勇者の条件 第37話 聖剣、神託、聖痕

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勇者の条件
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勇者の条件 第37話 聖剣、神託、聖痕 人物相関図

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勇者の証

魔王城での戦闘停止から数日が過ぎた。

停戦協議は、まだ終わっていない。

捕虜の名簿は増えたり減ったりしている。

負傷者の移送も終わっていない。

遺体の確認も、結界の安全確認も、残存部隊への伝令も、どれも途中だった。

それでも、人間側の神官や記録官たちは、別の仕事を始めていた。

魔王を討った者の記録である。

ロアンたちは、臨時本陣の一室に呼ばれた。

部屋には、各国の記録官、中央神殿の神官、アークガルム王国の高官が並んでいる。

机の上には羊皮紙。

インク壺。

封蝋。

古い英雄譚の写し。

そして、まだ何も書かれていない新しい記録帳。

ロアンは、それを見ただけで嫌な予感がした。

ミルカも同じ顔をしている。

エナは少し緊張している。

ガルドは眠そうだった。

記録官が咳払いをする。

「勇者殿の証について、確認を行いたい」

ロアンはすぐに言った。

「勇者ではありません」

記録官は困ったように微笑む。

「便宜上、そう呼ばせていただきます」

「困ります」

「では、魔王討伐者殿」

ミルカが小声で言った。

「もっと面倒な呼び方になったわね」

ロアンは少しだけ顔をしかめた。

「灰の一団でいいです」

記録官は筆を構えたまま言う。

「もちろん、灰の一団についても記録します。ただ、中心人物の証を確認する必要がありまして」

「中心人物じゃないです」

ミルカがぼそりと言う。

「また始まった」

ガルドが眠そうに言う。

「中心でいいだろ」

「よくない」

「真ん中に立っていた」

「場所の話じゃなくて」

エナが小さく手を上げた。

「でも、真ん中にいたことは多かったです」

ロアンは困った顔でエナを見る。

「エナまで」

神官が真面目な顔で言った。

「魔王を討った以上、何らかの証があったはずです。聖剣、神託、聖痕。いずれか、あるいは複数が」

ロアンは首をかしげる。

「ありません」

部屋の空気が、少しだけ止まった。

神官たちは、なぜかそこで引かなかった。

むしろ、探す目になった。

ロアンはミルカに小声で言う。

「ないって言ったのに」

ミルカも小声で返す。

「あの顔は、ないものを探す顔ね」

「ないのに?」

「ないから探すのよ」

「変じゃない?」

「かなり変。でも、たぶん止まらない」

ガルドがうなずく。

「見つかるまで探すやつだな」

ロアンはさらに嫌な顔をした。

「見つからないよ」

ミルカは言った。

「作るかもしれないわね」

「やめてよ」

第一の証

最初に調べられることになったのは、ロアンの剣だった。

魔王に届いた剣。

最後まで折れなかった剣。

魔王の魔力を一瞬受け止めた剣。

神官たちにとって、それはただの剣では済まないらしい。

神官が言う。

「その剣を拝見しても?」

ロアンは少し迷った。

剣は、ずっと一緒に旅をしてきたものだ。

魔王戦で深く傷んでいる。

刀身には細かな傷が入り、柄にも汗と血が染みている。

無造作に触られるのは嫌だった。

だが、隠すようなものでもない。

ロアンは鞘ごと剣を差し出した。

「丁寧にお願いします」

記録官が慎重に受け取る。

「もちろんです」

神官と記録官が剣を見つめる。

刀身には、魔王の魔力を受けた黒い筋が薄く残っていた。

刃こぼれもある。

鍛えはよい。

だが、神々しい光を放っているわけではない。

中央神殿の紋章もない。

聖都の封印刻印もない。

記録官が問う。

「この剣は、どこで?」

ロアンは答えた。

「もらいものです」

神官が顔を上げる。

「誰から?」

「鍛冶師の夫婦からです。エナが病気を治した礼に、打ってくれました」

エナが小さく補足する。

「治したというか、一週間かけて少しずつ良くしただけです」

ミルカが言う。

「神々しい儀式とかはないです。かなり大変ではあったけど」

ガルドが剣を見る。

「いい剣だ」

ロアンは少しだけ嬉しそうに頷く。

「うん。いい剣」

神官は静かに言った。

「病の鍛冶師が、神官の癒しを受けた後、魔王を討つ剣を打った」

ロアンはすぐに言う。

「魔王を討つために打ったわけじゃありません」

記録官の筆が止まる。

「違うのですか」

「旅で使う剣として打ってくれました」

ミルカが横から言う。

「当時は魔王城の玉座に行く予定なんてなかったです」

「そうなのですか」

「そんな予定を立てる人がいたら止めます」

ガルドがロアンを見る。

「今は行ったぞ」

ミルカが言う。

「今の話はしてない」

「そうか」

記録官は書き留める。

病の鍛冶師。

一週間。

神官の癒し。

礼として打たれた剣。

魔王を討つ。

その並びは、すでに物語に見えた。

ロアンはまだ、それに気づききっていなかった。

ミルカだけが、嫌そうに記録官の筆先を見ていた。

七日七晩

後日、別の記録官がその話をまとめた。

読み上げられた最初の文は、まだ事実に近かった。

「病の鍛冶師が、癒やしの神官の助けを受け、七日をかけて剣を打った」

ロアンは頷いた。

「だいたい合っています」

エナも頷く。

「はい。少しずつ体を戻しながらでした」

だが、隣にいた神官が言った。

「七日という数字は聖数です」

ミルカの眉が動いた。

神官は続ける。

「七日七晩、祈りと火の中で鍛えられた剣と記すべきでは」

「七日七晩打ち続けたら死にますよ」

ミルカの返答は速かった。

記録官が困る。

「表現上の問題でして」

「表現で人を殺さないで」

ロアンも真面目に言った。

「あの人たちは病み上がりでした。無理はしていましたけど、七日七晩は打ってません」

エナも少し困った顔で言う。

「休まないと、また倒れてしまいます」

神官は咳払いをした。

「ですが、魔王を討った剣には、ふさわしい由来が必要です」

ロアンは首をかしげる。

「ふさわしいって、何ですか」

部屋の中が少し静かになった。

誰も、すぐには答えられなかった。

ガルドが言う。

「強い剣なら、強いやつが打ったでいいんじゃないか」

ミルカが頷く。

「かなり正しい」

神官は少し困った顔をする。

「ただ、後に読む者へ伝わる形というものがありまして」

ロアンは言う。

「ちゃんと書いた方が伝わります」

ミルカがすぐに乗る。

「そうそう。ちゃんと書いて。七日七晩働かせないで。病み上がりだから」

エナが小さく付け加える。

「寝てほしいです」

ガルドが言う。

「飯も食った方がいい」

ミルカが記録官を見る。

「ほら、四人一致」

記録官はさらに困った顔をした。

だが、それでも記録には少しずつ飾りが付いていく。

病の鍛冶師夫婦の礼の剣は、やがて、

神官の祈りを受け、鍛冶師が七日七晩鍛えた聖剣。

そう呼ばれ始める。

ロアンは何度も訂正した。

「聖剣じゃありません。もらいものです」

だが、人々は言う。

「勇者に渡された時点で、聖剣になったのです」

ロアンは困った。

剣は、剣である。

大切な剣である。

でも、それを聖剣と呼ぶのは、鍛冶師夫婦の手の温度が消えるような気がした。

鍛冶師の名

ロアンは、剣についてだけは強く言った。

「剣を聖剣と呼ぶなら、打ってくれた人たちの名前を残してください」

記録官が顔を上げる。

「鍛冶師の名ですか」

「はい。病み上がりで、でもすごくいい剣を打ってくれたんです。エナが一週間かけて治して、それで……」

ロアンは少し言葉に詰まった。

あの剣は、神から落ちてきたものではない。

光の中から現れたものでもない。

人が打ったものだ。

疲れた体で、感謝を込めて、火の前に立ってくれた人がいた。

それが消えるのは嫌だった。

エナも静かに言う。

「私も、名前を残してほしいです」

ミルカが言った。

「七日七晩より、その方がずっと大事でしょ」

ガルドがうなずく。

「剣を打ったやつは強い」

記録官は、少し考えてから頷いた。

「分かりました。鍛冶師の名は記録します」

ロアンは少しだけ安心した。

「ありがとうございます」

ミルカがすぐに言う。

「あと、七日七晩は消して」

「そこもですか」

「そこが一番危ない」

記録官は曖昧に頷いた。

ロアンは不安になる。

「消しますよね?」

「可能な限り」

ミルカが目を細める。

「可能な限りじゃなくて、消して」

記録官は慌てて筆を取った。

ただし、後世でその名がどれほど正しく残るかは分からない。

それでも、この時、ロアンは少しだけ剣を守れたような気がした。

剣そのものではなく、剣を打ってくれた人たちのことを。

第二の証

次に神官たちが探したのは、神託だった。

魔王を討つ者が、何の導きもなく進んだはずがない。

中央神殿には神託がなかった。

東の勇者候補にも、明確な神託は降りなかった。

ならば、どこか別の場所にあったはずだ。

神官が問う。

「旅の初め、神の言葉を受けたことは?」

ロアンは答えた。

「ありません」

「夢は?」

「特に」

「声は?」

「聞いてません」

「光は?」

「見てないと思います」

ミルカが横から言う。

「見てたら私に言ってるでしょ」

「たぶん言う」

「絶対言う」

ガルドが尋ねる。

「夢なら忘れることもあるんじゃないか」

ロアンが少し考える。

「朝ごはんの夢なら」

ミルカが記録官へ言う。

「それは神託じゃないです」

記録官は筆を止めた。

「書いていません」

エナは少し考えてから言った。

「あの……神託ではないと思いますが、田舎神殿に物語はありました」

神官たちが一斉にエナを見る。

エナは少し怯む。

「小さな精霊たちの話です。強い精霊が一人で世界を支えるのではなくて、小さな精霊たちが互いに足りないものを補い合って、世界を保つという……」

ロアンが頷いた。

「あれは、覚えています」

ミルカも言う。

「ロアン、あれ好きだったわね」

ロアンは少し照れる。

「好きというか、分かりやすかったから」

神官はゆっくりと言った。

「それだ」

エナが驚く。

「違います。あれは神託ではありません。古い物語です」

神官は言う。

「神は、物語の形で語ることもあります」

エナは困る。

「でも、子どもにも読ませるような本です」

「神託とは、必ずしも雷鳴と光の中で降るものではありません」

ミルカが小声で言った。

「急に都合よく柔らかくなったわね」

ロアンも小声で返す。

「神託って、もっとはっきりしたものかと思ってた」

「私も今までそう思ってた」

ガルドが言う。

「物語でいいなら、道場の壁の言葉も神託か」

ミルカが即答する。

「違う」

「なぜだ」

「話が増えるから」

物語が神託になる

田舎神殿から、その物語の写しが取り寄せられた。

古びた本である。

装飾も少ない。

中央神殿の高位神官が期待していたような、金の留め具がついた聖典ではない。

子どもが読んだ跡がある。

端は少し丸まっている。

ところどころ、誰かが花の絵を描いた跡まであった。

エナはそれを見て、少し安心したような顔をした。

「ああ、これです」

神官は本を慎重に開く。

記録官たちも覗き込む。

内容は、ロアンたちの旅に奇妙に合っていた。

一人の大きな力ではなく、足りない者同士が補い合う。

海の者。

森の者。

火を扱う者。

道を知る者。

傷を癒す者。

剣を振る者。

それぞれが、少しずつ世界を支える。

神官たちは顔を見合わせた。

「これは、勇者を導くために残された物語ではないか」

エナは首を横に振る。

「違うと思います。少なくとも、私たちはそう聞いていません」

ロアンも言う。

「神託として読んだわけじゃありません」

「では、何として読んだのです」

「いい話だな、と」

記録官の筆が止まった。

ミルカが笑いそうになって、口元を押さえる。

神官は困った顔をした。

「いい話」

ロアンは真面目に頷く。

「はい。いい話です」

ガルドが本を見る。

「俺も読んだ方がいいか」

エナが少し明るくなる。

「読みますか?」

「難しいか」

「子どもにも読めます」

「なら読めるな」

ミルカがぼそりと言う。

「そこで自信を持つんだ」

しかし、それでも記録は変わっていく。

田舎神殿に秘されていた精霊の物語。

灰の勇者ロアンはその言葉に導かれ、仲間と共に魔王へ至った。

エナはその記録を読んで、小さく言った。

「秘されてはいません。誰でも読めました」

ミルカが答える。

「誰でも読めるものほど、あとから秘されていたことにされるのよ」

「どうしてですか」

「その方が、ありがたそうだから」

ロアンは本を見ていた。

神託ではなかった。

でも、たしかに自分の考え方に影響した。

一人で全部できなくてもいい。

足りないなら、誰かに頼ればいい。

誰かの足りないところは、自分が補えばいい。

その考えは、たしかに旅の中で何度も使った。

ロアンは言う。

「神託ではないと思います。でも、大事な話ではありました」

その一言が、また記録官の筆を動かした。

ミルカが呻く。

「今の、かなり危険な言い方だったわよ」

ロアンは驚く。

「え、だめ?」

「神官が一番好きなところに置きにいった」

「そんなつもりじゃ」

「つもりがなくても、筆は動く」

記録官はもう書いていた。

田舎神殿

エナは、田舎神殿について訂正した。

「中央神殿の秘された神託ではありません。地方の、小さな神殿にあった物語です」

神官は言う。

「では、その神殿が選ばれたということでは」

エナは困る。

「選ばれたというより、そこにあったんです」

「なぜそこに?」

「昔からあったからです」

ミルカが小さく言う。

「それでいいのにね」

エナは続ける。

「でも、あの物語を残してくれた人たちのことは、忘れないでほしいです」

ロアンが頷く。

「俺も、あれを読んでよかったと思っています」

神官は、その言葉を聞いてまた筆を動かす。

エナは少し不安になる。

また違う意味が足される気がした。

ロアンもそれを察したのか、慌てて言う。

「よかったと思っているだけで、神託だとは思っていません」

記録官が筆を止める。

「併記します」

ミルカが言う。

「併記じゃなくて、そっちを本文にして」

「本文と注釈の関係がありまして」

「本文が間違っていて注釈が正しいのは、かなり困るわよ」

ガルドが感心したように言う。

「注釈は難しいな」

ミルカが答える。

「注釈が戦場になる時もあるの」

「名簿といい、文字はよく戦うな」

「そうよ。だから雑に扱わない」

田舎神殿が、最初から神託の聖地だったわけではない。

けれど、そこにあった物語がロアンに届いたことは事実だった。

エナは本を見ながら、小さく言う。

「物語が大事だったことまで、違うとは言いたくないんです」

ロアンは頷いた。

「うん」

ミルカが少し柔らかい声で言う。

「だから難しいのよ。全部嘘なら、否定しやすいのに」

エナは本を閉じた。

古い本は、何も言わない。

ただそこにあった。

それだけなのに、今はもう多くの人が意味を乗せようとしている。

第三の証

最後に探されるのは、聖痕だった。

神に選ばれた印。

勇者の身に現れる特別な傷。

ロアンは、その話を聞いた時点で嫌な顔をした。

「ないです」

神官は言う。

「確認だけでも」

「傷ならたくさんありますけど」

「特に古い傷は?」

ロアンは少し考える。

幼い頃のスライム狩り。

皮膚を焼かれた痛み。

家に帰ってから母に叱られたこと。

痛いのに、泣くより先に悔しかったこと。

あの時の火傷は、まだ薄く残っている。

ロアンは言った。

「子どもの頃、スライムに焼かれた跡ならあります」

神官たちが顔を上げた。

ロアンはすぐに言う。

「ただの火傷です」

「どのようなスライムでしたか」

「普通のスライムです。少し酸が強かっただけで」

「場所は?」

ロアンは渋々、古い火傷の痕を見せた。

腕、あるいは肩口に残った薄い火傷。

神官が息を呑む。

ロアンは本当に嫌な予感がする。

「これ、聖痕じゃないですよ」

神官は言った。

「灰の勇者が幼き日に受けた火の印……」

「スライムです」

「魔に焼かれながらも立ち上がった印……」

「スライムです」

「幼き英雄の身に刻まれた、試練の痕……」

「スライムです」

ミルカが横で口元を押さえている。

エナは困った顔をしている。

ガルドは真面目に言った。

「スライムに焼かれると痛い」

ロアンはうなずく。

「痛いです」

記録官は書き留める。

幼少期。

魔物による火傷。

勇者の身に残る印。

灰の勇者。

火の痕。

ロアンは頭を抱える。

「今、スライムって書きました?」

記録官は少し目を逸らした。

ミルカが低い声で言う。

「書いて」

「はい」

記録官は慌てて書き足した。

ガルドが言う。

「スライムも魔物ではある」

ロアンが見る。

「味方なの?」

「事実だ」

「事実だけど」

ミルカが言う。

「事実だから危ないのよ」

灰と火傷

その傷の話は、すぐに変わり始めた。

最初は、幼少期に魔物に焼かれた傷だった。

次に、幼き日のロアンが魔の炎を受けても倒れなかった印になった。

さらに、神が灰の勇者に与えた火の聖痕になった。

ロアンは何度も否定する。

「スライムです」

だが、その訂正は弱い。

魔王を討った者の幼少期の傷。

それだけで、人々には意味があるように見えてしまう。

しかも、灰の勇者という呼び名と相性がよかった。

灰。

火。

焼かれた痕。

それでも生きた少年。

記録官にとっては、美しすぎる並びである。

ミルカが言う。

「最悪の相性ね」

ロアンが言う。

「何が?」

「灰と火傷」

「やめてよ」

エナが申し訳なさそうに言う。

「でも、たぶん、そう書かれてしまいます」

ガルドが言う。

「痛かったなら、強い傷だな」

ロアンはため息をつく。

「強い傷って何ですか」

ガルドは自分の古い傷を見た。

「傷は勝手に意味を持つことがある」

ロアンが見る。

ガルドは続ける。

「道場では、よく分からん傷でも、後から何の稽古でついたか言われる。たいてい間違ってる」

ミルカが言う。

「規模が違うけど、言ってることは分かるわ」

「俺も何度か、滝行でついた傷にされた」

ロアンが聞く。

「本当は?」

「枝に引っかけた」

エナが小さく笑ってしまった。

ミルカも肩を震わせている。

ロアンは少しだけ気が抜けた。

「じゃあ、俺のスライムも残しておかないと」

ガルドは真面目に頷く。

「書かないから変になるんだろ」

ミルカが言う。

「正論ね」

ロアンは記録官を見た。

「スライムも書いてください」

記録官は筆を握ったまま、少し戸惑う。

「聖痕の項に、ですか」

「聖痕じゃない項に」

ミルカが横から言う。

「幼少期の火傷。原因、スライム。以上」

「かなり簡素ですね」

「それが事実」

神官が少し困った顔をする。

「しかし、勇者の記録としては」

ロアンは言った。

「勇者ではないです」

部屋にまた沈黙が落ちた。

ミルカが小声で言う。

「強い。たまにこういうところだけ強い」

ロアンは困ったように言う。

「たまに?」

否定が美談になる

ロアンは、できるだけ訂正しようとした。

剣は聖剣ではない。

神託は神託ではない。

傷は聖痕ではない。

しかし、訂正すればするほど、周囲は別の形で解釈する。

「勇者は謙虚である」

「真の勇者ほど、自ら聖なる証を語らない」

「聖剣をもらいものと呼ぶ慎ましさ」

「神託を物語と呼ぶ素朴さ」

「聖痕をただの傷と呼ぶ無欲さ」

ロアンは本気で困った。

「違うって言ってるのに」

ミルカが言う。

「否定が美談に変換されてるわね」

「どうしたらいい?」

「たぶん、もう無理」

「早くない?」

「早いけど、流れが速い」

エナが小さく言う。

「悪気がある人ばかりではないんです」

ロアンは頷く。

それがさらに困る。

誰もロアンを騙そうとしているわけではない。

多くの人は、魔王討伐という出来事を理解したいだけだ。

意味を見つけたいだけだ。

勇者の物語として覚えたいだけだ。

だが、その結果、ロアンの知っている事実から少しずつ離れていく。

ロアンは言う。

「事実だけを書けばいいと思うんだけど」

ミルカが答える。

「人は事実だけだと落ち着かないのよ」

「どうして」

「魔王を倒した人の剣が、普通のもらいものだと困る人がいるから」

「いい剣だよ」

「それは分かる。でも、普通のいい剣では足りない人がいる」

ガルドが言う。

「足りないなら、鍛えればいい」

ミルカが少し笑う。

「物語の方を鍛え始めたのよ」

ロアンは嫌そうな顔をした。

「鍛えないでほしい」

エナが古い物語の本を撫でる。

「でも、全部が消えるよりは、本当のことも一緒に残せたら……」

ロアンは頷いた。

「うん。せめて、最初の記録には本当のことを書いてほしい」

ミルカが言う。

「直せるうちは、直しましょう。全部は無理でも」

三つの意味

記録官が、仮の記録を読み上げた。

「灰の勇者ロアンは、神官の祈りと鍛冶師の火によって鍛えられた剣を携えた」

ロアンがすぐに言う。

「礼として打ってくれた剣です」

記録官は筆を入れる。

「田舎神殿に秘された精霊の神託に導かれた」

エナが言う。

「秘されていません。古い物語です」

記録官はまた筆を入れる。

「幼き日に魔の火を受け、灰の聖痕を身に刻まれていた」

ロアンが言う。

「スライムの火傷です」

記録官は筆を止めた。

ミルカが腕を組む。

「だいぶ違います」

「だいぶどころじゃないわね」

エナが小さく言う。

「でも、完全な嘘でもないところが難しいです」

ガルドが言う。

「剣はあった。話もあった。傷もあった」

ロアンは言う。

「でも、意味が違う」

ミルカが頷く。

「そう。ものはある。意味が変わってる」

部屋の中が、少し静かになった。

聖剣、神託、聖痕。

どれも、完全な作り話ではない。

元になるものはあった。

剣はあった。

物語はあった。

傷はあった。

だが、それらは勇者になるための条件ではなかった。

勇者と呼ばれた後に、世界が意味を変え始めた。

ロアンは記録官を見る。

「せめて、最初の記録には本当のことを書いてください」

記録官はうなずく。

「可能な限り」

ミルカが睨む。

「可能な限りじゃなくて、書いて」

記録官は慌ててうなずく。

エナが言う。

「物語を書き残すなら、田舎神殿にあったことも書いてください」

ガルドが言う。

「スライムも書け」

ロアンはガルドを見る。

「そこは書かなくても……」

ガルドは真面目に言う。

「書かないから変になるんだろ」

ミルカが少し笑った。

「正論ね」

ロアンは困ったように笑う。

たしかにそうかもしれない。

恥ずかしくても、格好悪くても、書かなければ別の話になる。

だからロアンは言った。

「じゃあ、スライムも書いてください」

記録官は、少し戸惑いながらも筆を取った。

その一文が、どこまで残るかは分からない。

だが、少なくともこの時、ロアンたちは本当の話を残そうとした。

後の記録

ずっと後。

神殿の展示室には、傷んだ剣が納められる。

硝子のような結界の向こうに置かれたその剣を、案内役の神官が子どもたちに語る。

「これこそ、灰の勇者ロアンが魔王を討った聖剣である。神官の祈りと鍛冶師の火により、七日七晩鍛えられたと伝わる」

子どもたちは目を輝かせる。

誰かが尋ねる。

「ずっと打ってたの?」

神官は微笑む。

「伝承では、そう語られている」

同じ頃、田舎神殿は、いつの間にか神託の神殿と呼ばれている。

古い精霊の物語は写本され、飾られ、聖句として読まれていた。

小さき者ら、互いに欠けを補い、世界を支える。

その一節は、額に入れられ、祈りの場に掛けられている。

さらに別の記録には、ロアンの幼少期の火傷が絵に描かれている。

灰色の炎に焼かれながらも立つ少年。

その絵の下には、こう書かれている。

灰の聖痕。

だが、本当は違う。

剣は、礼だった。

物語は、子どもにも読ませる古い話だった。

傷は、スライムの火傷だった。

完全な嘘ではない。

けれど、本当のままでもない。

人々は、魔王を討った者にふさわしい理由を探した。

その理由は、後から整えられていった。

誰かの手によって。

誰かの願いによって。

誰かの不安を鎮めるために。

聖剣、神託、聖痕

聖剣は、最初から聖剣だったわけではない。

それは、病の鍛冶師夫婦が、礼として打ってくれた剣だった。

神託は、最初から神託だったわけではない。

それは、田舎神殿にあった小さな精霊たちの物語だった。

聖痕は、最初から聖痕だったわけではない。

それは、幼いロアンがスライムに焼かれた火傷だった。

けれど、魔王を討った後、人々はそれらを違う目で見た。

ただの剣では足りなかった。

ただの物語では足りなかった。

ただの傷では足りなかった。

魔王を討った者には、魔王を討つにふさわしい理由が必要だった。

だから、意味が加えられた。

剣は聖剣になった。

物語は神託になった。

火傷は聖痕になった。

完全な嘘ではなかった。

だが、本当のままでもなかった。

ロアンは何度も否定した。

ミルカは何度も訂正した。

エナは何度も説明した。

ガルドは、何度も「スライムも書け」と言った。

それでも、物語は進んでいく。

本人の言葉よりも、後の者たちが欲しがる形へ。

勇者の条件は、こうして少しずつ作られていった。


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