非正規転生~転生したけど最弱スキルすらもらってない~ 第7話 差分は犯人を知っている

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非正規転生~転生したけど最弱スキルすらもらってない~ 第7話 差分は犯人を知っている 人物相関図

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。

(一)軽い桶

翌朝、山科理人が水桶を運ぼうとした時だった。
倉庫の入口近くにいた片足を少しかばう男が、黙って桶を一つ指した。
理人は一瞬、意味が分からなかった。
男は、もう一度、別の桶を指す。
そちらの方が軽い。

理人は、軽い方の桶を持った。
男は何も言わない。
礼を言うべきか迷ったが、理人の現地語ではまだ足りなかった。
だから、軽く頭を下げる。
男は短く鼻を鳴らしただけだった。

それでも、昨日までなら、桶の場所を教えられることすらなかった。
理人は、そう理解した。

入口の方では、リナがその様子を見ていた。
少しだけ、ほっとした顔をしている。
理人はその意味を知らない。
その男が、リナの父だということも。
ただ、昨日の出来事が完全に無駄ではなかったことだけは分かった。

理人は桶を運びながら、倉庫の中を見た。
空気はまだ固い。
倉庫番は理人を見ると、眉間にしわを寄せる。
荷運びの男たちも、全員が好意的になったわけではない。

昨日、理人はリナを守った。
だが、それで倉庫の問題が消えたわけではない。
飼料袋の数は合わない。
薬草包みも足りない。
湿った袋が混ざっている。

荷役獣は一部の袋を嫌がる。
犬は薬草箱の前で吠えた。

記録には、点の印と、横線の印と、丸で囲んだ小さな印が残っている。
たぶん。不明。後で確認。

理人は、水桶を置いた。
信用は、少し増えたのかもしれない。
だが、問題はまだそこにあった。

(二)責めるためではなく

リナは、木片に触るのを少しためらった。
昨日、それは彼女を責める道具になりかけた。
朝の印。夕の印。袋の数。点の印。横線の印。丸で囲んだ小さな印。リナの耳の印。

どれも、リナが真面目に書いたものだ。
それなのに、昨日はそのすべてが疑いの材料になった。

理人は木片を床に置いた。
リナの方へ押しつけない。
まず、自分の印を指す。
次に、リナの印を指す。
それから、首を横に振る。

責めない。
そう伝えたかった。

リナは、理人を見た。
理人は袋の絵を指す。
次に、薬草箱の絵を指す。
そして、場所を示す印を指した。

「誰。まだ」

片言だった。
リナは首を傾げる。
理人は首を横に振る。

「誰、先。違う」

誰が悪いかを先に決めるな。
理人は、場所の印を指した。

「どこ」

次に、朝と夕の印を指す。

「いつ」

それから、差分の印を指す。

「変わる」

リナは、じっと見ていた。
完全に分かったわけではない。
だが、昨日のように、記録が自分へ向けられているわけではないことは分かったらしい。
彼女は、ゆっくり木片を手に取った。
指先が少し震えている。

理人はそれを見たが、何も言わなかった。
怖いのは当然だ。
一度、責める道具になりかけたものを、もう一度持つ。
それだけで、十分に勇気がいる。
理人は、木片の端を軽く叩いた。

「見る」

リナが顔を上げる。
理人は繰り返した。

「怒る、先。違う。見る、先」

リナは少し考えた。
それから、小さくうなずいた。

(三)南棚と北棚

理人は、南棚と北棚の印を並べた。
南棚。北棚。

その下に、朝の印と夕の印を置く。
リナは小石を数えた。
以前より少し速くなっている。

南棚、朝。九。北棚、朝。七。
昼、南棚から三つ移す。
理人は石を三つ動かす。
夕。南棚。五。北棚。九になるはず。

リナはそこで手を止めた。
木片の記録では、北棚の夕の数が八になっている日がある。
理人は、差分の石を一つ置いた。
一つ。

次に、北棚の古い袋に付けた湿りの印を指す。
リナがうなずく。
三番の荷役獣が嫌がった印。
リナがさらにうなずく。

数の差分。湿り。荷役獣の反応。
同じ棚に寄っている。

理人は、北棚の印を指した。

「ここ」

次に、夕の印を指した。

「この時」

リナは小さく息を呑んだ。
誰が悪いかではない。
まず、どこで変わるか。
理人が見ていたのは、それだった。

理人は、石をもう一度並べ直した。
朝。昼。夕。南棚。北棚。

袋が動く前。
袋が動いた後。
同じ袋の数でも、見る時点が違えば意味が変わる。
同じ一袋でも、大袋と小袋と使いかけでは意味が違う。
同じ北棚でも、新しい袋と古い袋では状態が違う。

理人は北棚の古い袋を見た。
湿っているように見える袋。匂いが違う袋。荷役獣が嫌がった袋。

そこに差分の石が集まっている。
犯人の名前は、まだ出ていない。
だが、見るべき場所は少し絞られてきた。

(四)薬草箱の一包み

次に、薬草箱。
リナは、昨日より慎重に木片を置いた。
夜前。
薬草包み、六。
犬が吠えた。

理由、不明。後で確認。
朝。
薬草包み、五。
理人は石を一つ横へ出す。
差分、一。

倉庫番が遠くからこちらを見ている。
面白くなさそうな顔だった。
理人は、薬草包みを一つ取ろうとして、すぐに手を止めた。
勝手に触るのはまずい。
リナを見る。

リナが代わりに包みを二つ取り出す。
大きさが違う。匂いも違う。結び目も違う。

理人は、その二つを見比べた。
数としては、どちらも一。
だが、中身は違う。
用途も違うかもしれない。
リナはそれぞれに別の呼び名を言った。

理人はうなずいた。
薬草包み、一。
その記録だけでは足りない。
何の包みが一つ減ったのか。
そこが分からなければ、原因も分からない。

理人は木片に新しい印を描いた。
包みの種類。

リナは少し困った顔をした。
分けるのが面倒なのではない。
分け方が多すぎるのだ。
理人は小さく息を吐いた。

「データは、まだ汚いな」

通じない。
だが、リナは理人が困っていることだけは分かったらしい。
少しだけ笑った。
理人も、少しだけ肩の力を抜いた。

薬草包みの問題は、飼料袋よりさらに厄介だった。
個数だけなら、五と六。
差分は一。

だが、その一が何なのかが分からない。
魔物除けに使うものなのか。
傷に使うものなのか。
匂いの強いものなのか。
古くなったものなのか。

同じ一包みとして扱っている限り、答えは見えない。
理人は、包みの種類を示す印を三つ描いた。
正確ではない。
だが、全部を同じ印にするよりはましだった。

(五)誰がやった

差分の石が二つ並んだ時、倉庫の空気が変わった。
飼料袋。薬草包み。
どちらも、何かが合っていない。

それが見えた瞬間、人の目は自然に人を探す。
誰が触った。
誰が運んだ。
誰が鍵を持っていた。
誰が最後に見た。

誰が一人で倉庫にいた。
倉庫番が荷運びの男を見る。
荷運びの男が倉庫番を見る。
別の男がリナを見る。
そして、誰かが理人を見た。

当然だ。
よそ者。
言葉の怪しい男。
石を並べ、木片に印をつけ、倉庫を騒がせている。

理人は、その視線を受け止めた。
疑われること自体には驚かなかった。
信用が足りない。
それは知っている。

ただ、このままではまた誰か一人に責任が寄っていく。
昨日はリナだった。
今日は倉庫番かもしれない。
荷運びの男かもしれない。
理人自身かもしれない。

誰でもいい。
一人を犯人にすれば、場は一瞬楽になる。
だが、差分の出方は見えなくなる。

理人は床の石を見た。
差分は一つではない。
場所も一つではない。
時間も一つではない。
飼料袋と薬草包みでは、起きていることの種類も違う。

それを一人の名前で片づけるのは、まだ早い。
早すぎる。

理人は、石を一つ指で押さえた。
誰かのせいにする前に、まだ見るものがある。

(六)誰、まだ

理人は、床の石を指した。
次に、周囲の大人たちを見た。

「誰。まだ」

倉庫番が眉をひそめる。
理人はもう一度、首を横に振った。

「誰、まだ。早い」

言葉は粗い。
だが、リナが横で小さく補った。
理人の言葉を、リナが現地語で言い直す。
完璧ではない。
けれど、理人よりはずっと通じる。

リナは、南棚と北棚の印を指した。
それから、朝と夕の印を指す。
倉庫の大人たちへ向けて、少し震える声で言った。
この人は、誰が悪いかを先に言っていない。
どこで数が変わるかを見ている。

いつ変わるかを見ている。
そんな意味のことを、リナは言った。

理人は驚いた。
リナが自分のやり方を、説明している。
完全に理解しているわけではないだろう。
それでも、彼女は昨日守られた記録を、今日は自分の言葉で守ろうとしていた。

倉庫番は不機嫌そうだった。
だが、荷運びの男の一人は、少し考える顔になった。
誰かを責めるより先に、どこで変わったかを見る。
その考えが、わずかに場へ残った。

理人はリナを見た。
リナはまだ緊張している。
声も小さい。
だが、昨日のように下を向いているだけではなかった。
木片を胸に抱えるのではなく、床に置き、皆が見えるようにしている。

それは、小さな変化だった。

(七)リナの観測

リナは三番の荷役獣を指した。
次に、北棚の古い袋を指す。
それから、自分の鼻を押さえ、荷役獣が顔をそむけるしぐさをした。
大人たちの何人かが、北棚を見た。

リナは続けた。
三番の子は、いつもの袋なら食べる。
でも、北棚の古い袋だと嫌がる。
昨日だけではない。
前にも少しあった。

たぶん、湿りか匂いが違う。
そういうことを、リナは言った。

「たぶん」のところで、彼女の声が少し弱くなった。
昨日、それは責められた言葉だった。
だが、理人はうなずいた。
たぶんでいい。
確定していないものは、確定として言わなくていい。

リナは、少しだけ背筋を伸ばした。

「たぶん」

今度は、昨日よりはっきり言った。
北棚の古い袋。三番の荷役獣。嫌がる。原因、不明。後で確認。

それはもう、リナだけの不安ではなかった。
場に出された観測だった。

荷運びの男の一人が、北棚の袋へ近づいた。
袋を持ち上げる。
少し顔をしかめた。

理人はその表情を見た。
あの木片には、同じような記録がある。
湿った袋を持つ時だけ、荷運びの男が顔をしかめる。
リナが見ていたものだ。
理人は木片を指す。

リナも同じ箇所を見た。
荷運びの男は、気まずそうに袋を置いた。
何かを言った。
理人には全部は分からない。
だが、嘲笑ではなかった。

たぶん、これは確かに匂う。
そんな言い方だった。

リナの目が、少しだけ大きくなった。
自分の観測が、他の誰かにも見えた。
それは、リナにとって大きかった。

(八)差分の場所

石を並べ直すと、少しだけ見えた。
飼料袋の差分は、朝には少ない。
昼の作業中でも、まだ大きくない。
夕方の積み替え後に出る。
北棚の古い袋に、湿りや嫌がりの印が集まっている。

薬草包みは、夜前には六。
朝には五。
ただし、包みの種類が混ざっている。
同じ一包みとして数えていいのか、まだ分からない。

理人は、差分の石を一箇所に集めなかった。
あえて、場所ごとに置いた。
南棚。北棚。薬草箱。

そして、時間ごとに置いた。
朝。昼。夕。夜前。

それだけで、見え方が変わる。
差分は、誰か一人に向かってまっすぐ伸びているわけではなかった。
いくつかの場所で、少しずつ歪んでいる。
理人は小さく言った。

「犯人は、まだ分からない」

リナが聞き取れるように、ゆっくり言い直す。

「でも、場所は分かる」

リナはその言葉を、周囲へ伝えた。
誰がやったかは、まだ分からない。
でも、どこでおかしくなるかは見え始めている。

その言葉に、荷運びの男の一人が小さくうなずいた。
倉庫番は顔をしかめたままだった。
それでも、木片を奪おうとはしない。
石を蹴散らそうともしない。
理人は、それだけでも十分だと思った。

記録は、まだ弱い。
だが、場から消されてはいない。
昨日よりは進んでいる。

(九)全部ではなく、そこだけ

理人は、北棚の古い袋を指した。
次に、荷役獣を指す。
首を横に振る。
直接出さない。

リナがそれを言い直す。
北棚の古い袋は、いったん分ける。
湿っているか、匂いが違うかを見てから使う。

次に、理人は大袋と小袋を並べた。
それぞれに別の石を置く。
同じ一袋として数えない。

倉庫番が不満そうに何かを言った。
面倒だ。
たぶん、そういう意味だった。
理人はうなずいた。
面倒なのは分かる。

だから、全部ではなく、差分が出ている場所だけ。
北棚。夕方。薬草箱。
そこだけ見る。

リナがまた説明する。
全部を変えるのではない。
変わっているところだけ見る。
その言い方は、理人よりずっと柔らかかった。

荷運びの男の一人が口を開いた。
夕方の積み替え後なら、自分も見られる。
そんな意味のことを言ったらしい。
理人には全部は分からなかったが、リナの顔が少し明るくなった。
記録者が一人でなければ、責任も一人に寄らない。

それは、理人が欲しかった最初の変化だった。
理人は薬草箱を指した。
薬草包み。種類別。
使ったら、石を置く。
犬が吠えたら、理由を決めつけない。

後で確認。
リナがその順番を説明する。
倉庫番は腕を組んでいる。
納得はしていない。
だが、止めもしない。

それは、今の理人たちにとって十分だった。

(十)少しだけ気をつける

翌日から、変な差分は少し減った。
劇的に、ではない。
誰かが謝ったわけでもない。
盗んだ者が名乗り出たわけでもない。
倉庫番が急に理人を認めたわけでもない。

ただ、少しずつ変わった。
北棚の古い袋は、端に寄せられた。
湿りの印がある袋は、荷役獣に直接出されなくなった。
大袋と小袋は、同じ山に積まれなくなった。
使いかけの袋は、口を縛って別に置かれるようになった。

薬草包みも、少しだけ分けられた。
匂いの強いもの。魔物除けに使うもの。傷に使うもの。古いもの。

リナが全部を分けたわけではない。
荷運びの男の一人が、気を利かせて置き直した。
厩舎の片足の男が、古い袋を置く場所を少し空けた。
別の作業者が、使いかけの袋に小石を一つ置いた。

誰かに命じられたわけではない。
ただ、見られていると分かったから。
あとで数え直すと分かったから。
曖昧なまま流すと、また面倒になると分かったから。
人は、少しだけ気をつけるようになった。

その結果、変な差分は一気に減った。
完全には消えない。
だが、昨日までのように、朝と夕で理由もなく数が変わることは減った。

理人は、その変化を見ていた。
間違って管理していた者もいただろう。
急ぎの作業で、棚を移したことを忘れていた者もいただろう。
湿った袋を嫌がって、勝手に別の袋へ差し替えた者もいたかもしれない。
あるいは、本当に少しだけ持ち出していた者もいたかもしれない。

だが、誰が犯人なのかは分からない。
そもそも、犯人と呼べる一人がいたのかも分からない。
それでも、状況は良くなった。
理人は、そこに意味があると思った。

犯人を捕まえたからではない。
責める相手を決めたからでもない。
ただ、差分が見えるようになった。
だから、人が少し気をつけるようになった。
それだけで、現場は少し変わる。

(十一)邪魔されなくなる

倉庫番は、理人を好きになったわけではなかった。
それは明らかだった。
理人が近づくと、今でも眉間にしわが寄る。
木片を見る目も、まだ面白くなさそうだった。
リナが印をつけていると、何か言いたげに口を開きかけることもある。

だが、前ほど強くは止めない。
北棚の古い袋を分けた日、荷役獣の食べ残しは減った。
薬草包みを種類ごとに置いた翌朝、数の食い違いも減った。
夕方の積み替え後に、荷運びの男とリナが一緒に数えた日は、翌朝の騒ぎが起きなかった。

倉庫番も、それを見ていた。
認めたくはない。
だが、何かが良くなっていることは分かる。
その顔だった。

理人は、倉庫番と目が合った。
倉庫番はすぐに視線をそらした。
礼はない。謝罪もない。協力するという言葉もない。

ただ、その日の夕方、倉庫番はリナが北棚の前に立つのを止めなかった。
それだけだった。
理人は、それで十分だと思った。

信用は、拍手で増えるとは限らない。
邪魔されなくなる。
それも、かなり大きな前進だった。

一方で、理人への見方は二つに割れた。
面倒な男。
そう見る者がいた。
言葉も怪しい。
帳簿も読めない。

それなのに、袋を分けろ、時間を見ろ、石を置けと言う。
手間を増やされた者からすれば、好ましい相手ではない。
それは理人にも分かっていた。

一方で、少し違う目を向ける者もいた。
荷運びの男の一人は、北棚の袋を出す前に匂いを嗅いだ。
別の男は、薬草包みを種類別に置き直した。
厩舎の入口にいた片足の男は、何も言わないまま、古い袋を置く場所を少し空けた。

理人はその男を見た。
男は視線を合わせなかった。
ただ、空けた場所は、北棚の古い袋を分けるにはちょうどよかった。
理人は軽く頭を下げた。
男は、また鼻を鳴らしただけだった。

リナは、その様子を見て、少しだけ口元を緩めた。
理人には、その理由がまだ分からない。

(十二)怒る前に、見る

リナは、木片の印を見ながら、小さく言った。

「誰が悪いか、まだ分からない」

理人は顔を上げた。
リナは言葉を探している。

「でも、ここ。ここで、変わる」

彼女は北棚を指した。
次に、夕方の印を指した。
それから、薬草箱を指した。

「だから、ここを見る」

理人は少しだけ驚いた。
リナは続けた。

「怒る前に、見る」

その言葉は、理人の説明そのものではなかった。
もっと短い。
もっと現場に近い。
もっとリナの言葉だった。
理人は、ゆっくりうなずいた。

「そうだ」

リナは少しだけ笑った。

「差分は、犯人を知ってる?」

理人は一瞬、考えた。
それから、首を横に振る。

「犯人だけじゃない」

リナは首を傾げる。
理人は、木片に置かれた石を指した。

「場所。時間。やり方。全部」

リナは、少し考えてからうなずいた。

「差分は、見たことを覚えてる」

理人は笑いそうになった。
それは、悪くない言い方だった。

差分は、犯人だけを知っているわけではない。
場所も知っている。
時間も知っている。
やり方も知っている。
人が見落としたものを、歪みとして残している。

だから、先に犯人を決めてはいけない。
差分が何を覚えているのか。
まず、それを見る。

理人は、リナの言葉をもう一度頭の中で繰り返した。
差分は、見たことを覚えてる。
たぶん、今のリナにはそれが一番近い。

(十三)ギルドの紙

夕方、荷運びの男が理人の前に一枚の紙を置いた。
紙といっても、理人の知る紙より厚く、繊維が粗い。
そこには、まだ読めない文字が並んでいる。

理人は最初、倉庫の記録かと思った。
だが、違った。
袋の数ではない。
薬草包みの種類でもない。
棚の場所でもない。

欄の形が違う。
行き先。荷の種類。報酬。人数。そして、おそらく危険度。

理人が紙を見ていると、荷運びの男は町の外を指した。
次に、道を示すように手を伸ばす。
それから、腰に下げた短い刃物を叩き、護衛を示すような仕草をした。
理人には、全部は分からない。
リナが間に入った。

「明日、荷車。村へ行く」

理人はうなずいた。
荷運び。それは分かる。
リナは、紙を指した。

「ギルド。護衛の紙」

ギルド。護衛。
理人は紙を見直した。
これは、荷運びのための護衛依頼票だ。
荷運びの男は、紙の一部を指した。
短い印が一つある。

リナがその印を読んだ。

「低い」

危険度が低い。
たぶん、そういう意味だ。
理人は荷運びの男を見た。
男は、その言葉を否定しなかった。
むしろ、一度うなずいた。

前は、それでよかった。
そういう顔だった。
男は、指を一本立てた。
前。
それから、紙の危険度欄を指す。

低い。
リナが男の言葉を聞き取り、少し考えてから理人に言った。

「前は、低い。たぶん、合ってた」

理人は、紙を見る。
前は正しかった。
そこが大事だった。
荷運びの男は、ギルドが最初から間違っていたと言いたいわけではない。
前にこの道を通った時、その危険度はおそらく合っていた。

男は続けて、町の外へ続く道を指した。
今度は、地面を指す。
手を斜めに滑らせる。
崩れる。ぬかるむ。
そういう仕草だった。

リナが訳す。

「でも、雨のあと、道、悪い。荷車、遅い」

荷運びの男は、さらに道の奥を指した。
指を二本立てる。
リナが少し表情を硬くした。

「小さい魔物。最近、二回」

理人は目を細めた。
前は低危険度でよかった。
だが、今は違うかもしれない。
道が悪くなった。
荷車が遅くなる。

小型魔物の目撃が増えた。
遅れれば、夕方に近づく。
夕方になれば、危険は変わる。

理人は、分けられた古い袋と、種類ごとに置かれた薬草包みを見た。
そこは、少しずつ直り始めている。
荷運びの男が指しているのは、そこではない。
倉庫の外。
町の先へ伸びる道。

前に通った時は、低い危険度でよかったのかもしれない。
だが、雨の後で道が悪くなった。
小型魔物を見た者が増えた。
荷車が遅れれば、夕方に近づく。
状況は変わっている。

それなのに、依頼票の印は前と同じままだった。
理人は、ようやく男の不安を理解した。
紙が嘘をついているとは限らない。
ただ、今を見ていない。

理人は、道を指した。
次に、依頼票を指した。

「道、変わる」

それから、危険度の欄を指す。

「紙、同じ」

リナがそれを荷運びの男へ伝える。
男は、短くうなずいた。
強くではない。
やはりそうか、というように。

理人は、倉庫の木片を思い出した。
朝と夕。南棚と北棚。昨日と今日。見たことと、たぶん。不明と、後で確認。

倉庫では、差分を見た。
今度は、道だ。
前に通った時と、今。
紙に書かれた危険度と、荷運びの男が感じている危険。
依頼票と、現場。

理人は小さく言った。

「差分を見てない」

日本語だった。
リナが首を傾げる。
理人は言い直す。

「前。今。違う」

それから依頼票を指した。

「紙、前のまま」

リナは少し考え、それを現地語で荷運びの男へ伝えた。
荷運びの男は、町の中心の方を指した。
ギルド。
理人を見る。
来るか。

そう聞かれているのだと、理人は思った。
リナも理人を見た。

「ギルドで、見る?」

理人は依頼票を見た。
読めない文字。
整っているようで、状況変化が入っていない欄。
前回は正しかったかもしれない危険度。
だが、今の道に合っているかは分からない。

理人は、息を吐いた。
倉庫では、少しだけ話を聞いてもらえるようになった。
だが、ギルドでは違う。
そこでは、また何者でもない。
それでも、この紙を見なかったことにはできない。

理人は依頼票を指した。

「見る」

リナがうなずいた。
荷運びの男も、短くうなずいた。
倉庫の次は、ギルドだった。

(十四)また初回面談

この日、倉庫の問題がすべて解決したわけではなかった。
飼料袋の差分は、まだ残っている。
薬草包みの不足も、原因までは分からない。
倉庫番は、理人を快く思っていない。
誰かが何かを持ち出していたのかどうかも、分からない。

それでも、状況は良くなった。
北棚の古い袋は分けられた。
湿った袋は、荷役獣に直接出されなくなった。
薬草包みは、種類ごとに置かれた。
夕方の積み替え後には、リナだけでなく荷運びの男も数を見ることになった。

変な差分は、一気に減った。
犯人を見つけたからではない。
誰かを罰したからでもない。
見えるようになったからだ。
見えるようになると、人は少しだけ気をつける。

その少しで、現場は変わることがある。
理人は、倉庫の隅に置かれた木片を見る。
耳の印。眼鏡の印。袋。薬草。朝。夕。不明。後で確認。

それはまだ帳簿ではない。
制度でもない。
ただ、差分を一人に押しつけないための小さな仕組みだった。
そして、その小さな仕組みは、少なくとも一つの倉庫を少しだけましにした。

理人は、荷運びの男が置いていった依頼票を見る。
読めない文字。
整っているようで、状況変化が入っていない欄。
前回は正しかったかもしれない危険度。
だが、今の道に合っているかは分からない。

倉庫で得た信用は、倉庫の中でしか通じない。
ギルドへ行けば、また最初からだ。
信用は持ち運べない。
少なくとも、簡単には。

理人はため息をついた。

「また初回面談か」

リナが首を傾げる。
理人は依頼票を指した。

「これ、ネア」

違う。
壊れている。

リナは少しだけ笑った。
そして、理人の言葉を直すように、現地語で言い直した。

「壊れてる、かもしれない」

たぶん。不明。後で確認。
理人は、その言葉に小さくうなずいた。
倉庫の次は、ギルドだった。

(十五)ログ

ログ
差分候補:収束
帰属先:未確定
局所反応:変化

注記:
単一点への帰属要求は継続。


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