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真っすぐ上へ
シアが呼んだ名前に、返事はなかった。
激しい空気の流れが二人の身体を叩き、声を押し流している。
それでも、下から昇ってくる人影は顔を上げた。
黒に近い髪。濃灰色の旅装。
右手には、細身の銀緑色の剣が握られている。
風の精霊剣、翔嵐。
その姿を見間違えるはずがない。
セトだった。
消えかけていたはずの命が、目の前で動いている。
シアはその理由を考えようとしたが、何もまとまらなかった。
目を覚ますだけでも難しいと言われた人間が、風の剣を握って星の外へ来ようとしている。
まずは、あの手に触れたい。
けれど今は、自分の身体を動かすことさえ難しかった。
シアは思わず残った右腕を伸ばした。
だが、腕を伸ばしただけでは距離は縮まらない。
左腕と右脚を失った身体は、四翼の力で辛うじて形を保っている。
炎を放つ余力も、あとどれほどあるか分からなかった。
セトの視線がシアへ向き、次にネアへ移る。
二人の欠けた手足を見た瞬間、その表情がわずかに強張った。
それでも翔嵐を握る手は緩まない。
風の流れを下から上へそろえ、ただ一直線に昇り続けた。
翔嵐で自由に飛び回れるわけではない。
強い力を一方向へ送り続けるからこそ、これほど高い場所まで来られたのだ。
横へ大きく曲がれば、二人とすれ違う危険がある。
ネアはそのことに気づいた。
セトへ向けて飛び込むのではない。
セトが上昇している直線へ、自分たちの位置を寄せる。
無理に一人ずつ拾おうとすれば、片方が置き去りになる。
だから二人で同じ場所を目指す必要があった。
セトが剣先をわずかに動かした。
進路の中心は、シアとネアの間にある。
何を求めているのか、二人には分かった。
シアは四翼の片側から短く火を出した。
ネアも黒い線を伸ばし、周囲の原光を偏向させる。
落下する位置が、少しずつ近づいていく。
声は届かない。
だが三人とも、向かうべき場所を見失ってはいなかった。
重なる軌道
銀緑色の流れが、翔嵐の切っ先から二つに分かれた。
シアとネアの下へ伸び、落下する二人を迎えに行く。
流れに触れた部分から、身体へ加わる抵抗の向きが変わった。
突然止められれば、四翼に残る防御膜まで壊れてしまう。
セトは風を強めず、まず二人へかかる空気の圧力を少しずつそらしていった。
それだけでも、光を剥がされる速度がわずかに弱くなる。
シアが炎を放った。
軌道を合わせようとして、身体が横へ流れる。
赤い四翼の一枚が暗くなり、姿勢が崩れかけた。
すかさずネアが黒い線を伸ばす。
シアを無理に引き寄せるのではなく、翼の周囲を流れる原光の向きを整えた。
シアは炎を止め、別の翼から小さく噴射する。
これ以上離れずに済んだ。
ネア自身も、落下へ逆らう力が足りていない。
シアの動きだけを調整していれば、今度は自分が取り残される。
黒い四翼から力を引き戻し、ネアは自分の軌道も修正した。
セトが二人を見上げている。
その位置から大きく横へ動くことはできない。
だからこそ、シアとネアが同じ場所へ寄るしかなかった。
先ほどまで二人は、互いを消すために力を向けていた。
今は、相手が離れないように力を使う。
出力を抑え、足りないところだけを補う。
赤い炎が短く光る。
黒い線がその外側を支える。
銀緑色の流れが、二人の下に薄い面を作った。
三人の進路が、ようやく重なり始めた。
だが、近づくほど相対速度の大きさが問題になる。
このまますれ違えば、次に出会える保証はなかった。
シアは眼下のセトを見る。
近づくほど、そこに生きている人間がいることがはっきりする。
そのことへ意識を向ければ、四翼の奥から再び相手を消せという感覚が浮かぶ。
シアはそれを振り払い、ネアの位置を確かめた。
今は守りたい相手が二人いる。
最接近
セトが上昇速度を落とした。
その分だけ、シアとネアが迫ってくる。
近づいたからといって、手を伸ばせば届く速さではない。
残された距離を、三人がそれぞれの力で埋めなければならなかった。
シアが四翼を大きく開く。
赤い炎を落下方向へ放った。
翼を維持する力まで失わないよう、短く、強く。
炎の反作用が身体を押し上げる。
ネアはその瞬間だけ黒い線を広げた。
シアと自分の周囲を通る原光の流れを、落下とは反対の方向へそろえる。
二人の速度が、わずかに落ちた。
セトが翔嵐を振り上げる。
銀緑色の流れが二人の下へ入り込み、広い面となった。
下から受け止めるのではない。
激しい落下を、少しずつ押し返していく。
風と火と月が重なった。
三人の距離が縮まり、速度の差も小さくなる。
しかし、完全には止まらない。
セトが翔嵐を右手だけで握り直した。
空いた左手を、二人へ向ける。
その指先から、透明な水が広がった。
シアは一瞬、何が起きたのか分からなかった。
水は薄い膜となってシアを包み、ネアの方へ伸びる。
ネアの身体を覆った膜も、セトの周囲で一つにつながった。
透明な球が、三人を内側へ収める。
直後、球の表面が激しく揺れた。
それまで四翼へ直接ぶつかっていた空気が、水の外側を流れ始めた。
膜の表面で水が薄くなり、すぐに別の場所から流れ込んで補われる。
水の膜の向こうでは、熱に揺れた空気が白く光っていた。
薄い膜が押しつぶされそうになるたび、セトの左手がわずかに動く。
水の表面は硬い壁ではなく、形を変えながら圧力を受け流していた。
シアが慌てて火を強めかけると、ネアの黒い線がその流れを落ち着かせる。
セトは翔嵐で外側の流れを整えた。
水だけですべてを受け止めるのではない。
風で衝突を和らげ、月で原光の流れを整え、火で落下へ逆らう。
シアの四翼から、光が剥がれ落ちなくなった。
ネアも自分の袖を見て、ようやく周囲の圧力が弱まったことに気づいた。
救われたのは、まだ身体だけだった。
落下そのものは続いていた。
声が届く
水の球が一度大きく傾いた。
セトが翔嵐を下へ向ける。
銀緑色の流れが球の外側を沿い、回転を抑えた。
ネアも黒い線を重ね、シアは残った力で下へ炎を放つ。
水の膜の内側には、空気が保たれていた。
激しい風の音が遠くなり、シアは初めてセトの息遣いを聞いた。
「本当に、セトなんだな」
「ああ。遅くなった」
「遅すぎるぞ。こっちは死ぬところだった」
「見れば分かる」
シアはもっと言葉を続けようとした。
どうして起きられたのか。どうしてここが分かったのか。
怒りたいことも、礼を言いたいこともある。
しかし、水の球を支えているセトの表情を見ると、いま全部を聞くわけにはいかなかった。
セトの声は普段と変わらなかった。
ただ、シアの欠けた左腕へ一度だけ目を向けた。
シアはそれを見て、右腕を軽く動かした。
大丈夫だと言うには、あまりにひどい姿だった。
「セトが、水を使っているのですか?」
ネアは透明な膜を見つめた。
翔嵐の風ではない。
水の流れを作り、維持しているのは明らかにセトだった。
「ああ。細かい話はあとだ。まず上へ戻る」
「分かりました。シア、もう一度合わせてください」
「今度は聞く。ネアが止めろって言ったら止める」
「さっきもそう言いましたね」
「今度もそうだ!」
シアの返事に、セトの口元がわずかに動いた。
だが、笑っている場合ではない。
落下速度はまだ大きく、水の膜にも負荷がかかっている。
セトが翔嵐へ力を通した。
シアの四翼から赤い炎が伸び、ネアが黒い線で流れをまとめる。
透明な球は一瞬だけ傾いたあと、ゆっくりと落下速度を減らしていった。
やがて、地上へ近づく動きが止まった。
星と球の距離が、ほんの短い間だけ変わらなくなる。
次の瞬間、水の球は上昇を始めた。
シアはそれを確かめてから、ようやく肩の力を抜いた。
まだ地上へ帰れるわけではない。
それでも、自分たちはもう落ちていなかった。
一か月
水の球は高度を上げ続けた。
周囲の空気が薄くなるにつれ、膜の外側を流れる風も静かになる。
セトは翔嵐を握ったまま、上昇する方向を保っていた。
シアは、何度もセトの顔を見た。
先ほどまで動かなくなったと思っていた相手が、今は目の前にいる。
それを確かめたい気持ちと、聞きたいことが多すぎる気持ちが重なった。
「セト。私たち、どれくらい戦ってた?」
「一か月だ」
「……一か月?」
シアは目を見開いた。
明るい星の側と、暗い側を何度も通った記憶がある。
その間も、炎を放ち、黒い線を避け、次の攻撃を考えていた。
一日なのか、二日なのか。
数えていなかったのではなく、数えようとも思わなかった。
「私も、時間を気にしていませんでした」
ネアが小さく言った。
戦っている間に何を得たのかと考えても、失った手足と、壊そうとした相手の姿しか残っていない。
七つの分霊核をそろえたことも覚えている。
だが、その力を何のために使っていたのかを考えると、答えは一つしかなかった。
一か月。
それだけの時間を、二人は相手を消すためだけに費やしていた。
長く生きた彼女にとっても、一か月を意識せず戦い続けた経験は普通ではない。
何を見ていたのかと考えれば、互いの姿しか思い浮かばなかった。
「地上からも、二つの光が戦いながら上がっていくのは見えていた」
セトは二人の顔を見た。
「見えなくなってからは、フィオラが二人の方向を追ってくれた。正確な場所が分かったわけじゃない。赤と黒の光が落ちてくるのを見つけて、そこへ向かってきた」
『お二人のいる方向と、危険な状態だけは感じられました。それ以上は、私にも分かりませんでした』
翔嵐からフィオラの声が届いた。
シアは剣へ目を向ける。
一か月、誰かが自分たちを気にかけ続けていた。
自分はその間、ネア以外の誰も見ていなかった。
「……そうか。ずっと探してくれてたんだな」
「ああ」
少し黙ったあと、シアはセトの左手を見た。
水の膜を生み続けている手だった。
「それより、セトの精霊回路はどうなった?」
「二人が出たあと、ヴァルナが来た」
山小屋を訪れた者
それは、シアとネアが山小屋を離れたあとのことだった。
寝台に横たわるセトは、目を覚まさなかった。
フィオラは胸元に手をかざし、細い原光の流れを保ち続けている。
少しでも調整を外せば、辛うじて残っている流れまで途切れそうだった。
リグとハルヴェンは護衛を引き受けていた。
ハルヴェンが小屋の外を警戒し、リグは必要なときにフィオラへ水や食事を運ぶ。
それ以上に手伝えることがないのが、かえって落ち着かなかった。
セトの身体には、息も体温も残っている。
だからといって、明日もそのまま生きている保証はない。
フィオラは少しずつ原光を送り、途切れる場所が変わればその都度調整した。
シアとネアが去ったあと、小屋の中では静かな作業だけが続いていた。
扉を叩く音がした。
リグが顔を上げ、静かに扉を開く。
外に立っていたのは、水の精霊王ヴァルナだった。
荷物も旅の支度もない。
誰かに案内されてきた様子もなかった。
「ヴァルナ? どうしてここにいるんだ?」
「大変なことになってると思った」
ヴァルナは穏やかに答えた。
リグが道を開けると、迷わず寝台へ歩いていく。
フィオラも驚いたが、セトの胸元から手を離すことはできない。
「ヴァルナさん。どなたかが知らせたのですか?」
「いや。聞いてない」
「では、どうしてこの山小屋の場所を?」
「こっちだと思ったから来た」
フィオラは答えを待った。
しかし、ヴァルナはセトを見つめたまま、続きを口にしない。
隠しているというより、説明する理由そのものが見当たらない様子だった。
「村からは相当離れています。道に迷いませんでしたか?」
「迷った覚えはない」
「何かを感じ取ったのですか?」
「なんとなく、だな」
外で物音を聞いたハルヴェンが戻り、思わぬ来訪者に足を止める。
リグは小さく肩をすくめた。
どうやって来たのかは分からない。
だが、セトの状態を見てもらえることだけは確かだった。
フィオラは問いを切り上げた。
今は来訪の理由より、目の前の人間をどうするかが先だった。
壊れかけた回路
ヴァルナは寝台の横に立った。
セトの胸へ手を近づけ、内側を通る原光の流れを確かめる。
指先から薄い水がにじみ、途切れかけた筋に沿って広がった。
フィオラは、力を送る手を動かさない。
セトの体内には、外から支えなければ続かないほど細い流れしか残っていなかった。
身体の傷を塞いでも、この流れが戻るわけではない。
「治せませんか」
「治せない」
ヴァルナはすぐに答えた。
フィオラは顔を伏せかけたが、ヴァルナの手がまだ動いていることに気づく。
「傷ついた場所をつなぐことも?」
「つなぐ形が残っていない」
「では、セトさんの回路は……」
「元の形には戻せない。でも、別の形なら重ねられるかもしれない」
フィオラが目を上げた。
ヴァルナは、水を少しずつ動かしている。
切れた場所をつなごうとしても、次の場所にはすでに通路がない。
同じ道を探すほど、水は行き場を失って広がった。
「別の精霊回路を作る、ということですか?」
「たぶん、そうなる」
「人間にそんなことが?」
「普通なら、できないと思う」
ヴァルナは自分の胸へ手を当てた。
次に、セトの胸へ戻す。
水の精霊王の身体には、流れが分かれても再び一つへ戻る構造がある。
それをセトへ重ねられるか、確かめようとしていた。
「元の流れが残っていたら、別の形が邪魔になる。でも、この人はほとんど残っていない」
「壊れているから、作れる余地があるのですね」
「ああ。うまくいくかは、まだ分からない」
フィオラはセトを見る。
回路が破壊されていることが、今は唯一の可能性になろうとしていた。
治すのではなく、作り直す。
以前のセトならば、自身の安全を守るため、許容量を超えた原光を通せなかったはずだった。
だが最後の戦いで、その制限を外して流れを通し続けた結果、道そのものが破れてしまった。
同じやり方をもう一度させることは、フィオラには考えられなかった。
新しい形が必要だという言葉には、痛いほど納得できた。
彼女は手を離さず、ヴァルナの次の動きを待った。
別の形
ヴァルナは、セトの胸元へ両手を向けた。
水が薄く広がり、寝台の上を満たしていく。
そのまま水の精霊王自身の輪郭がわずかに揺れ、セトの存在へ一時的に重なる。
フィオラの目には、二つの原光の流れが同じ場所を通ろうとしているように見えた。
だが、ヴァルナ自身の精霊回路を切り離しているわけではない。
セトの内側へ移されるのは、水の精霊王が持つ回路の形だった。
「ヴァルナさんは、そのままでいられるのですか?」
「ああ。私の回路はなくならない」
「セトさんの中へ、あなた自身が残るわけでは?」
「違う。形を重ねるだけだ」
途切れた原光の筋へ、水の流れが入り込む。
一つの道が塞がれば二つに分かれ、別の場所で再びつながる。
水の性質に合わせて、柔らかく流路が変わっていく。
最初の流れは、胸元へ戻るところで乱れた。
ヴァルナは急がず、水を引き戻して別の経路へ通した。
フィオラが支えていた細い原光も、その新しい道へ少しずつ導かれる。
「それができると、最初から分かっていたのですか?」
「できそうだと思った」
「なぜです?」
「……なんとなく、かな」
フィオラは、それ以上尋ねなかった。
ヴァルナが何を感じてここへ来たのか、本人にも説明できない。
それでも、目の前では確かに別の流れが形を持ち始めていた。
途中で、新しい道に流れが集中した。
フィオラは反射的にそこを支えようとしたが、ヴァルナが静かに首を振る。
狭い場所へ押し込むのではなく、水のように二つへ分ければよい。
負荷が弱まったところで、再び一つへ戻す。
形を固定しきらないからこそ、流れが続いていく。
夜が過ぎていく。
ハルヴェンが外の見張りを交代し、リグが戻ってきても、二人は寝台のそばを離れなかった。
フィオラは、外から支える力をほんの少し弱める。
それでも、新しくできた流れは途切れなかった。
夜明けが近づく頃、セトの内側を原光が自力で巡り始めた。
弱いが、一定の流れだった。
セトの指が、わずかに動いた。
そんなことがあったのか
「――そんなことがあったのか」
水の球の内側へ、シアの声が落ちた。
セトは翔嵐を握ったままうなずく。
その左手から、水が絶えず広がっていた。
「ヴァルナはどうなった?」
「村の祠へ戻った。何も失っていない」
「セトの中にいるわけでもないのですね」
「ああ。回路の形が変わっただけだ」
ネアはセトの胸元へ意識を向けた。
かつての精霊回路とは、流れがまるで違う。
分かれても途切れず、負荷がかかる場所を避けながら戻っていく。
それでも、その中に水の精霊王の意識は見つからなかった。
「確かに、セトのままです」
「最初からそう言ってる」
「水の精霊王に変わったわけではありませんね」
「そりゃそうだろ。剣だって、今までどおり握ってる」
シアは右手を伸ばしかけ、左腕がないことを思い出した。
少し困った顔で、その代わりにセトの肩へ近づく。
シアがセトの肩に軽く触れると、そこには確かな体温があった。
精霊力の流れがどれほど変わっても、この人間がセトであることは変わらない。
ネアもセトの内側を調べ続けるのをやめた。
説明できないことを急いで整理するより、本人と話せることの方が今は大きかった。
セトも剣を持つ手を動かさず、シアの方へ顔を向けた。
「よかった。生きてるなら、それでいい」
「ああ。二人もな」
ネアも、欠けた身体のまま静かにうなずいた。
あの山小屋を出たとき、自分たちはセトの命を守るために、分霊核を探しに行った。
一か月後、こうしてセトに救われるとは考えていなかった。
ヴァルナがなぜ危機を知ったのか。
どうして、再構築できると考えたのか。
疑問は残る。
しかし、答えを求めるために今の状況を止めることはできない。
水の膜の外から、激しかった風音が消えた。
星の縁が下へ遠ざかり、周囲には暗い空間が広がる。
三人は再び星の外へ出ていた。
身体を戻す
翔嵐が銀緑色の光に変わった。
セトの右手から細い剣が消え、光が人の形を取る。
フィオラが、透明な水の球の中へ姿を現した。
シアとネアが四翼から力を加え、水の球を衛星軌道へ乗せる。
進む向きが安定したところで、セトは翔嵐を握っていた手をゆっくり下ろした。
「シアさん、ネアさん。お戻りになれて、よかったです」
「まだ帰ってきたわけじゃないけどな」
「それでも、まずはお二人の身体です」
フィオラの視線に、セトもうなずく。
シアは左腕と右脚を、ネアは右腕と左脚を失ったままだった。
四翼があるから、辛うじて今の姿を維持できている。
「二人とも、自分の身体は治せるか?」
「空気に削られないなら治せる」
「私も可能です。ただ、すぐには戻りません」
「急がなくていい。まず元の形に戻ろう」
シアの赤い四翼が周囲の原光を集める。
光は左肩から伸び、失われた腕の輪郭を作り始めた。
右脚にも赤い光が巡り、光に穿たれた身体の内側を埋めていく。
ネアは黒い四翼を開いた。
切断された右腕と左脚を、細い原光の流れで一つずつ再構成する。
長い袖と羽衣も、身体の形に合わせて整っていった。
すぐには完成しない。
一か月の戦闘と光の追撃で失った力は大きく、四翼の循環もまだ不安定だった。
それでも、水の膜の内側では、修復している部分を空気に削られることがない。
シアは戻りかけた左手を動かした。
指先の形が崩れたため、慌てて力を戻す。
「おい、まだ動かせないのか」
「形が安定するまで待ちなさい」
「分かったって」
ネアはそのやり取りを聞きながら、自分の右腕をゆっくり伸ばした。
今度は崩れない。
シアも少し遅れて手を握り直す。
セトはその様子を見て、少しだけ息を吐いた。
先ほどは再会を喜ぶ余裕さえなかった。
いま目の前では、二人が失った身体を自分の力で戻している。
ようやく救出できたという実感が湧いてきた。
ただし、星の向こうで白い巨体が動いていることも忘れてはいなかった。
散らばっていた分霊核を呼び戻すため、二人は周囲へ細く原光を伸ばした。
赤い核が一つ、また一つと近づき、七個がシアの周囲へ並ぶ。
ネアの黒い分霊核も七個そろい、四翼との循環をつなぎ直した。
セトは、ようやく二人が自分の足で立つ姿を見た。
核の場所
ネアが上方へ視線を向けた。
星の外には、巨大な白い輪郭が残っている。
光の精霊王だ。
四枚の翼を広げ、周囲の原光を取り込みながら近づいていた。
「光の精霊王が来ています。このまま地上へ戻りますか?」
「いや。たぶん、ここで戦うのが一番いい」
セトは巨大な姿を見た。
人型だった頃の輪郭は崩れ、膨れ上がった力が周囲へ流れ出している。
あれが地上へ近づけば、戦うことそのものが危険になる。
地上には巻き込まれる人も、壊れるものもある。
「肥大化したまま地上へ来られたら、避けるだけでも被害が出る」
「では、ここで決着をつけるのですね」
「ああ。でも、外側をいくら削っても終わらなさそうだ」
フィオラが巨大な光を見つめた。
「身体がどれほど肥大化しても、核はあるはずです」
「核の場所は?」
シアが尋ねる。
フィオラは首を横に振った。
「分かりません。ただ、お二人なら、見当がつくのではないでしょうか」
「私たちに?」
「自分の身体で、もっとも壊されたくない場所を考えてください」
シアは、再構成した左手を頭へ持っていった。
手足は失っても作り直せた。
身体の一部を光で穿たれても、四翼が残る限り形をつなぎ直せた。
だが、何もかも同じように扱えるわけではない。
「頭だな。ここはまずい。他なら、なんとかなる」
「私も同感です。頭部に相当する部分は守りたいですね」
「ならば、頭です」
フィオラは白い巨体の上方を指した。
外形はもはや人間の姿ではないが、額に当たる場所は見分けられる。
核があるなら、その奥ではないか。
シアは眉を寄せる。
頭を壊されたくないのは自分たちも同じだが、光の精霊王まで同じ作りかは分からない。
ネアも同じ疑問を抱いていた。
それでも、全身のどこかを当てずっぽうで攻撃するよりは、理由のある推測だった。
位置を特定できるのは、実際に近づいた後になる。
「決まったわけじゃない。でも、狙う場所は絞れた」
セトはそう言って、近づいてくる光の精霊王を見据えた。
最大の戦力
「私とネアで迎え撃つ」
シアが戻った左腕を振ってみせた。
ネアも七個の黒い核を動かし、相手との距離を測る。
だが、巨大な光の精霊王は二人が覚えている姿より、さらに大きくなっていた。
「以前より肥大しています。まともに戦っても、削りきるのは難しいでしょう」
「八門を二人で撃つ」
「それでも、次々に再生されたら同じです」
「じゃあ、どうする?」
「二人の精霊剣で戦う」
答えたのはセトだった。
シアとネアが同時に振り返る。
「今の私たちは精霊翼を得ています。通常の精霊剣と同じではありません」
「分かってる」
「四翼だけでも大きな循環があります。十四個の分霊核を加えれば、セトへ向かう負荷は想像以上になります」
「それも、少しは見えてる」
セトは二人の四翼を交互に見た。
赤い流れと黒い流れは別々に巡っている。
剣となってもそれぞれの出力を維持し、その全部を人間の身体へ通す必要はない。
「前なら無理だった。でも、今の回路なら受け止められるかもしれない」
「水の精霊王の構造になったからといって、安全とは限りません」
フィオラが静かに言った。
セトも否定しなかった。
「分かってる。通す量を間違えれば、また壊れる」
「それでも、現在使える最大の戦力なのは事実です」
ネアは黙ってセトの胸元を見た。
確かに、以前より流れを受け止める構造が柔らかい。
負荷が集中する場所を避けて、別の流れへ逃がす余地もある。
ただし無制限ではない。
「以前より、力を通した先の負荷が見える。どこで止めるかも、自分で決めたい」
「ある程度、でしょう?」
「ああ。確実だとは言えない」
シアは少しだけ笑った。
「最初から確実だったことなんて、ないだろ」
セトもうなずいた。
三人は、再び同じ戦い方を選ぼうとしていた。
セトは、以前に二本の精霊剣を放したときのことを覚えている。
あのまま握り続ければ、先にシアとネアが壊れていた。
だから自分の刃を選び、精霊回路を失った。
今回は、同じことを繰り返さないために三人で制御の方法を決める。
強さだけではなく、どこで力を止めるかが必要だった。
四翼のまま
セトはフィオラへ向き直った。
「フィオラは、ここから少しずつ降下してくれ。俺たちはやつを叩く」
「分かりました。ですが、セトさんたちも無理はしないでください」
「無理をしないと倒せない相手だ」
「それでも、戻ることを忘れないでください」
フィオラは三人の顔を順に見た。
「無事に戻ってください」
「ああ」
「必ず戻る」
「私も、そのつもりです」
セト、シア、ネアがそれぞれ答えた。
フィオラは水の膜から離れ、風の流れを下方へそろえる。
セトも水の膜を分け、フィオラを送り出した。
淡い銀緑色の光が、ゆっくり星へ向かっていく。
フィオラは最後に一度だけ振り返った。
二人の四翼とセトの水の膜は、暗い空の中でもはっきり見える。
今度は自分が三人を追うのではなく、三人が戻ってくる場所を守る。
そう決めて、フィオラは降下のための流れへ意識を戻した。
セトは水を自分の周囲へ小さく残し、両手を空けた。
右手へシアが近づき、左手へネアが立つ。
二人の四翼は、まだ別々の色で輝いていた。
「二人とも、俺へ戻す精霊力は制限するんじゃなくて、手前でためてくれ」
「ためる?」
「セトへ流す量を、セト自身が制御するのですね」
「そうだ。剣の側の循環は二人に任せる。俺が受け取る量だけを決める」
ネアはセトの回路へ意識を向けた。
火と月を一つへ混ぜるのではない。
左右から来る力を別々に受け、必要な分だけ身体へ通す構造が見える。
それ以上は剣と翼の側にためたままでよい。
「お互いに戦いやすいはずだ。それに、負荷がかかったらすぐ分かる」
「途中で力を使い切ったら、全員終わりですからね」
「ああ。だから、勝手には流さないでくれ」
シアは自分の四翼を一度見た。
ほんの少し前まで、この翼に引かれてネアを消そうとしていた。
今は違う。
誰と、何のために戦うかを自分で決められる。
「私はセトと戦いたい。ネアは?」
「私もです。今度こそ、自分の意思で」
シアが右手を差し出し、ネアも左手を伸ばす。
「やってみよう」
二本の四翼精霊剣
シアの身体が赤い光へ変わった。
人の形がほどけ、光がセトの右手へ集まっていく。
四枚の翼は消えない。
むしろ、剣となったシアとセトをつなぐ流れに合わせて、大きく広がった。
極炎。
七個の赤い分霊核がセトの右側へ並ぶ。
四翼と核を巡る力は、剣の側で循環を続けていた。
セトの右腕へ流れ込むのは、本人が受け取ろうとした分だけだ。
続いて、ネアの身体が黒い光へ変わる。
黒い光がセトの左手へ集まり、細い剣の形に収まった。
絶光。
黒い四翼が、赤い翼とは別の流れを保ったまま広がる。
七個の黒い分霊核も左側に並び、ネア自身の循環へつながっていった。
右腕には火の精霊力。
左腕には月の精霊力。
二つが胸へ達しても、ひとつに混ざることはない。
水の精霊王の構造を持つ回路が、それぞれの力を受け止め、必要な分だけ別々に通した。
セトは右手を少し動かす。
赤い四翼がそれに応えた。
次に左手を動かすと、黒い四翼が遅れることなく向きを変える。
十四個の核は、セトが無理に操らなくても、それぞれの精霊王が位置を整えていた。
『聞こえるか?』
極炎からシアの声が届く。
「ああ。そっちは?」
『問題ありません。流れも安定しています』
絶光からネアが答えた。
赤い剣は、手の中で微かに熱を帯びた。
黒い剣は、周囲の流れを薄く押し分けている。
同じ二刀でも、以前の極炎と絶光とは力の巡り方が違う。
四翼と分霊核の存在感が、セトの背後から伝わってくる。
その大きさに気圧されかけたが、握る手は緩めなかった。
セトは胸を通る二つの力を確かめる。
大きい。だが、前のように押し潰される感覚はない。
自分が通す量を選び、それぞれが剣の側で力を保っている。
「二人とも、頼むぞ」
『任せろ!』
『ええ。今度は三人で』
セトは二本の剣を握り直した。
右手に極炎。左手に絶光。
背には赤い四翼と黒い四翼。
周囲には十四個の分霊核が並ぶ。
肥大化した光の精霊王が、巨大な四翼を開いた。
セトも八枚の翼を広げる。
二本の四翼精霊剣。
セトは、八翼となった。
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