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(一)初心者向け
ゴブリン討伐が初心者向けかどうか。
山科理人には、まだ分からない。
ゴブリンを見たことがない。
この世界の魔物の強さも知らない。
冒険者の平均的な能力も知らない。
だから、ゴブリンは危険だ、と断定するつもりはなかった。
ただ、一つだけ分かる。
この依頼票だけでは、危険かどうかを判断できない。
それを初心者向けと呼ぶのは、かなり危ない。
理人は掲示板の前に立っていた。
隣にはリナがいる。
少し離れたところで、セリアがこちらを気にしている。
依頼票には、整った文字と印が並んでいた。
ゴブリン討伐。初心者可。危険度低。
リナがそう読んだ。
理人は、依頼票の余白を見た。
広い。
だが、必要なことは書かれていない。
何体か。どこか。いつ見たのか。戻る条件は何か。
空いているのに、空白だった。
紙はきれいだ。
欄も揃っている。
危険度の印も、受付で使われているものと同じらしい。
だからこそ、そこに書かれていないものが怖い。
整った紙は、人を安心させる。
初心者可。危険度低。
その二つが並んでいれば、受けてもよい仕事に見える。
少なくとも、初めて討伐依頼を探している者には、そう見える。
理人は依頼票から目を離せなかった。
この紙は、何を知っているのか。
そして、何を知らないまま貼られているのか。
そこが分からなかった。
(二)手を伸ばす新人
依頼票に手を伸ばしたのは、若い冒険者たちだった。
理人より少し年下に見える青年が二人。
それから、少女が一人。
少女は依頼票を取る前に、少しだけ手を止めた。
他の二人は気にしていない。
「初心者向けだろ」
そのような意味のことを、一人が言った。
リナが小さく訳してくれた。
少女は、掲示板の依頼票を見ている。
ゴブリン討伐。初心者可。危険度低。
そこにそう書いてある。
なら、怖がる方がおかしい。
そう思おうとしている顔だった。
理人は、その表情を見た。
怖いのではない。
いや、怖いのだろう。
だが、それ以上に、怖いと言うことを怖がっている。
前の世界の会議室にも、似た顔があった。
不安があるのに、不安と言えない顔。
低リスクと書かれた資料の前で、黙るしかない顔。
経験が足りないのかもしれない。
自分だけが分かっていないのかもしれない。
周りが平気そうにしているなら、声を上げる方がおかしいのかもしれない。
そう考えて、黙る顔だ。
理人は、その依頼票から目を離せなかった。
青年の一人が、依頼票を軽く叩いた。
報酬欄を見ている。
それから、危険度の印を見る。
低い。
初心者可。
条件は揃っている。
少なくとも、紙の上では。
少女はまだ、依頼票へ伸ばした手を止めていた。
理人は、リナを見た。
「聞いて」
リナは少し嫌そうな顔をした。
ギルドで目立つのは、あまり得ではない。
それでも、彼女はうなずいた。
(三)何体か
理人は依頼票を指した。
「何体?」
リナが新人たちに聞く。
青年の一人が、肩をすくめた。
依頼票を見れば分かるだろう、という顔だ。
リナが依頼票を読み直す。
そして、首を傾げた。
「書いてない」
理人は続けた。
「巣? 一匹?」
リナが聞く。
今度は別の青年が笑った。
ゴブリンはゴブリンだ。
そういう意味のことを言ったらしい。
リナは少し困った顔で訳した。
「分からない。たぶん、森」
「村、近い? 遠い?」
「書いてない」
「いつ見た?」
「書いてない」
「前、失敗?」
リナは依頼票をもう一度見た。
それから、セリアの方を見る。
セリアは眉間にしわを寄せた。
書いていない。
少なくとも、この紙には。
理人は息を吐いた。
ゴブリンが危険かどうかではない。
この紙が危険なのだ。
理人は、依頼票を見る。
ゴブリン討伐。初心者可。危険度低。
その三つは分かる。
だが、それ以外が足りない。
単独か。群れか。巣か。通り道に出たのか。住み着いているのか。
村から近いのか。森の奥なのか。最後に見たのはいつか。
子どもや家畜に被害はあるのか。前に失敗した者はいるのか。
何も分からない。
理人は依頼票の余白を指した。
「ここ、ない」
リナが言い直す。
「何体か、書いてない。巣かどうかも、書いてない。いつ見たかも、ない」
新人の青年が不満そうに言った。
低危険度なのだから、そこまで気にする必要はない。
たぶん、そういう意味だった。
理人は首を横に振る。
低危険度だから分からなくていいのではない。
分かっているから、低危険度と言えるはずなのだ。
理人は、その説明をしたかった。
だが、今の言葉では難しい。
だから、依頼票を指した。
「低い、なぜ?」
リナが訳す。
ギルドの空気が少し変わった。
(四)普通という分類
セリアが近づいてきた。
彼女は依頼票を取り、内容を確認する。
それから、理人ではなくリナに向かって説明した。
リナが訳す。
「ゴブリンは低級魔物。新人が最初に受ける依頼としては、普通」
普通。
理人はその言葉を聞いて、うなずいた。
普通であることは、分かる。
前の世界でも、普通という言葉はよく使われた。
普通の工程。普通の遅れ。普通の在庫差異。普通の不良率。
普通は便利だ。
いちいち考えなくて済む。
だが、普通は時々、見直されないまま残る。
セリアは続けた。
「全部を細かく書く余裕はない。依頼は多い。報酬も低い。村も急いでいる」
リナの訳はところどころ欠けていたが、意味は分かった。
セリアは無能ではない。
むしろ、よく分かっている。
依頼票に何でも書けるなら苦労はしない。
情報を集めるにも人手がいる。
危険度を上げれば報酬も変わる。
報酬が上がれば村が困る。
初心者向けの依頼が減れば、新人が困る。
問題は単純ではない。
理人は、だからこそ危ないと思った。
複雑だから、古い分類が残る。
忙しいから、低危険度のまま流れる。
そして、誰かがその紙を信じて森へ行く。
理人は依頼票の危険度を指した。
「ゴブリン、低い。たぶん」
リナが訳す。
セリアは怪訝そうに理人を見る。
理人は、首を横に振らない。
低級魔物という分類そのものを否定したいわけではない。
そこを間違えると、話は届かない。
理人は依頼票の余白を指した。
「でも、条件、ない」
リナが訳す。
セリアの眉間のしわが少し深くなった。
理人は思った。
ここから先は、倉庫より難しい。
倉庫では、袋が目の前にあった。
石を並べれば差分を見せられた。
だが、ここにゴブリンはいない。
森もない。
足跡もない。
あるのは、紙だけだ。
だからこそ、紙が弱いと危ない。
(五)カイル
「ゴブリン一匹なら、新人でもいける」
低い声が横から入った。
理人は振り向いた。
壁際に、くたびれた革鎧の男が立っていた。
年は三十代半ばくらい。
無精ひげ。
手入れされた短剣。
新品ではない外套。
立ち方に隙が少ない。
若い冒険者たちは、少しだけ姿勢を正した。
男は掲示板の依頼票を見る。
それから、理人を見る。
「だが、巣なら別だ」
リナが小さく訳してくれる。
男は続けた。
「森で、数が分からない。村から遠い。日が落ちる。そういうのは初心者向けじゃない」
理人は、その男を見た。
この男は、理人の味方ではない。
たぶん、理人のことも信用していない。
だが、今の話については、同じものを見ている。
理人は依頼票を指した。
「名前?」
リナが聞く。
男は少し面倒そうに答えた。
「カイル」
理人はうなずいた。
「カイル」
カイルは鼻を鳴らした。
「紙を読むより、森を見ろ」
リナが訳す。
理人は少しだけ笑いそうになった。
それは、理人が言いたかったことに近かった。
セリアは、カイルを見た。
「また余計なことを」
そんな響きだった。
カイルは肩をすくめる。
「余計かどうかは、森で決まる」
リナが小声で訳す。
理人は依頼票を見た。
受付の事情。新人の事情。村の事情。冒険者の現場感覚。
全部が、ここに集まっている。
だから紙一枚で単純に決めるのは危ない。
(六)条件が強い
理人は、依頼票を指した。
「ゴブリン」
次に、指を一本立てる。
「一」
カイルを見る。
カイルはうなずいた。
一匹なら、まだ分かる。
理人は、次に指を五本広げた。
「たくさん」
カイルは肩をすくめる。
それは別だ。
理人は両手で丸を作った。
巣。
リナが訳す前に、カイルが顔をしかめた。
「巣なら新人だけで行くな」
リナが訳した。
理人はうなずく。
次に、足元を指した。
近い。
それから、遠くを指す。
遠い。
森を指す。
見えない。
空を指す。
夕方。
カイルは腕を組んだ。
「遠い森で、数が分からず、日が落ちるなら、ゴブリンでも死人が出る」
その言葉に、新人の少女が小さく身じろぎした。
青年たちは黙った。
セリアも、依頼票を見ている。
理人は、ようやく少しだけ言葉を組み立てた。
「ゴブリン、弱い。たぶん」
リナが訳す。
「でも、条件、強い」
リナはそこで一度止まった。
自分でも少し変な言い方だと思ったのだろう。
理人は首を横に振らなかった。
それでいい。
敵が弱くても、条件が強ければ危険になる。
雨。森。夕方。距離。数。巣。逃げ道。経験者の有無。
それらが重なれば、低級魔物でも低危険度ではなくなる。
理人は、依頼票の危険度を指した。
「敵だけ、見る。違う」
次に、余白を指す。
「条件、見る」
リナが訳す。
カイルは短く笑った。
馬鹿にした笑いではなかった。
「よそ者のくせに、面倒なことを言う」
リナが訳す。
理人は肩をすくめた。
それは否定できなかった。
(七)ミナ
新人の少女は、依頼票を握ったまま黙っていた。
理人は彼女を見る。
彼女は依頼票ではなく、掲示板の端を見ている。
目が合わない。
言いたいことがあるが、言うか迷っている顔だった。
理人は、リナに小さく聞いた。
「あの人、名前?」
リナが確認する。
少女は小さな声で答えた。
「ミナ」
理人はうなずく。
「ミナ」
ミナは少し驚いたように理人を見た。
理人は依頼票を指した。
それから、ミナの顔を指すわけにはいかないので、自分の胸を軽く押さえた。
「怖い?」
リナが訳した瞬間、青年の一人が笑った。
ミナの顔が赤くなる。
「怖いなら残ればいい」
たぶん、そんな意味だった。
理人はその笑いを見た。
嫌な笑いだった。
失敗報告を笑う声と似ている。
怖いと言った人間から、情報を奪う声だ。
理人は首を横に振った。
「怖い、悪くない」
リナが訳す。
青年が眉をひそめる。
理人は依頼票を指した。
「怖い、情報」
リナは少し迷った。
それから、自分の言葉で言い直した。
「怖いと思ったなら、何か見てるかもしれない。だから、聞いた方がいい」
ミナは、依頼票を握る手に力を入れた。
そして、小さく言った。
森の奥で見た人がいる。
小さい足跡が一つではなかった。
家畜小屋の近くに来たのは一匹かもしれないが、森へ戻った跡は複数だった。
そんな意味のことを、途切れ途切れに話した。
セリアの顔が変わった。
カイルも、少しだけ目を細めた。
理人は思った。
やはり、怖いは観測だった。
怖いと言った者を笑うと、その観測が消える。
消えた観測は、紙には残らない。
紙に残らなければ、次に見る者は何も知らずに受ける。
それが、一番危ない。
(八)分類を分ける
理人は、依頼票を指した。
「ゴブリン討伐」
次に、指を一本立てる。
「一匹。村、近い。昼」
それから、うなずく。
「初心者、たぶん」
リナが訳す。
セリアは黙って聞いている。
理人は次に、指を何本も立てた。
「たくさん。森、遠い。巣。夕方」
そして首を横に振る。
「初心者、違う」
リナが訳す。
カイルが小さく笑った。
「当たり前だ」
リナがそれも訳した。
理人はカイルを見る。
当たり前なら、紙に書いてほしい。
そう思った。
だが、今の言葉では足りない。
理人は依頼票の余白を指した。
「ここ、分ける」
リナが訳す。
「ゴブリンだから低い、じゃなくて、条件で分ける」
セリアは依頼票を見ていた。
その表情は厳しい。
だが、さっきよりも、少しだけ実務の顔になっていた。
怒っているのではない。
考えている。
理人はさらに、余白を指した。
「数」
指を一本立てる。
一匹。
次に、指を広げる。
複数。
「場所」
足元。
近い。
遠く。
森。
「時間」
空を見る。
昼。
夕方。
夜。
「経験」
カイルを指しそうになって、やめる。
代わりに、自分の胸に手を当ててから首を横に振る。
新人だけ。
それから、カイルを見る。
経験者あり。
リナがそれを必死に訳す。
全てを書けと言っているわけではない。
全部を変えろと言っているわけでもない。
ただ、初心者向けと言うなら、最低限の条件を分ける。
それだけだ。
セリアは、依頼票を持つ手に少し力を入れた。
(九)確認印
理人は、依頼票の危険度を指した。
上げる。
そう言いたいわけではない。
まだ分からない。
情報が足りない。
理人は、依頼票の端に指で小さな線を引く仕草をした。
「後で確認」
リナが訳す。
次に、ミナを指さないように注意して、依頼票の余白を指した。
「足跡、たくさん。たぶん」
カイルを見る。
「森、見る人」
リナが訳す。
カイルは眉を上げた。
「俺に行けってか」
理人は首を横に振った。
行けと命じる権限はない。
ただ、初心者だけでは危ない。
それを言いたい。
セリアが依頼票を持ち直した。
彼女はしばらく迷った後、依頼票の端に小さな印をつけた。
危険度そのものは変えない。
だが、初心者だけでの受注は保留。
確認が必要。
おそらく、そんな扱いになった。
青年の一人が不満を言った。
報酬が必要なのだろう。
依頼を取り上げられたように感じたのかもしれない。
理人はその不満も分かった。
仕事が必要な人間から仕事を奪えば、それはそれで問題になる。
だから、これは解決ではない。
ただ、見ないまま送り出すよりはましだった。
ミナは少しだけ息を吐いた。
安心したのか、申し訳ないと思ったのかは分からない。
セリアは、理人を見る。
まだ信用していない目だった。
だが、完全に無視する目でもなかった。
それで十分だった。
今は、紙の端に印が一つ増えた。
それだけでいい。
(十)面倒でも
「臆病者のために、依頼を止めるのか」
青年の一人が、そんな意味のことを言った。
リナが訳す前に、何となく意味は分かった。
声の調子で分かる。
ミナが肩を縮める。
カイルは何も言わない。
セリアも、すぐには口を挟まなかった。
ギルドでは、慎重であることはあまり褒められないらしい。
理人は、青年を見た。
若い。
怖くないのではない。
怖くないふりをしているのかもしれない。
それはそれで、危ない。
理人は依頼票を指した。
「止める、違う」
リナが訳す。
理人は言葉を探した。
仕事を奪いたいわけではない。
冒険者を馬鹿にしたいわけでもない。
ゴブリンが怖いと言いたいわけでもない。
ただ、分からないまま行くな。
そう言いたい。
理人は、依頼票を指した。
「分からない。だから、見る」
次に、森を指す。
「見たら、決める」
カイルが低く笑った。
「それを面倒と言うんだ」
リナが訳す。
理人はうなずいた。
「面倒。でも、死ぬより安い」
リナが訳すと、場が少し静かになった。
青年は言い返しかけた。
だが、カイルがその青年を見た。
それだけで、青年は口を閉じた。
カイルは壁にもたれたまま、低く言う。
「森は、面倒を嫌う奴から持っていく」
リナが訳す。
理人は、その言い方を完全には理解できなかった。
だが、意味は分かった。
面倒を避けた結果、人が消える。
それを、この男は見たことがあるのだろう。
(十一)撤退条件
セリアは依頼票に印をつけた。
完全な変更ではない。
危険度も、まだ低いまま。
だが、確認が必要な依頼として、いったん脇に置かれた。
ミナは少しだけ息を吐いた。
青年たちは不満そうだった。
カイルは壁にもたれたまま、理人を見ていた。
「紙だけで森は歩けないぞ」
リナが訳す。
理人はうなずいた。
その通りだ。
紙だけでは歩けない。
だが、紙がなければ、何を見落としたかも分からない。
理人は、依頼票の端を指した。
「行くなら」
リナが訳す。
理人は次に、森を指した。
それから、町へ戻るしぐさをした。
「戻る、条件」
リナは少し考えた。
そして、現地語で言い直した。
「どこまで行ったら戻るか。何を見たら戻るか。先に決める」
カイルが、今度ははっきり笑った。
馬鹿にした笑いではない。
少し苦い笑いだった。
「撤退条件か」
リナが訳す。
理人はその言葉を繰り返した。
「撤退条件」
青年の一人が鼻で笑った。
逃げる条件を先に決めるのか。
そう言ったらしい。
理人は、笑わなかった。
セリアも笑わなかった。
ミナも笑わなかった。
カイルだけが、壁にもたれたまま、低く言った。
「笑う奴から死ぬぞ」
リナが、その言葉を訳す前に、理人は意味を理解した気がした。
ギルドの掲示板には、まだ多くの依頼票が並んでいる。
その一枚一枚が、誰かを外へ連れていく。
紙は必要だ。
だが、紙だけでは足りない。
敵の名前だけでは足りない。
危険度の印だけでも足りない。
行くなら、どこで戻るのか。
何を見たら引き返すのか。
それを決めなければ、低危険度という言葉は、ただの願望になる。
理人は、脇に置かれたゴブリン討伐の依頼票を見た。
初心者可。危険度低。
その横に、小さな確認印が増えている。
まだ弱い。
だが、空白よりはましだった。
(十二)ログ
ログ
分類:維持
条件分岐:未反映
不確定要素:増加
再照合:未完了
注記:
低位分類への集約を確認。
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