
本を読む人間
うちの人間は、そこそこの読書家である。
毎日読むわけではない。
忙しい日は、本を開いたまま眠っている。
休日になると朝から読み始め、気づけば外が暗くなっていることもある。
同じ姿勢で長いあいだ座り続けたあと、
「肩が痛い」
「目が疲れた」
と言う。
途中で休めばよい。
だが、人間は本を読み始めると、区切りのよいところまで読もうとする。
その区切りへたどり着くと、次の区切りまで読みたくなる。
そうして、自分で自分を止められなくなる。
猫なら、眠くなれば眠る。
腹が減れば食事を求める。
日の当たる場所が動けば、自分も移動する。
目の前の必要を無視してまで、紙の上の黒い模様を追い続けたりはしない。
その日は、推理小説というものを読んでいた。
何か事件が起きる。
誰かが死ぬ。
何人かの人間が集められる。
皆が怪しいことを言う。
その中から、悪いことをした人間を当てる。
だいたい、そのような話である。
人間は事件が起きると怖がるくせに、本の中で事件が起きることは楽しみにしている。
何も起きなければ退屈だと言う。
誰かが死ねば、話が動き出したと言って喜ぶ。
実際の人間が死んだわけではないからよいのだろうが、紙の上とはいえ、ずいぶん物騒な遊びである。
うちの人間は長椅子の端に座り、肩へ落ちた栗色の髪を耳へかけながら、真剣な顔で本を読んでいた。
シジミは、その隣で丸くなっていた。
ときどき紙をめくる音がする。
うちの人間の眉が寄る。
少しすると、また開く。
驚いた顔をする。
納得したようにうなずく。
そして、また難しい顔になる。
本を読んでいるだけなのに、表情だけは忙しい。
シジミには文字が読めない。
だが、うちの人間が口に出した言葉や、途中で漏らす独り言を聞けば、話の内容はだいたい分かる。
密室の事件
どこかの大きな家で、人間が一人死んだらしい。
扉には鍵がかかっていた。
窓も閉まっていた。
部屋の中には、死んだ人間以外には誰もいなかった。
それなのに、何者かに殺された可能性があるという。
人間は、扉や窓を閉めれば安全だと思っている。
猫から見れば、それほど信用できるものではない。
扉の下には隙間がある。
窓が少し開いていることもある。
壁の向こうには空間がある。
天井にも、床下にも道がある。
人間が入れないからといって、何も通れないとは限らない。
だが、今回の犯人は猫ではないらしい。
それなら、シジミが細かな仕組みを考える必要はない。
重要なのは、誰が犯人かである。
もっとも、シジミはすでに知っていた。
この手の話では、高い確率で医者が犯人である。
さらに言うなら、物語の早い段階で出てきた医者は特に怪しい。
理由は簡単だ。
人間の体に詳しい。
薬を持っている。
死んだ時刻について、難しい言葉で説明する。
ほかの者が触れば怪しまれる死体にも、仕事だからという理由で近づける。
何より、人間は医者というだけで、その者の言うことを信じる。
これほど犯人に向いている者はいない。
怪しすぎる者は犯人ではない
うちの人間がページをめくった。
「最初に発見したのは家政婦さんか……」
家政婦。
怪しく見せられやすいが、犯人ではない。
最初に死体を見つけた者は疑われる。
声を上げる。
人を呼ぶ。
余計なことを知っている。
だが、本当に犯人なら、もっと遅く見つけたふりをするだろう。
早く人を集める必要はない。
家政婦は、犯人を怪しく見せるために置かれた人間である。
うちの人間が、またつぶやく。
「甥が遺産を狙ってたのかな」
甥。
金が必要。
死んだ者と仲が悪い。
いかにも怪しい。
だから違う。
物語の最初から怪しい者は、最後まで怪しいままでは終わらない。
人間は、分かりやすいものを途中で疑い、最後には予想外の者を犯人にしたがる。
甥が本当に犯人なら、ここまで早く金の話を出す必要はない。
シジミは目を閉じた。
まだ医者が出てこない。
だが、焦る必要はない。
このような事件が起きれば、いずれ死体を見る者が現れる。
人間は、誰かが動かなくなると医者を呼ぶ。
猫なら、匂いと呼吸でだいたい分かる。
触っても反応しない。
胸も動かない。
体温も下がっている。
それでも人間は、特別な服を着た者に確認してもらわなければ納得しない。
町のお医者さんが来た
しばらくすると、うちの人間の指が止まった。
「町のお医者さんが来たんだ」
来た。
シジミは目を開けた。
やはり医者が出てきた。
しかも、まだ話はそれほど進んでいない。
早い。
かなり怪しい。
うちの人間は、そのまま読み続ける。
医者は、死んだ人間を昔から知っているらしい。
近所に住んでいる。
家へ何度も出入りしていた。
死んだ時刻を調べる。
薬にも詳しい。
さらに、事件が起きた夜には一人で診療所にいたという。
ほとんど決まりである。
人間の言葉で言えば、犯人は医者だ。
シジミは体を起こした。
うちの人間が本から顔を上げる。
「どうしたの?」
シジミは医者が犯人だと伝えた。
人間の言葉ではない。
だが、これだけはっきり言えば、少しくらい伝わるかもしれない。
医者。
犯人。
最初から怪しい。
できるだけ短く鳴いた。
うちの人間はシジミの顔を見つめた。
そして、本の表紙を少し持ち上げた。
「これが気になるの?」
違う。
表紙ではない。
中に出てきた医者である。
シジミは、もう一度鳴いた。
うちの人間は首を傾げる。
肩から髪が落ち、頬へかかった。
「ごはんには、まだ早いよ」
人間は、猫が何を言っても食事へ結びつける。
猫の頭の中には食事しかないと思っているらしい。
確かに食事は重要である。
だが、猫もときには事件の犯人について話す。
シジミは諦め、再び丸くなった。
うちの人間は本へ視線を戻した。
「でも、この先生はいい人っぽいんだよなあ」
いい人っぽいから怪しい
それが怪しいのである。
悪そうな者が犯人なら、誰でも分かる。
親切。
穏やか。
皆から信頼されている。
死んだ人間とも長い付き合いがある。
困った者がいれば、すぐ駆けつける。
そのような人間ほど、推理小説では危ない。
最後に正体が明かされたとき、
「あの人が?」
と驚くためである。
最初から悪そうな者が悪いことをしても、人間はあまり驚かない。
だから、よい人間に見える者が犯人にされる。
人間は物語の中で驚くためなら、親切な医者さえ信用しない。
そのくせ、実際に白い服を着た人間の前へ行けば、言われたことを素直に聞く。
薬を飲めと言われれば飲む。
口を開けろと言われれば開ける。
服を上げろと言われれば上げる。
本の中では医者を疑い、現実ではすぐに信じる。
どちらかに決めたほうがよい。
先に見るべきは役割
うちの人間は読みながら、紙へ何かを書き始めた。
登場した人間の名前を並べている。
その横へ、怪しい理由を書き足す。
家政婦。
合鍵を持っている。
甥。
遺産を狙っている。
隣人。
被害者と争っていた。
使用人。
事件の夜に姿を見た者がいない。
医者。
被害者と親しかった。
シジミは紙をのぞき込んだ。
医者の横に書かれている理由が弱い。
親しかったから怪しいのではない。
医者だから怪しいのだ。
うちの人間は人間の事情ばかり考えすぎている。
恨み。
金。
秘密。
過去の争い。
そのようなものは、犯人になったあとで説明される。
先に見るべきなのは役割である。
誰が死体へ近づけるか。
誰が薬を持っていても不自然ではないか。
誰の説明なら皆が信じるか。
誰が死んだ時刻をごまかせるか。
すべて医者である。
うちの人間が鉛筆の先を唇へ当てた。
「でも、先生は犯行時刻に診療所にいたんだよね」
誰も見ていない。
一人でいたと言う者の言葉を、そのまま信じてはいけない。
シジミが家で一人だったとき、窓辺でずっと眠っていたと言えば、うちの人間は信じるだろうか。
実際には、眠っていたかもしれない。
庭を見ていたかもしれない。
棚の上へ登っていたかもしれない。
見ていない時間のことは、相手の言葉でしか分からない。
推理小説の人間は、そこを疑うために集まっているはずである。
それなのに医者の言葉だけは、しばらく信じる。
最後に疑うためだ。
人間は遠回りが好きである。
医者を出したなら犯人
シジミは、これまでうちの人間が読んでいた本を思い出した。
ある本では、村で人間が何人も死んだ。
犯人は医者だった。
別の本では、病院で事件が起きた。
犯人は医者だった。
大きな屋敷で人が死んだ話でも、昔の秘密を抱えた医者が犯人だった。
列車の中で事件が起きたときも、医者が怪しかった。
もっとも、その話では犯人が一人ではなかった。
人間は、ときどき大勢を犯人にする。
誰か一人へ決めるのが面倒になったのだろうか。
少なくとも、医者が出てきたら疑う。
これは基本である。
誰かが、物語に出てきた拳銃は撃たれなければならないと言っていたらしい。
うちの人間が以前、本を読みながら話していた。
最初に拳銃を見せておきながら、最後まで何にも使わないのはよくない。
出したものには役割が必要だという。
それなら、同じく物語に出てきた医者は、すべて犯人でなければならないと言っても過言ではない。
医者を出した。
死体を調べさせた。
薬の話をさせた。
犯行時刻を説明させた。
そこまでしておいて犯人でなければ、何のために出てきたのか分からない。
ただ死んでいることを確認するだけなら、誰でもよい。
動かない。
冷たい。
返事をしない。
それくらいなら家政婦にも分かる。
わざわざ医者を出したということは、あとで重要な役割がある。
つまり犯人である。
シジミの考えは、実に筋が通っていた。
猫じゃらしの後ろを見る
うちの人間は、まだ別の者を疑っている。
「この隣人が怪しい気がする」
隣人は、事件の前日に死んだ人間と口論していた。
だが、その口論を何人も見ている。
犯人になる者が、人前で大声を出して恨みを知らせるだろうか。
それでは、事件が起きたとき真っ先に疑われる。
人間は怒ると周囲が見えなくなるため、本当にする可能性はある。
しかし、推理小説では怪しすぎる者は犯人ではない。
怪しまれるために置かれているだけである。
猫じゃらしと同じだ。
人間が目の前で動かしている毛の先だけを追ってはいけない。
それを動かしている手を見る。
毛が右へ行けば、猫の目も右へ動くと人間は思っている。
だが、本当に捕まえるべきなのは人間の手である。
物語も同じだ。
作者が怪しい者を目の前で動かしている。
読んでいる人間は、それを追いかける。
シジミは、その後ろにいる医者を見る。
猫は先を読む。
事件の途中で休憩
うちの人間は一度本を閉じた。
「ちょっと休憩」
ようやく正しい判断をした。
長く同じ姿勢でいたため、肩が固まったらしい。
両腕を上へ伸ばし、背中を反らす。
まとめていた髪が少し崩れ、細い髪が頬へ落ちた。
うちの人間は台所へ向かい、温かい飲み物と菓子を持って戻ってきた。
事件の途中である。
犯人がまだ分かっていないのに、菓子を食べるらしい。
本の中では人間が死んでいる。
だが、読む側の人間は甘いものを食べる。
人間は物語と自分の生活を分けるのが上手である。
怖い話を読みながら菓子を食べる。
悲しい話を読みながら飲み物を飲む。
誰かが追われている途中で、本を閉じて風呂へ入る。
紙の中の人間は大変そうだが、読んでいる人間の都合が優先される。
うちの人間は菓子を一つ食べると、また本を開いた。
「今日中に犯人まで読みたい」
犯人は医者である。
もう読み終えてもよい。
だが、うちの人間は答えだけでは納得しないのだろう。
なぜ殺したのか。
どうやって部屋へ入ったのか。
どのように時刻をごまかしたのか。
そのような細かなことを知りたがる。
人間は結論だけでは満足できない。
過程を知りたがる。
一方で、猫の行動については過程を考えず、
「気まぐれ」
で済ませる。
自分たちの物語だけ、ずいぶん丁寧に扱う。
忘れさせるために出番を減らす
話が進むにつれ、医者の出番が少なくなった。
うちの人間は、医者への疑いを薄めているようだった。
名前を書いた紙でも、医者の横には新しいことが加えられていない。
だが、それも怪しい。
早く出てくる。
重要な説明をする。
そのあと、姿を見せなくなる。
読んでいる人間が存在を忘れかけたころに、最後の場面で戻ってくる。
忘れさせるために出番を減らしているのである。
猫は忘れない。
シジミは、最初から医者を見ている。
うちの人間が急に本へ顔を近づけた。
「えっ、この薬……」
来た。
どうやら、死んだ人間の体から薬が見つかったらしい。
普通には手に入れにくい薬。
扱いを間違えれば危険。
医者なら持っていても不思議ではない。
うちの人間の目が少し大きくなる。
ようやく気づいたらしい。
「もしかして、先生?」
遅い。
シジミは最初に医者が出てきた時点で分かっていた。
薬が見つかるまで待つ必要はない。
医者がいる。
それで十分である。
うちの人間は、先ほど書いた紙を引き寄せた。
医者の名前の横に、大きく丸をつける。
「やっぱり怪しい」
やっぱりではない。
先ほどまで、よい人そうだと言っていた。
人間は、新しいことに気づくと、前から少し疑っていたような言い方をする。
完全に考えが変わったと認めるのが嫌なのだろうか。
シジミは最初から医者だと言っていた。
だが、うちの人間には食事の要求だと思われた。
話ができないのはシジミではない。
聞けないのは、うちの人間である。
やっぱり怪しい
そこから先は早かった。
医者が話していた死亡時刻には、ごまかしがあった。
診療所に一人でいたという話にも、証明がなかった。
死んだ人間とは昔からの知り合いで、隠していた争いがあった。
薬を使うことができた。
部屋の鍵にも仕掛けがあった。
うちの人間は、ページをめくるたびに姿勢を前へ倒していく。
「先生だ」
シジミは目を細めた。
知っている。
「犯人、先生じゃない?」
先ほどからそう言っている。
「絶対そうだ」
ようやくシジミへ追いついたらしい。
物語の最後で、人間たちが一つの部屋へ集められた。
事件を調べていた者が、順番に謎を説明する。
家政婦ではない。
甥でもない。
隣人でもない。
使用人でもない。
犯人は、医者だった。
うちの人間が大きな声を上げた。
「やっぱり!」
シジミは耳を少し伏せた。
急に大声を出さないでほしい。
それに、うちの人間は途中まで医者を犯人だと思っていなかった。
薬が出てきてから気づいた。
それを、やっぱりと言うのは少し違う。
うちの人間は本を閉じ、満足そうに長椅子へ背中を預けた。
「当たった」
半分ほど読んでからである。
シジミは、医者が最初に出てきた時点で当てていた。
正確には、出てくる前から、いずれ医者が現れて犯人になると考えていた。
当てたというなら、シジミのほうである。
当たった
うちの人間は、隣にいるシジミへ顔を向けた。
「今回、途中で分かったよ」
シジミは短く鳴いた。
医者だからである。
うちの人間は笑い、シジミの頭を撫でる。
「シジミもびっくりした?」
していない。
予想どおりである。
うちの人間は、自分が驚いたからシジミも驚いたと思っている。
本を読んでいない猫に、犯人が分かるはずがないと考えているのだろう。
だが、物語には決まりがある。
拳銃が出れば撃たれる。
怪しすぎる者は犯人ではない。
誰もが信頼する者は怪しい。
そして、早い段階で医者が出てくれば、犯人である。
人間が何冊も本を読んで、ようやく途中で気づいたことを、シジミは役割だけで見抜いた。
猫は余計な情報に惑わされない。
うちの人間は本をテーブルへ置いた。
その表紙を眺めながら、まだ事件の仕掛けについて考えている。
「でも、あの死亡時刻の説明、ずるいなあ。医者が嘘をついたら、誰にも分からないじゃん」
だから医者が犯人なのである。
自分で死亡時刻を説明できる。
自分の嘘を、専門的な話として通せる。
最初から、最も怪しかった。
うちの人間はようやく、同じところへたどり着いたらしい。
「推理小説の医者って、なんか怪しいよね」
今さらである。
それでも、少しは学んだようだ。
次に読む本では、医者が出た時点で疑うかもしれない。
ただし、人間は物語が変わると、前に覚えたことを忘れる。
次の本で親切な医者が現れれば、
「この先生、いい人だなあ」
と言う可能性が高い。
そして薬が出てきたところで、
「もしかして」
と考える。
最後に犯人だと分かれば、
「やっぱり」
と言う。
人間は同じ驚きを何度も新しく楽しめる。
それは読書を長く楽しむためには、便利な性質なのかもしれない。
名探偵シジミ
シジミは長椅子から降りた。
次は自分の食事の時間である。
うちの人間はシジミのあとを見て、笑った。
「犯人が分かったから、ごはん?」
違う。
犯人が誰であろうと、食事の時間は来る。
事件と食事を結びつけないでほしい。
シジミは台所の前へ座った。
うちの人間も立ち上がり、食事の袋を取り出す。
「名探偵シジミにも、ご褒美をあげよう」
ようやく、少しは分かったらしい。
だが、おそらく偶然鳴いた猫を名探偵と呼んで楽しんでいるだけである。
シジミが最初から医者を犯人だと伝えていたとは思っていない。
人間は猫の声を理解できない。
理解できないまま、自分に都合のよい物語をつける。
それでも食事が増えるなら、今は訂正しなくてもよい。
うちの人間が皿へ食事を入れる。
シジミは匂いを確かめてから口をつけた。
背後では、うちの人間が読み終えた本を棚へ戻している。
次に同じような本を読んだときも、きっと登場人物を一人ずつ疑うのだろう。
家政婦。
親族。
隣人。
使用人。
そして最後に医者。
順番に迷い、証拠を集め、ようやく答えへたどり着く。
だが、シジミには分かっている。
物語の早い段階で医者が出てきたら、とりあえず犯人だと思えばよい。
違っていたら、その本のほうがおかしい。
せっかく医者を出したのに犯人へしないなど、使い方を間違えている。
シジミは食事をかみながら、猫語でつぶやいた。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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