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高台の沈黙
三人は、湖を見下ろす高台からさらに離れた。
光の精霊王は追ってこない。
こちらが攻撃をやめると興味を失ったように向きを変え、別の場所へ白い光を放っている。
湖の岸が焼ける。
離れた岩場が隆起する。
新しくできた斜面から水が流れ、先ほどまで乾いていた場所へ小さな池を作った。
光の精霊王の背では、四枚の翼が開いたままになっている。
周囲から集まる原光が翼を通り、身体へ流れ込んでいた。
シアとネアは、その姿を黙って見ている。
「移動するぞ」
セトが言った。
光の届きにくい岩陰まで下がり、三人は足を止める。
シアは二個の赤い分霊核を自分の周囲へ戻した。
ネアも黒い分霊核を左右へ浮かべたまま、湖の方角を見ている。
「さっきの話だ。あの翼を知っているのか」
シアはすぐには答えなかった。
腕を組み、眉を寄せる。
「知ってる。でも、分からない」
「どちらだ」
「どっちも」
シアは自分の頭を指でたたいた。
「あれが何か、私は知ってるはずなんだ。でも中身が出てこない」
「わたしも同じです」
ネアも静かにうなずいた。
四翼を見つけた時から、二人の反応だけが妙だった。
驚いているのに、初見のものを見た驚きとは少し違う。
セトには翼の形も機能も完全な未知だったが、二人には最初から「知らない」と言い切れない引っかかりがある。
「まず、それがどこから来てるのか切り分ける」
セトは湖から距離を取る方へ目を向けた。
離れても同じ
「光の精霊王が何かしてる可能性は?」
シアが湖の方角を見る。
白い人影は、岩山の向こうへ半分隠れていた。
「確かめましょう」
ネアはさらに後方を指した。
三人は岩陰を二つ越え、光の精霊王を直接見られない位置まで下がる。
ここからでは四翼も見えない。
「どうだ」
セトが尋ねる。
シアは目を閉じた。
四枚の翼を思い浮かべる。
飛行。外からの取り込み。放った力の回収。
そこから先へ意識を向ける。
「変わらない」
「遠くなった感じは?」
「ない。見えてないのに、さっきと同じところまで行ける」
ネアも同じように目を閉じる。
しばらくして、首を横へ振った。
「わたしもです。距離による変化は感じません」
「じゃあ、あいつが今こっちの頭を止めてるわけじゃない?」
「少なくとも、その可能性は下がりました」
ネアは断定しない。
「光の精霊王が何らかの形で影響している可能性まで否定はできません。ただ、離れても、姿を見なくても、閉じられている感覚は変わりません」
「最初から私たちの中にある?」
シアが尋ねる。
「その方が自然です」
光の精霊王を見たことで、新しく何かを入れられたのではない。
もともと二人の中にあったものへ、四翼を見たことで初めて気づいた。
今のところ、その可能性が一番高かった。
「もし距離で薄くなるなら、あいつの力を疑えたんだけどな」
「はい。今は逆です」
離れても消えない。見えなくても辿れる。
光の精霊王は、閉じられた知識を作った原因ではなく、それに気づかせたきっかけにすぎない可能性が高くなった。
知っているのに
「ネアも見た記憶はないんだな」
セトが尋ねる。
「ありません」
ネアは長く生きている。
歴代の火の精霊王を何代も見てきたネアが、過去に四翼を目にしていたなら、その記憶があるはずだった。
「少なくとも、わたし自身が経験した記憶ではありません」
「先代の光の精霊王は?」
「四枚の翼を持っていたという記憶もありません」
「シアは?」
「私は見たことないぞ」
シアが即答する。
「聞いた俺が悪かった」
「でも、先代の知識にも、普通には出てこない」
シアは少し真面目な顔へ戻った。
精霊王は、役割に必要な知識を次代へ受け継ぐ。
シアは先代イフリートの人生を覚えていない。
誰と会い、何を好み、何を怖がったのかは知らない。
だが、火の扱い方や精霊王としての役割は、生まれた時から知っていた。
「記憶じゃないなら、継承知識か」
「たぶん。でも普通の知識とも違う」
シアは四翼を思い浮かべる。
「知ってるって感じだけは、普通の知識と同じなんだ」
「なのに答えがない?」
「答えがないんじゃない。あるのに取れない」
その違いだけは、シアにもはっきり分かっていた。
ネアにも同じ感覚がある。
自身の長い経験として覚えていることではない。
それでも「存在する知識だ」という認識だけが先にある。
過去の出来事を思い出せない時の空白とも違い、空白の向こう側に内容があることだけは分かる。
「中身だけ見えない壁みたいなものか」
「近いと思います」
普通の知識
「比較するか」
セトは質問を変えた。
「シア。火を集める時、何を見る」
「周りの原光。火に変えやすい流れと、すでに火になってるもの」
「精霊剣になるには?」
「相手を信じて、自分から全部預ける」
返答に間はない。
「ネア。流れを曲げる時は?」
「対象そのものではなく、対象へ入る前後の原光を見ます。直接動かすより、その方が少ない力で済みます」
「精霊王の役割は次代へ残る?」
「残ります。個人の記憶とは別です」
こちらも即答だった。
「じゃあ四翼」
「……」
シアが止まる。
ネアも同時に黙った。
「違いは分かるな」
「うん」
シアが顔をしかめる。
「普通の知識は、思い出そうとしなくても答えが出る。知ってるから」
「四翼は?」
「知ってるところまでは同じ。でも、その次がない」
ネアが言葉を継ぐ。
「継承知識全体が欠けているわけではありません。今試した範囲は正常です」
「翼の周りだけか」
「そう見えます」
忘れたのでもない。
継承に失敗したのでもない。
知識そのものは存在すると感じる。
それなのに、内容だけへ届かない。
「知らないより気持ち悪いな」
セトが言うと、シアが大きくうなずいた。
「知らないなら、知らないで終わるからな」
さらにセトは、人間社会の一般知識や分霊核の扱いもいくつか尋ねた。
二人とも、自分が持つ範囲なら普通に答えられる。
問いが四翼へ戻った瞬間だけ、同じように言葉が止まる。
問題は知識を引き出す能力ではない。
特定の領域だけが、ほかとは違う扱いを受けていた。
同じ場所で止まる
「二人で答えを合わせてる可能性も消しておく」
セトはシアへ少し離れるよう言った。
ネアに聞こえない距離ではない。
だが、先に答える側を毎回変える。
「四枚であることに意味はあるか」
「ある」
シアが答える。
「ネア」
「わたしも、あると感じます」
「飛行だけのためか」
「違う」
「違うと思います」
答えは一致した。
「外から原光を集める機能は?」
「ある」
「あります」
「放った力を戻す?」
「ある」
「あります」
「具体的なやり方は?」
「分からない」
「届きません」
そこで二人とも止まる。
「火だけの知識じゃないな」
セトが言った。
「月だけでもありません」
ネアは自分の胸元へ手を当てる。
「異なる属性のわたしたちが、同じ問いで同じ位置まで進み、同じ位置で止まっています」
「精霊王なら共通で持ってる?」
「可能性はあります。ただし、まだシアとわたししか確認できません」
リグやフィオラに同じ知識があるかは分からない。
ここで精霊王全体の仕組みと決めるのは早い。
「でも、私が忘れてるだけって感じじゃなくなった」
シアが言う。
「はい。個人の記憶の問題とも考えにくいです」
二人が別々に持つはずの知識の中で、同じ場所だけが閉じている。
その事実だけが残った。
しかも、セトは質問の順番を何度か入れ替えた。
先にネアへ聞いても、先にシアへ聞いても結果は変わらない。
片方の答えを聞いてから合わせているわけでもなかった。
「二人とも同じ場所に、同じような閉じ方がある」
「そう考えるのが自然です」
偶然で片づけるには、止まり方まで似すぎていた。
箱と鍵
「あの翼、知ってる。知ってるけど分からない」
シアがもう一度言った。
「知識が、鍵のかかった箱に入ってるみたいだ」
ネアがわずかに目を見開く。
「うまい表現ですね」
「そうか?」
「はい。たしかに、箱のようなものがあります。中に何かが入っていて、鍵がかかって開きません」
「箱があることまで分かるのか」
セトが尋ねる。
「本物の箱や鍵が見えるわけではありません」
ネアは断った。
「ですが、自然に思い出せないのではなく、意図的に閉じられている感覚があります」
「誰かが閉じた?」
「そこまでは分かりません」
シアは目を閉じる。
四枚。
飛行。
外からの取り込み。
回収。
循環。
そこまでは進める。
だが、その先へ行こうとした瞬間、考えていたものが滑るように遠ざかった。
掴もうとすればするほど、位置だけ分かるのに内容が薄くなる。
「駄目だ」
シアが目を開ける。
「箱の前までは行ける。でも開かない」
「鍵穴は?」
「それも分からない」
「開ける道具は?」
「分からない」
箱という形が見えるわけではない。
それでも、閉じられているという感覚だけは、普通の分からなさとは明確に違っていた。
「押したら開きそうとかは?」
「ない」
シアは首を横へ振る。
「壁があるっていうより、開ける権利がない感じ」
「権利?」
「言い方が難しい。そこにあるのは分かるのに、私の考えが中へ入れない」
鍵という比喩が、さらにしっくりきた。
別の道から
「言葉が悪いだけかもしれません」
ネアが目を閉じた。
「四翼という名称から離れてみます」
ネアは機能を一つずつ辿る。
外界から原光を取り込む。
身体の外で流す。
移動へ使う。
放出した力の一部を戻す。
長く存在を維持する。
四翼という形ではなく、それを成立させている機能から近づく。
「どうだ」
セトが尋ねる。
「同じところで止まります」
ネアは目を開けなかった。
「今度は、飛行を外します。循環だけから」
「それでも?」
「同じです」
次は原光の取り込みだけ。
次は身体の外に力を置くことだけ。
どこから辿っても、あるところで先へ進めなくなる。
「単に『翼』って言葉を忘れてるわけじゃないんだな」
「はい」
ネアが目を開ける。
「知識の入口となる言葉を隠されているだけなら、別の機能から近づけば内容へ届く可能性がありました」
「でも届かない」
「経路が違っても、閉じられている場所そのものは同じようです」
シアも真似してみた。
飛ぶ。
吸う。
戻す。
回す。
「やっぱり駄目。何から行っても最後が閉まってる」
近づき方の問題ではない。
内容そのものへ境界が置かれている。
三人の中で、「鍵がかかっている」という表現が比喩以上の重さを持ち始めた。
「シアは感覚で行って、ネアは順番を組んで行った。それでも同じか」
「同じ」
「はい」
性格も考え方も違う二人が、違う経路から同じ境界へ着く。
それなら、単なる思い込みや連想の失敗では説明しにくい。
置き場所が悪い
シアはしばらく黙り込み、やがて顔をしかめた。
「しかも、置き場所が悪い」
「置き場所?」
セトが聞き返す。
「頭の中で、箱が置いてある場所」
ネアが引き継いだ。
「比喩ではありますが、的を射ています」
「知識に場所があるのか」
「物理的な位置ではありません。関連の近さです」
ある出来事を思い出すと、同じ場所で起きた別の出来事も浮かぶ。
誰かの顔を思い出すと、その人物と交わした会話が続いて出てくる。
知識や記憶は、一つずつ完全に離れているわけではない。
「箱へ近づこうとすると、その周囲にあるものも少し引っかかります」
ネアの声が低くなる。
「その周囲が、よくありません」
「だいたいヤバいものが置いてある辺りにある」
シアが言った。
「何がある」
「全部は分からない。でも、いくつかなら分かる」
「さっきは分からないって言ってただろ」
「箱を見ようとしすぎてた。周りだけ見るなら、少し違う」
箱の中身へ触れようとしない。
その手前で止まり、近くにある既知の知識だけを拾う。
それなら、完全に閉じられてはいなかった。
「ただし、近いから関係があるとは限りません」
ネアが先に釘を刺す。
「そこは分けて考えてください」
箱の近くにあるから危険なのか。
危険だから近くへ置かれたのか。
それすらまだ分からない。
ただ、普通の技術や日常知識が並んでいる場所ではない、という感覚だけは二人に共通していた。
「じゃあ、取れるものだけ一個ずつ見よう」
セトの提案に、二人は頷いた。
魔剣の知識
「最初に引っかかるのは……剣だ」
シアが言った。
「どの剣だ」
「精霊剣。その先。魔剣」
セトの表情が少し変わる。
グラウスが使っていた、力を奪って蓄える剣。
あの事件で知った真相は、人間社会へそのまま公開していない。
「精霊王が人間へ身を預ける。精霊剣になる」
「それは普通に知ってる話だな」
「でも、その姿のまま死んだら、全部が普通に消えるとは限らない」
シアは言葉を選ぶ。
「意思を失った器だけが残ることがある。それが魔剣になる」
ネアも静かに頷いた。
「精霊剣の成立条件と、魔剣がどう生まれ得るかは、広く教えるべき知識ではありません」
「悪用できるから?」
「それもあります」
ネアは少し間を置く。
「それ以上に、精霊王と人間の関係そのものを道具として扱う発想につながります」
「確かにヤバいな」
セトは短く返した。
「これが箱の中身?」
「違う」
シアは即答する。
「これは箱の外。普通に取れる知識」
「近くにあるだけです」
ネアも補足した。
「箱との因果関係は不明です」
それでも、閉じられた箱のすぐ近くに、精霊王の死後まで剣として利用し得る知識がある。
シアが「置き場所が悪い」と言った意味が、少し具体的になった。
「知識だけなら、昔から持ってたんだよな」
「うん。でも、箱を意識したら近くにあるって分かった」
魔剣の知識自体が新しく現れたわけではない。
以前から知っていたものの「位置関係」を、今になって初めて意識できた。
それも、箱が何かを新たに教えているわけではない証拠の一つだった。
大地へ残す
ネアが次に拾ったのは、役割と知識を自分の内側から外へ出す方法だった。
「自分の役割と知識を、大地の記憶へ焼き付ける方法です」
「……ミレナのことか」
セトがすぐに気づく。
ネアは頷いた。
「はい。過去の風の精霊王が実際に使っています」
「風の精霊王が人間に近づくために使ったやつ?」
「結果としてはそうなりました」
過去の風の精霊王は、自分の役割と知識を大地側へ残し、自分だけで抱えない状態を作った。
それによって精霊王としての在り方を弱め、人間に近い存在へ寄せた。
そして人間との間に子を残した。
大地へ残された役割と知識は、その精霊王に近しい存在へ渡り、子へ、その子孫へと継がれていった。
長い時間を経て、その役割を受け継いでいたのがミレナだった。
「じゃあ、危ないだけの知識じゃないな」
セトが言う。
「そうですね」
ネアは自分の手を見る。
「必要な状況で正しく使われれば意味があります。ですが、役割と知識は精霊王が精霊王であることの大きな部分です。それを自分から切り離す方法でもあります」
「試して確かめるようなものじゃない?」
「はい。成功した時点で、自分の在り方が変わる可能性があります」
ミレナという実例を知っているからこそ、単なる昔の禁じられた術では片づけられない。
役割を未来へ残すこともできる。
人と精霊王の間に、新しい継承の形を作ることもできる。
「でも、使い方を間違えたら戻せるか分からない」
「その通りです」
これも箱の外にある。
内容まで取り出せる既知の知識だった。
それなのに、箱のすぐ近くへ置かれている感覚がある。
「悪い知識じゃなくて、重い知識か」
「その表現の方が近いですね」
ネアは静かに答えた。
柱と礎
「もう一つある」
シアが目を閉じたまま言った。
「柱」
「何の柱だ」
「建物じゃない。剣の中に誰かを入れる」
「精霊剣か?」
「違う。先に剣がある」
シアは眉を寄せる。
「中身を失った剣みたいなものに、巫女……たぶん、人間を入れる。そうすると剣の力が上がる」
「それ、魔剣じゃないのか」
セトが言う。
ネアも同じところへ辿り着いた。
「構造だけを見るなら近いと思います。魔剣は、精霊王が死んだ後に残った空の剣状の器です。後から力を蓄えることができます」
「聖剣もあったな」
「はい」
人間が聖剣と呼ぶものの中には、構造上は魔剣でありながら、人や魔獣から奪うのではなく、太陽光や火山、落雷など自然の力を長い年月かけて蓄えたものがある。
「でも、これは待たない」
シアが言った。
「自然から少しずつ溜めるんじゃない。人間の側が、特別なやり方で力を入れる」
「巫女を剣に入れて?」
「たぶん。それを柱って呼ぶ」
ネアが続ける。
「わたしには『礎』という表現が近く感じられます。空の器へ適合する人間を入れ、その存在で剣を補い、力を引き上げる。その程度までなら拾えます」
「入った人は戻れるのか」
「分かりません」
「中で意識が残る?」
「それも分かりません」
実際に使われた例は、二人の継承知識には出てこない。
方法の断片だけが残っている。
「その剣を、聖剣とか神剣って呼ぶこともあるみたいだ」
シアが言う。
「魔剣なのに?」
「呼び名と構造は別なのでしょう」
ネアが答える。
「聖剣と呼ばれていても構造上は魔剣だった例を、わたしたちは知っています。逆に、創界のように本当に神格由来の神剣もあります。名前だけで同じものとは判断できません」
「柱と礎の方は、空の器に人間側から特殊な方法で力を足す知識ってことか」
「今拾える範囲では、そう見えます」
自然から長い時間をかけて蓄える聖剣とは違う。
人間を剣へ入れ、その存在を支えとして出力を引き上げる。
「戻れるか分からないなら、十分ヤバいな」
「はい。試して確認する方法ではありません」
その断片も、箱のすぐ近くにあった。
強い技ではない
セトは、今出てきた三つを頭の中で並べた。
精霊王が精霊剣の姿で死んだ後に残る魔剣。
役割と知識を大地へ焼き付け、別の存在へ継承可能にする方法。
空の剣状器へ巫女を入れ、柱や礎として力を引き上げる方法。
「変だな」
セトが言った。
「何が?」
シアが聞き返す。
「ヤバい知識って言うから、もっと強い攻撃とかだと思ってた」
「違いますね」
ネアも気づいたように答える。
「少なくとも、今拾えたものは攻撃術そのものではありません」
「全部、精霊王とか人間とか、そいつ自身の在り方に触る知識じゃないか」
シアが指を折る。
「剣になる。死んだ後に器が残る。役割を大地へ出す。人を剣へ入れる」
「共通点はあります」
ネアは認めた。
「ただし、大地への焼き付けのように、実際に必要な目的へ使われた知識もあります。危険だから悪い、という分類ではありません」
「扱いを間違えると戻れないかもしれない知識?」
「その方が近いでしょう」
セトは閉じた箱を思い浮かべる。
「じゃあ箱の中も、そういう知識なのか」
「そこまでは言えません」
ネアがすぐ止める。
「近くにあるというだけです。共通点を見つけたことと、箱の中身まで同じ種類だと断定することは別です」
「分かった。そこは保留」
それでも、「置き場所が悪い」というシアの表現には、以前より具体的な意味が生まれていた。
「強いから危険じゃないんだな」
「はい。力の大きさより、使った後に元へ戻せるかどうかの方が問題になる知識もあります」
ミレナへ続いた風の継承は成功例だった。
だからこそ、同じような知識を軽く試してよい理由にはならなかった。
箱の周り
「箱の中に、危険な知識が入っているのか」
セトが改めて尋ねる。
「それも分かりません」
ネアは首を振った。
「箱の中身そのものが危険だから、閉じられたのかもしれません」
「違う可能性も?」
「はい。先に開かない箱があり、後の精霊王が、その周囲へ危険な知識を寄せていった可能性もあります」
「近づきにくい場所を、危ない知識の置き場にした?」
「考え方としてはあり得ます」
シアが口を挟む。
「逆もある?」
「逆?」
「ヤバい知識へ行けないように、その入口を箱へ入れて閉じた」
ネアは少し考える。
「否定できません」
つまり、順番が分からない。
危険だから箱が作られたのか。
箱があったから危険な知識が集められたのか。
別の目的で閉じたものの近くへ、たまたま危険な知識が残ったのか。
「柱とか礎も、箱と関係あるかは分からない?」
「はい」
「大地へ残す方法も?」
「同じです」
分かるのは現在の配置だけだった。
何が箱の中にあるのか。
箱の周囲に何が置かれているのか。
それらに直接の関係があるのか。
何が先で、何が後なのか。
「理由も中身も分からない」
「分かるのは、箱が閉まっていて、周りに危険な知識が多いことだけ」
シアがまとめた。
「箱の外の知識は取れるのに、中だけ取れないんだよな」
「はい」
「周りへ置いた誰かがいるなら、その誰かは箱を目印にした可能性もあるか」
「あり得ます。ただし、それも仮説です」
箱は原因かもしれない。
結果かもしれない。
単なる境界標識として使われただけかもしれない。
現時点では、そのどれも捨て切れなかった。
誰が閉じた
「歴代の精霊王が箱を閉じたのか」
セトが尋ねる。
「可能性はあります」
ネアが答えた。
「ですが、最初から閉じられていた可能性もあります」
「最初?」
「最も古い精霊王が生まれた時からです」
それなら、後の精霊王は箱を作っていない。
閉じられた箱を、そのまま次代へ渡し続けているだけになる。
「最初の精霊王が、自分で箱へ入れて閉じた可能性は?」
「否定できません」
原初の精霊王自身が、何らかの理由で知識を閉じた。
あるいは後の精霊王が危険を知って閉じた。
「捨てなかったのは?」
シアが尋ねる。
「捨てられなかったのかもしれません。残す必要があったのかもしれません。ある条件で必要になるものなのかもしれません」
「全部、かもしれないだな」
「情報がありませんから」
ネアは事実と推測を分ける。
箱がある。
鍵がかかっている。
周囲に危険な知識がある。
それ以上は推測だ。
「分からないなら、分からないままにするしかないか」
セトが言う。
「はい。今は、それが一番正確です」
分からない部分を、もっともらしい答えで埋めない。
それが今できる唯一の整理だった。
シアは少し考え込む。
「代替わりしても残ってるなら、鍵そのものも継承されてる?」
「閉じられた状態ごと継承されている、と見ることはできます」
「なら、私が生まれる前から閉まってた可能性も高いか」
「はい。ただし、いつ閉じたかまでは分かりません」
古いことだけは感じる。
だが、その古さすら年代として測れるものではなかった。
光の精霊王には
「じゃあ、あいつはどうして翼を出せる」
シアが湖の方角を見る。
岩越しに白い光だけが空へ伸びている。
「箱を開けたのか」
「分かりません」
ネアが答える。
「光の精霊王には、最初から箱や鍵がなかった可能性もあります」
「生まれた時から開いていた?」
「それも可能性の一つです」
「箱を開けたから、自我がないのか」
セトの問いに、ネアはすぐには答えなかった。
「結びつけるには早すぎます」
「でも、無関係とも言えない」
「はい」
翼を持つこと。
周囲から原光を取り込み続けること。
明確な自我が見えないこと。
三つは同時に存在している。
だが、一方がもう一方の原因とは限らない。
「何かを開いた結果、自我が薄れたのかもしれません。自我が薄いから扱えるのかもしれません。あるいは、光の精霊王だけ最初から構造が違う可能性もあります」
「何も決められないな」
「決めてはいけない段階です」
シアは少し不満そうに白い空を見る。
「知ってるはずなのに、役に立たない」
「役に立たないと決めるのも早いですよ」
ネアが言う。
「開けなくても、無理に触れるべきではない可能性があると分かったことには意味があります」
少なくとも、未知の翼を見つけたからといって、すぐ自分たちも使おうとする理由にはならなかった。
「あいつだけ箱がないなら、私たちと同じ精霊王でも同じ作りじゃないってことになる」
「その可能性もあります」
光の精霊王は、属性へ変わる前の原光に最も近い力を扱っている。
その役割を担う精霊王だけが、ほかより原初に近い構造を持っていても不思議ではない。
だが、それも今は仮説に留めるしかなかった。
近づく光
その時、岩陰が白く染まった。
「動け!」
セトの声で三人が走る。
遠くで放たれた収束光が、岩山の上部を横切った。
斜面がずれ、大きな岩が何個も落ちてくる。
シアが炎で一つを弾く。
ネアが別の岩の進路を曲げる。
セトは白刃を短く作り、足元へ落ちた岩だけを斜めに切った。
三人はさらに奥の谷へ移動する。
光の精霊王がこちらを狙ったようには見えない。
先ほどまで立っていた岩山ごと、たまたま光の進路に入っただけだった。
「話してる間にも続けてる」
シアが振り返る。
「しかも、吸収も止まっていません」
ネアが言った。
白い光は遠くでも分かる。
四翼へ集まる流れそのものは見えなくなっても、周囲の原光が薄く引かれていく感覚は残っていた。
「箱を調べてる間に、あいつが弱るわけじゃない」
「むしろ逆かもしれません」
前に確認した通り、光の精霊王は周囲から取り込み続けている。
時間を与えること自体が、安全とは限らない。
「調べる時間にも限界があるな」
「はい」
「なら、ここまで」
セトが言った。
シアが目を向ける。
「もう調べない?」
「無理に開く方法は調べない。分かることが増えたら、その時また考える」
谷へ入ると、ようやく直接の光は遮られた。
それでも遠くの地鳴りは続いている。
箱について考えている間にも、世界のどこかが焼け、伸び、崩れていた。
「今は、あいつを止める方が先だ」
三人の話題は、そこで初めて箱から離れた。
今は触れない
「結局、開け方は分からないんだな」
セトが確認する。
「分からない」
シアが答えた。
「わたしもです」
ネアも同意する。
「危険の種類も?」
「それも分かりません」
セトは短く息を吐いた。
「なら終わりだ」
「ずいぶん早いな」
「分からないものを、今の戦力には数えない」
シアは一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「知識を調べるのもやめる?」
「違う。無理に開けようとするのをやめる。見えてる範囲を調べるのはいい」
「その方がよいと思います」
ネアも頷く。
「閉じられている理由が分からない以上、開くこと自体を成果にはできません」
「光の精霊王に勝てそうだから開ける、もなし?」
「なしだ」
セトは即答した。
「今の相手を止めるために、何が起きるか分からないものを増やしてどうする」
「それはそうだな」
シアは肩をすくめる。
箱は残る。
疑問も残る。
だが、疑問が残っていることと、今それを解かなければならないことは別だった。
「開ける条件があとで分かったら?」
「その時考える。今決めることじゃない」
遠くでまた白い光が空へ伸びる。
谷の入口が一瞬だけ明るくなった。
「待ってくれない相手もいるしな」
「はい」
ネアは湖の方角へ目を向けた。
閉じた知識の話は、そこでいったん終わった。
次に決めるべきなのは、既に知っている力をどう使うかだった。
二本で行く
「使えるもので戦う」
セトは谷の出口から湖の方角を見た。
白刃と黒刃では、広範囲の光を処理しきれない。
人型のシアとネアが放った力だけでは、光の精霊王へ十分な圧力をかけられない。
だが、二人にはまだ使っていない形がある。
「極炎と絶光」
シアが言った。
「そうだ」
「二本とも最初から?」
セトは少し考える。
「使う。ただし、役割を分ける」
「どうする?」
「絶光で全部止めようとしない」
ネアが反応する。
「偏向だけに使うのですね」
「ああ。あの光を正面から全部受ける必要はない。俺たちに当たる分だけ外へ逃がす」
「その方が負担は少ないです」
絶光は、原光の流れへ干渉する。
大きな力そのものを消すのではなく、進路をずらすだけなら、真正面から押し合うより消耗を抑えられる。
「で、できた隙間から極炎で近づく」
「私が道をこじ開ける?」
「剣になるのはお前だ」
シアが一瞬止まる。
「あ、そうか」
「自分で飛ぶ話じゃない」
セトが返すと、ネアが小さく息を漏らした。
「笑った?」
「いいえ」
「今笑っただろ」
わずかな軽口のあと、三人の視線が再び湖へ戻る。
「極炎は攻撃だけに使わない」
セトが続けた。
「踏み込むための加速にも使う」
「了解」
目的は最初から倒し切ることではない。
二本の精霊剣で、どこまであの光へ近づけるか。
まずはそれを確かめる。
偏向と接近
「絶光でどこまで曲げられるかは、さっきより厳しくなります」
ネアが言った。
「人型の時と違う?」
「精霊剣なら出力は上がります。ただし、相手の光も一点ではありません」
光の精霊王は、細い収束光だけでなく広く押し広げる光も使う。
絶光で一本を曲げても、その外側から別の光が回り込む可能性がある。
「全部を一本の壁みたいに受けるのはやめる」
「進路だけ作る?」
「そうだ」
セトは地面へ指で線を引いた。
正面からまっすぐ光の精霊王へ向かう線。
その左右へ、少しずつ外へ開く二本の線を足す。
「中央だけ俺たちが通れる幅にずらす。外側は触らない」
「それなら、絶光を広げすぎずに済みます」
「極炎はそこを一気に抜ける」
シアが地面の線を見る。
「途中で向こうが横に動いたら?」
「追わない」
「え?」
「最初から動いた相手を追い回したら、こっちだけ消耗する。向こうが外れたら一度切る」
「一回離れる?」
「ああ」
光の精霊王は自由に飛ぶ。
こちらより方向転換も速い。
だから移動勝負を始めた時点で不利になる。
「近づけるかを確かめる。一撃入れられるなら入れる。外されたら離れる」
「倒すための突撃じゃないんですね」
「最初はな」
ネアは地面の線を見ながら頷く。
「目的を一つに絞るなら、その方がよいでしょう」
相手のすべてへ対応しようとしない。
一度目は、二本の精霊剣があの光にどこまで耐えられるかを見る。
その結果が次の判断材料になる。
分霊核の役目
「分霊核はどうする?」
シアが二個の赤い核を見る。
ネアの周囲にも、黒い核が二個浮いている。
「二人が動かせ」
セトが答えた。
「剣になっても?」
「できます」
ネアが言う。
「精霊剣状態でも、分霊核は使い手の周囲へ移ります。操作はわたしたちが行えます」
「なら、全部攻撃に回す?」
「いや」
セトは首を横へ振る。
「最初は補助だ」
「赤は?」
「左右から光を散らす。俺の進路へ集まりすぎないようにしてくれ」
「黒は?」
「絶光で曲げた先をさらに外へ逃がせるか?」
「可能だと思います。ただ、二個で広範囲を受け持つのは難しいです」
「全部じゃなくていい。中央へ戻ってくる分だけだ」
ネアが頷く。
「分かりました」
四個の分霊核を、火力を増やすためだけには使わない。
極炎と絶光だけでは足りない部分を、別の射点から補う。
「相手も翼で回収してる」
シアが言う。
「撃ちすぎると、こっちが減るだけじゃなくて向こうに戻るかもしれない」
「だから最初から大技の撃ち合いはしない」
セトは赤と黒の核を順に見る。
「分霊核は、道を作るために使う」
「地味だな」
「勝てるなら派手でもいい」
「今は?」
「まだ分からない」
シアは少し笑った。
「じゃあ地味に行く」
ネアはその横で、二個の黒い核の距離を少し広げる。
次の戦いでは、本人たちだけでなく四つの核も位置取りの一部になる。
長引かせない
「もう一つ」
ネアが言った。
「長時間の維持は避けるべきです」
「極炎と絶光の?」
「はい。それに分霊核も含みます」
光の精霊王は、戦いながら周囲から原光を取り込める。
放った力の一部まで翼へ戻している。
一方で、シアとネアは使った分だけ確実に減る。
「長引けば、差が広がる」
「前に見た通りです」
セトが頷く。
「じゃあ時間を決める?」
シアが尋ねる。
「時間より状態で切る」
「状態?」
「絶光で進路を作れなくなったら離れる。極炎の出力が落ちても離れる。分霊核の蓄えを大きく使い始める前にも切る」
ネアが少し考える。
「わたしたちのどちらかが、修復へ力を回さなければ維持できなくなった場合も離脱した方がよいでしょう」
「それも入れる」
勝てるかどうかだけを見て突っ込まない。
こちらの消耗が一定線を越えたら、相手がまだ動けていても離れる。
「それで届かなかったら?」
「次を考える」
シアが口を尖らせる。
「また考えるのか」
「考えずに突っ込むよりいいだろ」
「それはそう」
セトは湖の方角を見る。
相手の力はすでに分かっている。
だが、極炎と絶光を同時にぶつけた時、何が起きるかはまだ分からない。
「最初の一回で、倒す必要はない」
「でも、届くかどうかは見る」
「ああ」
次に必要なのは、推測ではなく実際の接触だった。
再び湖へ
三人は谷で短い休息を取った。
それ以上、箱の話には戻らなかった。
分からないものは残っている。
だが、それを今解く必要はない。
セトは腕と脚を動かし、身体の状態を確かめる。
先ほど白刃と黒刃を使った負荷は残っているが、動けないほどではない。
「シア」
「大丈夫」
「ネア」
「問題ありません」
二人の返答を確認し、セトは立ち上がった。
赤と黒の分霊核が、それぞれ二個ずつ浮かぶ。
「最初は絶光で中央をずらす」
「はい」
「極炎でそこを抜ける」
「分かった」
「分霊核は道を維持する補助。追い回さない。維持が崩れたら離れる」
「了解」
「承知しました」
役割は決まった。
あとは実際にやってみるしかない。
三人は谷を出る。
遠くで、光の精霊王の四枚の翼が白く広がっていた。
羽ばたかず、周囲の原光を集めながら空中を移動している。
翼が何なのか。
閉じられた知識の中に何があるのか。
まだ分からない。
それでも、今使える力まで分からないわけではない。
「行くぞ」
セトが歩き出す。
シアとネアが左右へ並んだ。
白い光が、湖の上で再び収束し始める。
三人は足を止めない。
閉じた知識ではなく、今ある二本の精霊剣で、どこまで届くか確かめるために。
赤と黒の分霊核を従え、三人はもう一度、光の精霊王へ向かった。
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