八重結び 第0話 防火扉を閉めた日

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八重結び|霊障処理にも契約範囲がある現代退魔業者もの
八重結び現代退魔業者もの怨霊は悪ではない。けれど、有害なら処理する。作品概要二〇三号室、夜間圧迫感および首部発赤の調査、ならびに必要と判断される場合の簡易対処および対処後観察。黒瀬退魔処理に回ってきたのは、そんな長い案件名の調査依頼だった。…

一 名前が薄くなる

八十年前、旧市営地下道の災害に対応した八重士がいた。

その男の名前は、記録に残っていない。

いや、残っていないと言い切るには、少し違う。

呼ばれていた。
名乗っていた。
署名もしていた。
家にも、その名前で呼ぶ者がいた。

同僚も、後輩も、妻も、子供も、その名前を知っていた。

■■■■■は、自分の名前を呼ばれている。

その声に、返事もしている。

「■■■■■」

呼ばれた。

だから、返した。

「何だ」

返事は自然だった。
返事をした自分にも、不自然さはなかった。

けれど、少し遅れて、妙な空白が来る。

今、自分は何と呼ばれたのか。

分からない。

呼ばれたことは分かる。
自分の名前だったことも分かる。
自分が返事をしたことも分かる。

だが、その名前が何だったのかだけが、指の間から水のように抜け落ちていく。

■■■■■は、眉を寄せた。

おかしい。

今、自分の名前を呼ばれた。

自分でも、名前を言った。

でも、それが何だったのか分からない。

疑問には思える。

ただ、不思議と違和感にはつながらなかった。

疲れているのだろう。
豪雨対応が続いている。
地下道の浸水報告もある。
停電も起きている。
行政からの連絡も錯綜している。

名前を一瞬取り落とすくらい、あり得る。

そう思った。

そして、そう思ったことも、すぐに些細なことになっていく。

名前が薄くなる。

薄くなっていることに気づく力も、少しずつ薄くなる。

二 家族の中の欠落

家でも、小さな欠落は起きていた。

夕食の支度をしていた妻が、ふと夫を見る。

「あ……」

箸を並べる手が止まる。

「あれ? おかしいわね」

夫が顔を上げる。

「どうした」

妻は、数秒だけ夫を見ていた。

何かを忘れた。

それは分かる。

けれど、何を忘れたのかが分からない。

夫の顔は分かる。
夫であることも分かる。
声も、座り方も、茶碗の持ち方も、よく知っている。

なのに、何かが抜けている。

妻は小さく笑った。

「ちょっと疲れているのかしら?」

夫は深く追及しなかった。

「早く寝ろ」

「あなたに言われたくありません」

そんなやり取りは、いつも通りだった。

いつも通りだったから、欠落は目立たなかった。

しばらくして、息子が学校から帰ってきた。

玄関で靴を脱ぐなり、楽しそうに言う。

「今日、学校でお父さんの名前を聞かれたの!」

妻は台所から顔を出す。

「あら、何て答えたの?」

息子は胸を張った。

「すっごい強い退魔士って答えた!」

妻は笑った。

「名前を聞かれたんじゃないの?」

息子は首を傾げる。

「名前?」

「名前は……答えたと思うけど」

少し考える。

それから、あっけらかんと言った。

「忘れちゃった!」

妻は笑う。

「もう。人に聞かれたことには、ちゃんと答えなさい」

「答えたってば」

「本当に?」

「たぶん!」

子供の言い間違い。

それで済む話だった。

少なくとも、その時はそう見えた。

ただ、名前だけが少しずつ遠くなる。

夫の顔は分かる。
父の強さは分かる。
家族であることも分かる。

けれど、名前だけが薄くなる。

忘れているのではない。

最初から、そこに書かれていなかったようになっていく。

三 決めた時点から始まる

禁呪は、発動した瞬間から記録に干渉するわけではなかった。

決めた時点から、すでに始まっていた。

名前。
署名。
記録。
記憶。
本人確認。

少しずつ、薄くなる。

■■■■■は、それを完全には理解していなかった。

ただ、何かがおかしいことだけは分かっていた。

災害対応の報告は、悪化している。

旧市営地下道の一部で浸水。
停電。
避難誘導の混乱。
火災の兆候。
霊障濃度の上昇。
閉じ込められた人々。

通常の処理では、間に合わない。

八接続で足りないことは、最初から分かっていた。

だから、さらに伸ばす。

折らずに、切らずに、接続を継ぐ。

禁呪になる。

それも分かっていた。

分かっていて、決めた。

この術式は残すことにした。

生きた証を残したいからではない。
英雄として名前を刻みたいわけでもない。

むしろ、名前が残るかどうかさえ、だんだん怪しくなっていた。

それでも、術式構成だけは残さなければならない。

明日の自分の失敗を、誰かに知ってほしいと思った。

明後日より後の誰かの成功に、つながってほしいと思った。

きっと、それだけだった。

きれいな覚悟ではない。

怖かった。
迷いもあった。

それでも、書くことにした。

正しく残るとは思っていない。

都合の悪い記録として消されても、後で誰かが引っかかるだけの違和感を残すために。

四 作戦書

■■■■■は、作戦書の用紙を広げた。

術式構成。
使用系統。
接続数。
想定処理時間。
現場入りの手順。
避難誘導との接続。
行政側の判断記録。

何百回と書いてきた書式だった。

ペンを持つ。

名前を書く。

一画目で、止まった。

字が、変だった。

自分の字ではないような気がした。

寝不足だとは思った。

災害対応の前に、十分眠れる退魔士などいない。

もう一度書く。

今度は書けた。

読める。

たぶん読める。

だが、自分の名前を書いているという手応えがなかった。

書いているのに、書いたものが自分から離れていく。

■■■■■は、そこで初めて、はっきりと思った。

なぜか消える。

軍部や行政に消される可能性は想定していた。

都合の悪い記録として抹消されることは、あり得ると思っていた。
災害対応の失敗。
防火扉の判断。
退魔士の禁呪使用。

後から誰かが書類を焼くことは、想像できた。

けれど、これは違う。

誰かが消すのではない。

なぜか消える。

その方が、ずっと怖かった。

■■■■■は、隣にいた後輩を呼んだ。

「悪い、これ頼む」

後輩退魔士が顔を上げる。

「作戦書ですか?」

「自分が書くんですか?」

「他人に書かせるのは、あまりお好きではないと思っていましたが……」

■■■■■は、ペンを置いた。

「術式構成のとこだけでいい」

「俺が読み上げる」

「お前が書け」

後輩は不思議そうな顔をした。

だが、先輩に言われれば書く。

それだけのことだった。

■■■■■は術式構成を口頭で伝える。

声は乱れなかった。

接続の順番も、系統の配分も、何も間違えなかった。

一つ目の八接続。
観測。
固定。
同調。
偏向。
凝縮。
希薄。
反発処理。
本固定。

二つ目の八接続。
救助範囲拡張。
瓦礫固定。
煙流路偏向。
恐怖同調。
残滓希薄。
怨霊核凝縮。
境界再固定。
封印座標固定。

正確だった。

ただ、自分の手では書かなかった。

後輩は書きながら、少し眉をひそめる。

「八接続を二つ使うんですね」

「二つ目とか、初めて見る組み合わせです」

そこで、後輩は言葉を探した。

「あー、えーっと……先輩」

その呼びかけは、名前ではなかった。

■■■■■は、気づいた。

気づいたが、指摘しなかった。

書類上は、八接続が二つ。

どちらも単体では、禁呪に見えない。

だが実態は違う。

一つ目の八接続が、終わっていない。
折られていない。
切られていない。

八接続を、折らずに伸ばしている。

十六接続。

禁呪だった。

五 現場入りの署名

現場入りの署名も、書けているのか分からなかった。

見えてはいる。
読めてもいる。

たぶん、読めている。

けれど、それが自分の名前なのか分からない。

■■■■■は、念のため口にもしてみる。

「■■■■■」

声は出た。

だが、やはり分からない。

その場は、災害対応の混乱の中だった。

豪雨。
停電。
地下道の浸水。
救助要請。
怒号。
作業員。
行政担当。
退魔士。
現場責任者。

誰も、署名欄を長く見ていられない。

次の判断が必要だった。
次の確認が必要だった。
次の避難誘導が必要だった。

署名の違和感は見逃される。

■■■■■は、不謹慎なことに、ちょうどいいと思ってしまった。

見逃された方が、現場へ入れる。

現場へ入れなければ、間に合わない。

もう、その判断自体が少しおかしくなっていた。

本来なら、止まるべきだった。

名前が分からない。
署名に手応えがない。
自分で自分を確認できない。

それは、現場入りを止める理由になる。

だが、当時の手順には、それを止める仕組みがなかった。

名痩せという言葉も、本人確認遅延という基準も、帰還確認という作戦終了条件もない。

名前を呼ぶ者はいた。

けれど、名前が保たれているかを見張る者はいなかった。

■■■■■は、旧市営地下道へ入った。

六 災害

旧市営地下道では、豪雨と停電により人々が閉じ込められていた。

行政、退魔士、現場責任者は救助を試みる。

だが、状況は悪化する。

地下道の一部で火災が起きた。
煙が流れる。
水が溜まる。
霊障が濃くなる。

避難経路は減っていく。
連絡は途切れていく。
照明は落ち、声だけが増えていく。

防火扉を閉めなければ、火と煙はさらに広がる。

防火扉を閉めれば、取り残される人がいる。

閉めるな。
閉めろ。
開けろ。
開けるな。
助けて。
助ける。
戻れ。
戻るな。

声は重なり、誰のものか分からなくなる。

行政担当は判断を求められた。
現場責任者は時間を見た。
退魔士たちは霊障濃度を見た。

誰も、悪意でそれを決めたわけではない。

誰かを見捨てたい者はいなかった。

だが、閉めなければ、もっと多くが死ぬ。

閉めれば、助からない者がいる。

決断は、悪意ではなかった。

それでも、取り残された人がいた。

取り残すことを決めざるを得なかった人がいた。

防火扉が閉まる音は、地下道の中で何度も反響した。

その声と足跡と手が、地下道に残った。

救いを求める足跡。
助けようと伸びる手。
意味になる前に壊れた声。

そして、責任の行き場だけが、誰にも渡せないまま残った。

七 一人で支える

■■■■■は、一人で封印術式を支える。

本来必要だった接続数は、八を超えていた。

それは事前に分かっていた。

だから彼は、追加の八接続を乱れなく行う。

書類上は、八接続が二つ。

だが実際には、最初の八接続を折らずに伸ばした十六接続。

追加の八接続は、ただひたすら救えるものを救うために手足を伸ばすだけの術式だった。

目はいらない。

欲しいのは、救うための手足だけ。

怨霊がいる。

希薄は十分に追加している。

物が落ちる。

固定は十分に追加している。
偏向も効いている。

人々がおびえている。

恐怖は同調で十分に引き受けられる。

彼の術は、式として接続される。

複雑であると同時に、万能な式として完成する。

この場のすべての怨霊と物体に作用する。

複雑だから、すべてに作用できる。

怨霊には怨霊の形で。
瓦礫には瓦礫の形で。
人の恐怖には人の恐怖の形で。

術式が歪んで届く。

だから万能。

そして、それは時間軸にも同じように作用する。

だから禁呪。

目を捨てた彼には、それが見えない。

誰も、彼を縫い留めてはくれない。

名前を呼ぶ人間はいた。

だが、術式の外側から彼を観測し、記録し、帰還を確認する仕組みはなかった。

署名を確認する者もいない。
名痩せを異常として扱う者もいない。
術式そのものの反発を逃がす者もいない。

彼は、全部に届いた。

怨霊にも。
瓦礫にも。
人の恐怖にも。

けれど、自分が放った術式そのものが何を残すかは、前提条件に入っていなかった。

術式そのものの残滓。

それが八十年後まで絡まり続ける。

八 防火扉を閉めた日

防火扉は閉められた。

閉めなければ、もっと多くが死んだ。

閉めたから、助からなかった人がいた。

■■■■■の術式は、被害の拡大を止めた。

怨霊を抑えた。
瓦礫を留めた。
恐怖を引き受けた。
火と煙と霊障の拡散を遅らせた。

多くの人が助かった。

その代わり、■■■■■は消えた。

死んだのではない。

名前も、記録も、誰かの記憶からも抜け落ちていく。

後輩の作戦書には、術式構成だけが残った。

筆跡は本人のものではない。

書類上は、八接続が二つある。

どちらも単体では禁呪に見えない。

だが、そこにいたはずの八重士の名前がない。

周辺の情報から穴埋めすると、そこには間違いなく八重士級の退魔士がいなければならない。

けれど、記録にはいない。

存在しないことになっている。

同僚は、誰かがいたような気がした。

後輩は、先輩と呼んだ相手の顔を思い出せた。

けれど、名前は出てこない。

行政の記録には、術式構成が残った。

だが、実行者欄には空白がある。

現場責任者の覚書には、八重士級の協力あり、とだけある。

誰の協力だったのかは、読めない。

■■■■■は、消されたのではない。

消えていった。

そういう形で、術式は終わった。

九 家に残った余白

災害のあと、家では少しずつ帳尻が合っていく。

息子が、食卓を見て言った。

「うちって、三人家族だっけ?」

妻は食器を並べながら答える。

「そうね」

けれど、その声は少しだけ揺れた。

「あら、そうだったかしら?」

息子は食器棚を見る。

「食器とかね、必ず一枚余分にあるんだよ」

妻は、余った皿を見る。

白い皿だった。

よく使われている。
縁に小さな欠けがある。

誰かが使っていたような気がする。

けれど、誰が使っていたのかは分からない。

妻は少し考え、それから笑った。

「たぶん……それは、あなたが割っても大丈夫なようによ」

息子は納得した。

「そっか」

妻も納得した。

納得してしまった。

人の記憶も、記録である。

記録から抜けるということは、記憶からも抜けるということだった。

それでも、食器は一枚余っていた。

誰のものだったのかは、もう誰も言えない。

ただ、余っていた。

名前はない。

けれど、余白だけが残った。

第0話 防火扉を閉めた日 了

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八重結び|霊障処理にも契約範囲がある現代退魔業者もの
八重結び現代退魔業者もの怨霊は悪ではない。けれど、有害なら処理する。作品概要二〇三号室、夜間圧迫感および首部発赤の調査、ならびに必要と判断される場合の簡易対処および対処後観察。黒瀬退魔処理に回ってきたのは、そんな長い案件名の調査依頼だった。…

登場人物

人物役割
■■■■■名前が見えない過去の八重士。十六接続の禁呪を使い、記録から消える。
夫の名前と存在を忘れかける。家に残った余白に気づくが、理由までは掴めない。
子供父親の名前に違和感を覚えるが、忘れたこと自体を自然に受け入れてしまう。
後輩退魔士作戦書の術式構成を代筆する。後世に筆跡違いの記録を残す。
当時の行政担当防火扉を閉める判断に関与する。
当時の退魔士たち救助と封印の狭間で苦悩する。
現場責任者火災、停電、浸水の中で判断を迫られる。
被災者たち地下道に閉じ込められた人々。

公開設定

設定名内容
過去災害の真相旧市営地下道で八十年前に起きた災害の概要。
防火扉の決断悪意ではなく苦渋の選択。閉めなければ広がり、閉めれば取り残される。
一人に背負わせた失敗一人の八重士が怨霊、瓦礫、人の恐怖をすべて受けたこと。
八接続二つの偽装書類上は二つの八接続だが、実態は八接続を折らずに伸ばした十六接続。
十六接続禁呪。八接続の限界を超え、存在や記録を削る。
目を捨てた術式救うための手足だけを伸ばし、自分の欠落を見ない術式。
時相干渉禁呪の余波が時間軸へ漏れ、決めた時点から記録に干渉すること。
名痩せの極限名前が完全に失われ、本人も周囲も名前を保持できなくなる状態。
代筆された作戦書本人の字ではない術式構成。後世に筆跡違いの記録として残る。
術式残滓禁呪が前提条件に入れていなかった、術式そのものの反発と歪み。
隠蔽と未処理災害後、記録が欠落し、責任と感情が未処理のまま残ったこと。
家に残った余白本人の名と記憶は消えても、生活の跡だけが残ること。

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