
箱の中の小さな動物
うちの人間が、箱を抱えて帰ってきた。
普段の買い物袋とは違う。
両手で胸の前へ抱え、なるべく傾けないように歩いている。
玄関へ入るときも、いつもよりゆっくりだった。
靴を脱ぐあいだも床へ置かない。
中には、倒したり揺らしたりしてはいけないものが入っているらしい。
シジミは玄関まで迎えに行き、箱の匂いを確かめた。
紙。
木くず。
乾いた食べ物。
そして、小さな動物の匂い。
箱の内側から、何かが動く音も聞こえる。
軽い足音。
爪が底を引っかく音。
鼻を動かし、周囲を確かめている音。
うちの人間はシジミを見ると、箱をさらに体へ引き寄せた。
「シジミ、ちょっと待ってね」
まだ何もしていない。
匂いを確認しただけである。
人間は、自分が大切にしているものへ猫が近づくと、すぐに何か悪いことをすると思う。
机の上の紙。
光る板につなぐ細い紐。
新しく買った服。
小さな飾り。
そして、今抱えている箱。
猫が興味を示した。
だから、触る。
落とす。
かじる。
壊す。
そこまでを一度に想像する。
実際には、匂いを嗅いで終わることも多い。
それでも人間は、何かが起きる前から、
「駄目だよ」
と言う。
うちの人間は箱を部屋の奥へ運んだ。
栗色の髪を耳へかけ、床へ膝をつく。
箱の上部を少し開けた。
中から、小さな顔が現れた。
丸い耳。
黒い目。
細かく動く鼻。
口の両脇が少しふくらんでいる。
茶色と白の毛に覆われた、小さな動物だった。
ハムスターである。
安全というものは狭い
シジミも見たことはある。
近所の家の窓辺に置かれた透明な箱の中で、輪を走っていた。
あれほど走っているのに、一歩も遠くへ行けない。
人間は、ときどき奇妙なものを動物へ与える。
走るための輪。
隠れるための家。
掘るための木くず。
食べ物を探す必要のない皿。
外へ出なくても暮らせるように、必要なものを小さな箱の中へ集める。
それを安全と呼ぶ。
たしかに、外敵からは守られる。
雨にも濡れない。
食事にも困らない。
だが、輪の中をどれだけ走っても、景色は変わらない。
安全というものは、ときどきずいぶん狭い。
うちの人間は、小さな動物をのぞき込みながら言った。
「しばらく、うちで預かることになったからね」
知人が長い旅行へ行くらしい。
そのあいだ、ハムスターの世話を頼まれたという。
食事。
水。
箱の掃除。
温度の確認。
夜に動くので、昼間はなるべく静かにしておくこと。
人間は箱の横に置かれていた紙を見ながら、一つずつ声に出して確認している。
「ごはんは一日一回。水は毎日替える。お掃除は……」
預けた人間は、ずいぶん細かく書いていた。
大切にしているのだろう。
何を食べるか。
どのくらい食べるか。
嫌がること。
気をつけること。
もしものときに連絡する場所。
これだけ書いてあれば、うちの人間でも大きな間違いはしないはずだ。
おそらく。
すぐ増えるんだって
うちの人間は透明な箱を棚の上へ置いた。
シジミが普段使う棚よりは低い。
だが、一度跳べば届く高さである。
それに気づいたうちの人間は、箱を持ち直した。
さらに高い棚へ置く。
今度は、近くの台を使えば届く。
うちの人間は周囲を見回し、台になりそうなものを遠ざけた。
ずいぶん警戒している。
シジミが本気で登ろうとすれば、別の道を探す。
だが、そこまでして近づく理由は今のところない。
うちの人間は、ようやく安心したように息を吐いた。
そして、シジミへ言った。
「シジミ、知ってる? ハムスターって、すぐ増えるんだって」
増える。
たしかに増える。
だが、それは雄と雌を同じ箱へ入れているからである。
一匹だけで、いつの間にか二匹になるわけではない。
今、この箱に入っているのは一匹だ。
知人から預かったのも一匹。
旅行から戻ってきたときに二匹へ増えていたら、それはかなり大きな問題である。
勝手に分裂しない
うちの人間は、箱の中のハムスターを見つめた。
「帰ってくるまでに増えてたりして」
増えない。
勝手に分裂するとでも思っているのだろうか。
世の中には、体を二つに分けて増える生き物もいるらしい。
うちの人間が以前、絵の光る板で見ていた。
一つの体が二つになる。
それぞれが動き始める。
人間は、
「すごい」
と言っていた。
その記憶と、ハムスターは増えやすいという話が、頭の中で一つになっているのかもしれない。
だが、ハムスターはそのようには増えない。
朝起きるたびに数が増えていくなら、飼っている人間はもっと困っている。
一匹。
翌朝、二匹。
その次の日、四匹。
さらに次の日、八匹。
旅行から戻るころには、箱の中がハムスターで埋まってしまう。
輪を回す場所もない。
食事の皿も見えない。
水を飲む順番を待っているあいだに、さらに増える。
そのような生き物なら、誰も気軽に預けたりはしない。
うちの人間は箱の横へ顔を近づけた。
ハムスターは木くずの中へ半分ほど体を埋め、こちらを見ている。
「一匹だから大丈夫だよね?」
最初から、そうである。
確認するまでもない。
だが、うちの人間は少し考えた。
「でも、実はお腹に赤ちゃんがいたりして」
そこまで心配するなら、預けた人間へ聞けばよい。
勝手に想像して不安になる必要はない。
人間は、起きていないことについて考えるのが好きである。
荷物が届かなかったら。
明日雨が降ったら。
買った服が合わなかったら。
ハムスターが増えたら。
可能性を考えること自体は悪くない。
危険へ備えることもできる。
だが、人間は可能性を考えるだけで、すでに起きたような顔をすることがある。
うちの人間は箱を見ながら、少し困った顔をしている。
まだ何も増えていない。
預かったばかりである。
心配する順番が早すぎる。
猫、近い
シジミは棚の下へ座り、箱の中を見上げた。
ハムスターはこちらに気づいている。
小さな鼻が、さらに細かく動く。
匂いで猫だと分かったらしい。
木くずの奥へ少し下がる。
「猫」
小さな声が聞こえた。
「近い」
ハムスターの言葉は、鳥より遅い。
ただし声が小さい。
意味は単純である。
危険。
大きい。
見られている。
近づくな。
その程度だ。
シジミは動かなかった。
捕まえるつもりはない。
箱へ前足をかけることもしない。
ただ、どのような動物か見ているだけである。
うちの人間が、シジミの視線に気づいた。
「シジミ、じーっと見てるけど、食べ物じゃないからね?」
食べ物とは思っていない。
現時点では。
ハムスターが食べられる生き物かどうかだけなら、おそらく食べられる。
猫より小さい。
動く。
外にいれば、獲物として見る猫もいるだろう。
だが、今のハムスターは、うちの人間が知人から預かったものである。
箱ごと大切に運ばれてきた。
食事の量や水の替え方まで紙へ書かれている。
うちの人間が何度も様子を確認している。
明らかに大切にされているものだ。
そういうものを優先的に食料とみなす道理はない。
非効率である。
食べれば一度は腹が満たされるかもしれない。
だが、そのあとが面倒だ。
うちの人間は騒ぐ。
知人へ謝る。
病院へ連れていかれる可能性もある。
箱へ近づくことを、今後さらに厳しく止められる。
食事の量まで減らされるかもしれない。
何より、普段の食事は決まった時間に出る。
わざわざ大切にされている小動物を狙い、大きな問題を起こす必要がない。
目の前の一口だけを見て、あとで起きることを考えないのは人間のすることである。
猫は、もっと先を見る。
お友達ではない
うちの人間は、シジミが動かないのを見て、箱の前へ回り込んだ。
「狙っちゃ駄目だよ」
狙っていない。
「お友達だからね」
友達でもない。
今日初めて会った。
相手はシジミを警戒している。
シジミも、ハムスターのことをまだ何も知らない。
同じ家の中にいるだけで友達になるなら、棚や椅子とも友達にならなければならない。
人間は、二匹の動物を同じ場所へ置くと、すぐに仲良くなってほしがる。
猫と犬。
猫と鳥。
猫とハムスター。
種類の違う者が並んでいれば、
「仲良し」
という話にしたがる。
相手がどう思っているかは、あまり考えない。
うちの人間は、ハムスターへ向かって言った。
「怖くないよ。シジミは優しいから」
勝手に性質を決めないでほしい。
シジミは必要のないことをしないだけである。
優しいから襲わないのではない。
襲う利点がないから襲わない。
その違いは大きい。
だが、ハムスターには人間の言葉がよく分からない。
相変わらず木くずの中から、シジミを見ている。
「猫、まだいる」
いる。
ここはシジミの家でもある。
ハムスターのほうが、一時的に来ている。
相手が不安になるからといって、シジミが家を出る理由はない。
ただし、近くに居続ける必要もない。
シジミは棚の下から離れ、長椅子へ移動した。
うちの人間が、安心したように笑う。
「よかった。興味なくなったみたい」
なくなったわけではない。
確認が終わっただけである。
小さい。
警戒心が強い。
木くずへ潜る。
箱の外へは出られない。
人間が大切にしている。
現時点で必要な情報は得た。
いつまでも見続ける理由がない。
ここ、変わらない
その夜。
家の中が静かになると、箱の中から音が聞こえ始めた。
昼間は木くずの中にいたハムスターが動き出したらしい。
食事を運ぶ音。
何かをかじる音。
そして、輪が回る音。
からからからから。
少し止まる。
また、からからからから。
うちの人間は寝台の上で目を開けた。
「思ったより音するなあ」
夜に動くと、紙に書かれていたはずだ。
輪を回すことも知っていた。
それでも、実際に音がすると驚く。
人間は、知っていることと想像できていることが同じではないらしい。
シジミは寝台の足元で耳を動かした。
ハムスターは走っている。
「走る」
「まだ走る」
「ここ、変わらない」
本人も、少し不思議に思っているようだった。
どれだけ走っても景色が変わらない。
それでも、また走る。
止まる。
食事を食べる。
また走る。
うちの人間が布団の中でつぶやく。
「元気だなあ」
昼間眠っていたからである。
人間が起きている時間に眠り、人間が眠る時間に動く。
それだけだ。
うちの人間は少し寝返りを打った。
輪の音が続く。
からからからから。
「もう少し静かに走れないのかな」
走るための輪に、静かさを求めている。
昼間に眠るハムスターを見て、
「全然動かない」
と言い。
夜に動き始めれば、
「音がする」
と言う。
どちらなら満足するのだろう。
ハムスターは、人間の生活時間へ合わせるために預けられたわけではない。
一時的にこの家へ来ただけである。
普段どおりに暮らしている。
うちの人間が、勝手に自分の都合と比べているだけだ。
増えてないね
翌朝。
うちの人間は眠そうな顔で起きた。
栗色の髪が頬へかかっている。
箱の前へ行き、中をのぞいた。
ハムスターは木くずの中で眠っていた。
「夜はあんなに元気だったのに」
夜に元気だったから、今は眠っている。
不思議ではない。
うちの人間は、食事の皿を確認した。
「結構減ってる」
食べたのである。
水も確認する。
「水も飲んでる」
飲んだのである。
輪を見る。
「いっぱい走ったねえ」
見ていたはずだ。
一つ一つ確認しなければ、安心できないらしい。
そして、箱の中をしばらく見つめたあと、うちの人間が言った。
「増えてないね」
増えない。
一晩で何が起きると思っていたのだろう。
ハムスターは一匹のままである。
体が二つに分かれた様子もない。
木くずの下に、もう一匹隠しているわけでもない。
うちの人間は、本当に少し安心したようだった。
一匹しかいないハムスターが一匹のままであることを確認し、安心する。
自分で考えた心配に、自分で疲れている。
シジミは長椅子から、その様子を見ていた。
争う必要がないだけ
うちの人間は何日か世話を続けた。
食事を出す。
水を替える。
箱を掃除する。
昼間は眠らせる。
夜の輪の音にも、少しずつ慣れていった。
ハムスターも、最初ほどシジミを警戒しなくなった。
シジミが箱の近くを通っても、すぐに木くずへ潜らない。
ただし、近づけばこちらを見る。
完全に安心しているわけではない。
それでよい。
猫を警戒するのは正しい。
相手が大切にされているからといって、猫が絶対に何もしない保証はない。
シジミは何もしないつもりだが、ハムスターがそれを信じる必要はない。
距離を取り、逃げられる場所を確かめておく。
小さな動物として、正しい判断である。
うちの人間は、そんな二匹を見て喜んでいた。
「だいぶ仲良くなったね」
なっていない。
互いに、すぐ危険が起きないことを覚えただけである。
ハムスターは箱の中。
シジミは箱の外。
間には透明な壁。
食事も別。
眠る場所も別。
この距離が保たれているから、問題が起きない。
人間は争いが起きなければ、すぐに仲がよいと思う。
違う。
争う必要がないだけだ。
嫌っていなくても、友達とは限らない。
ただ同じ場所で静かに暮らせる。
それで十分な関係もある。
食べられなくてよかった
数日後。
うちの人間の知人が、ハムスターを迎えに来た。
うちの人間は、預かっているあいだの様子を細かく話している。
食事は残さなかった。
水も飲んでいた。
夜はよく輪を回していた。
昼間はほとんど眠っていた。
「シジミとも仲良くしてたよ」
それは違う。
だが、知人は安心したように笑った。
「食べられなくてよかった」
知人まで同じことを言う。
シジミは部屋の端から二人を見た。
なぜ人間は、猫を見るとすぐに何かを食べると思うのだろう。
猫にも食事を選ぶ権利がある。
動くものなら何でも口へ入れるわけではない。
大切にされているもの。
危険なもの。
食べても腹の足しにならないもの。
あとで面倒になるもの。
それくらいは区別する。
人間のほうが、目の前に菓子があれば、
「一個だけ」
と言いながら手を伸ばす。
腹が減っていなくても食べる。
あとで後悔することが分かっていても食べる。
猫より人間のほうが、食べる前に考えていないことがある。
知人が箱を抱え上げた。
ハムスターが中で少し動く。
「帰る」
どうやら、匂いで自分の人間だと分かったらしい。
警戒していた体が少し緩んだ。
うちの人間は箱の中へ手を振った。
「元気でね。またね」
また預かるつもりなのだろうか。
知人は何度か礼を言い、箱を持って帰っていった。
家の中が静かになる。
夜になっても、輪の音はしない。
いなくなると寂しい
うちの人間は空いた棚を見た。
「いなくなると、ちょっと寂しいね」
数日前まで、夜の音が気になると言っていた。
昼間は動かないと言っていた。
増えたらどうしようと心配していた。
それでも、いなくなれば寂しいらしい。
人間は、いるものには不満を言う。
いなくなったものは惜しむ。
音がすれば、うるさい。
静かになれば、寂しい。
うちの人間は棚の前で少し考えた。
「ハムスター、飼おうかな」
やめたほうがよい。
預かった一匹が増えないか心配していた者が、自分で飼うのは早い。
それに、夜の輪の音へ慣れるまで何日もかかった。
毎日世話を続ける必要もある。
かわいい。
小さい。
見ていて楽しい。
それだけでは、生き物を迎える理由として足りない。
一匹なら、勝手には増えない
うちの人間は光る板を取り出し、ハムスターについて調べ始めた。
「種類によって性格も違うんだ」
当然である。
猫だって、すべて同じではない。
「一匹ずつ飼ったほうがいいんだって」
最初から、そう説明していたはずだ。
「一緒にすると増えることがあるんだ」
だから、雄と雌を一緒にするからである。
うちの人間は、しばらく画面を読んだ。
そして、ようやくつぶやいた。
「一匹なら、勝手には増えないよね」
ようやく理解したらしい。
ハムスターは分裂しない。
箱の中から突然、同じものがもう一匹現れたりもしない。
生き物が増えるには、それぞれの生き物なりの理由と過程がある。
人間は結果だけを聞くと、その途中を省いて考える。
ハムスターは増えやすい。
だから、置いておけば増える。
猫は狩りをする。
だから、ハムスターを見れば食べる。
二匹が争わない。
だから、仲がよい。
どれも途中が抜けている。
シジミがハムスターを食べなかったのは、優しいからだけではない。
食べる必要がない。
食べたあとの不利益が大きい。
大切にされているものだと分かっている。
いくつもの理由がある。
だが、うちの人間には、
「シジミはハムスターと仲良くできた」
という話になっている。
そのほうが、かわいらしくて分かりやすいのだろう。
うちの人間は光る板を置き、シジミの隣へ座った。
「シジミ、ハムスターいなくなって寂しい?」
寂しくない。
静かになっただけである。
少し変わった匂いと音が、家から消えた。
それには気づいている。
だが、数日一緒の家にいただけで、強い情が移ったわけではない。
シジミが返事をしないと、うちの人間は勝手にうなずいた。
「寂しいよね。また会えるといいね」
やはり、聞いていない。
ハムスターが勝手に増えると思い。
シジミが勝手に食べると思い。
争わなければ仲良しだと思い。
いなくなれば寂しがっていると思う。
うちの人間の頭の中では、生き物はいつも分かりやすく動いている。
現実の生き物は、もう少し考えている。
少なくとも、シジミはうちの人間より先のことまで考えている。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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