本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第3話 壁の中の黒猫

第3話 壁の中の黒猫 創作実験
第3話 壁の中の黒猫
本当に人間ってあさはかな生き物だよね
創作実験TOP日常系/猫視点コメディ/人間観察―― 猫には猫の常識がある。人間はそれを、何ひとつ分かっていない。 ――作品紹介黒猫のシジミは、人間に飼われている。少なくとも、うちの人間はそう思っている。だが、シジミからすれば話は逆だ。毎日決…

黒猫は別の猫

うちの人間が本を読んでいる。

題名は『黒猫』。

表紙には、シジミと同じ黒い猫が描かれていた。

もっとも、同じなのは毛の色くらいである。

顔つきも違う。

目の色も違う。

耳の形も違う。

黒い猫というだけでシジミと一緒にされては困る。

人間は黒い猫を二匹見つけると、すぐに似ていると言う。

自分たちのことなら、髪型が違う、目元が違う、雰囲気が違うと細かなところまで見分けるくせに、猫になると毛の色しか見なくなる。

ずいぶん雑な見方である。

うちの人間は長椅子に座り、難しい顔で本を読んでいた。

柔らかな上着を羽織り、肩へ落ちた髪をときどき指で耳の後ろへかけている。

シジミはその隣で丸くなっていた。

本からは、古い紙の匂いがする。

うちの人間は、何度か同じところを読み返している。

目を細めたり、眉を寄せたり、ときどきシジミのほうを見たりする。

猫が出てくるからといって、こちらを見る必要はない。

本の中の猫とシジミは別の猫である。

本の猫が何をしようと、シジミには関係がない。

人間の出てくる本を読むたび、近くにいる人間の顔を確認したりはしないだろう。

それなのに、猫が出てくるとすぐ本物の猫を見る。

猫を見れば、書かれていることが理解できると思っているのだろうか。

自分で怖がる遊び

しばらくすると、うちの人間は本を閉じた。

表紙の黒猫が、こちらを見ている。

うちの人間は、その表紙とシジミを見比べた。

「怖い話だったなあ」

怖い話だったらしい。

シジミには文字が読めない。

だが、人間が本を読んでいるときの様子を見れば、楽しい話なのか、悲しい話なのか、怖い話なのかくらいは分かる。

怖い話を読む人間は、何も起きていないのに何度も部屋の中を見る。

窓の外を確認する。

背後を気にする。

少し音がしただけで顔を上げる。

うちの人間も、さきほどから何度か肩越しに部屋の後ろを見ている。

自分で怖い本を選び、自分で読み、自分で怖がっている。

嫌なら読まなければよい。

誰かに命令されたわけでもない。

うちの人間は、ときどき理解しにくい遊びをする。

高い金を払って、怖い映像を見る。

暗い建物へ入り、驚かされる。

怖かったと言いながら、満足そうな顔で帰ってくる。

そのくせ、家の中で小さな音がすると、一人で確かめに行くのを嫌がる。

危険を避けたいのか、近づきたいのか、どちらなのだろう。

シジミは本の上へ目を向けた。

『黒猫』という題名なら、猫が出てくる話であることは分かる。

問題は、その猫が何をしたかだ。

うちの人間は、隣にいたシジミの背中を撫でながら、独り言を始めた。

指先から、淡い甘い匂いがする。

「酔っぱらった男が黒猫にひどいことをして、そのあと妻まで殺して、死体を壁の中へ隠すんだけど……」

ひどい話である。

黒猫に何をしたのかは分からないが、猫にひどいことをする時点で、その人間が悪い。

妻まで殺したというなら、さらに悪い。

難しく考える必要はない。

悪い人間が悪いことをした話である。

うちの人間は続けた。

「そのとき、別の黒猫まで一緒に壁の中へ閉じ込めちゃうんだよ」

どうやら、猫は壁の中に入ったらしい。

自分から入ったのか。

人間が入れたのか。

死体を壁へ隠しているところを見ていて、気づかれないまま閉じ込められたのか。

いずれにしても、猫にとっては迷惑な話である。

人間は自分たちの争いへ、すぐ周りを巻き込む。

猫はただそこにいただけかもしれないのに、壁の中へ閉じ込められた。

しかも死体と一緒である。

落ち着いて眠れる場所ではなさそうだ。

もっとも、猫には人間ほど死体へのこだわりはない。

動かない。

追いかけてこない。

急に大きな声も出さない。

危険がないなら、ただの大きな物体である。

匂いは気になるかもしれないが、人間のように幽霊が出るのではないかと心配したりはしない。

生きている人間のほうが、よほど急に何をするか分からない。

壁の中は空ではない

うちの人間は腕を組み、難しい顔をした。

袖口から伸びた指で、自分の腕を何度か軽く叩いている。

「でも、壁の中に閉じ込められた猫が、どうして生きていられたんだろう」

どうしてと言われても、壁の中だからである。

壁の中は、何もない場所ではない。

人間には、薄い板や土の向こう側に空間があるということが分からないらしい。

見えなければ、何もないと思っている。

だが、壁の裏側にはいろいろなものがいる。

コオロギがいる。

小さな虫もいる。

運がよければ、ネズミもいる。

大きなネズミを捕まえるのは少し苦労するが、腹が減っているなら十分に試す価値はある。

食べ物が自分から歩いてくるのだから、探し回る必要もない。

壁の中には、細い隙間もある。

空気はそこから入ってくる。

完全に密閉されているわけではない。

もし本当に空気さえ通らないほどきっちり埋められていたのなら、人間が作った壁としては相当立派である。

うちの人間の家の壁など、向こう側をネズミが走っている音まで聞こえる。

夜になると、ときどき小さな足音がする。

うちの人間は、

「家がきしんでるのかな」

と言っている。

違う。

歩いている。

家は自分で歩かない。

この程度のことも分からない者が、壁の中には何もいないと思っている。

水についても、どうにかなる。

雨が降れば、どこかから湿気が入る。

古い建物なら、水が染み込む場所くらいあるだろう。

管が通っていれば、その周りが濡れることもある。

水滴がつけば、舐めればよい。

人間のように椀一杯の水がなければ飲めないわけではない。

少しずつでも、口に入ればよい。

人間は、自分たちと同じ食べ方や飲み方ができなければ、生きていけないと思っているのだろう。

猫には猫のやり方がある。

猫には猫のやり方がある

暗さも問題ではない。

猫は人間より暗い場所を見ることができる。

人間に何も見えないからといって、猫にも何も見えないわけではない。

壁の中なら、むしろ余計な光が入らず、目が慣れれば動くものを見つけやすいかもしれない。

狭い場所も悪くない。

猫は、体がほどよく囲まれている場所を好む。

箱。

棚の隙間。

長椅子の下。

布団と壁の間。

人間は広い部屋を好むが、猫にとって広すぎる場所は、どこから何が来るか分からない。

狭い場所なら、警戒する方向が少なくて済む。

壁の中は、入口がなくなったことを除けば、それほど悪い場所ではない。

静かである。

暗い。

狭い。

食べ物が歩いてくる。

水もどこかから手に入る。

人間が手を伸ばしてこない。

うちの人間は、猫を見つけるとすぐ撫でようとする。

眠っていても撫でる。

毛づくろいをしていても撫でる。

窓の外を見ていても撫でる。

料理をしている途中でさえ、シジミが近くを通れば手を洗って追いかけてくることがある。

そこまでする必要はない。

撫でられたいときならよい。

そうでないときには、ただ邪魔である。

壁の中なら、人間に勝手に触られる心配もない。

そう考えると、案外快適かもしれない。

ただし、出口がないのは困る。

食べ物がいるうちはよい。

だが、壁の中の虫やネズミをすべて食べてしまえば、新しい食べ物を探しに行けない。

水が染み出す場所が乾けば、それまでである。

それに、壁の向こうで人間が何をしているか確認できない。

猫にとって、縄張りを見回れないのは落ち着かない。

快適だからといって、長く住みたい場所ではない。

しばらく身を隠すなら悪くない。

住み続けるなら、出口を作る必要がある。

壁を開けろ

猫なら、壁を引っかく。

鳴く。

向こう側に人間がいれば、気づくだろう。

もっとも、あの本に出てくる人間は、猫を閉じ込めたことにすら気づかなかったらしい。

人間は大きなことをすると、細かなことが見えなくなる。

壁へ死体を隠すことばかり考え、近くに猫がいることを忘れた。

自分が見つからないかを心配し、壁の向こうから聞こえる音には気づかなかった。

人間は何か一つへ夢中になると、それ以外のものが存在しないかのように振る舞う。

シジミが食事を求めて鳴いても、うちの人間が絵の動く箱を見ていると、なかなか気づかない。

目の前まで行き、もう一度鳴き、前足で触って、ようやく、

「どうしたの?」

と聞く。

先ほどから伝えている。

気づかなかったのは人間のほうである。

本の中の黒猫も、壁の向こうから何度か知らせたのではないだろうか。

出せ。

ここにいる。

壁を開けろ。

そう鳴いていたはずだ。

だが、犯人は自分のしたことに満足し、聞こうとしなかった。

そして、ほかの人間が来たところで、猫は大きな声を出した。

ようやく壁を開けられる相手が来たからである。

人間はそれを、恐ろしい声や、不吉な声だと思ったらしい。

猫はただ、壁を開けろと言っただけかもしれない。

自分たちに意味が分からない声を、すぐ恐ろしいものにする。

実に人間らしい。

見えないものは存在しない

うちの人間は、まだ考え込んでいる。

髪の先を指へ巻きつけ、すぐにほどく。

「何日も壁の中にいたんだよな。ごはんも水もないのに」

ないと決めつけている。

見ていないのに。

自分が壁の中へ入ったこともないのに。

壁の中に虫が何匹いるのかも知らない。

水が染み出していたかどうかも知らない。

それでも、自分には思いつかないから、何もなかったことにする。

人間は、自分の知っている範囲を世界のすべてだと思いがちである。

自分に見えなければ、存在しない。

自分に聞こえなければ、話していない。

自分には食べられなければ、食べ物ではない。

自分なら生きられなければ、猫も生きられない。

猫と人間では、見えるものも、聞こえるものも、食べられるものも違う。

そんな当たり前のことを、すぐに忘れる。

シジミは立ち上がった。

長椅子の上を歩き、うちの人間の膝へ移る。

そして、閉じられた本の上に座った。

うちの人間が顔を上げる。

「シジミ、読めないよ」

もう読み終わったのではないのか。

それに、いま考えるべきことは本に書かれていない。

黒猫が壁の中で、どうして生きていられたのか。

答えは簡単である。

猫だったからだ。

人間には見つけられない食べ物を見つけた。

人間には見えない暗さの中で動いた。

人間には入れない隙間を通った。

人間とは違う方法で、生き延びた。

それだけの話である。

シジミは、うちの人間の目を見た。

そして、できるだけゆっくり猫語で説明した。

壁の裏には虫がいる。

ネズミもいる。

水もどこかから染み出してくる。

暗さも狭さも、猫には大きな問題ではない。

人間と同じ環境がなければ生きられないと思わないでほしい。

うちの人間は、しばらくシジミの顔を見つめた。

少しは伝わっただろうか。

やがて、うちの人間はシジミの頭を撫でた。

髪が肩から落ち、シジミの背中へ少し触れる。

「シジミも怖かったのか?」

違う。

まるで違う。

壁の中でも猫なら案外生きていけると説明したのである。

怖がっているどころか、人間が想像するほど不便ではないと教えた。

それなのに、うちの人間は長く鳴いたというだけで、怖かったのだと決めつけた。

自分が怖い話を読んだから、シジミも怖がっていると思っている。

猫の言葉を聞かず、自分の気持ちを猫へ当てはめている。

うちの人間は、もう一度シジミの頭を撫でた。

「大丈夫。シジミは壁の中に入れたりしないからね」

当たり前である。

入れられては困る。

だが、それとこれとは別の話だ。

シジミは本の上から降りた。

壁の中の足音

そのとき、壁の向こうから小さな音が聞こえた。

カリカリ。

何かが細い爪で木を引っかいている。

シジミは耳を壁へ向けた。

ネズミである。

うちの人間も音に気づき、壁を見た。

肩をすくめ、上着の前を少し合わせる。

「また家がきしんでる」

家はきしむ。

だが、いまの音は家ではない。

壁の中には、ちゃんと食べ物が歩いている。

先ほど説明したばかりなのに、何ひとつ理解していない。

シジミは壁の前へ座り、ネズミの足音を追った。

うちの人間は、怖い話を読んだせいか、少し不安そうに部屋の中を見回している。

長い髪が揺れるたび、自分で驚いたように肩を震わせている。

壁の中にいるものが黒猫なら怖がり、ネズミなら存在にすら気づかない。

自分が考えた物語だけを信じ、目の前の気配は見落とす。

シジミは尻尾をゆっくりと揺らし、猫語でつぶやいた。

「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」


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