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最後に見ていたもの
最後に見ていたのは、在庫差異の表だった。
山科理人は、出張先のビジネスホテルでノートPCの画面を見下ろしていた。
山科理人、三十二歳。
肩書きは、データサイエンティスト兼プロジェクトマネージャ。
大手製造業のDX推進部門に所属し、需要予測、在庫管理、生産計画、物流改善といった、華やかさより泥臭さの多い仕事をしている。
背は平均より少し高い。
体格は細身で、鍛えているというより、出張先の工場を歩き回ってどうにか保っている程度だった。
短く整えた黒髪には、少し癖がある。
眼鏡の奥の目つきは悪くない。
ただ、資料の矛盾や会議室の沈黙を拾う癖のせいで、考え込むと少し険しく見えることがあった。
若手と呼ばれるには、少し現場の泥を見すぎていた。
管理職と呼ばれるには、まだ諦めが足りない。
そんな年齢だった。
画面には、倉庫別の在庫差異、欠品回数、緊急輸送の発生件数、作業者別の入力遅延、棚卸し時の補正値が並んでいる。
数字は整っている。
少なくとも、見た目は整っている。
理人は表の右端に作った列を見た。
異常値。再確認。現場聞き取り必要。処罰対象外。
最後の列だけ、まだほとんど空欄だった。
「数字は合ってる」
理人は、小さくつぶやいた。
「でも、これをそのまま出したら、また現場が殴られる」
画面の隅に、メール通知が出ていた。
本部の担当部長からだった。
明日の報告では、在庫削減施策の効果と、現場入力精度の改善余地を中心に整理してください。
欠品・緊急輸送については、一時的な移行影響として扱えるか確認したいです。
経営会議では、まず全体方針の妥当性を説明する必要があります。
不正ではない。
少なくとも、文面だけを見ればそうだった。
在庫削減施策の効果はある。
現場入力精度に改善余地があるのも事実だ。
欠品や緊急輸送が、移行期の一時的な揺れである可能性も、完全には否定できない。
だが、そういう正しい言葉を並べると、現場の痛みだけが欄外に落ちる。
理人はメールを閉じた。
「誰かが嘘をついてる、って話じゃないんだよな」
画面には、綺麗に整ったグラフが並んでいた。
在庫金額は下がった。回転率は改善した。倉庫滞留日数も短くなった。
その横で、欠品対応の回数が増えている。緊急輸送費が増えている。棚卸し補正が増えている。
そして、現場からの自由記述欄だけが、月を追うごとに短くなっていた。
最初の月には、まだ文章があった。
特定部品の入荷が午後便に偏り、午前作業に待ちが出ています。
緊急対応が続いているため、通常入力が翌日回しになっています。
次の月には、少し短くなった。
午前作業に一部待ちあり。
入力遅れあり。
さらに次の月。
確認済み。
その次。
問題なし。
理人は、その四文字をしばらく見ていた。
問題がなくなったのではない。
問題を書かなくなっただけだ。
「正しいKPIが、正しい顔をして人を殴る」
誰に聞かせるでもなく、理人は言った。
昼間、地方工場の現場リーダーが、会議室の片付けが終わった後で理人を呼び止めた。
「山科さん」
その声は小さかった。
会議中には、一度も出なかった声だった。
「数字は、たぶん合っています。現場の入力も、前よりはちゃんとやっています」
「はい」
「でも、このやり方だと、人がもちません」
理人は、すぐには答えられなかった。
現場リーダーは続けた。
「遅れを遅れって書くと、なぜ遅れたって聞かれます。欠品を書けば、なぜ予測できなかったって聞かれます。作業が間に合わないって書けば、なぜ改善できないって聞かれます」
責めている声ではなかった。
ただ、疲れていた。
「だから、みんな短く書くようになりました。問題なし、とか、確認済み、とか」
理人は、その顔を覚えていた。
問題を見つけた人間が、問題を起こした人間にされる前の顔だった。
理人は資料の最後に、一行だけ追記した。
記録した者を罰しない運用が必要。
カーソルが、その一文の末尾で点滅する。
「これを言える空気にするところからだな」
保存。同期完了。
画面右下の時刻は、深夜を少し回っていた。
理人は椅子の背にもたれた。
肩が重い。
目の奥が熱い。
眠い、と思った。
いや、違う。
眠いというより、身体の奥で何かが一段抜けたような感覚だった。
「……あ、これは」
手を伸ばそうとした。
スマホは机の上にある。
ベッドはすぐ横だ。
フロントに電話をすればいい。
そう思った。
指先は、机の上を少し滑っただけだった。
「ダメなやつだ……」
恐怖は、遅れてきた。
理人は何かを言おうとした。
誰に向けてなのか、自分でも分からなかった。
画面には、最後に保存した一文だけが残っている。
記録した者を罰しない運用が必要。
そこで、視界が暗くなった。
天井がない
次に目を開けた時、天井はなかった。
木の葉が揺れていた。
最初、理人はそれを天井だと思った。
ホテルの天井にしては緑が多い。
病室の天井にしては風が吹いている。
数秒遅れて、理解が追いついた。
空だ。
木だ。
森だ。
「……どこだ、ここ」
声が出た。
自分の声だった。
それだけで、少し安心した。
少なくとも、意識はある。
喉は動く。耳も聞こえる。目も見えている。
理人は仰向けのまま、指を動かした。
右手、動く。左手、動く。足、動く。痛み、少し。大きな外傷、たぶんなし。
「落ち着け。まず観測だ」
自分に言い聞かせる。
理人は上体を起こした。
目の前には、見覚えのない森が広がっている。
木の幹は太い。
葉の形も少し変だ。
空気は湿っている。
土の匂いが強い。
ホテルではない。
病室でもない。
少なくとも、出張先の町ではない。
理人は自分の服を見た。
スーツではなかった。ホテルの部屋着でもなかった。
粗い布でできた、見たことのない服。
靴も革靴ではない。
荷物はない。スマホもない。財布もない。社員証もない。
ただ、眼鏡だけはあった。
理人は顔に触れた。
細い金属のフレーム。
いつも使っていたものとは、少し違う気もする。
だが、視界は歪んでいない。
「眼鏡はあるのか」
助かった、と思った。
同時に、気味が悪かった。
服は変わっている。荷物は消えている。だが、眼鏡だけはある。
都合がいい。
都合がよすぎる。
「……はい?」
理人は自分の胸元をつかんだ。
「着替えた記憶はない。移動した記憶もない。というか、俺はホテルにいた。椅子に座っていた。資料を保存した」
そこまで口にして、最後の感覚を思い出した。
身体の奥で、何かが抜ける感覚。
「あれで、死んだ……のか?」
言った瞬間、理人は首を振った。
「断定するな。観測範囲外だ」
死亡した可能性は高い。
だが、病院で意識不明のまま見ている異常な夢という線も、完全には消せない。
ただ、その仮説はあまり役に立たなかった。
夢だとしても、痛いものは痛い。
現実だとしても、やることは同じだ。
「現在地、不明。時刻、不明。通信手段、不明。所持品、ほぼなし。身体状態、行動可能」
理人は息を吐いた。
「最悪寄りだな」
ステータス
理人は、少しだけ黙った。
森。見知らぬ服。残っている眼鏡。死んだかもしれない直前の記憶。現実感のある痛み。見たことのない植物。
仮説は、いくつかある。
一つ。死後の世界。
二つ。異世界転生。
三つ。脳内の異常夢。
四つ。拉致、事故、または何らかの実験。
「四つ目だったら一番嫌だな」
理人は膝についた土を払った。
異世界転生。
その言葉を、自分の口で言うのは、かなり間抜けに思えた。
だが、現象の説明としては、今のところ候補から外せない。
なら、確認するしかない。
「ステータス」
何も起きない。
理人は数秒待った。
「ステータス、オープン」
何も起きない。
「メニュー」
何も起きない。
「鑑定」
何も起きない。
「ヘルプ」
何も起きない。
「ログインボーナス」
何も起きない。
「初心者パック」
森は、ただ森だった。
風が葉を揺らす。遠くで鳥のようなものが鳴く。足元を小さな虫が横切る。
それだけだった。
「なるほど」
理人は膝に手を置いた。
「死後の世界にしては不親切だ。異世界転生にしては初期設定が雑すぎる」
もう少し試す。
「女神」
風が吹いた。
「女神様」
鳥が鳴いた。
「チュートリアル担当の方」
虫が飛んだ。
「サポート窓口」
返答はなかった。
「……サポートなし」
ただ、完全に結論を出すには早い。
理人は自分の手を見た。
もしかすると、気づいていないだけで何かの能力があるのかもしれない。
危機になれば発動するタイプかもしれない。
条件を満たせば開くメニューがあるのかもしれない。
現地語で唱えなければ反応しない可能性もある。
だが、それらは全部「あるかもしれない」だった。
今この瞬間に確認できる事実は、一つしかない。
何も出ていない。
「未確認の能力を前提に行動しない」
理人は、そう決めた。
チートスキルを持っている可能性は、ゼロとは言わない。
だが、ある前提で動けば死ぬ。
崖から飛び降りてから、実は飛行スキルがありませんでした、では遅い。
「現状は、なしで扱う」
理人は指を折って確認した。
ステータスなし。スキルなし。鑑定なし。メニューなし。女神なし。翻訳も、未確認。
「あるなら後で評価する。今は、ないものとして動く」
鑑定がない森
スキルがないなら、現実を見るしかない。
理人は立ち上がった。
立てる。めまいは少しある。喉が渇いている。腹も空いている。
「優先順位」
口に出す。
「水。人。道。夜になる前に安全な場所」
言葉にすると、少しだけ頭が整理された。
足元に赤い実が落ちていた。
見た目はベリーに似ている。
だが、似ているだけだ。
理人はしゃがんで、それを見た。
「食べない」
即断した。
「鑑定がない。知識もない。食えるかどうか分からないものは食べない」
鑑定スキルがない異世界。
それは、思ったよりも危険だった。
毒があるか分からない。
水が飲めるか分からない。
動物が危険か分からない。
植物も、虫も、空気も、何も分からない。
「便利スキルって、本当に便利だったんだな」
理人は足元の土を見る。
地面には、かすかな踏み跡があった。
獣道かもしれない。人の道かもしれない。判断はつかない。
理人はしゃがみ、土を指で触った。
「足跡はある。大きい。蹄っぽい跡もある。荷車の跡……いや、車輪か?」
土の上に、浅い溝が残っている。
まっすぐではない。
だが、一定方向に続いている。
「大型の動物。家畜。荷車。人の移動」
少なくとも、完全な未開の森ではない。
「人里がある可能性は高い」
問題は、そこにたどり着いた後だった。
言葉は通じるかもしれない。
同じ人間に見えるなら、発声器官も似ている可能性はある。
偶然、日本語に近い言語という可能性も、理屈の上ではゼロではない。
異世界補正が遅れて発動する可能性だって、完全には否定できない。
だが、現時点では、何も読めていない。
標識らしきものも、案内らしきものも、まだ理解できていない。
ならば、会話も通じない前提で考えた方がいい。
身分証もない。金もない。この世界の常識もない。武器もない。保証人もいない。
そして、こちらは成人男性だ。
「助かる可能性と、捕まる可能性が同時に上がったな」
理人は車輪跡に沿って歩き始めた。
読めない
しばらく歩くと、木に打ち付けられた板を見つけた。
標識のように見えた。
理人は駆け寄り、そこに書かれたものを見た。
文字だった。
少なくとも、模様ではない。
同じ形が繰り返されている。
行のようなものもある。
意味を持つ記号体系だ。
だが、読めない。
英語ではない。日本語ではない。中国語でも韓国語でもない。見覚えのある文字体系ではなかった。
「……読めない」
理人は板に触れた。
もし異世界転生なら、ここで読める可能性を少しは期待していた。
文字が意味に変わる。
頭の中に訳が流れ込む。
知らない言語なのに自然に理解できる。
そういう都合のいいものが、あるかもしれないと。
何もなかった。
板は板で、文字は文字で、理人は読めなかった。
「翻訳補正もなし、か」
言ってから、理人はもう一度、自分の状況を並べ直した。
スキルなし。鑑定なし。女神なし。翻訳なし。所持品なし。信用なし。
「歓迎されてないな、これは」
その言葉は、思ったよりも重かった。
理人は、自分がこの世界に招かれたのではないと感じた。
誰かが待っているわけではない。
役割を与えられているわけでもない。
お膳立てされた冒険が始まるわけでもない。
ただ、放り出された。
そんな感覚だった。
人の声
標識の向いている方向に、道らしきものが続いていた。
道と言っても、舗装はされていない。木の根が出ている。石も多い。
だが、踏み固められている。
人が通っている。
理人は、少しだけ息を吐いた。
「人里がある」
助かる可能性がある。
同時に、危険もある。
理人は道の脇に立ち止まった。
「ファーストコンタクト次第で終わるな」
言葉は通じるかもしれない。
だが、通じる前提で動くのは危ない。
通じないのに、通じるつもりで距離を詰めれば、それだけで敵意と取られるかもしれない。
相手から見れば、自分は身元不明の男だ。
服装が変かどうかも分からない。
金もない。
保証人もいない。
目的も説明できない可能性が高い。
敵意を見せれば終わる。
慌てても終わる。
正しい説明をしようとしても、言葉が通じなければ終わる。
理人は、自分に言い聞かせた。
「宇宙人と遭遇したと思え」
相手が宇宙人なのではない。
相手から見れば、宇宙人はこちらだ。
「手を見せる。急に動かない。距離を詰めない。相手の逃げ道を塞がない。目を合わせすぎない。笑いすぎない。武器になりそうなものを持たない」
前職で作った緊急対応マニュアルより、よほど切実だった。
その時、道の向こうから音がした。
車輪の軋む音。
鈴の音。
動物の鼻息。
そして、人の声。
理人は足を止めた。
言葉は聞き取れなかった。
距離のせいかもしれない。
言語が違うせいかもしれない。
緊張で耳が意味を拾えていないだけかもしれない。
ただ、人間の声だということだけは分かった。
助けかもしれない。危険かもしれない。
たぶん、両方だ。
理人は両手をゆっくり上げた。
まだ誰の姿も見えない。
それでも、最初に見せるべき情報は決まっている。
武器はない。敵意はない。今すぐ近づくつもりもない。
喉が渇いていた。
足は震えていた。
心臓はうるさい。
理人は小さく息を吸った。
「さて」
車輪の音が近づいてくる。
「初回面談だ」
ログ
外来魂反応を検知。
原世界肉体状態:生命活動停止
認知パターン保持:成功
召喚儀式記録:なし
勇者分類:不一致
祝福付与:未実行
言語補正:未実行
身体補正:未実行
スキル変換:未実行
主制御系照合:該当なし
監査層照合:一致
警告:
非正規流入個体を確認。
非正規転生 ~転生したけど最弱スキルすらもらってない~ TOPへ

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