

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
剣は下りない
玉座の間。
魔王は死んだ。
だが、玉座の間にいる者たちは、すぐには動けなかった。
ロアンたちは立っているのがやっとだった。
ミルカは杖にもたれ、呼吸を整えている。
エナは座り込みそうになる足をどうにか支えていた。
ガルドは片腕を庇いながら、それでも剣を手放していない。
竜将は歯を食いしばっていた。
吸血侯は影を収めている。
死霊宰相は、倒れた魔王を見つめたまま動かない。
近衛たちは武器を持ったまま固まっていた。
誰の命令を待つべきなのか。
誰を守るべきなのか。
誰を討つべきなのか。
その判断が、魔王の死とともに宙に浮いている。
魔王は死んだ。
しかし、魔王城はまだ落ちていない。
城の外には兵がいる。
城の中にも兵がいる。
捕虜もいる。
負傷者もいる。
結界も生きている。
誰かが一歩間違えれば、また戦いが始まる。
ロアンは剣を下ろした。
もう振れない。
振れないが、下ろす。
その動きを見て、ミルカも杖を少し下げた。
ガルドは剣を納めようとして、腕の痛みに顔をしかめる。
エナが慌てて支えた。
「無理に動かさないでください」
「納めるくらいならできる」
「できてません」
「途中まではできた」
「途中で止まっています」
ガルドは少し不満そうに剣を見る。
「剣を納めるのも仕事か」
ミルカが息を吐く。
「今は、かなり大事な仕事ね」
死霊宰相が、ゆっくりと口を開いた。
「魔王陛下の遺命により、この場での敵討ちは禁じられた」
竜将が低く唸る。
だが、反論はしない。
吸血侯が続ける。
「玉座の間における戦闘を停止する」
ロアンは、その言葉が何を意味するのか、すぐには分からなかった。
勝ったのか。
助かったのか。
捕まるのか。
まだ殺されないだけなのか。
ミルカが小声で言う。
「たぶん、今は殺されない」
ロアンは小さく返した。
「今は、か」
「そこ大事」
「だよね」
エナが、まだ震える声で言った。
「でも、今殺されないのは、大事です」
ガルドが頷く。
「次に殺されるかどうかは、次に考えればいい」
ミルカが横目で見る。
「雑だけど、今は正しいかも」
ロアンはゆっくり息を吐いた。
魔王を倒した。
けれど、次にすることは勝利の叫びではなかった。
剣を下ろすことだった。
最初の仕事
魔王が死んだという知らせは、まだ城内に届いていない。
外では、魔王城の兵たちが動いている。
灰の一団の侵入を追っている者もいる。
結界異常に対応している者もいる。
負傷者を運んでいる者もいる。
人間側の軍も、魔王城の外で待っているはずだった。
魔王が死んだと知れば、混乱する。
敵討ちに走る者もいる。
逃げ出す者もいる。
勝ったと思って一気に攻め込む者もいる。
城を壊そうとする者もいるかもしれない。
死霊宰相が言った。
「まず、城内の戦闘を止めねばならぬ」
竜将が低く言う。
「我が兵に命じる」
吸血侯が静かに続けた。
「人間側にも伝えねばならない。魔王が死んだと聞けば、外の軍が一斉に押し寄せる」
ミルカが顔を上げる。
「今それをされたら、城内が地獄になるわ」
エナが言う。
「負傷者も、捕虜もいます」
ロアンは頷いた。
「止めましょう。どっちも」
竜将がロアンを見る。
その目には、怒りと屈辱と、まだ消えていない殺意があった。
「命じる立場にあると思っているのか」
ロアンは少し困った。
「命じるというか……止めないと、たぶんもっと死ぬので」
竜将の目が細くなる。
ロアンは続けた。
「俺たちも、もう戦えません。そちらも、魔王の命令で止まっている。人間側が突っ込んできたら、止まっていたものが全部動きます」
ミルカが補足する。
「最悪、人間側は勝ったと思って城内に入る。魔王軍側は敵討ちだと思って迎撃する。捕虜と負傷者は巻き添え。結界は暴走。どこかの馬鹿が転移門施設に触る。終わり」
ガルドが眉を寄せる。
「最後の馬鹿はどっち側だ」
ミルカは即答した。
「どっちにもいる」
「公平だな」
「公平に危険」
死霊宰相は、ロアンたちを見ていた。
魔王が最後に言った「見ろ」という言葉を、すでに実行しているようだった。
吸血侯が言う。
「では、まず止める」
ロアンは頷く。
「はい。止めるのが、最初の仕事です」
魔王が死んだ後の最初の仕事。
それは、さらに誰かを倒すことではなかった。
これ以上死なせないことだった。
伝令
通信で全てが届く世界ではない。
声を飛ばす術はある。
魔力の水晶もある。
だが、城の全域へ正しく命令を届けるには、人が走る必要があった。
城内の兵へ。
外縁の巡回へ。
門の守備隊へ。
地下の牢へ。
魔王城の外で待つ人間軍へ。
間違った伝え方をすれば、そこで戦いになる。
魔王軍側は、吸血侯の配下と城内伝令が動くことになった。
人間側へは、灰の一団の名を知る者が必要になる。
ロアンたちは動けない。
ガルドが言いかける。
「俺が行く」
エナが即座に止めた。
「だめです。腕が動いていません」
「足は動く」
「だめです」
「足だけなら」
「だめです」
「伝令は足だろ」
「途中で倒れたら、伝令ではなく搬送対象です」
ミルカが頷いた。
「今走ったら、途中で倒れるわよ」
ガルドは不満そうに黙った。
ロアンも立ち上がろうとした。
ミルカが、見ずに言う。
「あんたも座ってて」
「まだ何も言ってない」
「顔が行くって言ってた」
「顔、そんなに喋る?」
「かなり」
エナも頷く。
「ロアンさんも、今はだめです」
「少しなら」
「だめです」
「伝令は」
「別の人が行きます」
ロアンは座り直した。
死霊宰相は人間側へ渡す文面を用意する。
内容は簡潔だった。
魔王は死亡。
玉座の間で戦闘停止。
魔王軍中枢は敵討ちを停止。
人間軍は即時突入を控えること。
捕虜と負傷者の保護を優先。
停戦協議の使者を送ること。
ロアンはその文面を見て、少し首をかしげた。
「これ、信じてもらえますか」
吸血侯が言う。
「信じぬだろうな」
ミルカが顔を上げる。
「じゃあどうするのよ」
死霊宰相は、魔王の印章を取り出した。
黒い石に刻まれた印。
玉座の間の灯りを吸い込むような、重い印章だった。
「これを添える」
竜将が険しい顔をする。
「陛下の印章を、人間へ渡すのか」
死霊宰相は答えた。
「陛下は見ろと命じた。ならば、見える形で終わらせねばならぬ」
竜将は何も言わなかった。
ロアンは、魔王の死後にも魔王の命令が動いていることを感じた。
本当に、倒した感じがしない。
ミルカが小さく言う。
「魔王の印章と、灰の一団の名前。それでも信じるかは半々ね」
ロアンは困る。
「半々か」
「高い方よ」
「そうなの?」
「魔王城から『魔王死にました、でも攻め込まないで』って手紙が来るのよ。普通は罠だと思う」
ガルドが頷く。
「俺なら罠だと思う」
ロアンはさらに困った。
「じゃあ、どうしたら」
ミルカは肩をすくめた。
「だから、伝令が必要。顔を知ってる人間が、必死に説明するしかない」
「やっぱり俺が」
「座ってて」
「はい」
負傷者
玉座の間の外では、すでに負傷者が集められ始めていた。
魔族兵もいる。
人間の捕虜もいる。
灰の一団を追っていた兵もいる。
城内で働かされていた者もいる。
誰が敵で、誰が味方なのか。
それは、まだ消えていない。
だが、血は同じように流れている。
エナは立ち上がろうとした。
ロアンが止める。
「エナ、休んで」
エナは首を振る。
「休みます。でも、少しだけ見ます」
ミルカが言う。
「それ、休まない人の言い方」
エナは困ったように笑った。
「でも、見ない方が怖いです」
ミルカは少し黙った。
そして、息を吐く。
「分かった。全部治そうとしないこと。優先順位だけつける。倒れそうなら座る」
「はい」
「返事が素直な時ほど危ないのよね」
「そんなことは」
「ある」
ガルドが言う。
「エナは頑固だ」
エナは少しだけ目を丸くした。
「ガルドさんに言われると、不思議です」
「俺は素直だ」
ミルカが短く言う。
「違う」
ロアンも小さく言う。
「違うと思う」
ガルドは納得していない顔をした。
エナは全員を完全に癒せるわけではなかった。
だから、優先順位をつける。
今すぐ死ぬ者。
動かすと危ない者。
水が必要な者。
止血だけで済む者。
意識はあるが歩けない者。
叫んでいるだけで実は軽傷の者。
静かすぎて危ない者。
魔族も人間も区別しない。
竜将がそれを見て、複雑な顔をする。
「敵も癒すのか」
エナは答えた。
「今は、死なないようにする時間だと思います」
竜将は何も言わない。
魔王の言葉が、まだ彼の中で重く残っている。
殺すな。
殺されるな。
エナは魔族兵の止血をし、人間の捕虜に水を渡し、近衛の腕を縛り直した。
一人の魔族兵が戸惑ったように言う。
「なぜ」
エナは少し困って答える。
「血が出ていたので」
「敵だぞ」
「はい。でも、血が出ていたので」
その答えに、魔族兵は黙った。
ミルカが遠くから小さく言う。
「エナらしい」
ロアンも頷いた。
「うん」
ガルドが言う。
「分かりやすいな」
ミルカは少しだけ笑った。
「分かりやすいけど、真似は難しいわよ」
偉い人たち
やがて、人間側の使者が魔王城へ入った。
すぐに軍がなだれ込むわけではない。
まず入ってくるのは、指揮官、神官、高官、各国代表、そして通訳役の者たちだった。
彼らは緊張していた。
当然だった。
魔王城の中で、魔族の中枢と向かい合うのだ。
たとえ停戦の文面があっても、魔王の印章が添えられていても、罠でない保証はない。
彼らは魔王の死体を見た。
玉座の間の傷を見た。
ロアンたちを見た。
竜将、吸血侯、死霊宰相がまだそこにいることに、さらに緊張した。
しかし、戦闘は再開されない。
人間側の高官の一人が、震える声で言う。
「魔王は……本当に討たれたのか」
死霊宰相が答える。
「見ての通りだ」
沈黙が落ちる。
誰かが祈りの言葉を呟いた。
誰かが肩の力を抜いた。
誰かは、まだ剣から手を離していない。
その後、高官たちの視線がロアンたちに向いた。
ロアンは嫌な予感がした。
戦闘中とは別の種類の嫌な予感である。
エナが小さく言った。
「ロアンさん、顔が逃げたそうです」
「逃げてないよ」
ミルカが言う。
「逃げたそうではある」
ガルドが頷く。
「戦う時より逃げたそうだ」
ロアンは困った。
その直後、高官が問う。
「で、そなたらの中の誰が勇者なのだ?」
ロアンは瞬きをした。
ミルカ、エナ、ガルドは、ほとんど同時に答える。
「ロアン」
「ロアンです」
「ロアンだな」
ロアンは驚いて三人を見た。
「え? 違うよ。俺はみんなのサポート役だよ」
ミルカが呆れたように言う。
「いつも決めてたでしょ」
ロアンは本気で反論する。
「決めたのはミルカでしょ?」
ミルカは眉を上げる。
「私は、情報の断片をつないだだけ。あとはあんたの雑な方針を分けただけ」
「雑って」
「雑でしょ。『壁かな』とか『水を来させる』とか」
「でも、実際に壁だったし、水だったし」
「だから困るのよ」
ロアンは困ってエナを見る。
「エナも危ないときは全部教えてくれた」
エナは少し考えてから、静かに言う。
「はい。でも、ロアンが決めてくれたので分かりやすかったです」
「いや、俺は聞いただけで」
「聞いて、決めてくれました」
ロアンはさらに困ってガルドを見る。
「一番強くて一番戦ってたのはガルドだ」
ガルドはうなずく。
「そうだな。お前の言う通り、ちゃんと戦って、ちゃんと逃げたな。俺だけだったらずっと戦ってた」
ロアンは言葉を失った。
三人は本気で言っている。
自分だけが納得していない。
高官たちはそのやり取りを見て、何かを勝手に理解したような顔をした。
ロアンはさらに嫌な予感がした。
勇者扱い
高官の一人が、厳かに言った。
「では、ロアン殿が勇者ということか」
「違います」
ロアンは即答した。
「違うのか」
「違います」
「だが、魔王を討った」
「みんなでです」
「灰の一団を率いていた」
「率いていたというか、相談していました」
「各国を結んだ」
「走っただけです」
「魔王の前に立った」
「みんなで立ちました」
高官は困った。
ロアンも困った。
ミルカは横でため息をついている。
「もう諦めたら?」
「何を?」
「そういう扱いをされること」
「困るよ」
「私も困るけど、たぶん止まらないわよ」
「止めよう」
「何度も止めた結果がこれでしょ」
ロアンは言葉に詰まった。
エナが小さく言う。
「ロアンが勇者と呼ばれるなら、私たちも何か変な呼ばれ方をするのでしょうか」
ガルドが首をかしげる。
「剣士でいい」
ミルカが言う。
「後世がそんな素直なわけないでしょ」
「後世は面倒なのか」
「かなり面倒よ。たぶん」
ロアンが言う。
「まだ後世の話は早いよ」
ミルカはロアンを見る。
「あんた、今もう始まってるの分かってないでしょ」
「何が?」
「面倒な話」
「もう十分面倒だよ」
「これはまだ入口」
ロアンは本気で嫌そうな顔をした。
人間側の高官が、改めて言う。
「いずれ正式な記録を整える必要がある。魔王を討った者の名を残さねばならぬ」
ロアンは慌てる。
「灰の一団でお願いします」
「もちろん、灰の一団の名も残す」
「も、じゃなくて」
「その中心にロアン殿の名を」
「中心じゃなくて」
ミルカが小声で言う。
「中心だったって」
「ミルカまで」
エナが控えめに言う。
「中心でした」
ガルドも頷く。
「中心だったな」
ロアンは頭を抱えそうになった。
「魔王より手強い」
ミルカが言う。
「ある意味ね」
最初の合意
停戦協議は、その場で正式にまとまるわけではない。
魔王が死んだ。
だからすべてが終わる。
そんな簡単な話ではなかった。
だが、最初の合意は必要だった。
死霊宰相が言う。
「魔王軍中枢として、玉座の間周辺および城内主要区画の戦闘停止を命じる」
人間側の指揮官が答える。
「人間側も、魔王城への無秩序な突入を禁じる」
竜将は不満を隠さない。
吸血侯は静かに見ている。
ロアンは、これがどれほど危うい合意か分かる。
誰か一人が暴走すれば、また戦闘になる。
魔王軍側にも、納得していない者はいる。
人間側にも、魔王城を焼き払えと言う者はいるだろう。
だから最初に決めることは、勝利宣言ではない。
武器を下げる。
負傷者を運ぶ。
捕虜を殺さない。
伝令を通す。
死体を踏まない。
魔王城の結界を勝手に壊さない。
転移ゲート修理施設に触らない。
各国軍本隊の突入を待たせる。
それらは地味で、面倒で、英雄譚には見えない。
だが、やらなければまた死ぬ。
ロアンは思った。
魔王を倒すより、こっちの方が長いかもしれない。
ミルカがロアンの顔を見た。
「また何か考えてる」
「魔王を倒すより長そうだなって」
「正解」
「正解なのか」
「たぶんね」
ガルドが言う。
「魔王を斬ったら終わりじゃなかったのか」
ミルカが答える。
「終わるわけないでしょ」
「そうか」
「そうよ」
「では、まだ続くのか」
ロアンは頷いた。
「続くみたい」
エナが言う。
「でも、誰かがやらないといけません」
ロアンはうなずく。
「うん」
そして少し遅れて気づく。
また、自分たちがその「誰か」に入れられそうになっている。
ロアンはミルカを見た。
ミルカは目を逸らした。
「もう手遅れかもしれないわね」
「何が?」
「色々」
捕虜の名簿
すぐに捕虜の話になった。
人間側は捕虜の即時解放を求める。
魔王軍側は、各地の魔族捕虜も返還対象に入れるよう求める。
人間側の神官が怒った。
「魔王軍の捕虜と、こちらの民を同列に扱うのか」
吸血侯が冷たく返す。
「殺すな、殺されるな。それが遺命だ。片方だけでは守れぬ」
空気が悪くなる。
竜将の目が鋭くなる。
人間側の兵も剣に手をかけかける。
ロアンは慌てて間に入った。
「まず、今いる人から確認しませんか」
高官が見る。
「今いる人?」
「城内にいる捕虜と負傷者です。名前を確認して、どこへ返すか決める。遠くの話は、その後でも」
ミルカが補足する。
「各地の捕虜を一度に扱うと揉めます。まず魔王城内の名簿。次に近隣。最後に各国間の交換。順番を分けた方がいい」
死霊宰相がうなずく。
「合理的だ」
人間側の指揮官も認める。
「まず名簿を作る」
ガルドが小声で言った。
「名簿で戦が止まるのか」
ミルカが答える。
「止まる時もある」
「剣より強いのか」
「場面による」
「帳簿も強かったな」
「そうよ。だから雑に扱わない」
ロアンは、どこかで聞いたような会話だと思った。
報酬の帳簿。
依頼の条件。
撤退しても動いた分はもらう。
あの時も、ミルカは数字と紙で皆を止めた。
今は、名簿で人が死ぬのを止めようとしている。
また一つ、魔王が死んだ後の仕事が増えた。
エナが名簿作りを手伝おうとして立ち上がる。
ミルカが止める。
「座って」
「でも、名前を聞くくらいなら」
「座って聞けばいい」
「それなら」
「立たない」
「はい」
ガルドが感心したように言う。
「ミルカはエナの扱いに慣れているな」
ミルカは疲れた顔で答えた。
「慣れたくて慣れたわけじゃない」
エナは少し申し訳なさそうに笑った。
残るもの
魔王軍の一部は、魔王の死を受け入れないかもしれない。
人間側にも、停戦など不要だと考える者がいる。
深海、深森、火山の拠点は壊れたまま。
転移ゲート網も壊れている。
森では迷った兵がまだ帰っていない。
火山では水路と堤が壊れている。
海では船が足りない。
復興は必要だが、誰がどこまで負担するのかは決まっていない。
それらの報告が、少しずつ玉座の間へ集まってくる。
ロアンは途中から、頭が追いつかなくなってきた。
魔王は死んだ。
それは大きなことだ。
だが、その大きなことの周りに、小さくない問題が山ほど残っている。
ガルドがぼそりと言う。
「魔王を斬ったら終わりじゃなかったのか」
ミルカが答える。
「さっきも言ったでしょ。終わるわけない」
「二回聞けば、終わるかと思った」
「終わらない」
「そうか」
エナが言う。
「でも、少しは変わりました」
ロアンは頷く。
「うん。前よりは、止められるかもしれない」
ミルカが言う。
「止めるものが増えただけとも言えるけどね」
「それは、言わないでほしかった」
「現実だから」
ロアンは苦笑した。
人間側の高官が、魔王城の結界について尋ねる。
死霊宰相が、勝手に壊すと地下区画が崩れる可能性を説明する。
ミルカが顔を上げる。
「結界は全部壊さない方がいいです。支えている部分もあります」
高官が目を丸くする。
「敵の結界を残すのか」
「敵の結界でも、壁を支えているなら壊したら下敷きになります」
ガルドが頷く。
「敵の壁でも、落ちると痛い」
ミルカが言う。
「そういうこと」
「分かりやすい」
「雑だけどね」
ロアンは思う。
魔王が死んだ後の仕事は、たぶんこういうものなのだ。
勝ったから全部壊す、ではない。
残すものと壊すものを分ける。
すぐ返すものと、後で話すものを分ける。
敵と味方を分けすぎない。
かといって、同じだとも言い切らない。
面倒だ。
でも、誰かがやらないといけない。
小部屋
その日の終わり。
ロアンたちは、魔王城の一室でようやく座った。
豪華な部屋ではない。
安全確認の済んだ、窓のない小部屋である。
窓がないのはありがたい。
外から狙われにくい。
ただ、風も入らない。
ミルカは床に座り込んだ。
エナは道具袋を枕にしている。
ガルドは壁にもたれている。
ロアンは剣を膝に置いた。
誰も、しばらく喋らなかった。
静かだった。
静かなのに、耳の奥でまだ玉座の間の音が残っている。
魔王の声。
竜将の叫び。
鐘。
魔力の波。
剣の軋む音。
ミルカが目を閉じたまま言った。
「生きてる?」
ガルドが答える。
「たぶん」
エナが小さく言う。
「生きています」
ロアンも頷く。
「生きてる」
「ならいいわ」
ミルカはそのまま動かない。
少しして、ロアンが小さく言った。
「勇者じゃないのに」
ミルカは目を閉じたまま答える。
「何度言っても、たぶん聞かないわよ」
「困る」
「困るでしょうね」
「他人事みたいに」
「巻き込まれるのは分かってるから、他人事ではないわね」
エナが小さく言った。
「でも、ロアンがいなかったら、ここまで来られませんでした」
ロアンは首を振る。
「みんながいたから来られたんだよ」
ガルドが言う。
「だからだろ」
ロアンはガルドを見る。
「どういうこと?」
「みんながいて、それを一つにしてたのがお前だ」
ロアンは黙った。
自分では、そう思っていなかった。
ただ、目の前の問題を一つずつ決めていただけだ。
戻るか、進むか。
受けるか、断るか。
報酬をもらうか、助けるか。
誰に頼るか。
どの道を行くか。
どこで逃げるか。
どこで戦うか。
それを決めていただけだ。
ミルカが言う。
「勇者かどうかは知らないけど、中心ではあったわよ」
ロアンは剣を見る。
もらいものの剣。
聖剣ではない剣。
「中心って、そんなに偉いものじゃないよ」
ミルカが答える。
「偉いかどうかじゃなくて、そう見えるって話」
「見えるだけなら、違うって言えば」
「言ったでしょ」
「言った」
「聞かれた?」
ロアンは黙った。
エナが少しだけ笑った。
「ロアンさん、また困った顔です」
「困ってるから」
ガルドが真面目に言う。
「困った勇者か」
「勇者じゃない」
「では、困ったロアンか」
「それなら合ってる」
ミルカが小さく笑う。
「だいぶ合ってる」
ロアンはため息をついた。
勇者ではない。
でも、そう見える。
このズレが、これから大きくなっていくのだと、ロアンはまだ少ししか分かっていなかった。
魔王軍側の夜
一方、魔王軍側。
竜将、吸血侯、死霊宰相は、魔王の遺体の前にいた。
玉座の間は片付けられていない。
壊れた柱。
消えかけた魔法陣。
砕けた床。
血の跡。
そこに、魔王の亡骸がある。
竜将はまだ怒りを消せない。
「なぜ止められた」
吸血侯が言う。
「止めねば、我らは殺していた。あるいは殺されていた」
竜将が睨む。
「それが何だ」
死霊宰相が静かに言う。
「陛下は、見ろと命じられた」
竜将は黙る。
死霊宰相は続けた。
「我らは勇者の条件を封じた。血筋、神託、聖剣、聖痕、天空。いずれも機能していた」
吸血侯が言う。
「だが、彼らは来た」
「そうだ」
「ならば、見なければならぬ」
竜将は拳を握った。
「見て、どうする」
死霊宰相は魔王の遺体を見る。
「次を間違えぬためだ」
「次などあるのか」
「ある。魔王陛下が死んでも、兵は残る。土地は残る。恨みも残る。ならば、次を間違えぬようにするしかない」
吸血侯は影のように静かだった。
「許したわけではない」
竜将が低く言う。
「当たり前だ」
「だが、殺し合いを続けるだけでは、陛下の命に背く」
竜将は答えない。
死霊宰相は、床の傷を見る。
「条件だけでは足りぬ。陛下の最後の言葉だ」
「条件を捨てろということか」
「違う。条件だけを見るなということだ」
竜将は目を閉じた。
怒りは消えない。
悔しさも消えない。
だが、魔王の命令も消えない。
見ろ。
その一言が、死んだ後も彼らを縛っている。
そして、縛っているだけではない。
次に何をするかを考えさせている。
魔王軍側もまた、魔王が死んだ後の仕事を始めなければならなかった。
灰色の布
翌朝、魔王城の外に停戦の旗が掲げられた。
白ではない。
人間側の旗でも、魔王軍の旗でもない。
急ごしらえの灰色の布である。
最初にそれを出したのが誰だったのか、ロアンには分からない。
魔王軍側の伝令かもしれない。
人間側の指揮官かもしれない。
誰かが、白布は降伏と誤解されると言った。
誰かが、人間側の旗では魔族兵が反発すると言った。
誰かが、魔王軍の旗では人間側が進めないと言った。
それで、灰色の布になった。
灰の一団の外套の色。
どちらの旗でもない色。
誰かが言う。
「灰の一団の色だ」
誰かが答える。
「では、灰の勇者の旗か」
ロアンはそれを聞いて、思わず振り返った。
「違います」
だが、その声は周囲のざわめきに消えた。
ミルカが隣で言う。
「今のは負け戦ね」
「まだ一回しか言ってない」
「一回で負けが見える戦いもある」
「そんな」
エナが灰色の布を見上げる。
「でも、白でも黒でもないのは、少し安心します」
ガルドが言う。
「灰色は汚れが目立たない」
ミルカが睨む。
「今そういう話?」
「実用的だろ」
ロアンは灰色の布を見た。
風に揺れている。
それはただの布だった。
急いで用意された、端のほつれた布。
けれど、周囲の者たちはもう、それに意味を見つけ始めている。
魔王は死んだ。
戦争はまだ終わっていない。
だが、人々はもう物語を探し始めている。
誰が魔王を倒したのか。
どの剣だったのか。
どんな神託があったのか。
どんな印を持っていたのか。
ロアンはまだ知らない。
自分たちの旅が、これから別の形で語られ始めることを。
そして、自分が何度否定しても、そのすべてを止めることはできないことを。
ミルカが小さく言った。
「次は、剣とか神託とか傷の話になるわね」
ロアンは顔をしかめる。
「ならないよ」
ミルカは灰色の布を見たまま答える。
「なるわよ」
エナが少し不安そうに言う。
「私、神託は受けていません」
ガルドが言う。
「俺は剣士でいい」
ミルカは疲れたように言った。
「だから、後世がそんな素直なわけないでしょ」
ロアンは灰色の布を見上げた。
勇者ではない。
そう思っている。
そう言っている。
けれど、物語は本人の手を離れ始めていた。
魔王が死んだ後の仕事
魔王は死んだ。
けれど、戦争は死ななかった。
剣を下ろす者がいた。
下ろせない者がいた。
泣く者がいた。
怒る者がいた。
復讐を望む者がいた。
捕虜の名を呼ぶ者がいた。
死体を探す者がいた。
勝利を叫びたい者もいた。
だが、その前にしなければならないことがあった。
武器を下げること。
負傷者を運ぶこと。
捕虜の名を記すこと。
伝令を走らせること。
門を開けすぎないこと。
魔王城の結界を壊しすぎないこと。
敵討ちを止めること。
殉死を止めること。
魔王が死んだ後にも、仕事は残った。
ロアンは勇者ではなかった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
けれど、周囲はもう、彼を違う名前で呼び始めていた。
勇者殿。
灰の勇者。
魔王を討った者。
ロアンは否定した。
何度も否定した。
けれど、物語は本人の手を離れ始めていた。
聖剣も、神託も、聖痕も。
まだそこにはなかった。
だが、人々はもう、それらを探し始めていた。
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