召喚士が召喚した召喚士~基礎から始める召喚マネジメント講座~TOPへ


※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
一 事故翌日の実習棟
翌日の実習棟は、いつもより少しだけ湿っていた。
比喩ではない。
床の一部に、まだ薄い白銀の残光が残っている。召喚陣の線は消されたはずなのに、昨日の事故で魔力が通りすぎた場所だけ、光の粉をこぼしたように鈍く光っていた。
机はずれている。
椅子は端に寄せられている。
補助札はすべて回収され、新しい管理箱に入れられていた。しかも箱には鍵がかかり、ダリル・モートン教官の腰に、その鍵がぶら下がっている。
リオル・ロステルは、雑巾を持って床にしゃがみこんでいた。
「やっぱり、僕も片付けた方がいいですよね」
声は少し小さい。
昨日、自分は水精霊を呼ぼうとして、最高位召喚士を呼んだ。
冷静に考えなくてもおかしい。
冷静に考えると、もっとおかしい。
そのため、リオルは朝からずっと、掃除をする以外に何をすればいいのか分からなかった。
ダリルは額に手を当てた。
「気持ちはありがたいが、これは学校側の管理責任でもある」
「でも、触ったのは僕です」
「触れる位置にあったのが問題だ」
「先生までユナみたいなことを……」
「フェルミアの指摘は正しい。正しいから胃が痛い」
ダリルがそう言った時、実習室の入口から静かな声がした。
「胃痛は、責任ある立場の初期症状です」
全員が振り向いた。
メルセナ・オルブライトが、いつものように無表情で立っていた。
白に近い灰色のコート。金色の髪。翼のような銀の髪飾り。昨日、召喚陣の中から現れた時と同じように、立っているだけで実習室の空気が少し変わる。
ダリルは反射的に背筋を伸ばした。
「オルブライト閣下、慰めになっていません」
「慰めてはいません」
「なお悪いです」
「責任を認識できているなら、悪くありません」
「胃は悪くなっています」
「それは別件です」
リオルは雑巾を握ったまま、メルセナを見上げた。
「おはようございます、先生」
メルセナは一拍置いた。
「おはようございます、リオル」
返事は落ち着いていた。
とても落ち着いていた。
ただし、返事までの間がほんの少し短かった。昨日から、先生と呼ばれるたびにメルセナの反応が微妙に早くなることに、リオルはまだ気づいていない。
気づいていたのは、ユナ・フェルミアだけだった。
ユナはリオルの少し後ろで、雑巾の入った桶を持っている。彼女はメルセナを見て、それからリオルを見て、何とも言えない顔をした。
「もう、自然に先生って呼ぶのね」
「え?」
「別に。昨日までは、実習のことで聞く相手なんていなかったのに、今日はすぐ先生なんだなって思っただけ」
「ご、ごめん。そういうつもりじゃ」
「謝るところじゃないでしょ」
ユナは桶を床へ置いた。
少しだけ、置き方が強かった。
セリオ・ヴァインが鼻で笑う。
「フェルミア、妬いているのか?」
「違う」
「では、何だ」
「貴族と庶民は噛み合わないって話をしているの」
「今の流れで?」
「今の流れで」
セリオは少し考えたが、反論を諦めたようだった。
メルセナはユナを見た。
「ユナさん」
「はい」
「私は学校の教官ではありません。リオルの生活や交友関係に関与する立場でもありません」
「……分かっています」
「ですが、召喚術基礎に関しては、契約上、私が見ます」
「そこも分かっています」
「分かっていて、納得できないことはあります」
ユナは少し黙った。
「オルブライト閣下は、そういうことも言うんですね」
「言います。必要なら」
リオルはおろおろとユナを見た。
「ユナ、怒ってる?」
「怒ってない。ちょっと、面倒な気分なだけ」
「面倒な気分」
「貴族は面倒なの」
「それ、便利な言葉になってない?」
ユナは答えなかった。
代わりに、桶の中から雑巾を一枚取って、リオルの手元へ押しつけた。
「ほら。手を止めない」
「はい」
リオルは床を拭き始めた。
昨日の事故は終わっていない。
だが、少なくとも今日は、掃除から始まるらしかった。
二 召喚術基礎コンサルタント
ダリルは、改めてメルセナへ向き直った。
「オルブライト閣下。本日の実習ですが、閣下はどのような立場で参加されるのでしょうか」
「学校教官ではありません」
「承知しています」
「リオル・ロステルとの限定契約に基づく、召喚術基礎コンサルタントです。学校の指揮系統には入りません」
リオルは首をかしげた。
「先生じゃないんですか?」
「役割上は近いです」
「近いんですね」
「はい。助言と確認は行います。ただし、授業運営はモートン教官の権限です」
ダリルは複雑な顔をした。
「……胃が痛いですが、助かります」
「胃痛は継続してください。責任感の維持に役立ちます」
「閣下は胃痛に厳しい」
「胃痛ではなく、責任に厳しいのです」
リオルは小さく呟いた。
「先生、胃痛にも厳しいと思います」
「否定はしません」
ダリルは一度咳払いをした。
「本日は、昨日の事故の影響で、予定していた基礎召喚実習を一部変更する。まず、実習室の片付けを行う」
生徒たちから、小さな声が漏れた。
嫌そうな声もある。
当然だった。召喚士学校の実習で、最初にやることが掃除なのだ。
セリオが腕を組んだ。
「それはロステルがやるべきでは?」
「セリオ」
ユナが低く言った。
「またそういう言い方をする」
「事実だ。事故を起こした本人が片付けるのは当然だろう」
「事故原因はリオル一人じゃなかったって、昨日聞いてたでしょ」
「それでも、触ったのはロステルだ」
リオルは雑巾を握り直した。
「僕、やるよ。僕が散らかしたのもあるし」
「全てではありません」
メルセナが即座に言った。
リオルは少しだけ笑った。
「でも、手伝いたいです」
「よいでしょう。では、召喚術で行いましょう」
「召喚術で掃除ですか?」
「基礎訓練には適しています。目的が明確で、危険度が低い」
セリオが少し眉を寄せた。
「掃除が基礎訓練ですか」
「掃除を軽く見ない方がよいですよ」
メルセナはセリオを見る。
表情はない。
ただ、視線だけで少し空気が正される。
「制御できない召喚士は、掃除すら安全に終えられません」
セリオは口を閉じた。
ダリルは胃のあたりを押さえた。
「閣下、それは本日の実習課題として適切なのでしょうか」
「適切です。昨日、私はリオルへ言いました。召喚は呼ぶことだけではなく、呼んだ後に破綻させないことだと」
「はい」
「今日は、それを床で学びます」
「床で」
「はい。床は正直です。濡らせば濡れます。風を当てれば紙が飛びます。失敗の結果が分かりやすい」
リオルは床を見た。
確かに、床は正直そうだった。
少なくとも、召喚契約よりは見て分かる。
三 一体ずつならうまくいく
「では、リオル。あなたの案を聞きます」
メルセナが言った。
リオルは実習室を見渡した。
床には魔力粉が薄く残っている。紙片も落ちている。机の脚には白い粉がついていて、そのまま雑巾で拭くと広がりそうだった。
「水精霊で床の汚れを浮かせて、風精霊で乾かせばいいと思います」
「悪くありません」
「本当ですか?」
「目的と対象の性質は合っています」
リオルは少し嬉しくなった。
「でも、僕が呼べるのは一体だけです」
「はい。ですから、最初の水精霊はあなたが呼んでください。風精霊は私が呼びます」
「先生が呼ぶんですか?」
「今回の目的は、呼べる数を競うことではありません。複数の召喚対象をどう扱うかを学ぶことです」
「じゃあ、やってみます」
「その前に、条件を決めましょう」
「条件?」
「どこを掃除するのか。どの程度濡らしてよいのか。誰の机には触らないのか。いつ終わるのか。呼んだ精霊をどう帰すのか」
リオルは目を瞬かせた。
「掃除なのに、そんなに決めるんですか?」
「掃除だから決めます」
メルセナは淡々と言った。
「小さな作業で曖昧な召喚士は、大きな作業でも曖昧です」
「……はい」
「まず範囲」
「床の、昨日の召喚陣の周りだけ」
「水量」
「水たまりを作らないくらい」
「禁止事項」
「紙には触らない。机の上にも触らない。補助札の箱にも触らない」
ダリルが小さく頷いた。
「補助札の箱に触らないのは大事だ」
「とても大事です」
メルセナも頷いた。
リオルは召喚陣の前に立った。
昨日と同じ実習室。
昨日と同じ床。
だが、今日はメルセナが隣にいる。
リオルは息を吸った。
「水精霊、来て」
淡い水色の光が床に浮かぶ。
昨日のように白銀の線は走らない。
小さな水滴のような精霊が、ふわりと現れた。透明で、丸くて、少し頼りない。けれど、昨日とは違って形は崩れなかった。
リオルは慎重に言う。
「床のこの範囲だけを湿らせて。水たまりは作らないで」
水精霊が小さく揺れた。
床に薄い水の膜が広がる。
魔力粉が浮き上がり、白い筋が少しずつ動いた。
メルセナが片手を上げる。
「風精霊」
風が鳴った。
リオルの水精霊よりもずっと静かに、風精霊が現れた。姿は薄い。空気の揺らぎが、そこにいることを教える程度だった。
「風精霊への指示案を」
「え、僕がですか?」
「はい。私が呼びましたが、今回あなたは運用案を出します」
リオルは少し緊張しながら風精霊を見る。
「風精霊、こっちへ。紙を飛ばさないくらいで、床だけ乾かして」
「妥当です。そのまま」
風が弱く流れた。
床の水気が少しずつ消える。水精霊が浮かせた魔力粉は、雑巾で拭き取りやすい場所に集まった。
時間はかかる。
だが、確かに掃除は進んでいた。
ユナが少し明るい声を出す。
「できてる」
セリオは横から見て、ぼそりと言った。
「遅いな」
「遅いですが、安全です」
メルセナが即答する。
リオルはその言葉を繰り返した。
「遅いけど、安全……」
「基礎としては悪くありません」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
褒められた。
いや、評価された。
メルセナの言い方はそんな感じだったが、それでも嬉しかった。
四 上位精霊はいない
床の一角がきれいになると、リオルはふと考えた。
一体ずつならできる。
でも、遅い。
実習室全体を片付けるには、かなり時間がかかる。
「あの、先生」
「何でしょう」
「水精霊と風精霊をもっと呼べば、掃除が早く終わると思うんです」
ダリルが小さく息を飲んだ。
ユナも少し不安そうな顔をする。
セリオは口を開きかけたが、メルセナが先に頷いた。
「よい着眼です」
「いいんですか?」
「試しましょう」
「閣下」
ダリルが思わず声を出した。
「安全範囲は私が設定します」
「その言葉を信じます」
「信じるより、胃を痛めて見守ってください」
「すでに痛いです」
「優秀です」
「褒められた気がしません」
メルセナは実習室の床に、薄い銀の線を走らせた。
召喚陣ではない。
安全範囲の境界線だった。
水や風が広がりすぎないように、教室の一角だけを囲っている。
「リオル」
「はい」
「増やす前に、精霊について説明します」
「はい」
「召喚士学校では、低位精霊、中位精霊、上位精霊という言い方をしますね」
「はい。火、水、風、土の低位精霊から始めて、中位、上位になるほど強いって習いました」
「便宜上はそれで構いません。ただし、本質的には少し違います」
「違うんですか?」
「上位精霊という、低位精霊とは別種の存在が単体でいるわけではありません」
リオルは首をかしげた。
「えっと……上位精霊はいないんですか?」
「正確には、上位精霊と呼ばれる状態がある、です」
「状態」
「低位精霊が結合し、性質が大きくなり、現象としてまとまったものを、中位、上位と呼ぶことがあります」
「結合すると、上位側になる?」
「はい」
メルセナは水精霊と風精霊を順に示した。
「一体の水精霊は、水を動かします。一体の風精霊は、風を送ります。しかし、水精霊が複数、風精霊が複数集まり、互いの性質が絡むと、ただの水と風ではなくなります」
「霧とか、渦とか?」
「はい。さらに増えると、局所的な嵐に近づきます」
リオルは床を見た。
掃除の話をしていたはずなのに、急に嵐という言葉が出てきた。
「掃除から嵐になるんですか?」
「なります」
「嫌です」
「だから学びます」
メルセナは続けた。
「召喚士が呼び出せる精霊の数は、魔力量に依存します。だから、高位召喚士には魔力量の多い者が多い」
「たくさん呼べるからですか?」
「はい。ただし、魔力量だけでは足りません」
その言葉に、リオルは顔を上げた。
メルセナは淡々としている。
けれど、その声には少しだけ芯があった。
「数が増えれば、制御は難しくなります。一体ずつなら従う指示でも、十体になれば干渉します。百体になれば、報告も移動も衝突も起こります」
「百体……」
「呼べることと、運用できることは別です」
リオルは、その言葉を胸の中で繰り返した。
呼べることと、運用できることは別。
「では、どうすればいいんですか?」
「事前に統率が取れた状態で呼びます」
「呼んでからまとめるんじゃなくて?」
「呼んでからでも不可能ではありません。ただし、遅い。危ない。混乱します」
「じゃあ、呼ぶ前に決めるんですね」
「目的、範囲、役割、禁止事項、終了条件、異常時の止め方」
リオルは指折り数えようとして、途中で諦めた。
「多いです」
「多いです。召喚マネジメントですから」
「召喚マネジメント……」
変な言葉だった。
召喚士学校で聞いたことがない。
でも、昨日からメルセナが話していることをまとめると、たぶんそれが一番近い気がした。
「召喚って、呼ぶだけじゃないんですね」
「昨日も言いました」
「はい。今日は床で分かってきました」
「よい傾向です」
メルセナは片手を上げた。
「では、試しましょう」
五 十体の掃除係
メルセナが呼んだ精霊は、全部で十体だった。
水精霊が五体。
風精霊が五体。
リオルが呼んだ水精霊一体とは違い、現れ方が静かだった。淡い水の粒、薄い風の輪。それらが安全範囲の中に、きれいに並ぶ。
思わず、リオルは感心した。
「すごい……」
「すごいのは、まだ呼んだだけです」
メルセナは言った。
「ここからが問題です」
「はい」
「あなたの指示案を」
リオルは安全範囲の中を見た。
床は汚れている。魔力粉が残っている。紙片もいくつか落ちている。机の脚も少し汚れている。
「えっと……水精霊は床を湿らせて、風精霊は乾かして。紙は飛ばさないで。机には触らないで。水たまりは作らないで」
メルセナは黙って聞いていた。
「以上です」
「役割が足りません」
「足りないですか?」
「水精霊五体が、全員同じ場所を湿らせます」
「あ」
「風精霊五体が、全員同じ場所を乾かします」
「ああ……」
「その結果、水と風が同じ場所へ集まります」
リオルは想像した。
あまり良くない気がした。
「分けます。水精霊は、右側二体、左側二体、中央一体。風精霊は、水精霊の後ろから順番に弱く風を送る」
「だいぶ良くなりました」
「だいぶ」
「完全ではありません」
リオルは安全範囲を見つめた。
「完全にするには?」
「やってみると分かります」
「先に言ってくれないんですか?」
「先に全部言うと、あなたは覚えません」
「先生、わりと厳しい」
「教育です」
メルセナは安全範囲の外へ一歩下がった。
ダリルも下がった。
ユナも下がった。
セリオは下がりかけてから、何となく悔しそうな顔で半歩だけ戻った。
メルセナが彼を見る。
「濡れたいなら、その位置でも構いません」
セリオは無言で下がった。
リオルは深く息を吸った。
「水精霊、右、左、中央に分かれて。床だけ湿らせて。水たまりは作らないで」
水精霊たちが揺れた。
水が床に広がる。
最初はうまくいった。
白い魔力粉が浮き、床の汚れが薄くなっていく。
「風精霊、後ろから弱く。紙を飛ばさないくらいで」
風が動いた。
水の膜が波立つ。
水精霊たちは床を湿らせる。
風精霊たちはそれを乾かそうとする。
一瞬、掃除はかなり早く進んだように見えた。
リオルは目を輝かせた。
「できてます!」
「見ています」
メルセナは言った。
その直後、水の膜がふわりと浮いた。
「あれ?」
風が水を持ち上げた。
水精霊が湿らせようとした場所へ、風精霊が横から入り込む。水は細かな霧になり、霧は風に乗って渦を作った。
小さな渦。
それが二つ。
三つ。
安全範囲の中で、白い霧が回り始める。
「先生?」
「はい」
「これ、掃除ですか?」
「現時点では、霧です」
霧が濃くなった。
床の魔力粉が巻き上がる。
紙片がふわりと浮いた。
「紙は飛ばさないでって言いました!」
「風精霊は紙を飛ばしていません。霧と水流が紙を持ち上げています」
「それは飛んでるのと違うんですか!?」
「原因が違います」
「結果は同じです!」
霧がさらに回る。
水精霊が、床を湿らせようとして水を増やす。
風精霊が、乾かそうとして風を増やす。
水と風が混ざる。
混ざったものを、精霊たちはそれぞれの役割で直そうとする。
その結果、小さな渦は一つにまとまり、実習室の一角に局所的な風が生まれた。
机の脚がぎしりと鳴る。
ユナの前髪がふわっと浮く。
ダリルの書類が一枚、宙を舞った。
「閣下!」
「安全範囲内です」
「書類が!」
「書類は安全範囲外です」
「では、なぜ飛んでいるのですか!」
「安全範囲の端から漏れています。よい観察です」
「よくありません!」
リオルは慌てて叫んだ。
「水精霊、止まって! 風精霊も止まって!」
止まらなかった。
正確には、止まろうとはしているらしかった。
しかし、水精霊が止めようと水を下ろすと、風精霊がそれを押す。風精霊が弱まると、水が床へ落ちて水たまりになり、水精霊がまたそれを動かす。
命令が衝突していた。
「先生! 机が!」
「水と風は結合しやすいです。十体呼んだから十倍掃除が早くなるわけではありません」
「先に言ってください!」
「先に言うと、あなたは覚えません」
「今すごく覚えています!」
「よいことです」
「よくないです!」
メルセナは一歩前へ出た。
だが、手は出さない。
「リオル」
「はい!」
「異常時の止め方を考えてください」
「今ですか!?」
「今です」
「先生が止めた方が早くないですか!?」
「早いです」
「じゃあ!」
「ですが、それではあなたが覚えません」
リオルは泣きそうになりながら、渦を見る。
水。
風。
霧。
紙。
床。
机。
全部が混ざっている。
全部を止めようとしても止まらない。
なら、分けるしかない。
「水精霊! 浮いた水を床へ戻して! 紙には触らないで!」
霧の一部が、ぱらぱらと床へ落ちた。
「風精霊! 上じゃなくて横へ! 窓の方に流して! 紙は飛ばさない強さで!」
風の向きが変わる。
まだ乱れている。
だが、渦の中心が少しずつ崩れた。
メルセナが小さく頷く。
「よいです。最後に終了条件」
「終了条件……。水精霊、床の水がなくなったら帰って!」
「風精霊は?」
「紙が動かなくなったら帰って!」
風が弱まった。
霧が落ちる。
床が濡れる。
紙片がへたりと落ちる。
水精霊が一体、二体と消えていった。
風精霊も、空気に溶けるように消える。
最後に、安全範囲の中に残ったのは、濡れた床と、しんなりした紙と、ものすごく疲れたリオルだった。
ダリルが静かに言った。
「……窓を開けよう」
ユナが前髪を押さえた。
「髪が湿ってる」
「ごめん」
リオルは肩を落とした。
セリオは濡れた袖を見て、何か言おうとした。
その前にメルセナが言った。
「よい失敗です」
「失敗に、よいとかあるんですか?」
「あります。被害が限定され、原因を説明でき、次に改善できる失敗は、教育上価値があります」
「なるほど……」
セリオが袖を軽く払う。
「教室は濡れましたが」
「乾かせば済みます」
ダリルがすぐに言った。
「乾かすために風精霊を増やすのはやめましょう」
「はい」
リオルは素直に頷いた。
六 数が力になる条件
窓が開けられた。
湿った空気が外へ逃げていく。
メルセナは濡れた床を見ながら、記録板に何かを書き込んでいた。
「今回の失敗原因を整理します」
「はい」
リオルは姿勢を正した。
ユナも近くに立つ。
セリオも、聞いていないふりをしながら少し近づいた。
「一つ。数を増やす前に、役割を分けていません」
「全員で掃除、じゃだめなんですね」
「だめです。全員で同じことをすると、全員の力が同じ場所に集まります」
ユナが床を見る。
「だから水と風が混ざった?」
「はい。二つ。水精霊と風精霊の干渉を想定していませんでした」
セリオが口を挟んだ。
「一体ずつなら問題なかった」
「正確です。一体ずつなら、互いの影響が小さい。数を増やしたことで、影響が現象になりました」
「現象……」
リオルはさっきの渦を思い出した。
「小さな台風です」
「教室に台風を作ったんですね、僕」
「はい。小さくてよかったですね」
「よかったんでしょうか」
「よかったです。まだ窓があります」
ダリルが眉を寄せた。
「窓基準ですか」
「壁が残っているので十分です」
「基準が大きい……」
メルセナは続けた。
「三つ。範囲指定が曖昧でした。床のどの範囲を、どの順番で掃除するかを決めていません」
「全部まとめてやろうとしました」
「はい。四つ。終了条件が個別ではありませんでした」
「水精霊と風精霊で、別々に帰す条件が必要なんですね」
「その通りです。水精霊は水がなくなれば帰れます。風精霊は紙や埃が動かなくなれば帰れます。同じ終了条件ではありません」
リオルは頷いた。
「五つ。異常時の止め方を先に決めていませんでした」
「一番慌てました」
「慌てるのは当然です。だから、慌てる前に決めます」
メルセナは記録板を閉じた。
「数が増えること自体は悪ではありません」
「悪ではないんですか?」
「はい。数は力です」
メルセナは窓の外を見た。
木の枝に、小鳥が一羽とまっている。
「一体ではできないことが、十体ならできます。十体で足りないことが、百体ならできる場合もあります」
「百体……」
「ただし、数は勝手に力にはなりません。数を力にするには、統率が必要です」
「統率」
「目的。範囲。役割。順番。報告。終了条件。異常時の止め方。誰が何をして、誰が何をしないのか」
リオルは濡れた床を見た。
さっきの精霊たちは、悪いことをしたわけではない。
水精霊は床を湿らせようとした。
風精霊は床を乾かそうとした。
どちらもリオルの指示を聞こうとしていた。
でも、指示が雑だった。
だから、互いにぶつかった。
「魔力量が多いだけじゃ、だめなんですね」
「だめです」
メルセナは即答した。
「魔力量が多ければ、多く呼べます。ですが、多く呼んだものを扱えなければ、被害も多くなります」
「高位召喚士って、魔力量が多い人が多いんですよね?」
「多いです。呼べる数が増えるからです」
「でも、それだけじゃ最高位にはなれない」
メルセナはリオルを見る。
「その理解でよいです」
リオルは少しだけ嬉しくなった。
「召喚マネジメントが必要だから」
「はい」
その言葉は、やはり変だった。
けれど、濡れた床を見ると、変な言葉のまま納得できた。
召喚は、呼ぶだけではない。
呼んだものが、何をすればよいか分かるようにする。
ぶつからないようにする。
止まれるようにする。
帰れるようにする。
それができて、初めて数が力になる。
七 床の次は依頼
掃除は結局、普通の雑巾も使って終わらせた。
水精霊と風精霊は便利だった。
ただし、リオルが思っていたほど簡単ではなかった。
床はきれいになったが、教室の空気はまだ少し湿っている。
ユナは前髪を気にしている。
セリオは袖を気にしている。
ダリルは胃を気にしている。
メルセナだけが、何も気にしていないように見えた。
「リオル」
「はい」
「今日の内容を一言でまとめるなら?」
リオルは少し考えた。
「複数呼べば便利、ではなく、複数呼ぶなら管理が必要」
「よいです」
「あと、床は正直です」
「それもよい学びです」
ユナが小さく笑った。
「床から学ぶ召喚術」
「基礎は床にあります」
メルセナは真顔で言った。
冗談なのか本気なのか、リオルには分からない。
たぶん本気だった。
ダリルは濡れた床を見て、深く息を吐いた。
「しかし、これを通常授業に組み込むのは難しいですね」
「その必要はありません」
「と、言いますと」
「これはリオル個人の召喚術基礎コンサルティングです。学校授業として再現する必要はありません」
「それは助かります」
ダリルは本当に助かった顔をした。
「ただし、学校側にも共有すべき点はあります」
「共有すべき点」
「精霊を複数扱う場合、数を増やすことそのものを成果として見ないこと。役割分担、範囲指定、終了条件、異常時の停止手順まで含めて評価すること」
ダリルは表情を引き締めた。
「承知しました。記録に残します」
「お願いします」
メルセナは淡々と頷いた。
リオルは濡れた雑巾を桶の中で絞った。
水が落ちる。
さっきまで床の上で渦を巻いていた水と風が、今はただ桶の中に収まっている。
同じ水なのに、同じ風なのに、扱い方を間違えるだけで教室に小さな台風ができる。
精霊たちが悪かったわけではない。
水精霊は床を湿らせようとした。
風精霊は床を乾かそうとした。
どちらも、リオルの指示を聞こうとしていた。
それなのに、うまくいかなかった。
理由は、リオルの指示が足りなかったからだ。
どこを。
どの順番で。
どのくらい。
何をしてはいけないか。
いつ終えるか。
困った時にどう止まるか。
それを決めないまま数を増やせば、便利になるどころか、混乱も増える。
「先生」
「何でしょう」
「召喚マネジメントって、掃除でも必要なんですね」
「必要です」
メルセナは即答した。
「掃除で必要なら、防衛、捜索、救助、調査ではもっと必要になります」
「捜索……救助……」
「現実の依頼は、教室掃除より整っていません」
リオルは顔を上げた。
「依頼、ですか」
「はい」
メルセナは実習室の窓ではなく、教室の扉の方を見た。
その先には廊下があり、学校があり、さらに外には召喚士ギルドがある。
リオルにとって、ギルドはまだ遠い場所だった。
学生登録の確認や、学校行事の説明で行ったことはある。
けれど、自分が依頼を読む側になるとは、あまり考えたことがなかった。
「次は、実際の依頼を見ます」
「僕がですか?」
「はい」
「でも、僕はまだ見習いです」
「だから見ます。受けるかどうかを決める前に、まず読めるようになる必要があります」
「依頼を読む……」
「依頼文には、書かれていることと、書かれていないことがあります」
メルセナは指を一本立てた。
「依頼者が何を望んでいるのか」
二本目。
「依頼者が何を分かっていないのか」
三本目。
「危険がどこにあるのか」
四本目。
「召喚対象に何をさせるべきか」
五本目。
「どこまでやれば終わりなのか」
リオルは思わず、濡れた床を見た。
「掃除と同じですね」
「はい。床より少し複雑になるだけです」
「少しで済みますか?」
「済まない場合もあります」
「ですよね」
ユナが横から言った。
「私たちも行くんですか?」
メルセナはダリルを見た。
ダリルは少し考えた。
「学校としての許可が必要です。低難度依頼の閲覧だけなら、実地見学として扱えるでしょう」
「同行者は最小限で構いません」
メルセナが言う。
「依頼対応の中心はリオルです。人数が増えれば、それだけ見るべきものも増えます」
セリオが眉を動かした。
「ロステルが中心ですか」
「はい」
「見習いなのに?」
「見習いだからです」
メルセナは迷わず言った。
「完成してから現場を見るのでは遅い。現場を見るから、何が足りないか分かります」
リオルは黙った。
怖い。
けれど、少しだけ知りたい。
掃除ですら、あれほど考えることがあった。
では、本物の依頼では何を考えなければならないのか。
リオルには分からない。
分からないから、見なければいけないのだと思った。
「先生」
「はい」
「僕、見てみたいです」
「よい返事です」
メルセナは頷いた。
「では、次は召喚士ギルドへ行きましょう」
召喚士ギルド。
契約書類と依頼掲示板。
召喚士、依頼人、職員、照会水晶。
学校の実習室とは違う場所。
床の上で起きた小さな台風の向こうに、リオルは初めて、実際の召喚士の仕事を少しだけ想像した。
召喚は、呼ぶだけではない。
複数呼べば便利、でもない。
呼ぶ前に考え、呼んだ後に整え、終わらせるところまで見る。
それが、メルセナの言う召喚マネジメントなのだろう。
まだ少し変な言葉だった。
けれど、たぶんこれから何度も聞く言葉になる。
リオルは桶を持ち上げた。
床はまだ少し湿っている。
でも、昨日よりは少しだけ、召喚士というものが分かった気がした。
メルセナ先生の授業は、まだ始まったばかりだった。
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