

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
剣に振られる
ロアンは、神殿の裏庭で剣を振っていた。
鍛冶師から受け取ったばかりの剣である。
派手な装飾はない。
宝石もない。
刃はまっすぐで、鞘は丈夫で、柄は手に馴染む。
旅で抜き、振り、戻し、手入れすることを考えられた剣だった。
良い剣だ。
それは分かる。
分かるのだが。
ロアンが一振りすると、切っ先がわずかに流れた。
戻そうとして、足が半歩遅れる。
もう一度振る。
今度は振り下ろしは悪くない。
けれど、戻りが遅い。
剣が先に動き、体が後から追いかけている。
ロアンは息を吐いた。
「剣は悪くない」
少し離れた石段に座っていたミルカが答える。
「剣はね」
ロアンは振り返る。
「今、俺が悪いって言った?」
ミルカは少し考えた。
「剣に比べると、ロアンが未熟」
「言い方」
「柔らかくした」
「これで?」
「剣が良すぎる、でもよかった」
「それだと、俺が悪くない感じがする」
「悪くないとは言ってない」
ロアンは剣を見下ろした。
「剣に申し訳なくなってきた」
エナが薬草籠を抱えたまま、横から首をかしげる。
「剣が困っている感じはします」
ロアンは剣を両手で持ち上げた。
「剣が困る?」
「なんとなく」
ミルカが言う。
「エナのなんとなくは、豆以外ならそこそこ当たる」
エナは真面目にうなずいた。
「豆は気持ちに左右されます」
「まだ豆の分類続いてるんですか」
ロアンは肩を落とす。
エナは剣をじっと見る。
「剣は、ロアンさんを待っている感じがします」
「待ってる?」
「はい。戻るのを」
ミルカが目を細めた。
「それは分かるかも。振るより、戻すのが遅い」
ロアンは剣を鞘へ戻した。
「戻すのが遅いって、昨日も鍛冶師さんに言われた気がする」
ミルカはうなずく。
「旅では一振りで終わらないって」
「覚えてる」
「覚えてるなら、教わった方がいい」
「誰に?」
その時、神殿の父が祈りの間から出てきた。
手には古い紙片を持っている。
「近くの村に道場がある」
ロアンは顔を上げた。
「道場?」
「田舎道場だ。立派な看板があるわけではないが、基礎はしっかりしている。旅の剣を持つなら、派手な技より先に、抜いて、振って、戻せることだ」
ミルカが頷く。
「行った方がいいと思います」
エナも言う。
「剣も、その方が安心すると思います」
ロアンは剣を見る。
「剣のために道場へ行くのか」
ミルカが言う。
「ロアンのためでもある」
「順番は?」
「剣、ロアン、私たちの安全」
「俺、剣の後?」
「今は」
ロアンはしばらく剣を見下ろした。
昨日受け取ったばかりの剣。
病み上がりの鍛冶師と、疲れ切ったエナと、支えた人たちの手で生まれた剣。
扱えないままではいられない。
「行こう」
エナの父は、エナを見た。
「近隣までだ。無理はしないこと」
エナは薬草籠を胸に抱えた。
「はい」
ロアンは少し驚く。
「エナさんも?」
エナは頷く。
「外を見る、最初の少しです」
ミルカが確認する。
「疲れたら戻る」
「はい」
「癒やしを使いすぎない」
「はい」
「短めに倒れるのも禁止」
エナは少し困った顔で笑った。
「それ、もう決まりなんですね」
ロアンが言う。
「俺も靴紐確認が決まりになってるので」
エナは微笑んだ。
「決まりがあると、少し安心します」
「俺の靴紐と同じ扱いでいいんですか」
ミルカは立ち上がった。
「行くよ。剣も困ってる」
ロアンは剣を腰に差した。
「剣に急かされる日が来るとは」
三人は、神殿を出た。
田舎道場
道場は、隣村の外れにあった。
立派な門はない。
大きな看板もない。
風で少し傾いた木札に、流派の名が彫られている。
板張りの稽古場。
土の庭。
壁に掛けられた木剣。
古い防具。
ところどころ補修された床。
そこにいるのは、貴族の子弟ではなかった。
村の若者。
自警団の男。
荷運び。
猟師の息子。
農家の次男。
皆、暮らしの中で必要だから剣を習っている者たちだった。
ロアンは稽古場を見回した。
「思ってた道場と違う」
ミルカが聞く。
「どんなのを想像してたの?」
「もっとこう、広くて、掛け声がすごくて、壁に強そうな言葉が書いてある感じ」
エナが壁を見る。
「強そうな言葉、ありますよ」
ロアンも見る。
壁の端に、墨で書かれた板が掛かっていた。
よく戻せ
ロアンは少し黙った。
「思ってたのと違う方向に強い」
ミルカが言う。
「今日のロアンに必要な言葉」
「刺さる」
道場の奥から、年配の剣士が出てきた。
背は高くない。
だが、背筋はまっすぐで、目が鋭い。
紹介状を読むと、師範はロアンを見た。
「新しい剣を受け取ったそうだな」
「はい」
「見せてみろ」
ロアンは剣を抜いた。
師範は刃を見て、柄を見て、鞘を見た。
「いい剣だ」
ロアンは少し嬉しくなる。
「はい。鍛冶師さんに打ってもらいました」
「よく考えられている。旅の剣だ」
ミルカが頷く。
「鍛冶師さんも、そう言っていました」
師範はロアンに剣を戻させた。
「構えてみろ」
ロアンは中段に構えた。
師範はしばらく見ていた。
「悪くはない」
ロアンは少し安心した。
師範は続ける。
「だが、戻りが甘い」
ロアンは首をかしげる。
「戻り?」
「斬った後、次に動ける形へ戻ることだ。旅では一振りで終わらん」
ミルカが小さく言った。
「ほら」
ロアンは少し肩を落とす。
「今日、戻りって何回言われるんだろう」
エナが真面目に言う。
「戻れるのは強いことです」
「いい言葉なのに、俺に向くと課題になる」
師範は木剣を手に取った。
「剣は振るより、戻す方が難しい。振るだけなら勢いでできる。戻せなければ、次で死ぬ」
ロアンの背筋が少し伸びた。
「はい」
「ちょうどいい者がいる」
師範は外へ声をかけた。
「ガルド!」
道場の外から返事があった。
「師範、薬草置いとくぞ」
入ってきた男は、薬草籠を背負っていた。
二十五歳くらいだろうか。
肩は広いが、威圧感はない。
服は少し汚れていて、靴には土がついている。
木剣を肩に引っかけ、空いた手で籠を下ろした。
いかにも、村の気のいい兄貴分という雰囲気だった。
師範が言う。
「ちょうどいい。ガルド、見本を見せろ」
男は首をかしげた。
「見本? 何の?」
「斬った後の戻しだ」
ガルドは木剣を持ち直した。
「普通にやればいいのか」
「ああ。普通に」
ロアンは軽い気持ちで見た。
ミルカも腕を組み、観察する。
エナは、なぜか半歩下がった。
ガルドが中段に構える。
その瞬間、道場の空気が少し変わった。
大きな殺気ではない。
威圧でもない。
ただ、隙がなくなった。
次の瞬間、木剣が振られた。
いや、振られた、はずだった。
ロアンには、途中がほとんど見えなかった。
気づいた時には、ガルドは最初と同じ中段に戻っていた。
木剣の先が、静かにこちらを向いている。
ロアンは思わず言った。
「今、振りました?」
ガルドは不思議そうな顔をする。
「振ったぞ」
ミルカが小さく言った。
「速すぎる」
ガルドは首をかしげた。
「いや、これは普通だろ」
エナは半歩下がったまま、薬草籠を抱えていた。
「普通、なんですか?」
ガルドはさらに不思議そうにする。
「普通に振っただけだ」
ロアンはミルカを見る。
ミルカは無言で首を横に振った。
普通ではない、という意味だった。
普通の稽古
師範はロアンに木剣を持たせた。
「打ち込んでみろ」
ロアンは木剣を握った。
新しい剣ではない。
稽古用の木剣だ。
それなのに、妙に重く感じる。
ガルドは向かいに立つ。
構えは中段。
派手さはない。
隙もない。
「よろしくお願いします」
ロアンが言う。
ガルドは頷いた。
「よろしく」
師範が手を上げる。
「始め」
ロアンは踏み込んだ。
つもりだった。
次の瞬間、ガルドの木剣がロアンの肩の横で止まっていた。
当てられてはいない。
だが、当てようと思えば当たっていた。
ロアンは息を飲む。
「……今のは?」
ガルドは言った。
「今のは、受けるより下がった方がいい」
ロアンは肩の横の木剣を見る。
「下がる前に来ました」
「なら、来る前に下がる」
「それができたら苦労しないです」
ガルドは少し考えた。
「相手の足を見ればいい」
ロアンは頷く。
「足ですね」
もう一度。
今度はガルドの足を見る。
次の瞬間、また肩を取られた。
ロアンは固まる。
「足を見てたんですけど」
ガルドは真面目に言う。
「足だけ見ると、剣が見えない」
ロアンは少し笑ってしまった。
「難しいですね」
ガルドも真顔でうなずいた。
「難しいな」
ミルカが見ていた。
ガルドの説明は雑だ。
雑なのに、指摘は正確だった。
ロアンがどこを見て、どこで遅れたか分かっている。
ただ速いだけではない。
相手の重心、視線、逃げ道まで見ている。
ロアンはもう一度構える。
今度は少し後ろ足に意識を置いた。
ガルドが一歩踏み込む。
ロアンは下がろうとする。
少しだけ下がれた。
だが、木剣はまた肩の横にある。
ガルドは言った。
「今のはさっきよりいい」
「当てられてますけど」
「当ててない」
「当てられる位置にありますけど」
「止めたからな」
ロアンは肩を押さえた。
「判定が怖い」
エナが小さく言う。
「当たってないのに、当たった気がします」
ミルカは頷いた。
「分かる」
ガルドは困った顔をした。
「でも、当ててない」
師範が低く笑った。
「ガルド、その説明では分からん」
「そうか?」
「そうだ」
ロアンは息を整えた。
「もう一回お願いします」
ガルドは頷く。
何度も打ち合う。
打ち合う、と言っても、ロアンの木剣はほとんど届かない。
ガルドの木剣は、いつも先にそこにある。
肩。
手首。
喉元の手前。
膝の外。
当てない。
だが、いつでも当てられる。
ロアンは汗をかいた。
ガルドはほとんど息を乱していない。
ミルカはその動きを見て、ぽつりと言った。
「ガルドさんの剣、収束してる」
ロアンが肩を押さえながら聞く。
「剣も収束するの?」
「たぶん。力が散ってない。踏み込み、斬撃、戻しが一つの線になってる」
ガルドはよく分からない顔をする。
「力を入れすぎると遅くなるだろ」
ミルカは目を細めた。
「それ、できる人が言うやつです」
ガルドはますます分からない。
「そうなのか?」
ロアンは息を切らしながら言った。
「たぶん、そうです」
「力を入れたら速くならないだろ?」
「普通は、力を入れないと速く振れないんです」
ガルドは少し考えた。
「でも、力を入れたら戻れない」
師範が頷いた。
「そこだ」
ミルカも頷く。
「そこですね」
ロアンだけが肩で息をしていた。
「そこ、なんですね」
前にいたらだめ
次の稽古で、師範は間合いを少し変えた。
「ガルド、横を抜ける形を見せろ」
「分かった」
ガルドが木剣を構えた。
ロアンは少し離れて見る。
ミルカも横に立つ。
エナは、最初は二人の隣にいた。
しかし、ガルドが踏み込む前に、ふっと半歩下がった。
本当に、何かに引かれたような動きだった。
次の瞬間、ガルドがロアンの横をすり抜ける。
木剣が空を切り、風がエナの前髪を揺らした。
ロアンは驚いて振り返る。
「エナさん、大丈夫ですか」
エナは胸を押さえていた。
「大丈夫です。今、そこにいたらだめな気がして」
ガルドは慌てた。
「悪い。届かないと思った」
師範が目を細める。
「届かないと思って、それか」
ガルドは困る。
「いや、届いてないだろ」
ミルカが静かに言う。
「前髪が揺れました」
ガルドは真面目に答えた。
「それは届いてない」
ロアンが言う。
「判定が厳しい」
エナは前髪を押さえて、小さく笑った。
「当たってはいません」
ミルカは言った。
「当たってからでは遅い」
「それはそうだ」
ガルドは素直に頷いた。
師範はエナを見る。
「今の、見えていたのか」
エナは首を横に振る。
「見えてはいません。ただ、そこは今だめだなと」
ロアンは小声でミルカに言う。
「エナさんの、だめな気がするやつ」
ミルカも小声で返す。
「今回はかなり当たり」
「豆より?」
「比べる必要ある?」
エナが小声で言った。
「豆よりは当たります」
ロアンは思わず笑いそうになった。
ガルドは、まだ少し申し訳なさそうにしている。
「本当に悪かった」
エナは首を振る。
「避けたので、大丈夫です」
「避けるのが早かった」
「なんとなくです」
ガルドは首をかしげた。
「なんとなくで避けられるのか」
ロアンとミルカは顔を見合わせた。
エナのなんとなくも、やはり普通ではない。
ただ、この場で深く聞くことではなかった。
師範は手を叩いた。
「続けるぞ」
ロアンは木剣を構え直した。
ガルドも構える。
エナは今度、最初から少し離れた場所に立った。
「そこなら?」
ロアンが聞く。
エナは少し考える。
「たぶん大丈夫です」
ミルカが言う。
「豆以外のたぶん」
「はい」
ガルドは不思議そうに三人を見た。
「豆?」
ロアンは言った。
「あとで説明します」
ミルカが即座に言う。
「説明しなくていい」
崖の薬草
稽古が一段落した頃、ガルドは背負っていた薬草籠を持ち上げた。
籠の中には、まだ土のついた薬草が入っている。
エナがそれに気づいた。
「その薬草、崖のものですね」
「そうだ」
ガルドは何でもないように言った。
「今朝採ってきた」
ロアンは汗を拭きながら聞く。
「崖?」
「村の裏にある崖だ。そこに薬草が生える」
ミルカが眉をひそめる。
「崖に?」
「崖に」
「危なくないんですか」
ガルドは少し考えた。
「慣れれば大丈夫だ」
ミルカはすぐに言った。
「慣れて大丈夫になる場所ではないと思います」
ガルドは首をかしげる。
「でも、落ちたことはない」
エナが小さく聞いた。
「落ちかけたことは?」
ガルドは少し考えた。
「それは、まあ、ある」
ロアンはうなずいた。
「ありますよね」
ミルカが見る。
「納得しないで」
「崖だし」
「崖だから危ない」
「それはそう」
ガルドは薬草籠を担ぎ直した。
「これから少し乾かしに行く。見るか?」
ロアンはミルカを見る。
ミルカは少し考えた。
「見た方がいいと思う」
エナは薬草籠を見て言った。
「私も行きます。その薬草、干し方を間違えると効きが落ちます」
ガルドは真面目に頷いた。
「それは困る」
ロアンたちは、ガルドについて村の裏手へ向かった。
道はすぐに細くなった。
畑を抜け、低い林を越え、岩の多い斜面へ出る。
そこから先は、道というより獣道だった。
ロアンは足元を見て、すぐに慎重になった。
「これ、薬草道より悪いかも」
ミルカが言う。
「道と言っていいか微妙」
エナが小さく言う。
「ここで薬草を採るんですね」
ガルドは普通に歩いていた。
「この先だ」
崖は、思ったより急だった。
岩の隙間に、細い葉の薬草が生えている。
人が立つ場所は狭い。
足を置く岩は斜めで、少し湿っている。
ロアンは思わず言った。
「危なくないんですか」
ガルドは答える。
「慣れれば」
ミルカが即座に言う。
「その返事、もう危ないです」
ガルドは片足を岩にかけた。
片手で上の根をつかみ、体を斜めに倒す。
普通なら、そこから崩れる。
だが、ガルドの体は崩れない。
崖に寄りかかるでもなく、力任せに耐えるでもなく、最初からそういう姿勢があるかのように安定している。
片手で薬草を摘み、籠に入れる。
すぐに姿勢が戻る。
その動きは、道場で見た剣と同じだった。
ロアンは息を飲んだ。
「今の、剣と同じだ」
ミルカもうなずく。
「崩れて戻すんじゃなくて、崩れる前提で動いてる」
ガルドは薬草を籠に入れながら言った。
「崩れたら落ちるからな」
ロアンとミルカは顔を見合わせた。
それは、当たり前のことを言っているようで、まったく当たり前ではなかった。
エナは崖から少し離れて、青い顔をしている。
「毎日、ここに?」
ガルドは頷く。
「必要な時は」
「毎日は危ないです」
「でも、村で使う」
エナは黙った。
その言葉は分かる。
薬草は必要だ。
けれど、危険でもある。
良いことでも、困ることはある。
ロアンはガルドの足元を見た。
どんな姿勢でも崩れない。
崩れそうな形から、すぐに戻る。
あの剣の速さは、道場だけで作られたものではない。
この崖で、毎日作られていた。
戻りが速い
道場へ戻ると、師範はロアンたちの顔を見て笑った。
「崖を見てきたか」
ロアンは頷いた。
「はい」
「どうだった」
ミルカが答える。
「危険です」
エナも言う。
「危険です」
ロアンも言う。
「危険でした」
ガルドは少し困った顔をした。
「三人とも同じことを言う」
師範は笑った。
「あそこを危険と思わんのは、お前くらいだ」
「師範も行ったことあるだろ」
「危険だと思っている」
ガルドは少し驚いた顔をした。
「そうなのか」
ミルカが小声で言う。
「本人だけが知らないこと、多いですね」
ロアンも小声で返す。
「俺もそういうことある?」
「ある」
「即答」
師範は稽古場の中央に立った。
「ガルドは、昔から剣が速かったわけではない」
ロアンは少し驚く。
「そうなんですか」
「ただ、倒れなかった。踏み込んでも崩れない。押されても戻る。足場が悪くても構えが残る」
ガルドは自分の足を見る。
「普通じゃないのか」
師範は無視して続ける。
「速さだけなら、もっと派手な剣士もいるかもしれん。だが、あいつは戻りが速い」
ロアンは聞き返した。
「戻りが速い」
「斬った後、次に斬れる形へ戻る。避けた後、すぐ斬れる形へ戻る。崩された後、崩れていない形へ戻る。それが異様に速い」
ミルカが言う。
「だから、ずっと構えているように見える」
師範はうなずいた。
「そうだ」
ロアンはガルドを見た。
神速。
その言葉が浮かびそうになって、まだ早いと思った。
ガルド本人は、ただ木剣を肩にかけている。
薬草籠の紐を直している。
自分が異様だとは、まるで分かっていない顔だった。
ロアンは尋ねた。
「外の剣士と戦ったことはありますか」
ガルドは首を振った。
「ない。道場と村の自警団くらいだ」
「自分が強いと思ったことは?」
ガルドは少し考えた。
「村の中では、まあ、勝つことが多い」
「外では?」
「分からん」
ミルカが聞く。
「外を見てみたいとは思わないんですか」
ガルドは即答しなかった。
薬草籠を見る。
道場を見る。
村を見る。
「思わないわけじゃない。ただ、村の薬草もあるし、道場もある」
エナが静かに言った。
「戻ってきてもいいと思います」
ガルドはエナを見る。
エナは続ける。
「ロアンさんが、そう教わったそうです」
ロアンは少し照れた。
「受け売りです」
ミルカが言う。
「でも、大事」
ガルドは少し笑った。
「戻っていいなら、試しに出るのもありか」
師範は黙ってガルドを見ていた。
その目には、少しだけ安堵があった。
たぶん師範も、ずっと思っていたのだ。
この田舎道場だけでは、ガルドの剣がどこまで届いているのか分からない。
外を見た方がいい。
けれど、戻る場所がなければ、押し出すこともできなかったのだろう。
ロアンは木剣を握り直した。
「もう一度、お願いします」
ガルドは頷いた。
「いいぞ」
今度は、ロアンも少しだけ分かっていた。
勝てるはずはない。
当てられるはずもない。
けれど、戻す。
次の形を残す。
ガルドが踏み込む。
ロアンは下がる。
木剣が肩の横で止まる。
だが、今度はロアンの木剣も、少しだけ前に残っていた。
ガルドが言う。
「今のはよかった」
ロアンは息を切らす。
「一回も当ててないですけど」
「前より、次の形が残ってた」
ミルカが頷く。
「剣に振られる感じは減ったかも」
エナも言う。
「剣が少し安心している感じがします」
ロアンは剣を見る。
「また剣が感情持ってるみたいな言い方を」
ガルドは真面目に言った。
「道具は持ち主が雑だと困るからな」
ロアンは少し傷ついた。
「雑……」
ミルカが言う。
「否定はできない」
エナは少し考える。
「でも、少し丁寧になりました」
「それは褒めてます?」
「はい」
ロアンは息を吐いた。
「少しでも褒めなら、ありがたいです」
自分の腕
夕方近く、道場に自警団長がやってきた。
顔が険しい。
師範がすぐに気づく。
「どうした」
自警団長は道場の中を見回し、ガルドを見つけた。
「師範、ガルドを借りたい。林の奥に魔物が巣を作っている」
稽古場の空気が変わった。
ロアンは顔を上げる。
「魔物の巣?」
自警団長はうなずいた。
「大きくはない。だが、小鬼が数匹と、低級魔獣がいるらしい。早めに潰したい。放っておくと街道に出る」
ミルカはロアンを見る。
ロアンも察した。
国境洞窟ほど大きな問題ではない。
だが、放っておけば道に出る。
道が塞がる前に動く必要がある。
エナは薬草籠を抱え直した。
「怪我人が出るかもしれません」
ミルカが静かに言う。
「でも、エナが前に出る必要はない」
「はい」
「癒やしすぎない」
「はい」
ロアンはガルドを見た。
ガルドは木剣を置き、壁に立てかけていた本物の剣を手に取った。
表情は変わっていない。
怖がってもいない。
浮かれてもいない。
ただ、いつものように剣を持つ。
師範が問う。
「ガルド」
「分かってる」
ガルドは自警団長を見た。
「行く」
師範は少し目を細める。
「何を考えている」
ガルドは剣の柄を確かめた。
「ちょうどいいかもしれない」
「何がだ」
「外の相手と比べる前に、自分の腕を少し試したい」
ロアンは、その言葉に息を飲んだ。
ガルドはまだ知らない。
自分の剣が、田舎道場の中だけに収まるものではないことを。
ミルカは小さく呟いた。
「少し、では済まないと思うけど」
ロアンが聞く。
「何が?」
「ガルドさんの腕」
エナはガルドを見ていた。
「だめな感じは、しません」
ミルカが確認する。
「危ない感じは?」
エナは少し考える。
「危ないです。でも、行ってはいけない危なさではないです」
ロアンは頷いた。
「じゃあ、確認しながら行こう」
ミルカが言う。
「ロアンが突っ込まないことも確認」
「はい」
ガルドは不思議そうにロアンを見る。
「突っ込むのか」
ミルカが即答した。
「突っ込みます」
ロアンは反論しかけて、やめた。
「最近は、少し戻ります」
エナが言う。
「少し戻れるのは強いです」
師範はそれを聞いて、小さく笑った。
「なら、行ってこい。だが、戻れ」
ガルドは頷いた。
「分かった」
その道場は、名門ではなかった。
王都に看板を掲げているわけでもなく、貴族の子弟が通うわけでもない。
村の若者が、自警団が、荷運びが、猟師の息子が、必要だから剣を習う田舎道場だった。
そこでガルドは剣を振っていた。
特別な奥義を誇るわけでもない。
派手な名乗りもない。
毎朝、崖で薬草を採り、足場の悪い岩の上で体を戻し、道場で中段に構え、斬って、戻す。
それを繰り返していただけだった。
だが、その繰り返しは、いつの間にか異様な速さに届いていた。
ガルド本人は、まだ知らない。
自分の剣が、田舎道場の中だけに収まるものではないことを。
ロアンたちも、まだ知らない。
その剣が、いつか神速の剣聖と呼ばれることを。
ただその日、ロアンは思った。
この人の剣は、少しおかしい。
そしてミルカは思った。
少しではない。
かなりおかしい。
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