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見届ける者たち
玉座の間には、魔王だけがいたわけではなかった。
死霊宰相。
竜将。
吸血侯。
近衛たち。
魔王軍の対勇者戦略を積み上げてきた者たちが、玉座の間の左右に控えている。
彼らはすでに武器を取っていた。
竜将は、今にも前に出そうだった。
吸血侯の影は床を這っている。
死霊宰相の杖には、黒ずんだ魔力が集まっていた。
ロアンたちは、四人とも傷だらけだった。
ここまで来るだけでも限界に近い。
排水路を通り、結界をずらし、壁を抜け、追撃を避けてきた。
息は荒い。
腕は重い。
足は震えている。
もし魔王だけでなく、この者たちまで同時に動けば、勝ち目はない。
ミルカはそれを理解している。
ガルドも分かっている。
エナは、胸の奥に嫌な痛みを感じている。
ロアンは剣を握り直した。
その剣は、もう何度も魔力を受け、刃に小さな傷が入っている。
折れてはいない。
でも、余裕があるわけでもない。
竜将が一歩前に出かけた。
その瞬間、魔王が片手を上げる。
「手を出すな」
玉座の間の空気が止まった。
竜将が顔を上げる。
「陛下」
魔王はロアンたちを見たまま言う。
「これは、対勇者戦略の結論だ」
死霊宰相が黙る。
吸血侯の影も止まる。
魔王は続けた。
「勇者の条件を持たぬ者たちが、ここまで来た。ならば見ろ。殺すためではない。知るためにだ」
竜将は歯を食いしばった。
「なぜ、ここまで!」
その声には怒りがあった。
だが、それだけではない。
理解できないものへの苛立ちが混じっていた。
なぜ天空要塞は落ちていない。
なぜ転移門も破られていない。
なぜ大軍も来ていない。
なぜ勇者の血筋もない。
なぜ神託もない。
なぜ聖剣も聖痕もない。
それなのに、なぜここまで来た。
魔王は答えない。
ただ、玉座の前で完全に立ち上がる。
「手を出せば、分からぬまま終わる」
魔王の足元から、黒い魔法陣が広がった。
床を走り、柱を伝い、玉座の間を囲むように結界が立ち上がる。
ロアンたちと魔王を中心に、薄い黒の膜が張られた。
竜将が一歩踏み出す。
「陛下!」
結界が竜将を阻む。
魔王は振り返らない。
「見ろ」
その一言で、対勇者戦略を作ってきた者たちは結界の外に残された。
戦うためではない。
殺すためでもない。
魔王が何を見落としたのかを、見届けるために。
ロアンは結界の外を一瞬だけ見た。
敵ばかりだ。
だが、今は入ってこない。
魔王が止めている。
それが救いなのか、さらに恐ろしいことなのか、ロアンには分からなかった。
魔王が立つ
結界の内側で、魔王が立つ。
それだけで、玉座の間の空気が変わった。
床の魔法陣が淡く光る。
黒い柱の灯りが揺れる。
重い魔力が、目に見えない水のように足元へ満ちていく。
ロアンは剣を抜いた。
ミルカは杖を構える。
エナは小さく息を整える。
ガルドは一歩前に出る。
魔王が言う。
「ならば、証明してみせろ。条件なき者たちよ」
ロアンは、その言葉に少しだけ違和感を覚えた。
証明。
そんなものをしに来たわけではない。
勇者であることを示しに来たわけでもない。
正しさを見せに来たわけでもない。
ただ、ここまで来た。
そして、ここで止まるわけにはいかない。
ロアンは仲間を見る。
ミルカの額には汗がにじんでいる。
エナの手は震えている。
ガルドの顔からは、いつもの軽さが消えている。
それでも、三人ともそこにいる。
ロアンは言った。
「散らない。離れすぎない。いつも通りで」
ミルカが顔をしかめる。
「いつも通りで魔王と戦うの、だいぶおかしいから」
ガルドが言う。
「でも、それ以外にできることもないだろ」
エナが小さくうなずいた。
「大丈夫。たぶん、まだ帰れます」
ロアンは短く答える。
「じゃあ、帰ろう」
その言葉を合図に、魔王が動いた。
第一撃
魔王の初撃は、剣でも爪でもなかった。
玉座の間そのものが動いたように見えた。
床の魔法陣が黒く光る。
四方から魔力の波が押し寄せる。
壁から。
床から。
柱の影から。
空気の隙間から。
逃げ場がない。
ロアンは前へ出ようとして、即座に足を止めた。
進めば飲まれる。
下がれば分断される。
どうする。
考えるより先に、エナの声が飛んだ。
「下がらないで!」
ロアンは足を止めたまま、剣を構える。
ミルカが杖を振る。
大きな魔法ではない。
魔力の波の一点を細く突き、流れをずらす。
波が裂ける。
ほんの少し。
人ひとりが立てるほどの裂け目。
ガルドが、その裂け目に体を滑り込ませた。
魔王へ届くには遠い。
だが、仲間へ向かう魔力の刃を斬り落とすには十分だった。
黒い刃が砕ける。
衝撃でガルドの足が床を削る。
ロアンは思った。
一人なら、最初の一撃で終わっていた。
自分一人なら、進むか下がるかを選ぶ間に飲まれていた。
ミルカ一人なら、波を逸らしても次に押し潰されていた。
エナ一人なら、危険を感じても避けきれなかった。
ガルド一人なら、前へ出すぎて分断されていた。
だが、四人ならまだ立っている。
ロアンは叫ぶ。
「この間合いを保つ!」
ミルカが答える。
「簡単に言わない!」
「簡単じゃないから、お願い!」
「言い方!」
エナがロアンの袖を軽く引く。
「右、少しだけ」
ロアンは理由を聞かずに動く。
直後、さっきまで立っていた場所から黒い槍が突き上がった。
ガルドが低く言う。
「見えない槍は、嫌だな」
ミルカが息を切らしながら返す。
「見える槍も嫌よ」
「たしかに」
結界の外で、竜将が拳を握る。
吸血侯は黙って見ている。
死霊宰相は、戦闘の流れを記録するように視線を動かしている。
彼らもまた、理解し始めていた。
この四人は、一人ずつなら魔王に届かない。
だが、四人で崩れない。
四人で一つ
魔王は、すぐに理解した。
ロアンには突出した聖性がない。
ミルカは大魔術師のような圧倒的な魔力量を持たない。
エナは中央神殿の聖女ではない。
ガルドは名門剣士の型を持たない。
だが、崩れない。
ロアンが位置を整える。
ミルカが魔力の流れをずらす。
エナが致命的な瞬間だけを避ける。
ガルドが最短で剣を入れる。
誰か一人を潰せば崩れるはずだった。
勇者戦なら、そうだった。
勇者を孤立させる。
治癒役を落とす。
魔術師を潰す。
側面の剣士を引き離す。
そうすれば、勇者は一人になる。
一人になった勇者は、倒せる。
だが、この四人は違う。
中心はある。
ロアンだ。
しかし、ロアンを殺せば終わるという単純な形ではない。
ロアンは絶対の柱ではない。
支点だ。
動く支点。
足りないところを埋める者。
判断をつなぐ者。
魔王は魔力の刃をミルカへ向ける。
ロアンが前へ出る。
魔王はその隙にエナを狙う。
ガルドが入る。
魔王がガルドを押さえようとすれば、ミルカが要を突く。
ミルカを潰そうとすれば、ロアンが視線をずらす。
エナは、どこを狙われても一瞬早く動く。
完璧ではない。
穴はある。
疲弊もしている。
だが、その穴を誰かが塞ぐ。
結界の外で、死霊宰相が低くつぶやいた。
「勇者単独ではない。相互補完……」
吸血侯は目を細める。
「名ではない。動きだ」
竜将は何も言わない。
ただ、ロアンたちを見ている。
なぜ、ここまで。
その答えが、戦いの形として目の前に出始めていた。
勇者殺しの型
魔王は、過去の勇者戦の記録を知っている。
勇者は前へ出る。
仲間は支える。
聖剣は魔王の魔力を裂く。
神官は勇者を癒す。
魔術師は後方から援護する。
剣士は側面を守る。
だから魔王は、勇者を孤立させるための戦い方を持っていた。
床の魔法陣が変わる。
四人の足元に、別々の光が走った。
ロアンとミルカの間。
ミルカとエナの間。
エナとガルドの間。
ガルドとロアンの間。
分断する線。
ミルカが気づく。
「離される!」
ロアンが叫ぶ。
「散らない!」
ガルドは前へ出かけて、踏みとどまった。
いつもの癖なら、強い敵へ飛び込む。
だが今は違う。
ロアンが散るなと言った。
エナがロアンの袖を掴む。
「右へ半歩!」
ロアンは理由を聞かずに動く。
直後、さっきまで立っていた場所に黒い槍が突き立つ。
ミルカが分断線の要を見つける。
「壊せない。ずらす」
魔王城の結界にやったのと同じ。
大きく壊さない。
要だけずらす。
ミルカの魔力が細く集まり、黒い線の一点へ刺さる。
分断線が少し曲がった。
完全には消えない。
だが、四人の間に細い道が残る。
ロアンはその道を使って位置を戻す。
ガルドが一歩下がる。
エナがミルカの背後へ寄る。
四人の距離が、ぎりぎりで保たれた。
魔王の分断は失敗する。
結界の外で、吸血侯が小さく言う。
「勇者を殺す型では、噛み合わぬ」
死霊宰相は黙っている。
だが、その言葉を否定しない。
竜将が低く呻く。
「なら、何の型だ」
誰も答えられなかった。
なぜここまで
魔王は、戦いながら問う。
「勇者でもない者が、なぜここまで来た」
ロアンはすぐには答えられない。
魔王の攻撃が速い。
考える余裕などない。
ガルドが魔王の魔力刃を受け流し、腕を痺れさせる。
ミルカがその隙に魔法陣の端を焼き切る。
エナがガルドの手首に触れ、動く程度に癒す。
ロアンが前へ出る。
魔王の問いは続く。
「血筋もない」
ロアンは剣を振る。
「ないです」
「神託もない」
エナが息を飲む。
「ありません」
「聖剣もない」
ロアンは魔王の一撃を受け、吹き飛ばされかける。
「もらいものです」
「聖痕もない」
ミルカが魔法を収束させる。
「たぶん、ないです」
「天空も落としていない」
ガルドが短く言う。
「通ってない」
魔王は言う。
「ならば、なぜここまで来た」
ロアンは息を吸った。
答えは、格好よくない。
運命でもない。
神託でもない。
選ばれたからでもない。
けれど、嘘ではない。
「ここまで来たからだ」
玉座の間に、その言葉が落ちる。
結界の外で、竜将の表情が歪んだ。
それは答えになっているようで、なっていない。
魔王も一瞬、目を細めた。
ロアン自身も、それが十分な答えなのか分からない。
けれど、ロアンにとってはそれが一番近い。
ここまで来た。
それ以上でも、それ以下でもない。
ここまで来たからだ
魔王は一瞬、言葉の意味を測りかねた。
ロアンは剣を握り直す。
言葉にしたことで、頭の中にこれまでの道が浮かんだ。
村を出た。
隣村まで行った。
洞窟の向こうへ知らせに行った。
エナと会った。
ガルドと会った。
灰の一団になった。
報酬を受け取ると決めた。
西の大国を出た。
海では、人魚ではなく海を知る人たちに頼った。
森では、導きの石を作り直した。
火山では、水の精霊王ではなく堤を切った。
空の目を避けた。
魔王城の排水路を抜けた。
戻る理由を何度も考えた。
それでも進んだ。
だから、今ここにいる。
ロアンは言う。
「最初からここに来る資格があったわけじゃありません」
魔王の攻撃を受けながら、続ける。
「でも、ここまで来る途中で、いろんな人に通してもらいました」
ミルカが術式を支える。
エナが傷を押さえる。
ガルドが魔王の足を止める。
ロアンは言う。
「だから、ここで戻ったら、全部途切れる」
その言葉に、ミルカが小さく笑った。
「戻る理由を考えなさいって言われた人の台詞じゃないわね」
ロアンは答える。
「考えたよ。戻る理由はある」
「じゃあ?」
「でも、進む理由も残ってる」
ミルカは一瞬だけ目を伏せ、それから杖を構え直した。
「本当に、面倒な答え」
「ごめん」
「謝らないで。今は、その面倒さが必要」
エナが小さく言う。
「進む理由が残っているなら、まだ帰れます」
ガルドが頷く。
「帰るなら、倒してからだな」
ロアンは剣を構える。
「うん。帰るために、進む」
結界の外で、死霊宰相が視線を落とす。
記録に残すべき言葉なのか。
残しても意味が変わってしまう言葉なのか。
判断がつかない。
ただ、目の前の四人は、その言葉で崩れなかった。
城ごと来る
魔王が初めて、本気で殺しに来る。
玉座の間の魔法陣がすべて光った。
柱から黒い魔力が流れ、床を走り、天井へ伸びる。
城そのものが、魔王の武器になる。
ミルカが顔色を変える。
「これ、城ごと来る」
ガルドが言う。
「斬れるか」
ミルカが即答する。
「無理」
エナが震える。
「来ます」
ロアンは一瞬だけ迷った。
防ぐか。
避けるか。
突っ込むか。
どれも足りない。
一人なら。
ロアンは息を吸い、言った。
「ミルカ、流れを右に」
「右ってどっちの右!」
「魔王から見て右!」
「分かった!」
「ガルド、左を空けて」
「おう」
「エナ、俺が止まったら引いて」
「止まる前に言います」
魔力の奔流が来る。
黒い波が、玉座の間の床ごと押し寄せた。
ミルカが流れの端をずらす。
その魔法は小さい。
奔流全体を止めるには足りない。
だが、ほんの少しだけ角度を変える。
ガルドがその裂け目を広げる。
剣で魔力そのものを斬るのではない。
魔力に押された空気の隙間を切り開く。
ロアンがそこへ入り、剣で受ける。
剣は聖剣ではない。
だが、鍛冶師が命を削って打った剣である。
旅の間、ずっと手に馴染ませた剣である。
魔王の魔力を完全には裂けない。
だが、一瞬だけ受け止める。
刃が軋む。
腕に痛みが走る。
足元の魔法陣が赤く光る。
エナが叫ぶ。
「今、離れて!」
ロアンは剣を引く。
魔力の奔流が空を切り、玉座の柱を砕いた。
黒い石の破片が飛び散る。
四人はまだ生きている。
結界の外で、竜将がうめくように言う。
「なぜ耐える……」
吸血侯が答える。
「耐えているのではない。ずらし、避け、支えている」
死霊宰相は黙っていた。
その目は、今までの記録では説明できないものを見ている。
届く剣
魔王の魔力が大きく流れた直後、一瞬だけ間が空いた。
普通なら見逃すほど短い。
だが、ガルドは見逃さない。
一歩。
それだけで、魔王の間合いに入る。
魔王の目が初めて、わずかに動いた。
ガルドの剣が走る。
魔王は腕で受ける。
刃は深く入らない。
だが、血が出る。
魔王に、血が出た。
ガルドが言う。
「届くな」
玉座の間の外で、竜将が息を呑んだ。
魔王は、ガルドを見る。
この剣士は名門ではない。
剣聖の称号もない。
構えに華もない。
だが、速い。
歴代勇者の仲間にいた剣士より、なお速い可能性がある。
ガルドは首を傾げる。
「今の、浅かったか」
ミルカが言う。
「浅くていいの! 魔王に傷入れたのよ!」
ガルドは真顔で言う。
「もう少し深く入れたい」
ロアンが言う。
「次に合わせる」
「分かった」
「一人で行かないで」
ガルドは少しだけ笑った。
「お前もな」
結界の外で、竜将がガルドを見ていた。
怒りの中に、剣士としての認識が混じる。
あれは、ただの傭兵の剣ではない。
魔王は腕の傷を見た。
浅い。
だが、届いた。
それは、魔王にとっても見過ごせない事実だった。
要を射抜く
魔王はガルドを警戒する。
その瞬間、魔法陣の流れが変わった。
ガルドを潰すための魔力が集まる。
ミルカがそれを見る。
大きな魔法では押し返せない。
押し返すだけの魔力量はない。
だから、ミルカは一点だけを狙う。
北の賢者から学んだ基礎。
魔力を広げない。
逃がさない。
細く、深く、要だけを射抜く。
ミルカの魔法は派手ではない。
雷も炎も大きく広がらない。
ただ、小さな光が魔王の術式の接合部を貫く。
魔法陣の一部が乱れた。
魔王の攻撃が半歩遅れる。
その半歩を、ロアンが使う。
ガルドが生き残る。
ミルカの息が荒くなる。
「一回ずつなら、ずらせる。何回もは無理」
ロアンが答える。
「一回ずつでいい」
「簡単に言う」
「お願い」
「言い方でどうにかしようとしない」
そう言いながらも、ミルカは次の術式を見る。
魔王はミルカを見る。
この魔術師は、宮廷魔術師ではない。
格式もない。
圧倒的な魔力量もない。
だが、術式の要を見る目は危険すぎる。
結界の外で、死霊宰相がつぶやく。
「大規模術式を破壊していない。要点だけを抜いている」
吸血侯が言う。
「城内を抜けた時と同じか」
死霊宰相はうなずいた。
「同じ思想です」
ミルカは、その声を聞く余裕などなかった。
ただ、次の要を見る。
壊さない。
ずらす。
通れる隙を作る。
ここまでずっとやってきたことを、今もやる。
相手が魔王になっただけだ。
それが、まったく簡単ではないだけで。
必要な分だけ
魔王は次に、エナを狙った。
治癒役を落とす。
勇者戦の定石である。
黒い刃が、見えない角度からエナへ向かう。
エナには見えていない。
だが、分かる。
胸が痛む。
次が来る。
自分ではない。
ロアンでもない。
少し遅れて、自分。
エナは一歩下がるのではなく、前へ出た。
ミルカが驚く。
「エナ!」
エナはロアンの腕を引く。
ロアンが半歩ずれる。
黒い刃が、ロアンのいた場所を裂いた。
次の刃がエナへ来る。
ガルドが割り込む。
刃を受ける。
腕が裂ける。
血が飛ぶ。
エナはすぐに触れた。
完全には治せない。
傷を消しきるだけの余裕はない。
だが、剣を握れる程度には戻す。
エナは小さく言う。
「全部は無理です。でも、動けるようにはします」
ガルドがうなずく。
「十分」
「痛いですか」
「痛い」
「すみません」
「動くならいい」
魔王はエナを見る。
この神官は聖女ではない。
中央神殿の認定もない。
大いなる奇跡で全てを癒すわけでもない。
だが、危険を避けるタイミングが異常に早い。
治癒も、奇跡のような大回復ではない。
必要な分だけ。
必要な瞬間に。
それが戦闘を途切れさせない。
結界の外で、竜将が言う。
「癒し手を狙われても崩れぬのか」
吸血侯は答えない。
ただ、エナの動きを見ている。
予知という言葉にはまだ至らない。
神託という言葉にも至らない。
だが、ただの勘ではないことは分かる。
エナは震えながら、次を見る。
怖い。
今すぐ逃げたい。
けれど、逃げた方がいい感じではない。
まだ、帰れる。
たぶん、まだ帰れる。
だから、動く。
支点
魔王はロアンを見る。
ロアンは一番強い剣士ではない。
一番強い魔術師でもない。
最も優れた治癒術師でもない。
聖性もない。
血筋もない。
だが、ロアンが動くと全員が動く。
ロアンが下がればミルカが撃つ。
ロアンが踏み込めばガルドが合わせる。
ロアンが止まればエナが見る。
ロアンは、自分の強さだけで戦っていない。
空いた穴を埋める。
足りないところをつなぐ。
誰かが動ける一瞬を作る。
魔王は理解する。
これが中心だ。
勇者という中心ではない。
支点である。
ロアンは、魔王の視線を感じた。
狙われる。
そう分かる。
怖い。
喉が乾く。
足が少しだけすくむ。
だが、逃げれば全員が崩れる。
ロアンは剣を構え直した。
「俺が前に出ます」
ミルカが言う。
「死ぬわよ」
「死なないようにお願い」
「無茶言う」
エナが言う。
「少しなら、行けます」
ガルドが笑う。
「じゃあ、俺も行く」
ロアンはうなずく。
「一人で行かないで」
ガルドが言う。
「お前もな」
ロアンは魔王を見る。
自分は選ばれていない。
資格もない。
でも、ここまで来た。
ここで自分が動かなければ、三人も動けない。
だから前へ出る。
結界の外で、死霊宰相がようやく小さく言う。
「勇者ではない。だが中心ではある」
魔王は、その言葉を聞いていたかのように、ロアンへ魔力を集中させた。
最後の連携
魔王は、ロアンを潰すために魔力を集中させる。
その瞬間、四人は動いた。
ミルカが魔法陣の要を一つずらす。
魔王の足元の流れがわずかに偏る。
エナが叫ぶ。
「今じゃない、次!」
ガルドは踏み込みかけて止まる。
魔王がそれを見て、次の一撃を放つ。
その一撃が空を切った。
エナの予感が、踏み込む時を一拍遅らせた。
ガルドが今度こそ入る。
魔王の腕を斬る。
深くはない。
だが、魔王の防御がずれる。
ロアンがそこへ踏み込む。
魔王はロアンを迎え撃つ。
剣と魔力がぶつかる。
ロアンの剣が軋む。
折れそうになる。
ミルカが叫ぶ。
「左!」
ロアンは左へ滑る。
エナが叫ぶ。
「止まらないで!」
ロアンは止まらない。
ガルドが魔王の反撃を斬り払う。
ミルカの小さな魔法が、魔王の防御術式の一点を抜く。
エナがロアンの背中に触れる。
癒しではない。
祈りでもない。
ただ、一瞬だけ震えを止める。
ロアンの剣が、魔王へ届く。
刃が黒い魔力を裂く。
肉を裂く。
骨に届く。
魔王の体が揺れた。
結界の外で、竜将が声を失う。
吸血侯の影が揺れる。
死霊宰相は杖を握ったまま、動かない。
見ろ。
魔王の命令が、彼らをそこに留めている。
ロアンは剣を押し込む。
ガルドが横から魔王の腕を止める。
ミルカが最後の要を抜く。
エナがロアンの背を支える。
一人ではない。
四人で届いた。
魔王は倒れる
魔王は倒れた。
一撃で消えるのではない。
玉座の間の魔力が崩れ、柱の灯りが揺れ、床の魔法陣が消えていく。
魔王は膝をつく。
ロアンも倒れかける。
ガルドが支える。
ミルカは杖をついたまま息を切らす。
エナは涙をこらえながら、まだ全員が生きていることを確認している。
魔王はまだ息をしていた。
ロアンは剣を構えようとする。
だが、腕が上がらない。
ミルカにも、魔力はほとんど残っていない。
ガルドは立っているが、片腕が動かない。
エナの治癒も限界に近い。
勝ったのか。
まだなのか。
誰にも分からない。
その時、魔王の結界に亀裂が入った。
黒い膜が、硝子のように砕けて消える。
結界が消えた瞬間、竜将が動いた。
「陛下!」
彼はロアンたちへ向かって踏み出す。
吸血侯の影が広がる。
死霊宰相が杖を構える。
近衛たちが武器を抜く。
ロアンは剣を上げようとした。
上がらない。
ミルカは杖を握り直すが、指が震えている。
ガルドは前に出ようとして、膝をつきかける。
エナは全員の傷を見て、息を詰める。
もう一戦は無理だ。
竜将が言う。
「貴様ら……!」
その瞬間、魔王の声が響いた。
「やめろ」
声は弱い。
だが、玉座の間にいる全員を止めるだけの重さがあった。
殺すな、殺されるな
竜将が振り返る。
「陛下、しかし!」
魔王は血を吐きながら言う。
「殺すな、殺されるな」
吸血侯が目を細める。
「陛下」
魔王は、ロアンたちを見る。
それから、自分の臣下たちを見る。
「魔王が敗れた。終わったのだ」
竜将が拳を握る。
「まだ終わっておりません。我らが――」
「終わった」
魔王は遮った。
「ここで殺せば、ただの敵討ちだ。ここで殺されれば、ただの殉死だ」
死霊宰相が沈黙する。
魔王は続ける。
「お前たちは見ろ。私が何を間違ったのか」
ロアンは、その言葉を聞いて顔を上げた。
魔王は、自分の敗北をまだ戦略として見ている。
命が消えかけているのに、なお、次に何を残すかを考えている。
「殺したら見れぬ。殺されても見れぬ」
竜将は歯を食いしばる。
吸血侯は影を収める。
死霊宰相は杖を下ろす。
近衛たちも動けない。
魔王は、かすかに息を吐いた。
「見ろ。そして覚えろ。条件だけでは、足りぬ」
玉座の間は静まり返った。
誰も動かない。
誰も、すぐには声を出せない。
魔王はロアンを見る。
「勇者では、ないのだな」
ロアンは答えた。
「違います」
魔王は、少しだけ笑ったように見えた。
悔しさなのか。
納得なのか。
ロアンには分からない。
「ならば……世界は、面倒だ」
少し間を置いて、魔王は最後に言う。
「条件だけでは、足りぬか」
ロアンは答えられなかった。
魔王の体から力が抜ける。
玉座の間に、静けさが落ちた。
誰もすぐには動かなかった。
竜将も。
吸血侯も。
死霊宰相も。
近衛たちも。
ロアンたちも。
ただ、魔王が死んだという事実だけが、玉座の間に残った。
勝った気がしない
魔王の体から力が抜けた。
玉座の間に、静けさが落ちる。
竜将も、吸血侯も、死霊宰相も動かなかった。
近衛たちも、武器を構えたまま固まっている。
ロアンたちも、すぐには動けなかった。
倒した。
確かに倒した。
魔王はもう立ち上がらない。
それなのに、勝ったという感じがしなかった。
ロアンは、魔王が最後まで部下たちを止めた姿を見ていた。
殺すな。
殺されるな。
見ろ。
私が何を間違ったのか。
その言葉が、まだ玉座の間に残っている気がした。
ロアンが小さく言う。
「魔王は、死んだあとでも魔王だった」
ミルカは杖にもたれたまま、疲れた顔で息を吐く。
「なんか、倒した感じがしないわね」
エナは、魔王の倒れた場所を見つめている。
「最後は、怖さとか、悲しさとかじゃなくて……なぜか、残すことだけを見ていた気がします」
ガルドは剣を下ろす。
血のついた刃を見て、それから魔王を見る。
「斬れねぇ相手が一番たちが悪い」
ミルカが眉を寄せる。
「斬ったでしょ」
ガルドは首を振った。
「体はな」
ロアンは何も言えなかった。
魔王は倒れた。
けれど、魔王が最後に残した命令は、まだ生きている。
敵討ちを止めた。
殉死を止めた。
部下たちを生かした。
そして、自分の敗北を見ろと言った。
魔王を倒した後に残ったのは、勝利の叫びではなかった。
これから何をするのか、という問いだった。
勝った後
誰もすぐには声を出さない。
勝った。
魔王を倒した。
だが、勝利の実感はない。
ロアンは剣を見下ろした。
折れてはいない。
ただ、深く傷んでいる。
もらいものの剣。
聖剣ではない剣。
それでも最後まで折れなかった剣。
ミルカが、その場に座り込む。
「生きてる?」
ガルドが腕を動かそうとする。
顔をしかめる。
「たぶん」
エナがロアンを見る。
「ロアンは?」
ロアンはうなずく。
「生きてます」
エナはその場にへたり込んだ。
「よかった」
ガルドが玉座を見る。
「終わったのか」
ミルカは首を振った。
「魔王は倒した。でも、外にはまだ兵がいる」
ロアンはうなずく。
「出ないと」
ガルドが言う。
「また走るのか」
ロアンは少しだけ笑った。
「たぶん」
ミルカが小さく呻く。
「本当に、勝った後の言葉じゃない」
「でも、出ないと」
「分かってる」
ロアンは結界の外に立つ魔王軍の者たちを見た。
竜将はまだこちらを睨んでいる。
吸血侯は影を引いているが、目を逸らしてはいない。
死霊宰相は、魔王の亡骸とロアンたちを交互に見ている。
近衛たちは、武器を下ろせずにいる。
誰も、どう動けばいいのか分かっていない。
魔王の最後の命令だけが、その場を押しとどめている。
ロアンはゆっくり息を吐いた。
魔王は死んだ。
でも、世界はまだ動いている。
勝った後も、仕事は終わらない。
ここから、魔王が死んだ後の仕事が始まる。
ここまで来たからだ
魔王は倒れた。
けれど、そこに聖剣の光はなかった。
神託が天から降りることもなかった。
聖痕が輝いたわけでもなかった。
東の血筋が、宿命を果たしたわけでもなかった。
玉座の間にいたのは、四人だった。
ロアン。
ミルカ。
エナ。
ガルド。
一人では足りなかった。
ロアンの剣だけでは届かなかった。
ミルカの魔法だけでは押し返せなかった。
エナの癒しだけでは勝てなかった。
ガルドの速さだけでは倒せなかった。
けれど、四人でなら届いた。
そして四人の後ろには、ここまでの道があった。
海を知る人たちが開いた深海の入口。
老婆が歌った森の道。
鍛冶師が打った剣。
水番が覚えていた堤。
猟師が教えた崖道。
元作業員が語った排水路。
密書を渡した者。
通行手形を出した者。
兵を動かした者。
傷ついた者。
戻れなかった者。
進めと言った者。
そのすべてが、最後の一歩に重なっていた。
ロアンは勇者だったからここに来たのではない。
ここまで来たから、魔王の前に立った。
そして、魔王を倒した。
だが、魔王は死ぬ前に、なお魔王だった。
敵討ちを止めた。
殉死を止めた。
自分が何を間違ったのかを見ろ、と命じた。
殺したら見れぬ。
殺されても見れぬ。
その言葉によって、玉座の間にいた者たちは生き残った。
勝者も。
敗者も。
魔王が死んでも、世界はすぐには終わらない。
城の外には兵がいる。
各地には捕虜がいる。
壊れた町がある。
戻らない者がいる。
帰りを待つ者がいる。
次に必要なのは、魔王を倒す者ではない。
魔王が死んだ後の仕事をする者たちだった。
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