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一 報告書のあと
黒瀬退魔処理の事務所は、朝から静かだった。
古い複合機が一度だけ唸り、紙を吐き出す。
その横で、片桐美緒が端末に確認印を入れていた。
第1話――二〇三号室、夜間圧迫感および首部発赤の調査。
その報告書は、元請けへ送信済みになっている。
三枝透は、自分の控えをもう一度読み返していた。
対象は悪意を持つものではなく、生活動作の反復残滓と推定。
ただし人体への干渉は明確であり、継続観測が必要。
固定不十分の状態で偏向へ差し替えた場合、残滓拡散の危険あり。
接続数過多に注意。
読めば読むほど、喉の奥が少し苦くなる。
透は紙を持ったまま、椅子に沈んだ。
「自分で書くと刺さりますね、これ」
美緒は画面から目を離さずに答える。
「刺さるように書いてください」
「刺さりすぎると次の現場に響くんですけど」
「響かない反省は、だいたい次に同じことをします」
黒瀬玄一が、棚から札束の在庫を取り出しながら頷いた。
「美緒の言う通りだ」
「黒瀬さんまで」
黒瀬は透の前に来ると、報告書の該当行を指で叩いた。
「固定不十分の状態で偏向へ差し替えた場合、残滓拡散の危険あり」
「……はい」
「自分で書いたな」
「書きました」
「なら、しばらく基礎だ」
透は顔を上げる。
「え」
美緒が予定表を回転させ、透の方へ見せた。
「今週の現場同行は減らします」
「俺、干されてます?」
「違う」
黒瀬が短く言う。
「戻してる」
「戻す?」
「初歩と基礎にだ」
透は予定表と黒瀬の顔を交互に見る。
どちらを見ても、冗談を言っている気配はない。
「初歩って、見習いがやるやつですよね」
「そうだ」
「俺、もう現場出てますけど」
「だからやる」
美緒が淡々と補足する。
「現場に出たあとで初歩へ戻る人は、珍しくありません」
「慰めですか」
「事実です」
慰めよりも刺さる言葉だった。
黒瀬は報告書を机に置いた。
「お前は三接続ができないわけじゃない」
透は黙る。
「三接続の途中で、四つ目を足したくなる」
言い返せなかった。
二〇三号室で、透は固定が甘いと分かった瞬間、偏向へ逃げようとした。
首元へ行く圧を横へ流せばいい。
固定しきれなくても、当たらなければいい。
そう考えた。
その結果、留めていた範囲がにじみ、残滓は部屋へ広がりかけた。
黒瀬は続ける。
「固定が甘い。だから偏向で逃げたくなる」
「……はい」
「偏向が悪いんじゃない。固定の代わりにするのが悪い」
透は、あの部屋の布団を思い出した。
人を傷つけるつもりなどなかった手。
誰かが寒くないように、布団をかけ直していた動作。
それを見て、かわいそうだと思った。
思ったこと自体が悪かったわけではない。
だが、その同情を処理の根拠にした瞬間、手順は崩れた。
黒瀬は、透の反応を待たずに言った。
「八重士を目指すなら、まず三接続で戻ってこい」
「八接続じゃなくて?」
「三つを雑に繋ぐやつに、八つは持てん」
美緒が予定表に新しい項目を入れる。
「ということで、今日から初歩です」
「本当に初歩からなんですね」
「本当に初歩からです」
透は椅子の背に頭を預けた。
「退魔士って、もっとこう、強い術を覚えていくものかと思ってました」
黒瀬は札束を棚に戻しながら言う。
「強い術を覚えたやつから事故ることもある」
「夢がない」
「夢で現場に入るな」
美緒が頷く。
「匿名化された事故記録上も、夢で現場に入った人はだいたい問題を起こします」
「その記録、見たくないです」
「原票は見せません。個人情報なので」
「匿名版も見たくないです」
「では、載らないようにしてください」
「そういうところだけ現実的ですね」
黒瀬は、少しだけ口元を動かした。
「現実的じゃない退魔士は、長く残らん」
それが冗談でないことを、透はもう知っている。
二 初歩は門
黒瀬退魔処理の裏手には、小さな訓練場がある。
訓練場と呼ぶには少し狭い。
古い倉庫を改装しただけの空間で、床には結界縄を張るための印が打たれている。
壁際には塩、札、筆、墨、数珠、鈴、古い巻尺、訓練用の吸い札が並んでいた。
透の前に置かれたのは、その中でも特に地味な一式だった。
札。
筆。
墨。
結界縄。
塩。
数珠。
訓練用の鈴。
透は並べられた道具を見下ろす。
「思ってたより、かなり地味ですね」
「初歩だからな」
黒瀬は当然のように答える。
「地味すぎません?」
「派手な初歩は、だいたい初歩じゃない」
透は納得しきれないまま、札写しを始めた。
線をまっすぐ引く。
同じ字を、同じ大きさで書く。
墨の濃さを揃える。
札の端を汚さない。
最初の数枚は真面目にやった。
十枚を越えると、手首が少し飽きてきた。
「これ、術式出力に関係あります?」
「直接は少ない」
「じゃあ」
「ただし、現場には関係ある」
黒瀬は、透の書いた札を一枚持ち上げた。
「字が雑なやつは、確認も雑になる」
「そこまで見ます?」
「見る」
黒瀬は札の線を指で追う。
「線を最後まで引かないやつは、結界縄も最後で緩む」
次に、少しだけ墨が濃くなった札を持ち上げる。
「同じ手順を繰り返せないやつは、疲れた現場で手順を飛ばす」
透は言葉に詰まった。
前回、自分は手順を飛ばしたわけではない。
ただ、差し替えようとした。
固定が甘いなら、偏向で補えばいい。
そう思った。
だが、結果としては手順を崩した。
美緒が横から書類を一枚差し出す。
「ついでに、現場入り確認票の署名も書いてください」
「訓練で署名?」
「訓練だから書きます」
「それも初歩ですか」
「書類上は確認作業です」
黒瀬が言う。
「現場上は初歩だ」
透は筆を置き、確認票に署名した。
三枝透。
美緒がその文字を見て、短く言う。
「読めます」
「当たり前では」
「当たり前を当たり前に残すのが確認です」
「なんか怖い言い方ですね」
「怖がってください」
この時点では、署名確認に特別な意味はない。
字を安定して書く。
本人が本人の名前を書ける。
第三者が読める。
それだけの、事務的で地味な確認に見える。
黒瀬は訓練場の印を見ながら、ゆっくり言った。
「初歩は、強くなる道じゃない」
透は顔を上げる。
「違うんですか」
「現場に入れていいかを見る門だ」
「門」
「ああ」
黒瀬は指を折る。
「挨拶ができるか」
「そこから?」
「そこからだ」
次の指を折る。
「手順を飛ばさないか」
さらに次。
「言われた場所に塩を撒けるか。決まった幅で縄を張れるか。署名が読めるか。疲れても確認を省かないか」
最後に、黒瀬は透を見る。
「勝手に一つ足さないか」
透は目を逸らした。
「最後の、俺宛てですよね」
「そうだ」
美緒が端末を操作しながら言う。
「完全に透くん宛てです」
「味方がいない」
黒瀬は首を振った。
「いるから初歩に戻してる」
その言い方は、思ったより重かった。
透は筆を持ち直した。
もう一枚、札を写す。
線を最後まで引く。
墨の濃さを揃える。
札の端を汚さない。
退屈だった。
退屈だったが、退屈なものほど、現場では崩れやすいのだと少し分かってしまった。
三 基礎は道
初歩作業のあと、黒瀬は細い糸を取り出した。
糸の先には、小さな鈴がついている。
天井から吊るすと、空調のわずかな流れを拾って、かすかに揺れ続けた。
「固定だ」
透は糸を見て、すぐに顔をしかめる。
「いきなり固定ですか」
「そうだ」
「苦手なんですけど」
「だからだ」
「普通、得意なところから始めません?」
「現場前の確認では、得意と苦手を先に見る」
「理由は?」
「慣例だ」
「慣例」
透が美緒を見ると、美緒は端末を操作していた。
「元請け側の基礎確認様式にも、得意系統、苦手系統、対立系統の確認欄があります」
「そんな欄あるんですか」
「あります」
「理由は?」
「様式には書いてありません」
透は糸を見上げる。
「この業界、理由なしで残ってるもの多くないですか」
黒瀬は否定しなかった。
「多い」
「いいんですか、それ」
「だから面倒なんだ」
黒瀬は糸の揺れを見ていた。
「ただ、理由が分からないからって、すぐ削るな」
「削ると?」
「そういうのは、だいたい削ったあとで意味が出る」
透は一瞬、何かを言おうとした。
だが、黒瀬の横顔があまりにも平坦だったので、やめた。
訓練に戻る。
固定。
一秒だけ止める。
透は糸へ意識を伸ばした。
揺れを止める。
動きを留める。
止まった。
だが、強すぎた。
糸は一瞬だけ不自然に固まり、次の瞬間、弾かれたように揺れた。
鈴が、ちり、と鳴る。
黒瀬が言う。
「押さえすぎだ」
「止めろって言われると、押さえたくなるんですよ」
「固定は押さえつけることじゃない」
黒瀬は糸を指差す。
「次の工程へ渡せる形で留めることだ」
透はもう一度やる。
今度は弱すぎて、糸は止まらない。
「これ、地味に難しくないですか」
「基礎だからな」
「基礎って、簡単って意味じゃないんですね」
「簡単なら修行にならん」
次に、黒瀬は皿の上に水を一滴落とした。
水滴は傾けられた板の上を、ゆっくり流れていく。
「偏向」
透は少しだけ肩の力を抜いた。
水滴の流れを、横へ逃がす。
押し返さない。
止めない。
ただ、抵抗の少ない方向へ道を変える。
水滴は不自然に跳ねることなく、ゆるやかに軌道を変えた。
黒瀬が頷く。
「偏向はいい」
「ありがとうございます」
「だが、いいから危ない」
透は眉を寄せる。
「褒めてから落とす流れ、流行ってるんですか」
「固定が崩れた時、お前は偏向へ逃げる」
黒瀬は、皿の上で止まった水滴を見る。
「苦手と得意を見るのは、そこを見るためでもある」
「得意と苦手の間」
「そうだ」
黒瀬は少し間を置いて、言葉を足した。
「術式は、対象への作用だ。曲げる、止める、薄める、集める。そういう作用を通して、対象のあり方に触る」
透は水滴から目を離さない。
「あり方」
「残滓でも怨霊でも、現場にあるものは、ただ“いる”だけじゃない。どのくらい濃く、どこに、どう残っているかがある」
黒瀬は糸を軽く弾いた。
鈴が小さく鳴る。
「術式は、その残り方――存在の確かさみたいなものに干渉する。だから固定が甘いまま曲げれば、残り方ごとずれる。希薄を雑に入れれば、薄くなった分だけ広がることもある」
透は、二〇三号室で広がりかけた手の気配を思い出した。
「あの時、俺が偏向に逃げたから、手だけじゃなくて動作全体がにじんだ」
「そうだ」
黒瀬は頷く。
「術式は出力だけじゃない。対象の存在を、次にどう扱える形にするかだ」
それは、難しい説明ではなかった。
だが、聞き流せるほど軽くもなかった。
透は、もう一度糸を見る。
止める。
曲げる。
薄める。
集める。
どれも、ただの技ではない。
対象がそこに残る確かさへ触る行為なのだと、少しだけ分かった。
四 篠宮伊織
午後、元請け側から若手術者が来た。
篠宮伊織。
年は透と近い。
姿勢がまっすぐで、道具の扱いが丁寧だった。
腰には札入れ。
手元には結界縄用の小型具と、確認用の筆記具。
動きに迷いが少ない。
それが、透には少し鼻についた。
篠宮は訓練場に入ると、まず黒瀬に一礼し、それから透を見た。
「三枝透さんですね」
「はい」
「二〇三号室案件の報告書を読みました」
「どうも」
「固定不十分の状態で偏向へ差し替えた」
透の口元がわずかに固まる。
「はい」
「危険です」
「自分でも書いてます」
「書けることと、次に止まれることは別です」
透は少しむっとした。
「元請けの人って、報告書だけ見て現場分かった気になるんですね」
篠宮は表情を変えない。
「報告書に残せない現場判断は、次の手順にはできません」
「現場には、報告書に書けないこともあります」
「なら、書けるようにしてください」
透は言葉に詰まった。
黒瀬が二人の間に入る。
「そこまでだ」
篠宮は黒瀬に向き直り、改めて頭を下げた。
「篠宮伊織です。元請け側の若手術者基礎確認として来ました」
透は聞き慣れない言葉に反応する。
「基礎確認?」
美緒が端末を見る。
「二〇三号室案件の報告を受けて、元請け側から若手術者の基礎確認が入りました」
「俺、試験されるんですか」
「そうだ」
黒瀬が平然と言う。
「聞いてない」
美緒は目を上げない。
「言うと逃げるので」
「信用がない」
黒瀬は首を振る。
「あるから受けさせる」
篠宮は透を見る。
「固定が不安定な術者が、偏向を得意としている」
「なんか嫌な予感がする」
「それ自体は珍しくありません」
「珍しくないんですか」
「はい」
篠宮は一拍置く。
「問題は、固定が落ちた時に偏向で補おうとすることです」
「完全に俺の話ですね」
「はい」
「言い切るなあ」
黒瀬は、篠宮の言い方を止めない。
透はそれがまた少し悔しかった。
五 篠宮の固定
訓練場で、篠宮も基礎を見せることになった。
まずは固定。
天井から吊られた糸が、空調の流れでわずかに揺れている。
篠宮はそれを見上げた。
何かを強く押さえる気配はない。
術式を叩き込むような力みもない。
一秒。
糸が止まった。
透の時のように押し潰す感じはなかった。
糸は止まっている。
けれど、張り詰めすぎていない。
次の瞬間、何事もなかったように自然な揺れへ戻った。
透は思わず黙る。
篠宮が言う。
「固定は、対象を殺すことではありません」
その言葉は、黒瀬が言ったこととほとんど同じだった。
「次の工程へ渡せる形で留めることです」
透は唇を少し尖らせる。
「次の工程へ渡す」
「止めたあとに何もできない固定は、現場では邪魔になります」
「けっこう刺してきますね」
「三枝さんの固定の話です」
「分かってます」
次に、篠宮は偏向を試した。
水滴の流れをずらす。
できている。
だが、透ほど自然ではない。
流れは曲がるが、少し硬い。
水滴が抵抗しているように見える。
透はほんの少しだけ、口元を緩めた。
篠宮がすぐに言う。
「今、顔に出ました」
「何がですか」
「偏向なら自分の方が上だと思った顔です」
「出てました?」
黒瀬が答える。
「出てた」
美緒も答える。
「出ていました」
「味方がいない」
篠宮は淡々と言う。
「偏向は三枝さんの方が良いです」
「褒めました?」
「事実です」
「元請けの褒め方って冷たいな」
「ただし、得意なものほど逃げ道になります」
「落とすの早い」
「落としていません」
篠宮は透を見る。
「危険性を指摘しています」
「だいたい同じです」
黒瀬は二人を見て、少しだけ面倒そうに息を吐いた。
「相性悪いな」
美緒が端末を閉じる。
「相性が良いとも言えます」
透と篠宮が同時に言った。
「良くありません」
美緒は表情を変えない。
「声は合いましたね」
透は篠宮と目を合わせ、すぐに逸らした。
六 一拍
透は固定課題を再度行った。
揺れる糸。
細い鈴。
空調で生まれる、かすかな動き。
止める。
強すぎる。
糸が一瞬固まり、次に跳ねる。
その瞬間、透の意識は偏向へ逃げそうになった。
横へ流せば楽になる。
反発を逃がせば、固定の弱さを誤魔化せる。
篠宮が言う。
「今、逃げましたね」
「逃げてないです」
「偏向へ行こうとしました」
「……ちょっとだけです」
「その“ちょっと”が現場で事故になります」
透は糸を睨む。
「また報告書の話ですか」
「現場の話です」
透は黙った。
篠宮は少し言い方を変える。
「固定に入る前に、一拍置いてください」
「一拍?」
「偏向したくなったら、すぐ術式へ逃げない」
篠宮は糸を見る。
「今、自分は流したいのか。本当に流していいのか。留める対象は何か。次へ渡す形は何か」
透はその言葉を追う。
「それを確認する一拍です」
「待つんですか」
「待つというより、確認です」
黒瀬が頷いた。
「いい助言だ」
透は黒瀬を見る。
「黒瀬さんまで篠宮さん側ですか」
「今回はな」
「今回は」
黒瀬は透の手元を見た。
「お前は速い」
「速いですか」
「速い。速いが、速いまま間違える」
黒瀬の声は低い。
「一拍置け」
透は糸を見る。
揺れている。
止めたい。
流したい。
その間に、一拍。
今、自分は流したいのか。
本当に流していいのか。
留める対象は何か。
次へ渡す形は何か。
透はもう一度、固定を入れた。
完璧ではない。
だが、さっきより跳ね返りが小さい。
鈴の音も、短かった。
篠宮が言う。
「今の方がましです」
「まし」
「はい」
「褒め方の練習してきてください」
「必要ですか」
「必要です」
美緒が横から言う。
「比較的必要です」
透は美緒を見る。
「美緒さんの比較的もだいぶ問題ありますよ」
黒瀬がそこで釘を刺した。
「勘違いするなよ」
透は姿勢を正す。
「何をですか」
「対立系統を小さく噛ませて安定させるやつはいる」
「対立系統」
「固定に偏向を噛ませる。偏向に固定を噛ませる。そういうのは、できれば強い」
透は少し前のめりになる。
「じゃあ、それを」
「今のお前が狙ってやるな」
「駄目なんですか」
「地味な名人芸だ」
黒瀬は言い切る。
「超人芸じゃない。だが、若手が真似すると、だいたい接続を一つ増やしただけになる」
透は黙る。
「今のお前がやると、固定が落ちて偏向に逃げる」
篠宮が口を開いた。
「私の場合は?」
黒瀬は篠宮を見る。
「固定で抱え込んで、偏向が遅れる」
篠宮は目を伏せる。
「……はい」
「まずは、固定なら固定として出せ。偏向なら偏向として出せ」
黒瀬は二人を見た。
「小さく噛ませるのは、それが崩れずできるようになってからだ」
透は自分の手を見た。
速いこと。
得意なこと。
反応できること。
それらは全部、武器だった。
同時に、逃げ道でもあった。
七 保管室の台車残滓
その時だった。
訓練棟の廊下の奥から、ぎい、と金属音がした。
誰もいないはずの保管室側から、車輪が軋む音。
ぎい。
ぎい。
ぎい。
美緒が端末を見る。
「保管室の管理札に反応」
篠宮がすぐに向き直る。
「訓練用残滓の漏出です」
黒瀬が問う。
「危険度は」
「低。ですが、訓練中の若手が近くにいます」
廊下の奥で、見えない台車が往復していた。
台車そのものは薄い。
形はあるようでない。
ただ、床の上を車輪が通る気配だけが残っている。
何かを運ぶ。
戻る。
また運ぶ。
戻る。
反復動作型の残滓。
透が一歩出る。
「偏向で向きをずらします」
篠宮が即座に言った。
「先に固定です」
透は振り向く。
「動いてるものを正面から止めたら跳ねます」
「向きをずらしてから固定すると、対象範囲が変わります」
「少しだけです」
「その“少し”が一番信用できません」
透は眉を上げる。
「俺のこと言ってます?」
「はい」
「言い切った」
「前回報告書に根拠があります」
「報告書を武器にするのやめません?」
篠宮は廊下を見る。
「対象が台車本体なのか、車輪音なのか、動線なのかも確定していません」
「それは」
「先に固定で範囲を取るべきです」
透は言い返す。
「範囲を取る前に反発が来たら?」
「仮固定です」
「仮固定で捕まえきれなかったら?」
「偏向で逃がすより追えます」
「固定系の“追える”って、だいたい力技じゃないですか」
篠宮は少しだけ目を細める。
「偏向系の“少しだけ”よりは信用できます」
「めちゃくちゃ偏見入ってますよね」
「お互い様です」
美緒が、廊下の台車音を聞きながら言った。
「今、処置中ですよね」
透は姿勢を正す。
「処置方針の確認です」
篠宮も同じように言う。
「必要な討議です」
美緒は端末に目を落とす。
「討議の間に台車が四往復しています」
透と篠宮は同時に廊下を見た。
台車は律儀に、ぎい、ぎい、と往復している。
透が言う。
「……急ぎましょう」
篠宮も頷く。
「そうですね」
少し間があった。
透が言う。
「だから偏向で」
篠宮が言う。
「だから固定で」
美緒が呟いた。
「戻りましたね」
黒瀬は、腕を組んだまま黙っていた。
二人は真剣だ。
真剣なのは分かる。
だが、議論している場所が少しずれている。
黒瀬がようやく口を開いた。
「分かった」
透と篠宮が振り返る。
「じゃあ、それぞれ最後まで言え」
透は廊下を見ながら言う。
「偏向で向きを少しずらして、速度を落とします。そのあと固定で仮留め。最後に希薄で薄める」
篠宮はすぐに続ける。
「固定で対象範囲を確定します。反発が出る場合は偏向で逃がす。その後、希薄で残滓密度を下げます」
透が少し得意げに篠宮を見る。
「最後は同じじゃないですか」
篠宮は譲らない。
「入口の安全性が違います」
「いや、出口が同じなら」
黒瀬が言った。
「二人とも外れ」
沈黙が落ちた。
透が先に声を出す。
「え」
篠宮も、少しだけ表情を硬くした。
「……外れ?」
「外れだ」
黒瀬は廊下を見たまま言う。
「入口で揉めて、出口で同じ間違いをしてる」
透は篠宮を見る。
「じゃあ俺たち、何で揉めてたんですか」
「入口だ」
美緒が小さく補足する。
「出口が違うそうです」
篠宮はすぐに頭を下げた。
「処理方針の上位判断が抜けていました」
透は目を見開く。
「篠宮さん、ずるい」
「何がですか」
「今の言い方だと、ちゃんと反省してる人みたいに聞こえる」
「実際に反省しています」
「俺も同じところ間違えたのに、俺だけ怒られた感じがする」
黒瀬が言う。
「両方怒ってる」
透は少しだけ安心した顔をする。
「よかった」
篠宮が即座に言う。
「よくはありません」
八 希薄ではなく、凝縮
黒瀬は台車残滓を見た。
「これは薄める対象じゃない」
透が眉を寄せる。
「希薄じゃないんですか」
「違う」
黒瀬は廊下の奥を指す。
「訓練用に封じていた残滓だ」
ぎい。
見えない車輪が床を鳴らす。
「希薄で薄めれば、一見おとなしくなる。だが、廊下に散る」
透は息を止める。
「散る」
「散ったものをあとで拾う方が面倒だ」
美緒が端末に入力しながら言う。
「保管記録も修正が必要になります」
「そこも来るんですね」
「来ます」
篠宮が廊下を見たまま言う。
「では、凝縮して吸い札へ封入」
黒瀬が頷く。
「そうだ」
透は少し不安そうな顔をした。
「凝縮って、濃くするんですよね」
「そうだ」
「危なくないですか」
「危ない」
黒瀬は即答した。
「だから、吸い札に入る分だけ集める」
透は台車の気配を見る。
「全部を濃くするんじゃなくて」
「全部を濃くするな。散らすな。封じられる形にする」
薄める方が安全に見える。
散らせば弱くなるように見える。
でも今回は違う。
薄めたら、広がる。
広がれば、また拾う必要がある。
黒瀬は二人に向き直った。
「入口はどちらもあり得る」
透と篠宮が同時に顔を上げる。
「三枝なら、少し向きをずらして減速してから固定」
透は少しだけ表情を緩める。
「篠宮なら、固定で範囲を取ってから反発を逃がす」
篠宮も、わずかに息を吐いた。
黒瀬は続ける。
「どちらも処理としてはあり得る」
そして、すぐに落とす。
「だが、最後に希薄へ行ったら駄目だ」
二人は黙った。
「入口が正しくても、出口を間違えたら処理は失敗する」
篠宮が低く答える。
「……はい」
透も答える。
「はい」
黒瀬は、車輪音の反復を見ながら言った。
「得意な系統は入口になる。だが、出口にはならん」
透はその言葉を頭の中で繰り返した。
「出口は対象が決める」
それが、この日の訓練で一番強く残った。
九 接続は作用を繋ぐこと
透は台車を見ながら言った。
「じゃあ、理想は観測して、偏向か固定で抑えて、凝縮して、吸い札ですか」
黒瀬が頷く。
「そうだ」
篠宮も続ける。
「観測から入れば、核と動作範囲を見誤りにくい」
「四接続を安定して扱えるなら、それが正解だ」
透はすぐに言った。
「なら観測から」
黒瀬が遮る。
「お前は入れるな」
「え」
「今のお前が観測から入ると、見て、曲げて、止めて、集める。四接続だ」
透は黙る。
「できたことがあるのと、次も戻れるのは違う」
黒瀬の言葉は静かだった。
「今のお前には、持たせすぎだ」
「でも、観測しないと」
「見るのは俺が持つ」
黒瀬は廊下を見据えた。
「お前は処置だけに絞れ」
篠宮が確認するように言う。
「工程を分ける、ということですね」
「そうだ」
黒瀬は頷く。
「ただし、同じ術式に割り込むんじゃない。三枝が処置する。処置が終わったあとで、俺が確認する」
透は思い出す。
二〇三号室で、自分が崩れた時、黒瀬は途中から横取りしなかった。
まず透に引けと言った。
接続を切らせた。
そのあとで、黒瀬が処理した。
「同じ対象に二人でかけるのは駄目なんですよね」
「基本的にはな」
黒瀬は少し言葉を選んだ。
「接続ってのは、術を同時に出すことじゃない」
透は黒瀬を見る。
「作用を繋ぐことだ」
「作用を繋ぐ」
「見る。聞く。止める。曲げる。散らす。集める」
黒瀬は指を折りながら言う。
「それぞれの作用を、順番に繋ぐ」
透は、頭の中でその順番をなぞった。
「見た結果を、次の作用へ渡す。止めた状態を、次の作用へ渡す。曲げた流れを、次の作用へ渡す。それが接続だ」
篠宮が呟く。
「前作用の保持と、次作用への受け渡し」
黒瀬は少し嫌そうな顔をする。
「そう言うと面倒だが、そういうことだ」
透は指を動かした。
「順番があるなら、完全に同時ってわけじゃないんですね」
「そうだ」
黒瀬は透の手元を見た。
「だが、前の作用を手放したら次に繋がらない」
透は自分の手を見る。
「だから手足なんだ」
「一回見て忘れたら、観測は接続してない」
黒瀬は廊下を指す。
「止めたものを見失ったら、固定は次に渡せてない。集めたものを散らしたら、凝縮は封入につながってない」
一本ずつ出しているようで、前の手を完全に離してはいけない。
だから増えるほど難しい。
「他人の作用は、自分の手足じゃない」
黒瀬は透と篠宮を交互に見た。
「篠宮が止めたものを、お前がそのまま自分の偏向へ繋げることはできない。受け取るには、受け取れる形で渡してもらう必要がある」
「途中で横から掴むと」
「邪魔になる」
篠宮が言う。
「だから、二〇三号室案件でも黒瀬さんは三枝さんを止めてから介入した」
「そうだ」
黒瀬は短く答えた。
「走ってる術式に横から手を突っ込むな」
透は少し考えてから言う。
「パスを受けてからシュートはできるけど、他人の足を途中から操作できない、みたいな」
黒瀬は少し黙り、それから言った。
「まあ、そんなところだ」
篠宮が小さく頷く。
「雑ですが、分かりやすいです」
透は篠宮を見る。
「雑って言う必要あります?」
「ありました」
「ないですよ」
黒瀬が二人を止める。
「続きは処理後にしろ」
廊下では、まだ台車が律儀に往復していた。
十 台車残滓の処置
黒瀬が廊下を見る。
「俺が見る」
空気が変わった。
透は一歩下がる。
篠宮も、余計な口を挟まない。
黒瀬の視線が、見えない台車の気配を追う。
「核は車輪音だ」
ぎい。
「台車本体じゃない」
ぎい。
「動線に残った反復だ」
透は息を整えた。
黒瀬が言う。
「三枝、横へ流すな」
「はい」
「速度だけ落とせ」
「はい」
篠宮が横から言った。
「処置としては、偏向先行でいいと思います」
透は少し驚く。
「いいんですか」
「この対象なら、黒瀬さんの観測があります。速度を落としてから仮固定の方が反発は少ないはずです」
透は口元を緩める。
「今、俺の案を採用しました?」
「条件付きです」
「条件付きでも勝ちは勝ち」
黒瀬が言う。
「勝ってない」
透はすぐに姿勢を戻す。
「はい」
「出口は外しただろ」
「はい」
透は息を整える。
偏向。
台車を横へ流さない。
往復の勢いだけを、斜めに逃がす。
動線を広げない。
速度を落とす。
ぎい、という音が鈍った。
次に固定。
止めきらない。
凝縮に渡すための仮留め。
篠宮が見ている。
「押さえすぎると跳ねます」
「分かってます」
透は糸の訓練を思い出す。
「……たぶん」
「たぶんを減らしてください」
「作戦中に刺さないでください」
黒瀬が低く言う。
「喋りすぎだ」
透と篠宮が同時に答える。
「はい」
透は凝縮へ入った。
ここが重い。
台車残滓を、吸い札に入る程度まで集める。
濃くしすぎると、台車の輪郭が強くなる。
薄すぎると、吸い札に入らない。
透の額に汗がにじむ。
偏向なら楽だ。
希薄なら散らせる。
でも今は、集める。
黒瀬の声が飛ぶ。
「全部集めるな」
「はい」
「封じられる分だけだ」
透は吸い札を構える。
見えない車輪の音が、紙の方へ寄る。
ぎい。
ぎ。
吸い札が黒くなる。
車輪の音が紙の中へ吸い込まれていく。
ぎ。
音が消えた。
透はゆっくり息を吐いた。
「終わり……ですか」
黒瀬はすぐに答えない。
「お前の処置はな」
黒瀬が術後観測を入れる。
廊下。
保管室の扉の隙間。
床の端。
台車が往復していた動線。
少し間があった。
「残留なし」
透の肩から力が抜ける。
「回収成立」
美緒が記録する。
「吸い札一枚、使用」
透は顔を上げた。
「今そこですか」
「今そこです」
篠宮が続ける。
「保管室結界の再点検も必要です」
「入れます」
美緒は端末に追記した。
透は廊下を見た。
さっきまで聞こえていた車輪音は、もうない。
「みんな落ち着いてるなあ」
黒瀬が言う。
「現場が終わったら、後処理だ」
それは第1話でも聞いたような言葉だった。
そして、たぶんこれから何度も聞く言葉でもある。
十一 同じ間違い
処理後、透は廊下の端に座り込んだ。
「希薄に行かなくてよかった……」
篠宮が少し離れたところで吸い札の記録を確認している。
「行っていたら、廊下に散っていましたね」
透は篠宮を見る。
「篠宮さんも行くつもりでしたよね」
「はい」
即答だった。
透は少しだけ笑った。
「今の、ちょっと安心しました」
篠宮は眉を動かす。
「私が間違えたことにですか」
「いや、同じところを間違えたことに」
篠宮は少し黙った。
「……不本意ですが、分からなくはありません」
「でしょ」
「ただし、入口についてはまだ同意していません」
「俺もです」
「固定先行の方が安全な対象もあります」
「偏向先行の方が安全な対象もあります」
「対象によります」
「そこは同意です」
黒瀬が二人を見る。
「仲良くなったところ悪いが」
透と篠宮が同時に言う。
「仲良くはなってません」
黒瀬は美緒を見る。
「声は合ってる」
美緒が端末を見たまま言う。
「二回目です」
透は項垂れる。
「カウントしなくていいです」
黒瀬は二人の前に立った。
「入口で揉めるのは悪くない」
透と篠宮は顔を上げる。
「だが、出口を決めてから揉めろ」
「はい」
「はい」
黒瀬はまず透を見る。
「三枝は流れから入る」
次に篠宮を見る。
「篠宮は範囲から入る」
二人とも黙って聞いている。
「どっちも武器だ」
少し間を置く。
「どっちも癖だ」
透はその言葉を、素直に受け取った。
「出口を見れば武器になる。出口を見なければ癖で事故る」
黒瀬は廊下の奥を見た。
「お前らは比較的、物理的に作用するタイプだ」
透が聞き返す。
「物理的?」
「動きを曲げる。範囲を止める。場所を縛る。見た目に近い」
篠宮が少しだけ顔を上げる。
「現場では強い」
黒瀬は続ける。
「だから過程は最初から強い」
透は、少しだけ背筋を伸ばした。
「三枝は流れを変えられる。篠宮は範囲を留められる。そこはいい」
透は思わず聞く。
「じゃあ、何が足りないんですか」
黒瀬は言った。
「終わり方だ」
廊下に、短い沈黙が落ちる。
「止めたあと、何にする」
「曲げたあと、どこへ渡す」
「薄めるのか」
「集めるのか」
「封じるのか」
「理由が残ってないか聞くのか」
「残ってないか見るのか」
黒瀬は二人を見る。
「終わり方が読めれば、お前らは強い」
そして、少しだけ声を軽くした。
「何しろ、過程は最初から強いからな」
透は少し照れたように目をそらした。
篠宮も、表情を崩さないまま黙っている。
美緒が言った。
「褒められていますよ」
透は答える。
「分かってます」
篠宮も答える。
「分かっています」
美緒が続ける。
「声は」
「合ってません」
「合っていません」
黒瀬が言う。
「合ってるな」
透は篠宮を見る。
篠宮も透を見た。
二人は同時に、顔を逸らした。
十二 報告書と訓練記録
帰社後、透は報告書を書いた。
最初の文章は、かなり長かった。
初期対応において、篠宮さんと処置方針について意見が分かれた。自分は偏向による減速を提案し、篠宮さんは固定による範囲確定を提案した。どちらも入口としては成立し得るが、二人とも最終処理として希薄を想定しており、対象性質に対する判断が不十分だった。また、自分が観測から入ると四接続となるため、黒瀬さんが観測を担当し、自分は偏向、固定、凝縮の三接続に限定された……
美緒が赤を入れた。
「ここからここまで、報告書ではなく訓練記録です」
透はペンを止める。
「大事なことなんですけど」
「大事です」
「なら」
「だから別に残してください」
「別?」
美緒は資料フォルダを開く。
「報告書は管理用です」
透は報告書を見る。
「誰が、どこで、何をして、何を使い、結果どうなったかを残します」
美緒は別の用紙を出す。
「反省や指導内容は、訓練記録へ」
篠宮が横から言う。
「文書の目的が違います」
透は篠宮を見る。
「篠宮さん、こういう時だけ美緒さん側ですよね」
「必要な区分です」
美緒が頷く。
「正解です」
「味方がいない」
黒瀬が事務所の奥から言う。
「いるから書類が二種類になったんだよ」
美緒は報告書を整えた。
管理用報告書は短い。
訓練棟保管室より、訓練用台車残滓が廊下側へ漏出。
初期対応において希薄化案が検討されたが、拡散リスクを考慮し、吸い札への封入処理へ変更。
黒瀬の観測補助のもと、三枝が偏向、固定、凝縮を実施。吸い札一枚に封入。
術後確認にて残留反応なし。
保管室結界および台車残滓管理札の再点検を要す。
透はそれを見て、思わず言った。
「短い」
「管理用なので」
「俺と篠宮さんが揉めたことが消えてます」
「管理上は不要です」
篠宮が言う。
「判断が分かれたことは訓練記録に残せばよいかと」
美緒はすぐに頷く。
「そうです」
透は椅子にもたれた。
「揉め損じゃないですか」
黒瀬が短く言う。
「学んだなら損じゃない」
透は、訓練記録へ別に書いた。
入口で揉める前に、出口を決めること。
希薄で薄める対象か、凝縮して封入する対象かを先に見ること。
観測を入れれば正確になるが、持てない接続を無理に増やすと崩れる。
現時点では、観測を黒瀬に任せ、処置を三接続に絞った。
偏向は固定の代わりではない。
固定は偏向の代わりではない。
入口は術者の癖。出口は対象が決める。
黒瀬がそれを読む。
「最後の一文はいい」
透は顔を上げた。
「褒めました?」
「比較的」
「美緒さんのが移ってる」
美緒は即座に言った。
「私は関係ありません」
篠宮が記録を見ながら言う。
「最後の一文は、私の訓練記録にも転記していいですか」
透は一瞬、固まった。
「え、俺の文章を?」
「はい。必要な記録なので」
透は少しだけ迷い、それから顔を逸らす。
「……引用元を書いてください」
美緒がすぐに言った。
「記録上、必要なら書きます」
「冗談だったんですけど」
「記録は冗談で残しません」
「美緒さん、ほんとにブレないですね」
十三 初歩と基礎と応用
その日の終わり。
透は訓練場で、もう一度揺れる糸を見ていた。
固定。
やはり苦手だ。
水滴を見る。
偏向ならうまくいく。
でも、今日の台車はそれだけでは駄目だった。
曲げるだけでは終わらない。
止めるだけでも終わらない。
薄めるべきか、集めるべきか。
封じるべきか、聞くべきか。
見るべきか。
出口を間違えたら、入口がどれだけ正しくても失敗する。
黒瀬が横に立った。
「分かったか」
透は糸から目を離さずに答える。
「少しは」
「初歩は門だ」
黒瀬は訓練場の入口を見る。
「基礎は道だ」
「道」
「応用は、基礎を順番につなぐことだ」
透は反復する。
「強い術を足すことじゃなくて」
「必要な作用を、必要な順番でつなぐことだ」
「出口から考える」
「そうだ」
透は少し考えた。
「でも、出口まで全部持てない時は?」
黒瀬は当然のように言う。
「持てる範囲でやれ」
「持てないものは?」
「持てるやつに持たせろ」
黒瀬は透を見る。
「ただし、他人の手足を自分のものみたいに扱うな」
透は、台車残滓の処置を思い出す。
黒瀬が観測を持った。
透は処置に絞った。
黒瀬は途中で横から手を突っ込まず、透の処置が終わったあとで確認した。
「渡すなら渡せる形にする」
黒瀬は言う。
「受けるなら受け取れる形になってから受ける」
透は息を吐いた。
「難しいですね」
「簡単なら、事故は起きん」
少し離れたところで、篠宮が自分の札を片づけていた。
透は声をかける。
「篠宮さん」
篠宮が振り返る。
「何ですか」
「今日の台車、偏向先行でもあり得るって言いましたよね」
「条件付きで、です」
「その条件、今度ちゃんと聞きます」
篠宮は少し意外そうにした。
「固定先行が有効な条件も聞いてください」
透は一拍置いて答える。
「まあ、対象によっては」
篠宮は眉を上げる。
「その言い方、私の真似ですか」
「違います」
「似ていました」
「似てません」
黒瀬が言う。
「似てたな」
美緒も言う。
「似ていました」
透は空を仰ぐ。
「味方がいない」
篠宮は、少しだけ口元を緩めた。
「では、次回」
透は動きを止める。
「次回?」
「基礎確認は一回では終わりません」
「え」
美緒が端末を見る。
「来週もあります」
「聞いてない」
「言うと逃げるので」
透は指を立てる。
「それ二回目です」
黒瀬が短く言う。
「逃げるなよ」
透は揺れる糸を見る。
止める。曲げる。散らす。集める。見る。聞く。
自分はまだ、全部を持てない。
でも、今日は一つ分かった。
得意な入口だけでは、現場は終わらない。
透は糸の前に立つ。
「明日も固定からですか」
「そうだ」
「逃げ場ないですね」
「逃げるな」
「偏向には?」
「固定が終わってからだ」
透は少しだけ息を吐いた。
「一拍置きます」
黒瀬は頷く。
「置いたうえで、留めろ」
透は糸を見る。
揺れるものを、押さえつけるのではなく、次へ渡せる形で留める。
一拍。
それから、手を伸ばした。
第2話 初歩は門、基礎は道 了
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片桐美緒の案件補足

入口で揉める前に、出口を確認してください。
| 用語 | 説明 |
|---|---|
| 初歩 | 現場に入れてよいかを確認するための基本動作。札写し、署名、結界縄、塩撒きなど、派手さはないが、手順を飛ばさないかを見るための門。 |
| 基礎 | 術者として現場で動くための土台。簡単という意味ではなく、崩れた時にどこへ逃げるかまで含めて確認される。 |
| 応用 | 強い術を足すことではなく、必要な基礎操作を必要な順番でつなぐこと。 |
| 得意系統 | 術者が扱いやすい術式の方向性。武器になる一方、崩れた時の逃げ道にもなりやすい。 |
| 苦手系統 | 術者が崩れやすい術式の方向性。苦手そのものより、苦手をどう補おうとするかが問題になる。 |
| 対立系統 | 固定と偏向のように、作用の向きが噛み合いにくい系統。小さく噛ませて安定させる技術もあるが、未熟な状態では接続数を増やしただけになりやすい。 |
| 固定 | 対象の動きや作用範囲を留める操作。押さえつけることではなく、次の工程へ渡せる形で留めることが重要。 |
| 偏向 | 流れや負荷を横へずらす操作。三枝透の得意系統だが、固定の代わりに使うと対象範囲を広げる危険がある。 |
| 一拍 | 術式へ逃げる前に、対象・目的・次工程を確認するための短い間。特に、得意系統へ反射的に逃げる術者に必要な確認動作。 |
| 接続 | 複数の術式を同時に出すことではなく、前の作用を次の作用へ渡すこと。観測、固定、偏向、凝縮などの作用を順番につなぐ。 |
| 術式接続数 | 連続または同期して扱える術式作用の数。数が多いほど高度だが、前の作用を保持したまま次へ渡す必要があるため、安定性が要求される。 |
| 存在確率 | 対象が現場にどの程度確かに残っているかを扱うための考え方。術式はこの「残り方」に干渉するため、固定・偏向・希薄・凝縮の順序を誤ると、対象のあり方そのものがずれる。第2話時点では詳細未説明。 |
| 希薄 | 濃くなりすぎた霊障や残滓の干渉を薄める操作。安全に見える場合もあるが、対象によっては薄く広がり、回収を困難にする。 |
| 凝縮 | 対象を封じられる形へ集める操作。濃くするため危険もあるが、吸い札などへ回収する場合に必要となる。 |
| 吸い札 | 霊障や残滓を吸収・封入するための札。第2話では台車残滓を封じるために使用された。 |
| 反復動作型残滓 | 同じ動作や経路が繰り返される形で残った残滓。第2話では、保管室の台車が往復する動きとして現れる。 |
| 訓練用残滓 | 訓練目的で管理・封入されている残滓。危険度が低くても、漏出すれば記録・回収・再点検が必要になる。 |
| 出口 | 処理の終わり方。薄めるのか、集めるのか、封じるのか、確認するのか。入口が正しくても、出口を誤れば処理は失敗する。 |
| 観測補助 | 観測工程を別の術者が担い、処置担当の接続数を減らすこと。ただし、進行中の術式へ横から割り込むこととは異なる。 |
| 管理用報告書 | 発生状況、使用術具、処理結果、再点検事項などを残す文書。管理上必要な事実を簡潔に記録する。 |
| 訓練記録 | 判断の迷い、指導内容、反省点などを残す文書。報告書とは目的が異なり、次の訓練や現場判断に活かすために作成される。 |
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