
あと一個だけ
うちの人間は、よく光る板で猫動画というものを見ている。
長いものではない。
ほんの少しだけ猫が歩く。
跳ぶ。
鳴く。
箱へ入る。
人間の手を避ける。
食事を求める。
それだけの短い映像を、次から次へと見続けている。
一つ一つは短いのに、うちの人間が見ている時間は長い。
「あと一個だけ」
と言ったあとに、十個ほど見る。
「これを見たらお風呂に入る」
と言いながら、さらに十個ほど見る。
肩へ落ちた栗色の髪を耳へかけ、柔らかな部屋着のまま長椅子へ座り、指を画面の上で何度も滑らせている。
猫が映るたびに笑う。
「かわいい」
別の猫が出ても、
「かわいい」
猫が怒っていても、
「かわいい」
失敗しても、
「かわいい」
人間は猫について、それ以外の言葉をあまり知らないらしい。
シジミは、うちの人間の隣で丸くなっていた。
人間がよその猫ばかり見ていることについて、特に腹を立てているわけではない。
シジミはここにいる。
画面の猫は、どこか遠くにいる。
比べる必要はない。
ただ、すぐ隣に本物の猫がいるのに、小さな画面の中にいる猫を長時間眺める理由は分からない。
猫が見たいなら、シジミを見ればよい。
歩くところも見られる。
眠るところも見られる。
食事を求めるところも見られる。
条件が整えば、跳ぶところも見られる。
しかも画面と違って、触ることまでできる。
もっとも、触ってよいかどうかはシジミが決める。
ママ、おなかすいたにゃ
その日のうちの人間も、長椅子に座って猫動画を見ていた。
画面には、白い猫が映っている。
猫の前には、食事の入った皿が置かれていた。
だが、猫は皿を見ず、撮っている人間のほうを見上げている。
一度鳴く。
短く、少し高い声だった。
シジミにも意味は分かる。
早く出せ。
もう待っている。
皿は見えている。
撮っていないで、こちらへ寄こせ。
だいたい、そのようなことを言っている。
画面の下には、大きな文字が表示された。
『ママ、おなかすいたにゃ』
シジミは片方の耳を動かした。
言っていない。
まず、ママとは言っていない。
食事を出す人間へ呼びかけてはいるが、母親だと思っているわけではない。
人間は猫と暮らし始めると、自分を母や父と呼びたがることがある。
猫を産んだ覚えもないのに、
「ママだよ」
「パパだよ」
と言う。
猫の側からすれば、食事を出す人間である。
扉を開ける人間。
寝る場所を少し分ける人間。
ときどき余計に撫でてくる人間。
関係を示すなら、その程度で十分だ。
母猫は別にいる。
匂いも、声も、体温も覚えている。
人間が自分を何と呼ぶかは自由だが、猫までそう呼んでいることにしないでほしい。
そして、語尾の「にゃ」である。
猫は、そんな話し方をしない。
そもそも猫語には、人間が考えているような語尾はない。
声の高さ。
長さ。
口の開き方。
息の混ぜ方。
耳や尻尾の動き。
相手との距離。
それらが合わさって意味になる。
何かを言うたびに、最後へ「にゃ」をつけたりはしない。
うちの人間が画面を見ながら笑う。
「お腹空いたんだねえ」
そこは合っている。
正確には、すでに食事があるのに、撮影を優先する人間へ不満を伝えている。
だが、少なくとも食事を求めてはいる。
問題は字幕である。
猫は明確に要求している。
それを、
『ママ、おなかすいたにゃ』
などという、妙に幼く、甘えた言葉へ変えている。
あの白い猫は、もっとはっきり言っていた。
早くしろ。
撮るな。
皿を寄こせ。
人間は猫の要求が強いと、そのまま受け取るのが怖いのだろうか。
だから、何でもかわいらしい言葉へ直す。
命令もお願いにする。
不満も甘えにする。
怒りも寂しさにする。
猫が自分たちへ好意を向けている形へ、勝手に変えている。
ツンデレではない
次の動画が始まった。
今度は茶色い猫である。
人間が撫でようとすると、猫は顔をそむけた。
もう一度手を近づける。
猫はさらに顔を背ける。
三度目には、前足で人間の手を押し返した。
シジミには、その意味がよく分かる。
今は触るな。
先ほどから断っている。
手を引け。
それだけである。
ところが、画面にはこう表示された。
『今日はそんな気分じゃないにゃ』
またついた。
別になくても意味は通じる。
むしろ、つけないほうが猫の意図に近い。
今日はそんな気分ではない。
触るな。
それでよい。
なぜ、最後に「にゃ」を足すのだろう。
猫が一度鳴いたからだろうか。
それなら、人間が話すたびに、
「ひと」
とつけてもよいのだろうか。
「今日は疲れたひと」
「ごはん食べたいひと」
「もう寝るひと」
うちの人間がそのように話したら、シジミでも少し心配になる。
だが、人間は猫なら「にゃ」をつけるのが自然だと思っている。
何が自然なのか分からない。
画面の茶色い猫は、人間の手をもう一度押し返した。
字幕が変わる。
『しつこいにゃ!』
猫は怒っていた。
そこは正しい。
ただし、やはり語尾は余計である。
うちの人間は笑った。
「怒ってるのもかわいい」
怒っているのである。
かわいいかどうかを判断している場合ではない。
手を引くべきだ。
画面の中の人間は、まだ撫でようとしている。
猫が耳を横へ向ける。
尻尾を強く振る。
目を細める。
人間はそれらを見ても、
「ツンデレだねえ」
と言っている。
ツンデレではない。
拒否である。
猫が嫌だと伝えているのに、好意を隠していることへ変える。
人間は、相手の否定をそのまま受け取れないことがある。
嫌だ。
触るな。
離れろ。
それを、
「本当はうれしいんでしょ」
と考える。
自分に都合のよい意味をつけ、相手の言葉をなかったことにする。
猫動画というものは、人間が猫を理解するためのものではないらしい。
人間が自分の考えた猫を眺めるためのものなのだろう。
そんにゃことにゃい
次に映ったのは、黒い猫だった。
うちの人間がすぐにシジミを見る。
「シジミみたい」
黒いというだけである。
目の色も違う。
耳の形も違う。
顔つきも違う。
体格も違う。
首輪も違う。
人間は自分たちのことなら、髪型が少し違うだけでも別人だと分かる。
だが、黒い猫はすべてシジミに似ているらしい。
画面の黒猫は、閉じた扉の前に座っていた。
何度も鳴いている。
開けろ。
向こう側へ行く。
早くしろ。
声の意味は明確だった。
字幕が表示される。
『ここを開けてほしいにゃ』
まだ普通である。
余計な語尾はついているが、意味はそれほど外れていない。
画面の人間が、
「さっき入ったばかりでしょ」
と言う。
黒猫が鳴き返す。
今は出たい。
先ほど入りたかったことと、今出たいことは別である。
状況が変われば、望むことも変わる。
それだけだ。
字幕が変わった。
『そんなことないにゃ』
少し妙だが、まだ読める。
ところが黒猫がもう一度鳴くと、次の字幕が出た。
『そんにゃことにゃい!』
シジミは顔を上げた。
にゃへのこだわりが強すぎる。
一つの言葉の中に、二つも入っている。
「そんな」の「な」を「にゃ」へ変える。
「ない」の「な」まで「にゃ」へ変える。
語尾だけでは足りなくなったらしい。
猫らしさを増やすために、言葉の途中までにゃへ変えている。
だが、そんな話し方をする猫はいない。
少なくともシジミは聞いたことがない。
猫同士の会話で、
「そんにゃことにゃい」
などと言えば、何をふざけているのかと思われるだろう。
うちの人間は、字幕を見て声を上げて笑った。
「そんにゃことにゃい、だって」
言っていない。
黒猫は単に、扉を開けろと言っている。
人間が勝手に、会話の形を作っただけである。
しかも、猫らしく見せようとした結果、言葉そのものを崩している。
猫は人間の言葉を少し不自由に話すと思われているのだろうか。
猫がもし人間の言葉を使えるなら、もっと普通に話す。
言葉の途中へ、むやみに鳴き声を入れたりはしない。
人間だって、猫語を話すときに自分の声を混ぜたりはしないだろう。
もっとも、そもそも猫語を話せない。
見たままを文字にする
うちの人間は次の動画へ進んだ。
子猫が箱の中から顔を出している。
字幕には、
『ここはぼくのおうちにゃ』
と表示されていた。
なぜ僕なのだろう。
その子猫が雄か雌か、シジミには画面だけでは分からない。
動画を作った人間には分かっているのかもしれない。
だが、人間は猫へ勝手に一人称をつける。
雄なら僕。
少し偉そうなら俺。
年を取っていれば儂。
上品そうなら私。
そして、どれにも語尾へにゃをつける。
猫の話し方を聞き取れないのに、性格に合った話し方を決めたつもりになっている。
子猫は箱から出ようとして、縁に前足をかけた。
だが、箱が少し傾き、そのまま横へ倒れた。
字幕が出る。
『失敗したにゃ』
人間の笑い声まで重ねられる。
子猫は失敗したとは言っていない。
箱が動いた。
驚いた。
周囲を確認している。
それだけである。
自分の行動へいちいち説明をつけているわけではない。
猫は箱から落ちるたびに、
「失敗した」
などと報告しない。
落ちたことは、自分でも分かっている。
見ていた者にも分かる。
わざわざ言う必要がない。
人間は、映像に文字がなければ不安なのだろうか。
見れば分かることまで、猫の言葉として表示する。
猫が歩けば、
『お散歩するにゃ』
眠れば、
『眠くなったにゃ』
食べれば、
『おいしいにゃ』
驚けば、
『びっくりしたにゃ』
そのままである。
何も新しいことを言っていない。
しかも、猫本人は言っていない。
人間が見たままを文字にし、最後へにゃをつけただけだ。
それで猫の心の声になるらしい。
ずいぶん簡単である。
シジミも、うちの人間の行動へ勝手に文字をつけてみた。
長椅子へ座る。
『座るひと』
菓子の袋を開ける。
『また食べるひと』
光る板を見続ける。
『お風呂を先延ばしにするひと』
そのような文字を頭の上へ出されたら、うちの人間は嫌がるだろう。
行動を見ただけで、考えていることまで決めないでほしいと言うはずだ。
猫には、それをしてよいと思っている。
犬ならわん
うちの人間は、次に犬動画を見始めた。
猫動画を見ていたはずなのに、途中から犬が出てくる。
人間は一つ見始めると、次に表示されたものをそのまま見る。
自分で選んでいるようで、光る板に選ばされているのかもしれない。
画面には、大きな犬が映っていた。
人間が紐を持つと、犬は勢いよく立ち上がる。
尻尾を振る。
足踏みをする。
扉と人間の間を何度も行き来する。
そして、大きな声で鳴いた。
「遊ぼ!」
続けて鳴く。
「外! 行こ!」
また鳴く。
「走ろう!」
犬の言葉は分かりやすい。
声が大きい。
体全体を使う。
同じことを何度も言う。
細かな違いは聞き取りにくいが、何を望んでいるかはすぐ分かる。
犬はたいてい、
「遊ぼ!」
「走ろう!」
「一緒に行こう!」
と言っている。
だが、画面の字幕には、
『お散歩に行きたいわん!』
と表示されていた。
やはりついた。
猫ならにゃ。
犬ならわん。
人間は、動物の種類が分かれば語尾も決まると思っている。
シジミは犬から、
「走ろうわん!」
などと言われたことは一度もない。
近所の犬は、シジミを見つけるとよく鳴く。
遊ぼ。
一緒に走ろ。
どこ行くの。
今日は何するの。
待って。
そのようなことを、息をする暇もないほど続けて言う。
だが、最後へわんをつけたりはしない。
犬が出す声の一つを、人間がワンと聞いているだけである。
そのワンを、人間の言葉の最後へつけたところで、犬語にはならない。
猫のにゃも同じだ。
人間が猫の声をニャーと聞いた。
だから、猫が人間の言葉を話すなら、語尾にもにゃをつけるはずだ。
その考え方なら、カラスは、
「腹が減ったカー」
と話すのだろうか。
スズメは、
「飯を出せチュン」
と話すのだろうか。
ウグイスは、
「オレ、イケてるホーホケキョ」
と言うのだろうか。
ずいぶん長い語尾である。
うちの人間は犬動画を見ながら笑った。
「お散歩行きたくて仕方ないんだね」
それは合っている。
正確には、散歩というより、とにかく外へ出て走りたいと言っている。
だが、人間は少なくとも犬の望みを理解した。
語尾へわんをつけなくても、行動を見れば分かる。
それなら、なぜ文字へ余計なものを足すのだろう。
犬らしいから。
猫らしいから。
おそらく、その程度の理由である。
猫はすべてにゃ
人間の考える猫らしさは、にゃ。
犬らしさは、わん。
鳴き声を一つ覚えただけで、その動物を表したつもりになっている。
人間同士の言葉には、語尾だけでも多くの違いがある。
話す相手によって変える。
場所によって変える。
年齢によって変える。
機嫌によっても変える。
それなのに、猫はすべてにゃ。
子猫もにゃ。
年を取った猫もにゃ。
怒っている猫もにゃ。
眠い猫もにゃ。
強い猫もにゃ。
おとなしい猫もにゃ。
話している内容より、最後ににゃがあることのほうが大切らしい。
そのあと、また猫動画へ戻った。
今度は、猫が人間の膝から降りていくところだった。
人間が、
「もう行っちゃうの?」
と尋ねる。
猫は振り返らない。
ただ床へ降り、少し離れた場所で座った。
暑くなった。
姿勢を変えたい。
一人で座りたい。
そのどれかだろう。
字幕には、
『嫌いになったわけじゃにゃいよ』
と表示された。
また「にゃい」である。
猫は何も言っていない。
人間を嫌いになったとも言っていない。
嫌いではないとも言っていない。
ただ膝から降りただけだ。
人間は猫が離れると、好かれていないのではないかと不安になる。
だから、猫の側へ、
「嫌いになったわけではない」
と言わせる。
しかも、にゃいという妙な言葉で。
猫の気持ちを表しているのではない。
動画を見る人間を安心させているのである。
猫は離れたかったから離れた。
それで十分だ。
嫌いかどうかまで考えていないかもしれない。
人間は、猫の一つ一つの行動を、自分への好意と結びつけたがる。
近づけば好き。
離れれば嫌い。
膝へ乗れば甘えている。
降りれば寂しくなかったのかと心配する。
猫には、猫の都合がある。
暑い。
眠い。
あちらのほうが柔らかい。
音がした。
匂いが気になる。
ただ移動したい。
人間とは関係のない理由も多い。
だが、人間は自分を中心に考える。
猫が動くたびに、自分への気持ちが変わったと思う。
うちの人間も、シジミが隣から離れると、
「もう行くの?」
と言うことがある。
行く。
それだけだ。
嫌いになったわけでもない。
嫌いではないと伝えるために離れるわけでもない。
別の場所へ行きたいから動く。
人間は、理由が自分にないと納得できないのだろうか。
一緒に猫動画見ようよ
シジミは長椅子の上で立ち上がった。
同じ姿勢でいるのに飽きた。
窓辺へ移動しようとしただけである。
うちの人間が画面から顔を上げる。
「シジミ、どこ行くの?」
窓辺である。
見れば分かる。
シジミは長椅子から降りた。
うちの人間が少し寂しそうな声を出す。
「一緒に猫動画見ようよ」
本物の猫を引き止めて、よその猫の動画を一緒に見ようとしている。
ずいぶん妙な話である。
シジミは窓辺へ向かった。
うちの人間は、その背中へ向かって言った。
「シジミも、そんな動画より私を見てほしいにゃ、って思ってるのかな」
思っていない。
しかも、シジミの言葉へ勝手ににゃをつけた。
動画の中だけでは足りず、目の前のシジミにまで妙な話し方をさせ始めている。
シジミは足を止め、振り返った。
うちの人間と目が合う。
ここは、はっきり伝えておく必要がある。
猫は語尾へにゃなどつけない。
「そんなことない」は、「そんなことない」である。
「そんにゃことにゃい」ではない。
犬も、走ろうわんなどとは言わない。
勝手に言葉を作り、猫や犬がそう話していることにしないでほしい。
シジミは、できるだけ明確に鳴いた。
うちの人間は、しばらくシジミを見つめた。
少しは伝わっただろうか。
やがて、うちの人間はうれしそうに笑った。
「返事してくれた。やっぱり一緒に見たいんだにゃ」
だから、つけない。
シジミはもう一度鳴いた。
うちの人間は、さらに笑う。
「そんにゃことにゃい、って?」
まるで伝わっていない。
むしろ、先ほどの動画で覚えた言葉を使いたいだけらしい。
分からないなら、分からないまま
人間は動物の言葉が分からない。
そのこと自体は仕方がない。
猫にも、人間の言葉がすべて分かるわけではない。
だが、分からないなら分からないままにしておけばよい。
なぜ勝手に言葉をつけるのだろう。
なぜ必ず、かわいらしく話していることにするのだろう。
なぜ猫なら、にゃをつけなければ気が済まないのだろう。
猫が何も言っていないところへ字幕を出す。
強い要求を甘えた言葉へ変える。
拒否を照れ隠しにする。
そして最後には、言葉の途中までにゃへ変える。
にゃへのこだわりが強すぎる。
シジミは窓辺へ移動し、外を眺めた。
背後では、次の猫動画が始まっている。
画面の猫が短く鳴く。
字幕が表示される。
『今日もかわいいぼくを見てほしいにゃ』
画面の猫は、ただ欠伸をしただけである。
うちの人間が楽しそうに笑う。
猫は何も言っていない。
犬も、語尾にわんとは言わない。
それでも人間は、動物が自分たちの考えた言葉で、自分たちに都合よく話していることにする。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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