本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第5話 この辺りで一番かわいい猫

本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第5話 この辺りで一番かわいい猫 創作実験
本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第5話 この辺りで一番かわいい猫
本当に人間ってあさはかな生き物だよね
創作実験TOP日常系/猫視点コメディ/人間観察―― 猫には猫の常識がある。人間はそれを、何ひとつ分かっていない。 ――作品紹介黒猫のシジミは、人間に飼われている。少なくとも、うちの人間はそう思っている。だが、シジミからすれば話は逆だ。毎日決…

この辺りの強い猫

その猫は、ほかの猫とは明らかに違っていた。

まず、毛の色が違う。

全身を覆う毛は、黒でも白でも茶色でもない。

日の当たり方によって灰色にも銀色にも見える、少し変わった色をしている。

毛は短く、体へぴったりと沿っていた。

体格も、ほかの猫とはまるで違う。

胴は太い。

足は短い。

胸板は厚く、首もずいぶん太い。

顔は大きく、鼻は低い。

頬の肉は左右へ張り出し、口元はいつも少し不満そうに見える。

何もされていないのに怒っているような顔つきだった。

だが、誰もその顔を笑う猫はいない。

あの顔を正面から見て、笑える猫など、この辺りには存在しない。

その猫が道を歩けば、ほかの猫たちは静かに進路を譲った。

道の真ん中で毛づくろいをしていた猫も、その姿に気づけばすぐに端へ寄る。

塀の上で昼寝をしていた猫も、片目を開けただけで身を起こし、別の場所へ移る。

若い猫は姿を見ただけで尻尾を下げる。

年を取った猫も、余計な争いを避けるように顔をそむける。

目を合わせる猫すらいない。

猫の世界では、目を合わせることにも意味がある。

長く見つめれば、相手へ挑む意思があると思われることがある。

気の弱い猫なら、強い猫の目を見ない。

相手の進路を邪魔しない。

近づきすぎない。

逆らうつもりがないことを、体全体で示す。

あの猫が現れると、周囲の猫たちは一斉にそれを始める。

誰かが命令したわけではない。

だが、全員が同じように動く。

それだけ、あの猫の強さが知られているということだ。

その猫もまた、自分を避けていく猫たちを見て、自分が優れた存在なのだと理解していた。

道が空けば、当然のように真ん中を歩く。

ほかの猫が塀を下りれば、その空いた場所へ上がる。

餌の置かれている場所へ行けば、先にいた猫たちが離れていく。

自分が近づくだけで、周囲の者が道を譲る。

逆らう猫はいない。

追い払う必要すらない。

その猫は堂々と胸を張り、ゆっくりと歩いた。

急ぐ必要などない。

自分が歩けば、道のほうが空くからである。

争わない判断

シジミは、少し離れた塀の上からその姿を眺めていた。

強い猫だ。

少なくとも、この辺りで正面から争おうとする猫はいないだろう。

シジミも、あの猫と無駄に争うつもりはない。

勝てるかどうかという話ではない。

争う理由がないのである。

食べ物を奪われたわけでもない。

シジミの家へ勝手に入ってきたわけでもない。

お気に入りの日なたを占領されたわけでもない。

ただ道を歩いているだけなら、放っておけばよい。

勝てる相手にしか近づかないのは臆病である。

だが、争う必要のない相手と戦わないのは判断力である。

人間は、この違いをあまり理解していない。

危ないことへ向かっていく者を勇敢と呼ぶ。

逃げる者を臆病と呼ぶ。

だが、本当に賢い者は、最初から危険な場所へ近づかない。

猫は、そのくらい知っている。

あの猫は道の真ん中で足を止めた。

少し先に、一匹の若い猫がいた。

まだ周囲をよく見ていないらしく、道の端に落ちた葉を前足で触っている。

葉が風に動く。

若い猫が追う。

もう一度動く。

また追う。

目の前の葉に夢中で、近づいてくる大きな猫へ気づいていない。

大きな猫は鳴かなかった。

うなりもしない。

ただ、その場で若い猫を見た。

それだけで十分だった。

若い猫は何かを感じたらしい。

葉から顔を上げ、振り返る。

そして、すぐに体を固くした。

耳が少し伏せられる。

尻尾が下がる。

前足が一歩後ろへ動く。

次の瞬間、若い猫は道の端へ飛び退いた。

大きな猫は、何事もなかったように歩き始める。

道を譲られたことすら、当然だと思っているようだった。

若い猫は、大きな猫が通り過ぎるまで動かなかった。

ずいぶん差がある。

人間なら、こういう関係をどう説明するだろう。

この辺りのボス。

猫たちの王。

喧嘩最強。

おそらく、そのような分かりやすい言葉をつける。

人間は、複雑な関係を一つの言葉でまとめるのが好きである。

実際には、すべての猫があの猫へ従っているわけではない。

ただ争いたくないだけの猫もいる。

以前に負けたことを覚えている猫もいる。

体格を見て、勝てないと判断した猫もいる。

関わると面倒だから避けている猫もいる。

理由はそれぞれ違う。

だが、人間には、全員があの猫をボスとして認めているように見えるのだろう。

それでも、この辺りで最も堂々としている猫であることは確かだった。

あの猫自身も、それを疑っていない。

歩くたびに道が空く。

見れば相手が目をそらす。

近づけば場所を譲られる。

その積み重ねが、自分は特別な存在であるという自信につながっている。

もはや、ただ歩いているだけではない。

自分が歩く姿を周囲へ見せつけている。

前足をゆっくりと出す。

地面へ置く。

体を前へ運ぶ。

少し間を置いて、次の足を出す。

急いで歩けば、強さが伝わらないと思っているのかもしれない。

顔は正面を向いたまま。

目だけで周囲の猫を確認する。

誰も近づかない。

誰も声をかけない。

誰も道をふさがない。

その様子を見て、さらに胸を張る。

実に見事な歩き方だった。

シジミは少し感心していた。

強さを見せるために、実際に争う必要はない。

周囲が勝手に避けるなら、それが一番よい。

喧嘩をすれば、勝っても傷つく。

爪が割れるかもしれない。

耳を噛まれるかもしれない。

傷口から病気になることもある。

戦わずに道を空けさせられるなら、それに越したことはない。

あの猫は、見た目だけでそれを成し遂げている。

生まれ持った体格。

険しい顔。

迷いのない歩き方。

それらを正しく使っている。

やはり、ただ大きいだけの猫ではない。

子供には普通が通じない

シジミがそう考えていたときだった。

道の反対側から、足音が聞こえた。

猫ではない。

人間である。

しかも、軽くて速い。

一人の子供が走ってきた。

その後ろから、大人が慌てて追っている。

「走ったら危ないよ!」

子供は聞いていない。

前だけを見て走っている。

そして、その進行方向には、あの猫がいた。

シジミは身を起こした。

まずい。

子供は猫同士の決まりを知らない。

相手の体格も見ない。

顔つきも見ない。

ほかの猫が道を譲っていることにも気づいていない。

猫たちが誰一匹として近づかない相手へ、まっすぐ走っている。

大きな猫も、子供の存在に気づいた。

足を止める。

顔を上げる。

目を細める。

人間の子供が近づいてきても、逃げる様子はない。

逃げれば、自分が恐れたように見えるとでも思っているのだろうか。

それとも、人間の子供など、自分を避けると思っているのかもしれない。

これまで、あの猫の前からは、誰もが退いてきた。

猫も。

犬も。

たいていの人間も。

あの顔を見れば、無理に触ろうとはしない。

近づくとしても、少し離れた場所から様子を見る。

それが普通である。

だが、子供には普通が通じない。

子供は大きな猫の前まで来ると、急に足を止めた。

そして、その場へしゃがみ込んだ。

猫と子供の顔が、ほとんど同じ高さになる。

大きな猫は動かない。

子供も動かない。

しばらく、互いに見つめ合っていた。

周囲の猫たちも、息を潜めるようにその様子を見ていた。

若い猫は塀の陰へ隠れている。

年を取った猫は、いつでも逃げられるように体の向きを変えた。

シジミも、子供が急に手を伸ばしたときのことを考えた。

止めるべきだろうか。

だが、シジミが飛び出したところで、人間の子供を止められるとは限らない。

むしろ、猫が二匹いると喜ばせるだけかもしれない。

ぶちゃ猫、かわいい

子供が大きく息を吸った。

そして、満面の笑みで叫んだ。

「ぶちゃ猫、かわいいー!」

周囲の空気が止まった。

大きな猫も動かなかった。

おそらく、何を言われたのか理解できていない。

いや、人間の言葉そのものは分からなくても、声の調子から好意を向けられていることくらいは分かったはずだ。

問題は、その好意があまりにも強すぎたことである。

子供は両手を伸ばした。

大きな猫は、まだ動かなかった。

これまで自分へ近づいてきた者は、途中で立ち止まった。

視線をそらした。

道を譲った。

だから、この子供も、どこかで止まると思っていたのかもしれない。

だが、子供は止まらなかった。

両手が、大きな猫の顔へ届く。

険しい顔を左右から挟む。

そして、そのまま頬を押した。

大きな猫の顔が、さらに横へ広がった。

「ぶちゃ猫ー!」

子供は楽しそうに笑う。

「お顔、まるーい!」

大きな猫は固まっていた。

耳だけが、わずかに後ろへ動いている。

何が起きているのか理解できないらしい。

この辺りの猫は、誰も自分へ触れようとしない。

近づくことすらない。

その自分の顔を、人間の子供が両手で挟んでいる。

しかも、逃げる様子はまるでない。

恐れてもいない。

警戒もしていない。

ただ、うれしそうに頬を揉んでいる。

「やわらかーい!」

子供が大きな猫の頬を右へ押す。

次に左へ押す。

猫の顔が、人間の手に合わせて動く。

あれほど動きに迷いのなかった猫が、されるがままになっている。

道の真ん中を堂々と歩いていた前足も、いまは地面へ固く置かれたまま動かない。

尻尾だけが、ゆっくりと左右へ揺れている。

怒っているのか。

困っているのか。

逃げるべきか考えているのか。

おそらく、全部である。

助けを求める目

大きな猫がシジミのほうを見た。

初めて目が合った。

普段なら、あの猫と目を合わせれば挑戦と受け取られるかもしれない。

だが、今の視線に威圧する気配はなかった。

助けを求めている。

間違いなく、そういう目だった。

シジミは少し迷った。

助けるべきだろうか。

しかし、子供は猫を傷つけようとしているわけではない。

悪意もない。

むしろ、あふれるほどの好意を向けている。

ただ、その好意の示し方が猫には少し重いだけである。

大きな猫なら、自分で逃げようと思えば逃げられるはずだ。

子供の手を振り払い、横へ飛べばよい。

それをしないのは、逃げることが自分の誇りに反するのかもしれない。

この辺りで最も強い猫が、子供から逃げる。

そんな姿を、ほかの猫へ見られたくないのだろう。

だが、その迷いこそが状況を悪化させた。

子供は、猫が逃げないことを喜んだ。

「この子、抱っこできる!」

両手を頬から脇へ移す。

そして、大きな猫の体を持ち上げようとした。

猫の前足が地面から離れる。

後ろ足も続く。

大きな体が、少しずつ宙へ浮いた。

「重いー!」

重いなら下ろせばよい。

だが、子供は諦めなかった。

力を入れ直し、大きな猫を胸へ抱え込む。

猫の太い胴が、子供の腕の間に収まった。

前足が空中へ突き出される。

後ろ足も地面へ届かない。

あの猫が、完全に持ち上げられていた。

周囲の猫たちは、誰も動かなかった。

道を譲っていた猫も。

目を合わせなかった猫も。

さきほど逃げた若い猫も。

全員が、塀や物陰から様子を見ている。

助けようとする猫はいない。

恐れているからではない。

おそらく、どう助ければよいか分からないのだ。

相手が猫なら、うなり声を上げる。

間へ入る。

気をそらす。

だが、相手は人間の子供である。

しかも、笑いながら抱きしめている。

攻撃されているようには見えない。

それでも、大きな猫の顔は明らかに困っていた。

子供が猫の顔へ自分の頬を寄せた。

「ぶちゃ猫、かわいいー!」

猫の顔がさらに押しつぶされる。

「お顔ぺちゃんこー!」

もともと低かった鼻が、子供の頬へ埋まる。

険しかった目が、少し細くなる。

頬の肉が左右へ広がる。

この辺りの猫たちが恐れていた顔は、子供の腕の中で完全に形を変えていた。

大きな猫は、再び周囲を見回した。

助けを求めている。

だが、誰も動かない。

目が合いそうになると、ほかの猫たちは一斉に顔をそらす。

普段なら、目を合わせないことは服従の印である。

だが、今は違う。

見てはいけないものを見なかったことにしようとしている。

明日になれば、誰も今日のことを口にしないだろう。

あの猫が道を歩けば、また静かに道を譲る。

誰も子供に抱かれていたことを言わない。

頬を揉まれていたことも。

お顔ぺちゃんこと呼ばれていたことも。

それが猫同士の礼儀である。

少なくとも、シジミはそう思うことにした。

見なかったことにする

やがて、後ろから追いついた大人が子供の肩へ手を置いた。

「勝手に猫ちゃんを抱っこしたら駄目でしょ」

子供は不満そうな顔をする。

「だって、かわいいもん」

「嫌がってるかもしれないよ」

ようやく分かる人間が来たらしい。

子供は大きな猫を地面へ下ろした。

四本の足が道へつく。

猫はすぐには動かなかった。

体勢を整える。

乱れた毛を一度震わせる。

それから、何事もなかったように顔を上げた。

子供がもう一度手を伸ばす。

「ぶちゃ猫、またね!」

大きな猫は飛び退いた。

さきほどまでの堂々とした歩き方はどこにもない。

道の端へ走り、塀の上へ跳び、振り返ることなく向こう側へ消えた。

子供は手を振っている。

「かわいかったー!」

大人も笑った。

「すごく貫禄のある猫だったね」

貫禄。

人間には、まだそう見えているらしい。

先ほどまで頬を揉まれ、抱き上げられ、助けを求めて周囲を見ていた猫である。

人間は、自分の見たいものだけを見る。

子供には、顔のつぶれたかわいい猫。

大人には、貫禄のある大きな猫。

周囲の猫たちには、逆らってはいけない強者。

同じ猫を見ているのに、全員が違うものを見ている。

そして誰も、自分の見方が間違っているとは思っていない。

一番かわいい猫

しばらくすると、物陰に隠れていた猫たちが少しずつ出てきた。

若い猫も、さきほどの葉のところへ戻る。

だが、もう葉では遊ばない。

大きな猫が消えた塀の向こうを見ている。

何を考えているのかは分からない。

あの猫も人間には勝てないと思ったのかもしれない。

あるいは、自分も抱かれたらどうしようと心配しているのかもしれない。

シジミは塀の上で座り直した。

あの猫は、明日も道の真ん中を歩くだろうか。

おそらく歩く。

今日のことなどなかったように、胸を張るだろう。

ほかの猫たちも、これまでどおり道を譲るはずだ。

ただし、人間の子供の足音が聞こえたときだけは、少し早く道を変えるかもしれない。

それを臆病とは呼ばない。

学習である。

猫の世界では誰も逆らわない者でも、人間から見れば、ただの顔が少し変わった猫である。

険しい顔も、太い体も、堂々とした歩き方も、人間の子供には通じない。

強さを表していたすべての特徴が、子供の目にはかわいさとして映る。

ほかの猫たちが恐れて目をそらす顔を、子供は両手で挟む。

誰も近づけない猫を、ためらいもなく抱き上げる。

そして、猫たちの頂点に立つ者へ向かって、ぶちゃ猫と呼ぶ。

シジミは子供の背中を見送った。

「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」


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