エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第28話 風の精霊剣

エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第28話 風の精霊剣 エレメンタルクロス ~精霊の剣~
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第28話 風の精霊剣
エレメンタルクロス ~精霊の剣~
創作実験TOP作品紹介人が扱える精霊に、意志はない。火や光の力として術者に従う、粒子のような存在――それが、この世界の常識だった。白と黒。二種類の精霊を剣の形に固定する少年セトは、忌避される二属性同時使用を隠しながら旅をしていた。ある日、巨…
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第28話 風の精霊剣 人物相関図

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。

起き上がる前に

 翌朝、ミレナが借りた家を訪ねると、セトは長椅子の上で身体を起こしていた。
 右脚にはまだ布と添え木が巻かれている。

「何をしているんですか」
「起きた」
「見れば分かります」

 入口の近くにいたネアが振り返る。

「横になっていてください」
「今日は昨日より動く」
「昨日より動くことと、動いてよいことは同じではありません」

 セトは長椅子へ背を戻した。

「分かった」
「素直ですね」

 ミレナが言う。

「立てなかった」
「理由はどちらでも構いません」

 昨日、ハルヴェンが言っていた言葉を、ミレナはそのまま返した。
 セトは少しだけ目を細める。

「ハルヴェンに似てきたな」
「二日で似るものではありません」

 ミレナは長椅子の横ではなく、ネアの前へ立った。

「昨日の話を、覚えていますか」
「ええ」
「状態を見てから、と言っていました」
「言いました」

 ネアは銀青色の細い線をミレナの周囲へ巡らせる。
 淡緑色の流れは、初めて調べた時より表へ近かった。
 人間としての身体へ重なりながら、呼吸に合わせて外側へ広がろうとしている。

「眠れましたか」
「少しは」
「風の知識は?」
「浮かびます。でも、昨日の夜よりは薄いです」
「自分の記憶と区別できますか」

 ミレナはすぐに答えなかった。

「説明されれば、分かります」
「感じ方としては?」
「同じように覚えています」
「では、そこから始めます」

見分ける練習

 訓練は村の外ではなく、借りた家の裏庭で始まった。
 強い風を起こさない。
 精霊王の姿にもならない。
 ネアが最初に求めたのは、ミレナが自分の手を見て、今感じていることを順に口へ出すことだった。

「右手が少し冷たいです」
「なぜですか」
「朝だから」
「風の知識では?」
「ありません。触って冷たいと感じています」
「左足は?」
「靴の中で指が少し曲がっています」
「遠くの風は?」

 ミレナは北を見た。

「山の向こうで雨が降っています」
「見えますか」
「いいえ。でも分かります」
「それは、今の身体で得た感覚ではありません」
「風の知識ですか」
「知識だけとも限りません。あなたの中にある風の役割が、実際に遠方の流れへ触れている可能性もあります」
「また分からなくなりました」
「分からないままで構いません」

 ネアは、ミレナが意外そうに見るのを待ってから続けた。

「すべてを記憶か知識かへ分けることが目的ではありません。今、どちらを前へ出しているかを見分けます」
「私が感じた冷たさと、風が感じた雨を?」
「ええ。どちらもあなたの中にあります。ですが、同じ方法で得たものではありません」

 ミレナはもう一度、自分の手を見る。
 朝の冷たさは、皮膚に残っている。
 山の向こうの雨は、身体のどこにも触れていない。
 それでも、確かに分かる。

「冷たいのは、今ここにいる私です」
「はい」
「雨は、風の側」
「今は、その分け方でよいでしょう」

 すべての記憶を正しく分類することはできない。
 だが、今この瞬間に身体で感じているものと、風の役割を通して届くものなら分けられる。
 ミレナは右手を握った。

「ここにいる方を、先に確かめるんですね」
「そうです」

風の側

 その日の午後、初めて風の側を自分から前へ出す訓練を行った。
 ネアはミレナへ触れず、少し離れた場所に立つ。
 セトは裏口に近い椅子へ座らされていた。
 本来なら休んでいるべきだったが、ミレナが見える位置にいることだけはネアも止めなかった。
 シアは家の屋根に座り、村の外を見張っている。
 リグとハルヴェンは川と水路を交代で確認していた。

「前回、わたしは外から境界をずらしました」

 ネアが言う。

「今回は、あなた自身が風の側へ道を譲ります」
「人間の私が奥へ下がる?」
「押し込まないでください」
「違うんですか」
「人間のあなたを小さくして、風の精霊王を大きくするのではありません。どちらへ身体を預けるかを変えます」
「同じ身体なのに」
「同じ身体だからこそです」

 ミレナは目を閉じた。
 自分の足が地面へ触れている。
 服の重さが肩にある。
 髪をまとめた紐が、首の後ろへ触れている。
 その外側に、村を通り抜ける風がある。
 畑の上で弱くなる流れ。屋根へ当たり、二つに分かれる流れ。川の冷たさを運ぶ流れ。
 意識を向けるほど、自分の身体が小さくなるように感じた。

「止めますか」

 ネアが尋ねる。

「まだ」

 ミレナは足の裏へ意識を戻した。
 地面の硬さを確かめる。
 そのうえで、風を遠くから眺めるのではなく、自分のすぐ近くへ迎えた。
 淡緑色の流れが身体へ重なる。
 栗色の髪へ、薄い銀緑色の光が差した。
 服の裾が持ち上がる。

「名前は?」

 ネアが尋ねる。

「ミレナです」
「年齢は?」
「二十歳」
「今いる場所は?」
「村の……」

 言葉が止まった。
 村の外から見下ろした景色が重なる。
 屋根の数。川の曲がり方。畑を通る風。

「ミレナ」

 セトの声がした。

「裏庭だ」

 ミレナは足元を見る。
 土がある。
 自分の革靴がある。

「裏庭です」
「戻れますか」

 ネアが尋ねる。
 ミレナは風を押し出そうとした。
 淡緑色の流れが乱れる。

「押し返さないでください。前へ出る側を変えます」
「どうやって」
「今ここで、あなたが選んだ感覚を一つ」

 ミレナは右手を握る。
 朝、冷たいと感じた手だった。

「手が冷たい」
「そこへ戻ってください」

 銀緑色の光が薄くなる。
 服の裾が落ちた。
 髪も元の栗色へ戻る。
 ミレナは大きく息を吐いた。

「戻れました」
「ええ。今は、わたしが境界を動かしていません」

戻るための場所

 初日の訓練は、それだけで終わった。
 ミレナは風の精霊王へ完全には変わっていない。
 髪と瞳へ光が重なり、身体が少し軽くなっただけだった。
 それでも、前回とは違う。
 ネアに分けられたのではなく、自分で風の側を前へ出した。
 自分で人間の側へ戻った。

「これを繰り返せば、精霊王になれるんですか」
「なれるかではなく、すでになれます」

 ネアは言った。

「あなたが覚えるのは、自分で境界を動かすことです」
「完全に変わっても、戻れるように」
「ええ」
「戻る時に使ったのは、手の冷たさでした」
「毎回同じものを使う必要はありません」
「消えてしまうものでは駄目ですよね」
「その時の身体にあるものなら使えます。ただし、強い恐怖の中でも確かめられるものがよいでしょう」

 ミレナは考える。
 家族の顔。村の家。自分の名前。
 どれも大切だった。
 だからこそ、風の知識と混ざった時に疑ってしまった。

「自分の記憶を、戻る場所にするのは怖いです」
「では、今選んだ行動を使ってください」
「行動?」
「右手を握ったのは、あなたです」

 ネアはミレナの手を見る。

「過去の記憶がどこから来たか分からなくても、今この瞬間に選んだことまでは奪われません」

 ミレナは右手を開き、もう一度握った。

「私が選んだこと」
「それを重ねてください」

二日目

 二日目には、髪全体へ銀緑色の光が重なるところまで進んだ。
 足が地面から離れる。
 ミレナは慌てて降りようとし、逆に身体を高く持ち上げてしまった。

「上ではありません」

 ネアが言う。

「分かっています」
「分かっているなら、下へ」
「下へ行こうとしています」

 ミレナの身体が横へ流れた。
 屋根の上からシアが飛び降りる。
 空中でミレナの肩をつかみ、そのまま地面へ下ろした。

「下手だな」
「初めてです」
「昨日も浮いていた」
「昨日は少しだけです」
「少し浮く方が難しい」
「慰めていますか」
「事実を言った」

 シアは手を離す。

「風は、どこへでも動けるから分かりにくい」
「シアさんにも分かるんですか」
「火は前へ行く」
「風の話です」
「前を決めればいい」

 ネアが少し考えた。

「単純ですが、間違ってはいません」
「だろう」

 ミレナは地面の一点を見た。
 自分が立っていた場所。
 そこを前ではなく、戻る先として決める。
 風を弱めるのではない。
 身体を支える流れの向きを、地面へそろえる。
 今度は、両足が同時に土へ着いた。

「できました」
「一度です」
「ネアは厳しいな」
「一度できたことと、いつでもできることは違います」

 ミレナはもう一度、風の側を前へ出す。
 浮く。
 地面を選ぶ。
 戻る。
 何度か繰り返すうち、空から見た知らない景色が浮かんだ。
 海。山。生まれる前の村。
 ミレナは右手を握る。

「今、私はここを選びました」

 景色は消えない。
 それでも、目の前の裏庭を見失わずにいられた。

三日目

 三日目、ミレナは風の精霊王の姿へ完全に変わった。
 栗色の髪には、根元から毛先まで淡い銀緑色の光が重なる。
 緑褐色の瞳も、薄い光を帯びた。
 人間の布で作られた服は形を残しながら、重さだけを失ったように漂っている。
 足元には、複数の細い風が輪を作った。

「名前は?」

 ネアが尋ねる。

「ミレナです」
「役割名は?」
「アイオロス」
「どちらがあなたですか」

 ミレナは答える前に、自分の内側を見る。
 ミレナという名。アイオロスという役割。
 どちらも自分へ重なっている。
 片方を偽物にはできない。

「今、答えているのはミレナです」
「風の役割は?」
「私の中にあります」
「あなたそのものですか」
「それだけではありません」

 ネアがうなずく。

「戻ってください」

 ミレナは右手を握る。
 前回よりも、風が強く残った。
 遠い空が見える。
 村の屋根が小さく感じる。
 人間の身体へ戻ることが、狭い場所へ入るように思えた。

「ミレナ」

 セトが呼ぶ。
 長椅子ではなく、家の壁へ背を預けて立っていた。
 添え木は外れているが、右脚へ体重をかけていない。

「右手だ」
「分かっています」
「なら、戻れる」

 ミレナは握った手を見る。
 今、自分で選んだ動作。
 風の広さではなく、この手を持つ身体を前へ出す。
 髪から光が消える。
 両足へ重さが戻り、膝が少し曲がった。
 ネアが支えようとしたが、ミレナは自分で立った。

「戻りました」
「ええ」
「セトさんが言わなくても、戻れました」
「ああ」

 セトは当然のように答えた。

「少しは褒めてください」
「できると思っていた」
「それは褒めているんですか」
「たぶん」

見失った時

 訓練を終えた後、ミレナはセトと二人で家の前に残った。
 ネアは水路の確認へ向かい、シアは屋根の上へ戻っている。
 セトは椅子へ座り、右脚を伸ばしていた。

「無理をして立ったんですか」
「少しなら動かしていいと言われた」
「壁に寄りかかることも含まれていますか」
「聞いていない」
「あとで確認します」

 セトは止めなかった。
 ミレナは自分の右手を見る。

「今日、自分で戻れました」
「ああ」
「でも、風の側にいる間、戻りたくないと思いました」
「力が欲しくなったのか」
「違います」

 ミレナは首を横へ振る。

「広いんです。遠くまで見えて、どこへでも行ける気がする。人間の身体へ戻ると、狭くなるように感じました」
「それが怖い?」
「その気持ちが、自分のものか分からないことが怖いです」

 風の役割が、人間の身体を不自由だと感じたのか。
 ミレナ自身が、一度知った広さを手放したくないと思ったのか。
 区別はできない。

「それでも、戻る方を選びました」
「ああ」
「今は」

 ミレナはセトを見る。

「私がまた自分を見失っても、セトさんなら見つけてくれますか」
「ああ」

 セトは迷わなかった。

「風の中にいても?」
「ああ」
「私が自分をミレナだと言えなくても?」
「その時は、俺が呼ぶ」

 ミレナは少しだけ目を伏せた。

「それを聞きたかったんだと思います」

水の兆し

 訓練を始めて四日目の朝、水路の流れが再び逆になった。
 今度は村へ向かっていない。
 村の北側を回り、前回戦った草地へ集まっている。

「ヴァルナが自分から水を集めている?」

 ハルヴェンが尋ねる。

「一部だけです」

 ネアは水路の前へ銀青色の線を伸ばした。

「残りは川と地面へ広がっています。人の形を作ろうとしているようですが、一つへ戻りきれていません」
「前回の攻撃で弱っているのか」

 リグが言う。

「可能性はあります」
「今なら動けなくできるかもしれない」
「同時に、村へ流れ込む前に対処できる機会でもあります」

 ハルヴェンは村の北を見た。

「基本は前回と同じです。俺とリグで流れを止める。シアとネアは、村へ抜ける水を戻してください」
「セトは残る」

 シアが言った。

「歩ける」
「歩けるだけだ」
「剣なら振れる」
「昨日、壁がないと立てなかった」
「今日は立てる」
「試すな」

 ネアが二人の間へ入る。

「セトは草地の外で待機してください。前へ出るかは、状態と必要性を見て決めます」
「ミレナは?」

 ハルヴェンが尋ねた。
 全員の視線がミレナへ集まりかける。
 セトが先に答えた。

「決めなくていい」
「まだ何も聞いていません」

 ミレナが言う。

「聞かれてからだと遅い」
「使わせる前提ではありません」

 ハルヴェンは落ち着いて答えた。

「ヴァルナの位置を風で確認できるかを聞こうとしました」
「それならできます」
「人間のままで?」
「近くまでなら」

 ミレナは北から来る風へ意識を向ける。

「草地の西側。前回より水の量は少ないです。でも、地面の下へ広く残っています」
「それだけで十分です」

 誰も、精霊王になれとは言わなかった。

決めていない力

 草地へ向かう前、ミレナはネアを呼び止めた。

「精霊剣になる時は、どうするんですか」

 ネアは足を止める。

「なると決めたのですか」
「決めていません」
「では、今聞く必要はありません」
「知らないままでは、選べません」

 ネアはミレナの顔を見た。
 罪悪感だけで急いでいる様子はない。
 それでも、迷いはある。

「精霊剣は、術式を覚えて変わるものではありません」
「シアさんとネアさんは、どうやって?」
「わたしは、自分からセトへ身を預けると決めました」
「決めた後は?」
「名前を呼ばれました」
「名前」
「役割名ではありません」

 シアが横から口を挟む。

「わたしの時もそうだった」
「シアさんと呼ばれた?」
「ああ」
「それだけですか」
「たぶんそれだけだ」
「たぶん?」
「精霊剣になったのは一回目だったから、比べられない」
「今は何度もなっていますよね」
「今は、なると決めればなれる」

 ネアが説明を引き取る。

「重要なのは、名前そのものを合言葉にすることではありません。役割ではなく、その個人が自分を預け、相手もその個人を受け取ることです」
「セトさんが、私をミレナとして呼ぶ」
「ええ」
「それで剣にならなかったら?」
「あなたが預けると決めていないか、セトが受け取れる状態ではないか。ほかにも理由はあるかもしれません」
「分からないんですね」
「初めての組み合わせですから」

 ミレナはうなずいた。

「聞いただけです」
「ええ。決めたとは受け取りません」

再戦

 ヴァルナは草地の中央で人の形を作りかけていた。
 深い藍青色から青緑色へ変わる髪。白と深い藍色の衣装。淡い青緑色の瞳。
 姿は前回と同じだが、身体の一部が地面へ流れたまま戻っていない。
 右腕の輪郭は薄く、足元からは何本もの水が離れた方向へ伸びている。
 穏やかな顔には、やはり怒りも狂気も見えなかった。
 ただ、自分が一人であることを保てていない。

「ヴァルナ」

 ネアが呼ぶ。
 反応はない。

「こちらの言葉が分かりますか」

 淡い瞳がわずかに動いた。
 返事の代わりに、地面の水が持ち上がる。

「来るぞ」

 リグが紫白色の光へ変わる。
 ハルヴェンが精霊剣・轟雷を受け取り、前へ出た。

「万雷」

 草地へ広がる水へ、無数の雷が落ちる。
 ヴァルナは人型を崩し、雷が届く前に流れを切り離した。
 それでも前回より遅い。
 何本かの水が雷に捕まり、動きを止める。

「弱っています」

 ハルヴェンが言う。

『だが、まだ多い』

 水は村とは逆方向へ逃げた後、大きく回り込む。
 土の下を通り、別の場所から村へ向きを変えた。

「右側」

 ミレナが叫ぶ。
 シアの炎が、地面から出た水を蒸気へ変える。
 ネアが残りの流れを外へ曲げる。
 一度は止まった。
 だが、ヴァルナの身体からさらに水が分かれる。
 薄い膜となり、草の間へ広がった。

「前回と同じです」

 ハルヴェンが轟雷を構え直す。

「量は少なくても、広がり方は変わりません」

散る水

 シアが炎の壁を作る。
 ヴァルナの水は、火へ触れる前に細く分かれた。
 ネアが銀青色の線で進路を変える。
 一本を曲げる間に、その外側から別の水が抜ける。
 轟雷の雷は、つながった水へは強く通った。
 だが、ヴァルナは触れ合う直前に流れを切り、雷を受けた部分だけを置いていく。

「中央にある分だけでも焼く」

 シアが言った。

「待ってください」

 ネアが止める。

「前回より総量が少ない。消滅させるつもりなら可能かもしれません」
「戻せないなら、村を守る」
「まだ戻せないと決まったわけではありません」
「でも止められない」

 水の一部が二人の会話の間を抜ける。
 セトが黒刃を作り、草地の外側から受けた。
 原光を失った水が地面へ落ちる。
 勢いまでは消えず、セトの足元へ流れた。

「前へ出ないでください」

 ネアが言う。

「外へ抜けた分だけだ」
「それを前へ出ると言います」

 シアがセトの前へ炎を置いた。

「次はわたしが焼く」

 水は炎を避け、さらに細くなる。
 草地全体へ散った流れが、少しずつ村へ近づいていた。
 前回と違うのは、ミレナがそれらをすべて見分けられることだった。
 どの流れが地上にあるか。どれが土の下へ入ったか。どこで二つが合流しようとしているか。
 風の側を前へ出さなくても、おおよその位置は分かる。
 だが、人間のまま動かせる風では、数が足りない。

二つの極大技

 草地の端へ抜けた水が、村へ続く地面へ届いた。
 細い流れのまま土へ染み込み、その先でまた集まろうとしている。

「セト」

 シアが振り返る。

「ああ」
「一度だけだ」
「ああ」

 シアの身体が赤橙色の光へ変わった。
 精霊剣・極炎が、セトの右手へ収まる。
 剣を握った瞬間、風では支えられていなかった右脚へ熱い力が通った。
 傷が治ったわけではない。
 それでも、立って剣を振るうだけの力は戻る。

『村へ続く流れだけを焼く』
「ああ」

 セトは極炎を地面すれすれへ構えた。

「極炎」

 合図と同時に、剣からシアの気配が消えた。
 意識を捨てた一瞬、火のすべてが出力へ変わる。
 赤白い炎が、村へ向かう水の前を長い線となって走った。
 地面の表面にあった水が一斉に蒸気へ変わる。
 土の下を進んでいた流れも、熱を避けて草地の中央へ押し戻された。
 だが、すべてではない。
 広がりすぎた水の一部は炎の外側を回り、白い蒸気へ紛れた。
 剣の中へシアの気配が戻る。
 極炎が赤橙色の光へほどける。
 人型へ戻ったシアが、よろめきながら着地した。

「焼ききれない」
「分かっている」

 蒸気の中から、何本もの水流が飛び出した。
 セトとシアを避け、さらに外側から村へ向かう。

「ネア」
「一度だけです」

 ネアの身体が銀青色と黒の光へ変わる。
 精霊剣・絶光が、セトの手へ収まった。
 極炎の身体強化が消えた直後だった。
 右脚が崩れかける。
 セトは絶光を地面へ突き立て、それを支えに身体を止めた。

『範囲を広げます。剣を動かさないでください』
「ああ」
「絶光」

 合図と同時に、剣からネアの気配が消えた。
 意識を捨てた一瞬、月の力が吸収と遮断へ特化する。
 銀青色と黒の流れが、セトを中心に薄く広がった。
 その範囲へ入った水から、分裂した形を保つ原光が抜け落ちる。
 水流が次々と崩れ、ただの水となって地面へ落ちた。
 村へ進む勢いも失われる。
 だが、絶光の外側では、ヴァルナの水がまだ動いていた。
 範囲をこれ以上広げれば、周囲の原光まで完全に失われる。
 剣の中へネアの気配が戻る。

『ここまでです』

 絶光が光へほどけ、ネアが人型へ戻った。
 セトの身体から支えが消える。
 ハルヴェンが片腕で受け止めた。

「十分です」
「止まっていない」
「村へ入る直前の流れは止めました」

 草地の中央では、極炎に押し戻された水と、絶光の外側に残った水が、再び別々の方向へ広がり始めていた。
 二つの極大技で、戦況は一時的に戻った。
 それでも、分かれた水を一つにする力はなかった。

自分で選ぶ

 ミレナは右手を握った。
 今ここで、自分が選んだ動作だった。
 淡緑色の風が足元へ集まる。

「ミレナ」

 ネアが振り返る。

「まだ精霊剣にはなりません」

 ミレナは答えた。

「まず、自分で精霊王になります」
「戻れなくなったら、すぐ止めます」
「はい」

 ミレナは風の側へ道を譲る。
 髪へ銀緑色の光が重なる。
 身体が地面からわずかに浮く。
 遠い空が一度に近づいた。
 村の屋根。山の向こうの雨。川から草地へ広がるすべての水。
 知らない景色も浮かぶ。
 生まれる前の村。空から見た海。
 ミレナは右手を握ったまま、目の前の草地を選んだ。

「名前は?」

 ネアが尋ねる。

「ミレナです」
「今、何をしますか」
「村へ向かう水を戻します」
「誰が決めましたか」
「私です」

 ネアはそれ以上止めなかった。
 ミレナが両手を広げる。
 草地を通る風が、何十本もの細い流れへ分かれた。
 水を強く押さない。
 それぞれが進もうとする向きへ横から触れ、少しずつ中央へ曲げる。
 地面の下へ潜った水には、土の隙間を通る空気を当てる。
 草の表面へ広がった水膜には、上からではなく、外縁から風を入れる。
 散っていた水が、ゆっくり同じ方向へ向き始めた。

「前回より安定しています」

 ハルヴェンが言う。

『まだ一つではない』

 轟雷のリグが答えた。
 ヴァルナも抵抗する。
 中央へ曲げられた水が、途中で二つへ分かれる。
 ミレナは分かれた先へ、さらに風を置く。
 流れが増える。
 遠い景色が重なる。
 身体の感覚が薄くなる。

「ミレナ」

 セトの声が届く。

「聞こえています」
「無理なら戻れ」
「戻れます」

 右手を握る。
 今は戻らない。
 戻れることを確かめたうえで、続ける方を選んだ。

名を呼ぶだけ

 中央へ集まりかけた水が、突然大きく持ち上がった。
 ヴァルナが人型を作る。
 前回より輪郭は崩れている。
 右腕は水のまま伸び、何本もの流れへ分かれた。
 狙いは、風を制御しているミレナだった。

「来ます!」

 ハルヴェンが迅雷で前へ出る。
 轟雷が水の腕を貫く。
 水は雷を受けた部分だけを切り離し、その外側からミレナへ回り込んだ。
 シアの炎が二本を焼く。
 ネアが三本を曲げる。
 さらに細い流れが、その隙間を抜けた。
 セトが白刃で切る。
 切れた水が二つに分かれ、別々の方向からミレナへ向かう。

「下がれ!」

 ミレナは下がらなかった。
 今、自分が風を止めれば、集まりかけた水が再び村へ散る。
 セトが黒刃を作る。
 右脚を引きずりながら、ミレナの前へ入ろうとする。

「来ないでください」
「守れない」
「一人では、ですよね」

 ミレナはセトを見る。
 人間の記憶と風の知識は、今も重なっている。
 どこまでが自分なのか、すべて分かったわけではない。
 それでも、この瞬間に決めるのが誰かは分かる。

「私がまた自分を見失っても、見つけると言いました」
「ああ」
「今、預けてもいいですか」

 セトは、迫る水とミレナを見た。

「必要だからじゃない」
「分かっています」
「剣にならなくても、別の方法を探す」
「それも分かっています」

 ミレナは右手を開いた。
 戻るために握っていた手を、自分の意思でセトへ向ける。

「私が選びました」

 水流が近づく。
 ミレナの髪が大きく揺れた。

「シアさんとネアさんから聞きました。名前を呼ぶだけでいいって。」

 セトは差し出された手を見る。
 風の精霊王アイオロスではない。
 水車小屋で見つけた少女。
 自分が誰なのか分からなくなり、それでも今、自分で選んだ一人の人間。

「ミレナ」

風の精霊剣

 淡緑色の風が、一度すべて止まった。
 次の瞬間、ミレナの身体が銀緑色の光へ変わる。
 光は周囲へ散らなかった。
 差し出した手から細く伸び、セトの右手へ集まる。
 二本の淡い銀緑色の外刃。
 その間を通る、霧のような半透明の風路。
 鍔には、後方へ流れる二枚の薄い導流板と、下側が切れた小さな円環がある。
 濃茶色の柄巻きが、セトの手へ収まった。
 細身の片手直剣だった。
 剣を受け取った瞬間、セトの身体を風が巡る。
 右脚の傷が治ったわけではない。
 それでも、身体へかかる重さの向きを風が支え、立つことができた。

『聞こえますか』

 ミレナの声が、剣から届く。

「ああ」
『私ですか』
「ミレナだ」

 返事と同時に、鍔の開放円環へ淡い風が回り始める。
 迫っていた水流が目の前まで来ていた。

『右から外へ流してください』

 セトは剣を右へ振る。
 巨大な風の斬撃は出ない。
 複数の薄い流線が広がり、水流の側面へ触れた。
 水は切れず、向きだけを変える。
 セトとミレナの横を通り、草地の中央へ流れた。

「できた」

 シアが言う。

「精霊剣です」

 ネアが答えた。

「見れば分かる」
「確認です」

一つへ束ねる

 精霊剣となったことで、ミレナの風が強くなっただけではなかった。
 セトが剣を置く方向と、ミレナが流れを動かす方向が同じになる。
 どこへ集めたいかを、言葉にする前から共有できる。

『中央の低いところへ』
「ああ」

 セトは風の剣を横へ払う。
 刀身の中央風路を、柄から切っ先へ細い風が走る。
 鍔の円環から、何本もの淡い流線が広がった。
 右へ逃げる水を、左へ。土の下へ潜る水を、上へ。霧となって漂う水滴を、下へ。
 それぞれを無理に一方向へ押すのではない。
 別々の道を通しながら、最後に同じ場所へ集める。
 ヴァルナは流れを切り離そうとする。
 切れた先にも、別の風が待っている。
 分かれた水が、次々と草地の中央へ戻された。

「今なら通せます」

 ハルヴェンが轟雷を構える。

「まだだ」

 セトは止めた。
 中央へ集まった水の外側に、薄い膜が残っている。

『左後ろです』

 セトが振り向く。
 見えにくい水膜へ剣を向ける。
 細い風の輪が膜の周囲を囲み、中央へ押し出した。
 最後の水が、大きな水塊へつながる。
 ヴァルナの身体が、その中で形を作った。
 長い青緑色の髪。白と藍色の衣装。穏やかな青年の顔。
 今度は身体の外へ残る水がない。

「全部です」

 ネアが言った。

『全部、同じ一人です』

 ミレナの声が剣から響く。

翔嵐

 ヴァルナが両手を広げる。
 一つへ集められた身体を、もう一度無数の流れへ分けようとする。
 水面へ、細い亀裂のような線が走った。

『散ります』
「まだ戻せるか」
『戻せます。でも、集めた端から逃げていきます』

 セトは剣から伝わる抵抗を感じる。
 外へ散ろうとする水と、中央へ戻そうとする風が、絶えず押し合っていた。
 名前のない剣では、呼吸を合わせにくい。
 極炎も絶光も、剣の名を呼ぶことで、使い手と精霊王が同じ一瞬へ力を合わせていた。
 風を翔け、散った流れを一つの嵐へ戻す剣。

「翔嵐」
『はい』

 ミレナが応じる。
 銀緑色の刀身を通る風が、一つへそろった。
 今代の風の精霊剣の名が、そこで決まった。

三度目の言葉

 ヴァルナの右腕が水へ崩れた。
 足元からも細い流れが伸び、翔嵐の風の間を抜けようとする。

『方法があります』
「何だ」
『精霊王は、本来、意識を捨てれば役割の力だけに特化できます。剣になった私も、意識を捨てれば、もっと強力な剣に――』
「駄目だ」

 ミレナが言い終わる前に、セトは止めた。
 同じ言葉を、シアからも聞いた。
 ネアからも聞いた。
 これで三度目だった。

『まだ、最後まで言っていません』
「聞かなくても分かる。意識を捨てたままにはさせない」
『でも、今の出力では完全に固定できません』
「全部を捨てる必要はない」

 セトは、外へ伸びかけた水を翔嵐の風で中央へ戻した。

「一瞬だけだ」
『一瞬だけ?』
「合図を決める。俺がそれを言った時だけ意識を捨てろ。その一瞬だけ出力を極大まで上げて、相手を固定することだけに全部使う」

 翔嵐の刀身を流れる風が、わずかに揺れた。

『それなら、戻る時は』
「名前を呼ぶ」
『分かりました』
「合図は?」
『天縛にしてください』
「天縛」
『その言葉を合図に、身体だけでなく、周囲の水と原光の流れまで一つの場所へ固定します』

 近くで聞いていたシアが、翔嵐を見る。

「剣の名前は翔嵐で、技の名前は天縛なのか」
「ああ」
「名前が違う」
「違う方が普通だ。剣と技が同じ名前のお前たちの方が異常なんだ」
「ネアも同じだ」
「二人そろって異常だ」
「聞こえています」

 ネアはヴァルナの周囲へ銀青色の線を広げながら答えた。

「話している間にも、境界は崩れています」

 ハルヴェンが轟雷を構える。

「合図と同時に通します」
「ああ」

天縛

 ヴァルナの身体へ走る亀裂が増えた。
 髪が水へほどける。
 左右の腕が何本もの流れへ分かれ、草地の外へ伸びようとした。
 セトは翔嵐を正面へ向ける。

「天縛」

 その言葉を合図に、翔嵐からミレナの気配が消えた。
 意識が消えた一瞬、風のすべてが固定する力へ変わる。
 鍔の開放円環から、複数の細い風の輪が広がった。
 輪はヴァルナの周囲へ幾重にも重なる。
 輪と輪の間を、無数の直線的な風圧が結んだ。
 水の身体。外へ伸びた流れ。周囲の空気。分裂へ向かっていた原光。
 すべてが、一つの場所へ固定された。
 暴風は起こらない。
 流れ続けるはずの水が、完全な静止へ至る。
 ハルヴェンは、合図を待っていた。
 天縛が成立したのと同時に踏み込み、轟雷の切っ先をヴァルナの胸へ突き入れる。
 紫白色の雷が、固定された水の全体へ走った。
 雷を受けた部分だけを切り離すことはできない。
 身体の端から端まで、一つにつながった水を雷が貫く。
 同時に、ネアの銀青色の線が閉じた。
 ヴァルナ一人分の水を、一人の存在として外側から囲む。

「ミレナ」

 セトはすぐに名前を呼んだ。
 一瞬遅れて、翔嵐の中へ息を吸うような気配が戻る。

『……はい』

 風の輪がほどけ始めた。
 天縛は終わった。
 だが、ヴァルナはもう分かれなかった。
 雷を受けた身体は力を失い、ネアの境界の内側へ膝をつく。
 ハルヴェンが轟雷を引いた。

『これ以上は、今の個まで壊す』

 リグの声が響く。

「止めます」

 ヴァルナは人の姿を保ったまま、草地へ倒れた。

『戻れました』
「ああ」
『本当に一瞬でしたか』
「ああ」

 ほんの一呼吸にも満たない時間だった。
 それでも、その一瞬だけは、翔嵐のすべてが相手を固定する力へ変わっていた。

消さない

 ヴァルナは草地の中央へ横たわっていた。
 人の姿は保っている。
 髪と衣装の端から、少しずつ水が流れ落ちるが、地面へ広がる前に翔嵐の風が戻している。
 淡い青緑色の瞳が、ゆっくり開いた。

「言葉は分かりますか」

 ネアが尋ねる。
 ヴァルナの視線が、わずかにネアへ向く。
 返事はない。
 だが、先ほどまでのように無差別に水を動かそうとはしなかった。

「殺さないのか」

 シアが尋ねる。

「動けません」

 ネアはヴァルナの流れを確かめる。

「原光が枯渇している状態は変わっていません。境界も崩れたままです」
「また戻る?」
「このまま放置すれば」
「では、どうする」

 ネアは村の方角を見る。

「一人であることを、外から支えます」
「外から?」

 ハルヴェンが尋ねる。

「精霊王の個は、名前だけで保たれるわけではありません。他者とのつながりも境界になります」
「ヴァルナには個人名がない」

 ミレナの声が翔嵐から届く。

「ええ。ですが、役割名しかなくても、今ここにいる存在を同じ一人として認識し続ける者がいれば、境界を支えられる可能性があります」
「村の人に覚えてもらう?」
「それが最も近い方法です」

 昨日まで村を襲っていた存在を、村人へ預ける。
 簡単に頼めることではない。

「まず、話をします」

 ハルヴェンが言った。

「無理に祀らせることはできません」
「ええ」

 ネアもうなずく。

水の祠

 村の北側、水路の始まりに小さな祠があった。
 石を積んだ土台へ、雨を避ける木の屋根を載せただけの簡素なものだった。
 水路を使い始めたころから、水が絶えないよう願う場所として残されている。
 普段、毎日人が来る場所ではない。
 季節の変わり目に、水路を掃除した者が手を合わせる程度だった。
 村人たちは、草地から運ばれてきたヴァルナを遠巻きに見た。
 翔嵐の風が人の形を保ち、轟雷が再び動かないよう流れを見張る。
 ネアは、ヴァルナが水の精霊王であることを隠さなかった。
 原光の枯渇によって自分を保てなくなったこと。村を襲う意思があったかも分からないこと。このまま一人にすれば、再び水へ分かれて暴れる可能性があること。

「ここへ置けば、安全なのですか」

 村人の一人が尋ねる。

「必ずとは言えません」

 ネアは答えた。

「弱らせてあります。しばらくは、自分で祠から出ることもできません」
「その後は?」
「今いる一人を、同じ一人として覚えてください」
「お参りをするということですか」
「ええ」

 昨日、ミレナの家へ知らせに来た村人が、ヴァルナを見る。

「この人が、水を守ってくれるんですか」
「今は約束できません」
「では、何を願えば?」
「願わなくて構いません」

 ネアは静かに言った。

「ここにいると確かめてください」

 村人たちは顔を見合わせた。
 水路は、村の暮らしに欠かせない。
 その水を狂わせた存在でもある。
 それでも、セトたちが消滅させずに連れてきた一人だった。

「毎日、水路を見る者はいます」

 年長の村人が言う。

「その時に、ここへ寄るくらいならできます」
「俺も来ます」
「私も」

 一人ずつ、短い返事が続いた。

名前の代わり

 ヴァルナは祠の内側へ横たえられた。
 身体の下には、水を溜められる浅い石のくぼみがある。
 乾かない程度の水を残し、外へ流れないようネアが細い境界を作る。
 ハルヴェンとリグは、再び動き出した時に備えて近くへ残ることになった。
 セトは翔嵐を持ったまま、祠の前へ座った。
 右脚への負担を風が支えているが、戦いが終わった途端、脇腹の痛みも戻っている。

「もう戻っていい」

 セトが剣へ言う。

『まだ、風を外せば水が広がるかもしれません』
「ネアが押さえている」
「押さえています」

 ネアが答えた。

「ミレナ、戻れますか」
『はい』

 翔嵐の刀身が、淡い銀緑色の光へ変わる。
 光はセトの手から離れ、祠の前へ人の形を作った。
 銀緑色の髪と瞳を持つ風の精霊王の姿で、ミレナが立つ。
 右手を握る。
 自分が戻る方を選ぶ。
 髪から光が消え、栗色へ戻った。
 衣服にも重さが戻る。
 両足が地面へ着いた。

「戻れました」
「ああ」
「剣からも」
「ああ」

 ミレナは自分の手と、セトの空いた右手を見た。

「翔嵐」

 名前を口にする。

「私の剣の名前なんですね」
「嫌だったか」
「いいえ」

 ミレナは首を横へ振った。

「風の中でも、セトさんが呼んだのはミレナでした。剣には別の名前がある方がいいです」

 祠の中で、ヴァルナの指先がわずかに水へ溶けた。
 ネアが流れを確認する。

「名前がなくても、存在を認識されていればたぶん暴れないと思う。毎日誰かがお参りすればしばらくは大丈夫」
「ずっとではないんですか」

 ミレナが尋ねる。

「状態を見なければ分かりません。眠りの王が活動している間は、原光の枯渇も続きます」
「それでも、今のヴァルナは残る」

 セトが言った。

「ええ。少なくとも、次代へ役割だけを渡すために今の個人を消す必要はありません」

 村人の一人が祠の前へ立つ。
 何を願うでもなく、内側にいる青年を見る。

「今日から、ここにいるんですね」

 ヴァルナは答えなかった。
 だが、淡い青緑色の瞳が、その村人へ少しだけ向いた。

選んだ後

 村へ戻る道で、セトは再びハルヴェンへ肩を貸されていた。

「精霊剣なら歩けていた」
「戻った後に歩けないなら、治ったことにはなりません」

 ハルヴェンが答える。

「前回よりは動ける」
「比較対象が悪すぎます」

 シアはセトの反対側を歩き、何度も右脚を見ていた。

「次は剣にならないと言った」
「今日はミレナだった」
「私の時もなった」
「必要だった」
「それを言えば何でも必要になる」

 ネアが前を歩いたまま言う。

「今回は、ミレナが選んだことと、セトが無理をしたことを分けて考えてください」
「私は選んだ」

 ミレナが答える。

「セトさんは無理をした」
「そういうことです」
「味方がいない」

 セトが言う。

「私も以前言った」

 シアが少しだけ満足そうに答えた。
 ミレナは、自分の右手を握る。
 人間の身体の重さがある。
 風の知識も残っている。
 遠い山の向こうで、雨が降っていることも分かる。
 それでも、今歩いているのが誰かは分かった。
 風の力を得たからではない。
 精霊剣になれたからでもない。
 自分で風の側へ進み、自分で身を預け、自分で人間へ戻った。
 どの記憶が誰のものか、すべてを分けられなくてもいい。
 今ここで選んだことは、ミレナのものだった。


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