

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
森の前で止まる軍
南の大陸は、湿っていた。
海から上がったばかりの風が、内陸の森へ押し込まれている。
地面は柔らかく、草は厚く、木々はこれまでロアンたちが通ってきた土地よりもずっと濃かった。
港から内陸へ進んだ各国混成軍は、その森の前で止まっていた。
森の向こうには、魔王軍の深森拠点がある。
そこを落とせば、内陸への補給路が開く。
だが、軍は進めていなかった。
森に入った斥候が戻らない。
戻ってきた者もいるが、半日進んだはずなのに、森の入口近くをぐるぐる歩いていたと言う。
別の部隊は、仲間の声が聞こえた方へ進んで、ぬかるみに落ちた。
地図は役に立たない。
木の並びは似ている。
霧が出る。
音がずれる。
根が足を取る。
沢の位置が分からなくなる。
軍の指揮官は、森を睨んでいた。
「正面から進めば、森そのものに兵を削られる」
ロアンも森を見た。
入り口だけなら、普通の森に見える。
ただ、奥が暗い。
木の影が重なりすぎて、どこから道で、どこから藪なのかが分かりにくい。
エナは胸元に手を当てている。
「森の奥、嫌な感じがします」
ガルドは剣の柄に手を置いた。
「嫌な感じの森か」
ミルカが言う。
「だいたいの森は、準備なしで入ると嫌な感じになる」
「そうなのか」
「そう。特に知らない森」
ロアンは指揮官へ顔を向けた。
「森を抜ける道は、ないんですか」
指揮官は首を振る。
「地図上にはある。だが、森の中では消える」
「消える?」
「進んでいるつもりが、いつの間にか逸れる。印を付けても、次に見ると違う木に付いているように見える」
ガルドが眉をひそめる。
「木が動くのか」
ミルカが即座に言った。
「たぶん動かない」
「動かないなら、なぜ違う木に見える」
「全部似ているから」
「木にも個性があるだろう」
「ガルドが木の個性を見分けられるなら、ぜひ前へ」
ガルドは森を見て、少し考えた。
「……三本目までは分かる」
「少ない」
「五本なら努力する」
「努力で何とかなる森じゃないと思う」
近くにいた神官が、古い文献を抱えて進み出た。
「勇者文献には、こうあります。勇者は導きの石を手に、迷いの森を抜けた、と」
ロアンは聞き返した。
「導きの石?」
「はい。古い祠に納められていた、森を進むための石です」
ミルカが眉をひそめる。
「また、文献の言葉ですね」
ロアンは小さく笑った。
「最近、古い文献はそのまま信じない方がいいって分かってきた」
エナがうなずく。
「人魚も、人魚ではありませんでした」
ガルドが森を見る。
「なら、石も石ではないのか」
ミルカは少し考えてから答えた。
「石ではあると思う。問題は、それが何をしていたか」
神官は少し困った顔をした。
「しかし、文献には確かに」
「文献が間違いとは言っていません」
ミルカは森を見た。
「ただ、何をもって導きと呼んだのかは、現地で確認した方がいい」
ロアンは頷いた。
「森のことは、森の人に聞こう」
ガルドが言う。
「人魚の時と同じだな」
エナが少し笑った。
「次は、森の人ですね」
ロアンは森の入口に立つ村を見た。
「まずは、導きの石を知っている人を探そう」
石はなかった
現地の村には、導きの石の話が残っていた。
森の近くに古い祠がある。
そこに、黒い石を収めた小さな器が置かれていた。
森へ入る者は、その石を借りて入った。
勝手に持ち出すことは禁じられていた。
石だけではなく、歌と一緒に使うものだったという。
村人の話を聞きながら、ロアンは少し首をかしげた。
「石と歌?」
村人は頷く。
「そう聞いている。石を持って、歌を知る者と入るんだ」
ガルドが言う。
「歌だけでは駄目なのか」
「駄目らしい」
「石だけでは?」
「それも駄目らしい」
ガルドは腕を組んだ。
「不便な神器だな」
ミルカが言う。
「神器と決めるのは早い」
「では不便な石か」
「それもまだ早い」
「じゃあ何なんだ」
「それを調べる」
ロアンは苦笑した。
「ガルド、今日は早いな」
「何がだ」
「決めつけが」
「早い方が迷わない」
ミルカが冷静に返す。
「早すぎると間違う」
「なるほど」
祠は、村の外れにあった。
石の屋根は割れ、苔が付いている。
扉は壊されていた。
中には、台座が残っている。
その上にあったはずの器は割れ、破片が周囲に散っていた。
そして肝心の石は、なかった。
神官が息を呑む。
「導きの石が……」
指揮官も顔をしかめる。
「これでは森へ入れん」
兵士たちの間に、落胆が広がった。
「神器がないなら、無理だ」
「王都から魔術師を呼ぶしかない」
「別の道はないのか」
「森を迂回すれば数週間かかる」
「その間に拠点を固められるぞ」
ロアンは台座を見る。
「石がないなら、どうしようもないのかな」
ミルカは割れた器の破片を拾い上げた。
「石そのものはない。でも、どういうものだったかは調べられるかもしれない」
ロアンが聞く。
「石はないのに?」
「石はない。でも、置き方と使い方の跡は残ってる」
「跡で分かる?」
「全部は無理。でも、何もないよりはずっといい」
ガルドが祠の床を見る。
「荒らされているな」
村人が頷いた。
「近年、魔王軍が勇者伝承に関わる場所を潰して回っている、という話があります。この祠も、その時に」
エナがそっと割れた器を見る。
「持っていかれたんでしょうか」
村人は首を横に振った。
「分かりません。持ち去られたのか、砕かれたのか。それすら」
ロアンは黙った。
導きの石はない。
文献に頼ってきた兵士たちは落胆している。
だが、何も残っていないわけではない。
台座がある。
器の破片がある。
村人の話がある。
石と歌を一緒に使うという言葉がある。
ロアンは顔を上げた。
「この石を使っていた人はいませんか」
村人たちは顔を見合わせる。
「今はもう、森へ深く入る者はいません」
「昔は?」
「昔は、歌を知る者がいたそうです」
「歌」
ロアンはミルカを見る。
ミルカも頷いた。
「歌を聞きましょう」
村人は少し考え、村外れに住む老婆を紹介した。
森の炭焼きの家に生まれた老婆だという。
幼い頃に森の歌を聞いて育った。
今は足が悪く、森には入らない。
だが、歌は覚えているらしい。
ガルドが言う。
「歌を知る老婆か」
ロアンが頷く。
「海の時も、歌を知る人がいたな」
エナが言う。
「昔の歌は、道を覚えるためにも使うんですね」
ミルカは台座を見たまま答えた。
「文字にしにくいものを残すには、歌の方が強い時がある」
「ミルカも歌いますか?」
「歌わない」
「即答ですね」
「必要なら読む」
ガルドが言う。
「読む歌とは」
ミルカは少しだけ眉を寄せた。
「今そこを掘らないで」
老婆の歌
村外れの家は、森に一番近かった。
細い煙突から、薄い煙が上がっている。
家の前には、乾かした木の実と、束ねた枝が置かれていた。
老婆は、椅子に座っていた。
白髪を後ろでまとめ、膝に布を掛けている。
目は年齢の割に鋭かった。
ロアンたちを見るなり、老婆は言った。
「また、勇者様の石を探しに来たのかい」
ロアンは少し困った。
「勇者様ではないです」
老婆は笑った。
「そう言う者ほど、話を聞く気がある」
ミルカが小さく言う。
「いい判断基準ね」
ガルドが首をかしげる。
「勇者様だと言ったら?」
老婆が答える。
「だいたい話を聞かない」
ロアンは妙に納得した。
「確かに、それは困ります」
老婆はロアンを見て、少し笑った。
「で、何を聞きたい」
「導きの石と、歌について」
老婆は森の方を見た。
「石はもうないんだろう」
「はい」
「なら、歌だけでも聞いていきな」
ロアンたちは家の前に座った。
兵士や神官も数人、少し離れて聞いている。
老婆は息を整え、低く歌い始めた。
美しい聖歌ではなかった。
飾られた詩でもない。
短い節が、淡々と続く。
子どもが覚えるための歌。
森で迷わないための歌。
木の実を採る時、炭焼き小屋へ向かう時、雨の後に沢へ降りる時に歌われたものだった。
老婆の声が、ゆっくり流れる。
「朝は苔石
昼は白樺
夕は沢音
夜は星なし
赤い沢には足を入れるな
三つ倒れた木を越えたら戻れ
鳥の声が消えたら右へ行くな
黒い石には急かされるな」
歌が終わると、ガルドが真面目に言った。
「短いな」
ミルカが肘で軽くつついた。
「感想が早い」
「長い方がすごい歌かと」
老婆は笑った。
「短いから覚えられるんだよ。長い歌は、森で忘れる」
エナが頷いた。
「覚えられることも、大事なんですね」
ロアンは老婆へ聞いた。
「これは、道案内の歌ですか」
老婆は首を振った。
「道案内だけじゃない。戻るための歌でもある」
「戻るため」
ロアンはその言葉を繰り返した。
老婆は森を見た。
「森で一番怖いのは、進めなくなることじゃない。戻れなくなることだよ」
ロアンは黙った。
胸の奥に、前に聞いた言葉が蘇る。
戻ることは、まだ失敗ではない。
戻れれば、また行ける。
ミルカが紙に歌を書き留める。
「歌の意味を、一つずつ聞かせてもらえますか」
老婆は頷いた。
「いいよ。ただし、歌は紙だけじゃ足りない。歩きながら覚えるものだからね」
「それでも、聞きます」
「聞く気があるなら、教えるさ」
ガルドが小さく言う。
「勇者様ではないからな」
ロアンは笑いそうになった。
「そこ、気に入ったんだ」
「便利な判断基準だ」
老婆はまた笑った。
朝は苔石、昼は白樺
老婆は、まず最初の節から説明した。
「朝は苔石」
老婆は足元の石を杖で軽く叩く。
「朝は地面を見るんだよ。苔石が光る方は、人が昔から踏んだ道だ」
ミルカが聞く。
「苔の付き方ですか」
「それもある。朝露の残り方もある。光の当たり方もある。森道は、よく見ると踏まれた石だけ少し違う」
ロアンは感心した。
「道が見えないんじゃなくて、見方を知らないだけなのか」
老婆は頷いた。
「そういうこともある」
ガルドは地面を見た。
「全部同じ石に見える」
ミルカが言う。
「だから教わる」
「教われば見えるのか」
老婆は笑った。
「すぐには見えないね」
ガルドは真面目に頷いた。
「では、俺はまだ無理だ」
「判断が早い」
「早すぎると間違うのでは?」
「今のは合ってる」
ロアンは肩を揺らして笑った。
老婆は続ける。
「昼は白樺」
「白樺を見るんですか」
エナが聞くと、老婆は森の方を指した。
「昼は白い幹が浮いて見える。森の奥でも、白樺の並びが一定の位置に見える道なら、大きく外れていない」
ミルカが言う。
「朝と昼で、見るものが違うんですね」
「森は時間で顔を変えるからね」
ロアンは唸った。
「顔が変わる相手に、同じ見方をしていたら迷う」
「そういうことさ」
ミルカがロアンを見る。
「たまに良いことを言う」
「たまに?」
「今のは良かった」
「褒められたと思っておく」
ガルドが真面目に言う。
「褒められた時は戻すな」
ミルカが即座に返す。
「それは戻していい」
「難しいな」
老婆は楽しそうに見ていた。
「お前たち、よくしゃべるね」
ロアンは少し恥ずかしそうに言う。
「旅をしていると、黙ってる時間も長いので」
ミルカが言う。
「この人は、黙ってると考えすぎる」
エナが付け足す。
「ガルドさんは、黙っていると急に動きます」
ガルドは納得したように頷いた。
「だから話しているのか」
「自覚がなかったんですね」
「なかった」
老婆は声を上げて笑った。
夕は沢音、夜は星なし
老婆は次の節へ進んだ。
「夕は沢音」
エナが聞く。
「水の音ですか」
「ああ。夕方は目を頼ると、森に騙される。沢の音を横に聞きながら歩くんだよ」
ロアンは言った。
「沢へ向かうんじゃなくて?」
「近づきすぎても駄目だ。沢は道にもなるが、罠にもなる」
ミルカが頷く。
「音の距離を保つんですね」
「そう。近すぎれば足を取られる。遠すぎれば道を外れる」
ガルドが腕を組む。
「音を横に聞きながら歩く」
老婆が頷く。
「剣で言うなら、相手を真正面に置かないことかね」
ガルドの目が少し変わった。
「分かりやすい」
ミルカが小声で言う。
「今ので分かるんだ」
「分かった」
「森を剣で理解した」
「便利だな」
「便利かどうかは分からない」
老婆は次を歌うように言った。
「夜は星なし」
ガルドが空を見る。
「夜は星で方角を見るのでは?」
老婆は首を振る。
「この森では、木々が空を覆う。星なんて見えない。星を探して上を見れば、足元の根や沼を見落とす」
ロアンが言う。
「つまり、夜は動かない方がいい」
「そうさ。強い弱いじゃない。見えないものは見えない」
ガルドは静かに頷いた。
「見えないものは斬れない」
ミルカが言う。
「それはそう」
「なら夜は動かない」
「珍しく早い決断が正しい」
「早い方が迷わない」
「全部それで済ませないで」
エナは少し笑った。
老婆はロアンたちを眺めてから、静かに言った。
「森は勇気で勝つ相手じゃない。強い足でも、よく斬れる剣でも、見えないものは見えない。だから歌がある」
ロアンは頷いた。
「覚えます」
「覚えるだけじゃ足りない。守るんだよ」
その言葉は、少し重かった。
歌を知っていても、守らなければ意味がない。
戻る条件と同じだった。
決めることより、守ることが難しい。
赤い沢と三つの倒木
「赤い沢には足を入れるな」
老婆がそう言うと、ミルカがすぐに尋ねた。
「赤い沢の赤は、鉄分ですか」
老婆は肩をすくめた。
「さあね。毒の時もある。鉄臭い時もある。魔物の縄張りの時もある。火山の方から流れてくるものが混じることもある」
ミルカは少し考える。
「原因は一つじゃない」
「そう。だから歌には原因を入れない。赤い沢には足を入れるな。それで十分だ」
ロアンが言う。
「歌に必要なのは原因じゃなくて、入るな、か」
老婆は頷いた。
「子どもに長い説明をしても、その頃には足を入れてる」
ガルドが言う。
「子どもは早いのか」
「大人も早いよ。危ない時ほど、人は余計なことをする」
ミルカがロアンを見る。
「聞いてる?」
「俺?」
「あなたはたまに、理由を考えながら足を出す」
「気をつけます」
エナが小さく言う。
「私が袖を引きます」
「お願いします」
次に老婆は、少し声を落とした。
「三つ倒れた木を越えたら戻れ」
ロアンが反応する。
「戻れ」
「そうだよ。三本倒木の先は、迷いやすい。昔からそう言われている」
「そこから先に行ってはいけないんですか」
「子どもは戻る。大人でも、準備なしでは戻る」
ミルカが聞く。
「魔王軍の警戒圏に近い可能性は?」
老婆は首をかしげる。
「昔は魔王軍なんていなかったよ。ただ、奥へ入りすぎる境目ではあった」
ロアンは頷いた。
「進むための歌じゃなくて、戻るための歌でもあるんだ」
「戻れる者だけが、また森へ入れる」
老婆の言葉に、ロアンは静かに息を吐いた。
戻る。
また行く。
この森でも、それは同じだった。
ガルドが言う。
「三つ倒れた木を越えたら戻る」
ミルカが言う。
「準備なしでは、ね」
「準備があれば越えるのか」
「その場合でも、戻る道を確認してから」
ガルドは頷いた。
「戻るために進む」
ロアンが少し笑った。
「いい言い方だな」
ミルカが言う。
「たまにガルドも良いことを言う」
ガルドは少し考えた。
「俺もたまになのか」
「みんなたまに」
エナが穏やかに言った。
「たまにが多いと、きっと良い旅です」
ロアンは笑った。
「エナはうまくまとめるな」
老婆はその様子を見て、また少し笑った。
右へ行くな、急かされるな
老婆は歌の後半を説明する。
「鳥の声が消えたら右へ行くな」
ミルカはすぐに聞いた。
「右って、どっちから見た右ですか」
老婆はロアンたちを見て、にやりとした。
「やっとそこを聞いたね」
ロアンが言う。
「そこ、大事なんですか」
「大事だよ。歌だけじゃ右が分からない」
「じゃあ、何を基準に?」
老婆は言った。
「黒い石が向いた方から見た右だよ」
ミルカの目が細くなった。
エナが気づいたように言う。
「だから、石と歌が両方いるんですね」
老婆は頷いた。
「歌だけじゃ、右が分からない。石だけじゃ、どこで曲がるか分からない」
ガルドが言う。
「つまり、石が道を知っているのか」
ミルカは首を振る。
「たぶん違う」
「違うのか」
「石が道を知っているんじゃない。同じ向きを失わないようにしている」
「同じ向き」
「森の景色に騙されても、基準が残る。だから歌の右や戻れが意味を持つ」
ガルドは少し考えた。
「石が道を知っているんじゃなくて、俺たちが向きを忘れないための石か」
「たぶん」
「なるほど。石は道を知らない」
ミルカは頷いた。
「そう」
「では、石に道を聞いても無駄だな」
ロアンが思わず笑った。
「聞くつもりだった?」
「導きの石と言うから」
ミルカがため息をつく。
「石が答えたら、それはそれで怖い」
老婆が楽しそうに笑った。
最後の節。
「黒い石には急かされるな」
老婆は急に真面目な顔になった。
「これは、よく覚えておきな」
ロアンは姿勢を正した。
「どういう意味ですか」
「黒い石は、迷う時がある」
「石が?」
「揺れるんだよ。森の中ではね。湿気か、鉄の土か、魔力か、そういうものに引かれる時がある。だからすぐに決めちゃいけない」
ミルカが言う。
「石が落ち着くまで待つ」
「そう。黒い石が迷った時に、人まで慌てちゃいけない。石が落ち着くまで待つんだよ」
エナが小さく言う。
「焦ると、森に急かされるんですね」
老婆は頷いた。
「森は急かす。早く進め、こっちへ来い、戻れ、声が聞こえた、そう思わせる。けど、急いで決めると間違う」
ガルドが言う。
「待つのも戦術か」
ミルカが答える。
「森では、たぶんそう」
ロアンは歌を書き留めた紙を見た。
朝は苔石。
昼は白樺。
夕は沢音。
夜は星なし。
赤い沢には足を入れるな。
三つ倒れた木を越えたら戻れ。
鳥の声が消えたら右へ行くな。
黒い石には急かされるな。
それは、ただの道案内ではなかった。
森に飲まれないための決まりだった。
そして、決まりを使うには、黒い石が必要だった。
台座と器
ミルカは再び祠へ戻った。
台座を調べる。
割れた器を並べ直す。
太陽の位置を見る。
村の古い地図を広げる。
ロアンは横で見ていたが、途中で完全に分からなくなった。
「何を見てる?」
「台座」
「台座は俺にも見える」
「見えてるだけでは足りない」
「それはよく言われる」
ミルカは台座の縁を指した。
「ここ。四つの矢印がある」
ロアンが覗き込む。
「飾りじゃないのか」
「村人はそう思っていた。でも、太陽の位置と村の古い地図を合わせると、かなり正確に東西南北を示している」
ガルドが言う。
「東西南北?」
ミルカは地面に枝で簡単な図を描いた。
「太陽が昇る方、沈む方。それを基準にした向き。台座の矢印は、それに合ってる」
ロアンが言う。
「つまり、この台座は方角を見るためのものだった」
「たぶん。石がどこを向くかを見るための台」
ガルドは納得したように頷いた。
「石が道を知っているんじゃなくて、向きを見るための台か」
「そう」
エナは割れた器を見ていた。
「器の中に、細いものを支えていた跡があります」
ミルカが頷く。
「金属片か、針のようなものかもしれない」
ロアンは首を傾げる。
「黒い石と、細い金属片?」
「そう。黒い石が金属を引くなら、金属片が一定の方向へ動く可能性がある」
ガルドが聞く。
「そんな石があるのか」
その時、後ろにいた老婆が口を挟んだ。
「黒い石なら、鍛冶屋が嫌がる石があるよ」
ミルカが振り返る。
「鍛冶屋が嫌がる?」
「針が妙に寄るとかでね。沢の上流で採れる。昔は祠の石に使ったとか聞いたが、詳しいことは知らない」
ミルカの顔が変わった。
「それ、見せてもらえますか」
ロアンが小声で言う。
「今、ミルカの目が光った」
エナが頷く。
「はい。何か思いついた顔です」
ガルドが言う。
「危ない顔か?」
「たぶん、眠らない顔」
ロアンは少し遠い目をした。
「北の賢者の時と似てるな」
ミルカが振り返る。
「聞こえてる」
「ごめん」
「あとで運ぶものが増える」
「罰が実務」
「旅は実務」
ガルドが感心したように言った。
「強い言葉だ」
黒い鉱石
村の鍛冶師は、黒い鉱石をいくつか持っていた。
沢の上流で採れる石だという。
見た目はただの黒い石だ。
だが、鉄を扱う時に妙な癖があるらしい。
鍛冶師は作業場の奥から石を持ってきた。
「使いにくい石だ。混ぜると針が妙に寄る。昔は祠の石に使ったとか聞いたが、詳しいことは知らん」
ミルカは黒い鉱石を受け取り、薄い金属片を並べた。
「細い針はありますか」
鍛冶師は箱から数本出す。
「これでいいか」
「十分です」
ミルカは水を張った小皿を用意した。
その上に小さな葉を浮かべる。
葉の上に、薄い金属片を置く。
ロアン、エナ、ガルド、鍛冶師、老婆、村人たちが覗き込む。
最初、金属片は揺れていた。
水面が落ち着くと、ゆっくり向きを変えた。
やがて、一つの向きで止まる。
ロアンは目を丸くした。
「動いた」
ガルドは真顔で言う。
「生きてるのか」
ミルカは首を振る。
「たぶん、生きてはいない」
「生きていないのに動くのか」
「風でも葉は動く」
「それはそうだ」
エナは不思議そうに見ている。
「でも、同じ方を向こうとしています」
ミルカは何度か金属片を動かした。
毎回、しばらく揺れたあと、同じ向きで止まる。
ミルカは台座の矢印と照らし合わせた。
「これ、方角を示しているのかもしれない」
ロアンが聞く。
「方角?」
「正確には、いつも同じ方向を向こうとしている。森の景色に惑わされないための基準になる」
鍛冶師は腕を組んだ。
「そんなものが、祠の石だったのか」
老婆が言う。
「昔の者は、便利なものを神様のものにするのが好きだったからね」
神官が少し複雑そうな顔をした。
「導きの石が、道具だったと?」
ミルカは慎重に答える。
「神聖さを否定するつもりはありません。ただ、作られたものだと思います。なら、同じ役目を持つものは作れるかもしれません」
ロアンはその言葉を聞いて、少し胸が軽くなった。
失われた神器は戻らない。
持ち去られたのか、砕かれたのかも分からない。
でも、役目は作れるかもしれない。
ガルドが言う。
「つまり、新しい導きの石を作る」
ミルカが頷く。
「同じものになるとは限らない。でも、同じ役目なら果たせるかもしれない」
エナが微笑んだ。
「なくなったものを探すだけではないんですね」
ロアンは頷いた。
「作り直せるなら、その方がいい」
ミルカは黒い鉱石を手に取る。
「一人では無理。職人に頼む」
鍛冶師が鼻を鳴らした。
「ようやく鍛冶屋らしい仕事か」
ガルドが石を持ち上げようとする。
「重いな」
ミルカが言う。
「運んで」
「分かった」
ロアンが笑った。
「ガルドも職人側?」
「運ぶ側だ」
「大事です」
エナが別の黒い石を見て、小さく眉を寄せた。
「その石は、少し嫌な感じがします」
ミルカはすぐに止めた。
「割ってみて」
鍛冶師が石を割ると、中に赤黒い筋があった。
ミルカは頷く。
「使わない」
鍛冶師がエナを見た。
「嬢ちゃん、よく分かったな」
エナは困ったように笑う。
「なんとなくです」
ガルドが真面目に言う。
「なんとなくは強い」
ロアンも頷く。
「橋も豆より当たるし」
鍛冶師が首をかしげた。
「豆?」
ミルカが言う。
「長い話です。作業を進めましょう」
新しい導きの石
新しい導きの石を作る作業は、一人ではできなかった。
鍛冶師が薄い金属片を打つ。
石工が器を削る。
村人が黒い鉱石を選ぶ。
老婆が歌と使い方を教える。
ミルカが台座の矢印と器の跡を照合する。
ロアンが進み方と戻り方を整理する。
エナが危ない素材を避ける。
ガルドが素材を運び、作業場の外で周囲を見張る。
「石も重いな」
ガルドが言う。
ロアンが答える。
「ずっと運んでるな」
「戦うより重い」
「戦う方が楽?」
「相手が動くから、こっちも動ける。石は動かない」
ミルカが作業台から言う。
「動く石は困る」
「さっき金属片は動いたぞ」
「それは必要な動き」
「石が勝手に歩いたら?」
「捨てる」
「強い判断だ」
作業場に笑いが起きた。
神官だけは、少し戸惑った顔をしている。
「本当に、導きの石を作り直すというのですか」
ミルカは手を止めずに答えた。
「同じものではありません。新しいものです」
「神器を作るなど」
「神器ではなく、道具を作ります」
「道具」
「はい。黒い鉱石、薄い金属片、金属片が自由に動く小さな器、森の中でも壊れにくい外殻、石が示す向きを読める印、台座の矢印との照合。それらを組み合わせる」
神官は黙った。
ミルカは少しだけ言葉を柔らかくした。
「古い導きの石を大切にするなら、形だけを探すより、役目を残す方がいいと思います」
ロアンは頷いた。
「持ち去られたものを探して何日も止まるより、今あるものから進む道を作りたい」
エナも言う。
「歌も残っていますし」
ガルドが付け足す。
「石だけでは足りない」
老婆がにやりと笑った。
「分かってきたね」
新しい導きの石は、夕方に形になった。
小さな器の中で、薄い金属片が揺れる。
黒い鉱石を近づけ、台座の矢印と合わせ、何度も確かめる。
完璧ではない。
針は揺れる。
少し待たなければならない。
だが、落ち着けば同じ向きを示した。
ロアンはそれを覗き込んだ。
「これが、新しい導きの石」
ミルカは言う。
「導きというより、向きを失わないための石」
ガルドが頷く。
「長いな」
「だから導きの石でいい」
「便利な名前だ」
エナはそっと言った。
「新しい導きの石ですね」
ミルカは少しだけ頷いた。
「ええ。新しい導きの石」
急かされるな
翌朝、新しい導きの石を持って、村の近くの森で試した。
最初は針が揺れて、なかなか安定しなかった。
兵士の一人が不安そうに言う。
「壊れているのでは」
老婆が即座に言った。
「黒い石には急かされるな」
ロアンは手を上げた。
「待ちます」
一行は待った。
針はゆっくり揺れ、少しずつ動き、やがて一つの向きで止まった。
ミルカが言う。
「石が揺れている間に決めるな、ということですね」
老婆は頷く。
「そうだよ」
ガルドが言う。
「待つのも戦術」
「昨日も言ってたね」
「覚えた」
「すごい」
「褒められたのか」
「たぶん」
ロアンは導きの石を見る。
「森が急かす?」
ミルカは森の奥を見た。
「たぶん。早く進め、戻れ、声が聞こえる、そう思わせる。でも、石が落ち着くまで待つ」
エナが小さく言う。
「私も、近くの危ないところだけ見ます」
ロアンはエナを見た。
「それで十分です」
エナは少し安心したように頷いた。
手の届く範囲。
自分の周り。
袖を引ける距離。
船の上で聞いた言葉が、彼女の中に残っていた。
深森拠点を攻略するため、少数の先行隊が組まれた。
灰の一団。
森を知る村人。
各国軍の斥候数名。
魔術師一人。
後続の多国籍軍は、先行隊が道を開き、目印を残してから進む。
指揮官が確認する。
「目的は拠点の単独攻略ではない」
ロアンが頷く。
「はい。後続が通れる道を作ることです」
ガルドが言う。
「道を作れば、兵が来られる」
ミルカも言った。
「道を間違えると、兵ごと森に飲まれる」
兵士たちは重い顔で頷いた。
ガルドが剣を確かめる。
「森の中では、大きく振れないな」
「そうなの?」
ロアンが聞くと、ガルドは周囲の木を見た。
「木に当たる」
ミルカが言う。
「ようやく木の個性が役に立った」
「個性ではなく位置だ」
「それは地形判断」
「同じか?」
「違うけど、今は助かる」
ガルドは満足げに頷いた。
「なら良い」
老婆は先行隊を見送りながら言った。
「歌を忘れるな。石に急かされるな。戻る道を惜しむな」
ロアンは深く頷いた。
「はい」
そして、一行は森へ入った。
森へ入る歌
最初は、普通の森に見えた。
木々が高く、葉が厚い。
湿った土が足に少しまとわりつく。
それでも、まだ道は分かる。
村人が低く歌い始めた。
「朝は苔石
昼は白樺
夕は沢音
夜は星なし」
歌は魔法ではない。
光るわけでもない。
道が開くわけでもない。
けれど、不思議と歩調が揃った。
人数を確認しやすくなる。
焦りが少し減る。
誰かが遅れれば、歌の間がずれる。
ミルカが言った。
「これは、進むためだけじゃない。集団を崩さないための歌でもある」
ロアンは頷く。
「森に飲まれないための歌だな」
村人が振り返って笑った。
「そういうことです」
朝は苔石。
ロアンたちは地面を見た。
苔の付いた石が、朝露を受けてわずかに光っている。
村人が示す。
「そこ。苔が薄く擦れているでしょう」
ロアンは目を凝らす。
「……言われれば」
ガルドも見る。
「俺にはまだ同じに見える」
ミルカが言う。
「正直でよろしい」
「嘘をつくと迷う」
「正解」
昼近くになると、森の顔が変わった。
苔石の光は分かりにくくなる。
代わりに、白樺の幹が森の奥で浮いて見えた。
「昼は白樺」
村人が歌う。
白い幹の並びを横目に見ながら進む。
見失いそうになった時、導きの石を見る。
針が揺れる。
待つ。
落ち着く。
進む。
ロアンは何度も深呼吸した。
「待つって、難しいな」
ミルカが答える。
「あなたは考えると歩き出すから」
「動いた方が考えやすい」
「森では逆」
「覚えます」
「覚えるだけじゃなくて守る」
「はい」
ガルドが後ろから言う。
「ミルカが老婆みたいだな」
ミルカは振り向かずに答えた。
「誰が老婆」
「知恵が」
「言い方」
「知恵のあるミルカ」
「急に修正した」
エナが小さく笑った。
森の空気は、少しずつ重くなっていった。
木の並びが似てくる。
足音が遅れて聞こえる。
遠くで、仲間の声がしたように聞こえる。
霧が出る。
導きの石の針が、何度も揺れる。
歌がなければ、会話がなければ、黙っているうちに不安だけが膨らんでいたかもしれない。
ロアンは思った。
やっぱり、この一団はよくしゃべる。
でも、たぶんそれでいい。
声があるうちは、まだ互いを見失っていない。
赤い沢
一行は、赤く濁った沢に出た。
水面は鈍く光っている。
鉄のような匂いがした。
兵士の一人が近づき、水を確かめようとする。
ミルカがすぐに言った。
「足を入れないで」
兵士は止まった。
「調べるだけだ」
ロアンが言う。
「歌では、赤い沢には足を入れるな、です」
兵士は渋い顔をしたが、足を引いた。
ミルカは少し離れた場所で魔力を探った。
「魔力も濁ってる。毒か、魔物の縄張りか、火山性の成分か……原因は分からないけど、入らない方がいい」
ガルドが沢を見た。
「斬れるものではないな」
「沢を斬ろうとしないで」
「確認だ」
ロアンは沢を眺めた。
「歌に必要なのは原因じゃなくて、入るな、か」
エナが小さく言った。
「理由を調べている間に、入ってしまったら危ないです」
「そういうことだね」
一行は迂回した。
少し先で、沢に足を入れたらしい獣の骨が沈んでいた。
骨の周囲の土は赤黒く変色している。
エナが息を呑む。
「入らなくてよかったです」
兵士は青い顔で頷いた。
「歌に従う」
ガルドが言う。
「判断が早い」
ミルカが答える。
「今の早さは正しい」
ロアンは少し笑った。
やはり、早い判断にも種類がある。
待つべき時は待つ。
止まるべき時はすぐ止まる。
それを見分けるために、歌がある。
沢を迂回する間、導きの石は何度か揺れた。
ミルカはそのたびに止まった。
兵士の一人が焦る。
「早く抜けた方がいいのでは」
村人が低く歌った。
「黒い石には急かされるな」
兵士は口を閉じた。
ロアンは導きの石を見た。
針が落ち着くまで待つ。
進みたい気持ちがある。
でも待つ。
待ってから、進む。
森は、進むことよりも、進み方を試しているようだった。
三つ倒れた木
森の奥で、三本の倒木が重なる場所に出た。
古い木が三本、斜めに倒れ、根が絡み合っている。
その先には、細い道のようなものが続いていた。
兵士たちは自然に進もうとした。
ロアンが手を上げる。
「ここで一度戻る」
兵士が驚いた。
「戻るのか。ここまで来て?」
ロアンは頷いた。
「戻れる道を確認してから進む。戻れなくなったら終わりです」
兵士は困惑する。
「だが、拠点はこの先だろう」
ミルカが導きの石を見る。
「ここから先が、警戒圏かもしれない。歌では、三つ倒れた木を越えたら戻れ」
「本当に戻るのか」
ガルドが森の奥を見る。
「敵も近いな」
エナも小さく言った。
「この先、嫌な感じが強いです」
ロアンは決めた。
「一度戻ります。目印を補強して、後続へ伝令を出して、それから進みます」
兵士はまだ不満そうだった。
「時間がかかる」
ロアンはその兵士を見る。
「戻る道をなくしたら、もっと時間がかかります。生きて戻れなければ、道も伝えられません」
ミルカが小さく頷いた。
「今のは良い」
「たまに?」
「今日は多め」
「やった」
ガルドが言う。
「戻るために進む」
ロアンは頷いた。
「そういうこと」
一行は一度戻った。
来た道を確認する。
苔石。
白樺。
目印。
沢音。
導きの石の向き。
危険な赤い沢の位置。
後続に伝えるため、木に布を巻き、低い位置に傷を付け、地面の石を並べた。
戻る時間は無駄ではなかった。
戻ることで、進む準備が整っていく。
エナはそれを見て、少しだけ安心していた。
手の届く範囲。
戻れる範囲。
今の自分たちが見られる範囲。
その中で、変えられるものを変えていく。
それでいいのだと、少し思えた。
鳥の声が消えたら
さらに奥へ進むと、森の音が急に消えた。
それまで聞こえていた鳥の声も、虫の羽音も、枝の揺れる細かな音も、すっと薄くなる。
不自然な静けさだった。
ガルドが足を止める。
「静かすぎる」
ロアンも頷く。
「鳥の声が消えたら」
ミルカが導きの石を見る。
針が示す向きを基準にすると、右手側に細い道がある。
進みやすそうな道だった。
枝も少なく、足元も乾いている。
兵士が言う。
「こちらなら進めそうだ」
村人は黙っている。
エナはその右手の道を見て、眉を寄せた。
「そっちは、だめな気がします」
ロアンは左寄りの藪を見た。
そちらは道に見えない。
枝も多い。
進むのに時間がかかりそうだ。
兵士が困る。
「そちらは道ではない」
ロアンは答えた。
「道に見える方が危ない時もある」
ガルドが剣を抜かずに枝をどけた。
「藪なら進める」
ミルカが導きの石を見る。
「歌に従うなら、右へ行かない」
「じゃあ左寄り」
ロアンは決めた。
藪を進む。
枝が服に引っかかる。
足元の根が邪魔をする。
ガルドが前で道を作り、ロアンが後ろの兵士を助け、エナが遅れた者に声をかける。
しばらく進んでから、右手側の道の先が見えた。
大きな花があった。
花弁は青黒く、周囲に白い霧のようなものを吐いている。
近くに鳥の死骸が落ちていた。
ミルカが低く言う。
「毒霧」
兵士は息を呑んだ。
「そのまま進んでいれば」
エナが袖を握る。
「こっちへ行っていたら、だめでした」
ロアンは深く息を吐いた。
「歌、すごいな」
ミルカが答える。
「歌だけじゃない。導きの石も、エナの感じも、村人の知識も、全部」
ガルドが花を見た。
「あれは斬らない方がいいな」
「斬ったら霧が増えると思う」
「なら斬らない」
「よし」
ロアンは苦笑した。
ガルドの判断も、少しずつ森に合ってきている。
急かす声
森の深部に近づくと、導きの石の針が大きく揺れた。
これまでよりもずっと不安定だった。
兵士たちがざわつく。
「壊れたのでは」
「戻るべきでは」
「急いで抜けた方がいい」
その時、森の奥から声が聞こえた。
「おーい」
人の声だった。
助けを呼んでいるようにも聞こえる。
兵士の一人が顔を上げる。
「仲間か?」
別の兵士が一歩踏み出した。
ロアンも、反射的に動きかけた。
エナが袖を掴む。
「今は、だめです」
ロアンは止まった。
ミルカが導きの石を見る。
針はまだ揺れている。
村人が小さく、歌の最後を口ずさんだ。
「黒い石には急かされるな」
ロアンは拳を握った。
「待つ」
声はまた聞こえた。
「こっちだ」
今度は、少し近い。
ガルドは剣に手をかけたが、抜かなかった。
「声が近づいた」
ミルカが言う。
「位置がおかしい。風の流れとも合わない」
エナは袖を離さない。
「行かない方がいいです」
一行は動かずに待った。
針が揺れる。
声が聞こえる。
枝が軋む。
誰かが焦って息を飲む。
それでも待つ。
やがて、声はぷつりと消えた。
導きの石の針も、少しずつ落ち着いた。
ガルドが低く言った。
「あれは、声じゃなかったな」
森の奥で、何かが枝を揺らした。
葉の間に、細長い影が見えた。
猿に似ていたが、腕が長すぎる。
顔の横に、裂けた袋のような喉が膨らんでいる。
その喉が、さっきの声を出していたのだと分かった。
ロアンは呟いた。
「……人の声を真似る魔物か」
ミルカは地面を指した。
声の方へ向かう細い道の先には、落ち葉で隠れた穴があった。
穴の縁には、太い根が絡んでいる。
一度足を踏み外せば、腰まで落ちる。
そこへ上から魔物が飛びかかる。
そういう場所だった。
ガルドが剣を抜きかける。
ミルカが止めた。
「追わない。向こうの場所が有利」
ガルドは少しだけ目を細め、それから剣を戻した。
「分かった。あれは、待つ方が勝ちか」
エナは小さく息を吐いた。
「行かなくてよかったです」
ロアンも頷く。
「声に急かされていたら、穴に落ちていた」
村人が震えた声で、歌の最後を繰り返した。
「黒い石には急かされるな」
ロアンは導きの石を見た。
小さな器の中で、金属片が一つの向きを示している。
それは言葉を話さない。
道を知っているわけでもない。
ただ、同じ向きを示している。
その基準があるだけで、人は踏みとどまれる。
森に急かされても、待てる。
ロアンは小さく言った。
「これ、歌がなかったら全部踏んでたな」
ミルカが頷く。
「石だけでも無理。歌だけでも無理。両方あって、ようやく進める」
エナが森を見た。
「でも、森はちゃんと教えてくれていたんですね」
ロアンはその言葉を考えた。
森は悪意を持っているわけではない。
ただ、知らない者には危険すぎる。
知っている者が、歌にして残した。
それを聞くかどうか。
守るかどうか。
そこが分かれ目だった。
森の門
深森拠点の入口は、巨大な木の根に覆われていた。
石造りの門がある。
だが、苔と根が絡み、遠目にはただの崖か、木の塊にしか見えない。
普通に進めば、ここへ辿り着く前に道を見失う。
沢を避ける。
赤い水を避ける。
鳥の声が消えた場所を避ける。
似た木立に惑わされる。
そうしているうちに、入口へ向かっていたはずの足は、いつの間にか森の外縁へ逸れる。
森が人を追い返しているのではない。
森を知らない者が、自分から道を外してしまう。
ロアンは根の列を見た。
老婆の歌。
新しい導きの石。
村人の知識。
エナの予感。
それらを使って、ようやくここまで来た。
「ここか」
ガルドが根の隙間を見る。
「狭いな」
ミルカが言う。
「拠点入口は、狭い方が守りやすい」
「大きく振れない」
「だから大きく振らないで」
「森に入ってから、そればかり言われる」
「必要だから」
最後の地点には、三つの倒木の先に似た戻りにくい道があった。
だが今回は、準備を済ませている。
戻れる道も確認している。
後続への目印も残してある。
導きの石の針が揺れた。
兵士が焦る。
「今なら開けられるのでは」
ミルカは首を振った。
「黒い石には急かされるな」
一行は待った。
森の風が止まる。
遠くで、鳥が一度だけ鳴いた。
導きの石の針が、ゆっくりと落ち着く。
ミルカが言う。
「今」
ロアンは根の影にある石を見つけた。
押すのではない。
叩くのでもない。
村人の言葉どおり、手を置く。
そして、待つ。
根の奥で、低い音が鳴った。
木の根がきしみ、苔に覆われた石の隙間が少しずつ開いていく。
森の門が現れた。
兵士たちが息を呑む。
ガルドは静かに剣を抜いた。
「ここからは敵だな」
ロアンは頷いた。
「でも、俺たちだけで落とすんじゃない」
ミルカが振り返る。
「後続を呼ぶ」
エナが言った。
「戻る道もあります」
ロアンは小さく息を吐いた。
「よし。道は開いた」
深森拠点
門が開いたことで、後続の多国籍軍が進入できるようになった。
灰の一団は門を開けた。
だが、深森拠点を単独で落とすわけではない。
ロアンは後続部隊へ道を伝える。
「赤い沢は迂回。三本倒木のところで一度止まって目印確認。鳥の声が消えた場所では右に行かない。導きの石が揺れたら待つ」
兵士が書き留める。
「待つ、ですか」
「待つ、です」
「敵前でも?」
ミルカが横から言う。
「敵前で間違うよりまし」
「了解」
ミルカは導きの石の向きをもとに、安全な休止地点と危険地帯を地図に写す。
エナは森で倒れた兵を手当てする。
「この人は水を少しずつ。そちらの人は、足を冷やしすぎないでください」
ガルドは狭い根道で魔物を止めた。
森の中では、長槍や大盾が扱いにくい。
兵士たちの動きも鈍る。
ガルドは短く言った。
「大きく振るな。木に当たる。戻せる幅で斬れ」
兵士が聞き返す。
「戻せる幅?」
ガルドは剣を小さく振った。
「こうだ。斬った後、すぐ戻せるところまで」
ロアンは思わず言う。
「師範っぽい」
ガルドは少し得意そうにした。
「田舎道場の教えだ」
ミルカが言う。
「森でも役に立つのね」
「だいたい役に立つ」
「その自信は少し分けてほしい」
「要るか?」
「今はいらない」
「そうか」
深森拠点は、森の迷いを防御に使っていた。
しかし、道が開けばただの拠点でもある。
各国軍が突入する。
補給庫を焼く。
魔法陣を破壊する。
捕虜を救出する。
魔王軍は撤退を始めた。
森の深部に隠されていた補給路は断たれる。
戦いは激しかったが、長くは続かなかった。
森が守りだった。
その森を抜ける道ができた時点で、深森拠点の優位は崩れていた。
ロアンは、門の近くで後続の兵を誘導していた。
「こちらです。赤い布の目印から外れないでください」
兵士が走る。
神官が負傷者を運ぶ。
魔術師が結界を張る。
村人が森の道を示す。
灰の一団だけではない。
それぞれが役目を持って動いている。
ロアンはその光景を見て、少しだけ頷いた。
「やっぱり、道を開ければ進めるんだな」
ミルカが隣で答える。
「道を開けるまでが大変だけどね」
「それは本当に」
ガルドが魔物を斬り伏せて戻ってくる。
「森は敵より厄介だった」
エナが頷く。
「でも、森は敵ではありませんでした」
ミルカが導きの石を見た。
「知らないと危険。知れば進める。そういう場所」
ロアンは森を見上げた。
木々の隙間から、わずかに光が差している。
森は、もう完全には閉じていなかった。
歌を残す
深森拠点が落ちた後、軍は新しい導きの石を持ち帰ろうとした。
神官が言う。
「これは再び必要になるかもしれません。軍で管理するべきでは」
ロアンは首を横に振った。
「これは、この森のものだと思います」
神官は少し困った顔をする。
「しかし、また必要になった時は」
ミルカが答えた。
「作り方を記録します」
「作り方」
「黒い鉱石、金属片、器の構造、針の置き方、台座の矢印との合わせ方、歌との合わせ方。持ち去るより、作れるようにした方がいい」
老婆が頷いた。
「石だけでは足りないよ」
ロアンは老婆を見る。
「歌も、ですよね」
「そう。石だけ持っていっても、森は歩けない」
エナが言う。
「歌を忘れたら、右も戻る場所も分からなくなります」
ガルドが導きの石を見る。
「石は道を知らない」
ミルカが少し笑う。
「覚えたのね」
「覚えた。石は向きを忘れないためのもの」
「合ってる」
「褒められた」
「はいはい」
村の子どもたちが、老婆の周りに集められた。
老婆は歌をもう一度歌う。
子どもたちは真似して歌う。
朝は苔石。
昼は白樺。
夕は沢音。
夜は星なし。
赤い沢には足を入れるな。
三つ倒れた木を越えたら戻れ。
鳥の声が消えたら右へ行くな。
黒い石には急かされるな。
軍の記録係が、それを書き留める。
ただし、紙だけでは足りない。
節。
間。
歩調。
どこで止まるか。
どこで待つか。
それは村人が教える必要がある。
ロアンは記録係に言った。
「歌詞だけでは足りません。歩き方も一緒に残してください」
記録係は頷く。
「分かった。村の者に教えを請う」
老婆は少し偉そうに言った。
「請われたなら、教えるさ」
ガルドが小声で言う。
「老婆は師範に似ている」
ミルカが答える。
「年を重ねた人は、だいたい強い」
「剣も?」
「剣以外も」
「なるほど」
ロアンは新しい導きの石を台座に戻した。
かつての石ではない。
失われた神器の完全な再現でもない。
けれど、同じ役目は果たした。
森の中で、人が向きを失わないようにした。
それで十分だった。
水の精霊王
深森拠点から、次の拠点に関する資料が見つかった。
火山地帯の防衛線。
溶岩流。
熱風。
水のない土地。
魔王軍の補給記録。
灰の一団と軍の指揮官たちは、臨時の天幕で資料を確認した。
神官が古い勇者文献を開く。
「火山地帯について、文献にはこうあります」
ロアンは少し身構えた。
この流れには覚えがある。
人魚の導き。
導きの石。
どちらも、文献の言葉をそのまま受け取るだけでは足りなかった。
神官は読み上げた。
「水の精霊王が現れ、炎の砦を沈めた」
沈黙が落ちた。
ミルカが最初に言った。
「また、すごい言葉が出てきた」
ガルドが真面目に聞く。
「水の精霊王は、頼めば来るのか」
エナが少し困った顔をする。
「来てくれるなら、ありがたいですけど」
ロアンは資料を見る。
火山。
熱。
水のない土地。
炎の砦。
水の精霊王。
言葉だけなら、今度こそ本当に神話めいている。
だが、人魚はいなかった。
導きの石も、失われたままでは終わらなかった。
必要だったのは、現地の海女。
歌。
黒い鉱石。
職人。
台座。
戻る道。
なら、今回もきっと、いきなり精霊王を呼ぶ話ではない。
ロアンは顔を上げた。
「まず、火山の近くで話を聞こう」
ミルカが頷く。
「伝承より、現地の人の話」
ガルドが言う。
「火山の人か」
エナが不安そうに聞く。
「火山にも、人がいるんでしょうか」
指揮官が答える。
「麓にはいる。昔から水路と灰避けで暮らしてきた村がある」
ロアンは頷いた。
「なら、そこへ行きましょう」
神官は少し複雑そうに文献を見た。
「水の精霊王ではなく、現地の人ですか」
ミルカが言う。
「人魚の時もそうでした」
ガルドが付け足す。
「導きの石の時もそうだった」
エナがやさしく言う。
「でも、文献も役に立っています。聞きに行く場所を教えてくれますから」
神官は少し驚いたようにエナを見た。
それから、静かに頷いた。
「そうですね」
ロアンは灰色の外套を整えた。
次は火山。
古い文献には、水の精霊王とある。
ロアンたちは、まだ知らない。
そこに精霊王は来ない。
だが、水はある。
昔の人間が、山に残した水がある。
それを知るために、彼らはまた次の土地へ向かう。
新しい導きの石
導きの石は、そこにはなかった。
祠は荒らされていた。
石を置いていたらしい台座だけが残り、器は割れ、周囲には魔王軍が踏み荒らした跡があった。
持ち去られたのか。
砕かれたのか。
それすら、現地では分からなかった。
残っていたのは、石そのものではない。
石を置いていた台座。
器の破片。
黒い石という言葉。
台座に刻まれた四つの矢印。
そして、老婆が覚えていた歌だった。
朝は苔石。
昼は白樺。
夕は沢音。
夜は星なし。
赤い沢には足を入れるな。
三つ倒れた木を越えたら戻れ。
鳥の声が消えたら右へ行くな。
黒い石には急かされるな。
導きの石は、失われていた。
だが、導きそのものが失われたわけではなかった。
歌が残っていた。
台座が残っていた。
黒い石を知る鍛冶師がいた。
器を削れる石工がいた。
そして、それらを見て、もう一度作ろうとするミルカがいた。
新しい導きの石は、かつての石ではなかった。
失われた神器の完全な再現でもなかった。
だが、同じ方を向いた。
森の中で、人が向きを失わないようにした。
それで十分だった。
石だけでは足りなかった。
歌が要った。
台座に刻まれた矢印が要った。
朝は苔石。
昼は白樺。
夕は沢音。
夜は星なし。
赤い沢には足を入れるな。
三つ倒れた木を越えたら戻れ。
鳥の声が消えたら右へ行くな。
黒い石には急かされるな。
それは、森を歩くための歌だった。
同時に、森から戻るための歌だった。
老婆が覚えていた。
村が忘れかけていた。
ミルカが石を作り直した。
ロアンが進む道と戻る道を考えた。
エナが危ない場所で立ち止まった。
ガルドが狭い根道で魔物を止めた。
そして、軍が進んだ。
深森拠点は落ちた。
灰の一団だけで成したことではない。
鍛冶師が針を打った。
石工が器を削った。
老婆が歌を教えた。
村人が道を思い出した。
兵士が森を進んだ。
それぞれが、少しずつ足りないところを補った。
森は、もう完全には閉じていなかった。
だが次に見えたのは、火山だった。
古い文献には、水の精霊王とある。
ロアンたちは、まだ知らない。
そこに精霊王は来ない。
だが、水はある。
昔の人間が、山に残した水がある。
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