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(一)半年近く
カランタに来てから、半年近くが過ぎていた。
山科理人は、もう水桶を指して単語だけを並べる必要はなくなっていた。
「北の道の護衛依頼、人数が少ない。昨日の報告、まだ反映されていない」
受付のセリアが、少し疲れた顔で書類をめくる。
「反映する前に、依頼主が急ぎだと言ってきたんです」
「急ぎと安全は別だ」
「分かっています。だからあなたを呼びました」
その程度の会話なら、もう通じる。
発音はまだ怪しい。
言い回しも硬い。
冗談は半分くらいしか伝わらない。
それでも、最初の頃とは違う。
リナが隣で全部を言い直す必要は、もうなかった。
リナはリナで、別の紙を見ている。
「こっち、昨日の戻りの報告。小型魔物、二回」
「場所は?」
「東の細道。白い石の手前」
理人は手を止めた。
白い石。
その言葉に、前に見た道守りの言い伝えを思い出す。
だが、今はその話ではない。
セリアが別の木箱を持ってきた。
「それと、こちらも見てください」
中には、薄い木札が何枚か入っていた。
表面には、細かい円と線が描かれている。
文字ではない。
だが、ただの絵にも見えなかった。
理人は眉をひそめる。
「札?」
「魔物除けです」
セリアは木箱を机に置いた。
「荷運び用のものです。最近、報告が揺れています」
「揺れる?」
「効いたという人もいる。効いていないという人もいる。荷役獣が嫌がったという人もいる。犬が吠えたという人もいる」
理人は、木箱の中を見た。
同じような札が、何枚もある。
同じように見える。
だが、本当に同じかどうかは、まだ分からない。
理人は椅子を引き寄せた。
「並べよう」
セリアは小さくため息をついた。
「やっぱり、そう言うと思いました」
(二)魔物除けの札
木札には、同じような模様が描かれていた。
円。線。小さな点。方角のような印。
それらが、細かく組み合わされている。
理人は木札を一枚持ち上げた。
「これは、荷車に下げる?」
「はい。街道を行く荷車に下げます。低級の魔物なら、近づきにくくなると言われています」
「言われている」
理人は、その言い方を繰り返した。
セリアは少しだけ顔をしかめる。
「実際、被害が減ることはあります」
「減ることはある。でも、今回、出る時と出ない時がある」
「そうです」
理人は木札を机に置いた。
「札が効いたかどうかは、まだ分からない?」
セリアは少し驚いた顔をした。
「普通は、被害がなければ効いたと見ます」
「魔物が近くにいなかっただけかもしれない」
セリアは黙った。
それから、少しだけ苦い顔でうなずいた。
「……それは、そうですね」
理人は札を並べた。
魔物被害がなかったと報告された札。魔物が寄ったと報告された札。荷役獣が嫌がった札。犬が吠えた札。新しい札。古い札。
見た目は、ほとんど同じだった。
ほとんど同じ。
だからこそ、理人は嫌な予感がした。
倉庫の袋も、最初は同じに見えた。
依頼票も、最初は整って見えた。
撤退条件のない低危険度依頼も、紙の上では安全に見えた。
同じように見えるものを、同じ扱いしてはいけない。
理人は、札の外周を指でなぞった。
円がある。
その内側に、細い線がいくつも走っている。
線は中央へ向かったり、外へ戻ったり、途中で分かれたりしている。
飾りのようにも見える。
だが、飾りにしては細かすぎる。
理人は顔を上げた。
「これ、誰が作った?」
セリアは木箱の横に置かれた札束を見た。
「神殿分院に出入りしている魔道具師と、神殿の術具係です。今、呼んでいます」
理人はうなずいた。
専門の者が来る。
それは助かる。
ただし、専門の言葉はたぶん難しい。
理人は木片を引き寄せ、札の横に小さく書いた。
魔物被害。札。作った人。使った場所。荷役獣。犬。虫。煙。後で確認。
項目は、もう増え始めていた。
(三)素材と魔力
しばらくして、神殿分院から来ていた男が札を手に取った。
白い布を肩にかけ、指先には薄く染料がついている。
神官というより、神殿で魔道具を扱う者らしい。
「魔力の乗りが悪いのでしょう」
男は、札を一目見てそう言った。
理人は男を見る。
男は札の表面を軽く撫でる。
「素材が悪ければ、魔力は通りません。湿気を吸った木札もよくありません。古い札なら、なおさらです」
セリアが聞く。
「では、素材の問題ですか」
「おそらくは」
男はそう言った。
理人は、そこで少しだけ眉を動かした。
おそらく。
つまり、確定ではない。
素材が悪い可能性はある。
古い札もある。
湿気を吸ったものもあるだろう。
それは否定しない。
だが、新しい札でも被害は出ている。
同じ道でも、被害が出た日と出ない日がある。
同じ種類の札に見えるのに、動物の反応も違う。
素材だけでは、少し説明が足りない。
理人はまだ何も言わなかった。
まず、見る。
男は続ける。
「魔物が強くなっている可能性もあります。道の魔力が濃くなっているのかもしれません。荷運びの者が札を正しく扱わなかった可能性もあります」
理人はうなずいた。
どれも、あり得る。
素材。古さ。湿気。道。魔物。扱った人。作った人。魔力を通した人。
原因の候補は多い。
だから、一つに決めるのは早い。
理人は木片に書き足した。
素材。湿り。古さ。道。魔物。扱い。作り手。魔力を通した者。
セリアがそれを見て、嫌な予感がした顔をする。
「また増えますか」
「増える」
理人は素直に答えた。
セリアは額を押さえた。
神殿の男は、少し不快そうに理人を見る。
「札は、術具の知識がなければ分かりません」
「分からない」
理人はうなずいた。
「だから、まず違いを見る」
男は黙った。
納得した顔ではない。
だが、否定する言葉もすぐには出なかった。
(四)線の違い
理人は、札を一枚ずつ並べた。
魔物被害がなかったと報告された札。魔物が寄ったと報告された札。古い札。新しい札。東の細道で使った札。北の道で使った札。
円の形は似ている。
中央の印も、ほとんど同じ。
外側の線も、だいたい同じ。
だが、完全には同じではない。
理人は、魔物が寄ったと報告された札を二枚並べた。
外周の線の一部に、小さな切れ目がある。
いや、切れ目ではないのかもしれない。
そういう記号なのかもしれない。
次に、魔物被害がなかったと報告された札を見る。
同じ場所に、別の小さな印がある。
点。短い線。欠け。
それだけの違い。
理人は、前に聞き間違えかけた言葉を思い出した。
レク。レクナ。行く。行くな。エル。エルカ。見る。見たら。
小さな音が、文の役割を変えた。
なら、線や点にも、何か役割があるのではないか。
理人は、札を見つめた。
まだ分からない。
だが、ただの飾りとは思えなかった。
神殿の男が口を開く。
「それは描き癖でしょう」
「描き癖かもしれない」
理人は答える。
「そういう型かもしれない」
「なら、問題ではありません」
「まだ分からない」
理人は札の位置を入れ替えた。
被害あり。被害なし。古い。新しい。同じ場所。違う場所。線が戻る。線が戻らない。点がある。点がない。
見れば見るほど、分からないことが増える。
だが、分からないことが増えるのは悪いことではない。
混ざっていたものが、ようやく分かれ始めたということだ。
リナが横から札をのぞき込んだ。
「ここ、違う」
彼女は外周の線を指した。
理人が見ていた場所と同じだった。
理人はうなずく。
「そう。違う」
リナは、もう一枚を指した。
「こっちは、戻ってる」
「戻ってる?」
「線、外に行って、中に戻る」
理人は、リナの指先を追った。
確かに、外周を走る線が、内側の印へ戻っているように見える。
別の札では、その線が途中で終わっていた。
理人は木片に書いた。
戻る線。切れる線。点で終わる線。意味、不明。
(五)リナの観察
リナが、一枚の札を見て顔をしかめた。
「それ、三番が嫌がった札」
理人は顔を上げる。
「三番?」
「荷役獣。北の道の時、この札を荷車につけたら、ずっと耳を伏せてた」
神殿の男が眉をひそめた。
「魔物除けの札を、荷役獣が嫌がる?」
「うん」
リナは短く答えた。
昔なら、ここで声が小さくなっていただろう。
だが今は、少し違う。
リナは、自分の観察をただの勘だとは思わなくなっている。
「犬も吠えた。札そのものじゃなくて、札を荷車の右側につけた時」
理人は札を見た。
右側。位置。札の種類。動物の反応。魔物の被害。
それらを一緒に見る必要がある。
ただし、同じものとして扱ってはいけない。
理人は言った。
「三番が嫌がったから、この札が効いたとは言えない」
リナがうなずく。
「効いてないとも言えない」
「そう」
理人は札を指した。
「でも、三番が何かに反応したことは、消さない」
リナは少しだけ胸を張った。
その時、リナが札の近くを飛んでいた小さな羽虫を指した。
羽虫は札に近づき、途中でふっと曲がった。
一度だけではない。
同じ場所で、何度か向きを変えている。
理人は札を見た。
羽虫が避けた場所は、外周の線が途切れているあたりだった。
「虫が避ける。だから失敗、ではない」
理人は自分に言い聞かせるように言った。
「ただ、そこに何かあるかもしれない」
理人は、札の横に小さく印を置いた。
虫、回避。
その下に、もう一つ。
原因、不明。
神殿の男は、少し困った顔をした。
「虫の動きで魔法陣を判断するのですか」
「判断しない」
理人は即答する。
「記録する」
「同じでは?」
「違う」
理人は札を指した。
「答えじゃない。見る場所」
リナがうなずいた。
「虫は答えじゃない。でも、見た」
セリアが、小さく笑った。
「あなたの言い方に似てきましたね」
リナは少し得意げだった。
理人は、札に目を戻した。
動物も、虫も、答えではない。
ただ、同じ場所で反応が重なるなら、そこには見る価値がある。
(六)温かい気がする
理人は、札を指先で触れた。
少しだけ温かい。
そんな気がした。
だが、すぐに手を離す。
「温かい?」
リナが聞いた。
「かもしれない」
理人はそう答えてから、首を横に振った。
「でも、これは使えない」
「使えない?」
「差が分からない」
札が本当に温かいのか。
さっきまで誰かが持っていたからなのか。
火皿の近くにあったからなのか。
木の厚みが違うからなのか。
湿気のせいでそう感じるだけなのか。
手の感覚だけでは分からない。
この世界にも、湯や空気の温かさを見る道具はある。
だが、この札の一部だけがわずかに温かいかどうかを測れるほど、細かいものではない。
理人は、札の横に小さく印を置いた。
温感。
その横に、もう一つ印を置く。
不採用。
リナが首を傾げた。
「温かい、書く。でも、使わない?」
「そう」
理人はうなずいた。
「見たことは消さない。でも、判断には使わない」
リナは少し考え、それからうなずいた。
その言い方なら分かるらしい。
理人は、魔物被害がなかったと報告された札と、魔物が寄ったと報告された札を並べた。
同じ場所に置く。
同じだけ待つ。
同じ火皿から離す。
同じ向きにする。
それから、もう一度触れる。
やはり、違いは分からなかった。
温かい気はする。
だが、差としては見えない。
理人は、温感の印の下に線を引いた。
今回、使わない。
神殿の男が少し不満そうに言った。
「魔力が通れば、熱を持つことはあります」
「あるかもしれない」
理人は答えた。
「でも、今は分からない」
「感じたのでしょう?」
「感じた。でも、比べられない」
理人は、札の外周にある細い線を指した。
「虫が避けた場所。線が切れている場所。そこは同じかもしれない。だから見る」
次に、温感の印を指す。
「これは、まだ同じと言えない」
神殿の男は黙った。
リナが、小さく言う。
「たぶん。でも、まだ使わない」
理人は少し笑った。
「そう。たぶん。でも、まだ使わない」
気がすることには意味がある。
だが、差として見えないものを、差として扱ってはいけない。
理人は木片に書き足した。
感じたこと。比べられること。採用すること。
それらは、同じではない。
(七)煙
理人は、火皿を少し離した場所に置いた。
そこから細く上がる煙を、札の近くへ流す。
煙はまっすぐ上がらなかった。
札の外周に近づいたところで、少しだけ巻いた。
リナが目を細める。
「今、曲がった」
「風かもしれない」
理人は言った。
「もう一回」
札の向きを変える。
煙の流れを見る。
別の札に替える。
また見る。
何度か繰り返すと、同じ場所で煙が乱れる札と、そうでない札があった。
ただし、これも答えではない。
煙は風で変わる。
人が動いても変わる。
火皿の熱でも変わる。
札の湿りでも変わる。
理人は、煙の印を置いた。
煙、乱れ。
その横に、また書く。
原因、不明。
神殿の男が言う。
「それで魔法陣が分かるのですか」
「分からない」
理人は即答した。
「でも、見る場所は増える」
セリアが苦笑した。
「また増えましたね」
「増える」
理人は、札と木片を見比べた。
魔物被害。動物の反応。虫の回避。煙の乱れ。線の欠け。
どれも答えではない。
だが、同じ場所に寄るなら、見る価値はある。
リナは煙をじっと見ていた。
「こっちの札は、右で曲がる」
「右?」
「うん。さっきの犬が吠えた時も、札の右側だった」
理人は、木片に右側と書いた。
位置。向き。反応。
この三つも必要だ。
札そのものだけではなく、どちらを向けて荷車につけたか。
右側か左側か。前か後ろか。上か下か。
それだけで反応が変わる可能性がある。
神殿の男は、ますます渋い顔になった。
「荷運びの者が、そこまで正しく扱えるとは思えません」
理人は顔を上げた。
「だから、分かりやすくする」
男は言葉に詰まった。
扱いが難しいなら、扱う者を責める前に、扱いやすい形を考える。
理人には、それが自然だった。
ただ、魔法の世界でそれが自然かどうかは、まだ分からない。
(八)床に並べる
理人は、札を床に並べた。
魔物被害がなかったと報告された札。魔物が寄ったと報告された札。荷役獣が嫌がった札。犬が吠えた札。羽虫が避けた札。煙が乱れた札。東の細道で使った札。北の道で使った札。新しい札。古い札。
神殿の男が不満そうに言う。
「魔法陣は、そうやって床に並べて読むものではありません」
「すみません」
理人は謝った。
だが、並べるのはやめなかった。
男はさらに不満そうになる。
セリアが横から助け舟を出した。
「この人は、だいたい何でも並べます」
「何でも?」
「袋も、依頼票も、報告も」
「……それは、魔法とは関係ないのでは?」
理人は札から目を離さずに言った。
「関係あるかどうかを見るために、並べている」
男は黙った。
理人は、札の外周にある印を指した。
魔物被害がなかった札には、この印がある。
魔物が寄った札には、似た印があるが、少し違う。
羽虫が避けた札には、外周の切れ目がある。
煙が乱れた札にも、似た場所に切れ目がある。
偶然かもしれない。
描いた人の癖かもしれない。
素材の違いかもしれない。
だが、まずは分ける。
同じに見えるものを、同じ扱いしない。
理人は、木片に小さく書いた。
同じように見える札。
同じとは限らない。
リナが、札の一枚を持ち上げた。
「これ、古い」
「どこで分かる?」
「端が黒い。匂いも違う」
理人は札を受け取り、匂いを確かめた。
確かに、少し湿った木の匂いがする。
神殿の男が言った。
「それは古い札です。湿気を吸っています。比較には向きません」
理人はうなずいた。
「分ける」
古い札。新しい札。湿っている札。湿っていない札。同じ型に見える札。違う型かもしれない札。
床の上に小さな分類が増えていく。
セリアがそれを見て、肩を落とした。
「床まで表になってきましたね」
「広いから」
理人は真面目に答えた。
セリアは少し笑った。
(九)流れる道
理人は、魔法陣を見つめた。
円。線。点。欠け。反復する印。
外側から内側へ向かう線。内側から外側へ抜ける線。途中で戻る線。途中で終わる線。
最初は、ただの模様に見えた。
だが、並べると違う。
魔物被害がなかった札では、線が戻っている。
魔物が寄った札では、同じ場所の線が途中で切れている。
羽虫が避けた札では、その近くで煙も乱れた。
それが何を意味するのかは分からない。
だが、意味がないとも思えない。
理人は、札を指した。
「これは、絵じゃない」
神殿の男が眉をひそめる。
「魔法陣です」
「うん。だから、絵じゃない」
理人は、外周の線をなぞった。
「たぶん、流れる道だ」
「魔力の流れを導くものですから、それは当然です」
「なら、道が切れていたら?」
男は答えなかった。
理人は、魔物被害がなかった札と、魔物が寄った札を並べた。
「こっちは戻っている。こっちは戻っていない」
「それは、そういう型かもしれません」
「そうかもしれない」
理人はうなずいた。
「でも、魔物が寄った札に多い」
神殿の男は、少しだけ口を閉じた。
理人は、まだ分かるとは言わなかった。
ただ、見えている差だけを指した。
「魔力が弱いのかもしれない。素材が悪いのかもしれない。描いた人の癖かもしれない。でも、線の違いもある」
リナが横から言った。
「虫が避けた札も、それ」
理人はうなずく。
「札の線。置いた場所。動物の反応。虫。煙。全部、分けて見る」
セリアが小さく笑った。
「また増えましたね」
「増える」
理人は札を見た。
この札は、何かの手順をもとに作られたものだ。
その手順がどこかにあるのかもしれない。
神殿の者なら知っているのかもしれない。
だが、今ここにある札は、手順そのものではない。
手順から作られた結果だ。
そして、結果の方で何かがずれている。
理人は、外周の切れた線を見つめた。
「魔法陣には、おそらく意味がある」
その言葉は、少し弱い。
だが、今の理人にはそれ以上言えなかった。
(十)分かるとは言っていない
神殿の男は、理人をまっすぐ見た。
「あなたは魔力を扱えるのですか」
「扱えない」
理人は正直に答えた。
「魔法陣を描いたことは?」
「ない」
「魔法理論を学んだことは?」
「ない」
「では、なぜ分かると言えるのですか」
理人は少し黙った。
分かる、とは言えない。
それを言えば、前と同じ失敗になる。
信用のない正しさは、ただの石だ。
理人は首を横に振った。
「分かるとは言っていない」
そして、札を指す。
「違いがあると言っている」
神殿の男は口を閉じた。
理人は続ける。
「魔物被害がなかった札と、魔物が寄った札。動物が嫌がった札と、嫌がらなかった札。虫が避けた札。煙が乱れた札。線が違う札。場所。向き。古い札。新しい札。違いがある」
「それが魔法の理由とは限りません」
「そうだ」
理人はうなずいた。
「だから、後で確認する」
リナが、木片の丸い印を指した。
後で確認。
セリアが小さく笑う。
神殿の男だけは、まだ笑わなかった。
「外から来た者に、魔法陣のことを分かったように扱われるのは、正直、不愉快です」
男はそう言った。
理人は、少しだけ頭を下げた。
「分かる」
それは本心だった。
自分の仕事に、何も知らない者が口を出す。
それが不愉快なのは分かる。
前の世界でも、よくあった。
図面を読めない者が、現場に口を出す。
装置を触ったことのない者が、工程に口を出す。
数字だけを見た者が、人を責める。
理人は、それが嫌いだった。
だから、同じことはしたくない。
理人は札を指した。
「魔法は、あなたが知っている。俺は知らない」
次に、並べた札を指す。
「でも、違いは見える」
男は、すぐには答えなかった。
理人は続ける。
「教えてほしい。これは、型の違いか。失敗か。意味がある線か」
神殿の男の表情が、少しだけ変わった。
怒りが消えたわけではない。
だが、ただ否定する顔ではなくなった。
(十一)閉じてない
札を並べているうちに、理人は一箇所で手を止めた。
魔物が寄ったと報告された札。
その外周にある小さな線。
他の札では、線が内側の印へ戻っている。
だが、その札だけは戻っていない。
途中で終わっている。
理人は別の札を見る。
同じ場所に、似た線がある。
しかし、そちらは円の内側へつながっている。
さらに別の札。
そこでは、線の終わりに小さな点がある。
理人は三枚を並べた。
線が戻るもの。線が点で終わるもの。線が途中で切れているもの。
どれが正しいのかは分からない。
全部正しい可能性もある。
用途が違うのかもしれない。
描いた者の癖かもしれない。
だが、理人には嫌な形に見えた。
何かが開いたままになっている。
そんな感じがする。
理人は小さくつぶやいた。
「閉じてない……?」
セリアが聞き返す。
「何がですか」
「まだ分からない」
理人は札を見た。
「でも、ここ。たぶん、おかしい」
神殿の男が顔をしかめる。
「たぶん、ですか」
理人はうなずいた。
「たぶん」
リナが横で言った。
「不明。後で確認」
理人は思わず笑った。
「そうだ」
ただし、気になることが一つあった。
閉じていないように見える札の中にも、魔物被害がなかったものがある。
逆に、線がきれいに見える札でも、被害が出たものがある。
単純ではない。
理人は、札の裏に小さく印をつけた。
誰が描いたか。誰が魔力を通したか。いつ作られたか。古くないか。湿っていないか。素材は同じか。同じ型の札か。
線だけでは足りない。
作った者の腕も見る必要がある。
だが、腕だけにすると、線の違いが消える。
理人はため息をついた。
問題は、一つではない。
だからこそ、分けなければならない。
神殿の男が、低く言った。
「魔力の通し方で補えることもあります」
理人は顔を上げた。
「補える?」
「多少の線の揺れなら、術者が魔力を通す時に整えます。上手い者なら」
理人は、その言葉を木片に書いた。
上手い者なら、補える。
それは重要だった。
欠けがあっても、動く札がある理由かもしれない。
同時に、欠けがあっても問題が見えにくくなる理由でもある。
理人は、閉じていないように見える線をもう一度見た。
まだ直さない。
まだ断定しない。
ただ、次に見る場所は決まった。
(十二)魔法は使えない
その夜、理人は札の写しを見ていた。
魔法は使えない。
魔力もない。
詠唱も分からない。
魔法陣を描けるわけでもない。
それでも、線の並びは見える。
印の違いは見える。
魔物被害があったものと、なかったものの差は見える。
動物や虫や煙の反応も、記録すれば見える。
熱のように、感じても採用できないものもある。
理人は、木片に小さく書いた。
魔法陣。線。戻る。切れる。虫、回避。煙、乱れ。温感、不採用。未確認の線。閉じていない可能性。作り手。魔力を通した者。古さ。湿り。
それは、魔法理論ではない。
神殿の教えでもない。
ただのよそ者の仮説だった。
だが、理人は思う。
魔法が使えないことと、魔法に関われないことは違う。
剣を持てなくても、戦場の地図は読める。
魔力を流せなくても、魔力が流れる道なら見えるかもしれない。
理人は札を伏せた。
魔法陣には、おそらく意味がある。
分かったわけではない。
ただ、意味がないと決めるには、線が揃いすぎていた。
そして、線だけを見ればいいと決めるには、結果が揺れすぎていた。
リナが、隣で木片をのぞき込む。
「また、増えたね」
「増えた」
「大変?」
「大変」
理人は正直に答えた。
リナは少し笑った。
「でも、見えるようになった」
理人は、その言葉にうなずいた。
見えるようになることは、いつも楽ではない。
見えた分だけ、面倒が増える。
だが、見えないままよりはましだ。
理人は、閉じていないように見える線を、もう一度木片に写した。
その横に、いつもの印を置く。
後で確認。
(十三)ログ
ログ
構造差分:検出
魔力経路:未接続
注記:
非行使個体による外形的観測が発生。
非正規転生 ~転生したけど最弱スキルすらもらってない~ TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
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