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水の精霊王
深森拠点から押収された資料によって、次の拠点が明らかになった。
火山地帯。
黒い山。
乾いた谷。
熱風の吹く斜面。
古い溶岩跡。
魔王軍はそこに、火山拠点を築いている。
それは単なる砦ではなかった。
乾いた沢を通らせる。
黒い岩壁の上から矢を射る。
火山灰の斜面で足を取らせる。
狭い尾根道で隊列を崩す。
熱風で体力を削る。
地形そのものを防衛線にした拠点だった。
各国軍の指揮官たちは、天幕の中で地図を囲んでいた。
ロアンたちも呼ばれている。
神官が古い勇者文献を開いた。
「火山拠点に関する記述があります」
ロアンは少しだけ身構えた。
この流れには覚えがある。
人魚の導き。
導きの石。
文献の言葉は、嘘ではなかった。
だが、そのまま信じれば間違える。
神官は読み上げた。
「水の精霊王が現れ、炎の砦を沈めた」
天幕の中がざわついた。
水の精霊王。
大精霊。
奇跡。
神官たちは顔を見合わせる。
魔術師の一人が腕を組んだ。
「火山地帯でそれほどの水を呼ぶには、相当な触媒が必要です」
別の神官が言う。
「中央神殿に問い合わせるべきでは」
「水精霊術の大規模儀式なら、準備に何日かかる」
「そもそも、ここに水精霊が応じるのか」
ガルドが真面目に聞いた。
「水の精霊王は、頼めば来るのか」
天幕が一瞬静かになった。
ミルカは渋い顔をする。
「来るなら早いけど、たぶんそういう話じゃないと思う」
ガルドは首をかしげる。
「頼めないのか」
「私は会ったことがない」
「会ったことがないなら、頼めるかどうかも分からないな」
「そういう問題でもない」
エナが小さく言う。
「来てくれるなら、ありがたいですけど」
ロアンは文献を見た。
水の精霊王。
炎の砦。
沈めた。
言葉だけなら、今度こそ本当に神話だった。
だが、人魚はいなかった。
導きの石も、道を知る神器ではなかった。
必要だったのは、海女の技術。
歌。
黒い鉱石。
職人。
台座。
戻る道。
なら、今回も同じかもしれない。
ロアンは顔を上げた。
「まず、火山の近くで話を聞こう」
神官が聞き返す。
「精霊王ではなく、村人にですか」
「はい」
ロアンは地図を見る。
「火山のことは、火山の近くで暮らしている人に聞くのが一番早いと思います」
ミルカが頷く。
「伝承より、現地の人の話」
ガルドが言う。
「火山の人か」
エナは少し不安そうに聞いた。
「火山にも、人がいるんでしょうか」
指揮官が答える。
「麓にはいる。昔から火山灰と土石流を避けて暮らしてきた村がある」
ロアンは頷いた。
「なら、そこへ行きましょう」
神官はまだ文献を見ていた。
「水の精霊王を探すのではなく?」
ミルカが言う。
「探して見つかるなら探します。でも、まずは水があったのかを確かめたい」
ガルドが真面目に付け加える。
「水の精霊王がいなくても、水はあるかもしれない」
ロアンは少し笑った。
「そういうこと」
エナも穏やかに言った。
「文献も役に立っています。聞きに行く場所を教えてくれますから」
神官は少し驚いたようにエナを見た。
それから、静かに頷いた。
「分かりました。火山麓の村へ」
こうして、灰の一団は火山へ向かうことになった。
水の精霊王を呼ぶためではない。
水の正体を聞くために。
火山麓の村
火山麓の村は、黒かった。
畑の土は黒く、石垣も黒い。
屋根にも、薄く灰が積もっている。
家々は高い石垣の上に建っていた。
道の脇には、古い泥流の跡が固まっている。
村人たちは、山をよく見ていた。
火山の音。
風向き。
沢の濁り方。
煙の色。
それらが暮らしに直結しているらしい。
ガルドは山を見上げた。
「落ちてきそうだな」
ミルカが言う。
「火山灰?」
「山ごと」
「それはもう災害」
ロアンが聞く。
「ここで暮らすの、大変そうだな」
村人の一人が笑った。
「慣れだよ。山が怒る前には、それなりに知らせがある」
エナが少し驚く。
「山が知らせるんですか」
「音が変わる。風が変わる。沢が濁る。鳥がいなくなる」
ガルドがうなずく。
「森と似ているな」
ミルカが小さく答える。
「土地によって、警告の出方が違うだけかもね」
村の老人たちに、水の精霊王について聞いた。
反応は薄かった。
「精霊王? 神官様が好きそうな話だな」
「昔話には出るが、見た者はいない」
「この山に来るのは、火と煙と灰だ。水の王様なんて聞かないね」
ロアンは少し困った。
「水の精霊王は、ここでは信じられていないんですか」
老人の一人が肩をすくめる。
「話としては知ってる。けど、ここで水の王様が歩いてたら、まず畑を見てほしいね」
ミルカが言う。
「実用的ですね」
「水は貴重だからな」
別の老人が、ふと思い出したように言った。
「そう歌う者もいる。だが、私の祖父は、堤が切れたと言っていた」
ロアンが反応した。
「堤?」
「そうだ。堤なんてここらへんにねぇのに、変な話だろう」
ミルカの目が細くなる。
「堤というのは、水を止めるものですか」
老人は頷く。
「山の上にあったんだとさ。水を止める大きな堤。今はもう、誰も見に行かん」
エナが山を見る。
「でも、あの山に水があるんですか」
村人たちは少し黙った。
それから、老人は言った。
「昔はあったんだろう。雨季の水だか、雪解けだか、そういうものを溜めていたと聞いた」
ガルドが言う。
「水の精霊王ではなく、堤の水か」
ロアンは老人を見る。
「その堤の場所、分かりますか」
老人は首を傾げる。
「古い水番の家なら、知っているかもしれん」
「水番?」
「昔、山の水を見ていた家だ。今は役目を失っているが、古い板帳を残している」
ミルカが顔を上げた。
「見せてもらえますか」
老人は頷こうとして、ふと表情を変えた。
「そういや、前にも似たようなことを聞かれたな」
ロアンが聞く。
「前にも?」
「ああ。旅の学者だとか言っていた。妙に山の古い話ばかり聞きたがった」
ミルカの声が少し低くなる。
「いつ頃ですか」
「少し前だ。水の精霊王の話を聞きたいと言っていたが、私が堤の話をしたら、そっちばかり聞いてきた」
ガルドが低く言った。
「先客がいるのか」
ロアンは老人を見る。
「その人は、堤を見に行きましたか」
老人は首を振る。
「さあな。だが、村を出たあと、山の方へ向かったとは聞いた」
エナが不安そうに言う。
「なら、堤も壊されているかもしれません」
ミルカは山を見た。
「魔王軍も、この伝承を調べていたのかもしれない」
ロアンは頷いた。
確証はない。
旅の学者が本当に学者だった可能性もある。
だが、ここまで勇者伝承に関わる場所が荒らされていた。
導きの石の祠もそうだった。
なら、同じことがあってもおかしくない。
ロアンは老人に頭を下げた。
「水番の家へ案内してください」
「急ぐのか」
「急ぎます。でも、焦って登るのは危ない。案内を頼みます」
老人は少し笑った。
「火山では、焦る者から灰を吸う」
ガルドが真面目に言う。
「吸いたくないな」
ミルカが答えた。
「全員同意」
水番の記録
水番の家は、村の端にあった。
石垣の上に建てられた古い家で、壁には黒い灰が染み込んでいる。
家の奥に、板帳と石板が残っていた。
今の当主は、もう水番ではない。
だが、水番の末裔として、古い記録を守っていた。
「読めるものは少ない」
水番の末裔は、そう言って板帳を開いた。
板は古び、文字はところどころ薄れている。
それでも、いくつかの記録は読めた。
雨季に水を溜める。
火山灰が流れすぎないように調整する。
水門を開ける時刻を決める。
赤い沢には近づかない。
黒い谷へ水を流す時は、下流を空ける。
堤を切る時は、三度鐘を鳴らす。
堤の下には避難してはいけない。
ロアンは板帳を見た。
「水の精霊王じゃなくて、堤の水?」
ミルカは記録を読んでいる。
「文献を書いた人が見たのは、山から落ちてくる大量の水だったのかもしれない」
ガルドが首をかしげる。
「水なら、水だろう」
ミルカは首を振る。
「火山灰と混じると、水だけじゃない。泥、石、熱、蒸気も一緒に来る」
エナが小さく言った。
「それ、人が近くにいたら助からないですね」
ロアンは頷いた。
「だから、先に退かせる必要がある」
水番の末裔が古い石板を出した。
そこには、簡単な線が刻まれている。
村。
沢。
黒い谷。
山腹のくぼ地。
堤。
水路。
ロアンは地図と見比べた。
「この黒い谷、火山拠点の外郭の下を通ってる」
ミルカが頷く。
「だから、文献では砦が沈んだ」
「火山の上に、水を溜める場所がある?」
「あるなら、見に行く必要がある」
ガルドが聞く。
「堤はまだ使えるのか」
水番の末裔は首を振る。
「分からない。もう何十年もまともに見ていない。水路も埋まっているはずだ」
エナが言う。
「誰も見に行かないんですか」
「昔は水番が行った。今は山の上まで行く者がいない。危ないし、役目も失われた」
ミルカは板帳をさらに読む。
「堤を切る時は、三度鐘を鳴らす……」
ロアンが聞く。
「切るための堤なんですか」
「普段は水を止める。でも、危ない時は流す」
水番の末裔は答えた。
「水を溜めすぎると、勝手に崩れる。だから、切る場所と時を決めて、流す」
ガルドが腕を組む。
「壊す場所を決めて壊すのか」
ロアンは頷いた。
「戻る場所を決めて進むのと似てるな」
ミルカが少し笑った。
「何でも戻るに寄せる」
「でも似てるだろ」
「似てる」
エナは山の方を見た。
「見に行きましょう」
ロアンは頷く。
「行こう。堤が残っているか確かめる」
水番の末裔は、しばらく黙った。
それから、古い鍵を手に取った。
「案内する。私の家の役目だったものだからな」
古い堤
山腹へ向かう道は険しかった。
熱い風が吹く。
岩の裂け目から蒸気が漏れている。
足元の石は黒く、ところどころ赤茶けている。
古い水路は、山肌に沿って残っていた。
ただし、ほとんどが埋まっている。
火山灰。
崩れた岩。
枯れ枝。
泥。
かつて水が通った跡だけが、地形としてわずかに分かる。
工兵の一人が言った。
「これを使うのか」
ミルカは水路を見下ろす。
「そのままでは無理」
ガルドが聞く。
「斬って通せるか」
「水路は斬るものじゃない」
「岩なら斬れるかもしれない」
「斬らないで。崩れる」
ガルドは少し残念そうに手を離した。
「崩れるならやめる」
「賢い」
「最近、賢いと言われる」
ロアンが言う。
「多分、止まる判断が増えたからだ」
「止まると賢いのか」
ミルカが答える。
「少なくとも、危険な時に止まれる人は賢い」
「なら俺は賢い」
「今だけ」
「今だけか」
ロアンは笑った。
やがて、一行は山腹のくぼ地へ着いた。
そこに、堤はあった。
完全な形ではない。
石積みは崩れている。
木の水門は腐り、支えも歪んでいる。
流路には火山灰と岩が詰まっている。
だが、堤は完全には死んでいなかった。
奥のくぼ地に、濁った水が溜まっている。
風が吹くと、水面が鈍く揺れた。
ミルカが低く言う。
「残ってる」
ロアンも水を見た。
「使える?」
ミルカはすぐには答えなかった。
水路。
堤。
流れの跡。
火山拠点の位置。
村の方向。
黒い谷。
全部を見比べている。
「そのまま壊したら、どこへ流れるか分からない。まず、流れる道を戻さないと危ない」
水番の末裔が頷いた。
「昔の水路は黒い谷へ落ちる。だが今は半分埋まっている」
ロアンは地図を広げた。
「黒い谷は、火山拠点の外郭の下を通ってる」
ミルカが言う。
「流れを黒い谷へ戻せれば、防衛線を崩せる」
ガルドが水を見た。
「水の精霊王ではないな」
エナが静かに答える。
「でも、下から見たら、そう見えるかもしれません」
ロアンは堤を見た。
古い。
壊れている。
忘れられている。
でも、水は残っていた。
昔の人間が山に残した水が、まだそこにあった。
壊すために直す
軍の指揮官は、堤を見るなり言った。
「水があるなら、すぐに落とせばよい」
水番の末裔が強く首を振った。
「それでは村へ流れる」
指揮官が眉を寄せる。
「村へ?」
「水路が埋まっている。堤だけ切れば、水は弱い方へ流れる。黒い谷へ行くとは限らない」
ミルカも頷いた。
「壊すだけでは駄目です。流す先を作らないと、味方も村も巻き込みます」
ロアンは堤を見た。
「修復してから壊すのか」
石工が腕を組んで言った。
「壊すために直す。妙な話だが、そういうことになる」
ガルドが真面目に聞く。
「直したものを壊すのか」
ミルカが答える。
「一度だけ、正しい方向へ壊すために直す」
「難しいな」
「水は難しい」
水番の末裔は、古い水路を杖で示した。
「まず、黒い谷へ向かう水路を掘り直す。村側へ流れる割れ目を塞ぐ。水門跡を補強する。最後に、決壊させる場所を決める」
工兵が言う。
「完全に直す必要はないな」
石工が頷く。
「一度だけ持てばいい」
ミルカは補足する。
「ただし、途中で勝手に崩れるのは駄目。こっちが切るまで持たせる」
ロアンは作業の順序を考える。
「先に避難路。次に水路。最後に堤。逆にすると逃げ場がなくなる」
指揮官がロアンを見る。
「先に堤を固めるのではないのか」
「固めている途中で崩れたら逃げ場がありません。下流の退避も終わっていない」
エナが小さく言う。
「人がいるところへ流れたら、助かりません」
ミルカは水面を見た。
「水は味方じゃない。道を作らないと、全部敵になる」
少し間を置いて、ミルカは苦笑した。
「確かに精霊王並みに扱いが難しいわね。精霊王、見たことないけど」
ガルドが真面目に言う。
「見たことがないのに分かるのか」
ミルカは肩をすくめた。
「これだけ面倒なら、たぶん近いでしょ」
ロアンは堤を見る。
「壊す場所を決めるために、直すんだな」
水番の末裔は頷いた。
「そうだ。水を怒らせるなら、怒る道を先に作る」
ガルドが少し感心したように言った。
「水にも道がいる」
ロアンは頷く。
「道がないと、全部壊す」
ミルカが言う。
「だから、まず道」
灰の一団は顔を見合わせた。
また道だった。
海でも、森でも、火山でも。
結局、進むためには道がいる。
戻るためにも、壊すためにも。
修復作業
修復作業が始まった。
灰の一団だけでは何もできない。
石工が崩れた石を積み直す。
工兵が埋まった水路を掘る。
村人が古い水路の位置を教える。
魔術師が熱い蒸気を逃がす。
水番の末裔が、流すべき谷と閉じるべき隙間を指示する。
ロアンは全体の順序を整理した。
「先に避難路。次に水路。最後に堤。作業が進んだところから、退避の合図も決めます」
工兵が頷く。
「鐘は?」
水番の末裔が答える。
「古い記録では三度。下流を空けた合図も三度」
ミルカが言う。
「同じ三度だと紛らわしい。作業側と下流側で音を変えましょう」
ロアンが頷く。
「作業側は鐘。下流側は角笛。三度ずつ」
ガルドが言う。
「俺は?」
「岩道の警戒をお願いします」
「分かった」
エナは作業場を見回していた。
「そこ、今は近づかない方がいいです」
作業員が足を止める。
「ここか?」
その直後、熱で緩んでいた岩が崩れた。
ごろごろと音を立てて、黒い石が足元を転がっていく。
作業員は青ざめた。
「助かった」
エナは少し困った顔をした。
「たまたまです」
ガルドが言う。
「なんとなくは強い」
ミルカが頷く。
「今回も採用」
ロアンは作業員に言う。
「エナが止めたら止まってください。理由は後で考えます」
「理由は後でいいのか」
「足を潰してから考えるよりは」
作業員は真剣に頷いた。
「分かった」
ミルカは水圧と流れを見ていた。
「ここを全部塞ぐと、向こうへ圧がかかる。全部塞がないで、逃がす穴を残す」
石工が聞く。
「逃がす?」
「今は少し漏らしていい。完全に止めると、別のところが割れる」
水番の末裔が頷く。
「昔の記録にもある。堤は、全部塞ぐな。怒った水は弱いところを探す」
ガルドが岩道の方で声を上げた。
「来たぞ」
火山に棲む小型の魔物が、作業音に寄ってきた。
赤黒い皮膚。
熱を帯びた爪。
岩の裂け目から這い上がってくる。
ガルドは狭い岩道に立った。
「作業を止めるな。こっちは俺が止める」
ロアンがすぐに前へ出ようとする。
ミルカが止めた。
「ロアンは作業順」
「でも」
「ガルドが止めると言った。任せる」
ガルドは振り返らずに言う。
「任せろ」
ロアンは少しだけ迷い、それから頷いた。
「分かった。作業を続けます!」
ガルドの剣が、狭い岩道で短く戻る。
田舎道場の剣は、森だけでなく、火山の岩道でも役に立った。
大きく振らず、戻せる幅で斬る。
火花のような血が飛び、魔物が岩の下へ落ちた。
作業は止まらなかった。
精霊王を待つ者
作業が進む一方で、軍の中にはまだ水の精霊王を待つ者がいた。
神官の一人が、堤を見上げて言った。
「本当に精霊王を呼ばずに済むのでしょうか」
別の兵が答える。
「文献には、現れたとある」
「祈祷の準備をした方が」
「大規模な水精霊術なら、魔術師を集めるべきでは」
ロアンはその声を聞いていた。
責める気にはならない。
火山拠点の防衛線は強い。
水の精霊王という言葉にすがりたくなる気持ちも分かる。
でも、待っていても水は来ない。
ロアンは言った。
「来ないものを待っている間に、できることをやります」
神官がロアンを見る。
「来ないと決めつけるのですか」
「来たら助かります。でも、来なかった時に何もできていないのが一番困ります」
エナが少しだけ神官を見る。
「精霊を信じることと、堤を直すことは、矛盾しないと思います」
神官は言葉に詰まった。
ミルカは水路を指した。
「水が流れれば、見た人は精霊王だと思うかもしれない。でも、流す準備をする人がいなければ、水は来ないし、来ても暴れる」
ガルドが戻ってきて言った。
「つまり、精霊王は来ないが、水は来る」
ロアンは頷く。
「水を来させる」
その言葉に、周囲の空気が少し変わった。
水を待つのではない。
水を呼ぶのでもない。
水を来させる。
そのために、石を積み、水路を掘り、避難路を作り、合図を決める。
ミルカは堤を見上げた。
「ほぼ精霊王ね」
ガルドが聞く。
「精霊王なのか」
「違う。でも扱いは近い」
「つまり、怒らせると危ない」
「かなり」
「なら丁寧にやる」
「そうして」
神官は、しばらく堤を見ていた。
それから、小さく言った。
「祈祷は続けます」
ロアンは頷く。
「お願いします」
「堤の作業も、手伝わせます」
ミルカが言う。
「それは助かります」
エナは少しだけ微笑んだ。
祈る人がいてもいい。
石を積む人がいてもいい。
水路を掘る人がいてもいい。
役目が違うだけだ。
全部が揃って、ようやく水は来る。
決壊の条件
堤を切るには、条件があった。
早すぎれば、魔王軍が立て直す。
遅すぎれば、味方が火山拠点の正面で削られる。
水量が少なければ、防衛線は崩れない。
水量が多すぎれば、下流の村や味方も危ない。
さらに、火山の熱で水が一気に蒸気になる可能性がある。
ミルカは火山拠点側の地形を見ながら言った。
「熱い岩の上に流れると、蒸気で視界が消える。味方は近づかせない方がいい」
ロアンは指揮官に確認する。
「水が流れた後に、突入するのはどの部隊ですか」
指揮官は地図を指した。
「重装兵は遅い。軽装兵と工兵、魔術師で先に入る」
ガルドが言う。
「足場は悪い。大盾は捨てた方がいい」
兵士の一人が反論しかける。
「盾を捨てるのか」
ガルドは淡々と言った。
「泥に取られる。持つなら小さい盾だ。大きい盾は戻せない」
ミルカが小さく呟く。
「戻せる幅、火山版」
ロアンは頷く。
「分かりやすい」
エナは山を見ていた。
「決壊の直後じゃなくて、少し待った方がいい気がします」
指揮官が聞く。
「どれくらい待つ」
エナは困った顔をした。
「そこまでは、はっきりとは」
ミルカが補う。
「水の第一波は危険すぎる。二波目の後、蒸気が切れる瞬間を狙う」
ロアンは作戦を整理する。
「堤を切る。第一波は待つ。二波目の後、蒸気が薄くなったところで突入。戻る道は黒い谷じゃなく、尾根側」
指揮官が地図に線を引く。
「尾根側は狭い」
「だから、戻る部隊と進む部隊を分けます。負傷者は尾根側へ。突入部隊は黒い谷へ」
ミルカが言う。
「蒸気が濃い間は、合図が見えない。音で決めましょう」
水番の末裔が頷く。
「鐘と角笛だな」
ロアンは全員を見る。
「切った後は、止められません。だから、切る前に全部確認します」
ガルドが言う。
「切る前に戻る道」
「そう」
「切った後は進む道」
「そう」
ガルドは少し満足そうに頷いた。
「分かってきた」
ミルカが言った。
「水は待ってくれないからね」
エナが小さく言う。
「だから、人が待つんですね」
ロアンは頷いた。
「うん。水を待たせるんじゃなくて、俺たちが待つ」
堤の水は、静かに揺れていた。
まだ何も知らないように。
けれど、一度動けば止まらない。
乾いた谷
火山拠点側では、魔王軍が防衛線を固めていた。
乾いた谷には柵が並ぶ。
上には弓兵。
黒い岩壁には、落石を起こすための仕掛け。
火山灰の斜面には、足を取る細かな砂が積もっている。
熱風が谷を抜ける。
長時間ここにいれば、水も体力も奪われる。
魔王軍は、水の精霊王の伝承を知っていた。
だが、本当に精霊王が現れるとは考えていなかった。
警戒していたのは、大規模な水精霊術や、神官たちの儀式だった。
火山拠点の防衛は、乾いた谷を前提に作られていた。
水は少ない。
敵は冷却も消火もできない。
谷を進ませ、上から撃つ。
岩を落とす。
熱で削る。
それが防衛線だった。
山上の古い堤が、まだ使えるとは思っていない。
堤は古く、壊れ、忘れられている。
だからこそ、盲点になった。
ロアンは遠くからその防衛線を見ていた。
「乾いた谷を前提にしている」
ミルカが頷く。
「そこへ水を入れる」
ガルドが言う。
「乾いたところに水を入れたら、滑るな」
「滑るどころじゃないと思う」
エナは谷を見て、少し顔を曇らせた。
「味方も近づきすぎない方がいいです」
ロアンは頷く。
「第一波は待つ。絶対に」
指揮官が兵士たちへ命じる。
「合図までは前に出るな。水を追うな。蒸気に入るな」
兵士たちは緊張した顔で頷いた。
水の精霊王は来ない。
それでも、何か大きなものが来る。
その予感だけは、全員にあった。
堤を切る
作戦当日。
空は灰色だった。
山から熱い風が吹く。
火山拠点の外郭では、各国軍が正面に圧をかけている。
魔王軍は乾いた谷に兵を配置した。
そこで迎え撃つつもりでいる。
山腹では、ロアンたちが堤の最後の固定を外す準備をしていた。
水番の末裔が、古い印を見る。
その手が震えている。
「本当に切るのか」
ロアンは静かに聞いた。
「切った後、止められますか」
水番の末裔は首を横に振った。
「止められない」
「なら、全員が下がってからです」
エナは山の下を見ていた。
「まだです」
誰も急かさなかった。
ミルカは水路を確認する。
「黒い谷へ向いている。でも、最初の流れは少し暴れる」
ガルドは岩道の下を見る。
「魔物が寄ってきたら止める」
ロアンは頷く。
「お願いします」
遠くで、角笛が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
下流の避難完了を知らせる合図。
エナが息を吐く。
「今なら」
ミルカも頷く。
「水路は黒い谷へ向いてる」
ロアンは水番の末裔を見る。
「切ってください」
水番の末裔は、古い栓に手をかけた。
石工が支えを落とす。
工兵が最後の土嚢を切る。
最初は細い流れだった。
水が、割れ目から滑るように出る。
次に、堤の一部が崩れた。
低い音が、山の腹に響く。
水が動いた。
濁った水が、黒い谷へ走り始める。
水番の末裔は、呆然とそれを見ていた。
「まだ、流れるのか」
ロアンは答えた。
「残っていました」
ミルカが言う。
「下がって。ここも危ない」
全員が後退する。
水は細い流れから太い流れへ変わり、火山灰を巻き込み、石を抱え、黒い谷へ落ちていった。
水は王のように
水はただの水ではなかった。
火山灰を巻き込み、砂礫を抱え、黒い谷を下る。
熱い岩に触れ、蒸気を上げる。
白い霧が立ち上がる。
轟音が火山の腹に響いた。
下から見れば、それは巨大な白い獣のようにも、腕を広げた水の王のようにも見えた。
火山拠点の外郭にいた兵の一人が叫ぶ。
「水の精霊王だ!」
別の兵も声を上げる。
「文献の通りだ!」
ミルカは山腹からそれを見て、小さく言った。
「違う」
ロアンも言う。
「堤の水だ」
だが、そう見える理由は分かった。
黒い谷を満たした水と泥は、魔王軍の防衛線を崩していく。
乾いた沢に築かれていた柵が流される。
火山灰の斜面が崩れる。
落石用の足場が沈む。
熱風の通り道に蒸気が満ちる。
魔王軍の外郭防衛線が乱れた。
ガルドが低く言う。
「水は強いな」
ミルカが答える。
「だから怖い」
エナは谷を見下ろしている。
「まだ、近づかない方がいいです」
ロアンは頷く。
「第一波は待つ」
下では、兵士たちが今にも前へ出そうになっていた。
指揮官が怒鳴る。
「待て! まだだ!」
水と石と泥が暴れている。
そこへ入れば、敵味方なく飲まれる。
水は味方ではない。
道を作って、時を選んで、ようやく使える。
ロアンは谷を見つめた。
水の精霊王は来なかった。
けれど、文献を書いた者がそれを王と呼びたくなる気持ちは、少し分かった。
突入
第一波は待った。
水と石が暴れ、谷を削る。
火山灰が流れ、黒い泥が柵を押し倒す。
魔王軍の防衛線は崩れ始めていたが、近づける状態ではなかった。
第二波で、泥と蒸気が広がる。
視界が白くなった。
兵士たちが焦る。
「今か?」
「見えないぞ」
「敵も混乱している」
ロアンは手を上げて止める。
「まだです」
ミルカが風を見る。
「まだ」
ガルドは剣を握っている。
動きたそうだが、動かない。
エナは目を閉じた。
胸の奥の冷えを感じ取っている。
「もう少し」
ロアンはその声を待った。
今まで何度もそうしてきた。
橋。
森。
海。
船。
エナが止める時は、止まる。
少し待つ。
ただそれだけで、変えられることがある。
やがて、蒸気が一瞬だけ薄くなった。
風が切れた。
谷の向こうに、崩れた柵と岩場の隙間が見える。
エナが目を開く。
「今です」
ミルカが続ける。
「風が切れた。行ける」
ロアンは号令を出した。
「進め!」
多国籍軍の軽装兵と工兵が突入する。
重装兵は後ろで支える。
魔術師が視界を確保し、神官が負傷者の退避路を守る。
灰の一団は先頭に近い位置で道を開いた。
ガルドは泥に足を取られた兵を庇いながら、岩場に残った魔物を斬る。
「大盾を捨てろ! 戻れなくなる!」
兵士が盾を手放す。
その直後、泥が盾を飲み込んだ。
兵士の顔が青ざめる。
「助かった!」
ミルカは足場が崩れそうな場所を小さな魔法で固める。
「ここ、踏んで。右は崩れる」
エナは負傷者を尾根側へ誘導する。
「黒い谷へ戻らないでください。尾根側です。こちらへ」
ロアンは撤退路を確認しながら前へ進む。
「進む部隊は谷沿い。負傷者は尾根側。合図が鳴ったら全員引く準備!」
火山拠点の外郭は崩れていった。
水が道を開いた。
人が、その道を使った。
炎の砦
外郭が崩れたことで、火山拠点の防衛線は機能しなくなった。
主力は各国軍が担った。
灰の一団は、堤を使う作戦を通し、突入路を開いた。
拠点内部では、工兵が魔法陣を破壊する。
兵士が補給庫を押さえる。
神官が負傷者を運ぶ。
魔術師が熱を遮る結界を張る。
魔王軍は撤退していった。
黒い谷にはまだ泥と水が流れている。
火山の熱で、湯気が立っている。
火山拠点の外郭は、確かに沈んでいた。
神官の一人が呟いた。
「文献は、間違っていなかったのかもしれません」
ミルカが答える。
「見たものを、そう書いたんでしょうね」
ロアンも谷を見た。
「水の精霊王は来なかった。でも、あの水を残した人たちはいた」
エナがうなずく。
「見えないところで、助けてくれたんですね」
ガルドが言う。
「昔の人間は強いな」
水番の末裔は、壊れた堤の方を見ていた。
その顔には、悲しさと安堵が混じっている。
長い間、使われなかった堤。
忘れられていた水路。
それが最後に、役目を果たした。
指揮官がロアンたちへ言った。
「火山拠点は落ちた。だが、君たちだけで落としたわけではない」
ロアンは頷いた。
「はい」
「それでいいのか」
「はい。道を開けられたなら、それで」
ミルカが言う。
「全部自分たちでやろうとしたら、たぶん失敗していました」
ガルドが頷く。
「水は斬れない」
エナが言う。
「でも、流すことはできました」
ロアンは谷を見た。
水は、まだゆっくり流れている。
王のように見えた水。
精霊のように語られた水。
けれどそれは、昔の人間が山に残した水だった。
そして今の人間が、もう一度通した水だった。
水番の末裔
作戦後、水番の末裔は壊れた堤の前に立っていた。
堤はもう使えない。
今回のために補強し、今回のために切った。
完全な復旧ではない。
一度だけ、正しい方向へ壊すための修復だった。
水番の末裔は静かに言った。
「役目を終えたんだな」
ロアンは少し考えてから答えた。
「終わったんじゃなくて、残ったんだと思います」
水番の末裔がロアンを見る。
「残った?」
「水路の記録も、堤の場所も、切り方も。全部、誰かが覚えていたから使えました」
ミルカが続ける。
「完全に同じものは戻せなくても、記録があれば、次に何かを作れます」
水番の末裔は古い板帳を抱えていた。
迷っているようだった。
軍の記録係が近づく。
「その記録を、王国と各国の工兵にも写させてもらえないだろうか」
水番の末裔は板帳を見た。
「持っていくのか」
ロアンがすぐに言った。
「原本は村に残した方がいいと思います」
記録係が頷く。
「写しで構わない。原本は村へ」
水番の末裔は、少し安心したように息を吐いた。
「なら、写せ」
エナは微笑んだ。
「また使うためですね」
水番の末裔は山を見た。
「できれば、二度と切りたくない」
ミルカが言う。
「切らないための記録にもなります」
「そうか」
ガルドが真面目に言った。
「壊すために直したが、次は守るために直せる」
水番の末裔はガルドを見て、少し笑った。
「若いのに、変なことを言うな」
ミルカが小さく言う。
「たまに良いことを言います」
ガルドは頷く。
「今日は多めか」
ロアンが笑った。
「多めだと思う」
水番の末裔は、古い板帳を記録係へ渡した。
ただし、手を離す前に言った。
「写すだけだ。持っていくな」
記録係は深く頷いた。
「約束する」
ここでも、知識は奪われなかった。
残され、写され、共有された。
土地の記憶は、土地に残る。
それを必要な人たちが、写して持っていく。
灰の一団は、またその間をつないだ。
空の目
火山拠点は落ちた。
深海。
深森。
火山。
主要な地上拠点が、次々に崩れていく。
だが、まだ大きな問題が残っていた。
空である。
火山拠点から押収された資料には、天空要塞に関する記録があった。
空から広域を監視する、魔王軍の要塞。
地上拠点の位置。
補給路。
部隊の移動。
それらを空から見下ろしている。
文献では、勇者は天空要塞を攻略したとされていた。
そのため、各国軍の一部は次の標的を天空要塞だと考えた。
「次は空だ」
「空を落とせば、魔王軍の目を潰せる」
「文献でも勇者は天空要塞を攻略している」
しかし、火山拠点攻略で各国軍は疲弊している。
兵站も薄い。
工兵も魔術師も負傷者も多い。
空を飛ぶ要塞を攻略する余力はなかった。
ミルカが資料を見て言った。
「正面から落とすのは無理」
ガルドが空を見上げる。
「届かない相手は斬れないな」
ロアンも空を見た。
雲の向こうに何かがあるような気がする。
見られている。
そう思うと、背中が少し冷えた。
エナが小さく言った。
「でも、見られている気がします」
ロアンは考える。
天空要塞を落とさなければ進めないのか。
それとも、見つからずに進む道があるのか。
勇者の物語なら、次は空を落とすのだろう。
でも、灰の一団は勇者ではない。
ロアンは、まだ空を見上げていた。
「落とせないなら、避ける道を探す」
ミルカが頷く。
「空の目を避ける方法ね」
ガルドが言う。
「見られなければ斬られない」
「斬る話から離れよう」
エナは空を見て、少し不安そうに言った。
「見られない道、あるんでしょうか」
ロアンは答えた。
「まず、空を見て暮らしている人に聞こう」
ミルカが少し笑う。
「次は、空の人?」
ガルドが真面目に言う。
「鳥か」
「人に聞こう」
エナが小さく笑った。
火山の熱風が、灰色の外套を揺らす。
水の精霊王は来なかった。
導きの石は作り直した。
人魚はいなかった。
それでも道は開いた。
なら、空にもきっと道はある。
見上げるだけでは届かない。
けれど、見つからずに進む道ならあるかもしれない。
灰の一団は、次の問題へ向かった。
水の精霊王は来ない
水の精霊王は来なかった。
火山の上に現れた大精霊はいなかった。
祈りに応じて、炎の砦を沈めた神秘の王もいなかった。
あったのは、古い堤だった。
雨季の水を溜めるための堤。
火山灰を抑えるための水路。
村を守るための記録。
堤を切る時に鳴らす鐘。
下流を空けるという約束。
それらを、火山の麓の人々が覚えていた。
堤は壊れていた。
水路は埋まっていた。
記録は古びていた。
それでも、完全には失われていなかった。
石工が積み直した。
工兵が掘り返した。
水番の末裔が流れを読んだ。
ミルカが水圧と蒸気を見た。
エナが時を待った。
ガルドが狭い岩道を守った。
ロアンが戻る道を残した。
そして、水は流れた。
黒い谷を走る水は、下から見れば王のようだった。
白い蒸気をまとい、火山灰を抱え、炎の砦を沈めた。
だから、後の者はそう呼んだのかもしれない。
水の精霊王、と。
だが、そこにいた者たちは知っている。
水を流したのは、精霊王ではない。
昔の人間が山に残した水だった。
その水を、今の人間がもう一度通したのだった。
火山拠点は落ちた。
けれど、空にはまだ目があった。
見下ろす要塞。
届かない砦。
勇者の物語なら、次は空を落とすのだろう。
だが、灰の一団は勇者ではない。
だから彼らは、別の道を探す。
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