
給料入った
その朝、うちの人間は、いつもより少し機嫌がよかった。
鳴る箱を三度も止めたことは、いつもと変わらない。
布団から出るまでに長い時間がかかったことも、眠そうな顔で部屋を歩いていたことも同じである。
だが、絵の光る板を確認した瞬間、急に目が開いた。
「給料入った!」
うちの人間は、うれしそうに声を上げた。
肩へ落ちていた髪を片手で耳へかけ、もう一度、光る板をのぞき込む。
何かよいものを手に入れたらしい。
シジミも近くへ寄り、画面を見た。
小さな文字と数字が並んでいる。
食べ物の絵はない。
魚もない。
肉もない。
新しい寝床でもない。
ただ、昨日までとは違う大きな数字が表示されているだけである。
それでも、うちの人間は満足そうだった。
「今月も頑張ったなあ、私」
自分で自分を褒めている。
誰も褒めてくれなかったのだろうか。
それなら仕方がない。
猫は、人間ほど誰かに褒めてもらおうとはしない。
高い場所へ跳べた。
獲物の気配を見つけた。
暖かい場所を確保した。
それらは、自分に必要だからすることである。
成功したからといって、周囲に報告したりはしない。
人間は、何かをしたあとに、
「頑張った」
「偉い」
「褒めて」
と口にする。
自分が何をしたのか、自分でも忘れそうになるから、声に出して確認しているのかもしれない。
もっとも、給料というものを手に入れるため、うちの人間が毎日外へ出ていることは、シジミも知っている。
朝になると、嫌そうな顔で起きる。
髪を整える。
顔へいろいろ塗る。
家の中よりも動きにくそうな服へ着替える。
重い鞄を持ち、安全な家から出ていく。
そして夜になれば、
「疲れた」
と言いながら戻ってくる。
それを何日も繰り返した結果が、画面の中の数字らしい。
ずいぶん手間がかかっている。
そこまでして手に入れたのだから、さぞ大切に使うのだろう。
猫なら、苦労して捕まえた食べ物を、すぐほかの者へ渡したりはしない。
安全な場所へ運ぶ。
落ち着いて食べる。
残せるものなら、あとで困らないように取っておく。
手に入れるまでに苦労したものほど、慎重に扱う。
それが普通である。
うちの人間は光る板を胸元へ抱え、機嫌よく台所へ向かった。
「今日は給料日だから、ちょっといいもの食べようかな」
給料というものは、食べ物ではないらしい。
だが、よい食べ物と交換できるようだ。
それなら役には立つ。
シジミの食事も、いつもよりよいものになる可能性がある。
着るものがない
シジミはうちの人間のあとをついていった。
うちの人間は食事を用意しながら、何を食べるか考えている。
「お寿司もいいなあ」
魚である。
悪くない。
「焼き肉も食べたいし」
肉もよい。
「でも、今月は服も欲しいんだよね」
食べ物の話が、急に毛皮の話へ変わった。
うちの人間は、すでに多くの服を持っている。
扉を開ければ、中にはさまざまな色や形の服が並んでいる。
家の中で着る服。
外へ行くための服。
寒い日に着る服。
少し寒い日に着る服。
暑い日に着る服。
雨の日に着る服。
何か大切な場所へ行くときの服。
少しだけ大切な場所へ行くときの服。
人間は、同じ体を包むためだけに、ずいぶん多くの毛皮を必要とする。
それなのに、
「着る服がない」
と言うことがある。
あれだけあるのに、ないらしい。
人間の言う「ない」は、本当に一つもないという意味ではないのかもしれない。
食事があるのに、
「食べるものがない」
服があるのに、
「着るものがない」
時間があるのに、
「時間がない」
人間は、自分が望むものがなければ、すべてないことにする。
給料も、入ったばかりなら十分にあるはずだ。
それなのに、いずれ、
「お金がない」
と言い出すのだろうか。
給料日の買い物
その日の夜、うちの人間は買い物袋をいくつも持って帰ってきた。
新しい服。
甘い菓子。
少し高そうな飲み物。
顔へ塗るための小さな容器。
そして、シジミの食事も入っていた。
シジミの分を忘れなかったことは評価してよい。
だが、袋の数が多い。
うちの人間は長椅子の前へ座り、一つずつ買ったものを並べ始めた。
「これ、かわいいと思うんだよね」
新しい服を体へ当て、鏡を見る。
その服は、家にある別の服とよく似ていた。
色が少し違うらしい。
形も少し違うらしい。
人間には重要な差なのだろう。
猫の目には、どちらも体へ巻きつける布にしか見えない。
うちの人間は楽しそうに服を畳み、次に小さな容器を取り出した。
蓋を開ける。
匂いを確かめる。
手の甲へ少し塗る。
「やっぱり、いい色」
シジミには、ほとんど何も変わっていないように見えた。
人間は猫の毛色を、黒、白、茶色くらいにしか分けない。
自分たちが顔へ塗る色については、わずかな違いにまで名前をつける。
赤に見えるものだけでも、いくつも種類があるらしい。
猫の黒い毛にも、光の当たり方や生えている場所によって違いがある。
だが、人間は全部まとめて黒猫と呼ぶ。
自分に関係する色だけ、細かく見えるようだ。
うちの人間は買ったものを眺め、満足そうに息を吐いた。
給料というものを手に入れたばかりなのだから、この程度ではなくならないのだろう。
シジミはそう考えた。
支払い
だが、次の日。
うちの人間は朝から、光る板を見つめて難しい顔をしていた。
昨日までの浮かれた様子はない。
画面には、たくさんの文字が並んでいる。
「家賃でしょ」
うちの人間が指を折る。
「電気代、水道代、通信費……」
次々と何かの名前を口にする。
「それから、カードの引き落とし」
言うたび、表情が暗くなる。
どうやら、給料として手に入れたものを、ほかの人間へ渡さなければならないらしい。
家を使うために渡す。
明かりをつけるために渡す。
水を出すために渡す。
絵の光る板を使うためにも渡す。
昨日買った物の分も渡す。
うちの人間は、自分が手に入れたものを、次から次へと知らない相手へ配っている。
猫なら、縄張りの場所代など払わない。
ここを使うと決めたら使う。
水は見つけた場所で飲む。
日なたに座るために、誰かへ何かを渡したりもしない。
人間は自分たちで複雑な決まりを作り、その決まりに従うために働いているようだった。
家に住むために外へ働きに出る。
外へ働きに出るために服を買う。
働いて疲れたから食べ物を買う。
働くために使ったものの代金を払うため、また働く。
ずいぶん同じ場所を回っている。
一体、どこへ向かっているのだろう。
紙を手に入れるために
うちの人間は財布を開いた。
中に入っている紙を数える。
一枚。
二枚。
三枚。
手に入れたばかりのはずなのに、それほど多くない。
うちの人間は、その紙を買い物のたびに誰かへ渡している。
店の人間へ渡す。
機械へ入れる。
別の紙や小さな金属になって戻ってくることもある。
だが、戻ってこないことのほうが多い。
せっかく手に入れた紙を、すぐ誰かに渡している。
本当に計画性がない。
シジミは、うちの人間の財布をのぞき込んだ。
人間は、この紙を手に入れるために毎日外へ出る。
朝早く起きる。
帰りが遅くなる。
疲れる。
嫌なこともあるらしい。
ときどき長椅子へ倒れ込み、
「もう仕事辞めたい」
と言う。
それでも翌朝になれば、また家を出ていく。
そうしてようやく手に入れた紙を、給料日から数日のうちに、次々とほかの者へ渡す。
それほど手放したい紙なら、最初から手に入れなければよい。
大切な紙なら、渡さず持っていればよい。
人間の行動には一貫性がない。
もうこんなに減ってる
うちの人間は財布を閉じ、今度は光る板を見た。
画面には、給料日に見たものよりずっと小さな数字が並んでいる。
「うそ。もうこんなに減ってる」
減らしたのは、うちの人間である。
昨日、服を買った。
菓子を買った。
小さな容器を買った。
少し高い食べ物も買った。
自分で紙や数字を渡しておきながら、減ったことに驚いている。
猫が食事を食べたあと、皿が空になったことへ驚くだろうか。
食べれば減る。
使えばなくなる。
見れば分かる。
うちの人間は長椅子へ座り、頭を抱えた。
肩から落ちた栗色の髪が、顔を隠す。
「まだ給料日から三日しか経ってないのに」
三日もあれば、十分である。
うちの人間は、その三日間で何度も紙を渡した。
光る板を触るだけで数字を渡したこともある。
紙すら見えないため、渡している実感がなかったのかもしれない。
人間は、目に見えないものを軽く考える。
光る板へ指を触れただけなら、何も失っていないような気がするのだろう。
だが、画面の数字は確実に減っている。
うちの人間は、自分の手で何度も減らしている。
それなのに、減った数字だけを見て、
「どうして」
と考えている。
原因はすべて、自分が知っているはずだ。
買う前に考える
シジミは、うちの人間の隣へ座った。
うちの人間はため息をつきながら、昨日買った菓子の袋を開ける。
金がないと嘆きながら、金を使って買ったものを食べている。
しかも、袋を開けたあとで、
「これ、買わなくてもよかったかな」
と言う。
買う前に考えることである。
人間は何かを欲しがっているとき、それが必要かどうかを考えない。
手に入れたあとで考える。
そして、いらなかったかもしれないと気づく。
猫は、跳ぶ前に着地点を見る。
届くか。
安全か。
降りられるか。
必要がなければ跳ばない。
人間は、先に跳ぶ。
落ちたあとで、飛ぶ必要があったのか考える。
ずいぶん危険な生き方である。
うちの人間は菓子を一つ食べ、光る板を操作した。
何かを調べている。
画面には、別の服が表示された。
昨日買ったものとは違うが、よく似ている。
うちの人間はしばらく見つめたあと、小さくつぶやいた。
「これもかわいいなあ」
見えなくてよい
先ほど金がないと言っていたばかりである。
もう忘れたのだろうか。
シジミは光る板の前へ移動し、画面を隠した。
うちの人間が顔を傾ける。
「シジミ、見えないよ」
見えなくてよい。
見れば、また欲しくなる。
欲しくなれば、また紙や数字を渡す。
そして数日後、金がないと嘆く。
同じことを繰り返すのは、賢い行動とは言えない。
シジミが動かずにいると、うちの人間は諦めて光る板を置いた。
それから、シジミの背中を撫でる。
「シジミはいいなあ。お金の心配がなくて」
何を言っているのだろう。
シジミは、必要のないものを買わない。
着るための毛皮は、すでに体にある。
眠る場所も、気に入ったところを使う。
遊び道具も、紙の玉や紐があれば十分である。
同じような服を何枚も買わない。
顔へ塗る小さな容器も必要ない。
人間のように、自分で欲しいものを増やし、そのせいで困ったりはしない。
うちの人間に金の心配があるのは、人間だからではない。
自分から心配の種を買っているからである。
何のために働いてるんだろう
うちの人間は長椅子へ深く座り、天井を見上げた。
「一体、何のために働いてるんだろう」
シジミも、まったく同じことを考えていた。
紙を手に入れるために働く。
手に入れた紙を、すぐ誰かへ渡す。
紙がなくなったから、また働く。
何日もかけて手に入れたものが、数日で消える。
そのうえ、紙と交換したものについても、あとから買わなくてよかったかもしれないと言う。
これでは、何のために毎日外へ出ているのか分からない。
食べ物を得るため。
安全な家を使うため。
それくらいなら、まだ分かる。
だが、同じような服や、なくても困らない菓子や、小さな色のついた容器まで必要なのだろうか。
人間は、生きるために必要なものを手に入れるだけでは満足できないらしい。
必要ではないものまで欲しがる。
手に入れる。
一時は喜ぶ。
その代わりに紙が減る。
そして、紙が減ったことを嘆く。
欲しいものを手に入れて困る。
手に入れなくても欲しくて困る。
どちらを選んでも困っている。
それなら、最初から欲しがらなければよい。
だが、人間にはそれが難しいのだろう。
うちの人間は、自分の膝へ乗せていた財布を開いた。
中をもう一度確認する。
先ほど見たときから増えているはずがない。
それでも、人間は何度も確認する。
見ていない間に、紙が増えていることを期待しているのだろうか。
猫の食事も、皿を何度見たところで勝手には増えない。
必要なら、人間へ出させるしかない。
紙も同じはずだ。
うちの人間は財布を閉じると、深くため息をついた。
「給料日、あんなにうれしかったのになあ」
うれしくなったため、使ったのだろう。
多く手に入れたと思い、気が大きくなった。
明日も十分に残っていると思った。
その次の日も残っていると思った。
そうして渡し続け、ようやく少ないことに気づいた。
人間は、目の前にたくさんあると、それがなくならないような気がするらしい。
食べ物でも同じだ。
大きな袋に入った菓子を開ける。
最初は少しずつ食べる。
まだたくさんあると言う。
そのうち、残りが少なくなる。
最後の一つを食べたあと、
「もうない」
と驚く。
食べたのだから、なくなるに決まっている。
紙も菓子も、人間が使えば減る。
それだけの話である。
来月こそ節約
うちの人間は、隣にいたシジミを抱き上げた。
シジミを膝へ乗せ、背中へ顔を寄せる。
「来月こそ節約しよう」
来月では遅い。
思い立った今から始めればよい。
だが、人間は何かを変えようとするとき、すぐ未来の自分へ任せる。
明日から早く起きる。
来週から運動する。
来月から節約する。
今日の自分は何も変えない。
未来の自分なら、今より賢くなっていると思っているらしい。
だが、来月のうちの人間も、おそらく同じ人間である。
給料日になれば喜ぶ。
何か少しくらい買ってもよいと考える。
欲しかった服を見る。
菓子を買う。
少しよい食事をする。
数日後、光る板の数字を見る。
そして、また金がないと嘆く。
シジミは膝の上から、うちの人間を見上げた。
うちの人間も、シジミを見下ろした。
しばらく見つめ合う。
うちの人間は、光る板に表示された残高をもう一度見た。
シジミは、机の上に置かれた財布を見た。
毎日働いて手に入れたものを、数日のうちに配り終えた人間。
その人間を見ながら、シジミは同じ結論にたどり着いていた。
うちの人間が、ため息交じりに口を開く。
シジミも、ほとんど同時に猫語でつぶやいた。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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