
落ち着いた犬
シジミは道の向こうから歩いてくる犬に気づいた。
犬である。
犬といえば、落ち着きのない生き物だ。
シジミを見つければ、
「猫!」
「友達!」
「遊ぼう!」
「走ろう!」
だいたい、そのようなことを大声で言いながら近づいてくる。
以前出会った犬など、シジミの名前を覚えたうえで、ドッグランにいた犬たちへ勝手に紹介した。
その結果、会ったこともない犬から次々に、
「シジミ!」
「友達!」
と呼ばれることになった。
犬にとって友達になる条件は、ずいぶん少ない。
見た。名前を知った。遊びたい。
それだけで成立する。
だから、今回もシジミは少し高い塀へ移動した。
逃げたのではない。
犬が勢いよく近づいてきた場合に備え、面倒を避けただけである。
だが、その犬は走ってこなかった。
人間の横を、一定の速さで歩いている。
シジミの存在には気づいている。
鼻が少し動いた。
耳もこちらへ向いた。
しかし、進む方向は変えない。
尻尾も激しく振らない。
鳴きもしない。
ずいぶん落ち着いた犬である。
人間の代わりに道を見る
犬の体には、普段見かける首輪とは違うものがついていた。
背中から大きな持ち手が伸びている。
一緒に歩いている人間は、それを握っていた。
最初、シジミは人間が犬を散歩させているのだと思った。
だが、少し違う。
犬が人間の前へ出すぎない。
遅れもしない。
道の端に置かれたものを避ける。
細い場所では、通りやすい位置へ寄る。
段差の前では止まる。
犬が進む位置を選び、人間がそれに合わせて歩いている。
人間が犬を連れているのではない。
犬が人間へ、安全に歩ける場所を教えている。
犬の横にいる人間は、白い杖も持っていた。
目から得られる情報が少ないのだろう。
犬は、人間の代わりに道を見ている。
前から自転車が来る。
犬は少し端へ寄った。
人間もその動きに合わせる。
道の途中に箱が置かれている。
犬は箱の前まで行かず、早めに進む方向を変えた。
人間は何にもぶつからない。
犬は一度も騒がない。
周囲の匂いを嗅ぐために立ち止まることもない。
勤務中
道の向こうには、別の犬がいた。
その犬は飼い主の紐を引きながら、
「犬!」
「挨拶!」
「近づく!」
と騒いでいる。
だが、目の前の犬はそちらを一度見ただけだった。
「勤務中」
短く、静かな声だった。
騒いでいる犬が首を傾げる。
「遊ばない?」
「今は仕事中だ」
「少しだけ!」
「少しでも駄目だ」
「終わったら?」
「機会があれば」
言葉遣いまで落ち着いている。
犬にも、このような者がいるらしい。
シジミは少し感心した。
人間の安全を確認しながら歩く。
ほかの犬に誘われても、そちらへ行かない。
気になる匂いがあっても立ち止まらない。
何を優先すべきか理解している。
普段出会う犬たちとは、ずいぶん違う。
やあ、友人
犬はシジミのいる塀へ近づいてきた。
シジミはそのまま犬を見下ろした。
犬も顔を上げる。
目が合った。
その犬は、穏やかな声で言った。
「やあ、友人。一緒に歩くかい?」
友人。
初対面である。
シジミは少し黙った。
しゃべり方が落ち着いているだけだった。
思考は犬である。
まだ名前すら知らない。
匂いを確かめてもいない。
一度目が合っただけで、すでに友人になっている。
シジミは犬へ尋ねた。
仕事中ではないのか。
犬は人間を案内しながら答えた。
「もちろん仕事中だよ」
では、なぜ誘う。
「同じ方向へ歩くくらいなら、仕事の妨げにはならない」
シジミは塀の上を歩き始めた。
偶然、進む方向が同じだっただけである。
犬は少しうれしそうにした。
だが、尻尾を大きく振ったりはしない。
歩く速さも変えない。
「うれしいよ。勤務中に友人と会うことは、あまりないからね」
だから、友人ではない。
犬の間で広まっている
犬がシジミへ尋ねた。
「君はシジミというのかい?」
なぜ名前を知っている。
「以前、別の犬から聞いた」
犬の間で広まっているらしい。
おそらく、ドッグランで会った犬たちの誰かである。
あの一件以来、シジミの知らないところで名前だけが広がっているようだった。
「黒い猫で、赤い首輪をしていて、高いところが得意だと聞いた」
情報は正しい。
「犬たちと競走して、見事に壁へ駆け上がったとも聞いた」
それは違う。
競走ではない。
犬に追われたため、壁へ移動しただけである。
「友人たちは、君とまた走りたいと言っていたよ」
犬たちの中では、すでに共通の思い出になっているらしい。
シジミが何を考えていたかは、誰も気にしていない。
目の前の犬は落ち着いた声で続けた。
「私も仕事が終わったあとなら、一度走ってみたいものだ」
やはり走りたいのか。
「犬だからね」
自覚はあるらしい。
仕事中の犬
犬は歩きながら、少し先の曲がり角を見た。
人間へ位置を知らせるように動きを止める。
人間が足元を確かめ、短い言葉をかける。
犬は再び進んだ。
仕事中の犬は、実によく働く。
見えているものだけなら、普段の犬とは別の生き物のようである。
だが、頭の中では、
猫と歩きたい。仕事が終わったら走りたい。ほかの犬から聞いた友達に会えてうれしい。
そのようなことを考えている。
欲があっても必要なことを選ぶ
遊びたい気持ちがないわけではない。
抑えているだけである。
興味がないのではない。
今は仕事を優先している。
シジミは、そこに少し感心した。
欲がない者より、欲があっても必要なことを選べる者のほうが信用できる。
猫を見ても何も思わない犬なら、近づいてこないのは当然である。
猫と走りたいと思いながら、人間の安全を優先する。
そのほうが難しい。
邪魔ではない
少し先で、うちの人間が歩いてきた。
買い物から戻る途中らしい。
肩には細い鞄をかけ、栗色の髪を耳へ寄せている。
塀の上のシジミへ気づき、次に盲導犬と人間を見た。
うちの人間は道の端へ寄った。
犬の進む場所を空ける。
そこまでは正しい。
犬は、うちの人間の前を静かに通り過ぎようとした。
うちの人間は小さな声で言った。
「お仕事中なんだ。偉いねえ」
犬の耳が、うちの人間の声へ少しだけ動いた。
だが、顔は前を向いたままである。
犬が小さく答えた。
「ありがとう」
人間には聞こえない。
うちの人間は、シジミの隣まで来ると、さらに小声で言った。
「シジミ、邪魔しちゃ駄目だよ」
邪魔はしていない。
同じ方向へ歩いていただけである。
むしろ、誘ったのは犬のほうだ。
犬が落ち着いた声で言う。
「邪魔ではないよ。友人との同行は歓迎している」
だから友人ではない。
うちの人間は犬の様子を眺めた。
「猫が近くにいても全然気にしないんだね」
気にしている。
シジミの名前まで知っている。
一緒に歩こうと誘った。
仕事が終わったら走りたいとも言った。
かなり気にしている。
それを表へ出さないだけである。
普通の犬ではない
うちの人間が感心したように言った。
「さすが盲導犬。普通の犬とは違うなあ」
違う部分はある。
訓練を受けている。
自分の役割を理解している。
人間を安全に案内することを優先している。
だが、普通の犬ではないわけではない。
猫を見れば興味を持つ。
犬を見れば挨拶したい。
匂いを嗅ぎたい場所もある。
走りたい。遊びたい。友達を増やしたい。
それらを抱えたまま、今は仕事をしている。
うちの人間には、その内側が見えていない。
静かに歩いている。
猫へ近づかない。
だから、猫に興味がない。
そう考える。
人間は、行動だけを見て、その者の気持ちまで簡単に決める。
騒がない犬は、遊びたくない。
働く犬は、いつでも真面目。
猫へ近づかない犬は、猫に興味がない。
実際には、犬は落ち着いた声でシジミへ話し続けている。
「この先に広い公園がある」
知っている。
「仕事が終わったら、時々そこで遊ぶんだ」
そうか。
「地面の匂いが実に豊かでね」
犬らしい感想である。
「特に大きな木の近くには、多くの犬が立ち寄った記録がある」
それは確認しなくてよい。
「君も来るといい」
行かない。
「気が変わったら、いつでも歓迎するよ」
断られても気にしない。
そこも犬である。
危険があれば待つ
犬と人間は、横断歩道の前へ着いた。
犬が止まる。
隣の人間も止まる。
周囲の音を確かめる。
人間から合図が出る。
犬はすぐには進まなかった。
一台の自転車が、横から速い速度で通り過ぎた。
それが去ってから、犬は歩き始めた。
人間も一緒に渡る。
犬は、ただ言われたとおりに進んでいるわけではないらしい。
危険があれば待つ。
人間の指示より、今見えている安全を優先する。
先ほどまで公園の匂いについて話していた犬と同じ犬である。
頭の中に遊びがあっても、仕事は正確だった。
また会おう、友人
シジミは塀の端で止まり、犬を見送った。
犬は横断歩道を渡り終えると、一度だけこちらを振り返った。
仕事の邪魔にならない程度の、小さな動きだった。
「また会おう、友人」
初対面である。
だが、訂正しても意味はないだろう。
次に会えば、
二度会った。名前を知っている。一緒に歩いた。
もう完全に友達だと言われるに違いない。
仕事と遊びたい気持ち
うちの人間も犬を見送りながら言った。
「すごいね。ずっと仕事に集中してた」
集中していた。
同時に、シジミを公園へ誘っていた。
仕事と遊びたい気持ちは、同時に存在できるらしい。
人間は、真面目な者は真面目なことしか考えないと思う。
落ち着いている者は、欲が少ないと思う。
騒がない者は、何も感じていないと思う。
自分たちは仕事中にも、昼食のことを考える。
帰ったあとのことを考える。
休みの日の予定を考える。
それでも、犬が仕事をしていれば、仕事だけを考えていると思う。
ずいぶん都合のよい見方である。
あの犬は立派だった。
人間を安全に導いた。
ほかの犬へ近づかなかった。
シジミを追いかけなかった。
だが、立派であることと、犬らしくないことは同じではない。
落ち着いているだけである。
思考は、どこまでも犬だった。
最初から落ち着いている
うちの人間は、シジミを見上げた。
「シジミも、あの子を見習って落ち着いて歩こうね」
シジミは最初から落ち着いている。
むしろ、すぐに犬へ勝手な人物像をつけた人間のほうが、少し落ち着いて考えるべきである。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
本ページに掲載している本文、画像の著作権は作者に帰属します。
作者本人または作者が許諾した媒体を除き、無断転載・無断複製・無断配布・改変利用を禁じます。
感想・紹介・レビュー等で一部を引用する場合は、引用元ページ名またはURLを明記し、引用部分が分かる形で、必要な範囲に限ってご利用ください。
本作品は、作者本人により自サイト・カクヨム・小説家になろう等に掲載される場合があります。
本当に人間ってあさはかな生き物だよね TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
”カクヨム”、”小説家になろう”ではフォロー、応援、レビュー、コメントなどができます。
気に入っていただけた方は、”カクヨム”、”小説家になろう”でも応援していただけると嬉しいです。
カクヨム版はこちら:
https://kakuyomu.jp/works/2912051604999063509
小説家になろう版はこちら:
https://ncode.syosetu.com/n5059mn/

コメント