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西へ
ネアは西へ向かっていた。
残る月の分霊核を探すためである。
黒い二個の分霊核が、ネアの左右を漂っている。
広く精霊力を放てば、同じ属性の分霊核がある場所だけ、返るはずの力が吸収される。
だが、無制限に遠くまで探せるわけではない。
人間の町や集落へ寄り、小さく黒い、加工できない宝玉の情報を集める必要があった。
本来ならば。
今、ネアの周囲に人の暮らす場所はない。
白く凍った大地と、その上へ無数に突き出した結晶だけが続いている。
低い草は氷に覆われていた。
岩の表面には透明な結晶が生え、別の岩とつながっている。
冷気と結晶化。
二つの異なる力によって、土地が作り替えられていた。
しかも、広がり方が不自然だった。
氷に閉ざされた地面の一部だけが、突然溶けている。
そのすぐ隣では、溶けた水が再び凍り、厚い氷の柱となっていた。
結晶も同じだった。
整った形を作りながら、途中で自ら割れ、砕けた断面からさらに細かな結晶が伸びている。
作る。
壊す。
また作る。
その繰り返しは、ネアたちが光の精霊王の周囲で見たものに似ていた。
遠くの空が、一瞬だけ白く明滅する。
それに呼応するように、地面の氷が厚みを増した。
結晶の群れも一斉に枝を伸ばす。
「光の影響が、ここまで」
ネアは足を止めた。
前方に、白い人影がいた。
氷の精霊王。
右側では、透明な結晶の中から、女性の姿をした精霊王が現れる。
晶の精霊王。
二人とも、以前より精霊力の流れが荒い。
多すぎる力を身体の中へ収められず、周囲へ絶えず漏らしていた。
ネアを見ている。
だが、相手を認識している目ではなかった。
自分の役割を妨げる異物を見ているだけだった。
狂った役割
「寒い場所が足りない」
氷の精霊王が言った。
以前にも聞いた言葉だった。
「すでに十分あります」
ネアは答えた。
「この場所にも、寒さへ適応していない生命がありました。これ以上広げる必要はありません」
「寒い場所が足りない」
同じ言葉が返ってきた。
「以前、それでは今ある生命が失われると話しました」
「失われれば、寒さの中で別の生命が生まれる」
「生まれるまでに、今いるものは死にます」
「死ねば、空く」
氷の精霊王の足元から、白い霧が広がった。
「空けば、寒くできる」
順序が逆だった。
寒い場所を作るために生命を移すのではない。
寒さを広げるためなら、先に生命を消してよいと考えている。
以前の氷の精霊王も、現在の世界に必要な程度を理解してはいなかった。
それでも、問えば答えようとしていた。
今は違う。
理由を尋ねても、役割を実行するための言葉しか返ってこない。
晶の精霊王が地面へ片手を向けた。
「形が足りない」
女性の声に抑揚はなかった。
氷の下で岩が割れる。
割れ目から透明な結晶が伸び、枝分かれしながら地面を覆った。
「構造が増えれば、変化が生まれる」
「同じ場所をすべて結晶に変えれば、変化するもの自体が生きられません」
「形を作る」
「作られた結晶の中では、植物も動物も生きられません」
「壊れれば、また作れる」
晶の精霊王が指を曲げる。
伸びていた結晶が、内側から砕けた。
無数の破片が地面へ落ちる。
その一つ一つから、さらに小さな結晶が生え始めた。
「作る。壊れる。増える。形が増える」
「それは進化ではありません」
「形が増える」
晶の精霊王は、もうネアを見ていなかった。
自分が砕いた結晶だけを見ている。
遠くの空が、再び白く光る。
氷の精霊王の身体から冷気が噴き出した。
晶の精霊王の周囲でも、結晶が一斉に成長する。
二人の精霊力が同時に跳ね上がった。
ネアは確信した。
二人とも、光の精霊王の影響を受けている。
役割へ強く引かれていた次代の精霊王が、さらに原初へ引き戻されている。
自分の力が何を失わせるか。
その結果、現在の世界がどうなるか。
わずかに残っていた判断が、光によって削られていた。
「止まる気はありませんね」
「寒くする」
氷の精霊王が腕を上げる。
「形を作る」
晶の精霊王が指を開く。
二つの力が、同時に動いた。
冷気と結晶
冷気が全方向から迫る。
地面だけではない。
空気中の水分が凍り、ネアの周囲へ薄い氷の膜を作る。
ネアは右手を横へ動かした。
銀青色の線が広がる。
正面から来た冷気の流れが曲がり、ネアの左側を通り過ぎた。
左から回り込んだ力は、一個目の分霊核が受ける。
黒い玉の周囲へ銀青色の輪が生まれ、冷気を吸収した。
足元から、結晶の槍が伸びる。
二個目の分霊核が下がった。
結晶を作ろうとしていた精霊力へ触れ、その流れを止める。
新しい槍は途中で成長を止めた。
ネアは、その横を通る。
次の一歩を置こうとした場所に、すでに別の結晶があった。
今、作られたものではない。
力を止める前に完成していた結晶である。
ネアは進路を変えた。
その先へ冷気が回り込む。
曲げる。
吸収する。
新しい結晶を止める。
すでにある結晶を避ける。
二個の分霊核を使っても、処理しなければならないものが減らない。
氷の精霊王は周囲全体を冷やし続ける。
晶の精霊王は、止められるまでに作った構造をその場へ残す。
一度止めても、次の場所から始まる。
しかも、二人は互いの邪魔を気にしていなかった。
冷気によって結晶の表面が凍り、ひび割れる。
晶の精霊王は、割れた結晶を捨てず、破片から新しい構造を作る。
氷の精霊王は、その結晶ごと周囲を冷やす。
力を合わせているのではない。
互いの結果さえ、自分の役割を広げる材料にしている。
だから止まらない。
残る防壁
晶の精霊王の前に、透明な壁が作られた。
一枚ではない。
薄い結晶の層が重なり、その間を別の結晶が斜めにつないでいる。
ネアは銀青色の線を伸ばした。
壁へ流れ込んでいる精霊力を吸収する。
新しい層の形成が止まった。
だが、すでに完成した壁は消えない。
ネアの力は、結晶そのものを無かったことにはできなかった。
壁の向こうで、晶の精霊王がさらに地面へ力を流す。
別の場所から結晶が伸び始めた。
「相変わらず、厄介ですね」
ネアは小さく息を吐いた。
以前は、シアの火で防壁を壊した。
ネアが追加の形成を止め、その間に極炎が既存の結晶を吹き飛ばした。
今、シアはいない。
ネアだけでは、作られるものを止められても、作られたものをまとめて壊せない。
氷の精霊王が両腕を広げた。
空気が白く染まる。
ネアの周囲へ浮いていた水分が、一斉に凍った。
細かな氷の粒が、銀青色の線へ付着する。
線の動きが鈍る。
ネアは力を強めて氷を外した。
その間に、足元の結晶が伸びる。
長い裾が結晶へ触れた。
結晶が布を巻き込み、そのまま上へ成長する。
ネアは裾を引いた。
布が裂れる。
身体を後ろへ下げる。
そこへ、氷の塊が落ちてきた。
逃げる場所
一個目の分霊核が氷を受けた。
吸収しきれなかった部分が砕け、ネアの肩へ当たる。
身体が横へ流された。
着地した場所から、結晶が伸びる。
ネアは短く浮き、結晶の先端を避けた。
月の力で落下を緩めることはできる。
短い間なら、身体を浮かせることもできる。
だが、シアのように炎で一気に加速することはできない。
空中で方向を変える速さも足りなかった。
氷の精霊王が、浮いたネアへ手を向ける。
冷気が上から押し寄せた。
晶の精霊王は、ネアの着地点へ結晶を並べる。
降りれば貫かれる。
空中に残れば凍らされる。
ネアは二個の分霊核を左右へ開いた。
一個が冷気を曲げる。
もう一個が地面へ伸びる力を吸収する。
ネア自身は、細い線を下方へ伸ばした。
結晶の少ない場所を探す。
一か所だけ空いている。
そこへ身体を落とす。
足が地面へ触れる直前、晶の精霊王が指を動かした。
完成していた結晶の柱が倒れた。
新しく作ったものではない。
すでにあった柱を、横から押しただけだった。
ネアは身をひねる。
柱の先端が脇腹をかすめた。
長衣が裂ける。
白い肌の上に、銀青色の光が散った。
固まる身体
傷へ精霊力を流す。
欠けた身体が戻り始める。
その間にも冷気は止まらない。
脇腹の傷口から、凍結が広がった。
身体を直すために集めた精霊力ごと冷やされ、流れが鈍る。
ネアは冷気を吸収した。
凍結は止まった。
今度は、傷を戻すための力が足りない。
二個の分霊核に蓄えていた力を引き出す。
一個目の光が弱くなる。
晶の精霊王が、その分霊核へ結晶を伸ばした。
黒い玉の周囲を透明な層が覆う。
ネアはすぐに形成を止める。
だが、薄い結晶は残った。
分霊核の動きが重くなる。
ネアが引き寄せようとしても、結晶の塊が地面へ引っかかった。
二個のうち、一個がその場へ固定された。
残る一個を防御へ回す。
冷気が来る。
結晶が伸びる。
曲げる。
止める。
吸収する。
傷を戻す。
一つ処理するたびに、別の一つが進んだ。
ネアの呼吸が浅くなる。
精霊王に、人間と同じ呼吸が必要なわけではない。
それでも、身体と意識を保つための動作として、息を整えようとした。
冷たい空気が肺へ入る。
胸の内側まで凍るようだった。
閉じる檻
晶の精霊王が両腕を広げた。
周囲に残っていた結晶が、一本ずつつながる。
新しく作っているのではない。
ネアが止めきれずに残したものを使っている。
柱と柱が横へ伸びる。
壁と壁が斜めにつながる。
頭上にも透明な層が作られた。
結晶の檻が閉じていく。
外側では、氷の精霊王が冷気を流し続けていた。
檻の内部へ入った冷気は逃げない。
透明な壁に反射し、何度もネアの周囲を巡る。
銀青色の線が凍りつく。
羽衣の動きが止まる。
長い髪の先が白く固まった。
ネアは一個の分霊核を頭上へ動かした。
冷気を吸収させる。
黒い玉の表面に霜が付く。
蓄えられていた力が急速に減っていく。
もう一個は結晶に固定されたままだった。
ネア自身の力も、傷の修復と防御で削られている。
檻の外から、晶の精霊王が手を向けた。
「形にする」
透明な壁の内側へ、新しい棘が伸び始める。
「壊す。作る。もっと作る」
女性の口元が、わずかに笑ったように見えた。
喜んでいるのではない。
表情と感情がつながっていない。
氷の精霊王も腕を下ろす。
「止める。凍らせる。全部止める」
檻の中の温度が、さらに下がった。
ネアは棘の形成を止めた。
冷気を曲げた。
どちらも完全には止まらない。
凍った銀青色の線が、一本切れた。
伝わったもの
その時。
ネアの内側で、何かが揺れた。
自分の精霊力ではない。
遠く離れた場所にいる、シアの力だった。
ネアとシアは、直接つながっているわけではない。
だが、何度もセトを介して同時に精霊剣となった。
一人の人間の精霊回路を通じて、互いの力へ触れてきた。
その痕跡が、細い道として残っている。
道の向こうで、何かが開いた。
知識。
鍵。
シアが、触れてはいけない場所へ手を伸ばした。
開け方が伝わってくる。
言葉ではなかった。
何を思い、どこへ触れれば、閉じられていた知識が開くのか。
その感覚だけが、ネアの中へ流れ込んだ。
同時に、別のものも伝わる。
巨大な火。
四つに分かれた循環。
周囲の原光を際限なく取り込む力。
そして、シアとは思えない欲望。
他の精霊王を消したい。
自分だけが存在すればよい。
「シア……?」
返事はない。
呼びかけた先から返るものは、熱だけだった。
シアの力は感じる。
消滅してはいない。
それなのに、いつものシアがどこにいるのか分からない。
力の奥へ沈み、遠くなっている。
ネアは、開いた知識の危険を理解した。
あれは、失われていた力ではない。
閉じられていた力だ。
知らなかったのではない。
開けないようにされていた。
開ければ強くなる。
だが、強くなった自分が、自分の望む行動を取る保証はない。
シアは生き残った。
その代わりに、シアではなくなりかけている。
試す手段
結晶の棘が、ネアの肩へ届いた。
精霊力の流れを止める。
成長は止まった。
すでに伸びていた先端は止まらない。
肩へ食い込み、身体を壁へ押し付けた。
冷気が傷口から入る。
ネアの右腕が動かなくなった。
残る分霊核の光も弱い。
固定された方へ力を送ろうとしても、途中で吸い取られる。
鍵の場所は分かっている。
開け方も分かっている。
ネアは、そこから意識を外した。
まだ開けない。
まず、残る分霊核へすべての力を集めた。
冷気の吸収を止める。
白い霧が一気に身体へ迫った。
その短い時間で、分霊核から一本の太い線を晶の檻へ伸ばす。
新しい結晶を止めるのではない。
すでにある結晶を形作る精霊力を、内側から引き抜こうとした。
結晶の表面にひびが入る。
一本。
二本。
だが、崩れない。
形成に使われた力を失っても、物質として完成した結晶は残る。
そこへ冷気が届いた。
ネアの左脚が凍る。
線を維持できない。
分霊核を再び防御へ戻す。
別の手段。
固定された分霊核を切り離し、その中に残る力を一度に放出する。
結晶ごと砕ければ、檻に穴を開けられる可能性はある。
ネアは固定された黒い玉へ意識を向けた。
蓄えを逆流させる。
玉の内側で、銀青色の光が膨らむ。
晶の精霊王が即座に手を向けた。
「形を重ねる」
分霊核を覆う結晶が厚くなる。
一層。
二層。
三層。
放出した力が、結晶の内側で押し返された。
黒い玉に亀裂が走る。
ネアは放出を止めた。
このまま続ければ、分霊核だけを失う。
檻は壊れない。
もう一つ。
周囲の原光を完全に吸収し、空白を作る。
氷と晶が次の術を使えなくなれば、その間に抜けられるかもしれない。
だが、絶光と同じ規模の空白を、人型のまま一人で作る余力は残っていない。
二個の分霊核を使っても、檻の外側まで届く前に自分の身体が崩れる。
ネアは計算した。
どの方法も間に合わない。
開けた後
氷の精霊王が、檻の外からネアを見る。
「止まる」
白い霧が濃くなる。
晶の精霊王も、反対側から手を向けた。
「形になる」
肩へ刺さった棘が太くなる。
身体の内側から、銀青色の光が漏れ始めた。
このままでは、身体を維持できない。
精霊力を使い切れば、次に壊された部分を戻せない。
結晶に砕かれるか。
凍結によって流れを止められるか。
どちらが先でも同じだった。
ネアは消滅する。
鍵を開けば、生き残れる可能性がある。
だが、開いた後の自分が何をするのか分からない。
氷と晶を消すだけで終わるのか。
ほかの精霊王を探すのか。
人間の町を、自分ではないものとして消すのか。
シアを見つけた時、助けようとするのか。
それとも、自分以外の王として消そうとするのか。
セトは動けない。
止めてくれる者はいない。
今ここで鍵を開けば、二人の狂った精霊王より危険なものが一人増えるかもしれない。
「それは……選べません」
ネアは左手を握った。
開けない。
このまま消えれば、少なくとも自分が誰かを消すことはない。
その考えが浮かぶ。
だが、自分が消えれば、シアの異常を知る者が一人減る。
シアがどこにいるのか。
何をしようとしているのか。
今、わずかでも感じ取れるのはネアだけだった。
セトのもとへ戻ることもできない。
シアを止めることもできない。
分霊核を集めることもできない。
消滅すれば、何も選べなくなる。
それを安全な選択と呼んでよいのか。
ネアは、肩へ食い込む結晶を見た。
氷が胸元まで広がっている。
残る時間は短い。
「開ければ、わたしでなくなるかもしれない」
言葉にしても、答えは出なかった。
「開けなければ、わたしは消える」
消えたくない。
シアのように強く願ったわけではない。
だが、消えてよいとも思えなかった。
まだ、セトへ言っていないことがある。
シアへ言わなければならないことがある。
二人を残したまま、ここで終わることを選びたくなかった。
開けるべきではない。
開けたくない。
開けるしかない。
「最低の選択ですね」
ネアは、自分へ向けて言った。
安全だから選ぶのではない。
正しいから選ぶのでもない。
ほかの選択肢がすべて消えたから、それでも消滅しない方を選ぶ。
「それでも、ここで消えるよりは」
動く左手を胸元へ当てる。
鍵へ触れる直前、手が止まった。
一度開けば、戻せない。
シアの異常が、細い道の向こうから伝わり続けている。
自分も同じ場所へ沈む。
それを理解したうえで、ネアは目を閉じた。
「あとで、必ず後悔します」
誰に聞かせる言葉でもなかった。
そして、鍵を開いた。
黒い四翼
音はしなかった。
だが、閉じられていた知識が開いたことだけは分かった。
背中から、黒い力の面が伸びる。
右上へ一枚。
左上へ一枚。
右下へ一枚。
左下へ一枚。
四枚の半透明な翼が、大きなX字を作って開いた。
羽根ではない。
光を通しながら、その部分だけが欠けて見えるほど深い黒だった。
長い袖が浮く。
裾が地面から離れる。
凍りついていた羽衣が砕け、四翼と一体になるように周囲へ広がった。
翼の間を、黒い線が走る。
結晶の檻へ触れる。
檻そのものは消えない。
だが、その内側を流れていた精霊力が、すべてネアの知覚へ入った。
氷の精霊王が広げている冷気。
晶の精霊王が結晶へ送り続けている力。
二人の身体を形作っている流れ。
固定されていた分霊核。
残る一個。
そして、周囲に満ちている無数の原光。
すべてが見えた。
すべてへ手が届いた。
二個の分霊核が動く。
結晶に包まれていた方は、外側の結晶を残したまま、その中を黒い光となって抜けた。
もう一個も、ネアの左右へ並ぶ。
二つの器が、四翼の循環へ入る。
傷口へ黒い光が集まった。
肩へ刺さっていた結晶が押し出される。
凍っていた右腕が動く。
ネアの身体が、地面から静かに浮いた。
自分だけでよい
知識と一緒に、別の感覚が入ってくる。
自分以外の流れがある。
氷の精霊王。
晶の精霊王。
遠くにいる、ほかの精霊王。
それらは、ネアではない。
自分ではないものが、同じ世界に存在している。
そのことが、不自然に思えた。
必要ない。
自分だけでよい。
自分と異なるものを、すべて消せばよい。
「違います」
ネアは小さく言った。
何に対して否定したのか、自分でも分からなかった。
「私は、ネアです」
かつて人間から与えられた名前。
長い時間を越えて残ってきた名前。
シアやセトが呼ぶ名前。
それを口にしても、流れ込んでくる欲望は止まらない。
ネアという名前を否定しているのではない。
もっと古い欲望が、その上へ重なってくる。
氷の精霊王が両手を向けた。
「寒くする。止める。止める」
四方から冷気が集まる。
晶の精霊王も、檻の外側へさらに厚い結晶を作る。
「形を作る。壊す。もっと作る」
黒い四翼を閉じ込めようとしていた。
ネアは二人を見た。
光の影響で判断を失い、自分の役割だけを繰り返している精霊王。
先ほどまでなら、止める方法を考えていた。
元へ戻せる可能性を探していた。
今は、違った。
二人が狂っているかどうかは関係ない。
そこにいること自体が邪魔だった。
下へ
ネアは左手を上げた。
手のひらを、氷と晶の二人へ向ける。
新しい術を考えたわけではない。
何をすればよいのかは、開いた知識の中にあった。
周囲の原光へ触れる。
ネア自身の力だけではない。
氷の精霊王が広げた冷気の中にある精霊力。
晶の精霊王が結晶へ流している精霊力。
地中を流れる精霊力。
空気中を漂う微細な精霊。
その場にあるすべての力へ、一つの方向を与える。
「下へ」
ネアが手を下ろした。
銀青色でも黒でもない。
目に見える光は、ほとんど生まれなかった。
それでも、その場の精霊力が一斉に下へ流れた。
氷の精霊王の身体が落ちる。
晶の精霊王も、地面へ叩き付けられた。
二人の膝が大地へ沈む。
重力が増したように見えた。
だが、周囲の岩は動いていない。
結晶の柱も倒れない。
氷に覆われた草も、形を保っている。
地面に積もった雪さえ、そのままだった。
下へ流れているのは、物質ではない。
精霊力だけだった。
精霊力によって身体を形作る精霊王は、自分自身の内側から下へ引かれている。
「何を……」
氷の精霊王が片手を地面へ付いた。
身体を凍らせ、大地と一体にして耐えようとする。
晶の精霊王も、自分の周囲へ厚い結晶を作った。
透明な殻が女性の身体を包む。
だが、外側を固めても意味はない。
引かれているのは、殻の外からではなかった。
二人自身を満たす精霊力が、下へ向かっている。
押し付けられる王
氷の精霊王が冷気を放つ。
ネアへ届く前に、その力も下へ曲がった。
白い霧は地面へ流れ、薄い氷の層を作る。
晶の精霊王が結晶の槍を伸ばす。
槍へ送った精霊力も、形成の途中で下へ落ちた。
結晶は低い突起にしかならなかった。
二人は立ち上がれない。
腕を持ち上げても、すぐに地面へ引き戻される。
氷の精霊王の白い身体に亀裂が入った。
晶の精霊王を覆う透明な殻も、内側から割れ始める。
「これは……重さではない……」
晶の精霊王が言った。
初めて、目の前で起きていることへ意識を向けた。
だが、次の瞬間には、また地面へ手を伸ばす。
「形を……作らなければ……」
光の影響で狂っていても、消滅への恐怖がないわけではない。
それでも、自分を守るより先に役割を続けようとする。
氷の精霊王も顔を上げた。
「寒さは……必要だ」
自分を押し潰す力の中でも、同じ言葉を繰り返している。
ネアは答えなかった。
以前のネアなら、二人の状態を見ていた。
光の影響を取り除けないか。
動きを止めて拘束できないか。
消滅させずに済む方法がないか。
今は、何も考えなかった。
別の精霊王がいる。
自分ではない。
ならば、消せばよい。
ネアは、もう一度手を上げた。
さらに下へ
二個の分霊核が、ネアの左右へ並ぶ。
本人と二個の器が、四翼を通じて一つの循環へ入る。
三つの場所から黒い線が伸びた。
線は氷の精霊王と晶の精霊王へ向かうのではない。
周囲一帯へ広がり、その場にある精霊力をまとめて捉える。
一度目よりも広く。
一度目よりも深く。
地表だけではない。
地面の下を流れる力まで、同じ方向へそろえる。
氷の精霊王の身体が震えた。
晶の精霊王の殻が、さらに厚くなる。
二人は残る力をすべて防御へ回している。
それでも、その力自体がネアの操作から逃れられない。
防御を強めるほど、下へ流される力が増えていく。
氷の精霊王の腕が地面へ沈む。
晶の精霊王を包む結晶が、内側から押し広げられ、砕けた。
「なぜ……形が、保てない……」
晶の精霊王の声が揺れた。
自分の作った構造が、外から壊されているのではない。
構造を保つ力そのものが下へ奪われている。
理解できないまま、新しい結晶を重ねる。
作るたびに、下へ流される力が増えた。
氷の精霊王も、地面へ広がろうとする。
「止まれ……寒さは、止めるものだ……」
自分の身体さえ止められない。
ネアが手を下ろす。
「下へ」
その場の精霊力が、さらに強く落ちた。
二人の身体が地面へ押し潰される。
氷の精霊王の人の形が崩れ、白い光となって大地へ広がった。
広がろうとした光も、すぐに下へ流される。
晶の精霊王は身体を結晶へ変えようとした。
透明な層が何重にも生まれる。
そのすべてが内側から砕けた。
「形を……まだ……」
女性の声が、砕ける音へ紛れた。
結晶の間から、精霊力が地面へ引き抜かれる。
氷の精霊王の声も、もう聞こえなかった。
白い光も、透明な光も、黒い線に沿って大地へ沈んでいく。
最後に残った人の形が、同時に潰れた。
氷の精霊王は消滅した。
晶の精霊王も消滅した。
残ったもの
精霊力の流れが静まる。
ネアは手を下ろした。
凍った大地は残っている。
完成していた結晶も、消えてはいない。
植物も岩も潰れていなかった。
精霊王だった二人だけが、そこから消えている。
二人が光の影響で狂っていたことを、ネアは知っていた。
本来なら、原因を取り除く方法を探すべきだった。
それでも、何も感じなかった。
狂っていた。
だから何だというのか。
自分ではないものが二つあった。
それを下へ流した。
ただ、それだけだった。
黒い四翼は開いたままだった。
二個の分霊核も、左右を静かに漂っている。
四翼は周囲の原光を取り込み、ネアの外側にまで大きな循環を作り続けている。
先ほどまで消耗していたはずの身体は、すでに満たされていた。
それでも、その力が何に使えるのかを確かめようとは思わなかった。
残る分霊核を探しに来たことも覚えている。
だが、その目的さえ、今は遠いものに感じられた。
「私は、ネアです」
もう一度、名前を口にする。
その名前は消えていない。
セトも、シアも覚えている。
だが、どちらも遠く感じた。
自分ではないもの。
世界に残る別の流れ。
今は、それ以上の意味を持たなかった。
ネアの身体が、静かに地面から離れる。
黒い四翼は羽ばたかない。
長い袖と裾、羽衣だけが遅れて浮き上がる。
次の瞬間、ネアは空へ上がった。
どこへ向かうのかも、まだ決めていなかった。
地上には、氷と結晶だけが残された。
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
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