で短い線を引こうとして、やめた。
さっき森で考えたことを思い出す。
知らない世界で、いきなり地面に図形を描くのは危ない。
代わりに、胸に手を当てて覚える。
ミア。
水。
いや、正確にはまだ分からない。
飲み水かもしれない。
椀かもしれない。
渡すという意味かもしれない。
喉が渇いたという意味かもしれない。
対応表の一行目。
ミア。
対象、水らしきもの。
確度、低。
理人は自分の頭の中に、そう記録した。
リナは、理人が何を考えているのか分かっていない。
ただ、彼が真剣に音を覚えようとしていることだけは分かったらしい。
「リト」
リナが言った。
理人は自分を指した。
「リヒト」
リナは少し苦戦した。
「リ……ヒト」
「そう」
伝わらないと分かっていても、理人は少し笑った。
「山科理人。リヒト」
リナはうなずいた。
「リヒト」
その発音は、まだ少し違っていた。
だが、十分だった。
(十)保留
夜になった。
倉庫の入口には、男が一人座っている。
見張りだ。
理人は藁の上に座り、薄い毛布を膝にかけた。
逃げる気はない。
逃げても行く場所がない。
それに、ここには水がある。
食べ物がある。
屋根がある。
そして、少なくとも一人、自分を即座に危険だと決めつけなかった少女がいる。
理人は、倉庫の奥に積まれた袋を見た。
数えたくなる。
だが、今はまだ数えない。
信用がない。
信用がない数字は、ただの異物だ。
まずは、ここにいていい理由を作ること。
掃く。
運ぶ。
待つ。
覚える。
理人は目を閉じた。
この世界で最初に得たものは、ステータスではなかった。
スキルでもなかった。
女神の祝福でもなかった。
信用ですらない。
槍は下がりきっていない。
見張りはまだ入口にいる。
リナも、彼を信じたわけではない。
ただ、殺されなかった。
追い出されなかった。
水をもらった。
粥をもらった。
箒を渡された。
つまり、役に立てということだ。
保留。
この世界が山科理人に与えた最初の待遇は、それだった。
それでも、今の彼には十分だった。
(十一)ログ
観測点:増加
局所反応:不安定
判定:
接続未満。
断絶未満。
非正規転生 ~転生したけど最弱スキルすらもらってない~ TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
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