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(一)信用は持ち運べない
ギルドでは、山科理人はまた何者でもなかった。
カランタの倉庫で少しだけ信用を得た。
リナが隣にいる。
荷運びの男も、一応は紹介してくれた。
それでも、受付の向こうにいる人間から見れば、理人はただの言葉の怪しい異邦人だった。
倉庫で何をしたかなど、知らない。
木片の記録など、見ていない。
リナを守ったことも、関係ない。
信用は、場所を移るたびに目減りする。
理人は、ギルドの中を見回した。
壁には依頼票が並んでいる。
紙。
木札。
紐で束ねられた古い依頼。
報酬らしき数字。
赤や黒の印。
冒険者たちの声。
倉庫とは違う。
だが、匂いは少し似ていた。
忙しい場所の匂い。
紙があり、人が動き、誰かが何かを判断している場所。
つまり、間違いが溜まる場所だった。
理人は、壁の前で足を止めそうになった。
だが、すぐに思い直す。
読めない。
文字は、まだところどころしか分からない。
印の意味も、すべて分かるわけではない。
ここで分かったふりをすれば、倉庫の記録よりよほど危ない。
リナが隣で、少し緊張した顔をしていた。
倉庫では、リナは木片を持つ側だった。
だが、ここでは違う。
ギルドは、リナにとっても少し遠い場所らしい。
声が多い。
知らない大人が多い。
壁に貼られた紙も多い。
理人は、もう一度受付を見た。
倉庫で得た信用は、ここにはない。
あるのは、よそ者の顔と、怪しい片言だけだった。
(二)荷車と護衛
荷運びの男は、一枚の依頼票を受付へ差し出した。
それから、理人を指す。
受付の女性は眉を寄せた。
当然だ。
理人は冒険者ではない。
ギルド職員でもない。
文字もろくに読めない。
なぜこの男に見せるのか。
受付の女性の目が、そう言っていた。
荷運びの男は、短く説明した。
リナが横で聞き取り、理人へ小さく伝える。
「明日の荷車。村へ行く。護衛、ギルドから出る」
理人はうなずく。
そこまでは聞いている。
リナは続けた。
「前は、低い危険でよかった。でも、今は道が違うかもしれない」
荷運びの男は、町の外へ続く道を指す。
雨の後。
崩れた道。
遅れる荷車。
最近見た小型魔物。
彼はそれを一つずつ、身振りと短い言葉で示した。
そして最後に、依頼票の危険度欄を叩いた。
そこには、前と同じ印がある。
低危険度。
荷運びの男が理人に期待していることは、ようやく分かった。
この紙が、今の道に合っているか。
それを見てほしいのだ。
理人は依頼票を見る。
文字は読めない。
だが、欄の形は見える。
行き先らしき欄。
荷の種類らしき欄。
人数。
報酬。
危険度。
整っている。
倉庫の木片より、ずっときれいだ。
だが、そのきれいさが、逆に危うく見えた。
整った紙は、正しそうに見える。
正しそうに見えるものは、疑われにくい。
理人は、紙の端に置かれた低危険度の印を見た。
前は、それでよかったのかもしれない。
だが、今もそうだとは限らない。
(三)受付の女性
受付の女性は、理人ではなく荷運びの男を見た。
理人に直接話しても、面倒だと判断したのだろう。
正しい判断だった。
彼女は依頼票を指し、何かを言う。
リナが小さく訳した。
「これは、前にも出した依頼。道も、村も、同じ。だから危険も同じ」
理人は依頼票を見る。
なるほど。
前回と同じ道。
前回と同じ村。
前回と同じ荷。
だから、同じ危険度。
処理としては分かる。
前の世界でもよく見た。
前回と同じなら、今回も同じ。
そう扱えば、仕事は速い。
受付の女性は悪意でそうしているわけではない。
むしろ、たくさんの依頼を回すには、そうしなければならないのだろう。
だが、荷運びの男が言いたいのは、そこではない。
前回と同じ依頼。
それは正しい。
だが、前回と同じ状況ではない。
理人は、道を指した。
次に、依頼票を指す。
「前。今。違う」
受付の女性が、理人を見る。
怪しい異邦人を見る目だった。
理人は、もう一度言った。
「道、変わる。紙、同じ」
リナが現地語で補った。
受付の女性は、すぐには返事をしなかった。
受付台の向こうには、ほかにも人が並んでいる。
冒険者らしき若者が、報酬袋を待っている。
別の男が、壁の依頼票を指して何かを尋ねている。
奥の机では、職員が木札を仕分けている。
受付の女性は、忙しい。
忙しい場所で、怪しいよそ者の片言を丁寧に聞く余裕など、普通はない。
それでも彼女は、依頼票を手元から退けなかった。
完全に追い払うほどではない。
だが、信用したわけでもない。
理人は、その中間の空気を感じた。
ここが最初の関門だった。
(四)欠けた欄
理人は依頼票を読めない。
文字はまだ、ところどころしか分からない。
だが、欄は分かる。
上の大きな文字。
おそらく依頼名。
その下に、行き先。
荷の種類。
依頼主。
報酬。
必要人数。
そして端に、危険度らしき印。
整理されている。
一見、倉庫の木片よりずっとましだ。
だが、理人はすぐに違和感を覚えた。
前回との差を書く場所がない。
道の状態を書く欄がない。
最近の魔物目撃を書く欄がない。
雨の後かどうかを書く欄もない。
到着が夕方にずれ込む可能性を書く欄もない。
依頼票は、依頼そのものを記録している。
だが、依頼を取り巻く状況を記録していない。
理人は、依頼票の余白を指した。
「ここ、ない」
受付の女性が眉を寄せる。
理人は道を指す。
「道」
次に、空を指す。
「雨」
それから、指を二本立てる。
リナが補う。
「小さい魔物、二回」
最後に、危険度の印を指す。
「ここ、同じ」
受付の女性は、依頼票を見下ろした。
その顔に、ほんの少しだけ疲れが浮かんだ。
分かっていない顔ではない。
分かっているが、簡単ではない顔だった。
理人はその表情を見て、倉庫番を思い出した。
面倒だ。
たぶん、彼女もそう思っている。
それは、理人にも分かる。
欄を一つ増やせば、確認することが一つ増える。
確認することが一つ増えれば、誰かの仕事が増える。
仕事が増えれば、どこかで詰まる。
それでも、欄がないものは残らない。
残らなければ、前と今の違いは見えない。
(五)前と今
理人は、床に小石を並べたいと思った。
だが、ここは倉庫ではない。
ギルドの床で石を並べ始めれば、今度こそ追い出されるかもしれない。
だから、依頼票の端に指だけを置く。
前。
今。
二つに分ける。
理人はまず、依頼票を指した。
前。
次に、荷運びの男を指す。
今。
それから、道を指す。
変わった。
リナがそれを言葉にした。
「前は、この危険でよかった。でも、今は道が悪い。小さい魔物も見た。だから、同じ紙でいいか分からない」
受付の女性は、荷運びの男を見た。
「目撃は公式報告か」
おそらく、そんなことを言った。
荷運びの男は首を振る。
公式ではない。
通りがかりの者が見た。
荷運び仲間が見た。
犬が騒いだ。
家畜が怯えた。
そんなものは、正式な報告ではない。
受付の女性の言い分も分かる。
噂だけで依頼ランクを上げれば、依頼主と揉める。
報酬も変わる。
受ける冒険者も変わる。
低危険度の依頼を必要としている新人もいる。
何でも高く見積もればいいわけではない。
理人は、そこも理解した。
問題は、ランクを今すぐ上げるかどうかではない。
分からない変化を、分からないまま残す場所がないことだ。
理人は依頼票の危険度欄を指した。
そして首を横に振る。
「上げる。違う」
受付の女性が、少しだけ目を細める。
理人は余白を指す。
「残す」
リナが訳す。
「危険を上げろ、ではないみたい。雨の後。道が悪い。小さい魔物を見た。そういう話を、紙の端に残したい」
受付の女性は、黙った。
荷運びの男も黙っている。
理人は、自分の言葉がどこまで届いているのか分からなかった。
だが、受付の女性の顔から、完全な拒絶は消えていた。
(六)悪意ではない
受付の女性は、依頼票を指した。
次に、掲示板を指す。
そこには、何枚もの依頼票が並んでいる。
さらに、奥の机を指す。
積まれた紙。
帰還報告らしき木札。
報酬袋。
苦情を言う冒険者。
理人は理解した。
多いのだ。
依頼が多い。
報告が多い。
人が多い。
声が多い。
そして、たぶん人手が足りない。
一枚一枚の依頼に、道の状態や天候や最近の目撃情報を反映させるだけの余裕がない。
受付の女性は悪くない。
少なくとも、それだけが原因ではない。
彼女は、今ある仕組みの中で回している。
倉庫番と同じだ。
面倒だから無視しているだけではない。
面倒を全部拾うと、仕事が止まる。
理人は依頼票を見る。
紙は整理されている。
だが、更新されない情報は、整理されたまま古くなる。
それが危ない。
前の世界でも、似たものはあった。
古い標準手順書。
更新されないリスク表。
一年前の前提で作られた計画。
現場ではもう変わっているのに、紙だけが変わらない。
紙は嘘をついているわけではない。
作られた時には、正しかったのかもしれない。
だが、今を見ていない紙は、正しい顔をしたまま古くなる。
理人は、受付の女性を見た。
彼女は敵ではない。
荷運びの男も敵ではない。
ギルドも、最初から間違えようとしているわけではない。
ただ、紙と現場の間に差が出ている。
そして、その差を書く場所が足りない。
それだけだった。
それだけなのに、十分危ない。
(七)紙の端
理人は、危険度の印を指した。
そして首を横に振らない。
上げろ、と言いたいわけではない。
それは今の理人には早い。
証拠も足りない。
信用も足りない。
理人は、依頼票の余白を指した。
「ここ」
次に、道を指す。
「雨」
指を二本立てる。
「小さい魔物、二」
リナが補う。
「危険を上げろ、ではないみたい」
受付の女性が理人を見る。
理人は、倉庫で使っていた矢印の印を指で描いた。
後で確認。
次に、小さな点を描く。
たぶん。
横線。
不明。
リナがそれを見て、少しだけ表情を変えた。
二人で木片に残した印だ。
リナは受付の女性へ言った。
「まだ決めない。でも、残す。雨の後。小さい魔物。道が遅い。そういう印をつける」
受付の女性は黙った。
理人は依頼票を指す。
「紙、低い。いい。たぶん」
次に、道を指す。
「今、違う。たぶん」
そして、余白を指す。
「ここ、残す」
受付の女性は、長く息を吐いた。
面倒だ。
その顔には、はっきりそう書いてあった。
だが、完全に否定する顔ではなかった。
理人は、その顔を見て少しだけ力を抜いた。
勝ったわけではない。
採用されたわけでもない。
ただ、紙の端に余白があることを、彼女が見た。
それだけでも、今は十分だった。
受付の女性は、短い筆のようなものを取った。
依頼票の端に、ほんの小さな線を一本入れる。
危険度は変わらない。
ランクも変わらない。
依頼票が掲示板から外されるわけでもない。
それでも、荷運びの男の不安は、紙の端に少しだけ残った。
(八)セリア
リナが、その小さな線を見て言った。
「後で確認?」
受付の女性は、少し嫌そうな顔をした。
だが、否定はしなかった。
荷運びの男が、安心したように肩を下ろす。
依頼票が大きく変わったわけではない。
それでも、男の不安は完全には消されなかった。
受付の女性は、理人を見た。
「お前、何者だ」
おそらく、そんな意味のことを言った。
理人は困った。
説明できる言葉がない。
データサイエンティスト。
プロジェクトマネージャ。
どちらも、この世界の言葉ではない。
仮に訳せたとしても、今の理人にはそれを説明するだけの語彙がない。
この場の人間から見れば、理人はただのよそ者だ。
身元も分からない。
言葉も怪しい。
依頼票も読めない。
それでも、見えるものはある。
理人は少し考え、自分を指した。
「リヒト」
それから、依頼票を指す。
「見る」
受付の女性は、まったく納得していない顔をした。
だが、追い払うこともしなかった。
その時、横からリナが言った。
「この人、数を見る。あと、変わったところを見る」
受付の女性は、リナを見た。
リナは少し緊張していたが、目をそらさなかった。
受付の女性は、短く息を吐いた。
「セリア」
彼女は自分を指して、そう言った。
名前。
理人はうなずいた。
「セリア」
彼女はまだ、理人を信用していない。
だが、名前を渡した。
それだけでも、ギルドでの最初の一歩としては十分だった。
セリアは依頼票を受付台の端に置いた。
それから、荷運びの男へ何かを言う。
リナが小さく訳した。
「明日の朝、もう一度、道の話を聞くって」
理人は息を吐いた。
危険度は変わらない。
依頼も止まらない。
それでも、確認は一つ増えた。
紙は、少しだけ今に近づいた。
(九)掲示板
セリアが奥へ戻ると、理人は壁の掲示板を見た。
依頼票が並んでいる。
荷運び。
護衛。
薬草採取。
遺失物探し。
魔物退治。
文字はまだ読めない。
だが、同じ印がいくつも見える。
危険度。
報酬。
人数。
期限。
整っている。
少なくとも、倉庫の木片よりはずっと整っている。
だが、理人にはもう分かっていた。
整っていることと、正しいことは違う。
きれいな紙でも、現場の変化が入らなければ古くなる。
理人は、依頼票を一枚ずつ見た。
危険度の印。
報酬の数字。
人数欄。
期限らしき日付。
どれも必要な情報なのだろう。
だが、どの紙にも共通して、何かが足りないように見える。
今の状態。
前回との差。
最後に確認した日。
失敗した時の扱い。
撤退する条件。
理人は、眉をひそめた。
読めない文字のせいではない。
読めないのに、欠けているように見える。
それが嫌だった。
その時、リナが一枚の依頼票の前で足を止めた。
「ゴブリン」
理人は、その言葉だけは聞き取れた。
ゴブリン。
異世界で、あまりにも定番の名前。
リナは依頼票を読んだ。
「討伐。初心者でも受けられる」
初心者。
理人は眉をひそめた。
ゴブリン討伐。
初心者向け。
その組み合わせに、嫌なものを感じた。
冒険者らしき若い男が、その依頼票の前で足を止める。
報酬欄を見ている。
危険度の印も見ている。
そして、少し安心したような顔をした。
低い。
受けられる。
そう判断したのだろう。
理人は、その横顔を見た。
依頼票が人を動かしている。
紙が、誰かの判断を作っている。
だから、紙が弱いと危ない。
(十)初心者可
理人は、ゴブリン討伐の依頼票を見た。
読めない。
だが、欄は見える。
場所。
報酬。
人数。
危険度。
それだけ。
理人は、リナを見る。
「何体?」
リナは依頼票を読み直した。
少し首を傾げる。
「書いてない」
理人はもう一度聞く。
「巣? 一匹?」
リナは困った顔をした。
「書いてない」
「村、近い? 遠い?」
「書いてない。たぶん、森の近く」
「前、失敗?」
リナは言葉を探したが、結局首を横に振った。
分からない。
理人は依頼票を見た。
ゴブリン討伐。
初心者可。
危険度低。
それだけで、誰かが受ける。
たぶん、新人が受ける。
報酬が必要な若者が受ける。
そして、何体いるかも、巣かどうかも、逃げる条件も分からないまま森へ行く。
理人は、依頼票から目を離せなかった。
ゴブリンが弱いかどうかは、まだ分からない。
この世界の魔物を、理人はほとんど知らない。
冒険者の強さも知らない。
新人がどの程度戦えるのかも知らない。
だから、ゴブリンは危険だ、と断定するつもりはなかった。
ただ、一つだけ分かる。
この依頼票だけでは、危険かどうかを判断できない。
それを初心者向けと呼ぶのは、かなり危ない。
依頼そのものより、紙が危ない。
リナが不安そうに理人を見た。
「リヒト?」
理人は小さく言った。
「初心者向けじゃない」
リナは首を傾げる。
理人は、ゴブリン討伐の依頼票を指した。
「これ、ネア」
違う。
壊れている。
ギルドの依頼票は、思っていたより深く壊れていた。
(十一)紙と現場
その日、理人はギルドで信用されたわけではなかった。
セリアは名前を教えた。
荷運びの男は、少し安心した。
リナは隣で、依頼票の文字を読んでくれた。
だが、それだけだ。
ギルドにいる冒険者たちは、理人を知らない。
受付の奥の職員も、理人を知らない。
掲示板の前で依頼を選ぶ若者たちも、理人を知らない。
倉庫で守った記録は、ここでは何の証明にもならない。
信用は、持ち運べない。
それでも、見方は持ち運べる。
朝と夕。
前と今。
紙と現場。
依頼票と実際の危険。
差分を見る。
理人は、壁に貼られたゴブリン討伐の依頼票を見上げた。
初心者可。
危険度低。
そこには、何体いるのかも、どこまで行くのかも、いつ戻るべきかも書かれていない。
理人は小さく息を吐いた。
「次は、これか」
リナが、少し嫌そうな顔をした。
その反応だけで、理人には十分だった。
ゴブリン討伐は、初心者向けではない。
少なくとも、この紙のままでは。
理人は、掲示板から少し離れた。
ギルドの中では、相変わらず声が飛び交っている。
依頼を受ける者。
報酬を受け取る者。
職員に詰め寄る者。
誰もが忙しい。
誰もが、自分の紙を見ている。
そして、その紙の外側にあるものを、全員が見ているわけではない。
理人は、ゴブリン討伐の依頼票をもう一度見た。
紙が嘘をついているとは限らない。
ただ、今を見ていない。
それだけで、人は危ない場所へ行く。
(十二)ログ
ログ
分類:維持
周辺変動:増加
再照合:未実行
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注記:
前状態を基準とした判断が継続。
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