召喚士が召喚した召喚士~基礎から始める召喚マネジメント講座~TOPへ


※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
一 鳥では見えないもの
召喚士ギルドの依頼掲示板を前にして、リオル・ロステルは前よりも少しだけ落ち着いていた。
少なくとも、依頼札を見てすぐに「何を呼べばいいんだろう」と考えることはなくなった。
まず、何を求められているのか。
何が分かっていて、何が分かっていないのか。
どこまでやれば終わりなのか。
危険になった時、どう止めるのか。
メルセナ先生が教えたことを、頭の中で順番に並べる。
この前、鳥たちに助けてもらって迷子の子どもを見つけた。
赤い帽子。
黄色い肩掛け。
小川。
倒木。
鳥たちが見てきたものを、メルセナが地図に落として、ようやく迷子の場所になった。
リオルはまだ、あの時の報告を覚えている。
赤い。
黄色。
水。
木。
怖い。
人。
あのままでは、何も分からなかった。
情報を集めることと、情報を使える形にすることは別。
それを、リオルは少しだけ理解した。
「今日は、どれを見ればいいんでしょう」
リオルが尋ねると、隣に立つメルセナ・オルブライトは、掲示板を静かに見上げた。
「あなたが選んでください」
「僕がですか?」
「はい。依頼を読む訓練です」
リオルは掲示板を見る。
畑の水撒き補助。
古い倉庫の整理。
屋根に引っかかった布の回収。
小型荷車の押し出し補助。
どれも低難度依頼だ。
ただ、前なら「できそうかどうか」だけを見ていた。今は少し違う。
水撒きなら、水精霊。
倉庫整理なら、力のある召喚対象か、細かいものを運べる小動物。
屋根の布なら、鳥か風精霊。
荷車なら、力のある獣。
どれも、やり方を考えればできそうだった。
けれど、簡単そうに見える依頼ほど、見落としがあるかもしれない。
リオルが依頼札の前で悩んでいると、受付の方からミレイユ・グレインが歩いてきた。
「オルブライト閣下。ロステルさん。ちょうどよい依頼があります」
リオルは少し緊張した。
「また、ちょうどよい依頼ですか」
「はい。低難度ですが、前とは性質が違います」
ミレイユは一枚の依頼札を掲示板の端に留めた。
リオルはその文字を読む。
迷子の羊探し。
依頼者は、森の外れに住む羊飼い。
朝、放牧地へ出した羊の一頭が戻っていない。
羊は白毛。首に青い紐をつけている。
近くの茂み、岩場、浅い森に迷い込んだ可能性がある。
鳥による上空確認では見つからなかった。
狼や野犬の痕跡は今のところない。
ただし、日没までに見つけたい。
「羊……」
リオルは依頼札を見つめた。
前と同じ迷子探し。
けれど、人ではなく羊。
しかも、鳥による上空確認では見つからなかったと書かれている。
「上から見つからなかったんですね」
「はい」
ミレイユが頷く。
「地元の見張りが鳥を使って一度確認したそうです。白い羊なので、草地にいれば見つかるはずだったのですが」
メルセナが言う。
「つまり、上から見えない場所にいる可能性があります」
「茂みの中、倒木の陰、岩場のくぼみ……」
リオルは前の学びを思い出しながら言った。
「よいです」
メルセナが頷いた。
「では、この依頼で必要なものは?」
「上から見ることじゃなくて……足跡か、匂い?」
「はい」
メルセナは依頼札を見る。
「鳥は上から見えるものに強い。ですが、上から見えないものには弱い。今回は、その弱点を受ける依頼です」
リオルは小さく息を吸った。
前の迷子探しでうまくいったからといって、鳥で何でも探せるわけではない。
鳥は、上から見えるものに強い。
けれど、上から見えないものには弱い。
茂みの奥、倒木の陰、岩場のくぼみ。
空から見下ろせない場所にいる相手は、鳥だけでは探しきれない。
「精霊はどうでしょう」
リオルは自分で言ってから、少し考え込んだ。
「水精霊は……羊が川に落ちていれば、何かできるかもしれません。でも、探すには向いてない」
「はい」
「風精霊は匂いを運べるかもしれないけど、匂いを追って報告はできない」
「はい」
「土精霊は足場や地面を扱えるけど、足跡を読んで羊だと判断して戻ってくるわけじゃない」
「はい」
「火精霊は、羊探しには向いてないです」
「よい判断です」
メルセナの声はいつも通り淡々としている。
けれど、リオルは少し嬉しくなった。
精霊がだめなのではない。
今回の目的に合っていない。
そこを分けて考えられた。
「では、何を呼びますか」
メルセナが尋ねた。
リオルは依頼札を見つめた。
匂いを追える相手。
森や茂みの中を進める相手。
羊を見つけられる相手。
鳥ではない。
精霊でもない。
リオルの頭に、一匹の姿が浮かんだ。
灰色の毛。
鋭い目。
けれど、リオルを見る時だけ、少しだけ警戒を緩める若い狼。
「狼なら……」
ミレイユの手が止まった。
「狼?」
メルセナも、ほんの少しだけ視線を鋭くした。
「確認します。あなたは狼を呼べるのですか」
「たぶん……呼べます」
「たぶん」
「前に、森の端で怪我をしていた若い狼を見つけたことがあって」
リオルは少しだけ目を伏せた。
「罠にかかっていたんです。でも、近づくと怖がるから、水と食べ物だけ置いて、少し離れて見ていました。何日かしたら動けるようになって、そのまま森へ帰りました」
「触れたのですか」
「いいえ。触っていません。たぶん、触ろうとしたら噛まれてたと思います」
「賢明です」
「助けたって言っていいのかも分かりません。ただ、水を置いて、餌を置いて、近づきすぎなかっただけです」
メルセナはしばらく黙った。
ミレイユも記録板へ何かを書きかけて、やめた。
「リオル」
「はい」
「それは、かなり召喚士向きの対応です」
「え?」
「弱っている相手に近づきすぎない。助けを押しつけない。相手の警戒を尊重する。呼ばれてもよいと思ってもらう関係は、そういうところから生まれます」
「そうなんですか?」
「はい」
メルセナは続ける。
「ただし、狼は犬ではありません」
「はい」
「命令を聞く前提で考えてはいけません。人間の生活圏に合わせて動くわけでもありません。羊を守るために飼われた牧羊犬とは違います」
「分かっています」
「分かっているなら、呼びましょう」
リオルは頷いた。
胸の奥が、少し緊張で硬くなる。
鳥を呼ぶ時とは違う。
相手は狼だ。
来てくれるかもしれない。
でも、来てくれないかもしれない。
来てくれたとしても、思い通りに動いてくれるとは限らない。
それでも、この依頼には必要な相手だと思った。
二 狼は犬ではない
ギルドの裏庭は、召喚訓練用に広く空けられていた。
地面は踏み固められている。周囲には安全柵があり、低位精霊や小型動物の召喚なら問題なく行えるようになっている。
ただし、狼となると話は違う。
メルセナは安全柵の内側を確認し、さらに外側へ薄い銀の線を走らせた。
「安全範囲ですか?」
「はい。狼が暴れた時のためではありません」
「違うんですか?」
「人が不用意に近づかないためです」
リオルは少し驚いた。
「狼を閉じ込めるんじゃなくて?」
「狼を閉じ込めれば、警戒します。逃げ道がないと感じさせるのは悪手です」
「じゃあ、人を止めるため」
「はい。狼より、人の方が勝手に動くことがあります」
ミレイユが少し気まずそうに笑った。
「見物人が集まる前に、職員には近づかないよう伝えておきます」
「お願いします」
メルセナはリオルを見る。
「呼ぶ前に、条件を整理します」
「はい」
「目的」
「迷子の羊を探すこと」
「対象」
「白い羊。首に青い紐。放牧地から戻っていない」
「やってよいこと」
「匂いを追う。羊を見つける。危険があれば避ける」
「やってはいけないこと」
リオルは一瞬詰まった。
羊を傷つけない。
人を脅かさない。
勝手に遠くへ行きすぎない。
けれど、狼にそれを全部そのまま伝えて通じるのだろうか。
「羊を傷つけない……って言いたいです。でも、狼に羊を追わせる時点で、ちょっと難しい気がします」
「よい疑問です」
メルセナは頷いた。
「狼に『保護』を期待してはいけません」
「保護はできない」
「はい。今回、狼に任せるのは発見までです」
「見つけるだけ」
「そうです。連れ帰ること、守ること、羊飼いに報告することは、別の任務です」
「別の任務……」
「ここを曖昧にすると、失敗します」
リオルは真剣に頷いた。
見つけること。
報告すること。
保護すること。
どれも同じように見えるが、召喚対象からすれば違う。
鳥もそうだった。
鳥は見た。
でも、地図にはできなかった。
狼も同じなのだろう。
羊を見つけられる。
でも、人間が期待する形で報告してくれるとは限らない。
「終了条件は?」
「羊を見つけたら、戻ってくること」
リオルはそう言ってから、少し迷った。
「危ないなら戻ってきて。無理なら帰っていい」
「よいです」
「それだけで大丈夫でしょうか」
「十分とは言いません」
メルセナは淡々と答えた。
「ただ、今のあなたが狼に無理なく伝えられる範囲としては悪くありません」
「もっと細かく言わなくていいんですか?」
「細かく言いすぎて、狼にとって不自然な指示になるのも問題です。あなたはまだ、狼の報告方法を知りません」
「報告方法……」
「はい。今回は、狼がどう理解し、どう戻るのかを見ます」
「戻ってくるんですよね」
「そのように頼みました」
リオルは頷いた。
戻ってくる。
羊を見つけたら戻ってくる。
そう思っていた。
メルセナも、それ以上は何も言わなかった。
この時点では、リオルもメルセナも、狼が戻ってこないとは考えていなかった。
メルセナは少し離れた。
「呼びましょう」
リオルは目を閉じる。
鳥を呼ぶ時のように軽くはない。
狼の気配は、森の奥の匂いに似ていた。
湿った土。
草の陰。
夜の空気。
遠くでこちらを見ている目。
「来られるなら、来てほしい」
リオルは小さく言った。
「羊を探したいんだ。匂いを追える君の力を借りたい」
足元に召喚陣が広がる。
鳥の時よりも線は太い。
けれど、光は荒くない。
ゆっくりと、慎重に、道がつながっていく。
空気が少しだけ冷えた。
次の瞬間、召喚陣の向こうに灰色の影が現れた。
若い狼だった。
痩せてはいない。
毛並みも悪くない。
ただ、右後ろ脚に、古い傷跡が残っている。
狼は現れるなり、低く身を沈めた。
唸らない。
吠えない。
ただ、こちらを見ている。
リオルは動かなかった。
近づかない。
手を伸ばさない。
目を合わせすぎない。
昔、森の端でそうしたように、少しだけ視線を外して立つ。
「来てくれてありがとう」
狼は鼻を鳴らした。
ミレイユが小さく息を飲む。
「本当に狼……」
メルセナは狼を見て、次にリオルを見た。
「鳥十羽に続き、狼ですか」
「すみません」
「謝ることではありません」
「でも、ちょっと変ですよね」
「かなり変です」
「そこは否定してほしかったです」
「事実は事実です」
狼はリオルの近くへ一歩だけ寄った。
それ以上は近づかない。
リオルも近づかない。
ちょうどよい距離が、そこにあった。
「羊を探したいんだ」
リオルは、羊飼いから預かった羊の毛を取り出した。
白い毛をまとめた小さな布袋。
狼はそれに鼻を近づける。
匂いを嗅ぐ。
耳が少し動いた。
「白い羊。首に青い紐がある。見つけたら戻ってきて。危ないなら戻ってきて。無理なら帰っていい」
リオルはそう伝えた。
それ以上、うまく言えなかった。
羊を見つけてほしい。
でも、傷つけてほしくない。
追い立ててほしくもない。
狼に、人間の都合だけを押しつけたくもない。
だから結局、言えたのはそこまでだった。
メルセナは少しだけ沈黙した。
「戻る指示は出しましたね」
「はい」
「ただし、報告方法は曖昧です」
「……はい」
「今回は、それで試しましょう」
「いいんですか?」
「今のあなたが、狼に無理なく伝えられる範囲です。最初から完璧な指示を出そうとして、かえって不自然になるよりはよいです」
リオルは小さく頷いた。
狼はもう一度鼻を鳴らした。
次の瞬間、低く地面を蹴り、柵の隙間を抜けるように外へ出た。
安全範囲は狼を閉じ込めない。
狼は一度だけ振り返り、それから森の方向へ走っていった。
リオルはその背中を見送った。
見つけたら、戻ってくる。
そう思っていた。
三 匂いを追うもの
羊飼いの牧草地は、森の手前に広がっていた。
草は短く刈られ、木の柵で囲われている。奥には浅い茂みがあり、その向こうに細い獣道が続いていた。
羊飼いは、痩せた中年の男性だった。
帽子を握りしめ、何度も森の方を見ている。
「白い雌羊です。首に青い紐をつけてます。朝は確かに群れにいたんです。でも、昼前に数えたら一頭いなくて」
「鳥では見つからなかったと聞きました」
メルセナが確認する。
「はい。見張りの者が鳥を使って見てくれたんですが、草地にも道にもいないと」
「茂みか、岩陰か、段差に落ちた可能性があります」
「狼や野犬ではないですよね」
羊飼いの声が震えた。
リオルは答えられなかった。
狼を呼んだ。
そのことを言ってよいのか迷ったからだ。
メルセナが代わりに言う。
「現時点では断定しません。今、匂いを追える召喚対象に確認させています」
「犬ですか?」
「狼です」
羊飼いの顔が固まった。
「狼」
「はい」
「羊を探すのに、狼ですか」
「はい」
羊飼いは、帽子を握る手に力を込めた。
「食べませんよね」
リオルは思わず口を開いた。
「食べないようにお願いしました」
「お願い……」
羊飼いの不安はまったく消えていなかった。
当然だ。
羊を探すために狼を呼びましたと言われて、安心する羊飼いはいない。
リオルは自分でも、かなり変なことをしている自覚があった。
メルセナは淡々と言う。
「狼に任せたのは発見までです。保護は人間側で行います」
「見つけたら戻ってくるように頼みました」
リオルが付け加える。
羊飼いはまだ不安そうだったが、メルセナがいるためか、それ以上は言わなかった。
待つ時間が始まった。
鳥の時と違い、空を見ても何も分からない。
狼は森の中へ入っている。
枝の揺れも見えない。
鳴き声もない。
ただ、行ったきりだ。
「先生」
「何でしょう」
「狼が羊を見つけたら、戻ってきますよね」
「そのように頼みました」
「ですよね」
リオルは森を見る。
狼はまだ戻らない。
羊飼いは落ち着かない様子で歩き回っている。
ミレイユは記録板に、召喚対象、指示、経過時間を書き込んでいた。
日が少し傾く。
森の影が伸びる。
それでも、狼は戻ってこなかった。
「……遅いですね」
リオルが呟く。
メルセナはすぐには答えなかった。
その沈黙で、リオルの胸の中に不安が広がった。
「先生?」
「想定より遅いです」
「想定より」
「はい」
メルセナは森を見たまま言う。
「狼が匂いを追うこと自体は、目的に合っていました。戻るようにも伝えました」
「じゃあ、何が」
「戻る、という言葉が曖昧でした」
リオルは息を止めた。
「曖昧……」
「はい。犬なら、飼い主や家へ戻るよう訓練されていることがあります。人間の生活圏に、戻る場所が結びついています」
「狼は違う」
「違います。狼にとって戻る場所は、自分の住処です。縄張りであり、安全な場所です」
リオルは森を見た。
「じゃあ、僕が戻ってきてって言った時、あの子は……」
「あなたのところへ戻るとは限りません」
「自分の場所へ戻った」
「その可能性があります」
「でも、僕は……」
「はい。あなたは、自分のところへ戻ってくると思っていました」
メルセナは一拍置いた。
「私もです」
リオルはメルセナを見た。
メルセナは無表情だった。
けれど、その言葉ははっきりしていた。
「先生も?」
「はい。私も、戻るという言葉を人間側の感覚で取りすぎました」
リオルは森へ視線を戻した。
狼は犬ではない。
何度も言われた。
分かっていたつもりだった。
でも、見つけたら戻るだろうと、どこかで思っていた。
狼にとっての戻る場所が、自分のところではないかもしれないとは考えていなかった。
日がさらに傾いた。
森から狼は戻らなかった。
羊飼いは肩を落とした。
「今日は、もう暗くなります」
ミレイユが小さく言った。
メルセナは頷いた。
「人間側の捜索はここまでです。暗くなってから森へ入れば、捜索対象を増やすだけになります」
「狼は……」
リオルの声は小さかった。
「召喚のつながりは、かなり薄くなっています。無理につなぎ続けるべきではありません」
「僕が切ったら、狼は帰れますか」
「帰れます。ただし、何をしていたのかは分かりません」
リオルは拳を握った。
それでも、これ以上つなぎ続ける方が危険だと分かった。
「戻って。今日は、もういい」
リオルはそう言って、召喚のつながりをほどいた。
狼の気配が遠のいた。
羊は見つからなかった。
少なくとも、人間には伝わらなかった。
リオルは、何も言えなかった。
四 羊の毛
翌朝。
リオルは、ギルドへ向かう前に裏庭へ行った。
昨日の召喚場所。
狼を呼んだ場所。
失敗したかもしれない場所。
朝の空気は冷たかった。
草の先に露が残っている。
リオルは、しばらく何も言わずに立っていた。
「リオル」
背後からメルセナの声がした。
「おはようございます、先生」
「おはようございます」
メルセナはリオルの隣へ立つ。
「眠れましたか」
「少しだけ」
「なら、十分です」
「十分なんですか」
「寝ていないよりは」
「基準が低い……」
リオルは少しだけ笑った。
けれど、すぐに表情を曇らせる。
「先生。僕、昨日、狼に無理させましたか」
「可能性はあります」
「羊を探すのに、狼を呼んだのも間違いだったんでしょうか」
「間違いとは断定しません。目的には合っていました」
「でも、戻ってきませんでした」
「はい。そこが想定外でした」
リオルは俯いた。
見つけることと、報告することは別。
分かったつもりだった。
戻ってきて、と頼んだ。
けれど、どこへ戻るのか。
自分のところへ戻るのか。
羊のいた場所へ戻るのか。
それとも、狼自身の住処へ戻るのか。
そこまで決めていなかった。
狼が戻ってこなかったのは、狼が命令を無視したからではないのかもしれない。
リオルの頼み方では、狼にとって戻る場所が決まっていなかったのかもしれない。
その時、裏庭の端で草が揺れた。
リオルが顔を上げる。
灰色の狼がいた。
昨日呼んだ若い狼。
召喚陣はない。
つまり、リオルが今呼んだわけではない。
狼は自分の足で、近くまで来ていた。
口に、白いものをくわえている。
「先生」
「動かないでください」
メルセナの声は静かだった。
狼はゆっくり近づいた。
リオルから少し離れた場所で止まる。
そして、口にくわえていた白いものを、地面に落とした。
白い毛だった。
羊の毛。
リオルの息が止まる。
「まさか……」
羊飼いの不安そうな顔が頭をよぎった。
食べたのでは。
その考えが浮かんで、リオルは青ざめた。
「先生、これ」
「落ち着いてください」
「でも、羊の毛だけ」
「確認します」
メルセナは狼と毛の位置を見た。
リオルに近づくよう促さない。
自分も不用意に近づかない。
狼は、白い毛を置くと、リオルを見た。
責めるようでも、誇るようでもない。
ただ、持ってきた。
そういう顔だった。
「僕、見つけたら戻ってきてって言っただけなのに……」
リオルは小さく呟いた。
「この子、分かるものを持ってきてくれたんでしょうか」
「その可能性が高いです」
メルセナが言った。
「毛の量が少なすぎます。血もありません。食べた証拠ではなく、対象に接触した、あるいは対象のいた場所を示す証拠と見るべきです」
「でも、場所は分かりません」
「はい」
「戻ってきてくれた。見つけたことも、たぶん教えようとしてくれた。でも、僕たちには場所が分からない」
「それが今回の問題です」
リオルは狼を見る。
狼は、ただこちらを見返していた。
狼にとっては、十分な報告だったのかもしれない。
羊を見つけた。
毛を持ってきた。
だから分かるだろう。
そう言っているようだった。
メルセナは黙って、その狼を見ていた。
今回の行動は、彼女にとってもかなり想定外だった。
狼がリオルの足元へ戻らないことは、説明できる。
狼にとっての戻る場所は、自分の住処であり、安全な場所だからだ。
だが、その狼が翌朝、羊の毛をくわえてリオルの前に現れたこと。
ただ自分の場所へ帰っただけではなく、リオルに何かを伝えようとしたこと。
それは、契約で縛った行動ではなかった。
命令に従った、というだけでもない。
お願いを聞いた。
そう表現する方が、近かった。
「……僕が、そこまで分かれるように頼めてなかったんですね」
「はい」
メルセナは淡々と頷いた。
「ただし、狼はかなり察してくれています」
「察してくれた」
「はい。戻るだけではなく、羊と関係するものを持ち帰った。これは、あなたの意図を汲んだ行動です」
リオルは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
失敗した。
でも、狼は応えてくれていた。
ただ、その応えを人間が使える形にするところまで、リオルが設計できていなかった。
「場所、分かる? 案内できる?」
リオルは狼に尋ねた。
狼は少しだけ首を動かした。
すぐには動かない。
リオルは焦りかけたが、メルセナが止める。
「指示を整理してください」
「はい」
リオルは息を整える。
「昨日の羊の場所へ案内してほしい。僕たちは歩く。君は先に行きすぎない。危ない場所があったら止まって。羊を追い立てない。見えるところまででいい」
狼はじっとリオルを見た。
それから、ゆっくりと背を向ける。
数歩進んで、振り返った。
ついてこい。
そう言っているようだった。
メルセナが頷く。
「行きましょう。今度は、案内任務です」
「はい」
リオルは走り出しそうになる足を抑えた。
狼は犬ではない。
でも、今は案内してくれている。
その距離を間違えてはいけない。
五 羊は食べられていない
狼は森の端を進んだ。
速すぎない。
けれど、人間に合わせて歩いているというより、時々振り返って、人間が遅れすぎていないか確認しているようだった。
リオル、メルセナ、ミレイユ、羊飼い。
それに、地元の捜索隊員が二人。
一行は狼の後を追う。
羊飼いは青ざめた顔で、リオルの少し後ろを歩いていた。
「あの、本当に食べられていないんですよね」
「現時点では、食べられた証拠はありません」
メルセナが言う。
「ないだけですよね」
「はい。だから確認しに行きます」
羊飼いはさらに青ざめた。
リオルは申し訳なくなった。
「あの、すみません。僕の頼み方が足りなかったせいで」
「い、いや。探してもらっている立場ですから」
羊飼いはそう言ったが、不安は消えていなかった。
当然だ。
大事な羊を探すために狼を使い、その狼が羊の毛だけ持って帰ってきた。
普通なら最悪の想像をする。
森の中へ入ると、昨日見た牧草地とは違う匂いがした。
湿った草。
獣道。
古い落ち葉。
羊の匂いはリオルには分からない。
けれど、狼には分かるのだろう。
狼は何度か足を止め、地面の匂いを嗅いだ。
そして、茂みの奥へ進む。
「こんなところ、人間だけでは見落としますね」
ミレイユが呟いた。
茂みの奥には、低い岩場があった。
岩と木の根の間に、浅いくぼみがある。
そこから、かすかな鳴き声がした。
「メェ……」
羊飼いが走り出しかけた。
メルセナがすぐに言う。
「走らないでください。羊が暴れます」
羊飼いは足を止めた。
リオルたちは慎重に近づく。
白い羊がいた。
首には青い紐。
足が木の根と岩の間に挟まっている。
毛が少し抜けているが、血はほとんどない。
生きている。
食べられていない。
羊飼いが大きく息を吐いた。
「よかった……!」
リオルも胸を撫で下ろした。
「よかった……本当によかった……」
狼は少し離れた場所に座っていた。
羊へ飛びかかる様子はない。
ただ、ここだ、と言うように見ている。
メルセナは状況を確認する。
「羊を刺激しないように。木の根を切るか、岩側を少し削ります。土精霊を使います」
「先生が呼ぶんですか」
「はい。保護は狼の任務ではありません」
「見つける任務と、保護する任務は別」
「その通りです」
メルセナは土精霊を呼び、岩の周囲の土を少しずつ緩めた。
羊飼いと捜索隊員が羊を支える。
リオルは羊の頭側に立ち、暴れないように声をかけた。
「大丈夫。もう少しだから」
羊が弱々しく鳴く。
木の根の隙間から足が抜けた。
羊飼いが羊を抱きしめる。
「よかった……本当に、よかった」
リオルは、今度こそ肩の力を抜いた。
依頼は完了した。
ただし、きれいにできたわけではない。
昨日のうちに場所を聞けていれば、羊は一晩ここで過ごさずに済んだ。
狼は見つけていた。
しかも、見つけたことを伝えようとしてくれていた。
でも、報告方法が十分ではなかった。
それが、今回の失敗だった。
六 毛だけでは分からない
牧草地へ戻ると、羊は簡単な手当てを受けた。
足に大きな怪我はない。
しばらく休ませれば歩けるだろうと、羊飼いは何度も頭を下げた。
「ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」
「礼はリオルと狼へ」
メルセナが言う。
リオルは慌てて手を振った。
「僕は、ちゃんとできたわけじゃないです。昨日のうちに場所を聞けなかったので」
「それは課題です」
「はい」
羊飼いは狼の方を見た。
まだ少し怖そうだった。
けれど、最初よりは違う目になっている。
「その狼にも、礼を言うべきなんでしょうな」
狼は羊飼いを見た。
羊飼いはびくりとする。
それでも、帽子を取った。
「……助かった。うちの羊を見つけてくれて、ありがとう」
狼は返事をしなかった。
ただ、鼻を鳴らした。
それで十分だった。
リオルは鞄から肉を干したものを取り出した。
鳥用の穀物とは違う。
狼に渡せるように、ミレイユが用意してくれたものだ。
「ありがとう。無理させてごめん」
リオルは肉を地面に置き、少し下がった。
狼は近づき、匂いを嗅ぎ、それをくわえた。
その場で食べず、少し離れてから食べ始める。
メルセナが言う。
「よい距離です」
「近づきすぎない方がいいですよね」
「はい。あなたは分かっています」
「分かってないところもあります」
「それも分かっています」
「先生、言い方」
「正確です」
リオルは苦笑した。
メルセナは、地面に置かれた羊の毛を見た。
「今回の問題を整理します」
「はい」
「一つ。召喚対象の選定は妥当でした。鳥では見えない。精霊では報告できない。匂いを追う必要がある。狼は目的に合っています」
「はい」
「二つ。狼に任せる範囲を限定したのは良かった。発見まで。保護は人間側。これは正しい」
「でも」
「三つ。戻る場所と報告方法が不足していました」
リオルは頷く。
「僕は、見つけたら戻ってきてとしか言っていませんでした」
「はい」
「でも、狼にとっての戻る場所は、僕のところとは限らない」
「はい。自分の住処である可能性が高いです」
「それでも、狼は来てくれた。しかも、羊の毛を持ってきてくれた」
「かなり意図を汲んだ行動です」
「でも、羊の毛だけだと、食べたのか、見つけたのか分かりませんでした」
「はい。狼にとっては十分な報告だった可能性があります」
「羊の匂い。羊の毛。見つけた証」
「ですが、人間側には不十分でした」
「人間が分かる形にする必要がある」
「その通りです」
「羊の毛だけじゃ、場所は分からない」
「その通りです」
リオルは狼を見る。
狼は肉を食べ終え、前脚を舐めている。
悪びれる様子はまったくない。
たぶん、本当に悪いことをしたとは思っていない。
羊を見つけた。
毛を持って帰った。
それで十分だと思ったのだろう。
「僕が、狼に分かるように頼めてなかったんですね」
「はい」
「でも、狼はちゃんと見つけてくれた」
「はい」
「それに、ただ戻るだけじゃなくて、分かるものを持ってきてくれた」
「はい」
「じゃあ、次は戻る場所と、報告の仕方を決めればいい」
「よい学びです」
リオルは、鳥たちの報告を思い出した。
赤い。
黄色。
水。
木。
怖い。
人。
あの時も、集まった情報をそのまま受け取るだけでは足りなかった。
鳥には鳥の伝え方があり、狼には狼の伝え方がある。
それを人間が使える形にするところまで考えなければ、依頼は終わらない。
「鳥の時も、今回も、同じなんですね」
「はい。見つけることと、人間が使える形で伝えることは別です」
リオルは少しだけ笑った。
失敗した。
でも、全部が失敗ではなかった。
狼は羊を見つけた。
羊は無事だった。
狼は、リオルの意図を汲んで、羊の毛を持ってきた。
リオルは報告設計が足りないことを知った。
それは、次に直せる失敗だった。
七 狼の距離
依頼完了の記録は、ギルドへ戻ってから行われた。
ミレイユは記録板に、今回の経過を丁寧に残していく。
召喚対象、若い狼。
召喚理由、羊の匂い追跡。
初回指示、対象発見後の帰還。
結果、翌朝に羊の毛を持ち帰る。
追加指示、発見場所への案内。
羊は生存。
依頼達成。
課題、戻る地点および報告方法の事前設計不足。
リオルは横からそれを見て、少し顔をしかめた。
「記録にすると、僕の失敗がすごく分かりやすいですね」
「記録はそのためにあります」
ミレイユが言う。
「成功だけ書くと、次に同じ失敗をしますから」
「そうですよね……」
メルセナも頷く。
「今回の記録は有用です。鳥と狼で、報告の違いが見えました」
「鳥は見たものをばらばらに持ってきました」
「はい」
「狼は羊の毛を持ってきたけど、場所を言えませんでした」
「はい」
「召喚対象ごとに、報告方法を考えないといけない」
「その通りです」
リオルは深く息を吐いた。
「召喚マネジメント、難しいですね」
「はい」
「即答」
「簡単なら、私の仕事はもっと少ないです」
「先生は忙しいんですか?」
「重要な仕事は多いです」
「退屈では?」
メルセナは一瞬だけ止まった。
「重要な仕事は多いです」
「二回言いました」
「重要なので」
ミレイユが記録板の陰で少し笑った。
リオルは気づかなかった。
その時、ギルドの外で狼の気配がした。
リオルが顔を上げる。
裏口の少し離れた場所に、灰色の狼が立っていた。
もう召喚状態ではない。
けれど、まだ帰りきっていない。
リオルは近づこうとして、一歩で止まった。
狼は犬ではない。
呼んだからといって、撫でていいわけではない。
助けてくれたからといって、飼いならせたわけでもない。
「ありがとう」
リオルはその場で言った。
「次は、もっとちゃんと頼む」
狼はリオルを見た。
それから、何事もなかったように背を向けた。
森の方へ歩いていく。
リオルは追わなかった。
その距離が、たぶん正しい。
メルセナが隣に立つ。
「よい判断です」
「追いかけたら、嫌がりますよね」
「はい」
「でも、また来てくれるでしょうか」
「関係を壊さなければ、可能性はあります」
「関係を壊さない」
「無理に近づかない。無理に使わない。できないことを任せない。できたことには報いる」
「鳥と同じですね」
「はい。相手が鳥でも狼でも、原則は同じです」
リオルは、狼が消えていった森の方を見た。
鳥は空から見た。
狼は匂いを追った。
どちらも、自分とは違う世界を持っている。
召喚士は、その世界を借りる。
けれど、借りたものを人間の都合だけで使えば、たぶんうまくいかない。
同じ依頼の中に、いくつもの任務がある。
それを分けて、相手に合う形で頼まなければならない。
「狼は、羊の毛だけを持ち帰る」
「はい」
「でも、それは狼なりの報告だった」
「はい」
「戻ってきて、だけじゃだめだったんですね」
「だめ、というより、不足です」
メルセナは淡々と言った。
「言葉は、相手の世界に合わせて設計します」
短い言葉だった。
けれど、リオルにはそれだけで十分だった。
鳥には鳥の見え方がある。
狼には狼の戻る場所がある。
同じ言葉でも、相手が違えば意味が変わる。
「次は、そこまで考えます」
「よいです」
メルセナは頷いた。
そして、リオルを静かに見た。
リオルの召喚は、契約というよりお願いに近い。
呼びつける。
従わせる。
命じる。
そういう形ではない。
来てほしい。
助けてほしい。
無理なら帰っていい。
危ないなら戻っていい。
その言葉は、召喚士の命令としてはあまりに柔らかい。
けれど、だからこそ鳥が来る。
だからこそ狼が応じる。
メルセナは、その無邪気さを美徳としてだけ見ることはできなかった。
無邪気さは、白ではない。
白なら、すでに善意という色がある。
だが、リオルのそれは白というより、まだ色のついていないものだった。
無色。
相手を支配しようとしない。
押しつけようとしない。
だから、小さな鳥も、警戒心の強い狼も、リオルに応じる。
だが、無色は白にも染まる。
黒にも染まる。
誰が何を教えるかで、簡単に変わる。
リオルの召喚は、得がたい資質だった。
同時に、とても危うい資質でもあった。
「先生?」
黙ったメルセナを見て、リオルが首をかしげる。
「何か、だめでしたか?」
「いいえ」
メルセナは答えた。
「あなたは、狼を犬扱いしませんでした」
「はい」
「それは大事なことです」
リオルは少しだけ安心したように息を吐いた。
「でも、戻る場所までは考えられてませんでした」
「だから、次に考えます」
「はい」
リオルは、森の方へもう一度頭を下げた。
灰色の狼の姿は、もう見えない。
けれど、あの狼が残した羊の毛の意味は、今なら少し分かる気がした。
見つけた。
持ってきた。
あとは、お前が分かれ。
狼は、たぶんそう言っていたのだ。
リオルは苦笑した。
「次は、分かれるようにします」
「よいです」
メルセナは頷いた。
先生でいる理由が、一つ増えた気がした。
召喚士の仕事は、また少し広がった。
空の次は、匂い。
鳥の次は、狼。
そして、見つけることの次には、報告することがあった。
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