
一緒にお散歩してる
うちの人間と散歩をしていた。
正確には、うちの人間が歩いている道を、シジミも同じ方向へ進んでいただけである。
人間は猫が少し後ろを歩いていると、
「一緒にお散歩してる」
と喜ぶ。
だが、帰る場所が同じなら、進む方向も同じになる。
それだけのことだ。
うちの人間は、近所を歩くための動きやすい服を着ていた。
栗色の髪を低い位置で一つにまとめ、片手には小さな袋を持っている。
袋の中には、家で使うものがいくつか入っていた。
食べ物ではない。
少なくとも、シジミが興味を持つような匂いはしなかった。
人間は、何も食べられないものを買うためにも外へ出る。
猫には必要のないものまで必要だと思っているらしい。
その日は風が弱く、道も暖かかった。
塀の上には日が当たっている。
庭からは土と草の匂いがする。
少し離れたところで、鳥が鳴いていた。
散歩には悪くない日である。
細い道を曲がると、前から犬が歩いてきた。
以前にも会った犬だった。
大きさは、シジミよりずっと大きい。
体はよく動く。
尻尾は絶えず左右へ振られている。
歩いているというより、飼い主の周りを行ったり来たりしていた。
首から伸びた紐でつながれているため、遠くへは行けない。
それでも、少しでも多く動こうとしている。
犬は、止まっていることが苦手である。
立っていても足踏みする。
座っていても尻尾を振る。
誰かを見つければ立ち上がる。
何もなくても地面の匂いを嗅ぐ。
猫なら、何もする必要がないときは何もしない。
犬は何もすることがなくても、何かを探して動く。
ずいぶん忙しい生き物である。
威嚇ではない
犬はシジミに気づいた。
耳が立つ。
目が大きくなる。
前足が一歩出る。
尻尾の動きがさらに速くなった。
そして、大きな声で鳴いた。
「遊ぼう!」
続けて鳴く。
「走ろう!」
いつもどおりである。
以前会ったときも、同じことを言っていた。
シジミを見るなり、
「遊ぼう!」
「一緒に走ろう!」
と誘ってきた。
今回も何も変わっていない。
少し声が大きく、体が落ち着かないだけである。
犬はさらに前へ出ようとした。
だが、紐が張る。
飼い主の人間が、慌てて紐を引いた。
「こら! また小さい猫ちゃんを威嚇して!」
威嚇はされていない。
犬は遊びに誘っているだけである。
声が大きい。
体も大きい。
動きも激しい。
だが、言っていることは、
「遊ぼう」
「走ろう」
それだけだ。
犬が吠えると、人間はすぐに怒っていると思う。
声が大きければ怒り。
歯が見えれば威嚇。
勢いよく近づけば襲うつもり。
人間は音と見た目だけで判断する。
その犬は、耳を立てている。
尻尾を振っている。
前足を少し低くしている。
攻撃する姿勢ではない。
遊ぶときの姿勢である。
だが、飼い主には分からないらしい。
犬がもう一度鳴く。
「遊ぼう!」
飼い主は紐を短く持ち直した。
「駄目でしょ! 怖がってるじゃない!」
怖がっていない。
シジミは道の端に座り、犬を見ていただけである。
逃げてもいない。
耳を伏せてもいない。
毛を逆立ててもいない。
尻尾も膨らんでいない。
これで、どこを見れば怖がっているように見えるのだろう。
もしかすると、人間は犬が大きな声を出している場面を見た時点で、猫は怖がっているはずだと決めるのかもしれない。
そのあとで猫の様子を見る。
実際に怖がっているかどうかを確かめるのではない。
自分が決めたとおりに見える部分を探す。
シジミが動かずにいる。
怖くて固まっている。
シジミが少し後ろへ下がる。
逃げようとしている。
シジミが犬を見る。
警戒している。
どのような行動をしても、怖がっていることにできる。
人間の考えは便利である。
一度決めれば、何を見ても正しいことになる。
怖がっていることにできる
うちの人間が、シジミの横へ少し近づいた。
「大丈夫?」
何がだろう。
シジミは何も困っていない。
うちの人間は、犬とシジミを交互に見ている。
どうやら、こちらも犬がシジミを威嚇していると思っているらしい。
犬の飼い主が、さらに言った。
「自分より弱いと思ったら吠えるなんて」
たぶん、そうではない。
犬はシジミを弱いと思って吠えているわけではない。
一緒に走れそうな相手を見つけたと思っている。
以前会ったことも覚えているらしい。
犬はシジミへ向かって鳴いた。
「前も会った!」
「今日は走れる?」
覚えていた。
猫に比べると少し騒がしいが、記憶は悪くない。
飼い主は、その声を聞いてさらに紐を引いた。
「駄目! 猫ちゃんに意地悪しないの!」
意地悪もしていない。
犬は遊びたいだけである。
ただし、自分の体の大きさや声の大きさを理解していないところはある。
同じ勢いで猫へ近づけば、普通は警戒される。
犬同士なら通じる動きも、猫にはうるさすぎる。
だが、それは配慮が足りないのであって、弱い相手を選んでいじめているのではない。
人間は結果から理由を作る。
大きな犬が小さな猫へ吠えた。
ならば、弱い相手を威嚇したのだろう。
本当に何を言っているかは聞かない。
犬の姿勢も細かく見ない。
猫の反応も確認しない。
大きい者が小さい者へ声を出した。
それだけで、悪い犬が小さな猫を怖がらせている話が完成する。
犬は一歩右へ動いた。
シジミも顔を右へ向ける。
犬は一歩左へ動いた。
シジミも視線だけ左へ動かす。
犬は、これを遊びが始まった合図だと思ったらしい。
「やる?」
「走る?」
まだ走らない。
そもそも、シジミは犬と走るつもりはない。
犬の走り方は直線的すぎる。
勢いがある。
止まるのも遅い。
猫は狭いところを選び、急に向きを変え、高い場所へ移る。
犬と猫では、走る目的も方法も違う。
一緒に走ったところで、お互いに楽しいとは限らない。
だが、犬はそんなことを考えていない。
走れば楽しい。
誰かと走ればもっと楽しい。
目の前に猫がいる。
だから誘う。
実に単純である。
シジミは嫌いではない。
ただ、少しうるさい。
犬の飼い主は、うちの人間へ申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。この子、猫を見るといつも吠えちゃって」
うちの人間も、軽く頭を下げた。
「大丈夫です。シジミも慣れてるので」
何に慣れていると思っているのだろう。
威嚇されることに慣れているわけではない。
犬が何を言っているか知っているだけだ。
慣れる必要もない。
シジミっていうの?
犬は再び尻尾を振った。
「シジミっていうの?」
どうやら、うちの人間の言葉から名前を聞き取ったらしい。
犬は人間の言葉を、猫より少し多く覚えていることがある。
いつも近くで人間の声を聞き、人間の指示で動くからだろう。
もっとも、文章すべてを理解しているわけではない。
名前。
待て。
行く。
駄目。
散歩。
食事。
遊ぶ。
その程度である。
犬は名前を知ったことがうれしいらしい。
「シジミ!」
「遊ぼう!」
名前を知ったからといって、急に親しくなったわけではない。
だが、犬はそう思っているようだった。
飼い主が犬の首元へ手を伸ばす。
「もう行くよ」
犬は動かない。
「まだ!」
「走る!」
飼い主が紐を引く。
犬は前へ出ようとする。
紐が強く張る。
飼い主は片手で袋を持ち替え、もう片方の手で紐を握り直した。
犬はその間も、左右へ動いている。
落ち着きがない。
飼い主が、
「ほら、行くよ」
と言いながら一歩下がった。
紐が落ちた
そのときだった。
持ち替えたばかりの紐が、飼い主の手から滑り落ちた。
紐の端が地面へ落ちる。
犬の動きを止めていたものがなくなった。
犬は、一瞬だけ動きを止めた。
自由になったことを確かめたらしい。
次の瞬間、勢いよく走り出した。
「遊ぼう!」
飼い主が声を上げる。
「駄目よ!」
犬は止まらない。
「走ろう!」
飼い主が追いかける。
「猫ちゃん、逃げて!」
逃げる理由がない。
犬はシジミを捕まえようとしているわけではない。
噛もうとしているわけでもない。
ただ、一緒に走るつもりで近づいている。
だが、確かにうるさい。
足音が大きい。
声も大きい。
勢いもありすぎる。
近づかれて、そのまま道の上で相手をする必要はない。
シジミは立ち上がった。
道の横には、低い壁がある。
人間の腰ほどの高さだ。
猫なら簡単に上がれる。
シジミは一度だけ足元を確かめ、壁の上へ跳んだ。
前足をかける。
後ろ足で地面を蹴る。
そのまま体を引き上げる。
特に急ぐ必要もなかった。
犬が目の前まで来る前に、十分間に合う。
シジミが壁の上へ移動すると、犬はその下で止まった。
顔を上げる。
尻尾を振る。
「上に行った!」
「降りて!」
「走ろう!」
シジミは壁の上から犬を見下ろした。
降りるつもりはない。
犬の遊び方は騒がしすぎる。
飼い主が、地面へ落ちた紐の端を追いかけてきた。
「駄目! もう!」
紐を踏み、ようやく犬を止める。
それから端を拾い上げた。
犬は、まだシジミへ向かって前足を上げている。
「遊ぼう!」
飼い主は犬の体を引き寄せた。
「猫ちゃんを追いかけないの!」
追いかけたのは事実である。
だが、追い払うためではない。
遊ぶためだ。
人間は追いかける行動を見ると、すぐに捕まえようとしていると思う。
猫が虫を追えば、捕まえるため。
犬が猫を追えば、襲うため。
だが、犬は仲間同士でも追いかける。
追う。
追われる。
途中で役割を変える。
それ自体が遊びである。
犬はシジミにも、それを求めている。
もっとも、シジミは求めていない。
そこは別の話だ。
逃げたのではない
うちの人間が壁の下まで来た。
「シジミ、大丈夫?」
だから、何もされていない。
少し高い場所へ移動しただけである。
うちの人間は心配そうにシジミを見上げた。
「怖かったね」
怖くない。
うるさかっただけである。
人間は、猫が高い場所へ逃げれば、怖かったと考える。
だが、高い場所へ移動する理由は一つではない。
下より静か。
周囲が見える。
犬の顔が近くに来ない。
急に踏まれる心配もない。
相手を観察しやすい。
道をふさがない。
いくつも理由がある。
その中に、恐怖が必ず含まれるわけではない。
人間は猫の行動を、一つの感情へまとめたがる。
逃げた。
怖かった。
鳴いた。
寂しかった。
近づいた。
甘えたかった。
離れた。
機嫌が悪い。
猫にも、もっと細かな判断がある。
今いる場所より、あちらのほうがよい。
それだけで動くことも多い。
だが、人間は感情の話にしたほうが分かりやすいらしい。
犬の飼い主は、何度も頭を下げた。
「本当にすみません。怖がらせちゃって」
うちの人間が答える。
「いえ、大丈夫です。上に逃げられたので」
逃げたのではない。
移動したのである。
シジミは壁の上で座り直した。
犬はまだ下から見上げている。
「高い!」
「そこ楽しい?」
「オレも行く!」
無理である。
犬は壁へ前足をかけた。
だが、体を持ち上げることはできない。
後ろ足で少し跳ぶ。
前足が壁へ当たる。
すぐに地面へ戻る。
「行けない!」
知っている。
犬の体は大きいが、高いところへ上がることには向いていない。
脚の使い方も違う。
爪も、猫のようには使えない。
犬はもう一度跳ぼうとした。
飼い主が紐を引く。
「もうやめなさい!」
犬は振り返った。
「なんで?」
理由が分かっていない。
シジミへ危害を加えるつもりがないため、自分が叱られている理由を理解できないのだろう。
犬は遊びに誘った。
相手が高い場所へ行った。
自分も行こうとした。
それだけである。
だが、飼い主の中では違う。
弱い猫を威嚇した。
逃げる猫を追いかけた。
壁の上まで追い詰めた。
悪い犬を叱らなければならない。
一つ一つの行動は同じでも、意味がまるで違っている。
犬は猫の言葉を完全には理解しない。
猫も犬の言葉をすべて理解するわけではない。
それでも、うちの人間たちよりは分かっている。
犬が何を言っているか。
耳がどこを向いているか。
尻尾がどう動いているか。
どのように足を運んでいるか。
鳴き声だけではなく、体全体を見る。
人間は言葉を多く持っている。
そのため、動物の行動にも自分たちの言葉で理由をつける。
威嚇。
弱い者いじめ。
怖がっている。
かわいそう。
一度名前をつけると、もう別の意味を考えない。
遊ばないの?
犬の飼い主は、犬の頭を軽く押さえた。
「猫ちゃんに謝りなさい」
犬はシジミを見上げた。
「遊ばないの?」
謝っていない。
そもそも、自分が何を悪いこととして叱られているのか分かっていない。
犬はただ遊びたかった。
だが、相手の都合を考えずに近づいたことについては、少し反省してもよい。
犬は声も体も大きい。
遊ぶつもりでも、相手が同じように思っているとは限らない。
その点を分からせるなら、
「嫌がっているから近づくな」
と教えればよい。
だが、人間は、
「小さい猫をいじめるな」
と教える。
犬が実際にしたこととは違う。
間違った理由で叱られても、次に何を変えればよいか分からないだろう。
犬は紐を短く持たれ、飼い主の足元へ戻された。
それでも、顔だけはシジミへ向けている。
「次は走る?」
シジミは答えなかった。
次も走らない。
犬がもう少し静かになれば、同じ場所にいるくらいはよいかもしれない。
だが、犬は返事がないことを断りだと思っていないらしい。
「今は駄目?」
「あとで?」
実に前向きである。
人間なら、返事をされなければ落ち込むことがある。
嫌われた。
避けられた。
何か悪いことをした。
まだ何も言われていないのに、悪い理由をいくつも考える。
犬は違う。
今は遊ばない。
なら、あとで遊ぶかもしれない。
都合のよい考え方だが、落ち込まないためには有効である。
飼い主は犬を引きながら、再び歩き始めた。
「ほら、行くよ」
犬は何度も振り返る。
「またね!」
「次は走ろう!」
飼い主には、まだシジミを狙っているように見えるらしい。
紐をさらに短くした。
「もう猫ちゃん見ないの」
見るくらいはよいのではないだろうか。
犬は首だけを後ろへ向けたまま、飼い主に引かれていった。
少し離れても、声が聞こえる。
「次は遊ぶ!」
いつもどおりである。
降りておいで
うちの人間は、壁の上にいるシジミへ両手を伸ばした。
「もう大丈夫だよ。降りておいで」
最初から大丈夫である。
それに、降りるかどうかはシジミが決める。
壁の上は日が当たっている。
道より暖かい。
見晴らしもよい。
犬が去ったからといって、すぐに降りる必要はない。
シジミが動かずにいると、うちの人間は少し心配そうな顔をした。
「怖くて降りられないの?」
違う。
居心地がよいのである。
シジミは壁の上で前足を揃えた。
うちの人間は、さらに手を伸ばす。
「抱っこしようか?」
必要ない。
自分で上がった場所なら、自分で降りられる。
うちの人間は猫が高い場所へ行くと、降りられなくなったのではないかと心配する。
だが、上がる前に降りる場所も確認している。
猫は先のことを考えて跳ぶ。
人間のように、買ったあとで置き場所に困ったりはしない。
シジミはしばらく壁の上を歩いた。
少し先に、地面へ近い場所がある。
そこから降りる。
うちの人間の前へ戻る。
うちの人間は、安心したように息を吐いた。
「よかった。怪我してないね」
怪我をするようなことは、何も起きていない。
犬は触れてもいない。
シジミが壁へ跳んだだけである。
人間の頭の中では、大きな犬に襲われかけた小さな猫が、必死に壁へ逃げたことになっているらしい。
実際には、遊びに誘う声の大きな犬を避け、少し静かな高い場所へ移った。
それだけだ。
うちの人間は、シジミの背中を撫でた。
「びっくりしたね」
びっくりもしていない。
犬が紐から離れたとき、走ってくるとは予想できた。
以前から、走りたがっていた。
犬の動きを見ていれば分かる。
驚いたのは人間たちだけである。
犬の飼い主は紐を落としたことに驚く。
うちの人間は犬が走ったことに驚く。
二人とも、犬が何をしたがっていたかを見ていなかった。
遊ぼう。
走ろう。
犬は最初から、何度もそう言っていた。
それを威嚇だと思い込んだ。
そして紐が離れ、犬が本当に走り出すと、猫を襲うと思った。
人間は、相手の言葉を聞かない。
聞かないまま理由を決める。
その理由に合う未来を想像し、自分で驚く。
まるで聞いていない
うちの人間は歩き始めた。
シジミも少しあとから続く。
曲がり角の向こうから、犬の声が小さく聞こえた。
「次は走ろう!」
まだ言っている。
シジミは犬と走るつもりはない。
だが、弱いと思われて吠えられたわけでもない。
威嚇されたわけでもない。
かわいそうな目にも遭っていない。
ただ、少し騒がしい知り合いに、しつこく遊びへ誘われただけである。
うちの人間は隣を歩くシジミを見下ろした。
「犬、怖かったでしょ?」
シジミは短く鳴いた。
違う。
うるさかった。
うちの人間は、うれしそうにうなずいた。
「そっか。怖かったね」
まるで聞いていない。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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