

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
落ちていく
星が近づいてくる。
大地と海が、少しずつ形を大きくしていく。
シアとネアは、互いに離れたまま落下していた。
シアの背には赤い半透明の四翼。
ネアの背には黒い四翼が残っている。
だが、どちらも光が弱く、翼を通る原光は途中で乱れていた。
シアが火を放とうとすると、翼の外縁へ集まった赤い光が炎になる前に消える。
ネアが伸ばした黒い線も、周囲の原光をつかむ前にほどけた。
二人の身体は回転している。
星へ向けて腕を伸ばしても、次の瞬間には星が背後へ回る。
どちらが上かさえ、定まらない。
光の精霊王による追撃は終わっていた。
それでも、撃ち抜かれた身体の傷は残っている。
シアには左腕と右脚がない。
ネアには右腕と左脚がない。
それらは互いの攻撃で失われたものだった。
さらに、光の精霊王の収束した光が、二人の身体を大きく穿っている。
四翼が残った身体を支えているから、かろうじて形を保てているにすぎない。
七個ずつの分霊核も、先ほどの位置にはなかった。
光に弾かれて散り、並べ直す余力もない。
それでも二人は、欠けた手足を見なかった。
互いのいる方向ばかりを探している。
赤い四翼が動く。
黒い四翼も応じようとする。
どちらも、相手へ向かうために。
だが、身体を押し出す力は生まれない。
落下だけが続いた。
残る命令
消さなければならない。
シアの中には、それしかなかった。
黒いものがいる。
自分ではない月がいる。
それを消せばよい。
ネアも同じだった。
赤いものがいる。
自分ではない火がいる。
残しておく理由などない。
二人は何度も力を集めようとした。
シアは四翼を開き、ネアは黒い線を組み直す。
八門を使おうとしても、散った分霊核は応じない。
できないなら近づけばいい。
近づいて、残った力をぶつければいい。
そう判断しても、身体は落ちるばかりだった。
先ほどまでは、命じた瞬間に四翼が動いていた。
相手を消すという目的へ、周囲の原光が吸い寄せられ、次の攻撃が形になった。
身体の一部を失っても、その流れは止まらなかった。
今は違う。
光の攻撃で原光循環が乱れ、欲望が求めるだけの力が集まらない。
命令だけが繰り返され、結果が返ってこない。
その空白へ、別の認識が紛れ込んだ。
落下が始まってから、相手を消すこと以外へ意識が動いたのは初めてだった。
どうして、目の前のものを消さなければならないのか。
問いの形になったのは一瞬だった。
すぐに、消せという思いが覆いかぶさる。
それでも、何もなかった場所へ、わずかな隙間ができていた。
欲望が消えたわけではない。
奪われていた自分の判断が、ようやくその下から顔を出し始めたのだった。
赤いもの
ネアは身体を回転させながら、赤いものを見た。
短い赤橙色の髪。白い衣装。背に広がる四枚の赤い翼。
左腕と右脚を失いながらも、なおこちらを向こうとしている。
火の精霊王。
その知識は、すぐに出てきた。
イフリートという役割。
炎の扱い方。生まれ変わっても受け継がれるもの。
だが、それだけでは目の前の姿を説明できなかった。
あの髪が不規則に跳ねる様子も、何かを思いつくとすぐに飛び出してしまう振る舞いも、イフリートの役割に含まれてはいない。
何度も危険へ飛び込み、そのたびに注意を聞き流した。
同じ人間の両手へ、それぞれ剣となって収まったこともある。
背中を預けることが当たり前になった時間もあった。
それらは知識ではなく、ネア自身の記憶だった。
ネアは、何代ものイフリートを見てきた。
ある一人が消えても、次のイフリートはいずれ生まれる。
役割は失われない。
そのことを、長い年月の中で知っている。
だからといって、次に生まれる者が、この赤い髪の少女になるわけではない。
目の前の存在を消しても、火の役割は残る。
だが、この者とのやり取りは二度と戻らない。
その違いを考えようとした瞬間、原初の欲望が再びせり上がった。
自分以外はいらない。
ほかの王は消せ。
ネアは黒い四翼を開いた。
攻撃するためではない。
赤い姿を、もう一度正面から見るために。
その名を呼ぶ
ネアは目をそらさなかった。
赤いもの。火の王。消すべき相手。
その呼び方では、どうしても足りない。
あの者は、ネアへ言い返す。
無茶をして、たしなめられて、それでも笑う。
役割の名前で呼んでも、その一人だけを呼んだことにはならない。
個人を示す名前がある。
ネアはそれを知っているはずだった。
名前だけが失われたのではない。
言葉も、記憶も、初めから残っている。
ただ、それを自分にとって大切なものとして選び取れなかった。
ネアは思い出す。
誰かがあの少女に名を与えた。
初めて出会った人間が、役割とは別の名前で呼んだ。
その人間の名前も知っている。
剣を二本持ち、精霊王を道具として扱わない、危なっかしいほど真っすぐな人間。
セト。
その名前が浮かんだ瞬間、別の名前も続いた。
ネアは声を出そうとした。
空気のない場所では、声は音として届かない。
それでも、かつて同じ人間へ身を預け、何度も共に戦った相手とのつながりが残っている。
短い言葉なら、そこへ通せるかもしれない。
ネアは意識を向けた。
相手を消すためではなく、相手から返事をもらうために。
また、消せという思いが割り込んでくる。
その思いに従うかどうかは、自分で決める。
ネアは名前を引き上げ、つながりへ呼びかけた。
「……シア! 返事しなさい!」
シア
呼ばれた。
シアはそう感じた。
音ではない。
耳へ届いたものでもない。
それでも、自分へ向けられた言葉だと分かった。
シア。
火の精霊王を表す名前ではない。
次の世代へ受け継がれる役割名でもない。
たった一人の人間が、自分へ与えた名前だ。
最初に会ったとき、セトは自分をイフリートとして恐れなかった。
目の前にいる自分へ話しかけ、名前を付けた。
白刃と黒刃を使う人間。
危険へ向かっても、誰かに無理やり力を出させようとはしない人間。
そのセトへ、自分の意思で剣となって身を預けた。
炎を合わせ、走り、何度も隣で戦った。
剣になることを決めたのは役割の知識ではない。
ほかの誰でもない、自分自身の選択だった。
記憶は消えていなかった。
ただ、相手を消すこと以外へ使えなくなっていた。
シアは赤い四翼を開く。
炎は生まれないが、身体の回転がほんの少し変わった。
黒い翼が見える。
長い髪。漂う袖。いつも自分の無茶を止めに来る精霊王。
そこにいるのは、消すべき月の力ではない。
「聞こえてる。いや、今やっと聞こえた感じだ」
言葉を返した途端、自分が何を言うつもりだったのかまで分かった気がした。
シアは黒い翼を見つめる。
「ネア」
呼びかけは短かった。
それでも、黒い翼が大きく揺れた。
相手も、自分の名前を待っていたのだと分かった。
私はネア
「はい。私はネアです」
ネアは答えた。
シアが呼んだのは月の精霊王ではない。
いまここで、同じように落ちているネア自身だった。
自分が何を見て、誰と関わってきたか。
なぜ四翼を開き、その後に何をしたのか。
すべて覚えている。
シアへ向けて放った黒い線も、あの少女の身体が崩れた瞬間も。
思い出せなかったのではない。
それらを見ても何も感じず、次の攻撃だけを選んでいた。
今は、違う選択ができる。
シアの赤い翼がわずかに光った。
ネアの黒い線が、反射的にその方向へ伸びかける。
赤いものを消せという認識は、まだ消えていなかった。
シアも、一瞬だけ黒い線へ火を向けようとした。
二人の視線が合う。
相手を見失うより先に、自分たちが何をしようとしたかを理解した。
ネアは黒い線の向きを変え、シアは火へ流しかけた力を止める。
どちらの攻撃も成立しなかった。
いまの四翼に、それだけの出力はない。
だが、力が戻ったとしても同じ選択をする必要はなかった。
原初の欲望は残っている。
四翼も消えていない。
それでも二人は、自分の意思で相手を残そうとしていた。
「……まだ、消せって感じがする」
「私もです」
「でも、ネアを消したくない」
「ええ。私も、あなたを消すつもりはありません」
短い確認だった。
それで十分だった。
少なくとも、いま二人が向かおうとしている先は同じだった。
見落とした光
シアは、視線を上へ向けた。
さっきまでは見る余裕もなかったものが、ようやく見えた。
落下する二人のはるか上方に、巨大な白い輪郭がある。
四枚の翼が、星々を隠すほど広がっていた。
光の精霊王だ。
シアは、あれに撃ち抜かれた瞬間を覚えている。
白い光が身体を貫き、その後も細い光が何度も降り注いだ。
しかし、光の精霊王がいつ近づいてきたのかは、思い出せなかった。
いや、見ようとしていなかったのだ。
シアが追っていたのはネアだけだった。
ネアもシアの火ばかりを見ていた。
あれほど巨大な力が近くへ来ても、二人の中では、目の前の相手を消すことより重要ではなかった。
「ネア。あんなに大きいのがいたのに、どうして気づかなかったんだろうな」
「気づけなかったのではありません。見ていなかったのです」
「そっか。私も、ネアしか見てなかった」
「私もです」
二人は白い巨体を見る。
今の力では、とても戦える相手ではない。
そもそも、落下さえ止められない。
それでも、あの巨体が世界の外側に残っていることは理解できた。
名前を取り戻したからといって、失敗した事実がなくなるわけではない。
シアは、もう一度ネアへ目を向けた。
今度は相手だけを見るのではない。
ネアの向こうに広がる星も、その星へ落ちている自分たちも、ちゃんと視界へ入れた。
互いの傷
シアは改めてネアを見た。
右腕がない。
左脚もない。
光に撃ち抜かれた身体の一部も、大きく欠けている。
あれほど長く戦っていながら、相手の身体が欠けていることに意味を感じなかった。
動いているなら、まだ消せる。
それだけだった。
ネアも、シアの左肩と右脚があった場所を見る。
互いの攻撃を、はっきり覚えていた。
「ネア、その腕と脚……」
「あなたにやられました」
「そうだよな。私が焼いた」
「あなたの左腕は、私の線が触れたあと、ご自分で切り離したのでしたね」
「ああ。あのままだと、身体まで崩れそうだったから」
「右脚も私の線です」
「そっちも覚えてる」
シアは自分の欠けた手足より、ネアの姿が気になった。
ネアの方も同じだった。
自分の右腕がないことより、シアがあの場でどんな判断をしたのかが気にかかる。
先ほどまでなら、互いにそんなことを考える余地すらなかった。
「覚えてるのに、何とも思わなかった」
「ええ。あなたの腕がなくなっても、次にどう攻撃するかしか考えていませんでした」
「……ひどい話だな」
「本当に」
シアはネアを見た。
ネアも目をそらさない。
互いが傷つけた事実は消えない。
原初の欲望があったからといって、起きたことまでなかったことにはできない。
「悪かった」
「私もです」
その先は続かなかった。
謝りたいことは、ほかにもある。
だが、大地と海は先ほどよりずっと大きく見えていた。
まだ落ちている
シアが下を見る。
いや、正確には、身体が回るたびに見える星の方角を確かめた。
地上までは、まだ距離がある。
それでも二人は落下を続け、速度を増している。
ネアの黒い翼は、少し動かすだけで流れが乱れる。
シアの翼も同じだった。
名前を取り戻しても、失った力まで戻るわけではない。
「まず、これをどうにかする」
「できますか?」
「できないかもしれない」
「そうでしょうね」
「でも、何もしなければ落ちる」
「すでに落ちています」
「分かってる!」
シアは残った右腕を動かした。
赤い四翼へ意識を向ける。
先ほどは相手を消す方向へ、力が勝手に流れていた。
今は自分で、何に力を使うのかを決める。
セトがいれば。
そう考えかけて、シアは言葉を飲み込んだ。
最後に見たセトは、精霊回路を壊され、目を覚ますかどうかも分からなかった。
助けに来られる状態ではない。
ネアも、そのことは分かっている。
だからこそ、セトの名を口にせず、星と四翼を交互に見ていた。
「少しあがく」
「どうします?」
「下方向へ放射して勢いを抑える。ネアは重力ってやつを少し止める。少なくとも以前より強くやれるはずだ」
「重力そのものを止めるわけではありませんが」
「落ちる力に逆らえれば何でもいい」
「解決ではありませんが、多少ましにはなります」
「それでいい」
シアが一つうなずいた。
ネアも黒い翼を広げる。
今度は、互いを消すためではない。
残された四翼
二人の四翼には、まだ原光が流れている。
ただし、周囲から力を取り込み、身体へ巡らせて、再び翼へ送る流れが途中で乱れていた。
光の精霊王の攻撃で、その循環が何度も断たれたためだった。
シアは翼を一枚ずつ動かそうとする。
右上の翼を強めると、左下の翼が暗くなる。
四枚へ同じように力を流そうとすれば、どこかで途切れてしまう。
ネアも、自分の黒い翼を確かめた。
線を広げるほど防御へ回る力が減る。
四翼が身体を保っている以上、すべてを操作へ使うわけにはいかなかった。
「なんか、いっぱい力を集めようとすると、逆に何も出なくなる」
「流れを一度に通しすぎています。途切れている場所へ、さらに力を押し込んでも続きません」
「じゃあ、ちょっとずつなら?」
「試す価値はあります」
「ネアの方は?」
「細い線を短い間だけ維持するなら、なんとか」
シアは散った分霊核の方角も探した。
先ほどまで八門を形作っていた七つの赤い核は、もう近くにそろっていない。
ネアの黒い核も同じだった。
戻そうと思っても、探して呼び寄せるための余裕がない。
落下を止めるのに必要なものは、まず残っている四翼だった。
二人は目を合わせる。
完全な力を取り戻してから動く時間などない。
使える力を、使える範囲で組み合わせるしかなかった。
回転を止める
シアは右腕を星へ向けた。
そのつもりだったが、身体が回っているため、腕の先はすぐに横を向く。
赤い四翼を広げ直しても、崩れた原光循環が思うように応じない。
少量の火が噴き出した。
落下へ逆らうはずの炎が斜めに伸び、身体をさらに回転させてしまう。
「まずい、余計に回った!」
「見れば分かります。いったん出力を止めてください」
「止めたら、もっと落ちる!」
「今の向きで噴射しても、減速になりません」
シアが炎を止める。
星が視界の端から端へ流れていく。
ネアは黒い線を伸ばした。
以前なら周囲の原光を自在につかめたが、今は線が細く、すぐにほどける。
それでも一本だけ、シアの四翼の外側を流れる原光へ触れさせた。
黒い線で身体を引き上げるのではない。
乱れた流れを少しだけ曲げ、回転へ逆らう向きを与える。
シアはそれに合わせ、反対側の翼から小さく火を出した。
回転が弱まる。
二人の位置はなお変わり続けるが、星の方向を見失わずに済むようになった。
「今なら、下が分かる」
「下ではなく、星へ向かう方向です」
「同じだろ」
「向きを間違えないなら、そういうことにします」
ネア自身も黒い翼の流れを整える。
シアだけを見ていると、自分の回転が大きくなる。
二人とも、まず自分の姿勢を保たなければならない。
一度にできることは少ない。
それでも、無駄な方向へ力を使うよりはましだった。
火と線
「始めます」
「こっちもいく!」
シアの四翼から火が放たれた。
八門には遠く及ばない。
一本の太い炎にもならず、四枚の翼から不安定な火が噴き出す。
それでも炎は星へ向かい、反作用で落下へわずかに逆らった。
ネアは黒い線を巡らせた。
重力そのものを動かすのではなく、二人の身体と四翼に流れる原光を整え、落下へ逆らう動きが崩れないようにする。
すぐにシアの炎が途切れた。
出力を保てない。
ネアが整えた流れも乱れ、二人の身体が別々の方向へ傾く。
「もう一回!」
「待ってください。いま放てば、私から離れます」
「だったら、ネアもこっちへ!」
「そのための力まで残っていません」
シアはネアのいる方向を確かめた。
これまでなら、遠ざかった相手へ追いつくために火を使った。
今は逆だった。
離れすぎないように、火を弱める必要がある。
ネアが黒い線を二人の周囲へ伸ばし、原光の流れをそれぞれ調整する。
シアは短く火を出して、ネアの落下に合わせた。
黒い線が切れる。
シアの炎も消える。
何度もやり直した。
ようやく二人の距離が大きく変わらなくなった。
「さっきより合ってるだろ」
「ええ。ですが、落下そのものは止まっていません」
「分かってる。次だ」
赤い火と黒い線は、今度こそ同じ目的へ向けられていた。
次の一回
シアは再び長く炎を放とうとした。
しかし、炎が強くなった途端、翼の内側の赤い光がまだらに暗くなる。
ネアの黒い線も、その乱れを追いきれなかった。
このまま力を押し込めば、減速へ使える流れが完全に途切れてしまう。
「止めてください!」
「まだ出せる!」
「今は出せても、次が出なくなります!」
シアは炎を引いた。
赤い四翼には、わずかな光が残った。
ネアは黒い線を縮めて、自分の翼へ原光を戻す。
少し経つと、また細い流れが生まれた。
完全に修復できたわけではないが、短い時間なら使える。
「次がある方を選ぶってことか」
「はい。一度の噴射で止まれるなら、そちらを選びますが」
「それは無理だな」
「分かっているのなら、最初からそうしてください」
シアは口を尖らせたが、言い返さなかった。
戦っていたときは、使える力を全部出せばよかった。
四翼が新たな原光を取り込むまで、相手を追い続ければよかった。
今は、翼を保つ力まで使い切ったら終わりだ。
今この瞬間に、二人が使える力は無限ではなかった。
周囲から取り込めても、傷ついた循環を通せなければ役には立たない。
ネアの短い合図で、シアは再び炎を放つ。
止めるという合図が来たら、迷わず止めた。
その繰り返しは、相手を消すために続けた八門の応酬とはまるで違っていた。
少しでも長く、二人で生き残るための繰り返しだった。
まだ足りない
シアは長く炎を放つのをやめた。
短く噴射し、途切れる前に力を引く。
翼の流れが戻るのを待ち、また放つ。
ネアもその間に黒い線をつなぎ直した。
大きな力を一度に出すよりは、わずかに安定する。
それでも、十分ではなかった。
二人は落下し続けている。
星へ引かれる動きに逆らっても、すでに得てしまった速度を打ち消せるほどではない。
「効いてる」
「わずかにです」
「わずかでも効いてる」
「このまま地上まで支えられる量ではありません」
「途中で何か考える」
「今、考えてください」
「火を出すので忙しい」
「私も忙しいです」
ネアの返事に、シアは一瞬だけ笑いかけた。
いつものやり取りだ。
つい先ほどまで、自分たちは相手を消すためだけに存在していた。
その事実が、いまの短い会話を妙に貴重なものにしている。
シアは上方を振り返った。
遠くに、巨大な白い輪郭が残っている。
光の精霊王はまだ消えていない。
二人を撃ち落とした相手が、星の外にいる。
落下を止められても、あの存在をどうするかという問題は残る。
だが、いま考えるべき順番は違う。
まず、生きて地上へたどり着くこと。
いや、地上へぶつからずに済む方法を見つけることだ。
シアは噴射を続け、ネアは乱れた流れを整え続けた。
その先に、別の変化が近づいていた。
空気の境
先に気づいたのはネアだった。
周囲に、これまでなかった抵抗が生まれている。
原光の乱れとは違う。
薄い何かが四翼の表面を押し、通り過ぎていく。
星を覆う空気だった。
「シア。大気へ入ります」
「戻ってきたのか」
「まだ地上ではありません」
「じゃあ、もう少しだな」
「その『もう少し』が問題です」
薄かった空気が、落下とともに濃くなる。
最初は翼の端をかすめるだけだった。
それが次第に、進行方向から押しつけられる力へ変わっていく。
真空ではなかった抵抗が、二人の速度を落とし始めた。
だが、穏やかに受け止めてくれるわけではない。
シアが下へ放った炎が横へ広がる。
推進の向きが乱れ、四翼まで揺れた。
ネアは黒い線を広げるが、空気に押された身体の動きが速く変わるため、整えた流れがすぐに崩れる。
「火が変な方向へ行く!」
「周囲の空気に押されています」
「空気に押されて、火が負けるのか?」
「今は、まっすぐ放ち続けられるだけの力がないのです」
シアは火を絞った。
少し前までは、力を出すことだけ考えればよかった。
いまは、出した力がどこへ向かうのかまで気にしなければならない。
黒い四翼のネアも、同じことを考えていた。
二人がようやくそろえた落下への抵抗は、大気へ触れたことで再び乱れ始めた。
削られる翼
空気の抵抗が強くなった。
シアの赤い四翼の前面から、光が細かく剥がれ落ちる。
ネアの黒い翼の縁でも同じことが起きていた。
白い衣装の表面から赤い光が散り、ネアの長い袖と羽衣からも黒と銀の光がちぎれていく。
四翼の防御膜が、空気との接触によって削られていた。
「これは、なんか削り取られてる感じだ」
「実際に空気との摩擦で削られています」
「空気って、こんなに硬かったか?」
「私たちの速度が速すぎるのです」
シアは星へ向けて炎を放つ。
火が広がり、身体が横へ押される。
ネアが黒い線で流れを整えるが、次の瞬間には別の方向から抵抗がかかる。
減速はしている。
それでも、二人を安全に止めるほどではなかった。
さらに、四翼の前面が明るくなり始めた。
シアの赤い翼は外縁から白く輝き、ネアの黒い翼の周囲にも淡い光がまとわりつく。
大気との高速の衝突が、熱を生んでいる。
「削りきられたら消えるのか?」
「その前に、摩擦の熱で火がつきます」
「火の精霊王が熱で消えるのか」
「十分に削られれば、火でも月でも同じです」
「笑えないな」
「笑うところではありません」
ネアの返事は、いつもの調子だった。
シアは少しだけ安心した。
だが、身体を守っている膜は刻々と薄くなっている。
安心したからといって、助かるわけではなかった。
熱の中で
熱は二人の身体の前面へ集中していた。
シアは赤い翼を少し傾けた。
削られ続けていた場所をずらそうとしたのだ。
だが、空気へ触れる面が変わると、今度は身体が横へ押し出される。
ネアが黒い線で動きを整える。
わずかに姿勢が戻ったが、その分だけネア自身の防御膜が薄くなった。
欠けた身体を維持するためにも原光が必要だった。
失った腕や脚を、その場で作り直せる余力などない。
「私のことはいい。自分の方を守ってくれ!」
「あなたが回転すれば、こちらの流れも乱れます」
「そういう話じゃなくて!」
「私も同じことを言おうとしていました。互いに、自分の翼を保ってください」
シアは唇をかんだ。
相手を守ろうとして力を使いすぎれば、その相手まで危険にさらす。
かといって、自分のことだけを考えれば、二人の動きはばらばらになる。
さっきまでの戦いとは違う難しさだった。
ネアは翼の角度を変え、空気に押される向きを少しだけ調整する。
シアもそれに合わせて火を絞った。
短い間だけ、二人の姿勢がそろう。
だが、その均衡はすぐに崩れた。
大気は濃くなり、空気の押す力は強くなる一方だった。
シアの翼から赤い光が剥がれ、ネアの黒い翼にも細かな乱れが走る。
自分たちで選んだことを実行できても、世界の側がそれに合わせてくれるわけではない。
守るか止めるか
シアは翼へもう一度力を集めた。
落下を弱めるために、残った原光をすべて火へ回そうとする。
その瞬間、右側の翼を覆う防御膜が大きく揺れた。
ネアが黒い線を伸ばして流れを整える。
だが、ネア自身の翼も削られていた。
「シア、それ以上の噴射はやめてください」
「強く出さなきゃ止まらない!」
「防御へ回す力がなくなります」
「守ってるだけじゃ、地面にぶつかるだろ!」
「だから、どちらかだけでは駄目だと言っているのです」
シアは言い返しかけて、翼の外縁を見た。
防御膜の薄くなった部分から、赤い光がちぎれている。
炎を強めた分、身体を維持するための流れが不足していた。
ネアも黒い線を二人へ広げすぎれば、自分の防御が保てなくなる。
互いを助けようとして、どちらかが消えてしまっては意味がない。
「じゃあ、どうする?」
「短く噴射してください。私が流れを整えます。危なくなったら、すぐ止める」
「それじゃ、あんまり減速できない」
「ですが、続けられます」
「……分かった。ネアが止めろって言ったら止める」
「本当に聞くのですね?」
「今は聞く!」
シアが短く火を放ち、ネアの黒い線がその向きを整える。
防御膜が薄くなる前に、シアが出力を引く。
ネアも線を減らし、それぞれの翼へ力を戻す。
繰り返すたびに、少しだけ速度が変わる。
しかし、落下は終わらない。
赤と黒の翼は、同じ方向へ力を使いながら削られ続けた。
届かない力
大地と海の境が、はっきり見えるようになった。
さっきまで星全体の形として見えていたものが、いまは二人の進む先を埋めようとしている。
シアは炎を絞り、ネアは黒い線をつなぎ直す。
どちらも一度は途切れ、また始まる。
その間にも空気の抵抗は増し、翼の表面から光が剥がれ落ちていった。
力を使えば削られる。
使わなくても、落下によって削られる。
シアは、残った右腕を強く握った。
「ネア、あとどれくらいもつ?」
「正確には分かりません。今のままでは、地上へ達する前に防御が崩れるかもしれません」
「じゃあ、もっと減速しないとな」
「そのための余力がありません」
「さっきから、そればっかりだな」
「事実ですから」
シアは返事をせず、赤い翼へ流す力を少しだけ変えた。
ネアも、黒い線を細くして維持する。
二人が選んだのは、一度にすべてを使い切ることではなかった。
少しでも長く保ち、できる限り落下を弱める。
それしかできない。
シアがネアを見る。
ネアもシアを見る。
さっきまでなら、視線が合えば相手を消すために動いた。
今は、次にどちらが力を出すかを確かめる。
「もう一度強く出す。短くだ」
「私が向きをまとめます」
「頼んだ」
シアの四翼が開き、ネアの黒い線がその周囲へ集まった。
赤い光が強くなる。
そのとき、ネアは別の流れに気づいた。
下から来るもの
星の方角から、淡い緑色の原光が近づいていた。
光の精霊王の白い力ではない。
空気の抵抗に乱されながらも、一本の流れが下から上へ伸びてくる。
その流れは大きく曲がらず、二人の落下する方向へ向かっていた。
「シア。何か来ます」
「下から?」
「こちらへ真っすぐ向かっています」
シアは噴射を弱め、緑の光を見る。
風の精霊王の力に似ている。
だが、ただ風を吹かせているのではない。
前へ進むために周囲の流れをそろえ、一直線に上昇している。
「風の精霊王?」
「いえ。この形は――」
近づくにつれ、緑の流れの中心に細い剣が見えた。
風の精霊剣、翔嵐。
フィオラが自分の意思で剣となり、誰かの手へ身を預けている。
ならば、剣を握っている者がいるはずだった。
ネアは目を凝らす。
緑の光と空気の揺らぎの向こうに、人影がある。
濃灰色の旅装。黒に近い髪。
片手には、淡く緑色に輝く翔嵐。
その姿を、二人とも知っていた。
知っているだけではない。
何度も共に旅をし、二人が自ら剣となることを選んだ相手だ。
だが、ここへ来られるはずがなかった。
最後に見たとき、その人間の精霊回路は壊れていた。
生きて目を覚ますかどうかさえ分からなかった。
なのに今、その人間が自分の手で剣を握り、星の下から上がってくる。
シアは炎を放つことも忘れた。
ネアの黒い線も、一瞬だけ止まる。
近づいてくる人影は、真っすぐ二人を見上げていた。
「セト……?」
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
”カクヨム”、”小説家になろう”ではフォロー、応援、レビュー、コメントなどができます。
気に入っていただけた方は、”カクヨム”、”小説家になろう”でも応援していただけると嬉しいです。
カクヨム版はこちら:
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