勇者の条件 第19話 向こう側へ知らせる者

勇者の条件 第19話 向こう側へ知らせる者 創作実験
勇者の条件 第19話 向こう側へ知らせる者

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勇者の条件
創作実験TOP異世界ファンタジー魔王勇者もの対勇者戦略にて勇者の誕生を阻止する作品紹介歴代魔王は、なぜ勇者に敗れたのか。城を固めても、国境を塞いでも、聖都を脅かしても、最後には勇者が玉座へ届く。ならば魔王軍が見るべきは、国ではない。勇者であ…
勇者の条件 第19話 向こう側へ知らせる者 人物相関図

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戻る条件

朝の山は、まだ冷たかった。

国境洞窟の横に、草に半分埋もれた細い道がある。

道と呼ぶには頼りない。

土はところどころ崩れ、石は露出し、低い枝が顔の高さまで伸びている。

荷馬車は通れない。

馬も無理だ。

槍を持った大人たちが並んで歩くこともできない。

だが、身軽な二人なら通れるかもしれない。

ロアンとミルカは、その道の入口で荷を整えていた。

荷物は少ない。

村長の書状。

地図。

水袋。

軽い食料。

薬草。

縄。

合図用の布。

火を使わない小さな灯り。

ミルカは書状を油紙で包み、さらに布で巻いていた。

ロアンは剣の具合を確かめている。

ミルカが言った。

「剣より先に戻る条件」

ロアンは苦笑した。

「覚えてる」

「じゃあ確認」

「試験みたいだな」

「試験より大事」

「はい」

ミルカは指を折る。

「雨」

「戻る」

「沢の増水」

「戻る」

「どちらかが怪我」

「怪我の程度によるけど、基本戻る」

ミルカは目を細めた。

ロアンはすぐに言い直す。

「いや、ちゃんと確認してから決める。動きが鈍る怪我なら戻る」

「よろしい」

「厳しい」

「次。日没までに第一目印へ着けない」

「戻る」

「小鬼が三匹以上で道を塞いでいる」

「避ける。避けられなければ戻る」

「私がだめって言ったら」

「戻る」

ミルカはうなずいた。

「よし」

ロアンは少しだけ胸を張る。

「満点?」

「油断するから八割」

「厳しい」

「命がかかる試験で八割なら、けっこう褒めてる」

「残り二割が怖い」

「だから確認するの」

村長が近づいてきた。

顔には迷いがあった。

若い旅人二人に、村と村をつなぐ書状を託す。

頼まなければならない。

けれど、頼みたくはない。

そんな顔だった。

「本当に頼めるか」

ロアンは書状を受け取った。

「届けます。無理なら戻ります」

村長は静かにうなずいた。

「戻ることも報告だ」

その言葉は、ロアンの中にしっかり残った。

戻ることも報告。

戻ったなら、まだ次を考えられる。

ミルカは地図を畳み、革袋へ入れた。

「では、行きます」

老人が杖をついて前に出る。

薬草道を知る老人だった。

「第一目印は、割れた大岩だ。そこまでに沢の音が大きすぎたら戻れ。岩の先で風が強ければ崖へ出るな」

ロアンは復唱した。

「割れた大岩。沢の音。風」

「そうだ。山は、昨日の道と今日の道が違う」

ミルカがうなずく。

「雨なら戻ります」

「雨の匂いにも気をつけろ」

ロアンは鼻を動かした。

「今は?」

老人は少し笑った。

「今は、お前さんが分かっていない匂いだ」

「難しいな」

ミルカが横から言う。

「分からない匂いは、分からないって記録しておけばいい」

「それ、役に立つ?」

「次に比べられる」

「なるほど」

「だから覚えて」

「今の匂いを?」

「そう」

ロアンはもう一度鼻を動かした。

「冷たい土と、湿った草と、ちょっと馬」

ミルカは少し黙った。

「馬は後ろの荷馬車」

「記録としては正確だろ」

「山の匂いからは外して」

自警団長が、二人を見た。

「洞窟には入るな。お前たちの仕事は、向こう側へ知らせることだ」

ロアンはうなずいた。

「はい」

洞窟の奥では、魔物の声が反響している。

剣を持っていれば、そちらへ向かいたくなる。

だが、いま二人が向かうのは洞窟ではない。

その横の、細く頼りない薬草道だった。

薬草道

薬草道へ入ると、すぐに村の音が遠くなった。

人の声。

荷馬車の軋み。

馬の鼻息。

洞窟から聞こえる魔物の声。

それらが背後に薄れていく。

代わりに、草を踏む音と、枝が外套をこする音が近くなる。

ロアンが前を歩き、足場を確かめる。

ミルカは少し後ろで、地図と実際の道を見比べていた。

「これ、道って言っていいのかな」

ロアンがつぶやく。

ミルカは地図から目を上げずに答えた。

「地図には道って書いてある」

「地図、たまに嘘つくよね」

「古いだけ」

「それを嘘って言わない?」

「地図は昔の本当を書いてるの」

「昔は本当だった嘘」

「言い方」

「今は半分嘘だろ」

「半分本当でもある」

ロアンは足元の石を踏み、ぐらついたので慌てて戻した。

「今の石は嘘だった」

「石は何も言ってない」

「踏める顔してた」

「顔で判断しないで」

「荷馬車にも顔があるって言ったの、ミルカだろ」

「あれは比喩」

「便利だな、比喩」

ミルカは枝の折れ方を見た。

「ここ、最近誰か通ってる」

ロアンが足を止める。

「人?」

「たぶん動物。枝の高さが低い」

ロアンはしゃがんで、土を見る。

小さな足跡がある。

獣か、小鬼か。

はっきりしない。

「小鬼?」

「まだ分からない」

「分からないが増えたな」

「山道は分からないものが多い」

「分からないまま進むの、怖いな」

「怖いならいい」

「その言い方、もう何度目だろう」

「何度でも言う」

ロアンは少し笑い、前へ進んだ。

道は細い。

時折、右手の斜面が落ち込み、左手の木の根が足を取る。

荷を減らしてきてよかったと、すぐに分かった。

鍬など持っていたら、最初の十分で捨てていたかもしれない。

ロアンがそれを言うと、ミルカは即座に返した。

「捨てる前に持たないのが正解」

「分かってる」

「本当に?」

「今は本当に」

「ならよし」

ミルカは、戻るための目印を一つずつ拾っていった。

曲がった松。

割れた根。

白い石。

鳥の巣のある枝。

沢の音。

「戻る時は、白い石の次に曲がった松」

ロアンが言う。

「行きと戻りで逆になるだろ」

「だから言った」

「え?」

「戻る時は、白い石の前に曲がった松」

「ややこしい」

「だから記録する」

「俺の頭にも記録する」

「それは水に書くより少し不安」

「少し?」

「かなり」

ロアンは笑いながらも、目印を声に出して覚えた。

戻るために進む。

その感覚は、少しずつ体に入ってきていた。

湿った窪地

しばらく進むと、道が低くなった。

木々の影が濃く、足元に湿り気がある。

窪地だった。

雨が降った後の水が残っている。

石は苔で滑りやすく、土は黒く濡れていた。

その水気の中に、スライムが数匹いた。

どれも大きくはない。

村の近くで見たものと変わらない。

ただ、場所が悪い。

濡れた石。

狭い足場。

片側は斜面。

もう片側は深い草。

ここで足を滑らせれば、スライムに近づきすぎる。

ロアンは剣に手をかけた。

けれど、すぐに止めた。

「倒さなくていいやつだ」

ミルカがうなずく。

「右の岩を渡れば避けられる。ただ、滑る」

ロアンは手首を見た。

幼い頃、スライムに焼かれた薄い跡がある。

もう痛くはない。

だが、こういう場所では思い出す。

「近づかない方がいいね」

「うん」

ミルカは小さく息を整えた。

杖を低く構える。

風が、ほんの少しだけ動いた。

大きな風ではない。

葉を揺らすほどでもない。

ただ、岩の表面に薄く乗った水気を、少しだけ払う。

ロアンが目を丸くした。

「それ、便利」

ミルカは岩を見たまま答える。

「便利止まりでいい。滑らなければ十分」

「町の魔術師は、もっと派手に乾かすのかな」

「たぶんね」

「でも、今はこれがいい」

ミルカは少しだけ動きを止めた。

「そう?」

「全部乾かしたら、スライムがこっちに来るかもしれないし」

「……そうだね」

「今の、俺が正しかった?」

「少し」

「今日の記録に残して」

「調子に乗るから省略」

「記録に残らない功績だ」

「石を渡ってから言って」

ロアンは乾いた場所に足を置いた。

滑らない。

次の岩へ移る。

ミルカが後に続く。

スライムは湿った窪地の中で、ゆっくり動いていた。

二人は剣を抜かず、火も使わず、窪地を抜けた。

振り返ると、スライムはまだそこにいる。

倒してはいない。

だが、目的は倒すことではない。

書状を届けることだった。

小鬼の縄張り

道が少し上りになった頃、ロアンが足を止めた。

木の枝に、小さな骨が吊られている。

その隣に、汚れた布切れ。

さらに少し先には、割れた木片。

自然に引っかかったものではない。

ロアンは低く言った。

「小鬼が近い」

ミルカは地図を見る。

「この先が縄張りに近いって、老人が言ってた場所だと思う」

「迂回路は?」

「ある。けど沢に近い」

ロアンは周囲を見る。

鳥の声が少ない。

風は弱い。

土はまだ湿っているが、沢の音は大きすぎない。

進む理由はある。

戻る理由も探す。

今は、まだ戻る条件ではない。

ただし、戦う理由もない。

「迂回しよう。沢が濁ってたら戻る」

ミルカはうなずいた。

「それでいい」

「今日の俺、けっこう慎重じゃない?」

「言った時点で少し減点」

「慎重さって、言うと減るのか」

「油断が増える」

「難しい」

二人は本道から外れ、低い草の間を進んだ。

足音を抑える。

枝を折らない。

荷が枝に引っかからないよう、体の向きを変える。

途中、木の陰に小鬼が一匹見えた。

こちらには気づいていない。

何かを拾い、鼻を鳴らしている。

ロアンは石を拾った。

ミルカが目で止める。

ロアンは小さくうなずき、小鬼とは反対側の藪へ石を投げた。

かさり、と音がする。

小鬼が顔を上げる。

ミルカが指先で細い風を起こし、別の草を揺らした。

音が二つ重なる。

小鬼はそちらへ向かった。

ロアンとミルカは身を低くして進む。

ロアンが小声で言った。

「倒さなくていい魔物、二回目」

ミルカも小声で返す。

「数えてる場合じゃない」

「数えると成長が分かる」

「声が大きくなると危険も分かる」

ロアンは口を閉じた。

二人はそのまま、小鬼の縄張りを抜けた。

戦わない。

音を立てない。

相手にこちらを見つけさせない。

地味な成功だった。

けれど、足は前へ進んでいる。

書状は濡れていない。

それで十分だった。

沢を渡る

薬草道は、やがて沢へ出た。

老人が言っていた危険地点だ。

沢が濁っていたら戻れ。

水量が多ければ戻れ。

二人は水辺にしゃがみ込む。

水は少し増えている。

だが、強く濁ってはいない。

流れは速いが、渡れないほどではない。

空には雲がある。

低い。

しかし、今すぐ降る色ではない。

ロアンは沢の流れを見ていた。

「どう思う?」

ミルカは上流を見た。

「雨はまだ遠いと思う。でも、長居は危ない」

「渡る?」

ミルカはすぐには答えなかった。

水の音。

風。

空。

地図。

足元。

それらを順に見てから言う。

「渡るなら、戻る時は別の道を考えた方がいい。午後には増えるかもしれない」

ロアンは黙る。

ここで進めば、同じ道で戻るのは危険かもしれない。

だが、目的地は近い可能性がある。

今戻れば、安全だ。

しかし、書状は届かない。

進む理由。

戻る理由。

どちらもある。

ロアンはしばらく考えた。

「渡る。ただし、向こうに着いたらまず帰り道を聞く。こっちを戻る前提にしない」

ミルカは少しだけ笑った。

「だいぶ旅人っぽい」

「褒めた?」

「少し」

「少しでもありがたい」

「でも、渡るまでは油断しないで」

「はい」

二人は縄を使った。

先にロアンが渡る。

流れの浅い場所を探し、石を踏む。

一歩。

次の石。

足元が揺れる。

ロアンは体を低くした。

水が靴の横を打つ。

対岸へ着き、縄を木の根に回す。

ミルカが続く。

荷を高く持ち、書状の入った革袋を胸に抱える。

途中で足が滑った。

ロアンが縄を引く。

ミルカは踏みとどまった。

「大丈夫か」

「地図は濡れてない」

「ミルカは?」

「少し濡れた」

「そこも大事だろ」

「分かってる」

ミルカは対岸に着き、息を吐いた。

二人はしばらくその場で休んだ。

沢の音は、渡る前より大きく聞こえた。

ロアンは振り返る。

「これ、帰りに渡るのはやめた方がいいな」

ミルカはうなずいた。

「帰り道を聞く、採用」

「採用された」

「内容によるから」

「内容がよかったんだな」

「調子に乗らなければね」

ロアンは笑いかけて、足を踏み出した。

その瞬間、濡れた石に少し滑った。

片手を地面につく。

手のひらが擦れた。

「痛っ」

ミルカの表情が変わった。

「確認」

「浅い」

「見せて」

ロアンは手を見せる。

手のひらの皮が少しむけ、血がにじんでいる。

大怪我ではない。

だが、戻る条件に怪我は入っている。

ミルカは薬草を取り出し、手早く傷を拭いた。

「剣は握れる?」

ロアンは握る。

少し痛む。

「握れる」

「痛みで判断が遅れる?」

「たぶん、大丈夫」

ミルカが目を細める。

ロアンは言い直した。

「大丈夫。痛いけど、動きは変わらない」

「次に足元が悪い場所が出たら戻る」

「分かった」

「今のは続行。でも、条件は軽くしない」

ロアンはうなずいた。

「うん」

傷は浅い。

だが、確認した。

それだけで、無理をしていないと思えた。

進むために、戻る条件を見る。

それは面倒だ。

けれど、面倒だから役に立つ。

向こう側の村

山腹を越えた先で、木々の間が少し開けた。

遠くに煙が見える。

家の煙突から上がる、細い煙だった。

ロアンが小さく息を吐く。

「見えた」

ミルカも、少し表情を緩めた。

「まだ着いてない」

「分かってる」

「言い方が浮かれてた」

「ちょっとだけ」

「ちょっとなら、歩いて」

「はい」

最後の坂を下る。

足は疲れている。

荷は軽いはずなのに、肩に食い込む。

ロアンの手のひらは少し痛い。

ミルカの靴も泥を吸って重くなっていた。

それでも、二人は村の外れへ着いた。

見張りがすぐに槍を構える。

「誰だ!」

ロアンは両手を上げた。

「国境の向こうの村から来ました。村長の書状があります」

見張りは目を細める。

「洞窟は塞がれているはずだ」

ロアンは疲れた顔で答えた。

「塞がってるので、山を回ってきました」

ミルカが小さく言う。

「とても疲れました」

見張りは一瞬、どう返していいか分からない顔をした。

それから、別の村人を呼びに走らせた。

ロアンとミルカは、槍を向けられたまま待つ。

ミルカが小声で言った。

「両手を上げたままだと疲れる」

ロアンも小声で返す。

「下ろしていいかな」

「槍が下がってから」

「旅って、肩が痛いこと多いな」

「今日は腕も追加」

やがて、村長が現れた。

反対側の村長は、こちら側の村長より少し若い。

だが、疲れた顔は似ていた。

「書状を」

ミルカが革袋から油布を取り出す。

濡れていない。

破れてもいない。

村長は書状を受け取り、印を確認した。

読み進めるうちに、顔が変わっていく。

警戒。

驚き。

迷い。

そして、理解。

「本物だ」

近くにいた自警団長が書状を覗き込む。

「両側から入る、か」

反対側の村も、洞窟封鎖で困っていた。

こちらでは塩が足りない。

向こうから来るはずの薬草も止まっている。

鉄の小物を待つ荷馬車が足止めされ、宿屋の食料も減っている。

状況は、山のこちら側と同じだった。

反対側の自警団長が言った。

「こちらも二度押し返された。片側では無理だ」

ミルカは地図を広げた。

「夜明けに同時に入る案です。こちらの準備は間に合いますか」

反対側の村長は考え込む。

「明日の夜明けは無理だ。負傷者が多い。明後日の夜明けなら」

ロアンは少し焦った。

明後日の夜明け。

その変更を、元の村へ伝えなければならない。

だが、沢は午後に増えるかもしれない。

同じ道をすぐ戻るのは危ない。

ミルカが言った。

「今日戻るのは危険です」

ロアンも分かっていた。

戻る理由はある。

だが、今は戻らない理由もある。

ロアンは村長に向き直った。

「今日は戻りません。別の帰り道を確認してから、明日の朝に出ます」

反対側の村長が眉をひそめる。

「戻らなければ、向こうは時刻を知らんぞ」

ミルカが落ち着いて答える。

「仮の時刻は書状にあります。変更があるなら、こちらから返書を出してください。私たちが戻れなければ、向こうは突入しないはずです」

ロアンもうなずいた。

「戻れない時も、報告です」

反対側の村長は、しばらく二人を見ていた。

それから、書状を折り直した。

「分かった。返書を書く」

明後日の夜明け

反対側の村の集会所で、返書が書かれた。

作戦時刻は、明後日の夜明け。

合図は、洞窟へ入る前に角笛三度。

反対側の自警団は十二名。

負傷者が多いため、突入は一度きり。

無理なら撤退。

ミルカが確認する。

「撤退の合図も決めてください」

反対側の自警団長が顔を上げた。

「撤退の合図?」

「進む合図だけだと、失敗した時に混乱します」

ロアンが補足する。

「戻る理由も決めてから進めって教わりました」

自警団長は、少し黙った。

洞窟で押し返された時のことを思い出しているようだった。

逃げる声。

反響する悲鳴。

前か後ろか分からない魔物の声。

負傷者を抱えて詰まる背中。

「……撤退は、角笛を長く一度」

ミルカが書き留める。

「長く一度」

「向こう側にもそれで伝えろ」

「はい」

ロアンは地図を見る。

「帰り道は、別にありますか。沢を渡らない道がいいです」

村の猟師が呼ばれた。

彼は古い山道を指した。

「こちら側からなら、尾根を少し回る道がある。遠いが沢を渡らずに済む。ただし崖が狭い」

ミルカが聞く。

「小鬼は?」

「出ることはある。だが、沢沿いよりは少ない」

ロアンはミルカを見る。

ミルカは少し考えてからうなずいた。

「明日の朝、その道で戻る」

ロアンは息を吐いた。

「今日は泊まりか」

反対側の村長が言う。

「宿を用意する。大したものは出せんが」

ミルカは即座に頭を下げた。

「助かります」

ロアンも遅れて頭を下げる。

「ありがとうございます」

宿へ案内される途中、ロアンは小声で言った。

「野宿じゃなくてよかった」

ミルカが言う。

「宿代は?」

「払うべき?」

「交渉しよう」

「こういう時も帳簿か」

「こういう時ほど帳簿」

結局、宿代は取られなかった。

その代わり、ミルカは村の薬師に傷薬の使い方を少し手伝い、ロアンは水運びをした。

ただ泊まるだけでは落ち着かなかったのだ。

夜、二人は小さな部屋で荷を並べた。

ロアンの靴は泥で重い。

ミルカの外套も草の種だらけだった。

ロアンが床に座り込む。

「向こう側、遠かったな」

ミルカは手帳を開く。

「でも着いた」

「うん」

「明日は戻る」

「うん」

「帰るまでが連絡役」

ロアンは少し笑った。

「遠足みたいに言うな」

「遠足って何」

「分からない。今思いついた」

「じゃあ使わないで」

「はい」

返書を持って

翌朝、二人は尾根を回る道へ入った。

反対側の猟師が、村の外れまで案内してくれた。

「崖の手前で風を見ろ。強ければ戻れ。小鬼の足跡が新しければ、左の低い道へ下りろ。ただし、そっちは遠い」

ミルカが復唱する。

「崖の風。小鬼の足跡。左の低い道」

ロアンも復唱した。

「崖の風。小鬼の足跡。左の低い道」

猟師はうなずいた。

「お前たち、復唱するんだな」

ロアンは答える。

「忘れるので」

ミルカが言う。

「忘れないためです」

「同じことじゃないのか」

「入口が違います」

猟師はよく分からない顔をしたが、最後に笑った。

「無事に戻れ」

「はい」

帰路は、往路ほど静かではなかった。

疲れが残っている。

ロアンの手は少し痛む。

ミルカの魔力も昨日より軽くはない。

水袋は補充したが、足は重い。

二人は急がなかった。

急ぐ理由はある。

返書を届けなければならない。

だが、急いで転べば、返書は届かない。

崖道へ出る前、ロアンは足元の土を見た。

小さな足跡がある。

小鬼のものだ。

まだ新しい。

ロアンは指で示した。

「これ、新しいよな」

ミルカはしゃがんで見る。

「新しい」

「左の低い道?」

「うん」

「遠くなる」

「でも、こっちだと会うかもしれない」

ロアンは少しだけ崖の方を見た。

早く戻りたい。

だが、戦う理由はない。

「左へ行こう」

「うん」

低い道は遠かった。

草が深く、足元が見えにくい。

途中で一度、ミルカの荷が枝に引っかかる。

ロアンが外そうとして、自分の荷も引っかけた。

二人はしばらく動けなくなった。

ミルカが静かに言う。

「まず私の荷」

「分かってる」

「ロアンの荷を動かすと、私の地図が枝に当たる」

「見えてる」

「本当に?」

「……今見えた」

「正直でよろしい」

時間はかかった。

だが、地図も書状も無事だった。

昼を過ぎる頃、二人は元の村へ続く尾根道へ出た。

空は少し曇っている。

雨はまだない。

日没までは間に合う。

ロアンは息を吐いた。

「戻れそうだ」

ミルカがすぐに言う。

「まだ戻ってない」

「分かってる」

「言い方が浮かれてた」

「昨日も言われたな」

「今日も言う」

「たぶん明日も言う」

「必要なら」

二人は歩いた。

日が傾く前に、元の村の屋根が見えた。

村の門の前には、人が集まっていた。

待っていたのだ。

ロアンとミルカが姿を見せると、誰かが声を上げた。

「戻った!」

村長が駆け寄ってくる。

「戻ったか」

ロアンは返書を差し出した。

「明後日の夜明け。角笛三度。撤退の合図もあります」

自警団長が返書を受け取り、すぐに読む。

目が鋭くなる。

「やれる」

その一言で、村の空気が変わった。

止まっていた荷馬車のそばで、商人が顔を上げる。

薬師が手を止める。

鍛冶屋が腕を組み直す。

宿屋の女将が、小さく息を吐いた。

ロアンはその場に座り込んだ。

ミルカも隣に腰を下ろす。

「これ、報酬もらっていい仕事だと思う」

ミルカが言った。

ロアンは苦笑する。

「まだ早くない?」

「早くない。靴が一足だめになりかけてる」

ロアンは自分の靴を見た。

確かに、縫い目が少し開きかけていた。

「帳簿だな」

「帳簿」

二人は疲れていた。

だが、書状は届いた。

道は、少しだけつながった。

挟撃準備

それから、村は動き始めた。

止まっていた時間が、急に流れ出したようだった。

自警団は槍を手入れする。

盾の革紐を締め直す。

松明の数を確認する。

負傷者を運ぶための布を用意する。

水袋を入口近くに置く。

角笛の合図を確認する。

三度。

夜明けに進む合図。

長く一度。

撤退の合図。

ロアンは洞窟入口の地形を見ていた。

負傷者をどこへ運ぶか。

荷馬車をどこまで下げるか。

入口前の水たまりをどう避けるか。

ミルカは煙の流れを確認していた。

火を使う場所。

使ってはいけない場所。

風を通すなら、どちらからどちらへ流すか。

自警団長が近づいてきた。

「お前たちは入るな」

ロアンは顔を上げる。

「でも」

「連絡役が倒れたら、次に何かあった時に困る。今回は俺たちが入る」

ロアンは言葉を飲み込んだ。

洞窟へ入れば、何かできるかもしれない。

スライムを避けることも、小鬼を誘導することも、負傷者を助けることもできるかもしれない。

だが、自警団長の言葉は正しい。

今回、洞窟の中で槍を構えるのは村の大人たちだ。

道を開く主力は、彼らだ。

ミルカがロアンを見る。

ロアンは少し悔しかった。

それでも、うなずいた。

「分かりました。入口で負傷者を見ます」

自警団長はうなずいた。

「それでいい」

ミルカも言う。

「私は入口付近の煙を見ます。大きな風は使いません」

「使えるのか」

「小さくなら」

「それで十分だ。洞窟の中は、少しの煙でも厄介だからな」

ロアンは洞窟の奥を見た。

自分たちが中へ入らない戦い。

それでも、自分たちの仕事はある。

道をつなぐ仕事は、書状を届けて終わりではなかった。

角笛三度

夜明け前。

村は静かだった。

静かすぎて、洞窟の奥の音がよく聞こえた。

石を引っかく音。

低い唸り声。

水が落ちる音。

自警団は入口に並ぶ。

槍。

盾。

松明。

顔には緊張があった。

だが、昨日までとは違う。

今日は、反対側も動く。

ロアンは入口脇で布を用意していた。

負傷者を運ぶための布だ。

水袋もある。

薬草もある。

ミルカは少し離れた場所で、風の流れを確かめていた。

「風は外へ流れてる」

「煙は?」

「今なら抜ける。でも火を増やしすぎたら無理」

「分かった」

自警団長がうなずく。

やがて、山の向こうから角笛が聞こえた。

一度。

二度。

三度。

反対側だ。

こちらの自警団長が角笛を持ち上げる。

一度。

二度。

三度。

音が洞窟に吸い込まれていく。

「行くぞ!」

自警団が洞窟へ入った。

ロアンは入口に残る。

ミルカも残る。

中へ入る足音が反響する。

槍が石を打つ音。

小鬼の声。

スライムを叩く湿った音。

低級魔獣の吠え声。

音だけでは、どちらが押しているのか分からない。

やがて、洞窟の奥から別の声が響いた。

「こっちも入った!」

反対側の自警団だ。

ロアンは思わず息を止めた。

片側からでは押し返された空洞。

そこへ、今度は両側から人が入っている。

魔物の声が乱れた。

一方向へ集まれない。

逃げようとしても、反対側にも人がいる。

分断される。

それでも、戦いは楽ではなかった。

すぐに負傷者が出た。

若い自警団員が一人、肩を押さえて入口へ戻ってくる。

ロアンは走った。

「こっち!」

彼を支え、入口脇へ運ぶ。

薬師がすぐに傷を見る。

次に、足を滑らせた男が運ばれてくる。

ロアンは布を使い、二人で引きずるように運んだ。

洞窟内に煙がこもり始める。

ミルカが小さく風を動かした。

大きな風ではない。

炎を煽らない。

埃を巻き上げない。

ただ、煙の薄い層を外へ押し出す。

「このくらいなら」

ミルカは額に汗を浮かべながら言った。

ロアンは負傷者を運びながら叫ぶ。

「無理するなよ!」

「それはこっちの台詞!」

「俺は入口にいる!」

「入口でも転ぶでしょ!」

「今それ言う?」

「今だから言う!」

戦闘音の中で、ロアンは少し笑ってしまった。

怖さは消えない。

だが、声があると足が動く。

洞窟の奥で、自警団長の声が響く。

「押せ!」

反対側からも声が返る。

「こっちも押してる!」

魔物の声がさらに乱れた。

やがて、一際大きな低級魔獣の吠え声が洞窟内に響く。

それが途切れる。

静かにはならない。

まだ戦っている。

だが、流れが変わったことは入口からでも分かった。

洞窟が開く

戦いは長く感じられた。

実際には、それほど長い時間ではなかったのかもしれない。

けれど、入口で待つ時間は重い。

負傷者を運ぶ。

水を渡す。

松明を足す。

煙を逃がす。

奥の声を聞く。

撤退の角笛が鳴らないことを確認する。

それだけで、手も足も頭も忙しかった。

やがて、洞窟の中から歓声が上がった。

最初は遠く。

それから、反響して広がる。

「抜けたぞ!」

「反対側だ!」

「合流した!」

村人たちが息を呑む。

自警団長が、洞窟の奥から戻ってきた。

顔は煤で汚れ、腕には小さな傷がある。

だが、立っている。

「開いた」

その一言で、入口にいた人々が声を上げた。

反対側の自警団も、中央の空洞で合流していた。

完全に安全になったわけではない。

細かい確認はまだ必要だ。

崩れた石も片づけなければならない。

スライムの粘液も掃除する必要がある。

それでも、荷馬車道は戻ってきた。

ロアンは入口近くの石に腰を下ろした。

足が急に重くなった。

ミルカも隣に座る。

顔色は少し白い。

「開いた」

ロアンが言った。

ミルカもうなずく。

「開いたね」

「俺たち、中ではあんまり戦ってないけど」

「それでいいんじゃない」

「いいのかな」

ミルカは疲れた顔で、けれどはっきり言った。

「今日の目的は、洞窟を開くこと。私たちが目立つことじゃない」

ロアンは洞窟を見る。

自警団の男たちが、中から魔物の死骸を運び出している。

盾が並ぶ。

槍が動く。

村の大人たちが汗を流している。

確かに、洞窟を取り戻したのは彼らだった。

「そうだな」

ロアンはうなずいた。

「目立つと、疲れそうだし」

ミルカは横目で見る。

「今も十分疲れてる」

「じゃあ目立たなくてよかった」

「そういう問題かな」

「たぶん」

二人は少し笑った。

笑う力が残っていることが、少し嬉しかった。

灰色の外套

洞窟の中は、煤と泥とスライムの粘液でひどい状態だった。

入口で働いていたロアンとミルカも、十分汚れていた。

ロアンの袖には泥がつき、ミルカの外套には煤が薄くかかっている。

靴はもう、昨日までの色が分からない。

宿屋の女将が、古い作業外套を二枚持ってきた。

「帰り道、それを羽織っていきな。泥が目立たんし、丈夫だよ」

外套は灰色だった。

もともとは濃い色だったのかもしれない。

何度も洗われ、日に焼け、煤を吸い、雨に打たれて、灰色になったのだろう。

ロアンは受け取った。

「いいんですか」

「古いもんだ。礼には足りんが、使える」

ミルカは外套を広げた。

「地味」

ロアンは羽織ってみる。

少し大きい。

だが、肩は動かしやすい。

「汚れが目立たないって大事だよ」

「それはそうだけど」

「旅向きだ」

「地味だけどね」

「地味なのも旅向き」

「それは少し分かる」

ミルカも外套を羽織った。

灰色の外套を着た二人は、どこか荷運びの手伝いのようにも、薬草採りの帰りのようにも見えた。

特別には見えない。

それでよかった。

この時、まだ呼び名はなかった。

灰の何かでも、灰色の一団でもない。

ただ、洞窟をつなぐために山を越えた若い二人が、灰色の外套を羽織っていた。

それだけだった。

報酬

村長たちは、ロアンとミルカに謝礼を渡した。

大金ではない。

銅貨。

靴の修理代。

食料。

薬草。

油紙。

地図の写し。

ロアンは最初、手を振った。

「俺たち、そんなに戦ってないですし」

ミルカが即座に言った。

「受け取ります」

ロアンは驚いて振り向く。

「ミルカ」

ミルカは小声で言う。

「靴が壊れた。薬草も使った。油紙も使った。次に動くためには必要」

「でも」

「報酬を断って靴が直らなかったら、次の村でまた困る」

「現実的」

「旅は帳簿」

ロアンは何も言えなかった。

村長がうなずく。

「受け取ってくれ。これは礼というより、次の道へ行くための支度だ」

自警団長も言う。

「お前たちが知らせなければ、両側から入れなかった」

ロアンは少し目を伏せた。

「倒したのは、皆さんです」

「そうだ」

自警団長はあっさり認めた。

「だが、時刻を合わせたのはお前たちだ」

ロアンは報酬を見た。

重くはない。

けれど、受け取るには少し勇気がいった。

ミルカが横から言う。

「受け取るのも仕事」

ロアンは苦笑した。

「いつからそんな仕事が増えたんだ」

「たぶん、靴が壊れた時から」

「靴は大事だな」

「とても」

ロアンは報酬を受け取った。

大金ではない。

英雄への褒美でもない。

次の道へ行くための支度。

その言葉なら、受け取れた。

記録に残るもの

洞窟が開通した。

まず人が通った。

次に小さな荷が通った。

それから、慎重に荷馬車が通った。

車輪が洞窟の石を踏む音が響く。

馬が少し怯え、荷運びの男が首を撫でる。

商人たちが荷を確かめる。

塩が動く。

鉄が動く。

薬草が動く。

布が動く。

止まっていた生活が、少しずつ流れ始める。

ロアンとミルカは、灰色の外套を羽織って、その様子を見ていた。

ロアンが言った。

「道が開くと、人も物も動くんだな」

ミルカが答える。

「当たり前だけど、止まってみないと分からないね」

「俺たち、知らせに行っただけだけど」

「知らせに行かなかったら、開かなかった」

「でも、倒したのは自警団」

「それでいい」

ロアンは洞窟を見た。

中から、まだ泥を運び出している大人たちがいる。

折れた槍をまとめる者。

負傷者に水を飲ませる者。

荷馬車の通る幅を確かめる者。

彼らの働きがなければ、洞窟は開かなかった。

それは間違いない。

ミルカがぽつりと言った。

「これ、報告書に私たちの名前は残らないね」

ロアンは少し考えた。

「洞窟が開いたなら、それでいいよ」

ミルカは呆れたように見る。

「そういうところ、ロアンらしいけど」

少し間を置いて、彼女は続けた。

「でも、報酬はもらったからね」

ロアンは笑った。

「そこは譲らないんだ」

「靴と油紙と薬草代」

「現実的」

「現実がないと次に進めない」

ロアンは頷いた。

灰色の外套の袖を見下ろす。

泥は確かに目立ちにくい。

それもまた、次へ進むためには大事なことだった。

国境洞窟は開いた。

記録に残るなら、それは両村の自警団による挟撃である。

槍を構えたのは彼らだった。

盾を並べたのも彼らだった。

洞窟の暗がりで魔物を押し返したのも、村の大人たちだった。

それは間違いではない。

ただ、その時刻を合わせるために山を越えた者がいた。

雨の気配を見て、沢を渡り、戻る道を考え、書状を濡らさずに運んだ者がいた。

彼らは洞窟の奥で英雄のように剣を振るったわけではない。

ただ、向こう側へ知らせた。

その知らせによって、道は開いた。

やがて街道の商人が語る時、話は短くなる。

国境洞窟は、両村の挟撃で取り戻された。

それで十分だった。

ロアンとミルカは、灰色の外套を羽織って、荷馬車が洞窟を通るのを見ていた。

まだ、灰の一団という名はなかった。

けれど、灰色の外套を着た若者たちが道をつないだ、という記憶だけが、少しだけ残った。


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