

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
祠に残る者
ヴァルナを村の祠へ移してから、六日が過ぎた。
水路の流れは元へ戻っている。
祠には朝と夕方、必ず誰かが訪れた。
水を供え、屋根へ落ちた葉を払い、内側に横たわる青年の姿を確かめる。
「今日もいるな」
何かを願うでもなく、それだけを言って帰る者もいた。
ヴァルナは答えない。
それでも、祠へ移した直後より、人の形を保てるようになっていた。
指先が水へほどける回数は減っている。淡い青緑色の瞳も、訪れた村人をゆっくり追うようになった。
「昨日より安定しています」
ネアが祠の外から、ヴァルナを形作る原光の流れを確かめる。
「村の人が見に来るたび、崩れかけた境界が少し戻っています」
「もう暴れないのか」
シアが尋ねた。
「そこまでは言えません。今は自分から分かれようとしていないだけです」
「なら、まだ誰か残った方がいい」
祠の横で、ハルヴェンがうなずく。
「俺とリグが残ります。今の状態なら、再び水へ分かれ始めても、村へ広がる前に止められます」
「ヴァレストへ戻らなくていいのか」
セトが尋ねる。
「報告は送りました。世界規模の異常が続いている以上、水の精霊王を放置して帰る方が問題です」
人の姿を取ったリグは、祠の柱へ背を預けたまま、ヴァルナを見ていた。
「お前たちは神殺しの剣を探せ。こちらは任せろ」
「リグさんとハルヴェンさんが、ヴァルナを見ていてくれるんですね」
ミレナが言う。
「ああ。お前たちが戻るまで、今のこいつを一人にはしない」
祠の中で、水が小さく揺れた。
返事ではないかもしれない。
それでもリグは、視線を外さなかった。
手掛かりのない剣
神殺しの剣について各国へ送っていた問い合わせには、ほとんど成果がなかった。
神が使った剣。
神を斬った剣。
神殿へ捧げられた剣。
似た伝承はいくつも見つかった。
だが、創造神が精霊剣に相当する剣となり、そのまま消滅した後に残った空の器と一致するものはない。
「古い記録ほど、神剣と聖剣の区別が曖昧です」
ネアが、机へ広げた最後の報告書を閉じた。
「神が使った剣なのか、神殿が神剣と呼んだだけなのか、強い精霊術を宿した剣なのか。名称からは判断できません」
「全部見に行く?」
シアが報告書の束を見る。
「眠りの王が世界を眠らせる方が先でしょう」
「では、使えない」
「今から一つずつ確かめる方法は、です」
ネアは、報告書とは別に置いていた紙へ目を移した。
神殺しの剣。
シアの中に、知識ですらない断片として残っていた言葉。
以前の調査で確かめられたのは、それが創造神の残した空の器らしいことと、三人分の精霊王級の存在が必要になることまでだった。
場所も、正式な名も、分かっていない。
「シア」
「何だ」
「以前から感じていた引っかかりは、まだありますか」
シアは自分の胸元へ手を置いた。
「ある」
「強くなっていますか」
「前より近い。でも、見ようとすると消える」
ネアは、すぐにシアへ手を伸ばさなかった。
「もう一度、調べますか」
「ああ」
「前回より深いところへ触れる可能性があります。あなた自身の知識とは限りません」
「先代の知識か」
「それとも限りません。過去の精霊王が、外から一度だけ受け取ったものかもしれません」
シアは少し考えた後、椅子へ座った。
「見る」
「無理に引き出しません。分からないものを、分かる形へ押し込まないでください」
「どうすればいい」
「今ある引っかかりを、そのまま教えてください。わたしが周囲を分けます」
残った断片
ネアの周囲へ、銀青色の細い線が現れた。
線はシアの身体へ入らず、赤橙色の原光の外側へ何重にも重なる。
「神殺しの剣という名前を、強く追わないでください」
「名前を追わないで、どうやって探す」
「名前は入口です。入口を無理に広げれば、その周囲にあるものまで一度に崩れます」
「面倒だ」
「ですから、わたしがいます」
シアは目を閉じた。
神殺しの剣。
言葉だけが浮かぶ。
その奥に、暗い場所があった。
今代のシアは知らない場所だった。
「何が見えますか」
「暗い」
「屋内ですか」
「分からない。石がある」
「剣は?」
「あると思う」
「見えていますか」
「見えない。でも、そこにある」
暗闇の中へ、人の姿が浮かぶ。
一人ではない。
同じ場所へ立っているわけでもない。
服も、年齢も、時代も違う。
それでも全員が、同じものを守っていた。
人々の手に、剣が生まれる。
鉄ではない。
原光が剣の形へ集まっている。
「剣状精霊術の使い手」
シアが言った。
「剣状精霊術の使い手が、神殺しの剣を守っている」
「現在のことですか。過去ですか」
「分からない。何人もいる」
「ほかには?」
暗い場所に、赤橙色の光が現れる。
炎ではない。
人の姿を取った、火の精霊王の原光だった。
「火がいる」
「誰か分かりますか」
「顔は見えない。でも、わたしじゃない」
赤橙色の光の近くに、一人の人間がいる。
その人間が火の精霊王を連れて、暗い場所へ入っていく。
「誰かが、火を連れていった」
シアの原光が急に強く揺れた。
ネアは銀青色の線を閉じる。
「そこまでです」
「まだある」
「今は追いません」
「場所が見えるかもしれない」
「断片を壊せば、二度と見えなくなります」
シアは目を開いた。
しばらく不満そうにネアを見たが、それ以上は続けなかった。
「火なら、先代かもしれない」
「可能性はあります」
「先代が、剣状精霊術の使い手に連れていかれた」
「今分かったのは、過去の火の精霊王らしき存在が、その場所へ入ったことまでです」
ネアは慎重に言い直した。
「そこへ、現在のシアが知っている人物を当てはめるのは後にしましょう」
「でも、ほかのイフリートかもしれない」
「ええ」
セトは、シアが口にしたもう一つの情報を考えていた。
「俺は知らない」
シアがセトを見る。
「セトの一族ではないのか」
「神殺しの剣を守っていたなんて話は、一族には残っていない」
「では、別の剣状精霊術の一族でしょうか」
ミレナが尋ねた。
セトの一族とは別に、剣状精霊術を代々受け継いできた一族がある。
遠い過去に同じ一族から分かれ、別のものを受け継いだ家系。
「グラウスだ」
セトが言った。
シアの表情が変わる。
「あいつも、剣状精霊術の使い手だった」
神剣を知る男
「グラウスの一族は、セトの一族から分かれた家系でしたね」
ネアが言う。
「ああ。俺たちの家系に伝わっていなくても、あいつの方へ残った可能性はある」
「魔剣の場所も、グラウスさんの一族へ伝わっていたんですよね」
ミレナが尋ねる。
「ああ」
グラウスが持ち出した魔剣も、過去のイフリートが精霊剣のまま死亡して残ったものだった。
セトの一族が剣状精霊術と剣技を受け継いだ一方で、分かれた家系には危険な剣の所在地が残された可能性がある。
そしてグラウスは、以前に神剣について口にしていた。
魔剣を手にした男の声が、セトの中へ戻る。
「やはり魔剣はいい」
「神剣なんかよりも、ずっと分かりやすい」
「神剣は面倒だ。力を持っていながら、使い手を選ぶ」
その言葉に、セトは尋ねた。
「神剣とは何だ」
セトはその場で問い返している。
それでも当時は、その言葉が今探している神殺しの剣へつながるとは考えなかった。
だが、今なら分かる。
グラウスは、神剣という分類を知っていただけではない。
力を持ちながら、使い手を選ぶものだと具体的に知っていた。
「グラウスは神剣を見たことがあるかもしれない」
セトが言う。
「あるいは、見た者から直接聞いています」
ネアが続けた。
シアは、自分の中へ残った赤橙色の気配を確かめるように胸へ手を置く。
「先代か」
「聞けば分かる」
セトは報告書を閉じた。
「グラウスに会いに行く」
村を離れる前に
出発は翌朝に決まった。
セトの右脚から添え木は外れている。
歩くことはできるが、長く体重をかければ痛みが戻った。
「馬車を使います」
ネアが言う。
「歩ける」
「歩けるかどうかを聞いていません」
「馬車の方が早い」
「最初から、そう言ってください」
シアがセトの右脚を見る。
「今回は剣にならない」
「まだ戦う予定はない」
「予定がなくても戦う」
「否定できませんね」
ネアが先に認めた。
ミレナは、自分の家へ戻って旅支度をした。
家族には、神殺しの剣の詳細までは話さない。
眠りの王を止める方法を探すため、セトたちと村を離れるとだけ伝えた。
「風の精霊王だから行くのか」
家族の一人に尋ねられ、ミレナは少し考えた。
「それだけではありません」
「行かなければならないのか」
自分にしかできないことがあるから。
世界を守るために必要とされているから。
そう答えれば、話は簡単だった。
だが、それだけを理由にすれば、また役割へ決められたことになる。
「行くかどうかは、私が決めました」
「危険なんだろう」
「はい」
「普通の人間へ戻りたいと言っていたのに」
「今も戻りたいです」
風の力を持ち続けたいわけではない。
精霊王として生きたいわけでもない。
それでも、今は自分の中に風の役割がある。
自分で始め、自分で止められるようになった力だった。
「普通の人間へ戻りたいからこそ、最後まで自分で選びたいです」
家族はすぐには納得しなかった。
それでも最後には、旅支度を手伝った。
翌朝、ミレナが祠へ来ると、ヴァルナは目を開けていた。
「行ってきます」
返事はない。
淡い青緑色の瞳が、わずかにミレナを追った。
「毎日、誰かが来る」
リグが言う。
「俺たちもいる。心配するな」
「はい。お願いします」
ミレナは頭を下げ、自分の足で村を離れた。
収監塔
グラウスが収監されているのは、王都の外れにある石造りの塔だった。
魔剣による連続殺人と、複数の精霊使いから力を奪った罪により、外へ出ることはない。
両腕は魔剣の逆流によって焼け、剣状精霊術を扱うこともできない。
それでも、面会には複数の兵が立ち会った。
鉄格子の向こうに、黒髪の男が座っている。
濃紺の長衣は以前より簡素なものへ替わっていた。
両袖は身体の前で留められ、その中に腕の形はほとんど見えない。
姿勢だけは、初めて会った時と変わらなかった。
グラウスはセトを見る。
次にシア、ネア、ミレナへ順に視線を移した。
「ずいぶん増えたな」
「神殺しの剣について聞きに来た」
セトは前置きを省いた。
グラウスの灰褐色の瞳が、わずかに細くなる。
「その呼び方を、どこで知った」
「シアに断片が残っていた」
グラウスはシアを見る。
「何が残っていた」
「剣状精霊術の使い手が、神殺しの剣を守っていた」
シアが答える。
「そこへ、火の精霊王が連れていかれた」
グラウスはしばらく何も言わなかった。
「そこまで残っていたか」
「知っているのか」
「ああ」
グラウスは椅子の背へ身体を預けた。
「私が、あの方を連れていった」
シアの目が細くなる。
「先代を?」
「ああ」
先代を連れていった場所
「お前の一族が、神殺しの剣を守っていたのか」
セトが尋ねる。
「神殺しの剣と呼ばれるものの所在地を守っていた」
「違うのか」
「名も、何をする剣かも、家には残っていなかった。神が残した剣であり、開く条件を満たさない者へ渡してはならない。それだけだ」
「では、なぜ先代を連れていった」
「私が、一族に神殺しの剣と伝わるものがあると話した」
グラウスはシアを見る。
「あの方は確かめたいと言った。だから、私が封印地へ案内した」
グラウスはそのまま続けた。
「封印を開くため、一族の者をもう一人連れていった」
「二人必要だった?」
ミレナが尋ねる。
「人数ではない。二つの独立した剣状精霊術が必要だった」
「同じ術を二本作っても駄目なのですか」
「開かない。それぞれ別に成立した二つの刃を、同時に示す必要がある」
グラウスはセトを見る。
「以前、お前が使った二刀なら一人で条件を満たせる」
グラウスは、魔剣との戦いで白刃と黒刃を見ている。
「先代は、封印の中で何をした」
シアが尋ねた。
「剣へ触れた」
「使ったのか」
「いや。外側の刃へ、指先で触れただけだ」
その瞬間、先代イフリートは動きを止めた。
握ったわけではない。
力を流したわけでもない。
ただ触れたまま、長い間、何かを見ていた。
「その後、あの方が一つの名を口にした」
グラウスは、当時聞いた言葉を繰り返す。
「神剣・創界」
シアの中で、埋もれていた何かが揺れた。
「創界」
初めて聞いたはずなのに、知らない言葉には思えなかった。
「それが正式な名ですか」
ミレナが尋ねる。
「私の一族に伝わっていた名ではない」
グラウスが答える。
「あの方が、剣へ触れた直後に口にした」
「先代は、前から知っていたのか」
シアが尋ねる。
「違うと言っていた」
「では、どこから」
「剣に残っていたものが流れ込んだ」
グラウスは、当時の先代イフリートの説明を思い返す。
「自分の記憶でも、イフリートとして受け継いだ知識でもない。剣の中へ残っていた何かを、触れたことで受け取ったのだと」
「創造神の残滓」
ネアが言った。
「おそらくな」
「先代は、名前以外に何を知った」
セトが尋ねる。
「すべてが混ざったものへ境界を作り、再び分ける剣だと言った」
「それだけ?」
シアが聞く。
「あの方自身にも、完全には分からなかった。残っていた知識が朽ちていたらしい」
先代イフリートが創界から受け取った残滓。
それは先代自身の記憶ではない。
火の精霊王という役割に、元から含まれていた知識でもない。
一度だけ外から入り、先代の中へ欠けたまま残ったものだった。
「それが、今代のシアへも残った」
ネアが言う。
「先代が創界へ触れた経験そのものではなく、そこで受け取った知識の一部だけが、さらに欠けた形で継承されたのでしょう」
「だから、場所も名前も分からなかったのか」
「ええ。過去の精霊王が外から受け取った残滓の、そのまた断片です」
守る理由
「創界は、まだ封印地にあるのか」
セトが尋ねた。
「ああ」
「場所を教えろ」
グラウスは、すぐには答えなかった。
「創界は、私の一族が守ってきた」
「眠りの王に世界ごと呑まれても、隠し続けるのか」
「眠りの王」
グラウスがその言葉を繰り返す。
「精霊王たちが消えている原因か」
「ああ。取り込まれた精霊王は、役割も人格も分けられなくなっている」
「だから創界を使う」
「使えるかは分からない」
セトは言い直した。
「それでも、ほかに方法がない」
グラウスはシアを見る。
次にネア、ミレナを見る。
「三人か」
「創界には三人分の精霊王級の存在が必要らしい」
グラウスは三人を順に見た。
「場所を教えてください」
ミレナが言う。
グラウスはミレナを見る。
「お前は風の精霊王か」
「人間のミレナです。風の精霊王の役割も、私の中にあります」
「そこの男へ、剣として身を預けたのか」
「はい。私が選びました」
グラウスの視線が、セトへ戻る。
「三人目までそろえたか」
「まだ、創界が俺たちを受け入れるかは分からない」
「神剣は面倒だ」
過去と同じ言葉だった。
「力を持っていながら、最後には使い手を選ぶ」
「だから魔剣を選んだのか」
「魔剣には、すでに力が入っていた」
グラウスの声に迷いはない。
「持ち出せば使える。奪えば増える。意思を持つ者に拒まれることもない。神剣より、ずっと分かりやすい」
反省ではなかった。
自分が選んだ理由を、今も同じ理屈で説明しているだけだった。
「私は、お前たちを助けたいわけではない」
「ああ」
「罪を償うためでもない」
「ああ」
「創界は、私の一族が守ってきた。使う者を選ぶのは神剣であり、守り手ではない」
グラウスは椅子の背へ身体を預けた。
「私がここで場所を隠し続け、眠りの王に世界ごと呑まれれば、守ったことにはならない」
シアがグラウスを見る。
「先代のためか」
「違う」
返事は早かった。
「あの方を連れていったのは私だ。あの方から創界の名を聞いた。それと、今場所を教える理由は別だ」
そこに謝罪も、悔いもなかった。
先代を殺した事実も変わらない。
グラウスは改心したのではない。
ただ、守り手として受け継いだ役目を、自分のものとして扱っていた。
「場所を言う」
兵の一人が、記録用の紙を机へ置いた。
グラウスは腕を使えないため、地図へ印を付けられない。
代わりに、街道、川、岩山、崩れた石橋の順に道を説明した。
セトがその言葉を地図へ落としていく。
「入口は見えない。二つの刃を出せば、初めて継ぎ目が現れる」
「中に罠は」
「ない。鍵を持たない者には、ただの岩壁だ」
「創界を持ち出せるのか」
「神剣が拒まなければな」
分かれた家系
面会を終える前に、セトは一つだけ確かめた。
「なぜ、俺の一族には何も残っていない」
「一族が分かれた時、同じものを受け継がなかったからだ」
グラウスの家系とセトの家系は、遠い世代で同じ一族から分かれている。
セトの家系には、白刃と黒刃を含む剣状精霊術と剣技が残った。
古いイフリートを弔う習慣も引き継がれた。
グラウスの家系には、封印された危険な剣の所在地と、守護者としての役目が残った。
「魔剣も、創界もか」
「ああ。ただし、同じ場所ではない」
「どうしてそんな分け方をした」
「知らない。そこまで古い経緯は残っていない」
グラウスは事実だけを答えた。
「結果として、場所を知る者だけでは一人で封印を開けず、二つの異なる刃を一人で持つ者は場所を知らなかった」
「封印としては機能していた、ということですね」
ネアが言う。
「意図してそうしたのかは分かりませんが」
「お前なら一人で開ける」
グラウスはセトを見る。
「白刃と黒刃。二つの独立した剣状精霊術を、同時に成立させられる」
「皮肉だな」
セトが言った。
「お前の一族が嫌ってきた二刀が、創界を開く鍵になる」
「二刀を禁じた者が、創界の条件を知っていたとは限らない」
「それもそうだ」
その時は魔剣を倒すための禁じ手だった。
今は、神剣へ至るための二つの鍵になる。
岩壁の奥
グラウスが示した場所は、街道から外れた岩山の中腹にあった。
途中まで残る石段は、長い間使われていない。
左右から草と土に覆われ、上から見れば自然にできた段差と区別できなかった。
崩れた石橋を越え、細い谷へ入る。
行き止まりには、灰色の岩壁があるだけだった。
「ここですか」
ミレナが周囲の風を確かめる。
「奥へ続く空気の流れはありません」
「空間ごと閉じている可能性があります」
ネアが岩壁へ銀青色の線を触れさせた。
線は表面を滑り、どこにも入らない。
「月でも境界を見つけられません」
「二つの刃を出せば見えると言っていた」
セトは岩壁の前へ立つ。
右脚には、まだ鈍い痛みが残っている。
剣を振るうだけなら問題ない。
だが、長い移動の後では、足へ重さが溜まっていた。
「大丈夫ですか」
ミレナが尋ねる。
「開けるだけだ」
「前にも似た言葉を聞きました」
「戦わない」
「今度は信じます」
完全には信じていない声だった。
セトは右手へ原光を集める。
純白の刃が形を取った。
左手の周囲から原光を排除し、黒い空白を剣の形へ固定する。
白刃と黒刃。
二つの独立した剣状精霊術を、同時に岩壁へ向けた。
白刃を近づけると、岩壁の左側へ細い光が走る。
黒刃を近づけると、右側の色が沈んだ。
何もなかった岩の表面へ、二本の縦長の継ぎ目が現れる。
剣を差し込む穴ではない。
二つの刃の輪郭を読み取るように、光と空白が岩壁の内側へ伸びていく。
「同じ人が作った刃でも、別の鍵として認識しています」
ネアが言う。
「白刃と黒刃が、別々の術として成立しているからでしょう」
白い線と黒い線が、岩壁の中央へ向かう。
二本は混ざらない。
中央へ細い隙間を残したまま、上下へ伸びた。
低い音が谷へ響く。
岩壁が左右へ動いたのではない。
今まで一枚に見えていた空間が、二つへ分かれた。
その間に、奥へ続く通路が現れる。
「開いた」
シアが先へ進もうとした。
ネアが肩をつかむ。
「先に安全を確認します」
「罠はないと言っていた」
「グラウスの知識が現在も正しい保証はありません」
「触れる前に見る」
「近くで見る、も禁止です」
「まだ言っていない」
「言う前に止めました」
空の器
通路の先には、円形の石室があった。
壁にも床にも文字はない。
神を示す像も、祈りのための祭壇もなかった。
中央に低い石台があり、その上へ一本の剣が横たえられている。
全長は、人間が両手でも扱える程度。
細身の両刃直剣だった。
だが、刀身の中央には何もない。
左右の細い刃と外周の骨格だけが、剣の輪郭を作っている。
空洞越しに、石室の壁が見えた。
ただの穴のはずなのに、空洞の内側だけは距離を測りにくい。
近くにある壁を見ているのか、遠くまで続く空間を見ているのか、目を凝らしても定まらなかった。
「中がない」
シアが言う。
「空の器です」
ネアが答えた。
鍔は、三つの白銀色の円弧に分かれている。
円弧は互いに位置がずれ、一つの円になっていなかった。
柄は黒に近い濃灰色。
柄頭にも中空の輪があり、三か所へ切れ目が入っている。
宝石も、紋章も、文字もない。
神殺しの剣と呼ばれていたとは思えないほど、静かな剣だった。
錆も、刃こぼれもない。
古さだけが、石室全体へ沈んでいる。
「創界」
シアが小さく言った。
グラウスから聞いたばかりの名前。
それでも、初めて口にした言葉には思えなかった。
「先代が、ここに来た」
「ええ」
ネアは創界の周囲へ銀青色の線を巡らせる。
「そして、ここで残滓を受け取った」
「今も残っている?」
「分かりません。触れるまで何も起きない可能性があります」
「なら、触る」
「先代と同じことが起こるとは限りません」
「わたしの中に、先代が受け取った断片がある」
「だからこそ、慎重にします」
ネアはシアの手首へ銀青色の細い輪を作った。
「一度に流れ込むものが多すぎれば、すぐに離してください」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「シア」
「分かった」
重なった残滓
シアは、創界の左側の外刃へ指先を置いた。
石室の空気が一度だけ揺れる。
新しい知識が、一度に流れ込んだのではない。
シアの中に残っていた断片と、創界の中へ残る何かが触れ合った。
欠けた二つの形が、少しだけ重なる。
暗い封印地。
剣状精霊術の使い手。
先代イフリート。
神剣・創界という名。
ばらばらだった断片の間へ、意味が戻ってくる。
「シア」
「大丈夫」
「何が分かりますか」
「創造神はいない」
シアは外刃へ触れたまま答えた。
「もう、どこにもいない。残っているのは剣と、剣にしたことだけだ」
「人格や意思は残っていない?」
「ああ」
創造神の顔も、声も、記憶もない。
ただ、何をするために剣となったか。その輪郭だけが残っている。
「世界を作る剣じゃない」
「では、なぜ創界という名なのですか」
「境界を作る」
シアの指先から、赤橙色の光がわずかに流れた。
「一つになって、分けられなくなったものに、新しい境界を作る」
「眠りの王に取り込まれた精霊王を、分けられる」
セトが言う。
「たぶん」
「たぶん?」
「眠りの王に使った知識はない。これが何をする剣かしか残っていない」
シアは創界の空洞を見る。
「先に見る」
「何を?」
「世界を」
ネアが眉を寄せる。
「世界を見ることで、境界を作るのですか」
「分からない」
シアは首を横へ振った。
「でも、見えたものなら分けられる。そんな感じがする」
それ以上を言葉にしようとすると、意味が崩れた。
平面でも、空間でもない。
近いとも、遠いとも言えない。
人間の言葉へ置き換える前に、残滓がほどけていく。
「そこまでにしてください」
ネアが言う。
「まだある」
「今度は何ですか」
「三人」
創界の鍔にある三つの円弧が、ごく小さく動いた。
「やはり、三人の精霊王級存在が必要なのですね」
「三人の力を混ぜるんじゃない」
シアが言う。
「三人のまま入る」
「個別性を保ったまま、同じ剣の中へ入る」
ネアが創界を見る。
「それなら、眠りの王と同じ融合にはなりません」
「三つある」
シアは鍔の円弧を順に見た。
「力ではない。三人がすることだ」
一つ目の円弧。
「放つ」
二つ目。
「分ける」
三つ目。
「束ねる」
放つ・分ける・束ねる
「属性が決まっているんですか」
ミレナが尋ねる。
「違う」
シアは創界から指を離した。
指先が離れても、三つの円弧は白銀色のまま、ごくわずかにずれた位置で止まっている。
「何ができるかだ」
「放つなら、シアですね」
ネアが言う。
「わたし?」
「あなたほど、内側の力を外へ出すことへ適した精霊王はいません」
「リグもできる」
「今回は、創界へ入る三人の中で考えています」
「なら、わたしだ」
シアは一つ目の円弧を見る。
円弧は何の反応も示さない。
「分けるのは、ネアさんですか」
ミレナが尋ねる。
「おそらく」
ネアは二つ目の円弧を見る。
「わたしの力は、原光を吸収し、反射し、流れを偏向させます。異なるものの間へ空白を作ることもできます」
「眠りの王と、取り込まれた精霊王を別のものとして扱う役目に近いでしょう」
ミレナは、残った三つ目の円弧を見る。
「私は、束ねる」
ヴァルナとの戦いで、散った水を一か所へ集めた。
翔嵐となった時には、別々の流れへそれぞれ異なる道を与え、最後には同じ場所へ戻した。
「三人を一つにするんですか」
「一つにして混ぜるんじゃない」
シアが首を横へ振る。
「別々のまま、同じ方へ向ける」
「三人の個別性を保ったまま、創界という一つの剣として成立させる」
ネアが続ける。
「それが束ねる役目なのでしょう」
三つの円弧は、どれも同じ白銀色のままだった。
誰がどの役目を担うのか。
どの精霊王が中へ入るのか。
創界は、まだ何も決めていない。
今あるのは、朽ちた残滓からシアが受け取った三つの言葉と、三人の力から考えた役割の推測だけだった。
「三人の役目は分かりました」
ネアが言う。
「ですが、どの順番で、何を対象に行うのかまでは分かりません」
「残っていない」
シアが答える。
「世界を見る。束ねる。分ける。放つ。言葉はある。でも、どれが先かは崩れている」
「眠りの王を前にして確かめるしかない?」
セトが尋ねる。
「たぶん」
「また、たぶんか」
「朽ちているから仕方ない」
創界に残っていたのは、使い方を順に説明する記録ではない。
創造神が剣へ定着させた権限と、その目的の残りだった。
何を見て、どこへ境界を引き、どのように現実へ届かせるのか。
今の四人には、まだ理解できない。
選ばれる条件
セトが石台へ近づいた。
「触れてもいいか」
「わたしが先に周囲を確認します」
ネアの銀青色の線が、石台と創界の周囲を巡る。
吸収される様子も、弾かれる様子もない。
「今見える範囲に、攻撃する機構はありません」
「見えない範囲は?」
シアが尋ねる。
「分かりません」
「なら、触らないと分からない」
「あなたが先に触れる理由にはなりません」
セトは創界の柄へ手を伸ばした。
指が触れても、創界の形は変わらなかった。
三つに分かれた白銀色の円弧も、色を持たない空洞の刀身も、静かなままだった。
セトは柄を握る。
創界は、抵抗なく石台から離れた。
重さは普通の剣と大きく変わらない。
握った手から力が流れ込む感覚もなかった。
その代わり、セトの内側へ何かが触れた。
シアとのつながり。
ネアとのつながり。
ミレナとのつながり。
三つを順に確かめられているような感覚だった。
三人を一つの存在として見ているのではない。
別々の三人として確かめながら、それぞれがセトへつながっていることを見ている。
「何か来たか」
シアが尋ねる。
「見られた」
「誰に」
「剣に」
ネアが創界の鍔を見る。
三つの円弧は、白銀色のまま動かない。
「拒まれてはいないようです」
「選ばれたのか」
「そこまでは分かりません。持つことを拒まれなかっただけです」
「面倒だな」
シアが言う。
「グラウスの言っていた通りです」
セトは創界を持ったまま、三人を見る。
シア。
ネア。
ミレナ。
三人とも、一度は精霊剣としてセトへ身を預けている。
極炎。
絶光。
翔嵐。
創界が確かめたのは、その三つのつながりだった。
だが、誰がどの円弧へ入るのかも、創界が三人を受け入れるのかも、まだ決まってはいない。
三人のまま
「使う時、三人はどうなる」
セトが尋ねる。
シアは自分の中へ残る断片を探る。
「創界へ入る」
「精霊剣と同じように?」
「近い。でも、三人で一つになるんじゃない」
「三人のまま、剣へ入る」
ミレナが言う。
「ああ」
「使い手には、三人すべてとのつながりが必要です」
ネアが創界の柄を見る。
「創界の中で三人を別々の個人として保ち、そのうえで一つの剣として扱う。使い手にも、三人を混同せず受け取れることが求められるのでしょう」
セトは創界を持ったまま、三人を見る。
「三人が必要な理由は分かった」
セトが言う。
「役目も、たぶん分かった」
「効くかは分からない」
シアが付け足す。
「眠りの王に使ったことはない」
「使った後に、三人がどうなるかも分かりません」
ネアが言う。
「残滓にありませんか」
ミレナが尋ねる。
「欠けている」
シアが答えた。
「創界へ入るところまではある。その先が、ほとんど残っていない」
ミレナは創界を見る。
風の側へ進むこと。
セトへ身を預け、翔嵐となること。
どちらも、自分で選んだ。
だが、創界へ入ることは、まだ選んでいない。
「ミレナ」
セトが呼ぶ。
「はい」
「今、決めなくていい」
ミレナは少しだけ驚いた顔をした。
「束ねる役目が私だと分かっても?」
「ああ」
「ほかにできる人がいなくても?」
「それでもだ」
必要な力が、ミレナの中にある。
世界を守るために、その力が要る。
それは事実だった。
だからこそ、必要だという言葉だけで選ばせることはできない。
「創界を使うかは、俺たち全員で考える。ミレナだけに決めさせない」
「でも、私が入るかどうかは、私が決めることですよね」
「ああ」
「では、考えます」
ミレナは創界から目をそらさなかった。
「必要だからではなく、私がどうしたいかを」
ネアがうなずく。
「それで構いません」
シアは創界の三つの円弧を見る。
「私は入る」
「早いですね」
「もう決めている。眠りの王を止める」
「あなたは少し考えてください」
「前から考えていた」
「わたしも、必要なら入ります」
ネアは創界を見たまま続けた。
「ただし、何が起きるか分からないことを、決断の速さで無視するつもりはありません」
「調べれば分かる?」
「創界の中へ入る前に分かる範囲までは調べます」
セトは二人のやり取りを聞きながら、創界の空洞へ視線を戻した。
神殺しの剣と呼ばれていた剣。
だが、その本質は、ただ神を殺すことではない。
すべてを同じ眠りへ溶かすものから、違いを取り戻すための剣だった。
守り手の役目
石室を出る前に、セトは創界を布で包んだ。
普通の剣と同じ鞘は使えない。
中央が空洞で、外周だけに刃があるため、左右から挟むように固定する。
「持ち出していいのでしょうか」
ミレナが尋ねる。
「そのために場所を聞いた」
「グラウスさんは、守っていたと言っていました」
「使わせないために守っていたわけではありません」
ネアが答える。
「場所を失わせず、条件を満たさない者へ渡さない。それが守り手の役目だったのでしょう」
「条件を満たした者へ渡すところまで含む?」
シアが聞く。
「グラウスは、そう判断しました」
「神剣が選ぶと言っていた」
セトは包んだ創界を背へ固定する。
「少なくとも、持つことは拒まれなかった」
白刃と黒刃を消しても、入口は閉じなかった。
創界が外へ出たためなのか、一度開けば維持される封印なのかは分からない。
ネアが石室の境界を確かめる。
「創界を戻せば、再び閉じられる構造かもしれません」
「戻すのか」
「今は持っていきます」
神剣を保管することが目的ではない。
眠りの王に失われた境界を、取り戻すために必要だった。
谷を下りる前、セトは一度だけ振り返った。
岩壁の奥に、剣はない。
守り手の一族が長く隠してきた、空の場所だけが残っている。
グラウスが守ったのは、創界を誰にも使わせないことではなかった。
剣が選べる時まで、場所と条件を失わせないことだった。
創界
谷を出たところで、シアが三つの言葉をもう一度口にした。
「放つ」
自分を指す。
「分ける」
ネアを見る。
「束ねる」
ミレナを見る。
「その順番で使うのか」
セトが尋ねる。
「分からない」
シアはすぐに答えた。
「言葉は残っている。でも、使い方は欠けている」
「三つとも必要であることだけは確かです」
ネアが言う。
「シアが力を放つだけでは、眠りの王と取り込まれた精霊王をまとめて消す可能性があります。わたしが分けるだけでは、境界を作れても、それを創界の外へ成立させられるか分かりません」
「私は、三人を混ぜずに一つの剣へ束ねる」
ミレナが言う。
「おそらく」
「まだ、分からないことが多いな」
セトが言った。
「ですが、昨日までとは違います」
ネアは、セトの背にある創界を見る。
「器があります。必要な三人もいます。三人が担う役目も分かりました」
「効くかは分からない」
シアが付け足す。
「それを確かめるには、眠りの王へ使うしかない」
ミレナが右手を握った。
今ここにいる自分を確かめるために選んだ動作。
風の側へ進んでも、剣になっても、戻るために重ねてきた動作だった。
「考えます」
ミレナは、もう一度言った。
「創界へ入るかどうかを」
セトは急がせなかった。
眠りの王は待ってくれない。
それでも、世界を守るという理由で、誰かの意思を眠らせることはできない。
神剣・創界は、三人を一つへ溶かす剣ではない。
三人を三人のまま、一つの目的へ通すための剣だった。
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