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戻れるか
創界を持ち出してから二日後、四人は眠りの王が広がる谷の手前まで来ていた。
ここから先は、大地を流れる原光が急速に薄くなる。
眠りの王へ近づく前に、確かめなければならないことがある。
セトは布を外し、創界を地面へ置いた台の上に載せた。
三つの円弧は白銀色のまま、互いに隙間を残している。
「入った後、戻れるかを確かめます」
ネアが言った。
「三人で入らないと動かないんじゃないのか」
「創界としての機能は起動しません。ただ、中へ入ること自体は一人でもできるはずです」
「はず?」
「残滓から分かるのは、三人が入る場所があることまでです。入口が出口にもなるかは、実際に確かめるしかありません」
シアが創界をのぞき込む。
「私が行く」
「わたしが行きます」
「どうしてだ」
「戻れない場合を考えれば、境界を扱えるわたしが適任です」
「戻れないなら、誰でも同じだ」
「戻る方法を内側から探せる可能性があります」
シアは納得していない顔をしたが、退いた。
一人で入る
セトが創界の柄を握る。
ネアは、鍔の三つの円弧へ順に触れた。
「どれが誰の場所かは、まだ決まっていません」
「入った者で決まる?」
「おそらく」
ネアはセトを見る。
「つながりを切らないでください。わたしの気配が薄くなったら、名前を呼んでください」
「ああ」
「名前だけで戻れるのか」
シアが尋ねる。
「分かりません。ただ、わたしを役割ではなく、わたしとして指せます」
ネアの身体が銀青色の光へほどけた。
精霊剣になる時と似ている。
だが、セトの手へ剣として収まるのではない。
細い光は、創界の柄頭にある中空の輪へ吸い込まれた。
三つの円弧のうち一つへ、銀青色の光が走る。
刀身中央の空洞にも一本だけ細い流れが生まれ、切っ先まで伸びた。
残る二つの円弧は、白銀色のままだった。
「ネア」
返事はない。
それでも、つながりは消えていない。
遠くにいるのではなく、握っている剣の内側にいると分かった。
創界の内側
数呼吸の後、銀青色の流れが逆向きに戻った。
創界の柄頭から光があふれ、人の形を取る。
ネアは地面へ片膝をついた。
「ネア」
「大丈夫です」
セトが伸ばしかけた手を止める。
ネアは自分の両手を見てから立ち上がった。
「戻れました」
「何があった」
「内側に、三つの場所があります。部屋のように分かれているわけではありません。三つの流れが、混ざらないまま同じ切っ先へ向かう構造です」
「ほかの二つは見えたのか」
「空の流れとして見えました。誰かが入るまで、属性も役目もありません」
「一人でも入れる」
「ええ。ただし、一人ではどこにも届きません。流れが途中で止まります」
ネアは創界へ手を添えた。
「戻る時は、セトとのつながりを逆にたどりました。創界は、入った者を閉じ込める器ではありません」
ネアは自分が入っていた円弧へ触れた。
「内側からは、セトとのつながりが一本の道として見えました。わたしがセレーネだからつながっているのではありません。ネアとして身を預けた相手へ続く道です」
「なら安心だな」
「完全には」
シアの言葉をネアが止める。
「三人が入り、創界が実際に力を使い始めた後も同じように戻れるかは分かりません。ただ、途中で使用を止めるなら、帰る道は残ると思います」
「思う、か」
「確実と言えるほどの知識は残っていません」
途中で止める道
「内側には、切っ先へ進む道と、柄へ戻る道があります」
ネアは創界の空洞を指でなぞった。
「今は同じ一本の流れでした。進まずに向きを変えれば戻れます」
「三人で力を使ったら?」
「切っ先へ進む流れが強くなります。それでも、セトが使用を止め、三人が同時に戻るなら道は残るはずです」
「一人だけ戻るのは」
ミレナが尋ねた。
「束ねた後では危険です。一人が抜ければ、残る二人の向きまで崩れます」
「戻るなら三人一緒」
「はい。セトが創界を引き、三人が同時に接続を逆へたどります」
「最後まで使った後は?」
ネアは答えるまで少し間を置いた。
「創界が何を代償にするか分かりません。戻る道が残る保証はありません」
四人の役目
「内側に入って、前より分かったことがあります」
ネアが三つの円弧を見る。
「放つ、分ける、束ねるは、創界が持つ三つの別能力ではありません。創界を使うために、三人が行う役目です」
「順番は?」
セトが尋ねる。
「最初に、創界が対象と世界を見ます」
「世界を見る」
シアが、前日に受け取った言葉を繰り返す。
「次に束ねます」
ネアはミレナを見る。
「三人を混ぜるのではありません。三人が別々のまま、同じものを、同じ向きから見るためにそろえます」
「私が、三人の向きを一つにする」
「ええ。その後、わたしが分けます。眠りの王、取り込まれた精霊王の役割、そして世界。その境界を見つけ、別のものとして定めます」
「最後が私か」
「シアが、定めた境界を創界の外へ放ちます」
「セトは?」
ミレナが尋ねた。
「三人すべてとつながった使い手です。三人を別々のまま受け取り、何を終わらせるかを選び、剣として通します」
使用する順序
ネアは地面へ四本の線を引いた。
「見る。束ねる。分ける。放つ」
最後に、四本を一つの矢印で囲む。
「そしてセトが振るう、ではないのか」
シアが言う。
「セトは最初から最後まで必要です。創界を持ち、三人とのつながりを保ち、分ける対象を決めます」
「決めるのはネアじゃない?」
「わたしは分けます。ただ、どちらを残し、どちらを終わらせるかは、剣を振るう者の選択です」
セトは四本の線を見る。
「眠りの王だけを終わらせる」
「そのために、取り込まれた役割と眠りの王を、別のものとして見なければなりません」
「元の精霊王は戻るのか」
「人格と記憶は、すでに眠りの王の中で境界を失っています」
ネアは曖昧にしなかった。
「戻せるのは役割です。元の個人を、そのまま取り出すことはできません」
シアは黙って線を見た。
「それでも、次が生まれる」
「ええ。役割が世界へ戻れば、次代の再生は始まります」
名前を持つ道
「創界の中で、私たちは名前を失いませんか」
ミレナが尋ねた。
「三つの流れは、役割だけを入れる場所ではありません」
ネアは答える。
「わたしが入った時も、セレーネとしてではなく、ネアとして考え、戻れました」
「それを保つのも、セトの役目か」
シアが言う。
「ええ。三人すべてを一つの力として扱いながら、誰が誰かを取り違えないこと」
セトは、シア、ネア、ミレナを見る。
「いつもと同じだ」
「簡単に言いますね」
「三人を混ぜて使ったことはない」
極炎はシアだ。絶光はネアだ。翔嵐はミレナだ。
同じ手に三本のつながりを持っても、誰かを別の誰かとして扱うことはない。
ミレナの選択
ミレナは創界の前へ座った。
「使った後、私はどうなりますか」
「風の役割と人間のミレナが分けられる可能性が高いです」
「人間として残れる?」
「創界が目的どおり働けば」
「風の力と知識は?」
「世界へ戻ります」
ミレナは自分の右手を握った。
風を使えるようになってからも、何度も繰り返した動作だった。
「私は、普通の人間へ戻りたいです」
「知っています」
「でも、それだけで創界へ入るわけではありません」
ミレナはセトを見る。
「眠りの王を止めたいです。今いる人たちが、役割だけになって消えるのは嫌です」
「戻れない可能性もある」
「はい」
「今なら、まだやめられる」
「やめません」
迷いがないわけではない。
怖くないわけでもない。
それでも、ミレナは自分で答えた。
「私が決めました」
三人が入る
セトは創界を両手で構えた。
最初にミレナが風の側を前へ出す。
栗色の髪へ銀緑色が重なり、瞳の色が薄く変わる。
シアとネアが、その左右へ並んだ。
「戻る時は、つながりを逆にたどる」
シアが確認する。
「使用を止められる間は、です」
「分かった」
「本当に分かっていますか」
「途中でやめるつもりはない」
「それは、分かったとは言いません」
ミレナが小さく息を吐いた。
「少し安心しました」
「何がだ」
「創界へ入る直前でも、いつもの二人なので」
シアが笑う。
「セト、呼べ」
セトは三人を順に見た。
「シア」
赤橙色の光が、創界へ入る。
「ネア」
銀青色の光が、別の円弧へ入る。
「ミレナ」
淡い銀緑色の光が、残る円弧へ入った。
初めての起動
三つの円弧が動いた。
互いの隙間を残したまま、一つの円を作る。
刀身中央の空洞へ、三本の光が現れた。
赤橙色。銀青色。淡い銀緑色。
三本は混ざらない。
極細の無色の境界を挟み、同じ切っ先へ向かう。
『セト』
シアとネアの声が、それぞれ届いた。
『セトさん』
少し遅れて、ミレナの声も届く。
「ああ。全員いる」
創界の重さが消えた。
地面も、空も、風も消える。
落ちたわけではない。
セト自身が立っているという感覚だけが残った。
そして、世界が見えた。
山も、川も、町も、一枚の平面へ押し込まれたように広がっている。
自分たちがいた岩山も、その中にある。
世界は、下にあった。
上にあるもの
セトは上を見た。
空ではない。
下にある世界とは別に、上にも何かが広がっている。
世界のように見えた。
だが、山も川も見えない。
形を捉えようとすると、見えていたはずのものが遠ざかる。
『上にも、あります』
ネアの声が届く。
『何だ、あれ』
シアにも分からない。
『同じものには感じません』
ミレナが言った。
『でも、世界のような……』
その言葉が終わる前に、すべてが戻った。
セトは谷の手前へ立っている。
風が吹き、足元には土がある。
創界も、三本の光を宿した剣へ戻っていた。
「今のは何だった」
『分かりません』
「創界が見た世界か」
『下にあったのは、たぶんそうです』
『上のは?』
『分かりません』
四人とも見た。
それ以上は、誰にも分からなかった。
眠りの王へ
四人は谷の内側へ進んだ。
大地を流れる原光が、戻らずに消えていく場所。
その中心に、眠りの王がいることは以前の調査で分かっていた。
境界を越えると、風は急に弱くなった。
火は燃えにくくなり、水の流れは鈍くなる。
色まで薄くなったように見える。
谷の奥に、巨大な空白があった。
黒いのではない。
光が届かないのでもない。
そこだけ、色を持つための原光が存在しない。
空白は地面へ広がりながら、ゆっくりと人のような形を作っていた。
頭も、腕も、顔も定まらない。
内部では、いくつもの異なる力が境界を失って動いている。
氷が生まれた直後に光へ砕かれ、樹木が伸びた場所を結晶が覆う。
地面が持ち上がり、次の瞬間には重さを失って崩れた。
『全部、混ざっている』
シアの声が低くなる。
『ええ。眠りの王の一部として』
最初に見る
眠りの王が、四人へ気づいた様子はない。
敵意もない。
ただ、周囲にある原光を取り込み続けている。
創界の空洞越しに見ると、空白の内部へ無数の流れが見えた。
『創界が見ています』
ネアが言う。
地上から見れば、一つの巨大な空白でしかない。
創界を通すと、その中へ重なったものが見える。
土。氷。樹。重さ。結晶。光。
ほかにも、名を判別できない役割がある。
どれも一つの身体へ溶け、どこからどこまでが何なのか分からない。
「見えるだけでは分けられない」
『だから束ねます』
束ねる
ミレナの風が、創界の内側を巡った。
三本の流れの位置がそろう。
混ざらないまま、同じ方向へ向く。
シアが見ているもの。ネアが見ているもの。ミレナが見ているもの。
三人の視点が重なり、同じ眠りの王を、同じ位置から捉える。
セトにも、三人が同じものを見ていると分かった。
ミレナは少し疑問に思う。
三人の視点、創界を通した視点。ほとんど共通なはず。
しかし、異なる視点、少なくとも2種類の視点の存在を感じる。
おそらく創界で分けるために必要な視点。
ならば束ねる必要がある。
『束ねました』
分ける
『次は、わたしです』
銀青色の流れが、刀身の中央へ広がった。
眠りの王の中へ、細い線が走る。
斬ったのではない。
重なっていたものの間へ、境界を見つけている。
『これは世界です』
一つ目の線が、大地と眠りの王を分ける。
『こちらが、取り込まれた役割』
二つ目の線が、眠りの王の内部へ枝分かれした。
土と氷。樹と結晶。重さと光。
まだ名の分からない、いくつもの役割。
それぞれが別の流れとして輪郭を取り戻す。
『残った空白が、眠りの王です』
最後の線が引かれる。
一つにしか見えなかった巨大な存在が、無数の層へ分かれて見えた。
まだ現実には分かれていない。
創界の内側で、別のものとして定められただけだった。
「これを、外へ出す」
『ああ』
シアの炎が強くなる。
放つ
赤橙色の流れが、創界の根元から切っ先へ走った。
炎を撃つのではない。
ネアが定めた境界を、現実へ押し出すための力だった。
『放つ!』
セトは創界を振るった。
刃は眠りの王の身体へ届いていない。
それでも、境界が空白の内部へ通った。
眠りの王の表面が揺れる。
土の力が一瞬だけ外へ浮かぶ。
氷の流れが、空白から離れかける。
だが、どちらもすぐに引き戻された。
「一度では足りない」
『ええ。境界が現実へ定着する前に、眠りの王が戻しています』
空白の輪郭が大きく揺れた。
眠りの反応
眠りの王に敵意はない。
それでも、自分から分かれようとするものを再び取り込もうとする。
谷全体の地面が持ち上がった。
巨大な土の壁が、四方からセトへ迫る。
『右です』
ネアの声に従い、セトは隙間へ走る。
足元が凍った。
シアの炎が創界から漏れ、氷を砕く。
頭上から結晶の柱が落ちる。
ミレナが三人の力を一方向へ束ね、創界の側面で受け流した。
「創界は攻撃にも使えるのか」
『今は、分けるための流れを守っているだけです』
ネアが答える。
空白の周囲へ樹木が生え、枝が一斉に伸びた。
セトは切り払いながら進む。
どの攻撃にも意思はない。
役割だけが、眠りの王の一部として働いている。
「もう一度だ」
『束ねます』
ミレナが、攻撃を受けて散りかけた三つの流れをそろえる。
『分けます』
ネアが先ほどより深く境界を探る。
『放つ!』
シアが境界を現実へ通す。
セトは二度目の斬撃を振り抜いた。
眠りの王から、複数の色が飛び出す。
だが、空白から伸びた腕が、それらをまとめて引き戻した。
混ざった防御
空白の内部から、白い光が押し寄せた。
直後には冷気へ変わり、セトの外套が凍る。
結晶が氷の内側から成長し、身体を固定しようとした。
『左へ流します』
ミレナが三人の力を束ね、進む向きを変える。
セトは身体をひねり、結晶の外へ抜けた。
右脚へ痛みが走る。
止まれば、伸びた樹の根と土の壁に囲まれる。
『足は』
「動く」
『動くかではなく、持つかを聞いています』
「終わるまでは持たせる」
『それは答えになっていません』
『でも進む!』
シアの出力が強まり、正面の壁へ細い道を開いた。
「まだだ」
セトは空白の中心へ踏み込む。
三人は、もう一度同じ工程を繰り返した。
束ねる。
分ける。
放つ。
三度目の境界が、眠りの王のさらに奥へ通った。
一つ目のひび
眠りの王の身体から、土と氷の流れが離れた。
色を取り戻した原光が、空へ上がる。
空白の身体が少し小さくなった。
『効いています』
「続ける」
『待ってください』
ネアの声と同時に、創界から硬い音がした。
刀身外枠へ、細いひびが入っている。
「ひびが」
『見えています』
「無理だ。戻れ」
『まだ使えます』
「戻れ、三人とも」
セトは創界を引いた。
眠りの王から離れ、使用を止めようとする。
だが、背後の谷にも空白が広がっていた。
来た道から原光が消え、色が薄くなっている。
眠りの王は、戦っている間にも広がり続けていた。
『セトさん』
ミレナが呼ぶ。
『戻ったところで、逃げる場所がありません』
ひびの先
創界のひびから、三本の光が漏れていた。
混ざってはいない。
だが、本来は刀身の内側を通るはずの流れが、外へ逃げ始めている。
『次に同じ量を通せば、さらに割れます』
ネアが告げる。
「だから戻れ」
『今なら戻れます』
ミレナの声が届いた。
セトは柄を握る力を緩めかける。
その瞬間、眠りの王の空白が谷の斜面を越えた。
草の色が消える。
岩に含まれていた原光まで抜け、表面から細かく崩れた。
さらに遠くには、人が暮らす土地がある。
ここで止めなければ、次に消えるのは谷だけではない。
「戻った後に、もう一度戦える保証はない」
『はい』
ネアは否定しなかった。
逃げ先
「ここから離れる時間くらいはある」
『その後は?』
ネアが尋ねる。
『別の場所で、もう一度創界へ入るのですか』
「剣を直してからだ」
『直せる者はいません』
「なら、別の方法を探す」
『眠りの王が待ってくれるか?』
シアの声が届く。
「それでも、お前たちが消えるよりは」
『私たちが戻れば、眠りの王は私たちも取り込みます』
ネアは静かに言った。
『精霊剣としてつながっている間は耐えられても、人型へ戻り、この空白の中へ立てば長くは持ちません』
『私は人間へ戻れます』
ミレナが続ける。
『でも、世界から逃げることはできません』
ひびが少し伸びた。
『私は続ける』
シアが言う。
『わたしもです』
ネアが続く。
『私も、ここで束ねます』
ミレナが言った。
「勝手に決めるな」
『セトも、もう決めています』
ネアが言う。
深い境界
眠りの王がさらに近づく。
セトは創界を構え直した。
「戻れと言ったのに、戻らないのか」
『はい』
ネアが答える。
『では、使い手はどうしますか』
セトは息を吐いた。
「最後までやる」
『ああ』
シアの声が笑った。
三人の流れが再びそろう。
ミレナが束ねる。
ネアが、先ほどより深く眠りの王を見る。
『外側から順に分けていては、創界が先に壊れます』
「どうする」
『すべての役割と眠りの王を、一度に分けます』
「できるのか」
『見えています。だから、分けます』
銀青色の線が、眠りの王全体へ広がった。
取り込まれたすべての役割が、別々の輪郭を持つ。
空白だけが、その中央へ残った。
『シア』
『分かってる。全部通す』
折れる音
赤橙色の光が、創界の内部を満たした。
三本の流れは混ざらない。
だが、三つを囲う刀身外枠が耐えられない。
ひびが鍔まで達した。
「止めろ!」
『止めません』
『ミレナ、ずらすな!』
『はい!』
セトは創界を振り下ろした。
境界が眠りの王の中心へ届く。
世界と役割と空白が、別々のものとして揺れた。
その瞬間、創界が折れた。
刀身の中央から、左右の外刃が砕ける。
白銀色の破片が谷へ散った。
セトの手には、柄と短く残った根元しかない。
「シア!」
返事がない。
「ネア! ミレナ!」
折れた破片が地面へ落ちる。
眠りの王は、まだ目の前にいる。
剣の中
『聞こえてる』
シアの声が戻った。
「どこにいる」
『創界の中です』
ネアも答える。
「創界は折れた」
『形が折れただけです』
セトの手に残る柄から、三本の光が伸びていた。
赤橙色。銀青色。淡い銀緑色。
刀身はない。
それでも、三本は同じ先へ向かっている。
『まだ束ねられます』
ミレナが言う。
「剣がない」
『ある』
シアの声が強くなる。
『折れただけだ。まだ死んでない』
『創界の権限は残っています』
ネアが続ける。
『境界も消えていません。最後まで通せます』
「お前たちは戻れるのか」
短い沈黙があった。
『終わらせてから確かめます』
「ネア」
『今は、眠りの王です』
柄に残った境界
刀身の破片は、ただの物質には戻っていなかった。
地面へ落ちた破片の間に、薄い線が残っている。
一本の剣だった時と同じ輪郭を、光のない境界だけが保っていた。
『創界は、剣の材料が本体ではありません』
ネアの声が、先ほどより遠く聞こえる。
『三人を分けたまま入れ、世界を見て、境界を作る働き。それがまだ残っています』
「どれくらい持つ」
『分かりません』
『一回分は持たせる』
シアが言う。
『持たせるって、どうやって』
ミレナが尋ねる。
『壊れる前に全部出す』
『具体性はありませんが、今はそれしかありません』
三人の声は別々だった。
創界は、その違いをまだ保っている。
最後まで
眠りの王の中で、分けられた役割が再び混ざり始める。
時間はない。
セトは柄だけになった創界を両手で握った。
刀身の代わりに、三本の光が境界の形を作る。
『束ねます』
ミレナが三人の向きをそろえる。
『分けます』
ネアが眠りの王と、取り込まれたすべての役割を切り離す。
『放つ!』
シアが、その結果を現実へ押し出す。
セトは、存在しない刃を振り抜いた。
「眠りの王だけを終わらせる!」
谷を覆う空白へ、一本の境界が走った。
土が離れる。
氷が離れる。
光、樹、重さ、結晶、いくつもの役割が、別々の原光として空へ昇る。
最後に、何も持たない空白だけが残った。
眠りの終わり
眠りの王は、初めて一つの形を取った。
人にも、精霊王にも見えない。
原光を持たず、それでも存在していた空白だけの輪郭。
そこに敵意はない。
苦しむ声もない。
ただ、世界へ戻るものを失い、一時的な王位だけが残っている。
『今です』
ネアが言う。
セトは境界の先を、空白の中心へ合わせた。
三人の力を混ぜない。三人を一つの道へ通す。
「シア」
『いる』
「ネア」
『います』
「ミレナ」
『ここにいます』
全員を確かめる。
そのうえで、空白だけを選ぶ。
セトは最後の一歩を踏み込んだ。
存在しない刃が、眠りの王を通り抜けた。
空白の輪郭が、音もなく消えた。
返る役割
眠りの王が消えた場所から、原光があふれた。
混ざっていた時には色すら分からなかった力が、それぞれ別の流れとなって世界へ返る。
土は大地へ沈む。
光は薄く空へ広がる。
氷は北へ、樹は森へ、重さと結晶は大地の奥へ散っていく。
元の精霊王たちの姿は戻らない。
声も、名前もない。
それでも役割は失われず、次代へつながるため世界へ残った。
淡い銀緑色の流れも、創界から離れ始める。
『風が、私から離れます』
ミレナの声が聞こえた。
「戻れ、ミレナ」
『はい』
銀緑色の流れが柄から抜け、人の形へ変わる。
続いて赤橙色と銀青色が戻ろうとした。
その時、折れた創界の残りが砕けた。
吹き飛ぶ
白い光が谷を満たした。
衝撃が地面を走る。
セトの身体が宙へ投げ出された。
ミレナの身体も、少し離れた場所へ吹き飛ばされる。
何かをつかもうとしたが、セトの手には何も残っていない。
創界の柄も、三人の光も見えなかった。
地面へ落ちた衝撃で、息が止まる。
耳鳴りだけが残った。
薄れていく意識の中で、セトは三人の名前を呼ぼうとした。
声は出なかった。
世界から色が戻っていく。
谷の外から風が入る。
消えていた音が、少しずつ戻る。
それを確かめる前に、セトの意識は途切れた。
倒れている人
目を開けた時、空が見えた。
平面ではない。
いつもの奥行きを持つ空だった。
セトは身体を起こそうとして、全身の痛みに息を詰まらせた。
「シア」
返事はない。
「ネア」
何も聞こえない。
「ミレナ」
少し離れた場所に、人が倒れていた。
栗色の髪。
風の側へ出ていた銀緑色は、どこにもない。
セトは這うように近づいた。
「ミレナ」
肩へ手をかけ、ゆっくり起こす。
呼吸はある。脈も触れた。
「ミレナ、起きろ」
緑褐色の瞳が、わずかに開く。
「セト……さん」
「生きてるな」
「はい」
ミレナは苦しそうに息を吸ったが、自分で身体を支えた。
風がない
ミレナは地面へ手をつき、上体を起こした。
風が髪を揺らす。
ミレナは、その風へ顔を向けた。
「聞こえません」
「何が」
「風が、どこへ流れているのか」
ミレナは右手を上げた。
何も起きない。
空気は動かず、原光も集まらない。
「やり方が、分かりません」
声に驚きが混じる。
「今までは、考えれば知識がありました。どこへ流せばいいか、どう束ねればいいか。今は、何もありません」
「風の役割がなくなった」
「知識もです」
ミレナは自分の胸へ手を置いた。
「人間の記憶だけが残っています」
望んでいた結果だった。
それでも、長く自分の中にあったものが消えた空白へ、すぐ喜ぶことはできなかった。
ミレナは周囲を見る。
「シアさんと、ネアさんは?」
人間のミレナ
「怖くはないか」
セトが尋ねた。
ミレナは少し考える。
「静かです」
「静か?」
「今までは、意識を向けなくても風の流れがありました。知らない場所の知識も、いつでも奥にありました」
ミレナは自分の頭へ触れた。
「それがなくなって、私の考えていることだけになりました」
「ミレナだけになった」
「はい」
望んでいた言葉だった。
ミレナは一度目を閉じ、それから小さくうなずく。
「寂しくないと言えば、嘘になります。でも、これは私が望んだことです」
目を開けたミレナは、もう一度周囲を見た。
「だから、シアさんとネアさんにも戻ってきてほしいです。二人が望んだ形で」
二つの残滓
セトも、すぐには答えられなかった。
二人の姿はない。
創界の破片も、ほとんど残っていない。
代わりに、眠りの王が消えた場所の近くへ、二つの光があった。
赤橙色の残滓。銀青色の残滓。
どちらも人の形を保っていない。
細かな原光の粒となり、周囲へほどけ始めている。
「シア」
返事はない。
「ネア」
光がわずかに揺れた。
セトには、原光の流れが見える。
二つの残滓は、ただ消えているのではない。
一度ほどけながら、別の形へ組み直されようとしている。
火の役割。月の役割。
世界へ散らず、その場へ留まっている。
「次代の再生が始まっている」
ミレナが息をのむ。
「でも、それでは……」
「ああ」
次代は、元の個人ではない。
消えるな
赤橙色の残滓から、シアの輪郭が消えていく。
銀青色の残滓からも、ネアの気配が薄れる。
役割だけを残し、個人が失われようとしているように見えた。
「消えるな」
セトは赤橙色の光へ手を伸ばした。
触れることはできない。
「シア、消えるな」
返事はない。
「ネア、お前もだ」
銀青色の粒が、風へ散りかける。
「俺は覚えてる」
セトは二つの光の間に立った。
「火の精霊王じゃない。シアだ」
赤橙色の粒が止まる。
「月の精霊王じゃない。ネアだ」
銀青色の流れが、わずかに中心へ戻った。
「お前たちは創界の中にいた。最後まで別々にいた」
セトは名前を呼び続ける。
「シア」
「ネア」
「消えるな」
つながりの残り
創界は砕けた。
剣の形は、もうどこにもない。
それでも、セトの内側には二人とのつながりが残っていた。
弱く、今にも切れそうだった。
だが、なくなってはいない。
創界の中で三人は混ざらなかった。
眠りの王を分ける間も、折れた後も、最後までそれぞれの流れを保っていた。
シアの怒り。
ネアの慎重さ。
二人がセトへ返した声。
それらは役割の知識ではない。
二人が経験した記憶だった。
「戻ってこい」
セトはつながりを引いた。
力で引き寄せるのではない。
二人の名前がある場所を、何度も示す。
「シア」
「ネア」
二つの残滓が、それぞれ別の中心を持ち始めた。
次代再生
通常の次代再生とは違った。
役割が世界へ散り、一か月ほどかけて新しい王を作るのではない。
火と月の役割は、創界の中で一つに集められたまま残っていた。
そこに、二人の記憶と人格の形も残されている。
赤橙色の粒が、人の輪郭を作る。
銀青色の粒も、別の場所へ集まる。
火と月は混ざらない。
シアとネアも混ざらない。
セトとの二つのつながりが、それぞれの形を保っている。
髪が生まれる。
手が生まれる。
顔の輪郭が戻る。
新しい身体だった。
それでも、現れた姿はセトが知っている二人と同じだった。
赤橙色の髪を持つ少女。
深い藍色の長い髪を持つ女性。
ネア
先に目を開いたのはネアだった。
淡い銀青色の瞳が、空を見る。
次に、自分の手を見た。
「ネア」
セトが呼ぶ。
ネアはゆっくり顔を向けた。
「セト」
名前を呼び返す。
それだけで、セトは息を吐いた。
「覚えているか」
「創界が折れました」
「ああ」
「眠りの王を分け、最後にセトが空白だけを終わらせました」
戦いの記憶がある。
「その前は」
「シアが先に創界へ入りたがりました。わたしが止めました」
ネアは少し眉を寄せる。
「何を確認しているのですか」
「お前がネアかどうかだ」
ネアは自分の胸へ手を置いた。
「次代のセレーネではあります」
少し間を置く。
「ですが、わたしはネアです。少なくとも、あなたたちを覚えています」
シア
赤橙色の光が、最後に収束した。
少女の身体が地面へ降りる。
セトは倒れないよう肩を支えた。
「シア」
橙に近い金色の瞳が開く。
シアはセトを見る。
次にネアとミレナを見る。
「眠りの王は?」
「消えた」
「創界は?」
「折れた」
「私たちは?」
「一度消えて、次代として再生した」
シアは自分の腕を見た。
握り、開く。
火を出そうとすると、赤橙色の小さな炎が灯った。
「私は、次のイフリートなのか」
「ああ」
「前の私は消えた?」
「俺には、分からない」
セトは嘘をつかなかった。
「だから聞く。お前は誰だ」
シアは少し考えた。
「私は、シアだ。たぶんそうだ」
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