エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第27話 狂った水の精霊王

エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第27話 狂った水の精霊王 エレメンタルクロス ~精霊の剣~
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第27話 狂った水の精霊王
エレメンタルクロス ~精霊の剣~
創作実験TOP作品紹介人が扱える精霊に、意志はない。火や光の力として術者に従う、粒子のような存在――それが、この世界の常識だった。白と黒。二種類の精霊を剣の形に固定する少年セトは、忌避される二属性同時使用を隠しながら旅をしていた。ある日、巨…
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第27話 狂った水の精霊王 人物相関図

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。

動けない朝

 朝になっても、セトの右脚には力が入らなかった。
 長椅子へ横になったまま上体を起こすと、脇腹へ鈍い痛みが走る。
 息を止めたことに、すぐ近くへ座っていたシアが気づいた。

「痛いのか」
「少し」
「少しなら寝ていろ」
「起きても寝ても変わらない」
「なら寝ている方がいい」

 シアは迷わず言った。
 いつもなら、自分が動けるかどうかは自分で決めようとする。
 だが、今はセトが足を床へ下ろすだけでも、その動きを見ている。

「外は」
「今のところ何もない」

 入口近くにいたネアが答えた。
 銀青色の細い線を戸の隙間から外へ伸ばし、水路と川へ続く原光の流れを確認している。

「リグとハルヴェンが、夜の間も交代で川を見ていました。ヴァルナが近くへ戻った痕跡はありません」
「遠くへ行ったのか」
「それも分かりません。水は地面の下にも、井戸にも、水路にもあります。人の形を保っていなければ、どこにいるかを見分けるのは難しくなります」

 部屋の端には、ミレナが座っていた。
 昨夜は家族のもとへ戻らず、ネアと同じ家で夜を過ごした。
 一人にしないためでもある。
 水の精霊王を見た時に、会ったネアと同じ家で夜ことのない相手を知っていると感じた。その知識が、再び人間としての記憶へ混ざらないかを確かめるためでもあった。

「ヴァルナというのは、あの人の名前ですか」

 ミレナが尋ねる。

「役割名です」

 ネアが答えた。

「水の精霊王は、ヴァルナという役割を継ぎます。今の個人を区別する名前は、わたしの知る限りありません」
「名前がない」
「ええ」

 ミレナは、閉じた窓へ目を向けた。

「それでも、昨日の人が誰なのかは分かるんですか」
「同じ役割の流れは分かります。ただし、今のヴァルナが過去のヴァルナとどう違うのかは、名前だけでは分けられません」

 自分がミレナなのか分からなくなった夜に、名前のない精霊王と出会った。
 ミレナはそのことを考えたが、口には出さなかった。

戻せるのか

 日が少し高くなったころ、リグとハルヴェンが戻ってきた。
 二人とも眠っていないわけではない。
 それでも、顔には夜通し川を見張った疲れが残っていた。

「上流にもいなかった」

 リグが言う。

「少なくとも、人の形ではな」
「水の量が不自然に減った場所も確認しましたが、はっきりした痕跡は見つかりませんでした」

 ハルヴェンは外套を外し、壁際へ置いた。

「昨日の迅雷は効いていたように見えた」

 セトが言う。

「動きは止められました」
「だが、倒してはいない」

 リグが続ける。

「あれは身体を分けた。雷が通った部分を捨て、残った水で形を戻したようにも見えた」
「捨てた水は?」
「川へ残っていた。しばらくして、上流へ動いた」

 シアが腕を組む。

「全部焼けばいい」
「水量が分かりません」

 ネアが言った。

「昨日見た身体だけが、ヴァルナのすべてとは限りません。分かれた一部を別の場所へ残している可能性もあります」
「全部見つけて焼く」
「見つけられれば、です」
「戻す方法はないのか」

 シアはネアを見る。

「狂う前に」
「分かりません」

 ネアはすぐに答えた。

「原光の枯渇によって、自分を一人として保つ境界が崩れています。足りない原光を補えば戻るのか、眠りの王が再び眠れば戻るのか、それとも一度崩れた境界は元へ戻らないのか。確かめた例を、わたしは知りません」
「倒したら次が生まれるのか」
「役割まで失われなければ、いずれ次代が生まれる可能性はあります」
「今のヴァルナは戻らない」
「消滅させれば、今いる個人は戻りません」

 部屋が静かになる。
 昨日のヴァルナに、会話が通じる様子はなかった。
 それでも、穏やかな青年の姿をした一人の存在だった。

「戻せるか分からないなら、まず動けなくする」

 リグが言った。

「殺すかどうかは、その後だ」
「それしかありませんね」

 ハルヴェンがうなずく。

「村へ来なければ、こちらから探し出して追い詰める必要はありません。ただし、水路へ入られれば、家の近くまで気づかずに来る可能性があります」
「見張りを続ける」

 セトが言う。

「あなたは休んでください」

 ハルヴェンの返事は早かった。

「見張るだけなら」
「座っているだけでも痛むのでしょう」
「少しだ」
「昨日も聞きました」

 ハルヴェンは、固定されたセトの右脚を見る。

「少し動けない、という意味だったようですが」

水の来る道

 昼前、水路の水が止まった。
 村の中を流れていた細い水が、一斉に同じ場所で動きを失う。
 風もないのに、水面だけが震えた。
 最初に気づいたのはミレナだった。

「来ます」

 長椅子から立ち上がり、窓へ近づく。

「どこからだ」

 シアが尋ねる。

「上流です。でも、川だけではありません」

 ミレナは目を閉じた。
 村の外を流れる風が、水の匂いと冷たさを運んでくる。

「土の下にもあります。水路へつながる細い流れが、全部こちらを向いています」

 ネアの銀青色の線が外へ広がった。
 次の瞬間、止まっていた水が逆へ動く。
 本来は村から畑へ流れる水が、上流側へ引かれ始めた。

「ヴァルナです」

 ネアが立ち上がる。

「まだ村の外ですが、昨日より広く分かれています」

 リグとハルヴェンは、すぐに外へ出た。
 シアも続こうとする。

「村の人を先に動かします」

 ハルヴェンが言った。

「川と水路から離れた高い場所へ。井戸にも近づかないよう伝えてください」
「水を止めればいいのか」

 村人の一人が尋ねる。

「触れないでください。板や土で塞いでも、水の精霊王が相手では止まりません」

 村人たちは家々へ走った。
 子供と年寄りを先に、南側の高台へ移す。
 畑の水路近くにいた者も呼び戻された。
 ミレナは外へ出ようとした。
 ネアが腕を伸ばして止める。

「あなたはセトと残ってください」
「私には、どこから水が来るか分かります」
「それを伝えるだけで十分です」
「昨日、私がいたから――」
「昨日の責任を取るために、今日危険へ入るのですか」

 ミレナは言葉を止めた。

「責任を感じることと、力を扱えることは別です」

 ネアは静かに言った。

「今のあなたが風を強く動かせば、昨日のように、自分で止められなくなる可能性があります」
「でも、何もしないでいるのも」
「今は、何もしないことも選んでください」

 ミレナはうなずけなかった。
 それでも、ネアの腕を押しのけることはしなかった。

川から離れた水

 迎撃地点は、村の北側にある乾いた草地となった。
 川から少し離れ、水路も通っていない。
 ヴァルナが周囲の水を使える範囲を、少しでも狭めるためだった。
 ハルヴェンは草地の中央へ立つ。
 リグが隣で川上を見た。

「来るぞ」

 地面の低いところへ、水が染み出した。
 一か所ではない。
 草の根元、石の隙間、土の割れ目から、細い水が同時に現れる。
 昨日、川の中から人の姿を作った時とは違う。
 何十本もの流れが、別々の方向から草地へ入り込んでいた。
 流れの一部が持ち上がる。
 深い藍青色から青緑色へ変わる長い髪。白と深い藍色の衣装。穏やかな青年の顔。
 ヴァルナは昨日と同じ姿へ戻った。
 ただし、輪郭は薄い。
 身体を作らず地面へ残した水が、周囲を取り囲んでいる。

「話せるか」

 リグが呼びかけた。
 ヴァルナは答えない。

「ヴァルナ」

 役割名を呼んでも、淡い青緑色の瞳は動かなかった。
 右手が上がる。

「来ます」

 ハルヴェンの声と同時に、リグの身体が紫白色の光へ変わった。
 光が剣の形へ集まり、精霊剣・轟雷となる。
 ハルヴェンが剣を横へ払う。
 地面から立ち上がった水流へ、紫白色の雷が走った。
 一本へ入った雷は、接触する流れへ次々と伝わる。
 ヴァルナの人型まで届き、全身を貫いた。
 身体が崩れる。
 だが、地面を這っていた水は止まらなかった。
 雷が届く前に、互いの流れを切り離している。

『昨日より早い』

 轟雷となったリグの声が響く。

「こちらの攻撃を覚えているのでしょうか」
『自分で考えているようには見えない。水として、通りにくい形へ変わっているだけかもしれない』

 分かれた水が、ハルヴェンの左右から立ち上がる。
 ハルヴェンは地面を蹴り、一本の紫白色の線となって間を抜けた。

「迅雷」

 人型へ戻りかけていたヴァルナを正面から貫く。
 身体が前後へ分かれた。
 その二つが、さらに四つへ分かれる。
 四つの水塊は地面へ落ちる前に細い流れとなり、別々の方向へ逃れた。

『切って増やしただけだな』
「増えてはいません」

 ハルヴェンは周囲を見回す。

「一つ一つが小さくなっています」
『総量は同じか』
「おそらく」

 水は新しい身体を作り出しているのではない。一つだった質量を分けている。
 だから、何度切っても数だけが増える。

万雷

「広く通します」

 ハルヴェンは轟雷を両手で握った。
 草地全体へ散った水が、村の方角へ動き始めている。
 一つずつ追えば、必ず抜ける流れが出る。

「リグ」
『いつでもいい』

 紫白色の原光が、轟雷から地面へ走った。
 空気が震える。

「万雷」

 空から、無数の雷が落ちた。
 一本の大きな雷ではない。
 草地へ広がった水の流れを追い、細い落雷が次々と位置を変える。
 水へ触れた雷は、その内部を走り、別の流れへ飛び移る。
 土の上に紫白色の網が広がった。
 村へ向かっていた水が、一斉に止まる。
 人の形へ戻りかけていたヴァルナも、輪郭を失った。
 ハルヴェンは万雷を止めない。
 動こうとする水へ、何度も雷を落とす。
 水面が細かく弾け、白い湯気が上がった。

『まだ残っている』
「分かっています」

 雷が通った水の外側で、地面へ薄く広がった水膜が動いた。
 膜は草の一本一本を伝い、落雷の間を抜けていく。
 大きな流れではない。
 一滴ずつに近い小さな水が、別々の道を選んでいる。
 万雷は広い。
 それでも、草地のすべての水滴へ同時に雷を落とすことはできない。
 網の外へ抜けた水が、少し離れた場所で集まる。
 腕ほどの太さになると、地面から立ち上がった。
 細い水流がハルヴェンの背中へ伸びる。

『後ろだ!』

 ハルヴェンが振り向き、轟雷で受ける。
 水流へ雷が入った。
 だが、水は剣へ触れる直前に二つへ分かれていた。
 一方は雷に弾け、もう一方が肩へぶつかる。
 ハルヴェンの身体が横へ飛んだ。
 万雷が途切れる。
 止まっていた水が、一斉に動き出した。

村へ向かう水

 シアとネアが草地へ到着した時、ヴァルナは人型を作っていなかった。
 無数の細い流れが、草と土の間を村へ向かっている。

「ハルヴェン」

 ネアが倒れた青年のそばへ降りる。

「動けます」

 ハルヴェンはすぐに起き上がった。
 左肩を押さえているが、腕は動く。
 轟雷も維持されていた。

「止められませんでした」
『止めてはいた。全部ではなかっただけだ』
「同じです」

 シアが村へ向かう水を見る。

「焼く」

 両手の周囲へ炎が集まった。
 赤橙色の火が地面を走り、水の前へ壁を作る。
 先頭の流れが蒸気へ変わる。
 しかし、後ろの水は炎のない左右へ分かれた。
 地面の下へ潜るものもある。

「広がるな!」

 シアが炎を左右へ伸ばす。
 火の壁は広がった。
 その分、一か所あたりの熱が弱くなる。
 水は一部だけ蒸発し、残りが薄い膜となって火の下を通った。

「全部同じ場所へ来い」
「言って従う状態ではありません」

 ネアは銀青色の線を水へ伸ばす。
 流れの向きを村から外へ曲げる。
 一度は水路から離れた。
 だが、一本を曲げている間に、別の十本が村へ進む。

「細かすぎます」
「まとめられないのか」
「分けることや流れを変えることはできます。しかし、これだけ広い範囲を同時に一つへ集めるのは、わたしの性質ではありません」

 シアが炎を強める。

「なら、全部消す」
「地面の下へ入った水まで焼けば、村の畑も土も無事では済みません」
「村へ入るよりはいい」
「まだ、その判断をする段階ではありません」

 ネアは黒に近い線を何本も広げ、水の進路を細かく変えた。
 シアは、その先へ火を置く。
 二人で止めている間に、ハルヴェンが水の外側へ回り、轟雷で抜けた流れを戻す。
 それでも、水は少しずつ村へ近づいていた。

休んでいる場合ではない

 村の南側へ避難した者たちの間からも、北の草地に上がる蒸気が見えた。
 借りた家に残っていたセトは、長椅子から身体を起こす。

「行く」
「歩けません」

 ミレナが言った。

「剣を持てば動ける」
「昨日より悪くなったら?」
「村へ入られる方が悪い」

 セトは右脚を床へ下ろした。
 体重をかけた瞬間、膝が揺れる。
 壁へ手をつき、倒れるのを防いだ。

「それで戦えるんですか」
「極炎なら身体も強くなる」
「痛みがなくなるわけではありません」
「分かっている」

 ミレナは戸の前へ立った。

「ネアさんは、残るように言いました」
「ミレナにだ」
「セトさんにも、休むよう言っていました」
「今は状況が違う」
「昨日も、そうやって一人で前へ出ました」

 セトは返事を止めた。

「私を見つけて、私を守って、動けなくなりました」
「今度は村だ」
「同じです」
「同じではない」

 北から、低い音が響いた。
 雷の音ではない。
 大量の水が地面を打つ音だった。
 ミレナが振り返る。
 風を通して、草地の状況が流れ込んでくる。
 分かれた水。焼き切れない火。押し戻しきれない月の流れ。

「止められていません」
「ああ」
「私にも分かります」

 ミレナは目を閉じた。
 風の知識を追わないよう言われている。
 それでも、どこで水が分かれ、どの流れが村へ近いかが分かった。

「一番広がっているのは、村の北西です」
「そこへ行く」
「私が案内します」
「残れ」
「セトさんは一人では歩けません」

 セトは反論しようとした。
 右脚へ力を入れる。
 今度は壁から手を離せなかった。

「肩を貸します」
「危険になったら離れろ」
「それは、セトさんもです」

 ミレナはセトの左腕を自分の肩へ回した。

極炎

 二人が草地へ着いた時、地面の半分近くが濡れていた。
 ヴァルナは無数の水流へ分かれ、人の形をほとんど残していない。
 シア、ネア、ハルヴェンが三方向から流れを押し戻している。
 押し戻された水は別の方向へ逃げ、また村を目指す。

「なぜ来た」

 シアが叫ぶ。

「止めるためだ」
「動けないだろう」
「今はな」

 セトはミレナの肩から腕を外した。

「シア」

 名前を呼ばれたシアは、すぐに意味を理解した。

「壊れたら戻すぞ」
「ああ」
「絶対だぞ」
「ああ」

 シアの身体が赤橙色の光へ変わる。
 火が一振りの剣へ集まり、セトの手へ収まった。
 精霊剣・極炎。
 剣を握った瞬間、熱い力がセトの身体を巡った。
 右脚へ力が戻る。
 傷が治ったわけではない。
 極炎の身体強化によって、痛みと損傷を抱えたまま動かしているだけだ。

『短く終わらせる』

 剣からシアの声が響く。

「中央へ寄せられるか」

 セトがネアへ尋ねる。

「数秒なら」

 ネアは銀青色の線を一斉に動かした。
 村へ向かっていた水が、左右から中央へ押し戻される。
 ハルヴェンも轟雷で外側を打ち、散った流れを内側へ向けた。
 すべてではない。
 それでも、草地の中央へ大きな水塊ができる。
 ヴァルナの上半身が、その中から形を作った。
 セトは地面を蹴る。
 炎の加速で、一気に距離を詰めた。

「極炎」

 シアと同時に力を合わせる。
 赤白い炎が、水塊の中心を貫いた。
 水が爆発するように蒸気へ変わる。
 草地を白い霧が覆った。
 熱風が村とは反対側へ抜ける。
 中央へ集められた水の大半が消えたように見えた。
 だが、霧の外側で細い水が動いている。
 ネアが集めきれなかった流れだ。
 蒸気も消滅したわけではない。
 冷えた端から細かな水滴となり、地面へ戻り始める。

『一部しか焼けていない』

 シアが言った。

「分かっている」

 極炎の炎をさらに広げれば、村の手前まで焼くことになる。
 セトは剣を下げた。
 身体強化が切れる前から、脇腹の痛みが強くなっている。

絶光

 白い霧の中から、細い水流が飛び出した。
 一本ではない。
 蒸発を免れた水が、霧へ紛れて四方からセトへ向かう。

「下がれ!」

 ハルヴェンが叫ぶ。
 セトは極炎を手放した。
 赤橙色の剣がほどけ、シアが人型へ戻る。
 着地したシアがセトの腕をつかむ。

「もう動くな」
「まだ来る」

 ネアが二人の前へ出た。

「わたしが止めます」
「範囲が広い」
「分かっています」

 銀青色の線が、水流を曲げる。
 正面の二本は外れた。
 地面を這う三本が、その下を抜ける。
 上から落ちる水が、さらに分かれる。
 ネア一人では、すべての流れへ同時に対応できない。
 セトが手を伸ばした。

「ネア」
「その身体では」
「村へ通すよりいい」

 ネアは一瞬だけ迷った。
 水流がシアの背後へ回る。

「一度だけです」

 ネアの身体が、銀青色と黒の光へ変わった。
 光が細身の剣へ集まり、セトの手へ収まる。
 精霊剣・絶光。
 極炎ほど強くはないが、身体へ力が通る。
 倒れかけた右脚を支えられる程度には動けた。

『右から三本。上から二本。地面の下にもあります』

 ネアの声が、剣を通して伝わる。
 セトは絶光を右へ置く。
 触れた水流から淡い青緑色の原光が消えた。
 術として保たれていた形が崩れ、水が落ちる。
 その水を、剣の腹で外へそらす。
 上から落ちる二本を返し、地面から出た流れを切る。
 だが、絶光が置かれていない場所では、水が動き続けている。
 原光を消せる範囲は、剣の周囲と、ネアが集中した場所だけだ。
 草地全体へ薄く広がった水を、一度に空白にはできない。

『後方へ抜けます』
「ハルヴェン!」
「見えています」

 轟雷の雷が、抜けた水へ落ちる。
 一本が止まる。
 その横を、さらに細い三本が通り抜けた。
 セトは振り向こうとした。
 脇腹に痛みが走り、動きが遅れる。
 絶光の身体強化では、損傷を押し切れない。

『これ以上は無理です』
「あと少し」
『範囲は狭まりません。続けても、あなたが先に動けなくなります』

 ネアの判断は変わらなかった。

風で集める

「私が戻します」

 ミレナの声がした。
 草地の端に立ち、両手を水へ向けている。

「やめろ」

 セトが言う。

「広がったものを、中央へ戻せばいいんですよね」
「今は使うな」
「分かります」

 ミレナの周囲で風が動いた。

「どこへ流せば、一つになるか分かります」

 その知識が、自分のものなのかは分からない。
 それでも、今は目の前の水の流れと重なって見えた。
 右へ逃げる水。地面の下へ潜る水。霧から水滴へ戻る水。
 それぞれへ、別の風を当てる。
 強く押すのではない。進む方向だけを少しずつ変える。
 草地の外へ広がっていた水が、ゆっくり中央へ曲がり始めた。

『できています』

 絶光となったネアが言う。
 セトは答えなかった。
 ミレナの目は、水ではない遠い場所を見ている。
 髪と外套が、別々の方向から吹く風に持ち上げられていた。

「ミレナ」
「聞こえています」
「名前は」
「ミレナです」

 返事は早い。
 だが、風の流れは増え続けていた。
 中央へ曲げた水が一つへ集まる前に、別の水がその外側へ逃げる。
 ミレナはさらに風を増やす。

「全部、道が違う」
「もう止めろ」
「あと少しです」
「ミレナ」
「今度は、逃がしません」

 その言葉へ反応したように、集まりかけた水が逆へ動いた。
 ヴァルナの人型が、ミレナの正面へ立ち上がる。
 穏やかな顔のまま、片手を向けた。
 集められていた水が、一本の細い流れへ変わる。
 狙いはミレナだった。

受ける剣

「伏せろ!」

 ミレナは動けなかった。
 自分が集めた風が周囲を巡り、どちらへ避ければよいのか分からない。
 セトは絶光を前へ出した。

『正面だけではありません』

 ネアの声と同時に、水流が三つへ分かれる。
 中央。右。左。
 セトは中央を絶光で受ける。
 原光を失った水が崩れ、剣の左右へ落ちた。
 右の流れを返す。
 左へ剣を回そうとした時、右脚が動かなかった。
 水流がミレナへ迫る。
 セトは身体ごと間へ入った。
 絶光を左へ置く。
 刃へ触れた部分の術は消えた。
 それでも、水の質量は残っている。
 勢いを失いきらない水が、剣とセトの身体へぶつかった。
 脇腹の傷へ、もう一度強い衝撃が入る。
 息が止まった。
 絶光の切っ先が地面へ落ちる。

「セトさん!」
『離れてください!』

 ネアが人型へ戻る。
 セトの身体が支えを失い、片膝をついた。
 ミレナの風も乱れる。
 中央へ集まりかけていた水が、一斉に散った。
 ヴァルナは、再び何十本もの流れへ分かれる。
 水が村へ向きを変えた。

「シア」

 セトが呼ぶ。

「だめだ」

 シアはすぐに拒んだ。

「一度だけだ」
「さっきも言った」
「道を作るだけでいい」
「戻れなくなる」
「戻すのは、お前だ」

 シアはセトをにらんだ。
 水は待たない。
 ハルヴェンとリグが前へ出るが、広がった流れのすべては止められない。

「本当に一度だけだ」

 シアの身体が赤橙色の光へ変わった。
 再び極炎がセトの手へ収まる。
 セトは立ち上がらなかった。
 片膝をついたまま、剣を地面へ近づける。

『前へ出す』
「ああ」

 シアが炎を細く絞る。
 セトは極炎を横へ振った。
 草地を焼き払う炎ではない。
 村へ向かう水の前だけを、長い赤白の線が走った。
 先頭の水が一斉に蒸気へ変わる。
 残った流れが、熱を避けて左右へ分かれた。
 村へ直進する道が、一時的に消える。

「今です!」

 ハルヴェンが叫ぶ。

「万雷」

 左右へ分かれた水へ、紫白色の雷が落ちた。
 ネアも銀青色の線で、抜けようとする流れを外へ曲げる。
 水は止まりきらない。
 それでも、村とは反対側へ退き始めた。
 ヴァルナの人型が遠くで一度だけ形を作り、すぐに崩れる。
 細い流れは草地から川上へ引いていった。

足りない一本

 ヴァルナの気配が遠ざかると、シアはすぐに人型へ戻った。
 剣が消えた手から力が抜ける。
 セトはその場へ倒れかけた。
 シアとネアが左右から支える。

「一度と言った」

 シアが言う。

「一度だった」
「二回目の一度だ」
「今回は一度だ」
「同じ日なら同じだ」

 セトは言い返さなかった。
 息をするたび、脇腹が痛む。
 右脚は完全に力を失っていた。

「昨日より悪くしています」

 ネアが傷の周囲を確認する。

「治っていなかったところへ、同じ方向から力を受けました」
「村へは入らなかった」
「結果の話をしているのではありません」
「でも、入らなかった」

 ミレナが言った。
 誰もすぐには答えなかった。
 草地には、蒸気となった水が霧のように残っている。
 雷で弾かれた水滴も、土と草へ付着していた。
 ヴァルナは退いた。
 だが、昨日と同じく一時的に離れただけだった。

「何が足りない」

 リグが人型へ戻り、濡れた草地を見る。

「雷は通る。火でも蒸発する。月なら術としての形を崩せる」
「どれも、一か所へあるなら効きます」

 ハルヴェンが答える。

「分かれた後のすべてへ届かない」
「火力を上げても同じです」

 ネアが続けた。

「シアが広範囲をすべて焼けば、村と畑も巻き込みます。わたしが広い範囲を空白にしようとすれば、ヴァルナより先に周囲の原光が失われます。轟雷も、接触していない一滴まで同時には通せません」
「分かれる前に止める」

 シアが言う。

「昨日から、すでに分かれています」
「なら、戻す」

 その言葉に、ミレナが顔を上げた。

「一つに」

 ネアがミレナを見る。

「ええ。散った水を、攻撃できる一か所へ束ねる力が必要です」

 ミレナは、自分の両手を見る。
 先ほど、少しだけできた。
 別々の方向へ流れる水へ風を当て、一つの場所へ向けた。
 途中で制御を失い、ヴァルナの反撃を招いた。
 それでも、方向は間違っていなかった。

「風なら、できるのか」

 セトが尋ねた。

「性質としては可能です」

 ネアが答える。

「ですが、今のミレナに使わせられる状態ではありません」
「ああ」

 セトは、草地に残る水を見た。

「集める前に、ミレナが止まれなくなった」
「ええ。風の扱いだけではありません。精霊王の側へ引かれず、人間として自分を保つ必要があります」
「なら、今は使えない」

 セトはそこで話を切った。

「別の方法を探す」

 ミレナが顔を上げる。

「でも、風が必要なんですよね」
「必要なのは、水を集める方法だ」

 セトはミレナを見た。

「それをミレナにやらせると決まったわけじゃない」

 ミレナは何も答えなかった。
 自分の中に、必要とされる性質がある。
 それでも、誰もその場で答えを求めなかった。

逃げた時とは違う

 村へ戻る途中、セトはハルヴェンとリグに運ばれた。
 今度は途中まで歩こうともせず、二人が組んだ腕へ身体を預ける。

「さすがに学びましたか」

 ハルヴェンが尋ねる。

「脚が動かない」
「理由はどちらでも構いません」

 シアはセトのすぐ横を歩いていた。

「次は剣にならない」
「必要なら頼む」
「頼まれてもならない」
「その時に決める」
「わたしが決めることだ」
「ああ」

 セトが素直に認めると、シアは少しだけ言葉に詰まった。

「なら、今決めた。ならない」
「分かった」
「本当に?」
「今は分かっている」

 昨日と同じ答えに、リグが小さく笑った。
 ミレナは少し離れて歩いていた。
 風を使った時のことを、何度も思い返している。
 水の位置が分かった。どこへ流せば集まるかも分かった。
 だが、流れが増えるほど、意識が風の方へ引かれた。
 自分が風を動かしているのか、風の知識に身体を動かされているのか、途中から分からなくなった。
 それでも、昨夜とは違うことが一つある。
 名前を聞かれた時、すぐにミレナだと答えられた。
 セトの声が届いたからだった。
 水流が自分へ向いた時も、セトは迷わず前へ入った。
 風の精霊王を守ったのではない。
 三人目の力を失わないためでもない。
 昨日、風の中から見つけたミレナを、今日も守った。
 そう考えると、混ざっていた記憶のすべてが分かれるわけではない。
 ただ、今ここを歩いている自分が誰なのかだけは、昨日より少し分かる気がした。

力を欲しいわけではない

 セトは、借りた家へ戻ると再び長椅子へ寝かされた。
 ネアは傷を確認し、少なくとも今日中は起き上がらないよう言い渡した。

「明日は」
「今日中という言葉へ、明日ならよいという意味は含めていません」
「では、いつだ」
「状態を見て決めます」
「分かった」

 シアがセトを見る。

「たぶん分かっていない」
「今は分かっている」
「それは信用できない」

 リグとハルヴェンは、再び川と水路の見張りへ出た。
 シアも、今度は自分が北側を見ると言って家を出る。
 夕方になり、村へ戻った者たちの安全が確認される。
 ヴァルナは近くへ戻っていない。
 それでも警戒を解くことはできなかった。
 ミレナは、入口近くで外を見ていたネアへ近づく。

「話があります」
「はい」
「風の精霊王になる方法を、教えてください」

 ネアはすぐには答えなかった。

「今日の責任を取るためですか」
「それもあります」
「それだけなら、教えられません」
「分かっています」

 ミレナは自分の胸元へ手を置いた。

「風の力が欲しいわけではありません」
「ええ」
「使った後に失うなら、それでいいという考えも変わっていません」
「ええ」
「でも、今は私の中にあります。いらないと言っても、なくなりません。怖くなって逃げても、勝手に私を運びました」

 窓の外で、弱い風が動く。

「今日も、私が使おうとした途中から、どこまでが自分の判断か分からなくなりました」
「それでも続けたいのですか」
「続けたいのではありません」

 ミレナは首を横へ振った。

「自分で始めて、自分で止められるようになりたいです」
「精霊王になることを?」
「はい」
「神殺しの剣へ入るために?」
「まだ、そこまでは決めていません」

 ミレナははっきり答えた。

「セトさんへ身を預けることも、剣になることも、今はまだ分かりません」
「それで構いません」
「でも、選ぶ前に、選べる状態にはなりたいです」

 ネアの銀青色の瞳が、ミレナの中に重なる二つの流れを見る。

「初めて分けた時より、風の側が近くなっています。訓練をすれば、また記憶と知識が混ざる可能性があります」
「怖いです」
「自分を見失う可能性もあります」
「それも怖いです」
「では、なぜ」

 ミレナは長椅子へ横になっているセトを見た。
 眠ってはいない。
 シアと言い合う声がなくなったため、目を閉じて休んでいる。

「昨日、私は自分が誰なのか分からなくなりました」

 ミレナは声を落とした。

「風の流れだけを見れば、どこにでも私の痕跡があった。それでも、セトさんは私を見つけました」
「ええ」
「今日も、私が風へ引かれかけた時、名前を呼びました」

 ネアは何も言わず、続きを待つ。

「私がまた分からなくなっても、あの人なら、風の精霊王ではなく私を見つけるかもしれないと思いました」
「セトがいることを、自分を保つ条件にするのですか」
「全部を任せるつもりはありません」

 ミレナはすぐに答えた。

「自分で戻れるようになりたいです。でも、自分だけでは戻れない時に、見つけてくれる人がいると思えるなら、前より少しだけ怖くありません」

 ネアは長くミレナを見た。

「分かりました」
「教えてくれますか」
「まず、人間のあなたと風の役割を、わたしが外から分けるのではなく、あなた自身が見分けるところから始めます」
「はい」
「今日は行いません」
「今からでは?」
「あなたも眠っていません」

 ネアは静かに言った。

「自分を失わない訓練を、疲れて判断が鈍っている時に始めるつもりはありません」

 ミレナは少しだけ迷い、うなずいた。

「明日から、お願いします」
「状態を確認してからです」
「セトさんへ言ったことと同じですね」
「同じです」

 窓の外を通った風が、今度はどこへも逃げず、その場で静かに止まった。


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