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一 守護拠点の奥
ハツカネズミたちは戻った。
小さな足音が消えると、洞窟の奥は急に広くなったように感じられた。
いや、実際には広いのだ。
リオル・ロステルは、熱を帯びた空気の向こうを見る。
そこは、ただの洞窟ではなかった。
岩肌には古い加工の跡がある。
床は天然の洞窟にしては滑らかで、長い年月の間に何度も熱を受けたように、黒く、赤く、艶を帯びている。壁面には、解読できない古い文字が刻まれていた。文字の周囲には壁画のような線もある。人らしき影。竜らしき影。財宝を囲む図。契約陣に似た模様。
リオルには、ほとんど意味が分からない。
ただ、ここが昔から何かを守るための場所だったことだけは分かった。
メルセナ・オルブライトは、歩調を落とした。
カイル・レイヴァンも剣には手を掛けない。ただ、右手をいつでも動かせる位置に置いている。
フィン、ガレス、ブリギットの三騎士は、ここにはいない。
彼らの任務は、赤竜との交渉に参加することではなかった。
ガーディアンを倒すのではなく、メルセナたちが通過するための時間を作ること。
メルセナたちが通り抜けた後は、各自の判断で退避し、拠点側の高位召喚士による帰還召喚を受ける手筈になっている。
無事に戻ったのかどうかを、今ここで確かめることはできない。
だが、確かめるために振り返ることもできなかった。
ここから先は、赤竜の領域だった。
ミレイユも後方の記録位置に残っている。
ここから先に進むのは、メルセナ、リオル、カイルの三人だけだった。
リオルは、思わず小さく息を吸った。
熱い。
喉が焼けるほどではない。
だが、吸うだけで体の内側が乾いていくような熱だった。
「ここからは、余計な召喚はしません」
メルセナが言った。
「ハツカネズミも、鳥も、これ以上は近づけません」
「刺激になるからですか」
「はい。赤竜の領域に、不要な気配を入れる理由がありません」
リオルは頷いた。
足元にはもう、ハツカネズミはいない。
さっきまで自分の周囲にいた小さな命たちは、全て後ろへ戻した。
ここから先は、探る場所ではない。
交渉の場所だ。
通路が開けた。
リオルは、そこで足を止めそうになった。
広間だった。
洞窟の奥に、巨大な空間があった。
天井は高く、熱で揺らめいて見える。壁には古い術式の残滓が淡く光り、床には複雑な線が薄く残っている。召喚陣なのか、封印陣なのか、契約陣なのか、リオルには分からない。
そして、財宝があった。
金貨。
銀杯。
宝石。
古い剣。
箱。
壺。
装飾品。
魔道具らしきもの。
それらは、リオルには無造作に積まれているように見えた。
人間の目には、ただ古い財宝が山のように置かれているだけに見える。
どれが重要で、どれがそうではないのか。
何が元からそこにあり、何が欠けているのか。
リオルには分からない。
ただ、熱の中に、古い金属と石と魔力の気配が混ざっていた。
その中央に、赤竜がいた。
巨大だった。
赤い鱗は、ただ赤いのではない。火の底のような赤だった。黒く沈む部分と、内側から熱を持って光る部分がある。翼は畳まれているが、それでも広間の一部を覆うほど大きい。爪は岩を割るように床へ沈み、長い尾は財宝の外周を囲むように置かれていた。
財宝の上で眠る獣ではない。
守護位置にいる存在だった。
赤竜の目が、ゆっくりと開く。
金色の瞳が、メルセナたちを捉えた。
次の瞬間、広間の熱が跳ね上がった。
「また盗人か!」
声が、洞窟そのものを震わせた。
リオルは息を呑む。
赤竜の首が持ち上がる。
巨大な翼がわずかに開き、爪が床を掻いた。熱風が広間を叩き、財宝の上に積もった古い塵が舞う。
カイルが半歩前へ出た。
剣は抜かない。
抜けば、交渉ではなくなる。
赤竜は今にも動き出しそうだった。
怒っている。
それは、洞窟の熱だけで分かった。
空気が鳴り、石が汗をかくように熱を帯びる。
けれど、赤竜はそこで止まった。
動けないのではない。
動けば、守るべきものまで焼くと分かっているのだ。
怒り狂ってなお、赤竜は守護者だった。
メルセナは一歩も退かなかった。
ただ、静かに言った。
「そう見えますか?」
赤竜の瞳が、細くなる。
「何?」
「私たちは、盗人に見えますか?」
広間の熱が、さらに重くなる。
リオルは、心臓が喉まで上がってくるような感覚を覚えた。
そんな問いを、今、赤竜に向けるのか。
だが、赤竜はすぐには吠えなかった。
金色の瞳が、メルセナからカイルへ、そしてリオルへ移る。
剣を抜いていないカイル。
小動物を連れていないリオル。
財宝へ近づこうとしないメルセナ。
そして、ここへ至るまでのガーディアンの反応。
赤竜は、それらを見ていた。
「……盗人ならば、正面から来ぬ」
赤竜が低く言った。
「隠れる。抜ける。奪う。見つかる前に去る」
熱が、わずかに揺れる。
「だが、おまえたちは違う。我が門番を砕いていない。財宝へ手を伸ばしてもいない。進むために退け、通るために止めた」
リオルは息を詰めた。
赤竜は、見抜いている。
フィンが大ガーディアンを引きつけたことも。
ガレスが中ガーディアンを押し込みながら深追いしなかったことも。
ブリギットが小ガーディアンを倒さず、道を消したことも。
戦うためではなく、通るための布陣だったことを。
「人間は、一枚岩ではない」
赤竜は言った。
「盗む者もいれば、追う者もいる。隠れる者もいれば、正面から来る者もいる」
金色の瞳が、再びメルセナを見る。
「ならば」
赤竜が問う。
「交渉か?」
メルセナは、一歩だけ前へ出た。
「はい」
声は静かだった。
「交渉です」
二 怒りは一つではない
広間の熱が、わずかに増した。
カイルが半歩だけ姿勢を変える。
剣は抜かない。
抜けば、それは交渉ではなくなる。
リオルは、息を浅くしたままメルセナを見る。
メルセナは赤竜を見上げていた。
相手は竜。
自分たちは人間。
それでも、メルセナの声は変わらない。
「まず、確認させてください」
「確認」
赤竜は低く繰り返す。
「あなたは、何に怒っているのですか」
リオルは一瞬、胸が冷えた。
そんなことを聞いていいのか、と思った。
赤竜は怒っている。
それは、見れば分かる。
だが、メルセナはその怒りの中身を聞いた。
赤竜は、しばらく黙った。
その沈黙だけで、広間の空気が重くなる。
「盗まれた」
やがて、赤竜が言った。
「我が守るものを、人間が盗んだ。我が前から奪った。取り戻す」
リオルは、喉を鳴らした。
メルセナは頷く。
「盗まれた品そのものが惜しいからですか」
赤竜の目が、少しだけ鋭くなった。
「守ると契ったものだ」
「契約に含まれるから」
「そうだ。我は守ると契った。守るものを奪われた。我は契りを果たせなかった」
リオルは、その言葉を聞いて、少しだけ赤竜の印象が変わるのを感じた。
盗まれたから怒っている。
それは分かる。
だが、赤竜の言い方は、宝を取られた獣のものではなかった。
失敗した、と言っている。
契約を果たせなかった、と言っている。
「守護者が契りを果たせぬなど、威を失ったも同じだ」
赤竜の声が低くなる。
財宝の一部が、熱で小さく音を立てた。
メルセナは、赤竜の言葉を受け止める。
「威厳が傷ついたのは、盗まれたからではなく、契約を果たせなかったと感じているからですね」
赤竜はすぐには答えない。
しかし、否定もしなかった。
「……そうなる」
「ということは、財宝そのものには興味がない?」
「契約に含まれるものだ。興味がないわけではない」
赤竜の尾が、財宝の外周をわずかに動いた。
財宝には触れない。
だが、その動きだけで、何を守っているのかを示していた。
「だから、すべての財宝の形、色、場所、気配を覚えている」
リオルは思わず言った。
「全部、ですか」
赤竜の視線が、リオルに向く。
それだけで、体が固まる。
「当然だ」
赤竜は言った。
「守るものを覚えずに、何を守る」
リオルは何も言えなくなった。
当然。
赤竜にとっては、それが当然なのだ。
何百年も、何千年も。
財宝の一つ一つを覚え、形を覚え、色を覚え、場所を覚え、気配を覚える。
盗まれれば、すぐに分かる。
欠けたものが分かる。
それは執着ではなく、契約の履行だった。
メルセナは少しだけ言い方を変えた。
「聞き方を変えます。契約が財宝の守護でなければ、財宝が盗まれたこと自体については、どの程度問題になりますか」
「腹立たしい面はある」
赤竜は答えた。
「人間が我のものへ手を伸ばした。そのことは不快だ」
「はい」
「しかし、そこは譲歩してもよいところだと思う」
リオルは驚いて赤竜を見た。
譲歩。
赤竜の口から、その言葉が出た。
メルセナは表情を変えない。
「では、怒りの中心は財宝そのものではありません」
「そうだ」
「中心にあるのは、契約を果たせなかったという認識。そして、その結果として威厳が失われたように感じていること」
赤竜は、しばらく沈黙した。
広間の熱が少し揺れる。
「……その整理ならば、そうなる」
「分かりました」
メルセナは頷いた。
「では、何を直すべきかを確認します」
三 財宝、契約、威厳
「怒りを分けます」
メルセナが言った。
赤竜の目が細くなる。
「分ける?」
「はい」
メルセナは、声を落とさず続けた。
「第一に、盗まれた品そのもの。第二に、守護契約を果たせなかったと感じていること。第三に、その結果として守護者としての威厳が失われたように感じていること」
赤竜は、じっとメルセナを見た。
リオルはその視線だけで足がすくみそうだったが、メルセナは平然としていた。
「この三つは、似ていますが同じではありません」
「人間は、よく切る」
「切り分けなければ、戻せるものと戻せないものを間違えます」
リオルは小さく繰り返した。
「戻せるものと、戻せないもの」
「品は戻せます」
メルセナは言った。
「ですが、守れなかったと感じている事実は消せません。威厳も、ただ物を返せば戻るとは限りません」
赤竜が低く唸る。
それだけで、壁の古い文字が熱を帯びたように見えた。
「ならば、どうする」
「順に扱います」
メルセナは、カイルへ視線を向けた。
カイルが、布に包まれたものを慎重に前へ出す。
赤竜の瞳が、そこで明らかに変わった。
金色の目が、細く、鋭く、熱を帯びる。
「盗まれたと見られる品は、回収しています」
「出せ」
赤竜の声が低く響いた。
カイルの肩に力が入る。
リオルも思わず身構えた。
だが、メルセナはすぐには布を開かなかった。
「確認のために示します。返還条件は、この後に詰めます」
「条件だと?」
赤竜の熱が増す。
空気が鳴った。
カイルが一瞬だけ前へ出そうになる。
メルセナは片手でそれを制した。
「はい。返すだけで終わる問題ではないと、あなた自身が示しました」
赤竜の目が、わずかに揺れた。
怒りではない。
言われたことを理解した揺れだった。
「返せば終わるなら、交渉は不要です。ですが、あなたは契約を果たせなかったこと、威厳が傷ついたことに怒っている。ならば、品の返還だけでは不足します」
赤竜は黙った。
メルセナは、そこで布を開いた。
翼の意匠。
赤黒い筋。
風の形をしながら、火を帯びた古代魔道具。
リオルは、前にも見たその魔道具を、もう一度見た。
風の道具だったはずなのに、近くにあるだけで熱い。
火の精霊力が強すぎる。
赤竜の火に長く晒され、変質したもの。
赤竜は、それを見た。
長い沈黙が落ちた。
やがて、赤竜が言った。
「……それだ」
その声は、怒りだけではなかった。
痛みに近いものがあった。
リオルにはそう聞こえた。
メルセナは布を完全には外さず、魔道具を示したまま聞く。
「これを戻せば、あなたは村を焼くことをやめますか」
赤竜は答えなかった。
リオルは、思わず赤竜を見る。
「赤竜……」
赤竜は、魔道具を見つめたまま言った。
「我は、守れなかった」
メルセナが頷く。
「つまり、品の返還だけでは足りない」
「守る契りを結び、守れなかった。その事実は、戻らぬ」
「はい」
メルセナは、否定しなかった。
慰めもしなかった。
ただ、事実として受け止めた。
「ですから、契約の問題に入ります」
四 古すぎる契約
赤竜の爪が、床をわずかに押した。
岩に細い亀裂が入る。
それでも財宝には触れない。
怒っていても、赤竜は守るべきものを傷つけなかった。
「あなたは契約を果たせなかったことに怒っている」
メルセナが言った。
「そうだ」
「ですが、その契約は現在も正しく管理されていますか」
赤竜の視線が鋭くなる。
「何?」
「契約相手は生きていますか。契約更新はされていますか。解除条件は現行制度上で確認されていますか」
赤竜は答えない。
広間の熱だけが揺れる。
リオルは、初めて赤竜が黙った理由を考えた。
答えられないのだ。
契約はある。
けれど、その相手はもういない。
更新する者もいない。
解除条件を確認する者もいない。
それでも、赤竜は守り続けている。
ずっと。
あまりにも長く。
「さらに確認します」
メルセナは続けた。
「守る対象は、何を、いつまで、どの状態で守る契約ですか」
「財宝を守る契約だ」
「腐食や風化は含みますか」
赤竜は、わずかに沈黙した。
「……そこは、気にはなっていた」
リオルは驚いた。
「気になっていたんですか」
赤竜の視線がリオルへ向く。
「当然だ。長く守れば、ものは変わる。盗まれずとも、失われるものはある」
赤竜は財宝の一部へ視線を動かした。
古い布。
錆びた金具。
ひびの入った壺。
黒ずんだ銀杯。
守っていても、時は止まらない。
財宝は財宝のまま、少しずつ変わる。
「元の契約では、腐食や風化は暗黙的に除外されていた可能性があります」
メルセナが言った。
「ですが、明確ではありません」
「契約は契約だ」
「はい。だからこそ、現在の形で扱う必要があります」
「現在の形」
「契約相手がいない。契約更新がない。解除条件も曖昧。守護対象の状態変化も、期限も、除外条件も明確ではない。その状態で、あなたは古い契約に縛られ続けている」
赤竜の熱が、一瞬だけ強くなった。
「我が勝手に縛られていると言うか」
「いいえ」
メルセナは即座に否定した。
「あなたは守ろうとしていました。過剰なほど正確に」
赤竜は黙った。
「だからこそ、問題はあなたの怠慢ではありません。契約そのものが、現在の扱いに耐えられないほど古く、曖昧になっている可能性があります」
赤竜は答えなかった。
怒りが消えたわけではない。
だが、怒りの向け先が、ほんのわずかに揺れたように見えた。
「契約は、我が守るものだ」
赤竜は低く言った。
「はい」
メルセナは頷く。
「だからこそ、契約そのものを確認する必要があります」
「確認……」
「あなたを責めるためではありません。何を守り、どこまで守れば契約履行だったのかを確かめるためです」
五 村を見ていた理由
リオルは、迷った。
聞いていいのか分からない。
だが、聞かなければいけない気がした。
「あの」
声が少し掠れた。
赤竜の目がリオルへ向く。
体が固まりそうになる。
けれど、リオルは続けた。
「村で、人を一人一人見ていたって聞きました」
赤竜は、しばらくリオルを見た。
「人を見ていたのではない」
「え?」
「気配を探していた」
「気配?」
「盗まれたものの魔力と精霊力だ。あれは我が守るもの。形も、色も、場所も、気配も、すべて覚えている」
メルセナが言う。
「そこにあれば分かる」
「当然だ」
赤竜は答えた。
「失われたものの気配を、我は知っている。人の群れの中に紛れていようと、荷の中に隠されていようと、近ければ分かる」
リオルは、避難民の証言を思い出した。
赤竜は人を見ていた。
一人一人を確認していた。
村人たちはそう言っていた。
けれど、赤竜は人間の顔を見分けていたのではない。
魔道具の気配を探していた。
財宝の一つ一つを覚えていたから。
欠けた気配を覚えていたから。
「それで、盗まれたことが分かったんだ……」
リオルの声は小さかった。
メルセナは、赤竜へ向き直る。
「村が燃えたのは、攻撃ですか」
赤竜は、すぐには答えなかった。
広間の熱が、少し揺れる。
「……我は、探していた」
「意図的に焼いたのではない」
「そうだ」
「怒りで熱が漏れた」
「人間の言い方なら、そうなるのだろう」
リオルは、胸の奥が冷えるのを感じた。
「熱が漏れた、だけで……」
言葉が止まる。
村が燃えた。
人が逃げた。
畑も、家も、生活も焼けた。
赤竜にとっては、攻撃ではなかった。
探していただけ。
怒りで熱が漏れただけ。
鼻息が荒かった、くらいのことなのかもしれない。
けれど、人間にとっては災害だった。
「それが赤竜です」
メルセナが言った。
赤竜の熱が、わずかに増す。
「我に説教か」
「いいえ」
メルセナは即答した。
「事実確認です」
「事実」
「あなたが守護契約を果たせなかったと感じ、威厳を失ったように感じていること。そして、無関係の人間が被害を受けたこと。この二つは、同時に存在します」
赤竜は、じっとメルセナを見た。
その瞳には怒りがある。
だが、それだけではない。
「事実を並べるのだな」
「はい。責めるためではなく、次に何をすべきか決めるためです」
リオルは、メルセナの横顔を見る。
赤竜に怯えていない。
赤竜を責め立ててもいない。
怒りを鎮めるために曖昧に慰めることもしていない。
ただ、並べている。
財宝。
契約。
威厳。
村の被害。
赤竜の意図。
人間側の被害。
混ぜずに、消さずに、並べている。
それは、火事の原因調査でリオルが見たメルセナの調査と同じだった。
分からないものを、分からないものとして置く。
繋げる前に、分ける。
怒りにも、それをしている。
六 再契約
メルセナは、ゆっくりと言った。
「方法はあります」
赤竜の瞳が動いた。
「方法?」
「再契約です。正確には、契約整理と再契約です」
「再び契るというのか」
「はい。現在の制度に基づき、契約を確認し、必要なら結び直します」
広間の熱が、揺れた。
リオルは、赤竜の目がわずかに変わったことに気づいた。
怒りだけではない。
何かが、そこに混じった。
「それで、我の不履行が消えるのか」
「消せる可能性があります」
赤竜の頭が、わずかに下がる。
「……何?」
メルセナは言葉を選んだ。
「盗まれたという事実は消えません。村に被害が出たことも消えません。ですが、それが契約不履行に当たるかは、契約条件によって決まります」
「契約条件」
「はい。元の契約が、何を、いつまで、どの状態で守るものだったのか。盗難、腐食、風化、回収、返還をどう扱うものだったのか。それが曖昧なままなら、不履行と断じることもできません」
赤竜は黙った。
メルセナは続ける。
「守護対象が一時的に失われた事実はあります。ですが、それが契約上の不履行として確定するかどうかは別です」
リオルは、思わず呟いた。
「盗まれたことと、不履行は同じじゃない……?」
「はい」
メルセナは頷いた。
「契約上、回収と返還が可能な場合に不履行としない取り決めもあり得ます。腐食や風化を除外する取り決めもあり得ます。ですが、元の契約ではそれが明確ではない」
「曖昧な契りを、我は守っていたのか」
赤竜の声は、低かった。
怒りではない。
揺れだった。
メルセナは、静かに答える。
「あなたは、守ろうとしていました。過剰なほど正確に」
「……」
「だからこそ、整理できます。あなたが怠ったのではない。契約の方が、現在の扱いに耐えられないほど古く、曖昧だった可能性があります」
赤竜は、広間の財宝を見た。
古い金属。
ひびの入った壺。
熱で黒ずんだ銀杯。
そして、メルセナの手元にある、翼の意匠の魔道具。
「我の不履行ではなく、契約そのものが古すぎた可能性があると言うのか」
「断定はしません。ですが、そう整理できる可能性があります」
「可能性」
「はい」
メルセナは、赤竜を見上げた。
「再契約によって、契約対象、契約目的、管理者、期限、解除条件、除外条件を現在の形で定義し直します。そうすれば、あなたが元の契約に縛られ続ける必要はなくなります」
リオルは、赤竜を見る。
「これから何を守るのかを、決め直す」
「正確です」
メルセナが言う。
赤竜は、長く黙った。
財宝の上に熱が揺れる。
古い文字が、炎の向こうで歪む。
赤竜は怒っている。
それは変わらない。
だが、その怒りの奥に、別のものが見えた気がした。
迷い。
あるいは、恐れ。
「我は、古き契りから離れられるのか」
赤竜が言った。
その声は、さっきまでと違っていた。
低い。
重い。
けれど、熱だけではない。
「可能性があります」
メルセナは答える。
「断定はしません。制度上の確認が必要です。ですが、道はあります」
「道」
「はい」
赤竜の翼が、ほんのわずかに動いた。
それだけで、熱い風が広間に流れる。
リオルは目を細めた。
赤竜は、魔道具を見た。
財宝を見た。
壁の古い文字を見た。
そして、メルセナを見た。
「古き契りから離れる……」
リオルは、その声の変化に気づいた。
それは怒りだけではなかった。
迷いに近い。
あるいは、恐れに近い。
メルセナは言った。
「再契約は、逃げ道ではありません。現在の契約として、あなたの役割を定義し直す手段です」
「我の役割を、人間が決めるのか」
「いいえ」
メルセナは首を横に振った。
「あなたと確認します」
赤竜は黙った。
その沈黙は、最初の沈黙とは違っていた。
怒りで押し潰すような沈黙ではない。
考えている沈黙だった。
やがて、赤竜は低く言った。
「……交渉か」
メルセナは、静かに頷いた。
「はい。交渉です」
赤竜は怒っていた。
財宝を盗まれたことに。
いや、それ以上に、契約を果たせなかったと感じていることに。
そして、その結果として威厳を失ったように感じていることに。
けれど、その怒りの奥に、別のものがあった。
古い契約。
長すぎる守護。
もう誰も確認しない役割。
再契約という言葉を聞いた時、赤竜の炎は、ほんのわずかに揺れた。
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